完璧主義からの離脱ー好きなことと苦手なこと [その他]

アドラーを読みながら、自分のライフスタイルを問い直す。

そこでしょうもない事に気がついた。
好きな事の中に、苦手という要素が入っているという事に。

本当に手放しで好きなことしていいんだよ。そして、欺瞞のある”好き”はいらない。
今の自分なら、そういえる。

仕事をやりながらずっと、自分の能力不足に苛立っていた。
そしてそれを乗り越えるために、ストイックに作業を進めていた。だから、必然的に
完璧主義になり、それがまたストレスになっていた。

実はもっと前から分かっていた。自分の仕事の本質が、実は自分がもっとも
苦手な分野であると。

自分のライフスタイルの歪みとして、強度の負けず嫌いがあった。
その負けず嫌いとは、自己に負けることにも通じている。だから、手を抜けない。
抜きたくないのだ。そして、手を抜いたことに罪悪感を感じていた。
もっと自分は出来るのに、それをおざなりにしていると。

事実、それなりに自分の能力を存分に伸ばしてきた。だが、そもそもそれらは苦手なこと。
修行である。修行となった事で、人並みに上手くはなった。でも、所詮、苦手なことだ。
もともと得意な人や、それが好きな人に、仕事上及ぶわけがない。

もちろん、全ての仕事において、そういう事柄があるのは知っている。
だが、よりにもよって、苦手の事柄がもっとも仕事上評価されるポイントであるとは
困ったものである。むろん、修行はした。人並みには出来るようになった。

だからなんだ? これを一生の大部分を費やして生きるのか?

後で、もっと違うことが出来たのではないか? なんて思って生きたくない。

下手でもいいから、好きなことをして生きたい。
好きなことを存分にやって過ごしたい。それがリッチという事だろう。
金だって、生活に加えて、それをするために稼ぐものだろう。

そのために知恵を絞るほかない。そうだった。そのつもり行動を変えたのだった。
今もまだ、得意を仕事にしている。やりたいことなのか?とちゃんと自問しないと。

もがくほかない。

自分にとっての道をもがいて切り開くしかない。他人からみてバカだとしても、
そうすると決めたんだった。初心をすっかり忘れていた。

コロナ禍において、また自分の求める所を変更せねばならない。
きっと、多くの人がそうだろう。もっと深いところへと。
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アドラー「生きる意味」 [思考・志向・試行]

3つの課題が人生に課されている。
「他者、仕事、愛」だ。

アドラーはこれらは、共同体感覚で支え、行動すべきだと説く。

ややもすると、集団主義か、全体主義っぽくも聞こえるが、内実はそういうことではない。
共同体感覚とは、どちらかといえば、長い人類史に根ざした人らしさの行動体系と呼ぶ
べきものである。

よって、この時代において流行っているからとか、この時代での主流だからという
意味では共同体感覚を解釈しない。そして、共同体感覚をもつ個人は、結局のところ、
人類に貢献するがために、ますます共同体感覚を持つ人々が増えていくと考える。

アドラーはむしろ、この心理学に個人心理学と名付けた。
なぜなら、行動規定となる「ライフスタイル」は、個々人のものだからだ。
そして、そのライフスタイルは常に共同体感覚によって、評価されている。
およそ人とはそういう存在であるとアドラーは信じている。

誰しもが完璧ではない。
だから、人々は人生に劣等感を抱く。そして、その劣等感を解消すべく、人は成長していく。
そういうものとして人生を捉える。その事で多くの問題行動が解釈される。
アドラーは、そう臨床家でもある。

劣等感とは聞こえが悪いかもしれない。だが、我々は常にどこかしらに足りなさを感じ、
それを補うように行動する。その行動の発露が人の性格である。よって、我々がいう
性格とは、本来的には状況とカップリングした形でしか現れない。このひとはこれこれという
性格だとは言えない。そのような行動にでるだけの理由があり、その内的動機と状況が
彼の性格を作り出す。同様に、精神的病理も現れると考えるのだ。

アドラーの見立てでは、幼い頃にライフスタイルは定まる。
大人はそれに修正を加えることができる。それに気がつけば。

ライフスタイルとは、その子供に与えられた状況における生きるチカラの発揮に対する
応答で決まる。もし、母親が過保護であれば、子供はそのようなライフスタイルになる。
依存的で、自分の思い通りになるという人生観・世界観をみにつけてしまう。一方で、
あまりに放おって置かれてもまた、行動が定まらないのだ。ほどほどの関わりが子供を
中道に導く。そして、健全な共同体感覚をもたらす。

アドラー曰く、大人における問題行動は、結局のところ、子供の頃のライフスタイルに
影響されているのだと。そして、大抵の問題は、共同体感覚の欠如によるのだと。

共同体感覚の一端に、貢献感がある。自分は役立つ人間であると。そう自分を規定する事。
これを持てない人は人生が苦難に満ちている。共同感覚が希薄な人は、他者を搾取の存在
とみなす。その心は、周りは自分の快適さを保つために存在するという優越感コンプレックス
か、思い通りにさせてくれない対象として、他者を敵とみなす劣等コンプレックスを生み出す。
そのような人は、そのコンプレックスを埋め合わせることに必死になる。だが、それをどれほど
達成しても何も解決にはならない。なぜなら、問題の本質は、共同体感覚の欠如であって、
コンプレックスの解消ではないからだ。

他者に勝たねばならない。そういう感情は、ただの復讐である。努力によってライバルに
勝つという概念自体がそもそもコンプレックスである。他者との比較によって自分を規定する
事は、そもそも変なライフスタイルである。

また、他者を思い通りにさせてくれない敵とみなすこともまた多くの問題を引き起こす。
自分がそれにDeserveなのだと、思い、その達成を阻まれる事に不満を抱くとしたら、
それはまた、変なライフスタイルである。

恐ろしいのは、これらを利用して、社会的に成功することはおうおうにしてあるという
事である。コンプレックスが酷いほどに、その解消に強いパワーを用いることができる。
それがたまたま時代の要請と重なれば、社会的成功を起こすことがある。だが、それらは
決して、本質的な成功ではない。むしろ、成功した分だけ、問題がそのまま残されてしまう。
そのツケは、死ぬまでに必ずやってくるはずだ。

アドラーは、共同体感覚からそれてしまうものは、結局うまくいかないという。
共同体が、素朴に感じている価値、行動、そういうものから人は逃れられない。
そして、その感覚こそが、人の行動を導く。そして共同体感覚にそう行動をとったとき
人は、自分の存在意義を感じられ、自分を肯定できる。それは、結局のところ、
3つの課題をこなすことにつながるのだ。

「他者、仕事、愛」結局のところ、他者とどのように協力関係を築くのか。
その協力に対して、自ら呵責なく行えるのか。いやむしろ、それを喜びをもって行動に
出せるのか。それこそがもっとも大事なのだ。自分の思う素朴な当たり前の行動が、
共同体感覚に沿っているとしたら、それこそが、人の有り様である。



私も人だ。理屈は知っても、リアルにそれを実践するのは難しい。
だからこそ、アドラーの金言を胸に、明日も生きていく。よりよい人になるために。
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