完璧主義からの離脱ー好きなことと苦手なこと [その他]

アドラーを読みながら、自分のライフスタイルを問い直す。

そこでしょうもない事に気がついた。
好きな事の中に、苦手という要素が入っているという事に。

本当に手放しで好きなことしていいんだよ。そして、欺瞞のある”好き”はいらない。
今の自分なら、そういえる。

仕事をやりながらずっと、自分の能力不足に苛立っていた。
そしてそれを乗り越えるために、ストイックに作業を進めていた。だから、必然的に
完璧主義になり、それがまたストレスになっていた。

実はもっと前から分かっていた。自分の仕事の本質が、実は自分がもっとも
苦手な分野であると。

自分のライフスタイルの歪みとして、強度の負けず嫌いがあった。
その負けず嫌いとは、自己に負けることにも通じている。だから、手を抜けない。
抜きたくないのだ。そして、手を抜いたことに罪悪感を感じていた。
もっと自分は出来るのに、それをおざなりにしていると。

事実、それなりに自分の能力を存分に伸ばしてきた。だが、そもそもそれらは苦手なこと。
修行である。修行となった事で、人並みに上手くはなった。でも、所詮、苦手なことだ。
もともと得意な人や、それが好きな人に、仕事上及ぶわけがない。

もちろん、全ての仕事において、そういう事柄があるのは知っている。
だが、よりにもよって、苦手の事柄がもっとも仕事上評価されるポイントであるとは
困ったものである。むろん、修行はした。人並みには出来るようになった。

だからなんだ? これを一生の大部分を費やして生きるのか?

後で、もっと違うことが出来たのではないか? なんて思って生きたくない。

下手でもいいから、好きなことをして生きたい。
好きなことを存分にやって過ごしたい。それがリッチという事だろう。
金だって、生活に加えて、それをするために稼ぐものだろう。

そのために知恵を絞るほかない。そうだった。そのつもり行動を変えたのだった。
今もまだ、得意を仕事にしている。やりたいことなのか?とちゃんと自問しないと。

もがくほかない。

自分にとっての道をもがいて切り開くしかない。他人からみてバカだとしても、
そうすると決めたんだった。初心をすっかり忘れていた。

コロナ禍において、また自分の求める所を変更せねばならない。
きっと、多くの人がそうだろう。もっと深いところへと。
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アドラー「生きる意味」 [思考・志向・試行]

3つの課題が人生に課されている。
「他者、仕事、愛」だ。

アドラーはこれらは、共同体感覚で支え、行動すべきだと説く。

ややもすると、集団主義か、全体主義っぽくも聞こえるが、内実はそういうことではない。
共同体感覚とは、どちらかといえば、長い人類史に根ざした人らしさの行動体系と呼ぶ
べきものである。

よって、この時代において流行っているからとか、この時代での主流だからという
意味では共同体感覚を解釈しない。そして、共同体感覚をもつ個人は、結局のところ、
人類に貢献するがために、ますます共同体感覚を持つ人々が増えていくと考える。

アドラーはむしろ、この心理学に個人心理学と名付けた。
なぜなら、行動規定となる「ライフスタイル」は、個々人のものだからだ。
そして、そのライフスタイルは常に共同体感覚によって、評価されている。
およそ人とはそういう存在であるとアドラーは信じている。

誰しもが完璧ではない。
だから、人々は人生に劣等感を抱く。そして、その劣等感を解消すべく、人は成長していく。
そういうものとして人生を捉える。その事で多くの問題行動が解釈される。
アドラーは、そう臨床家でもある。

劣等感とは聞こえが悪いかもしれない。だが、我々は常にどこかしらに足りなさを感じ、
それを補うように行動する。その行動の発露が人の性格である。よって、我々がいう
性格とは、本来的には状況とカップリングした形でしか現れない。このひとはこれこれという
性格だとは言えない。そのような行動にでるだけの理由があり、その内的動機と状況が
彼の性格を作り出す。同様に、精神的病理も現れると考えるのだ。

アドラーの見立てでは、幼い頃にライフスタイルは定まる。
大人はそれに修正を加えることができる。それに気がつけば。

ライフスタイルとは、その子供に与えられた状況における生きるチカラの発揮に対する
応答で決まる。もし、母親が過保護であれば、子供はそのようなライフスタイルになる。
依存的で、自分の思い通りになるという人生観・世界観をみにつけてしまう。一方で、
あまりに放おって置かれてもまた、行動が定まらないのだ。ほどほどの関わりが子供を
中道に導く。そして、健全な共同体感覚をもたらす。

アドラー曰く、大人における問題行動は、結局のところ、子供の頃のライフスタイルに
影響されているのだと。そして、大抵の問題は、共同体感覚の欠如によるのだと。

共同体感覚の一端に、貢献感がある。自分は役立つ人間であると。そう自分を規定する事。
これを持てない人は人生が苦難に満ちている。共同感覚が希薄な人は、他者を搾取の存在
とみなす。その心は、周りは自分の快適さを保つために存在するという優越感コンプレックス
か、思い通りにさせてくれない対象として、他者を敵とみなす劣等コンプレックスを生み出す。
そのような人は、そのコンプレックスを埋め合わせることに必死になる。だが、それをどれほど
達成しても何も解決にはならない。なぜなら、問題の本質は、共同体感覚の欠如であって、
コンプレックスの解消ではないからだ。

他者に勝たねばならない。そういう感情は、ただの復讐である。努力によってライバルに
勝つという概念自体がそもそもコンプレックスである。他者との比較によって自分を規定する
事は、そもそも変なライフスタイルである。

また、他者を思い通りにさせてくれない敵とみなすこともまた多くの問題を引き起こす。
自分がそれにDeserveなのだと、思い、その達成を阻まれる事に不満を抱くとしたら、
それはまた、変なライフスタイルである。

恐ろしいのは、これらを利用して、社会的に成功することはおうおうにしてあるという
事である。コンプレックスが酷いほどに、その解消に強いパワーを用いることができる。
それがたまたま時代の要請と重なれば、社会的成功を起こすことがある。だが、それらは
決して、本質的な成功ではない。むしろ、成功した分だけ、問題がそのまま残されてしまう。
そのツケは、死ぬまでに必ずやってくるはずだ。

アドラーは、共同体感覚からそれてしまうものは、結局うまくいかないという。
共同体が、素朴に感じている価値、行動、そういうものから人は逃れられない。
そして、その感覚こそが、人の行動を導く。そして共同体感覚にそう行動をとったとき
人は、自分の存在意義を感じられ、自分を肯定できる。それは、結局のところ、
3つの課題をこなすことにつながるのだ。

「他者、仕事、愛」結局のところ、他者とどのように協力関係を築くのか。
その協力に対して、自ら呵責なく行えるのか。いやむしろ、それを喜びをもって行動に
出せるのか。それこそがもっとも大事なのだ。自分の思う素朴な当たり前の行動が、
共同体感覚に沿っているとしたら、それこそが、人の有り様である。



私も人だ。理屈は知っても、リアルにそれを実践するのは難しい。
だからこそ、アドラーの金言を胸に、明日も生きていく。よりよい人になるために。
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コロナ対応のいくつか [思考・志向・試行]

東京都の一日の感染者増が400人を超えた。
級数的に考えれば、来週は1000人以上だろう。むろん、そんなのは困る。

とはいえ、現状のままであれば、確実に増えていく。
減ることはあり得ない。なぜなら、ウィルスは人がいる限り増えるからだ。
場合によっては一度かかった人ですら、再度かかるとも言われている。
収束は、およそ以前書いたようにワクチンしかあり得ないかもしれない。

ワクチンはおよそ奪い合いになるために、市中に出回るのは早くて数年後だろう。
じゃあ、それまで今のままで生活できるのかといえば、それは不可能だ。

と思っていたら、こんなニュースが流れている。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6367066

6千万人分。なんとも言えないが、これが事実なら、1年後辺りになるのかもしれない。
とはいえ、すぐにどうこうではないだろう。

どれだけ金を動かしたのか気になるところだ。
当然の賄賂やキックバックがあるんだろう。製薬会社との結託が気になる。

ここから、例によって不遜なことを記載したい。よって、一般的な正義や道徳を信奉する人は
ここで読むのをやめる事をおすすめする。





さて、コロナ対策であるが、日本は実質上、行動制限はやらないつもりらしい。
第二波は明らかに大きい。だが、政府はオリンピック対応でたくさん作ってしまった
ホテルや、インバウンドに向けて投資した箱の初期投資を回収したいのだろう、GoTo
キャンペーンなるものを行っている。

その一方で、地方の長たちは、自粛や制限を「お願い」している。強制ではない。
矯正すると、保証という問題が生まれるからだ。

よって、トータルでは、国レベルでは「外へ移動して観光しろ」といい、各長レベルでは
自粛しろという。そして、保証はギリギリの範囲内で一過性にしかやらないという。
こういう矛盾するメッセージを送り、どんな風に振る舞っても、責任を問われる状況
それをベイトソンは「ダブル・バインド」と呼んだ。

観光にでかけて、万が一罹患したら、「なぜ、でかけたんだ?」と言われる。
一方で、旅行を取りやめれば、経済は停滞する。店がピンチだとニュースが流れる。
まあ、むちゃくちゃである。これがあんまり問題じゃないのは、みんなまともに
考えないからだろう。

このような対応で、コロナが収束するかといえば、しないだろう。
このまま常に増え続ける。政府はそう心に決めたみたいだし、緊急事態宣言を再度やる
とは到底思えない。

つまり、現状の国民の自粛によって、人の関わり合いや移動が制限された状態が続くのだ。
最低でも後1年。

そうなったら、どうなるか。まずは経済が傾く。中小企業は大企業から流れてくる仕事で
生き延びている。なぜなら国から降ってくる金があるからだ。それに絡めない中小はかなり
厳しい。雇い止めや新卒の制限がなされるだろう。ひとまず失業が増える。

人々の購買力が下がれば、スーパーなどでも厳しくなる。小売店の商売は厳しくなる。
さらに失業者が増える。そして、大きなものを買えなくなる。つまりは大企業が作り出す
ものも売れなくなる。顕著なのは車だろう。ただし、大企業はこの20年間でさんざん貯めた
内部留保がある。それを取り崩しながら、退職者の年金に当てるのだろう。

こうして、金はますます老人たちの手に落ちる。そうなると、消費は更に落ち込むだろう。
なぜなら老人たちは改めて金を使うタイミングがないからだ。金はフローが重要なのだが、
それがない世界になっていく。

老人たちはここから団塊が死に往くまで、のさばり続ける。
様々な業界で、老害が発生し続けてきた。だから、日本は今の現状である。

これを受けて若者たちは、生活が厳しいために、ますます既存の社会性から離脱する。
それは求めてと言うより必然的にといった方がいいかもしれない。もっといえば不本意にだ。
少子化が進み人は減る。その結果として、さらに経済は停滞していく。

このような連鎖は数年は続き、場合によっては10年、20年と続くかもしれない。
日本は当然ながら、かつてのような生活水準を保持できない。状況に適応できない
中高年が増え、社会の荷物になるだろう。

このようなバックグランドの中から、優れた能力の人々が台頭してくる。
それは、既存のルールやレールからは外れた所から生まれてくる。もっぱら30歳以下からだ。
めざとい金をもつ老人たちは、このような若者を利用しようとする。若者は彼らに利用されつつ
テコ的に資産を増やしていく。かつてのザッカーバーグやグーグルだ。当然、日本でも似たような
事はおこるだろう。使えると老人たちに思われた若者は、投資対象になるのだ。

よって、図式としては
・金のある既得権益者としての老人たち(年金をもらう庶民を含む)
・能力の研磨を行った中高年(30代〜50代)が社会不適応を起こす。
・若者は、リソースを与えられる者(利用価値がある、学業やスポーツが優秀)とその他に分かれる。

こうして、既存の体制で金を稼いだ老人たちが、使えそうな若者に投資し、
更に資産を増やしていく。若者の青田買いが不安なVCは、もう少し年寄りに投資する。
そしてもっとも保守的な老人たちは、国に投資する。なぜなら、金が余っているからである。
この金を一部の犯罪組織が狙う。詐欺などは典型であろう。

団塊世代は高度経済成長に合わせて社会を過ごしてきて、その対価として年金を得る。
だが、年金システムは若者搾取構造である。少子化が進めば、その負担は増える。
若者は生まれてきた事で、始めから老人たちの世話という重荷を負うことになる。

非常に不公平な仕組みである事は明白だ。
世代論を嫌う老人たちは多い。だが、明白に若者搾取が起こっている。これは若者は
自覚したほうがいい。誰がどんな風に言おうとも、日本では若者搾取である。そのアオリを
20〜40代が背負った。結果として、生活に余裕がなく、結婚せず、少子化が進む。

また、ライフスタイルも急激に変わった。だが、既存社会のルールを取り仕切る世代は、
それを認めない。だから、家制度を確保しようとし、それがために婚姻と子供を切り離せず、
人口は減るだけなのだ。

そもそも、現代のタイプの国民国家とは、戦争に勝つためのスタイルである。決して平和に
暮らすためではない。だから、社会全体が緊張し、常に戦争を戦うために備えている。
その時に生まれた社会制度や、習慣が内面化された人々が社会を仕切っているために、
冷戦後の暴力装置の無価値化にいまだに、適応できず、まだ総力戦のための行動をとるのだ。

その代表的志向が「経済成長」である。そして「家」制度である。
富国強兵をするには、資源を確保し、強力な武器を開発し、兵力をもって攻めるためだ。
そのためには、資産を増やし、国民を教育し、人員を増やすることだ。

資源は資産で確保しつつ、土地を奪い取る事。
国民は命令に従順で、かつ厳格に行動できるようにする。そして敵国を憎むように、
愛国心という忠誠心を増すようにする。
また兵士として、総力戦に対応して、人口を増やす事。

これを平時にやったのが、戦後日本というわけだ。
戦前戦後の女性は、4〜6人ほどの子供を育てた。そうやって、総力を増やし、
彼らが働くこと、動くことで、経済のフローが動いた。その間に、言語は教育で統一され、
受験勉強を通じて、従順な人間を養成した。

その彼らの子供が今の既得権益者だ。子供らはむろん上記のようなやり方に反対した。
その鬱憤が、60年代安保闘争であり、管理教育への反発であった。だが、失敗。
そして社会にあっというまに染まった。いまや長寿を享受し、遊んで暮らす。日本は豊か
になったのだ。

だが、もう時代は変わった。バブルは弾け、その精算がきちんとなされないまま、
国民の財産を吸い上げ続ける政府がいる。年々値上がりする年金と保険料。社会情勢として
子供は増やせないし、増やす要因もない。そうなったのはもう50年も前だ。

その時から、今のようになるのは明白だったのに、何もしなかった。何もしなかった団塊世代たち。
そのくせに、自分たちの年金が減るのはごめんだと、おバカな自民党を支持し続けた。結果として
日本は更に傾いた。自分たちのことしか考えてない世代が上にいる限りに日本は終わる。

話をもどそうか。

日本はもうコロナと正面から対峙する子を諦めた。
そうなると一定数の人達はコロナにかかり続ける。当然ながら、死ぬ人が出続ける。
その時に、多く亡くなるのは老人たちであろう。

非常に冷徹にみれば、生物学的にみて、老人たちが感染症でなくなるのは自然の摂理である。
生物は弱いものから退場すると相場が決まっている。これを「競争」というのだ。
日本という経済信奉社会では、弱者を守るよりも、経済活動が優先される。その時、
アオリを食うのは大抵弱い者たちだ。つまり、政治は老人たちのケアをやめたというわけだ。

ところがその老人たちは、自民党や公明党を支持し続ける。自分たちを本質的な部分で
ないがしろにする人々を支持する。それは自分たちの利権が大企業の利権につながっていて、
金が流れる仕組みの上に生活しているからだろう。

既得権益者が減るという意味において、コロナウィルスは若者にとって朗報である。
自然のままにすれば、犠牲者の多くは老人となる。そういう意味ではもっと猛威を
奮って、まさに「自然選択」に任せたほうがいいのかもしれない。

先の図式から言えば、ごく一部の既得権益者である老人たちが、金の配分をきめ、
その流れに対して市中の企業が群がるという構造に対して、コロナは否といっているわけだ。


では、構造をどう変えればいいのか。老人たちの権限を剥奪し、若い世代中心にすれば
いいのか? 実はそういう事でもない。誰かや、組織に権限が委譲されれば、必ずそこから
腐敗し、砂糖に群がるアリのようになるわけだ。これは資本主義だろうが、共産主義だろうが
まるで変わらない。さらにいえば、民主主義か、独裁主義かでも変わらない。

生物学者の伊沢氏によれば、同種が争い順位を作り出す理由は、限られた資源を争奪する
場合である。その資源争奪に対して、権力や権威が生まれてくる。これを人間に当てはめる
のは一つの仮説に過ぎないが、あえて人へと演繹するならば、人間社会が競争を促す仕組み
になっているといえるのだ。

よくダーウィンの話を人間界に持ち込む人がいる。あれは正しくない。そもそもマルサスの人口論を
ダーウィンが動物界に持ち込んだに過ぎないのだ。そして、生物が戦っているのは同類他者
ではなく、おおよそ環境・状況に対してである。もちろん捕食という事に一生懸命なのだが、
そこに悲哀はない。ひたすらに環境中にある食物を探すのが彼らの生そのものである。

動物界のルールを人間に引き戻すなら、人間が競争を感じているのだとすると、
それは人間社会が過剰な人で溢れているからであり、資源の有限性が明らかであるからだ。
だが、そもそも資源が必要なのは、道具を生み出すためであり、それらの道具は、生存確率を
あげるためである。十分な食料がさほどの苦労もなく手に入り、あとはぼーっとしていれば
いいのであれば、なぜ道具を得ようと頑張る必要があるのか?

結局の所、この地球という場に人間が多すぎるというマルサスの話にまで戻るのであろう。


増えすぎた人の天敵はなにか。それは同種の人間であり、またウィルスなのである。
資源が増えたら、その資源を利用する者たちが現れるのはごく自然である。
人間を資源とする生物というか有機体としてウィルスをみれば、この感染症の流行は
当然なのだ。問題はそれがいつやってくるかというだけに過ぎない。

日本のコロナ禍をみれば、一目瞭然である。人口過密な場所で感染者数が多く、
過疎地域では少ない。資源が多い場所でウィルスが繁殖しているという事なのだ。

かつても人間を襲った感染症はたくさんあった。人類はそれをある時から、科学をつかって
制御してきた。自然選択が働く場面で、人はそれを変更してきたのである。

環境に不適応なものは滅ぶという概念。多くのエリートや成功者はどこかで、自分の実力で
既得権益を得たと思っている。そしてそうではない人は自己責任であると。それと全く同じ
論理でいえば、コロナで死ぬ人は、実力がなかったからだという事になる。コロナに抵抗できる
能力がなかったのだから。じゃあ、コロナを生き抜いた人は既得権益につけるのだろうか?否。
普通は、それを運というのだろう。ならば、なぜ既得権益にありつけたことも運とは言わないのか?

ダブルスタンダードなのである。都合の良し悪しで、概念を切り取って、状況にあてはめる。
誤った概念を信奉して、その犠牲になるのは勝手だが、私はそこに与するつもりはない。

コロナがこのまま、定常的になる世界がいずれ訪れるだろう。ワクチンが配布され、
かなり状況は安定化する。一方で、我々の生活は元には戻らない。会社や学校に行くことに大いなる
疑問が発生し、合理化が進むかもしれない。オフィスとはバーチャルなものになる可能性すらある。

太古に恐竜がいなくなったように、歴史の表舞台にいる企業や勢力は、いずれ過去のものになる。
ならば、どう我々はいきるべきか。再度問うほか無い。
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自衛その②ー健康を守る [思考・志向・試行]

もしかしたら、①の資産よりもずっと大事だろう。

もう先がない人はコロナになったら仕方ないと諦めて、資産を守ってほしい。
そして、これから先がある人はなるべくコロナにかからないで欲しい。
では、そのために何ができるのか。

私の言説よりもデータという人が多いハズなので、まずは、ここを参照してみてほしい。
http://bigbird.riast.osakafu-u.ac.jp/~akiyoshi/Works/Anti-Covid-19.htm

リンクにいくのが面倒くさい人は先に進みましょう。


最近の状況として、3蜜というものよりも、どうも「会話」や「歌」などが
まずいようだ。手を媒介するものもあるみたいだが、それ以上に、直接的な
唾液等による飛散が、より強力な感染経路らしい。

よって、まずはマスクだ。
来年度以降に、ワクチンが配布されるまでは、マスクを身につける事をおすすめする。
特に喋る人はマスクをして欲しい。人によってはマスクなんてと思うかもしれない。
別に自分は罹患してもいいと考えて。だが、ちがうのだ。マスクは他人に自分が移すこと
をへらすためにする作法だと思って欲しい。つまり親切である。とにかく喋る時はマスク。

また、手など皮膚上からは感染せず、粘膜(口、鼻、目)より感染する。
なので、とにかく手洗いをして、うがいをすること。万一、喉についた菌は水分をとって、
胃へ流し込んで失活させる事だ。風邪の予防とまったく一緒なので、抵抗はないだろう。
ただし、なるべくこまめにやることだ。特に人としゃべった後は。

次に、ウィルスの寿命だが、紫外線に弱いというデータがある。
外で仮に服や手についたとしても、太陽を浴びれば失活する。データ上では、太陽光は
やや弱くて、先のサイトだと、2時間弱で、100分の1に失活とある。この猛暑なら、
もう少し短くて良いだろう。よって、外を出歩く場合には、服などについたウィルスは
気にしなくてもよい。大抵は失活しているはずだ。次期に紫外線放射装置が出回るだろう。
気になる人は、そういう機材を手に入れることで、かばんや服についたウィルスを
滅菌する事だ。

行動面ではどうしたらいいのだろう?

GoToは愚昧だとはすでに述べた。なぜなら、この感染症は無症状者がいることが
分かっているからだ。https://www.covid19-yamanaka.com/cont7/main.html
すると、保菌者が無自覚に、他の場所へ移動し、誰かに触れる事で感染者を増やすことになる。
かからなくて済んだ人が、罹患してしまうというのが、この政策の愚昧さである。

とはいえ、どこかに行ったり、何かしたりしたいものだ。
そういう時は、結局、なるべく屋外で、他者と距離をとれる場所に行くほかない。
GoToで移動するにしても、車での移動を利用して、他者との距離を取るしかない。

そして、身近な場所以外では、こまめな水分補給と手洗い、うがいである。

問題になりそうな電車であるが、どうもそこまでリスクが高いものではないようだ。
それは誰も喋らないという点だろう。電車で会話はほとんどなされないし、大抵は
マスクをしているので飛散しているウィルスも少ない。とはいえ、不特定多数が乗り込む
電車さけるに越したことはない。

上記を気にするならば、車でドライブ旅行などはあまり問題ではない気がする。
自分が健康体という事であれば、都心部に出るときに注意だ。人が溢れている。
一方で、都心部の人は、地方へでかけるのは避けて欲しいところだ。

よって、地方の人が地方に行く場合はあまり問題にならないと思われる。
ここがなかなか苦しい所なのだろう。東京からのGoToだけでなく、名古屋や大阪、
京都あたりもはずすべきなのだ。それは、行き先としても出発点としても。


さて、最終的には罹患してしまったら仕方がない。
まずは、各都道府県にある「帰国者・接触者相談センター」に連絡する事。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/covid19-kikokusyasessyokusya.html

上記のURLにいけば、各所の近隣の保健所や窓口がみつかるはずだ。まずはそこで相談し、
検査を受けられる病院を予約する事。オーバーフローはこれ。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/dengue_fever_qa_00001.html#Q5-3

それにしても、次に書いてある、検査が少ないんじゃない?に対する厚労省の回答が
欺瞞に満ちている。日本の罹患率を6%とした上で、アメリカやイギリスと比べて
ほら、少ないでしょ?と言っている。だからそんなに検査数増やさなくてもってこと
なんだろうけど、じゃあ、アジアとはなぜ比べない?


それから心がけとして、感染者やその回復者に対して、過度な対応はさけるべきである事。
インフルエンザだった人に、果たしてそこまで脅威を感じるだろうか? コロナだからと
いって、十分な時間静養し、再度検査した人が回復者なわけで、それに対して過度に反応
するのはやりすぎであろう。変な差別や偏見につながらないようにしたいものである。


さて国はどうしたらいいのか? 経済対策をどう考えるのか。
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この図は先の山中氏のページよりとってきたもの。
結局のところ、経済活動とコロナ対策は背反する。これは市場経済が人の動きによって
成り立っているという証左である。物事をバランスとみるならば、ほどほどに制約をかけて、
ほどほどに自由にやる。それ以外になさそうである。

それはつまりは、一定数は罹患しても許容するという意味だ。
誰にも罹患させないという対策はもはや無理となった今、少しずつ罹患していくだけなのだろう。
そして、運悪く死ぬ人がいて、それもまた運なのだと諦めるほかない。

少なくとも日本はそういう方針だと知っておいても損はない。
もし、これが不服で、可能な限り罹患者を減らしたいのであれば、自民党支持はやめて、
野党に投票すべきだし、なんなら自分で立候補する他ない。現状では、社会的に弱いものは
死んで仕方がないという理念で物事は動いている。

私はこれに不服なのだが、世間はこれでいいと思っているらしい。だから困るのだが。
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