始まった崩壊 [思考・志向・試行]

すでに崩壊は始まった。そう捉えるべきだ。
人によってはバブル崩壊がその出発点と考える人もいるだろう。

今回は要するに目に見えて、崩壊が始まったのだ。
それが2022年である。

もう目にみえているのに、多くの人は気にしていない。
むしろ、ますます仕事に忙殺されて、政治や社会のことなど気にしていられないというのか。

恐ろしいほどに庶民は無知蒙昧だ。

安倍政権になって、株価が上昇が政府によって決められた時、
それに乗じて儲けた人々がいる。その金は結局、国債となって日本という国に残存した。
その尻拭いを誰がするというのか。

社会は常に、弱者に責任を押し付ける。本来の責任者ではないのけれど。
スケープゴードは常に作り出されるのである。

庶民の暮らしがいよいよ本格的に傾き始めた。
ずっと前からそうであったが、それが目に見えて変化になった。

物価のあからさまな上昇。
それにも関わらず、大増税を予定する政府。
生活苦が待っているというのに、政府に反対もしない庶民たち。

今後の予定はこうだ。


生活を苦にした人々は、犯罪に走ることになる。
一部の人間たちはすでにそうした行為に走っている。
小さな犯罪は明らかに増大していくだろう。

これは政治の失敗なのだが、政治家たちは個人の失敗として自己責任という言い逃れをする。

この小さな犯罪を抑止しようと、政府に加担する庶民が増えるだろう。
自分の首をしめると全くわかっていない人々が、自分たちの行動制限になるような
仕組みに参画する。その一端は、マイナンバーカードのようなものだ。

そして警察権力の増大や軍関係の増強とは、最終的に反乱への牽制として機能するだろう。
その手段として、サイバー管理がある。

生活苦は結局のところ、反乱を招く。これは歴史をみれば明らかである。
戦争の多くは仕掛けられた経済困苦である。イデオロギーなどではないのだ。
戦争を仕掛けるための口実が宗教やイデオロギーであって、中身はつねに経済苦である。

これもまた政治の失敗なのだが、それもまた彼らの責任は棚上げされて有耶無耶になる。

ともあれ、我々はよりいっそう、政府から管理されるだろう。
家畜と同じである。行動だけではなく、精神的にも管理されるだろう。

軍拡反対と叫べば、世間から白い目でみられるような社会風土を醸成しようとしている。
戦争反対と叫べば、非国民と罵るやからが現れる。

日本は何も変わってないのだ。戦前から戦後まで。

そして、そういう行動様式こそが典型的で没個性的で、まったくのコピー人間なのだが、
それにすら気が付かないのが、そういうたぐいの人間である。
自分が何をしているのか何も知らないのである。

オーウェルの1984などと”高尚”なことを言わずとも、ディストピアは始まっている。
それを進んで受け入れている人間たちがいる。政府がいうからというだけで。
政府が信用ならない時代なのにだ。


では国を牛耳る人間たちは賢くも国民を奴隷化しているのか。
否。

彼らはただただ、誰かのいいなりになっているだけである。
方やアメリカ、方や旧統一教会、方や経団連。要するに政府はただの傀儡である。
背後にいるのは、世界中の資本家たちである。政治家はその表にたつ人形である。
金を操る人間たちが影響力をもつ社会なのだ。

これは陰謀論ではない。大きな陰謀を描いても、その影響力は高が知れている。
だが、決定的な部分では影響力というのが問題になるのだ。それは資本があるという
事と権威性つまり国という単位の事だ。

誰かの陰謀が物事を動かすのではなく、個々人の小さな思惑の向きが揃えば、
それは大きな影響をもたらす。その思惑とは「幻想」である。


現代は「幻想」社会である。
何が幻想か。それは金と国という幻想である。

我々は金と国という幻想に生きている。幻想だが、人々の心の中にそれがあると
信じられているがゆえに、存在する。それが金と国である。

幻想だから、実際には存在し得ないのだが、そこに本気であると信じているのだ。
え?と思った人は考え直した方がいい。金と国というのは幻想に過ぎない。

でも、現実的に金が動き、国が機能しているではないか。
もっともな意見だ。

だが、金とはなにか? 紙っぺらが自体が価値だろうか。コインはいささかマシだが、
それでも、どんな使い道があるというのか。これを幻想と気が付かないなら、外国へ
行けば良い。日本の金は、全く使い物にならない。誰も何とも交換してくれない。
そりゃそうだ、幻想なんだから。でも、彼らの幻想に合わせて、ドルやユーロに交換
していけば、彼らは交換してくれるのだ。

つまり、金とは人の頭の中にしかない幻想であり、その幻想を付与しているのが
紙幣やコインという事だ。

国はどうか。我々にあるのは、肉体と環境だけである。
どこに国がある? 見えない、触れない、聞こえない、匂いも味もしない。
これを幻想と言わずしてなんという。

我々は他者を知っている。他者との交流は存在する。つまり社会がある。
それは現実である。だが、国とは?

国とは結局、多くの人があると思いこんでいる何かであって、実体などない。
実体は人がいるだけなのだ。社会があるだけなのだ。

国が何かをするという時、それは具体的には、誰かが何かをするのであって、
国が何かをするわけではないのだ。

我々は日本人だ。それは日本と名がつく土地に生まれたという意味であって、
日本国民かどうかは別である。国民というのは、幻想をもたなければ、生まれないものなのだ。

もし、自分を日本国民と思っているなら、それは洗脳済みという事である。
もちろん、この国で生き延びているという事は、洗脳済みという意味でもある。
残念ながら、それは確実な事実である。

だから、もしアメリカに占領されて日本が51番目の州になったって、我々は日本人である。
国の幻想が、日本国からアメリカに変わっただけなのだから。それは中国に占領されても
ロシアに占領されても変わらない。ただ、自分がもつ幻想が変わるという事に過ぎない。

この程度のものに、「生命を賭して」というのは全くばかげたことだ。
我々は国民であるまえに、人間なのだから。

人間として、日本人を生きる。日本人として、日本国民を生きる。
そういう風にして我々は存在している。

よって、国というものは幻想なのだ。国は統治権力である。誰を?
そう、我々を支配する権力なのだ。我々が国ではない。もうちょっといえば、
政府という特定の集団が、残りの日本人を支配するという機能である。

政府の集団は日本人から選ぶことになっているが、その政府の人間たちは
アメリカの言いなりであり、資本家のいいなりなのだ。

つまり、資本家やアメリカの支配下に日本人がいる。これが事実である。

国のいう事を不本意に従うということは、本来自由であるべき人間としての
個が毀損されるという事だ。我々には不本意な政策に反対する正当な権利がある。

国が幻想に過ぎないのだから、その具現者である政府もまた幻想に過ぎない。
我々は、いかようにも、彼らから自由になれる。

もちろん、自由にふるまった結果、国の支配構造に影響を及ぼすなら、
国は個人を捕まえて、罰則を与えるだろう。この罰則とはつまり、国の暴力の現れである。

国はバツを与える事で、我々を支配しようとする。
その支配に我々は怯えて、支配を是としてしまう。つまりドレイになるのだ。


日本国民としての自我を作っている人にとっては、何をいっているのかと不遜に思うことだろう。
だが、人間として生きる事は人間にとって最重要課題であろう。

国という存在下において、果たして人間として生きられるのか。
せめて、日本人として生きられるのか。

私には大いなる疑問である。結局、国に生きるものは、誰一人として人間として生きられない
のではないか。この問に皆さんはどう答えるだろうか。

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