誰を信用するのか [思考・志向・試行]

多くの人は、人を全体的にみてしまう。
そして、それこそが、いろんな問題を生じるきっかけになる。

短絡的に、この人は良い人、この人は悪い人。そんなふうに判断する。
これは人の考え方のくせだ。人は生き物なので、安全か危険かを見極める。
それが、良いか悪いかにつながる傾向を生む。

その良し悪しは、単純なことで、自分と好みが合うかどうか程度のことである。
もしくは利害があうかあわないかだ。


そして、惰性的に味方は正しく、敵は間違っていると考える。
これもまた人のくせである。
もちろん、論理的には全く整合性がない考えである。

味方でも、間違えるし、敵だって正しい場合がある。当然のことだ。


ところが、これを認められない人は少なくない。
それどころか、これが素直にできる人は特殊能力と言っても良いくらいだ。

どういう事か。

人には良い部分と悪い部分がある。これを知るという事だ。
そして、同じように、考えに正しいものと正しくないものがある。
これは、個人内に同居するものである。

特定の事柄については正しい認識がある人も、違う事柄については誤った考えを持つ。
当然である。人は完璧ではない。神でもなければ、そんなことは不可能である。

だが、多くの人はそうは考えない。考えられない。
味方が、間違っていて、敵が正しいとき、それを素直に認められる人は極稀だ。

こういう事ができる人を中国では、君子といった。君子豹変すという言葉は、
間違えをすぐさま正せることであり、間違えを間違えと認められるという素直さのことだ。
考えをコロコロかえる事だと思っている人がいるがそれは間違えである。

多くの権力者は、君子ではない。だから、君子たれと言われるのである。
そして、例にもれず、現代においても、大抵は君子ではない。
そう、間違えを認められないのだ。とりわけ権力者はそういう手合ばかりだ。

なぜなら、そういう人間だからこそ、権力を手中にできるからだ。
自分がただしいと信じ込める人間だからこそ、他者に命令できるからだ。
そこに悩みがない。人格が破綻気味だからこそ、集権的な権力という座に座っていられる。
鈍感を超えて、無神経というべきかもしれないが。

ともあれ、そういう人間も、ときに間違える。当然だ。
問題はその間違えを認め、正せるかどうかである。

そして話を戻すと、味方が間違えたとき、それを指摘し、間違えを正す助言をする。
これが友である。ところが昨今は、味方が間違えても、それを批判されていても、
間違えの指摘自体を否認し、むしろ、批判行為が間違えだと言わんばかりなのだ。
そうしておいて、自分はその人間の友だという顔をする。

ゴッドファーザーは、まさにこのような人間の権化である。
味方のあやまちは、すべて隠蔽する。そのためならば、手段を選ばない。
だから暴力沙汰になるし、常に抗争することになる。はっきりいって不幸せそのものだ。

ところが、ときに、このような行為を美化し、こういう態度を「愛」とか「友情」とか
呼ぶ人間たちがいる。味方を守るという事は、大事なことが、味方の誤りを隠蔽するのは
明らかな欺瞞である。欺瞞を封殺すると、その歪みがどこかへ加わるのだ。

こういうとき、誰かが死ぬ。物理的に死ななくても、精神的に死ぬ。
事実を隠蔽するのは困難なのだ。人の口に戸は建てられぬ。

安倍政権は様々な隠蔽をした。およそ不正らしきものが多く発生しただろう。
そして、味方であるという意味において隠蔽もした。それが明るみになったのが、
モリカケ問題や、山口氏のレイプ問題であろう。およそもっと多くのことを隠蔽した
に違いない。その軋轢は、赤木氏の死を招いただろうし、多くの人々が左遷させられたり、
報復を受けた可能性がある。

これが問題なのだ。

味方の粗相を権力でなかったことにする。これは政治腐敗の始まりなのだ。
味方でもあっても、だめなものはだめである。

自分の子供が、悪さをすれば、その悪さに対する償いはしなくてはならない。
償いをさせることが親の努めである。でなければ、ずっと逃げ回る人生になってしまうだろう。

私には、権力者という人間たちが不幸に見える。それはときに、怪しいことをする
必要があるからだ。失敗を認められないという可哀想な人々は、つねに自分たちが
正しいと主張するか、隠蔽するほかない。

安倍氏はきっと八方美人だったのだろう。多くの人に利用された。
そういう人だったはずだ。それは裸の王様である。安倍氏の失敗を、仲間が隠す。
そういう図式も多々あったのだろう。逆に安倍氏の周りの人間の失敗をかばう。
そういうこともあったろう。

現実は実にくだらない事しかやっていないはずだ。なぜならそれが人間だからである。

ただ、権力をもつものはその責任を取らなければならない。
味方の罪を、ミスを、失敗を、隠蔽するのは、ちっとも正しくない。
全く美しくもない。ただ、ただ、問題をよそへ移すだけの事になる。


きっと、私の文言を読んで、こう思う人もいるだろう。「なんて冷たいやつだ」と。
私はここに、左派と右派の違いを見出す。

右派は、仲間を重視する。その中身は殆ど関係ない。味方と思う人間はかばうと
決めている。それが右派だ。たとえ、犯罪をおかしても、かばうことだろう。
そういうマインドである。

左派は、理由を重視する。行為の中身が重要なのだ。どういう理由で行為が行われたのか
を問題にする。だから味方といえども、故意の犯罪は許容しない。むしろそれを批判する
くらいである。そういうマインドである。


どちらの集団が過ごしやすいか。間違えばかり仕出かす人間にとっては、右派が好まれる
だろう。実際問題、世の中の人たちは、間違えをおかす。その時に、行為の償いを勧める
人間と、何も間違ってないとかばう人間がいたら、どちらをよく思うだろうか。
安易な人間たちは、右派を肯定するに違いない。

一方で、右派にはルールがある。仲間になるという禊が必要なのだ。
そして、味方の外、つまり、敵には徹底的に冷たい。

なぜ政治的保守が、貧乏人や失業者に冷たいのか。それは彼らは敵だと認識
しているからだ。社会的弱者は、右派の敵なのである。なぜなら、彼らは右派集団に
貢献しないものと考えられているからだ。お荷物はいらない。それが右派の冷徹さだ。
だから、優生学志向なのである。役立つ役立たないというのが彼らの主眼である。

私は右派のこういうマインドが嫌いである。

左派は、事が起こると冷たい人にみえるだろう。当然である。味方を平等に理由自体で
対処するからである。過失であっても、必要ならば罰を下す。だが、理由もなしに
批判はしない。大事なのは理由であって、敵か味方かではないからだ。

いざとなれば、敵であっても、理由があれば非難することはない。仕方がない事について
あれやこれや言うことはしない。情状酌量を勘案する。弱者にも手を差し伸べる。
なぜなら、役立つか役立たないかではなく、社会の一員として、他者を受け入れているからだ。
味方と敵という冷徹なジャッジではなく、どういう理由で行動したかが問題なのだ。
本人が努力した結果、助けが必要ならば、助けよう。これが左派の態度である。


私が右派を好きではない理由は、自分の間違えを認めない傲慢さだ。
悪事を確信犯で行うのは右派である。それでいて罰をさけようとする。
自分の不正は問われない、私はそういう立場の人間だという傲慢さがある。
その傲慢さは権力志向となる。それは結局、暴力マンセーなのだ。
傲慢さを貫徹しようとしたら、最後は暴力の出番となる。
ゴッドファーザーをみれば明らかだろう。

暴力行為を私は唾棄する。諸悪の根源だからだ。

とはいえ、個人的な暴力は許容してもよいと思う。つまり喧嘩である。
気に入らない事があったら、殴り合うくらいは仕方があるまい。
そういうのは動物たちの性である。

ところが、すぐに右派は徒党を組む。問題が大きくなる。
個人的な喧嘩にすぐに介入してくる。これが右派の限界である。
味方がやられたら、やり返しにいかねばならない。暴力の無限ループになるだろう。
お前ら、一生やってろ。 これが私の結論である。

左派は、ルールで行動を縛ろうとする。
だから、どうしても綺麗事が多くなる。行為の理由が問題になるからだ。
左派は悪事を確信犯では行わない。悪事が善行とみなせるルールを作って行うのだ。
善の名を借りて、悪事をする。これが左派がおかす問題点である。

個々人が喧嘩をする。左派は理由を問う。その理由に依拠して
彼らへの応対を決めようとするだろう。その個人がルールを破っていれば、
それに従って、処罰されることになる。

そして、ルールを守らせることに対して最終的には暴力を発動する。
だからこそ、共産圏の国々では、ルール順守のための暴力が発生してきた。
国内的な制圧が生じる。いわゆる粛清である。過激な左派はルールの名のもとに
虐殺を犯す。

これもまた私の嫌悪するところだ。

極端な右派は、お前は仲間ではないと暴力を振るう人々であり、
極端な左派は、お前はルールを破っていると暴力を振るう人々になる。


むろん、目指すべきは中庸だろう。当然の帰結である。


現代日本は、右派になりつつある。お前は敵か味方か?と人に問う圧力がある。
そして、味方だと宣言する方が、いろいろ得である。

だから、仲間の考えが極端に気になる。空気を読むのは、味方であり続けるための
努力である。敵ないしはスケープゴートにされないためには、味方であることを
示す必要がある。それはときに、ルール破りの味方をかばうことだったりする。
だが、これが頻繁だとそれなりに気苦労があろう。

これをスムーズにやるには、ルールを自分たちの都合が良いように変えれば良い。
もしくはルールを無視すれば良い。

これが現に政治で行われている行為のマインドセットだろう。
つまり法の軽視と、人治主義である。押し付けがましいルールなんか無視。
味方を守るためなら、なんでもやろう。だって、それが正義なんだから。


多くの若者はこの世間的圧力のためか、大いにマインドセットが右傾化した。
その一方で、自分が役立たない人間になったらどうしようと不安でしょうがない。
もしくは、敵認定されたらどうしようと、自分を押し隠す。自分の素直なものを
だしたら、スケープゴートにされるんじゃないかと恐々としている。

結果、主流に反論しないのが処世術になる。声の大きなものに従うのが人生になる。
だって、結局得じゃないか、その方が。

仲間をかばう政権をみて、「まあ、そうだよな。だって味方なんだから。」と思う。
そこには、左派的なルールが重要という発想が希薄だ。
むしろ、ルールをクチするなんて、愚かだとすら思う。


時代はこのように流れている。私はそれこそが生きづらさの正体だと思う。
自分の思うところを口にしないなら、死んでいるのと変わらないだろうに。


最初に戻ろう。

誰しも間違えを犯す。ならば、間違えを認め、適切に処理するほかない。
そこに変な情状酌量など不要だろう。例え味方でも、だめなものはだめだ。

無欠な人はいないし、無欠な組織もない。間違えを適切に処理するために法があり、
それは平等に適応されるがゆえに、法の効力がある。それを現在の政治は
どんどん崩してしまった。失敗や間違えを認めずに隠蔽する事を繰り返した結果、
仲間は結束を固めたのかもしれない。だが、問題は何も解決していないのだ。

普通に批判する人が現れる。
すると仲間内で、批判者を攻撃する。だって仲間なんだから。

はっきりいって、見苦しいったらありゃしない。
安倍政権を始め、今の自民党政権は、見苦しいの一言である。

統一教会と安倍氏を含め自民党との深い関わりは、社会的には問題なのだ。
だが、それを認め、行動を変えるといった政治家は一人でもいるだろうか?

見苦しい言い訳を繰り返すか、知らぬ存ぜぬと繰り返す。

実に見苦しい。


大手メディアは強く言わない。なぜならば、批判を強めると例えば放送法による
放送利権を剥奪するというような暴挙が出てくるからだ。そして、お前らも仲間だろと
ささやくのだ。だったら、お互いに良いようにしておけば、利害は一致するじゃないかと
説得されるのだ。

右派的行為は、こうして見苦しさを常とするしかないのである。

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心理学を紐解く [思考・志向・試行]

心理学の教科書を読む。

社会心理学は、およそ戦争の反省という文脈で発展してきたがゆえ、
内容は、その関連であることが多い。

例えば、ミルグラムの服従実験。実験者が被験者に対して、電気ショックのスイッチを
どの程度強要できるのかという実験。初期の話では7割が指示に従ってしまうという結果だった。

その結果より、「人は命令を受けると(特に権威により)、その指示に服従してしまうものだ」と
いう考察が導かれ、戦争犯罪の一部は、命令により「仕方がない」ものとされた。

その象徴は、アイヒマンの裁判であろう。彼はアンナ・ハーレントによって「悪の凡庸」の
話題提供者になったわけだが、これは命令による行為は、多少とも酌量余地を残すという
流れになった。悪事を行ってしまったのは「命令」によるのだから、やむを得なかったという
話になる。

これ以外にも、ファシズム化する集団の心理に関して、集団極性化や内集団バイアスなどが
検討されている。集団極性化というのは、内集団における支配的な考えがますます強化される
ことだ。リベラルと保守の政治的争いを鑑みれば明らかだろう。お互いに自分たちの主張を
同じ考えを持つ同士でますます強めあっている。ネットの普及はそれを加速させた。
 また、そうやって考えが偏ると、今度は内集団を贔屓にし、外集団に対する無関心や排除の
考えが生まれてくる。まさにファシズム的傾向のことだ。

こういう社会的情勢があれば、これがいつか暴力となって社会対立を招いても不思議ではないだろう。
例えば、アメリカではリベラルと保守で社会的分断が顕著になっている。これは都市対田舎の
対立でもある。

いざとなれば、人々は分断された内集団と外集団で争いをおこし、戦争という段階になれば
否応なく命令されて、戦場に駆り出されてしまう。そんなふうに考えるのは自然だ。

だからこそ一部の人間は、防衛のために予算を割き、防衛のために、改憲をして、
暴力行為への対抗措置が必要なのだと考える。それを現実主義という。

だが、待って欲しい。暴力に対する暴力は、その結果において、偏見を自己成就させる
だけである。

内集団が外集団の悪口をいって、あいつらは非道なやつだと考える。
その非道な奴らが攻撃してくれば、「それみたことか、だから防衛が大事なんだ」というだろう。
だが、そもそも、内集団が、外集団に対してもっと寛容的に対応していたら、どうだろう。

親切にされたら、親切にしようというのが人間である。
嫌悪されたら、そのリアクションを通じて相手を嫌悪することになろう。
争いの原因はそもそも、相手をそのように扱ったからではないか?
そして、事が起こったことをもって、偏見が正しいというのは、論理が逆ではないか?

つまり、相手が嫌なヤツだから、争いになったのではなく、
相手を嫌なやつだと決めつけて扱っているから、紛争が生じたのである。
その紛争が相手を嫌な奴だという解釈の元になるのだ。予め相手を貶めたことで
その主張通りの事を引き起こすことに成功したというわけだ。

全くバカバカしい。だが、人はそんな事をずっとやっている動物である。
歴史をみれば、それはそこかしこで生じている。近隣諸国の民族に対して、
彼奴等は過去にこんなことをしてきたのだと子供に教え込み、互いに憎み合うように
洗脳し続けているのである。

ではなぜ、相手を嫌なやつだと思ってしまうのか。

そもそも人間とは、善良な動物である。そして協力的である。
その一方で、極端に不安がりであり、臆病な動物でもある。

臆病だから協力しあって生きる。協力する理由は、ラッセルによれば、3つのことだった。
一つは好きかどうか、もう一つは、得をするかどうか、もう一つは、恐いかどうかである。

恐怖によって従うのは強制という事を考えれば、一般的には協力とは善意であろう。
人は、善意によって協力する。互いに助け合うのは良いことだ。これは多くの人が
同意するところだろう。

この立場から、服従の話を振り返る。
ミルグラムは、人は権威に服従してしまうものだといった。本当だろうか?

もしあなたの目の前に、権威者が現れて、こうして欲しいと言われたら、どういう気持ちになるか。
命令ではなく、頼まれたらどう思うか。内容が普通のことであれば、喜んで協力するのではないか?

そう、ミルグラムの実験の本質はここにある。人々は命令に服従したのではなく、
指示に対して協力したのだ。それは、実験において良き被験者になるという協力である。
人々は実験者に対して善良であろうとして、指示に従い、電気ショックのスイッチを押し続けた。

アイヒマンは、命令されたから、ユダヤ人をアウシュビッツへ送り込んだのではなく、
ナチスの考えに同調し、積極的に人々を死に追いやったのである。それは組織に対して、
善良であろうとしたという事なのだ。つまり、行為そのものの結果は重要視せず、集団において
益となることにおいて、協力的であり、しかもあわよくば、その貢献を評価されたいと
思っていたのである。

これは、ファシズム化する集団極性化でも同じことだ。
そして、意見が類似した人同士が結びつくのはごく自然だろう。
そこに協力関係が生まれ、内びいきがスタートする。結果は偏見の醸成と、
それを理由にした暴力である。

そう、人は協力的で、善意に満ちている。
だからこそ、悪事を行うのである。なんという矛盾。


社会心理学は、人々が善なることを求めることを教えてくれる。
そして、それは悪につながっているという事も。
悲しいかな、我々は、善意の元に、悪事を推し進める動物なのだ。

悪事を批難する人がいる。当然である。
だが、その悪事とは立場を入れ替えれば、正義として扱われる行為である。
これが世界のそこかしこで起こる紛争の意味だ。

個人間のいざこざはおいておくとして、大きな争いはつねに人の善意によって生じる。
人が真面目に正義を振りかざして暴力を肯定する時、それはすぐに悪に転嫁するのだ。

この理屈からいえば、暴力とりわけ、防衛というような巨大な暴力組織・機器の存在を
肯定する人間はすべて、悪の肯定者である。そして事実そうなのだ。

悪をなそうという人間こそが一番の脅威である。
そして、その悪をなそうという人間こそが、いの一番に防衛という言葉をはくのである。
つまり、正義の元に暴力を肯定する人間のことだ。そして、そういう人間は、
なぜか「現実主義」と呼ばれる。

全くバカバカしい。バカも休み休み言え。

現実主義者こそが、悪の元凶なのである。それは自己成就的に敵を作り出す。
そうやって、敵を作り出しておいて、「やっぱり防衛力は大事なのだ」とのたまうのである。
マッチポンプとはまさにこのことだ。

私は、いわゆる現実主義を嫌悪する。そして現実主義者は可哀想な連中だと考える。
なぜなら、洗脳を受けた人々だからである。世界は危ない所だと思い込まされた人々こそが
現実主義者である。

幸福に他者に愛され、支持されている人間は、他者をあくどく言わないものだ。
ましてや、他者に恐怖を感じることなど無い。他者を許容し、受容しようと試みるだろう。

逆に、不幸な考えの持ち主たちは、防衛だ、強くならなければならないと、肩肘をはるだろう。
なぜなら、彼らは根っから不幸だからである。他者が怖いから、吠えるのである。
攻撃とは、保身である。保身的であるからこそ、攻撃のための準備をしたがるのだ。
なぜなら、自己が嫌われていると思っているからである。リアリストが常に、どこか
卑屈なのは、自分が許容されないという心理的態度によるものだ。

もう分かったと思う。
我々が考えるべきは、集団内において、偏見を減らし、内集団という考えを緩める方策だ。

過去の偉人とはすごいもので、キリストは隣人愛を唱え、ブッダは慈愛を唱えた。
つまり、心理的な垣根をつくるなというのである。これは問題解決の本質である。

だが、私は真なるリアリストである。人間はそんなふうには生きていない。
どうしても、内と外に分けてしまうものだ。それは生理学的にも規定できる。

絆を形成する事。人々はそれを良しとするが、それは最終的に差別になる両刃の剣である。
私は、絆とか、仲間というものを巨大化しようというプロパガンダこそ悪だと思う。

綺麗事だからとかそういう事ではない。まさに現実に害を生み出すという意味で、
絆とか共感とか、仲間の拡張を嫌悪する。これらの諸機能は人に備え付けなので、
それらが機能するのは仕方がないが、それを拡張しようという考えには全く反対である。
なぜなら、それが悪の根源だからだ。

心理学を紐解くと、そこに悪の元凶が現れた。
この事実から、どうすべきか。人類は中庸な手段を発明する他無い。
悪事とは善意のなれはてという事実は、およそ本質的な解決を導くだろうと私は信じている。
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誰が危険を生み出すのか。 [思考・志向・試行]

https://mag.minkabu.jp/mag-sogo/copycat_criminals/

この記事は、治安問題を取り上げたものだ。
模倣犯や工作員を防げという。

まあ、こういう記事が出てくるのは必然的な反応で、なんにも不思議はない。
この記事を書いた人を批難するつもりはない。ただ全くの典型的反応を少しも恥じること
なく、述べていることに苦言を呈するのみだ。

世論は安心・安全神話を信奉し、無駄な予算を投じることになるだろう。
私の税金もそうやって使われるのかと思うと残念でならない。


そもそも考えるべきは、犯罪を取り締まることではない。
犯罪を犯すような人をいかにして、出さないようにするかである。

その辺を歩いている幼稚園児を捕まえて話をしてみればいい。
彼らのどこに、犯罪性があるというのか。

この世に危険な行為があるとしたら、それは文化に過ぎない。
多くの人がそれを分かってない。

安倍議員襲撃事件の犯行は、この社会が生み出したものであって、
何か突然、降って湧いたものではないのだ。
つまり、この社会が彼を犯行に導いたという事である。

この社会には、ああいう犯行を生み出す土壌がある。
それを棚に上げて、犯罪を防げという言明は、全くの的外れである。

社会が目指すべきは、犯罪に備えた完璧な仕組みを作ることではなく、
犯罪が起こらないようにするという人々の関わりを生み出すことだ。

幼稚園児をみていて、この子たちの幾人かが、いずれ犯罪を犯すというのは全くの事実である。
それは、誰かがそのような行為を教えるからであるし、そのような行為を是とする人間たちが
大人として生存しているからである。その大人もまた、文化として教わったに過ぎない。

どんな人も、誰かの子供であった。
それ以外に生まれようがない世界である。(今のところは)

そして、どんな子供も立派に育ってほしいと願われたはずだ。
だが、文化はとっても不条理である。文化の中には、誰かを手製の銃で襲撃するという
事をする行動レパートリーを用意していたのである。

ちょっと歴史を紐解けば、別段、彼の行為は犯罪といえまいとわかる。
「人を殺しておいて、そんなわけがあるか!」と思うなら、なぜ戦争が正当化されるというのかを
原稿用紙10枚で説明してみてほしい。そんなのは不可能であろう。

我々の常識は常に、時空間的にローカルルールでしかない。
そのルールの逸脱を我々は法でさばく。だが、法とは社会規範であり、それは多くの人にとって
許容されるだろうルールに過ぎない。そして、その法を作り出すのがまさに国会議員たちである。

法もたかだか、人が作った人工物である。
その人工物を守らせるというのが国の権力である。
そう思ってるからこそ、今の与党連中は憲法を変えようとしているのだ。
より、自分たちが動きやすいように法を変えようというわけである。
そこには、戦争という殺人が、明示的に肯定されることになろう。

話を戻そう。
安全・安心のために、防衛費を増大しようという動きにしても、
街の安全のために、監視カメラを増やそうとう動きにしても、どちらにしても、
それは我々にとって嬉しい話ではない。むしろ危険なことである。
大衆は簡単に、大嘘に騙されるのだ。

そうではなく、我々は、人々がなるべく包摂されるような社会にするべきなのだ。
どうして、個人の暴力が発露されるのか。それは、その個体から社会という縁が切れてしまった
からである。

カルト宗教に取り込まれる人もまた、社会での立ち位置を失ってしまったからだ。
そういう人々がどんな思いで生きているのか、私にはわからない。
わからないが、確かなことは、社会が彼らの存在を無視してきたという事である。

かつてのムラは、息苦しかっただろう。
その一方で、現代の都市は虚しい事だろう。

人々が、何かしらの犯罪を引き起こす時、それは、何かの叫びである。
社会という総体からみれば、それはカナリヤの声であろう。
つまり、社会が歪んでいるという事実を示してくれているのだ。

それなのに、結果を手当しようというのは全くのナンセンスである。
ことが起こるのは、そういう人間を生み出した社会という事なのだから。

我々が今回の事件で反省すべきは、犯人の暴力性批難ではなく、そのような事を
引き起こした彼の境遇である。そして、この社会はそのような人々を生み出すという事実である。

結局、社会が変わらなければ、今後もこのような事件は起こるだろう。
特殊な人の、特殊な犯罪ではない。特定の状況から生まれ得る事件である。
結局、生きづらい社会自体を手当する他無いのだ。
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危うい事態をどう捉えるか。 [思考・志向・試行]

安倍議員が撃たれた。予後は不明であったが、死亡が確認された。
ご冥福をお祈りしたい。

この事件を聞いて瞬発的に思ったことを残そうと筆をとる。
私が思ったのは、ついに起こったか、である。
このような事件が起こっても、何も不思議ではない、そう思ったのだ。

政権を担当した7年半の間に安倍議員を筆頭にやり続けた、
日本の既存体制の延命化と格差拡大、大企業などへの優遇、
決して、庶民に対するケアなど何一つやらなかった。

アベノミクスの大失敗。その果てに、過剰なまでの国債発行と
円の暴落。国力の低下を招いた。その責任の一端は、旗振りをした彼らにある。
自民党がやり続けた大企業への優遇政策と、放漫な税金バラマキがその主たる要因である。
その尻拭いのために、庶民は消費税をさらに払わされ、保険料と言う名の税金を
上納させられるのだ。この社会がますますねずみ講化した。その原因は、とかく、
既存体制を維持しようとする連中らの保身であろう。

庶民の生活を破壊し、既存体制を強化するために尽力したのが安倍議員である。
その恩恵をうけた外国、大企業、投資家たち。彼らは全力で自民党を応援したはずである。

一方で、これらを実行するにつれ、拡大した権力によって生じた政治的犯罪容疑はごまんとある。
権力を用いて、政治家だけでなく、官僚および司法にまで手をだし、
メディアを牽制し圧力をかけた。その成果は、「忖度」なる言葉を流行らせたくらいである。

事実の報道を勇気を振り絞って報じたメディアもあった。
およそ法に抵触する事柄が多く含まれる。森友問題、加計問題を始め、
広島の選挙の票買収など、怪しいことだらけである。サクラの会なども同じ事である。
要するに彼を取り巻く世界は胡散臭いものが充満していたのである。

では、容疑者は何をおもって犯行に及んだのか。
報道によれば、宗教との関わりについて述べているらしい。
そして、政治信条などは無関係だと。

これを知って、まるであさってからやってきたことのように感じた。
故安倍議員がやってきたことではなく、彼と宗教団体との関わりを問題にしたのである。
それが犯人にとってどれほど恨むような事柄だったのかは不明だが、
この動機が真ならば、これは彼と安倍氏との関係性の事柄であり、政治は無関係である。
いわゆる自民党政治への反発のようなものはそこには存在しないのだ。

なんということなのだろう。
犯人は単に、個人的怨恨、およそ妄想的な怨恨によって、安倍氏を殺害したことになる。

だとすると、選挙というシーンにおける今回の犯行は、たまたま選挙というイベントで、
安倍氏に物理的に近づくことができるというだけの意味であり、それ以上でも以下でもない。

そこには「言論への弾圧」もなければ「民主主義への挑戦」もない。
ただ、やりやすい時にやったというだけのことなのだ。

私は報道が、二言目には「暴力を許さない」といい「民主主義の妨害」のようなことを
いう事に、強い違和感を覚え始めた。

そのような意味合いは全くない。ないどころか、むしろ、そのような言い方が全く的外れではないか。
個人的な動機でしかない事態をもって、社会的な言明に拡大解釈している専門家や評論家は、
一体どこをみているのか?

つまり、テロでないのだ。この事件は。テロとは事件による社会的影響を考慮する動機がある。
だが、今の所は一人の青年がただ個人的にやってしまったというだけの事に見える。
この青年は社会など主眼にないのだ。

青年の取締が進めば、およそ平凡な意味が現れるのだろう。
そして、一人の殺人者として裁かれるだけであろう。


それよりも、私が危惧するのは、この事態を利用した形で、さらなる言動圧力が強まることや、
監視の目が過激化することである。もしくは、人々の行動が規制されることである。

およそ、人々は恐怖と不安を煽られるだろう。
狙われるわけもない庶民にも関わらず、自分たちを危険とみなす。
なぜならば、精神的に同化してきたからだ。

そして、そのような大衆心理を利用する体制側の人間たち。アクシデントに乗じて、
こういうだろう。

「言論を自由にさせるのはどうか」とか
「安全安心のために、監視を強めよ」とか
「暴力に屈するな」などといい、

さらなる、庶民への圧力つまり、暴力を強めるのではないか。

多くの人は無自覚だろうが、国とは暴力装置である。法を押し付ける権力の究極のところは、
暴力そのものだ。その国側の人間が、「暴力に屈するな」などという時は、ろくでもない事しか
起こらない。それこそが、暴力そのものだからだ。

そして、この状況に乗じてますます、暴力化するのではないかと危惧する。
それは、憲法改正による軍隊明記であり、人権縮小につながりかねない。

今回の事件は、粛々と小さく終わらせるべきである。
長引かせるほどに、人々は、暴力化するのではないか。

私が思うに、安倍氏には生きて、自分のやったことの結果を見届ける義務があったろうと思う。
そのために、まずは自らの犯した罪を刑をもって責任をとるべきであったろう。贈収賄や
票の買収など、現在の法にふれることは、罪に問われるべきだ。それが法治国家である。

こんな形で安倍氏がいなくなることは、良からぬ影響を残すのではないか。
例えば、伝説化・神格化される象徴になったりしやしまいか。

私にはよほどか、大衆心理が怖いのである。
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奴隷化が進む日本 [思考・志向・試行]

選挙の真っ只中にも関わらず、ろくに選挙の話題にもならない。

多くの国民が、自分の生活にダイレクトに影響する事に無関心で、
目先の損得と、今の感情だけによって動かされている。

選挙? 面倒じゃん。いかないよ。

と、いって、自分たちは、わずかでも安いものをさがしてネットをうろついたり、
メルカリで物を売り買いして、節約したり、とにかく、少しでも得をしようと試みている。
その行為に誘導しているのが、国政だとは全く知りもしないという恐ろしさ。

あっちのスーパーがより安いから、などと、主婦は右往左往し、
男どもはちょっとでも小遣いを増やしたいとパチンコにいったりする。

それを庶民の知恵とか、得だと考えているらしいが、一番、お金を奪われているが、
税金で、その税金は、政府関係者の懐に流れ込んでいるという事実には全く興味がない。

選挙にいかぬ自分たちがもっとも、損をしているという事実を知らないのだ。
ここでこれほど、同じことを語っても、知っている人しか読まないし、知らない人は、
そもそも私のブログなどに興味はなかろう。この矛盾を克服するにはどうしたらいいのか。

ともかくも、自民党や維新や公明党などを支持していると、年金は減らされ、消費税増税となり、
生活はもっと苦しくなる。その苦しい生活の原因は政策の愚昧さなのだが、それを理解しない人々。
それが日本人の大半だ。

むろん、一部の美味しい既得権益者たちは違う。政府の仕事、つまり税金の仕事をするものたちは、
現状維持で良い。そうすれば、庶民たちから巻き上げた金を自分たちの懐に流し込めるからだ。
そういう人間たちが一定数いるのもまた事実である。そして、そういう連中こそ、選挙に行くのだ。

困ったことだと思う。

若者たちはどんどん減る。当然である。国の政策が消費を抑制し、可処分所得を減らし、
リソースを奪い去るからだ。若者たちの手取りは相当に減ってしまった。一方で、中高年の
人々は、ちょっとくらい税金があがっても、気にならない程度の経済的な立場にいる。

これもまた大いなる矛盾なのだ。

日本はこれから、老人社会を迎える。仕方ないのだ。そして、労働者不足にあえぐだろう。
でも、円安になるがゆえに、海外から労働者がくることもまた減るだろう。日本に若者が
くるとしても、日本以上に貧しい場所からしか来ないのだから。

日本に残されたみちは、デフォルトしかない。もしくはそれに準じたものだけだ。
円の価値は暴落し、円絡みの資産は価値を失うだろう。ならばと、現物で勝負する他無いのが
これからだ。

その抜け道としての仮想通貨を考えている人もいるのだろうが、仮想通貨はあくまで、
チューリップなのだから、いつ何時、終わりを迎えるのか分からないのである。

我々に残されているのは、ローカルな通貨ではないか。これが私の予測だ。

強いのは、現物をいかに押さえているかだろう。
現物を持つ以外に、手段はない。

金はそもそもバーチャルなもの。その金を得るのに、現物を利用するのは非効率も甚だしい。
だが、その現物こそが価値そのものだと、気が付かなければならない。そして、現物の価値とは
認識の価値の事である。

いま以上に流動性が激しい社会になる。そういったなかで、ますます保守的になる老人たちが
自民党に表を入れ続ける。そして、憲法改正や緊急事態条項などによって、大政翼賛的な社会に
成り代わる。気持ち悪い世界だ。

せっかくアメリカによって崩壊させられたあの日本が戻ってくるというのだ。
それを取り戻せという、保守がのさばっているのが現状なのだ。

彼らの価値観は、ただ、昔はよかったという懐古主義であって、未来ではない。
そして、未来をいま食いつぶしている。現に国債という形で食いつぶしているのである。

日本の国債をどれくらい外資が買い入れているのかは知らないが、それによって、
我々は、借金の方に苦しむことになる。

生活が困難になる人々の増加は、治安維持の強化になる。なぜなら、背に腹は代えられない犯罪が
増えるからだ。一方で、奴隷化し、何も考えずに、政府のいいなりになる家畜人間増えるのだろう。
それで良しという人間たちが。気持ち悪い世界だ。

我々はちっとも北朝鮮を批判できないところまで来ている。
あのような世界に転がるまで後少しである。

私の友人の中国人はこういった。
「日本はまだまし。政府の批判ができるんだから。」
しかし、それももう無理かもしれない。

私がこうやって、政府の政策批判をしている自由をもつのも、あと5年あるかないか。
そういうことが起こっても、不思議ではないという状況になっている。

それなのに、多くの選挙にいかない人々は、呑気に自分の生活に忙しい。
そんな生活自体の無意味さを知らず、そんな生活維持のために、自分たちの尊厳を売り飛ばす。

結局の所、まともな人は日本から退場する他無いのかもしれない。
私とて、同じこと。こうやって、文章に残す事で、批判者がいたという爪痕を残す。

むろん、ブログが残ればという話だが。

私が感じていることが単なる杞憂であればよい。だが、大方は予想通りの展開である。
あと5年、もう少しかかっとしても10年もすれば、政府による人権縮小が本格化するだろう。
そして、それで良いという奴隷化された人間が増えるのだろう。残念である。

故人たちが獲得した権利を放棄し、時代を逆行してしまうのだから。
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