一つの結論ー男女の事ー [思考・志向・試行]

ここで留意したいのは、ここでは統計的な男女の描像ということだ。
個々人や、特定の組み合わせにおいては全くこの限りではなく、むしろ真反対というペアも
居ることだろう。ずるい言い方だが、先にエクスキューズしておく。

男はもっぱら、種を蒔く。
女はもっぱら、子供を産む。

これが男女の性の役割分担である。この役割を全うしようとすると、
男は、なるべく多くの女性と交わり孕ませる事であり、
女性は、なるべく優秀な男の種から子供を産む事である。

これがどれほど内面化しているかは、個人に依るが、これらを否定する材料が
あるなら教えてほしいほどだ。人類が生存を続けているということは先のテーゼが
守れられてきたという事になる。

一方で、人はかなり環境や学習の影響を受ける。よって、上記の事を是としない
文化、そこまで言わなくとも、倫理などが生まれても不思議はない。その本質は、
社会を維持するという事に他ならない。

人は社会維持のためには、自制心を発揮すると言っていい。
それは社会活動を円滑にするという意味でもあり、社会への適応という意味でもある。
これは悪についての議論でも同じだった。悪とは本質的に存在しない概念である。
善を生み出すことで悪が生まれる。行動のコントラストといえるだろう。
そのコントラストは、他者が自制を発揮する際に生じやすい。

人がもともと持ち合わせる生物的行動。3大欲求を否定する人は多くないだろう。
そのうちの性欲についての本質は先に上げたテーゼであり、それは男女の差がある。
そして人々がこのテーゼを否定されたり、抑制される事で、さまざまな軋轢が生まれる。
そこに葛藤がうまれ、欲情が増幅される。

社会はこの葛藤や軋轢を可能な限り減らそうとする。
また、社会は可能な限り先のテーゼを肯定する形で社会を構成するだろう。
その結果が、現在の婚姻制度であり、男女間の関わりなのだ。

だが、その本質には常に先のテーゼが横たわっている。そして、そのテーゼのままに
行動することは、大抵の場合、社会的な干渉を受けることになる。

つまり、現代日本において、男女間の関係性は、生得的感情や情動とそれに対する社会的抑制
や制度への適応によって、記述される出来事だという事だ。2階建てになっているとも言える。

これが理解できれば、ほとんどの男女問題は見通すことができる。
例えば、なぜ浮気するのか?

答えはもう書いてある。テーゼの通りではないか。男は、なるべく多くの子を残すため、
多くの女性と関わろうとする。女は、なるべく優秀な男の種から子をなそうとする。
まんまである。よって、テーゼが否定されないのであれば、浮気は必ず発生する。

あとは、この浮気が社会的な維持に役立つかどうかだけである。社会的な維持に役立つなら、
社会はこれを歓迎し、反するなら、罰が生じるだけである。現代日本では、刑法は廃止された。
その意味では、浮気は社会維持を破壊するとまでは言わない事になった。一方で、社会的な
制裁は行われている。その意味では、社会維持に不穏な空気を及ぼす行為とみなされている。

そもそも、女の浮気が罪に問われていたのは、社会制度の根幹だからである。
家制度をもつ日本では、家の維持つまり社会の維持が命題だった。その家とは、家の役割を
長子相続していくというものだ。よって、子供が自分の子であるかどうかが大事であった。
では自分の子供であると確実性を担保するにはどうしたらいいのか、それは女を囲っておく
事である。そして自分とだけ交わった結果として、子ができれば間違えないだろうという
感性である。

よって、姦淫罪が存在していた。そして社会はそれを是認していたのである。

ところが、この制度は明らかに女性のテーゼに反する。女性は可能な限り、優秀な男の種を
を得て子供を産もうとする。すると、婚姻関係にあろうがなかろうが、「この人!」と思う
人の子供を産むことが大事である。ここに軋轢がある。

一方で、男の浮気がこれほどに叩かれるのは、これもまた社会制度を揺さぶるからである。
女性は常に子供を育てるという仕事がある。その育てるためのリソースは男から得るほか無い。
そういう社会が今制度化されているからだ。子育て中に稼ぐ手段がないという事であるが。

そうすると、子育てをしなくてはならない女性は、リソースをどうにか確保する必要がある。
それを当然ながら、男に要求する。その根拠は「この子はあなたの子である」だ。そして、
男の浮気とは、リソースが他の女性に割かれてしまう可能性があるという事だ。ライバルの
子供が増えれば、その分、自分たちの身が危険という事である。ここに軋轢がある。

ということで、男女ともに浮気は社会的維持のためには浮気は避けるべきものとなる。
だが、テーゼはどうなった? そう、テーゼからいえば、浮気は肯定されるべきものである。
ここに矛盾がある。そして、その矛盾があるからこそ、欺瞞や葛藤が生まれる。

生まれた葛藤や欺瞞の感情は、どう処理されるだろうか? 端的には我慢。
我慢が効かない場合は、小出しにする。もしくは一線を超えて秘密にする。
どう処理したとしても、その後ろめたさは変わらないだろう。社会的に肯定されないのだ。
このような感情は100%消え去ることはない。自己に生じた不快な感情は、どうやって
解消すべきなのか?

運動する? 歌を歌う? 何かしらの芸術やスポーツなどで葛藤感情を紛らわす。
もしくは酒を飲んで、タバコをすってうさ晴らす。本質的解決には程遠い。

私は、このように生得的な欲求の社会的抑圧が、諸悪の根源、邪悪さの根源なのだと思う。
それは、男女の性欲に限らないことだろう。自己承認欲求が満たされない事や、馬鹿にされ
続ける事に対する欲求不満、こういう事が他人の足を引っ張る事や、恨みとなり、その感情を
共有する他者が集団化しときに、社会に悪影響をもたらす。

社会から劣った者というレッテルを貼られた若者が数人でバイクで爆音を出しながら暴走する。
自分たちをコケにした社会というものへのプロテストである。受け入れてくれないなら、自ら
はみ出てやろう。そういう事をするのは、実はまだ良い方かもしれない。まだ表現があり、
訴えがあり、その暴走によって特定の感情が解消されている。


さて、再度男女の話に戻ろう。浮気をするのはテーゼだからだった。だが、それは可能性で
あって、実行するか否かは自分の一存である。では、どうして浮気を実行するのか。
自制にやぶれだけが問題だろうか? 実態はもう少し精神的なものではないか?

大脳は生得的な欲求にかなり抗える。たとえば、自殺を考えてみればすぐにわかろう。
社会的な制裁つまり大脳による妄想は、生物としての生存維持システムを乗り越えていく。
拒食症などもまた、大脳の強力な力を表している。ならば、どうして浮気は乗り越えられないのか?

人は意思の力を信じすぎてる。まずはこれがある。社会的な抑圧が生得的な欲求に打ち勝つ
ことはあり得ない。理念によっては、人は動かないのである。これは歴史が証明している。
資本主義体制が共産主義よりも長生きなのは、よりヒトの欲求に忠実だったからだ。むろん、
資本主義にも欠陥があるのだが。ここではその話はしない。

人が浮気をする時、そのもっともな動機は、同様に生得的なものである。
結婚は社会制度である。理性的行動だ。その理性的行動は、感情的行動に簡単に負ける。
むしろ、感情的に負けるからこそ、理性的に制度化しておくと言える。

おそらく、個人で見れば浮気者は、感情にほころびがあったのだろう。
どんな男女でも時間が立てば、相手への関心は下がる。そこに新しい関係が生じた時、
そちらに心惹かれるのは仕方がない事だろう。それを抑制するのは社会的な圧力だが、
それ以上に、新しい関係性は快楽的なのだ。

寂しい感情を持つ人は、他者からの慰めを必要とする。その孤独への非耐性は、
浮気という行為をもたらす。自分が誰からも求められないと感じた場合、より求めてくれる
相手にすがってしまう。ごく自然なことだろう。もしくはそういう相手を求めてしまう。

男女の関係性は揺らいでいる。その揺らいでいる感情が断ち切られないようにするには
忍耐が必要である。そして、それは生得的な人の能力を超えている。結婚制度は、
それを実行させるための塀であり、囲いである。だが、そもそもの本性とは噛み合わない
のだ。だから、感情だけに重きをおいた結婚は失敗する。必ずだ。

かつての婚姻はある意味で就職のようなものであった。多くのケースでは、
夜の営みですら、子をもうけるというビジネスであったのかもしれない。
そのような婚姻は、持続可能である。そもそもが社会制度として受け入れたものだからだ。

とはいえ、人間である。感情がある。無理なものは無理。半分程度の家庭は、
男女のそもそものスタンス上、崩壊しているといえる。ただ、それでも明日はくる。
我慢を小さくし、その我慢を他の事で解消しようとする。

昨今の韓流ブームやアイドル人気をみれば明らかであろう。
満たされない感情を代替することで絶賛解消中なのだ。
そして、安全でもある。妻が羽生結弦氏に夢中でも、害はないと考えるのだから。

まとめることは必要ないだろう。
そう、男女の関係は常にその根幹が背反しているのだ。そして、背反するシステム同士を
どうにか恋や婚姻という制度で結びつけることで、社会維持がなされているのだ。

むろん、この限りではない男女がいることも私は知っている。割れ鍋に綴じ蓋というような
夫婦だってたしかにいる。だが、男女に横たわるは背反が消えるわけではない。そして、
お互いを心の底からわかり合うことはあり得ない。

我々は無いものねだりをしている。けれど、無いものをねだる事は悪いことだろうか?
いや、その行為を通じて、なお現象を深く理解する事になるだろう。ならば、残念な状態
というのもまた意味を持つ。私はそう思うのだがみなさんはどう思うだろうか。


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