邪悪な人々ー隠蔽する心理ー [思考・志向・試行]

あなたは、邪悪な人にあったことがあるだろうか?

不機嫌な人や、短気な人、いわゆるDQNなど、一見して悪人というのは実は数少ない。
むしろ、邪悪な人はいわゆる「普通」なの中にいる。

例えば、不当な要求をする人々がいる。
それは無茶ぶりの上司だけではない。過剰な待遇を求めるモンスターや、
いつも不機嫌な人などがいる。彼らは、その行為を無意識に行っている。
そして、周りを自分の思うように動かすのである。これは、小さい頃からの癖である。
つまり、親の育て方が間違った結果である。

ありがちなのは、ダダを捏ねる事で、大人たちを操ってきた人々が
そのまま大人になることである。男なら暴れることで、女性なら泣くことで、
自分の思うようにする。周りが困る事を行い、それによって「権力」を駆使するのである。

些細なことに思うかもしれない。だが、人の社会では、一見すると同情を引く事や
心配させる事で、相手の感情を確認したい人々がいる。自分への興味を確保しようとする。
それがこじれると人格的問題をおこし、精神疾患として認められるほどになる。

多かれ少なかれ、誰しもが自分に注目してほしいと考えている。
だが、それも幼児期において顕著であって、その後は自分への視線は自分によって
まかなえるようになる。それが大人の健全さだ。むしろ、他者へ、周りを心配できる
人間になる。それが成熟というものだ。自己よりも他者、近未来よりも、遠い未来の
あり方を想像できるのが、健全な大人だ。

ところが、邪悪な大人たちは違う。彼らの目的は、自己愛を満たすこと。ナルシシズムである。
恐ろしいのは、彼らの行動の主目的が自己愛であるために、周りをみているようで見ていない
事だ。彼らは他者の悪口を生業としている。なぜか。それは相手が自分の思うように振る舞わない
からである。それは言い換えれば、自分にとって都合の良し悪しが他者評価そのものだからだ。
そして、大抵彼らの要求はワガママであり、他者のためでなく、自己のためであるがため、
反感を招く。その反感に対する反応が「あの人は意地悪である」や「あの人は冷たい人」である。

よって身の回りの他者への悪口ばかりの人は、自己愛を満たそうとしているのかもしれない。

一方で、昨今では、このような自己愛を満たそうとする人間で溢れているがために、
マトモな人が”悪口”を言わざるを得ない状況である。自己愛に生きる人間は、他者を
自分と同じ存在であると考えないために、いいように使おうとする。そして、頻繁に
事実を歪めて捉える。これが様々な点に及ぶことで、危機的な状況を招くのだ。

邪悪というのは、悪いことをダイレクトにするだけではない。
むしろ、自分を守るため、取り繕うために、他者をスケープゴート化することだ。
要するに悪とは「自己の快適性を守るために、事実を無視するか、歪めて捉え、
その解釈を他者に強要し、その自己矛盾の解消を弱い誰かになすりつける」という事だ。

例えば、親が子に要求された時、それを口約束したとする。守るつもりもない約束だ。
いや、その時点では守るつもりだったのかもしれない。だが、いざ親がそれを果たさないと、
子供になじられる。なじられた親はその不誠実を謝るべきだろう。しかし親はこんなことを
いったりする。「お前がいい子にしてないから、それは果たされないのだ」などと。
つまり、親の過失を子供に責任転嫁するのである。

同様に、会社内でも、上司がとある事業計画にGoを出したとして、それが頓挫したとする。
すると、その上司は、その事業を提案したAという部下に責任を押し付けたりする。「君が
推すプランだったじゃないか!どうしてくれるのだ!」などと。

これがもっと酷くなると、成功すると自分の功績、失敗すると誰かのせいという事になる。

更には、上司は決定しないようになる。責任を取りたくないので、意思決定を回避する。
部下がAプランで行くと決めた事を、追認ないしは黙認するのだ。すると、責任は部下が
追う。だが、部下には決定権はない。そういうおかしなコミュニケーションが発生する。

ここに含まれるのは、とにかく「ウソ」である。そして取り繕いがある。
また一方に、事実を歪めて受け取るという行為がある。その動機が自己愛に由来する事が
しばしばあるのだ。そして大抵は、歪める事実には都合の悪い真実があるのだ。

邪悪さは、ウソから生じている。それは意識的なだけではない。むしろ無意識的に
さらっと出てくるのだ。それもあたかもまっとうに聞こえるような言い訳が。
それを我々は許容してしまう。場合によっては、そのウソに乗じることすらある。

とりわけ、個人を超えて集団において我々はどうも未熟になる。
個々人をみれば良心的であっても、集団になると愚かになってしまうのだ。
それが、企業や組織、国といったものの倫理欠如を招く。

その理由はなんだろうか? おそらく単一の答えではない。様々な要因があるのだろう。
精神科医M・スコット・ペック氏によれば、
・分担による専門家(責任の拡散)
・従属による責任転嫁
・ストレスによる退行
・選抜されたメンバーの偏向
・集団的ナルシシズム(集団維持のために)

こういったものが発揮された時、集団もまたウソをつく。
たとえば、日本がアジアに侵略したという事実を隠蔽し、その結果についても
意図的に子どもたちに教えない。この背後にあるのは何か? 

ことの本質からいえば、集団の主目的との矛盾は、集団の有り様を妨げるからに
他ならない。国がどうして戦争時にウソをつくのか。それは、国というものが
「戦争のために存在している」という本音を隠すためでもある。そもそもが隠蔽
されているがゆえに、集団の目的遂行時に、ウソが発生するのだ。

子どもたちに、国というものの存在は争いを起こすためにあるときちんと教えないが
ために、なぜ戦争を起こすのかを理解できないままにしてしまう。それは大きな欺瞞である。

同様に、集団の本質は「集団状態を維持する事」である。それが目的化しているのであって、
集団が何か役立つことをするとかではないのである。

同じく、個人もまた、個人が存続する事が本質だ。その目的のために我々は行動する。
これが本音であって、それ以外は些末なことである。仕事による自己実現とか、金を得る
事で持てる快楽とか、性愛による自尊心の確保、あらゆる場面において、個人が存続できる
かどうかだけが、問題となる。

一方で、社会にはルールがある。そのルールを内面化し保持するには、どうしても、
個人の欲求は制約が加えられる。あらゆるレベルにおいて同様なのだ。その制約、
つまり欲求の抑制は、個人内においてすら困難である。だから、人々はウソをついて、
その欲求をマネジメントする。欲求をなかったことにしたり、他人を利用して、欲求を
実現したり、自己の欲求を無意識によって実現する。これをひとえに邪悪という。

そして、その個人がまとまり集団化するとますますマネジメントは困難になる。
集団の欲求を抑制する機構はあってないようなものだ。国という集団において、
国の存続以上に大事なものなどない。国の内部に国存続可能性を抑制する作用を
持ち続けられるだろうか? 法律や憲法は、国単位の抑制機構としても意味をもつ。
だが、しばしばそれは無視されるだろう。なぜなら国という役割が危機に陥ってる
からなのだ。存続できなければ、法律や憲法自体が無意味になる。だから、それを
超えて、国は欲求を実現しようとする。

その国の内部では、分担がおこり、責任は分散する。個々人は国の方針に不賛成でも、
不満でも、国はその存続のために有効な行為を非道にも行うのだ。そして、そのためには
嘘を付く。個々人の欺瞞を封じ込めるウソをだ。たとえば、日本はアジアに侵略したの
ではない。欧米諸国からの解放のために戦ったのだと。これを100%の嘘とは断定できない。
だが、事実は、日本がアジアを攻め、そこに第二、第三の日本を作り出そうとした。その
行為自体は否定できない。その目的がどうあれ、国というのはそういうものなのだ。

大事なのは、国が存続しているということは、どこかで手を汚したという事実である。
なぜなら、国とは戦争に勝つために作り上げられた組織なのである。その組織の存続とは
手を汚すということと同義である。ならば、国存続にあたって、なんらかの殺戮が
あったはずなのだ。

ところが、自分がそのような責めを追うという事を理不尽だとし、自分は潔白なのだと
思う人々がいる。それは原理主義であるが、それを信じてやまない人々がいる。
それはワガママというものである。自己愛に過ぎない。汚れた自分は愛せないという
論理から、自分は汚れていないと夢想する。その嘘こそが、悪を生み出す。

かつての先祖が責めを追う事。我々はそれを受け入れる必要がある。
そして、その責めに対して、今の我々に何が出来るのかを考えるべきなのだ。

自分は悪くない。そういう思想に固執し、自己愛を満たす事に汲々として生きる。
それは事実を歪めている。個人という意味では悪くない。だが、国というレベルでみれば、
残虐な行為があった。それは紛れもない事実である。その直接的な責任を子孫が担うべきか
どうか、それも含めて、解決を探らなくてはならない。それにはともあれ、その事実が
あったことを受け止めなければならないのだ。

さて、もう分かったであろう。
邪悪さとは何かを。事実から目を背け、その事実を亡き者にする事であり、
その責めを弱いものに押し付ける事である。我々には残念ながら、多かれ少なかれ、
責めをおうだけの事実がある。まずはそれを直視しなければならない。

ごく普通の人々こそが、邪悪の源泉なのだ。


【追記】

国というものが残虐性を担保する組織なのだとしたら、
ネーションステートはどんな美辞麗句を駆使しても、その欺瞞から逃れられない。
そういう結論をここで得たことになる。

つまり、国に属する人間が、残虐性を否定するならば、必ず欺瞞生じるという事である。
欺瞞の解消には、2つの道しかない。現状の国というものを保持するならば、人々は
残虐であることを肯定しなくてはならない。もう一つは、現状の国を解体し、残虐性を
否定した形で国を構築しなくてはならない。だがそんな事は可能だろうか?

現状において国の形態は世代を超えていかねば変わらないだろう。
その意味では、現在は残虐性を肯定する国に住むことになる。もうちょっといえば、
本音では残虐性を承認しつつ、建前ではそれを否定する組織という事だ。

この形態の問題点は、はじめっから存在する矛盾である。
国という存在自体が矛盾で生まれた事になる。我々の良心は、汝殺すことなかれである。
だが、国の目的は敵を自己愛の元に殲滅せよである。まったくの矛盾なのだ。
この矛盾がある限り、我々は決してゴールに辿り着くことはない。

残虐性を廃した国は可能なのか? おそらく無理だろう。他国から侵略をナシに出来ると
思わない限りは。国連とはそのために発足したが、果たして現状において残虐性を廃する
事は難しいと言わざるを得ない。

では、残虐性を肯定する国は可能なのか? それは個々人の自己愛と正面衝突する。
自分は事があれば他者を容易に殺戮する存在であると自己認識しなければならない。
だが、そんな事をすれば、暴力に怯える不安定な人間ばかりになる。いや、実際問題として
人間はそんなふうに出来上がってないというべきかもしれない。日本兵の多くは、戦争の
無残さに沈黙したことがその証左である。

つまりいくもかえるも、袋小路である。
残忍性を保持する国を、良心をもった国民で構成している。これが事実だ。
もう一度繰り返すと、
・残忍性を肯定すると良心をもつ個人は矛盾に苦しむ。
・残忍性を否定すると、国という存続は困難になる。

大抵の場合、我々は都合よく切り替える。
つまり、国の問題を取り上げるときは、残忍性を肯定する。防衛に力を注ぐということは
そういう事だ。一方で、個人の問題をとりあげるときは、残忍性を否定する。誰かがお前は
残忍だというと、狂ったように否定するはずだ。欺瞞を保持したまま矛盾を生きる。

前提が矛盾していれば、その内部の人は問題に直面するのは明らかなのだ。
現代人は、明に暗にこの矛盾に揺さぶられている。

先の戦争によって、日本国民のほとんどが、戦争を否定した。つまり国の残忍性を
否定した。そして、戦後は残忍性を廃した国が作られるはずだった。だからこその
憲法9条である。だが、まるで結果は違った。むしろ、その理念が高潔であるために、
強い強い自己矛盾を持つに至っている。

朝鮮戦争が始まると、GHQは日本にそれとなく暴力装置を作り出した。
そして結局、自衛隊になった。その存在自体が欺瞞であろう。
日本は戦後、人類における実験だった。国の残虐性をなくした組織は可能かどうか。
だが、その思惑は小さくしぼんでしまい、結局、普通の国になった。つまり、
国が残虐性を保持し、個人は良心に生きるという形だ。

安倍内閣を始めとして、憲法改正論者の主張は、なんならこの矛盾をなくそうという
試みに一見すると見える。だが、全然解決にならない。なぜならば、残虐性を保持する
国家というのは、過去に戻る事である。つまりありきたりの国になることだからだ。
そして、国レベルの残虐性保持と、個人の良心の間に葛藤はまるまる残る事になる。

まあ、彼らの主張を押し通していれば、何世代もあとには、個人の良心は溶けてなくなり、
残忍性をを保持した国と、残忍性を保持した個人という組織になるのかもしれない。
いや、極右の人々はまさにそういう国を志向しているのである。個人は兵隊であり、
平和時には田畑を耕していればいいと。だが、いざとなったら戦えと。国という体制側の
人間のために。

もっといえば、彼らの薄汚いところは、自分たちは手を汚さずに、残虐性は他人に押し付け、
そこで生まれてくる利益を貪るという腐った点にある。もはやヒトとすら言えないだろう。
だが、残忍性を肯定するとはそういう悪魔になり果てるという事である。

もう一方はどうだろう。
残忍性を廃した国が生み出せるだろうか。60年代ヒッピーはそういうものを想定した。
残忍性を持つ人々はシニカルに、そういう思想を「お花畑」として非現実的なものと
して批判する。だが、我々はそういう事をするかしないかの選択する意思がある。
戦争は自然現象ではない。侵略は自然現象ではない。

うまく想像できないのは、結局、国というものを仮定しているからではないか?
私がここ数年考えているのは、そのことなのだ。国というものが存続することは、
人類における自己矛盾の源泉なのだから。

だが、それを乗り越える手段がありそうもないのもまた事実かもしれない。

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