『U』森達也著 [本]

やまゆり園事件の植松死刑囚の話である。

テレビマンでもあり、映画監督でもある森達也氏が、植松氏を取材し感じたことを
書いた本となっている。

19人もの障害者を惨殺した植松氏。
その素顔は決して悪人という一側面だけでは形容できない。

森氏はこの事件だけでなく、オウム事件等々、凶悪犯罪を追ってきた。
その中で、日本の司法に対する危惧を感じてきた。検察が起訴した際の容疑者が
99%もの有罪率を示すという。元来人は間違えを犯すものだ。それなのに、この
あまりにも高い有罪率。

そこで発生する数々の冤罪。検察が容疑者を容疑者たらしめる調書を作成し、
刑を確定しようとする流れ。世論という国民感情に動かされる司法。
そういうものに森氏は警鐘をならす。


植松氏の行為もまた、国民感情主体で裁かれた裁判であった。
この平時における惨殺事件。2人殺すと無期懲役、3人殺せば死刑という暗黙ルールがある。

相変わらず日本では、死刑を是とする世論がある。
諸外国では、これは「中世的」であると理解されているのだが、日本人は誰も気にも
留めていない。国際的には時代が止まったままの司法制度、それが日本である。


さて、植松氏であるが、その生育環境は定かではない。
むしろ、普通であった可能性が高い。彼は大学も卒業している。
その彼が施設において惨殺を繰り広げてしまった。

多くの知人は事件の1年前から彼は変わっていったと証言している。
そして、その頃かれはやまゆり園で働いてたのである。

司法では、園は被害者で、植松氏が加害者であると設定された。
むろん事実的にそうなる。だが、植松氏をそれに駆り立てたのは何か?
残念ながら、森氏はそれを植松氏に尋ねる事は出来なかった。だが、それを
推測する手立てはある。

植松氏が書いた衆議院議長大島理森への殺戮予告の内容は
支離滅裂といえるものだ。誇大妄想の世界に彼がいたことは明らかである。
この殺害予告文には安倍元首相の名前もある。これは事件の5ヶ月前の事だという。

新聞はこの惨殺事件を受けて、「障害者いらない」という目次をつけた。
だが、植松氏はそういう意図で殺してはいない。彼は「心失者」を襲った。
それは自分の名前等が言えない、しゃべれない。そういう人物を選んでいた。
障害者ではない。意思疎通が出来ない人である。

彼の脳裏にあったのは「不要な人間は、むしろ社会の重荷であるから
排除すべきである。」という事だ。それを短絡的に意思疎通不能者に結びつけて
行動を引き起こしていた。

また、収監されてから植松氏は様々な人々と面会を行っている。
その面会者の人へのインタビューから、植松氏はとても浅はかな思想の
持ち主という描像が浮かび上がる。借り物のミームをパッチワークし、全体としては
辻褄が合わない陰謀論などを信奉していた。

これらの事が意味するものはなにか?

これらを通して透けて見えてくるのは、精神的な病理である。
少なくとも正常ではない。誇大妄想があり、その異常な世界観の中でうまれた
”正義感”によって、彼は犯行に及んでいると推察出来る。とても正常とは言えない。
その一方で日常的なことに関して、彼はごく普通でもある。悪魔のような人間という
事はないのだ。

森氏は、暗に仄めかしている。植松氏は精神疾患ではなかったのかと。
私も同感である。およそ、境界段階にあるのだろう。異常な側面と正常な側面が
同居している。そういう人物である。

そのような人間が犯罪を犯すのだろうか? いや違う。それは十分な要件ではない。
それは刃物を手にした人間が必ず人を刺すとは言えないように、精神的な疾患が
あっても犯罪を犯す理由にはならない。あるとすれば、なにかきっかけが必要である。


時代には空気がある。そして、その空気は人々の思考によって生まれる。
人はその空気に感染する。さらにそれが時代の風潮を生み出していく。

一方で、特定の精神疾患には被害妄想と、思考の短絡化がある。
物事を悪くとらえ、その理由をこじつける認知の歪みが生じるのだ。

ここからは私の見解だ。
植松氏は、およそ精神的な問題を抱えていた。器質的なものか、生育的なものなのか
それは分からない。だが、決して思慮深い人間ではない。むしろ周りの言うことに
左右されてしまうような浅慮な人間であった。その彼がどのようなものに染まるのか。

社会の風潮はまさに「個人の評価は役立つかどうか、それが問題だ」と言わんばかりである。
そのような空気を醸成したのは日本人であるが、その象徴として安倍がいた。また、アメリカには
トランプがいた。植松氏が自己責任論を振りかざす日本の体制に感化されても不思議はない。

そして、彼は障害者施設「津久井やまゆり園」で働いた。
そこで見かけた職員たちによる酷い虐待行為。彼らは社会の縮図を凝縮した形で存在していた。
自分で何か出来ない人間たちは、ああいう扱いを受けてしまうのだと植松氏が感じ、
その存在をむしろ、疎ましく思うようになった。彼らは社会のお荷物なのだと。

この空気に、植松氏はその精神的な問題により、過剰に反応した。
それは彼の誇大妄想世界の中では、殺してでも排除されるべき人間として認識されるようになる。

その一方で、彼は寂しさも覚えていたはずだ。
なぜなら、他者から認められたという欲望があったからだ。
彼の感染した空気を一番に体現している人物に認めてもらいたい。その人物であれば、
自分を認めてくれるはずだと妄想した。

だからこそ、雨に打たれながらも、安倍晋三へむけて、殺害予告を渡そうとするに至る。

そしてある日、彼は気まぐれな誇大妄想世界からメッセージを受け取る。
計画を実行せよと。

おそらく、彼は”正義”のつもりであっただろう。人を殺すことをそう感じてしまうことに
我々は理解不能を感じるかもしれない。だが、彼の妄想世界では、一貫性がある。
そして、彼はどこかで殺害した人々を救うつもりであったはずだ。

社会の重荷として存在してしまっている彼らはいないほうが、幸福なはずであると。
それは彼らが受ける虐待からの開放であり、職員たちにとっても、彼らとの関わりからの
開放となる。

殺すことが問題解決なのだというのは、実に身勝手な考えだ。だが、彼は時代の風潮に
感化された精神疾患者である。そこに利を感じ、その思想を後押ししてくれるはずという
期待感があった。なぜなら時代がまさに、それを明に暗に指し示しているからである。

時代の空気。それが彼にとっての不幸であった。そして、そのような考えを批判する
人が周りにいなかったのだろう。彼の妄想はひどく発展してしまった。


私は彼は時代を反映した犯罪者であると思う。
世相がもつ、心の奥に隠蔽している思想、彼はそれに共鳴した。
だからこそ、その行為を正義と信じたはずだ。そして彼の精神的な異常はそれをエスカレート
させた。

森氏はいう。およそ植松氏は刑を受けるだけの精神状態ではないのではないかと。
そして、彼を死刑にしてしまえば、彼のような犯罪者が何をもって行動してしまったのか
を隠蔽してしまう事になると。

だが、国民感情は19人もの人を殺した人物を生かそうとは思わない。
極刑がふさわしいと思っている。

ここでもまた空気が醸成される。司法はその空気を読み、植松氏がいかに精神的な問題を
抱えていたかは考慮外として見ぬふりをし、刑を受けるに足る正常な精神であると認定する。
もし彼が精神的問題があると確定すれば、法にのっとり、彼は刑を受ける事ができなくなる。
それは、世論が黙ってはないという空気を、司法が忖度したのである。

このような事は、オウム事件、宮崎勤事件等々において散見される。
精神的な問題があるにも関わらず、刑を実行しようという圧力である。
これは司法そのものだけでなく、日本全体にある空気である。

何も私は、加害者をかばっているわけではない。凶悪な犯罪において、
正常さとは何か、それが問題である。およそ精神的な歪がない限り、凶悪犯罪は起こらない。
その異常な心理状態は、必ずしも特殊な人間にのみ起こるわけではないといいたいのだ。

戦時下をみれば明らかだろう。環境・状況によって、人は簡単に人殺しを行う。
だが、人は元来的にそれを嫌う。闘争本能だって? そんなものは妄想である。
でなければ、なぜ戦争帰りの兵隊はあれほどにPTSDに悩まされるというのか。
そこには、やってはいけないことをしたという強い罪悪があるからである。
人は簡単には、人殺しなどできやしない。精神的な異常さが必要なのである。

我々は凶悪犯から、学ぶべきことがある。
どういう事をきっかけに、何を妄想したが故に、犯罪を肯定するのかと。
でなければ、またすぐに同じような事件は発生する事だろう。
これだけ人間がいれば、同類が現れるからである。

何が凶悪犯へと仕立ててしまうのか。

人々が暗に隠そうとする心理。そういうものから醸成される空気。
それに感化されてしまう精神的な病。植松氏は時代が違えば、精神疾患との境界で
何事もなく過ごしていたのかもしれない。

法が裁く犯罪。私達はもっと罪とは何かについて考慮が必要なのではないか。
そして、罪をおかした人間を知るべきなのではないか。森氏の著書はそうつぶやいている。
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トヨタの闇 [本]

トヨタの闇という本を読んだ。
このルポライターが真実のみを語っていると前提にする。

さて、本の内容は、トヨタのリコール隠し疑惑と、労災問題である。
トヨタという企業は、多くの宣伝に力を入れている。年間2000億とも言われる。

この広告費により、トヨタの運営がおかしくても、あげつらうメディアは殆どない。
それは雑誌や本が売れないこの時代では当然であろう。経営者は結局、金の奴隷である。

トヨタ車の多くは欠陥を抱えている。
リコール隠しも行われてると推定できる。なぜなら統計的に異常なほど低い異常発生率
だからだ。おそらく、かなり低く報告されている事が疑われる。

カイゼンと呼ばれる運動やら、在庫を持たない生産工程など、かなりの苦労をして
売上を確保している。トヨタは労働コストを最小化するタイプの企業なのだ。
よって、下請け問題や、労働者の過酷な残業実体などがある。だが、それは表には
出てこない。

別段出てこなくてもいい。一企業が勝手にやっているというだけであれば。
そして、労働者がそれを是認しているのであればだ。だが、実態はおそらく半強制的に
仕事に従事させられている。そうやって、なんとかコストを抑えて車を販売しているわけだ。

このルポが正しいとしたら、このトヨタのような会社スタイルはすでにオワコンである。
そして、このようなタイプの経営が日本中の企業で行われているならば、それこそ日本の
産業がオワコンである。


もうすこしマクロにみると、人口ボーナス期は過ぎた日本において、車を買うのは、
誰だろうか? やはり労働者であろう。現役世代が通勤に使う。これがもっともな
所有動機になるだろう。その現役世代はなけなしの金を車に使う。だが、経済は不安定化し、
所得は横ばい傾向なため、車に多くは出せない。

結果として、何が起こるのか。必需品としての車は、可能な限り安く買おうとする。
そういう事だ。それがゆえに多くの消費者は軽自動車を選ぶ。利益率の高くない車である。
昨今は、いろいろな装備がついて高騰化した。とはいえ、100万円代で取引されるだろう。

そう考えてみると、トヨタが売上を確保しようとするとコストダウンを強いられるわけだ。
つまり、身体を壊したり、自殺においこまれるくらいに労働者をこき使わなければ、見合う
利益があがらないという事なのだ。

日本のコンシューマー向けの製造業はこの状況下にある。
結局、この状態維持は、いかに社員を洗脳して、仕事に釘付けにするかで決まる。

一般的に言えば、トヨタで働ければまずまずの収入を得られるだろう。
だが、世界は広い。能力に見合った金銭を得られているかは疑問である。
ましてや、若い頃はとにかく労働の持ち出し状態である。むろん、そうやる事で、
離職すると損をする仕組みになっているわけだから、企業も汚いものだ。

今になってわかることだが、良い企業へ入社するために、努力するなんて本質的に
どうでも良い事だと思われる。要するになるべく苦労がない仕事で、安定的に金が
手に入る職を多くの日本人は望んでいるだけなのだ。そしてその近道が、大卒で終身雇用
だったわけだ。まあ過去形であるが。

トヨタという村社会は、かつての日本の村そのものである。
とにかく空気を読んで行動する事を求められている。休日に催される会社のイベントなど、
強制されているわけではないが、出ないわけにはいかないという生活。トヨタ内において、
すべてが完結するような仕組みになっている。

トヨタ系列の病院で生まれ、トヨタ関連の学校で育ち、トヨタに就職して、
トヨタの家を買い、トヨタ車に乗って仕事をする。そうして気がついたら定年まで
ほどほどの給与で休日が取れない形で生きていく。なんかディストピア映画のような
人生に見える。

もちろん、本からうけるイメージと、実態は違うのかもしれない。
本は悪い面を強調しているからだ。だが、その普通という観念が、世界的な視野からみれば、
ずれ込んでいるのは間違えない。そして私には少々気味が悪いのである。


トヨタという会社には、個人的には賛同できないのだが、それを望み、それで良いという
人々がいる事も知っている。走っている車で、トヨタハイラックスくらいが主張がある
車で、あとはどっかの車のパクリに見える。

プリウスはどうにも、完成度が低い。トラブルが多いのは紛れもない事。
一時期、アメリカで暴走トラブルが相次いだ。おそらく、本当に暴走していたのだろう。
それは日本でも変わらないはずだ。発生率はとても低いトラブルなら、それでも良いし、
そんな事をあげつらうなという意見もある。だが、構造的欠陥があるならば、きちんと
対応するべきであるし、そのような事はメディアに報道されるべきだろう。

トヨタ村の隠蔽体質は、日本のそれである。

多くの社会において、ハラスメントが横行し、学校ではいじめが起こっている。
その根幹にあるのは、まさにトヨタ村が志向する付和雷同社会である。何事も、
長の言い分に従えと言わんばかりがこの国のありようだ。そして、トラブルがあると、
身内の恥は晒すなとばかりに、隠蔽に走る。要するに保身である。

結局、この国の大人は弱いのだ。理念や人道という事は、利益のずっと後ろにある。
美辞麗句を並べている起業家が多いが、あれは嘘っぱちである。日本の社会は、結局、
得するかどうかに比重を置いているのだ。

ところがこの損得だが、これについても、中途半端である。
日本という国の国益を最大化したいなら、もっとテコ入れするべき産業は色々あるだろう。
たとえば、アニメや漫画は世界中で消費される優良なソフトウェアだ。だが、
そこで働く彼らの給与はすずめの涙である。構造的な問題があり、創作というものに対する
対価があまりにも低いのがこの国なのだ。

これは学術でも同じである。学術をする最大の社会貢献は、先を見通す力をもつ人間の増加
である。思考の射程範囲を拡大する事で、目先に惑わされずに、社会を考慮できる人間を
作り出すことである。

ところが、日本はしょうもない国で、社会人の連中は、兵隊が大好きである。
体育会系というホモマゾグループ出身の男を重宝する。それはショッカーみたいなものだ。
大学をサボってバイトばかりしていたような人間こそが、日本社会に適応的であり、
学問に打ち込んだ人間は、日本社会からは敬遠される。ましてや真の知性があり、
現状を正しく認識した発言ほど、疎まれるものはない。

組織なんてアホらしいもので、自分より優秀なやつは嫌いなのだ。
だから、自分より下にみることが出来る人間を配置する。使えるやつとは、いう事を聞くやつ、
自分の意図をくんで、成果を出す人間である。アンビバレントな事に、優秀なやつは、バカな
上司に使われるのを嫌うものである。よって、組織は、続けるほどに人的リソースが崩壊する。
よほど、うまい制度構造が無い限りは必ずそうなる。

権力というのは、自分より能力的に優れている人間を、金や地位というものを利用して、
こき使うという事で成り立っている。そして、劣等感があるほどに、地位や金を欲する。
なぜなら、嫌われているからである。人望がない人間は餌をまいて始めて人が近づいてくる。

こういう組織の最大級の存在がトヨタである。

末端の労働者の労働力を最大化するために、様々な仕組みを工夫した。
それがトヨタ村を構築することであり、それが普通となるような洗脳である。
そして、その弊害として、労働災害にあうひとが出てくるのだ。

あれだけ儲けているトヨタがそうであるならば、業績があがらない会社組織では
何が起こっているのか、想像に難くない。そりゃ、心を病むだろうに。
一体自分は何をしているのだろう? そう思うだろうに。

普通に暮らしたい。かなりの多くの人がそれを願っている。
ところが、ごく一部の強欲な人間たちの思惑に、振り回されている。
生活出来ているのだから、文句をいうなという人もいるだろう。
だが、死んでしまえば楽になる、というような事を思うような状況があること自体が
異常である。ただ生きている事と、人生を歩むことは完全に別である。

トヨタの闇は、日本社会そのものを考え直さないといけないと思わせるのに十分な本であった。

ともあれ、健康を害してまでするような仕事はこの世には存在しない。
あるとしたら、それは仕事ではない。やっていい仕事ではないのだ。
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男をこじらせる前にー湯山玲子著 [本]

『男をこじらせる前に』湯山氏の著作だ。

なかなかするどい男性ジェンダー批判である。
これだけの批判がかけるというのは、かなりの観察眼だと感服する。
そして、女性たちの強かさがよく分かるというもの。

女性からみた男性批判は、一歩間違えば、上野氏のようなフェミニズムになりがちだ。
それは社会的な役割における女性差別という観点から、男性が社会が暗に仮定している
差別的制度への批判する行為だが、湯山氏は違う。むしろ、男性に女性はこう考えると
訴えかけている。その意味では非常に稀有な本かもしれない。

内容はもっぱら、男性が気が付かない女性からの男性批評だ。
この「男性が気が付かない」というところが最大のポイント。
暗に仮定している事は、盲点となってなかなか気が付かないものだ。
それを鮮やかに表出している。

例えば、モテの問題。
昨今の男のあり方は、なかなか難しい。かつてのように男は勢いだとか、
思い切りだというような話はもう受け入れられない。そしてミソジニー的な
女性の人格を無視した「数や回数」といった事柄にも価値はない。いまやモテるのは
結局、どれくらい女性を尊敬できるかだと湯山氏は断じる。

なるほど、それは真なる女好きということだ。そして、そのように扱われた女性は
決して嫌な気持ちは抱かない。むしろ、HowToとしてマニュアル化した口説きなどを
実行する男性に対して強い拒否感が広がっている。

一方で、女性の社会進出が進んだ結果として、女性が良いと思う男性の一部に
「バカ」という性質があると教えてくれる。なるほど、顔立ちが良く、変なコンプレックスを
持たない男は、上機嫌で居られる。そしてそれが女性にとっても心地よさとなっているのだ。
女性にとってもややこしい人は面倒なのだ。そして、単純な男を愛でるだけの社会的立場を
手に入れているという事だろう。

むろん、これは全く男性がしてきた主張と同じであることを忘れてはいけない。
女性は無教養で、可愛く美しく、いつもにこにこしていればいいという主張だ。
全く同型である。このような流れの中に男を「ペット化」するという発想があるのだろう。
それは男性が仕事とは別の息抜き的な人間関係を求めた事と同値であり、なんだか女性が
それをやるのは、ジェンダー論による差別的行為を繰り返しているだけに見えるのだが、
まあ、かつて男性がやってた事を女性がやって何が悪いと非難される類の事だろうか。

他にも、湯山氏は指摘する。
感情を無視しすぎている事。直感を軽視している事などだ。
旅にでても、予定を重視して臨機応変さやその時の感情の揺れによって
行動を変えたり変更したりすることを躊躇うことを例にあげ、男の窮屈さを指摘する。

ここから、湯山氏は、まずは物事に対して駆動した感情をベースに、
どうしてその感情が励起したのか分析せよとアドバイスする。なるほどだ。

現代の問題点の一つは、「子供化集団」という事だ。湯山氏もそれを指摘する。
資本主義の駆動した社会は、高齢化をもたらし、集団を子供化するということ。
その意味は金さえあれば、集団の規範に従わずとも生きていけるという事である。
それは大人ではなく、子供のままでも良いという事と同義なのだ。

これを男女の視点に落とし込むと、マザコンという事になる。

かつて、私は女性が実はマザコン化していると述べてことがある。
湯山氏はこれを男性に向けて批判している。もちろん、女性もグルである。

マザコン化する理由の一つは男性が大人になりきれないからだ。そして、
エネルギーを持て余す女性たちは、その果たせぬ思いを息子や夫へとむけて
ライドする。だからこそ、東大受験に成功した母なんていう存在がもてはやされる。
実にくだらないのだが、女性の自己実現が阻まれている現代社会では、否応なく
この問題にぶち当たる。都市部に住む専業主婦は、そのもてる力を息子や娘に
むけて、自己の代わりに自己実現しようと目論でしまうのだ。

さて、湯山氏は、現代男性のニート化の一部に、男性のマザコン化があると指摘する。
まあ指摘自体は何も新しいものはないのだが、そこに付け加えられる夫の「息子化」という
話は一歩進んだ議論だろう。

母親に対するマザコン化はいまや許容せざるを得ない程度になった。
その背後に進行しているのが、夫の「息子化」である。嫁という対象を「母」とし、
その母をサポートする存在としての自己というものを内面化した夫という像だ。

もっとも、愛情過多の母と薄情な母と二極が増えているこの頃。その根幹は、
「妻に愛情を注がない夫」という中核問題がある。
それは、資本主義社会が男に要請する一つの振る舞いであろう。仕事か家庭かといった
選択が許されるなら、ホモソーシャルな日本では仕事が優先される。また、家庭の事柄は
大事ではなく、小事として扱うというのが現代日本の有り様だ。そりゃ、熟年離婚もする
事だろう。

戦後日本の家庭の有り様は、どこかいびつである。
夫は会社に忠誠を誓う戦士であり、妻は子供を兵隊に育てる訓練士だった。
その時、女性たちは息子や娘を自己実現に利用する一派と、社会へと繰り出し子供に
あまり関わらない薄情なキャリア志向派になった。このグラデーションによって、
子どもたちは、マザコンになったり、疎外された子どもたちー俗に言うアダルトチルドレンー
になったりする。

このような核家族形態で戦後75年を過ごしてきた結果がいまだ。

夫に感謝こそすれど、心のスキマを友人たちとの関わりで埋めてきた女性たちが
子供に入れ込み、子供らが巣立ったあとは、韓流やジャニーズなどに肩入れする人々に
なった。それは子供らですら変わらない。

夫を男として扱わない母親をみならったせいなのか、なんのか、男も女も一部は、
アイドルなどの虚像を追う事にかまけている。自分を棚にあげて、他者と関わると
一方的なイメージの押し付けになる。その対象としてのアイドルが一世を風靡している。
そして、その子どもたちは青春期以後も、大きなお友だちとして、子供向けコンテンツを
消費し続けている。あるいは、アイドルに性を見出し、その理想化された存在に情熱を
注ぐことで、若いエネルギーを発散させているわけだ。その背後には、実社会では、
評価されない事、自分の存在意義を見いだせないこと、疎外されているという心情が
隠されている。隣の子に夢中な人がどうして、アイドルに夢中になるのか。そういう事だ。


湯山氏はさらに続ける。女性たちは、シンデレラ幻想を内面化していると。
だからこそ、努力して得た地位において、周りを見渡すと格上の王子を探して、金と
権力と既得権をもつ親父と不倫をすることは大いに有り得ると看破する。
実は彼女ら自身が、努力の結果として、<王子>になっているのだから、か弱い草食男子を
恋の相手として受け止めてみればいいのだが、彼女らは幻想を捨てられないために、
そんな事をするくらいなら、宝塚や韓流に生きるから独身でかまわないと嘯くわけだ。

一方で、男性は何にとらわれているか。それは競争だという。
競争が内面化されている男性は、ほとんどが鬱々とする。そりゃそうだ、誰かが勝てば
誰かは負けたのだから。こうして幸福になるには、なんらかの競争に勝たねばならぬと
男どもは競争を内面化してしまう。そして、女性のシンデレラコンプレックスよりも
厄介なのは、それに無自覚という事だと湯山氏は指摘する。なるほど、無意識ほど怖い
ものはない。

私のブログをつぶさにみれば、まさにこの競争主義からの脱却の流れがある。
事実、脱却できたかといえば、なんとも中途半端なのだが、それでも、私はこの競争主義に
自覚的になってだいぶたつ。湯山氏は丁寧に言葉をつなぐ。男はそれに気づいても、
常に敗者になるという恐怖によって、競争原理主義に舞い戻るのだと。

既得権益とは、つまりは一度、勝者になったものが別の競争にさらされて敗者になる事を
予防するという事であるという。なるほどうまいことを言うものだ。学歴という競争を
勝ち抜いた人々は、その勝ちという事実をずっと確保するために組織を作り、社会を
作り出してきたのだ。

だからこそ、日本では学歴主義がまかり通る。そして既得権益を得られなかったら、
きつい人生になるという事も分かっている。いわゆる「立場主義」であろう。ポジション
争いであろう。それを確保するのは結局、競走なのだ。

私は中途半端に自覚的なので、競走が見え隠れするものから身を遠ざけようとする。
だが、時代がそれを許さない。競走を避けた途端に敗者とみなされ、そのようにしか
扱われないのがこの日本の状況だからだ。むろん、私は今後も抵抗していく。

競走にも良い面があるという主張はある。その背後にあるのは、生存競争という概念であり、
経済成長といった現俗的な成果の事だ。だが、その競走を内面化したせいで、ひねくれた
人間がふえ、一発逆転を狙うもの、諦めるもの、絶望するもの、逃避するもの、逃げるもの
を生み出す。勝った人間もまともとは言えない。勝ったことを自慢しつづける人生のどこが
幸福なのか。

勝ってない者が何をいうか?と主張する人もいるだろう。その思想こそが、不幸の源泉である。
私は、あなたが不幸でも一向に構わないが、その不幸を振りまいたり、たまたま才能ある子と
して生まれた事をネタに、自尊心を愛でる事を是とはしない。迷惑なので勝手に自慰をしてて
ほしいと願うのだ。

湯山氏はいう。現代社会において健康的に競走を使うというのは無理だと。
そりゃそうだろうと私は、激しく同意する。大企業病とは、挑戦し失敗することが損をする
という問題である。競走を駆動すれば必ず失敗が生じる。その失敗したものは社内的に損を
するだろう。なぜなら、何もしなかった人間が出世するのだから。挑戦を評価しないならば、
競走で負ける事を肯定できはしない。そりゃ、大企業は傾くはずである。

もっとも響いた考察は、現代の矛盾についてだ。
産業社会は経済競走という中で、どうやって相手を打ち負かすか、自分たちの利益を確保し、
他を排除するかというコンセプトで行われてきた。ところが、ネットはむしろ逆である。
生産物が電気代やインフラという問題はあるものの、大量にコピー可能となった自体では、
むしろシェアというコンセプトこそが本流なのだ。競走主義を超えて、もしくは脇において、
自由に使用するというサービスから利益を得るというのが現代のビッグビジネスである。

競争しろといいつつ、サービスはシェアしてねという矛盾だ。製品がバーチャルであるという
事が一番の違いだろう。実物を売るにはどうしても有限性が問題になるが、ネットビジネスは
無限性が前提になる。だからこそサブスクリプションという売り方が大事になるのだろう。
そして、ビジネスが性善説を基盤として、なにかあった際の保険で構成されている。

日本でイノベーションが起こらないのは、創造性にサポートがないからだという。
確かに、アイデアがあってもそれを自己資本で起こすのは大変だ。一方で、大企業では
多くのスタンプラリーがあり、決済が降りるかどうかという関門が立ちはだかる。
こりゃ、日本ではジョブスは生まれない。


湯山氏が男が競走にこだわる要因を端的に説明している。
勝ち組が得られるものとして、
①権力を発揮できて、金を得られる地位
②人々に称賛されて、尊敬される能力
③女性からのモテや人気

かつては別々だったものが、昨今の事情により、結局金がなきゃというホンネが
表に現れたことで、①に向かうことになった。②の職人は金がなくてなかなか厳しいし、
③にまっしぐらだとチャラ男という立場に追いやられてしまう。現代では、①を得ること
で②と③がついてくるかのように思われている。ホリエモンなどがその例だろう。

結局、金だろという言明は、上記を踏まえたら当たり前なのだ。

そして、①はなんとなく努力でなんとかなりそうに見えるからやっかいなのだ。
学歴とリンクする①は、努力の成果としてみなしやすいからだ。だが、実態は遺伝が
かなり話を占める。IQは明らかに遺伝を反映している。ならば、努力でというのも
程度問題なのだ。

つまり、この競走というルールは、本質的に大部分の人にとって不幸な制度である。
ただし、もしかすると自分もああなれるという幻想に生きるという意味では、希望とも
いえる。人は希望が見えない時に、最大の不幸を感じるのだから。

とはいえ、勝てるなら、それを求めるのも人の性だろう。
そして結局、勝った人間を褒め称え、素晴らしいと称賛する。人とは所詮、そんなものだ。
ここは完全に諦めるほかない。

では、こんなに競走好きの男どもは、ごく一部を除いて本質的な敗者である。その鬱憤は
どう晴らすのだろうか。。その方法は伝統的である。一つは、男性の地位の安定化だ。
つまり終身雇用。これに浴する事で、敗者ではあるものの、敗者ではないという感覚を
得ることが可能であった。まあ、いまや非正規が増えた現代では、この負け感が強く
出すぎているわけだが。もうひとつは、女性の存在だ。会社でも家でも、女性という弱い
立場の人間いることで溜飲を下げていたのが日本のオヤジたちだったというわけだ。キモいな。

これが昨今のネトウヨ的存在とつながってくる。現代は女性も実力である程度活躍する。
正社員の女性も少なくない。非正規の男性にとっては、さらなる下を探した結果が、
排外主義であり、ヘイトスピーチなのだ。それは、定年したオヤジたちも同じこと。
誰も尊敬してくれない存在という鬱憤が、日本社会への過大な従属と、その光を増進するための
スケープゴートの形成なのだ。悲しすぎる。

このようなエートスなかで女性が社会進出するのはかなり面倒だろう。
そりゃ、いろいろ愚痴も出てくるし、急先鋒としてのフェミニズムも生まれるだろう。
彼女らにとってオヤジたちは最悪な存在だからだ。

女性にとっては、会社の名刺がものをいうというソーシャルではなく、むしろ、
既婚かどうか、子供がいるかどうかという伝統的な部分に価値が存在する。
だから、何をしているかという部分における優劣をつけないフラットさが女性同士にはある。
ある意味で、価値観がばらけているとも言える。

湯山氏はこのような女性ワールドに男性が関わることで、競走モードから離脱をはかるのは
どうかと提案している。

それにしても、湯山氏の話を読んでいると、男には競走という本能があるかのようだ。
生物学的にみれば、男の競走とはとどのつまり性淘汰である。モテるためにどうするか。
ほとんどそこにしか意味がない。競走で勝つということの本質は、生きるためという切実さ
というよりも、異性にアピール出来るかどうかなのではないかと私は思う。

さて、みなさん、自分がどれほど、競走を内面化しているのか、この連休中に考慮するのも
良いのではありませんか?
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