東大卒の恐怖 [思考・志向・試行]

高度経済成長がピークに達した頃、受験戦争もピークに達した。
いや、まだあいも変わらず受験戦争をやっている。

多くの人が傷つき、そして学校を恨むようになる。
どうしたって勝者はごく一部なのだから、知性に対してネガティブな感情を植え付けられる
人が大半になろう。その一方で勝者は勝者で、「知性化」の権化のようになり、
いわゆるオタク自慢大会になりがちである。

「おまえ、これ知っているか?」である。知識の過多でマウントを取るわけだ。
まあ、どうでも良いことだ。

さて問題はここからだ。
多くの人は、つまらない授業をなんとかこなして卒業する。
それは卒業のための勉強であり、勉強などマトモな人がやることではないと学ぶ機会に
なってしまった。だから、日本では学部生で世に出て就職するというスタイルが
もっともスタンダードであることになっている。もちろん、お題目に過ぎないが。

大学進学率もあがり、いまや半分は大学へ行く。
それでも半分である。

こうなると、ますます「知性」に対する怨恨が出てくるだろう。
ちょっとしか違わないあいつが、大学に行き、こっちは家庭の事情で高卒。
それでいて社会に出てみれば、あいつがより高みから指示してくる世界。
心地が良いわけがなかろう。

こうして、この社会は勉強ということに意味を感じつつも、「あ、私は適当に
やり過ごしてきましたー」という態度をとっておくのが賢いという事になった。

それでいて憧れもあるのか、テレビではクイズ番組がいまだに流行っている。

このような状況を長く続けていると何が起こるのか。
それは、真っ当な知性のあり方が失われる事である。

方や、知性的な事への諦めと、その反動による反知性化が進んだ。
認知的不協和からいえば、反知性化は多分にもっともなことなのだ。
「あのとれないブドウはすっぱいのだ」との類比で「わからない勉強は意味がないのだ」
という感情が知性を小馬鹿にする風潮まで生み出した。

かつての理性主義はほぼ21世紀になって敗北したと言って良い。

その一方で、東大である。
受験を勝ち抜くのは、やはり大変な作業である。
地頭の良い子が、数年間かけてようやく合格するような大学である。
いや、本当に出来る子がいて、同じような労力でもずっと結果を出す。
そういう人が結局は、東大に入るのだ。

こうまでして入った東大。中身は大方の大学と変わりはない。
むしろ、知性化の権化たちがいる世界である。
オタクに磨きがかかっていく。そうして突出した知性になる人が出てくる。
これは喜ばしいことだ。

一方で、受験を勝ち抜く事で自己承認を得たいと思っていた人々も少なくない。
受験に成功しなければ死んでしまうかのような思い込み。そのような激しい精神的な
病理がなければ、凡人があの受験をクリアするのは難しい。

そうして、ごく一部のギフテッドと、多くの精神的病理の持ち主たちが
集まる大学が東大なのだ。

翻ってみれば、あのどうでも良いような問題を解くために身に着ける事が
できるというのは、人としての感性を失っているからこそできる事だ。
繰り返すが、人として欠損しているからこそ、あのような受験をやり遂げられる。

どれほどの学生が本当にやりたいから、それをやったのだろうか?
周りが褒めてくれるから、自分が自分を肯定できるから、そういった心理を抜きに
好奇心だけで勉強できていたとは思えない。

そうして、なんとか入った大学も卒なくこなして卒業し、社会へと出ていく。
この時、問題が大きく発生する。なぜなら社会では、あの反知性に足場を置く人たちが
半分はいるのだ。全く意見が合わないこともザラではなかろう。だが、多勢に無勢、
高学歴な人々は脇に追いやられる。ましてや東大など更にだ。

こうして東大生はひっくり返ったコンプレックスをもつ。
自分がいかに「普通」であるかをアピールするようになるのだ。
彼らは自分の特殊さを十分に理解している。だが、心は引き裂かれている。

才能のある子が、受験という外部から与えられたレールをひた走った。
必ず正解がある世界をだ。

何が起こるのか? そう、正解の無い事ができなくなったのだ。
もしくは正解以外を語れない人間になったと言っても良い。

彼らはある意味で可哀想な人達なのである。人のあり方としてはおかしいのだ。

では、東大を出た社会人は何をしでかすのか。
現在国会には、139人の東大出身議員がいる。衆参で定員が713人なので、
約20%が東大出なのだ。かなりの人数である。

ここに、早稲田、慶応、京大を加えると、およそ半分になる。
さらに、大卒を全部足せば、95%ほどにもなる。

つまりだ、この国の運営は大卒がやっているのである。
世間の半分は高卒にもかかわらずである。

官僚についても同様だ。上部にいくほど東大が多く占めるようになる。

先にも述べたが、普通ではない人として何かが欠損しているからこそ、
受験という場においてパフォーマンスが発揮出来た。そのような人々が
この国をハンドリングしている。

その心根にあるのは、「自分は勝ち組」であろう。
受験戦争に勝ったのだ。そして知性を十分に認められたと思い込んでいる。
そういう人間たちが政策を考えたらどうなるか、自ずとしれたことではないか。

現代の社会が、新自由主義を標榜するのは、当然の理になる。
新自由主義は、政策として規制緩和、民営化、社会保障削減を是とする。
それを支えているが、受験エリートたちという事なのだ。

彼らは過剰な競争に打つ勝つほかなかった。そのような心理的状況におかれていた。
普通なら、「こんなくだらない問題とく必要ないよ」となる事でも、
それが解けることで、他者から優越できた。いや、自分の居場所を確保できたのだ。

そんな正解主義の人々は、正解がある事をやろうとする。というかそれしか出来ない。

だから、社会が是とするアメリカ経済をひたすらにコピーしようとする。
そこにシカゴ学派の連中らが、まさに日本に侵略したのである。その代表例が
竹中平蔵であった。

自己責任論を国がさらっと口にするのは、「勉強した俺は偉い、しなかったお前が悪い」
という態度そのものである。何のことはないのだ、彼らはずっと学生時代を引きずっている
だけに過ぎないのである。そこには、他者との協調とか協力といった概念は存在しない。

なにしろ、他者が勉強ができるように手助けすれば、自分の立場が危うくなるのだから。
実にケツの穴の小さい人たちなのだ。

メリトクラシーは、結局、国をこのように傾けていく。

国の存続というものを真っ先に考えるはずの公務員がたちが、
アメリカというお手本をトレースするだけのコピーマシンになったのだから、
やむを得ない。日本を良くすると信じて、日本を破壊し続けているのである。

恐ろしいのは、まさにここである。彼らの頭の中では、メリトクラシーの徹底こそが
日本を良くする秘訣だと思っていることだ。要するに、自分が「成功」した方法こそが
まさにその手段だと言いたいのである。

私からすれば、彼ら自体がある意味で失敗作なのに。
自分がまさか失敗作だなんて、これっぽっちも思うことが出来ないので、
日本の方針、ベクトルの向きはちっとも変化しないのだ。むしろ、そちらに向かって
先鋭化していくのである。

私は、京都大卒のネトウヨと絡んだ事がある。
メリトクラシーは、誤った進化論的思想を内面化するらしく、
弱肉強食の世界で彼は生きていた。

ふたことめには自分がどれほど勉強したのかを自慢する。
何十年も昔の受験の話をいまだに口にする。

どれほどこだわっているのだろうか。怖いくらいである。

受験エリートたちがどうして、戦争へと向かおうとしているのか。
背後にある経済的パワーバランスというのがあろうが、それ以上に、
彼ら自身がそれを求めているように見えるのだ。

受験に勝った自分たちは、経済でも政治でもうまくやれるし、勝てるのだと思っているかのようだ。

はっきり言って愚かである。
そして可哀想な受験の犠牲者なのである。

何が大事なことか、もはや日本の官僚たちは分かっていない。
人がどうすれば幸福になるのかという視点がごそっと抜け落ちているのだ。
なぜなら、彼ら自身が幸福とはなんなのかを全く知らないからなのだ。

幸せとは、自分の思う有り様を、そのまま出せることである。
そこに目的など無い。あるのは方向だけだ。
社会が是とするレールを走った人間こそがもっとも幸せから遠いのは間違えない。
親が認めたから、友達が認めたから、同僚が上司が、社会が認めたからOKというのは
幸せとは無関係である。

幸せは当たり前がだが、自分が感じる事、感じるという行為である。
何かを得る事でも所有することでもない。

コンビニでうまい棒を買って食べる。人はこれで十分に幸せになれる。
友達とダベりながら、ダラダラする。人はこれで十分に幸せなのだ。

日本が世界との戦いに勝つとか、NATOに加勢するとか、アメリカから武器を爆買いするとか、
安倍晋三を神様に仕立て上げるとか、そんなことは幸せとは関係ないのだ。むしろ、
幸せを阻害する要因ばかりである。

そういうことが分からない人間が、国をいじっている以上、我々はそのとばっちりを
くらう事になるのだ。

残念だが、そういう事が続いていく。東大卒であっても、山添氏のように良識派がいる
事は知っている。できることなら、そういう人が今後増えていくようになって欲しいものだ。



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