矛盾する社会 [思考・志向・試行]

アドラー心理学を知っているだろうか。

嫌われる勇気などが一頃流行ったので知っている人もいるだろう。
しかし、その本質をちゃんと知っている人は少ないのではないか。

アドラー心理学の本質は、目的論であるということ。そして全体論であることだ。
これを聞いてピンとこないなら、アドラー心理学を掴んでないといっても良い。

さて、ここで話をしたいのはアドラー心理学の講義ではなく、
アドラーの言い分をもっともだと仮定した場合に生じる矛盾のことである。

アドラーの信念によれば、すべての悩みは対人関係から生じるという。
これは翻ると、幸せは他者との関わりによって生まれるということである。

他者と関わることでいわゆる幸せを得ることが出来る。
だからこそ、他者とどう関わるかの習慣であるライフスタイルを問題にした。
そして、そのライフスタイルは変更可能であると主張した。
むろん、それには相当な努力がいる。

なぜなら、多くの人は生まれてからずっとライフスタイルを続けているからだ。
幼少期には家族から、幼稚園や小学校くらいからは教師や友人から、
学校卒業後は、上司や同僚から、様々な影響をうける。
そのなかで、その場をやり過ごすためのやり方を身につける。
それがライフスタイルであり、それを変えるというのは、せっかく身につけたものを
壊して、作り直すことに相当する。それは非常に大変であり、しばしばそれは、
あまりにも高速に発動してしまうので、自分では気が付かないくらいなので、
修正が難しいのである。

アドラーは、他者との関わりを敷衍して、共同体感覚というものを唱えた。
共同体感覚とは、自分が他者に対して貢献感をもつことである。

しばしば勘違いされるのは、共同体を矮小化して、家族とか会社に置き換えて、
共同体感覚をそういう自分の所属への貢献と考えることだ。これは全然ちがう。

アドラーのいう共同体とは結局のところ、宇宙といっても良い程度に広い概念である。
もっといえば、世界といってもいい。そして、それは過去から未来までをも含む。

こういう視点で観た時に、貢献感とはなにか。ごく単純に言えば、「誰かのためになっている」
という感覚である。誰かとはもっぱら人であるが人だけに限らなくても良い。地球や他の生物
だって構わない。とにかく、自分の存在・行為が、誰かのためになっていると思える感覚である。

こういうと自己犠牲と勘違いする人がいる。他者のために自分を犠牲にするというのか?と。
それもまた全くの勘違いである。他者への貢献感は、自分が感じるものであって、相手が満足
するとか、相手の欲求を満たすものではない。

また、貢献しているかどうかは、自分が決めることであって、他者から認められることでもない。
ときおり、そのような解説が載っている本などがあるがそれは間違えである。

シンプルには、自分の存在・行為が他者のためになっていると自覚すること。これが貢献感。

これが確かな時に、その人は対人関係の悩みを乗り越え、幸福になれる。
逆に言えば、貢献感を得られない人は、どんなに頑張っても幸せにはなれない。

そういう話をアドラーはしている。

実際的にこれが微妙なバランスの上にしか成り立たないことは明らかだろう。
そもそもアドラー自身が、自身の心理学を実践するのはタフだと言っているくらいなのだ。

さて、主題の「矛盾」に戻ろう。

現代日本では8割くらいの人がサラリーマンをやっている。彼らは毎日会社にでかけて、
何らかの仕事をして暮らしている。その中で、どれくらいの人が「他者貢献」をしている
だろうか?

他者貢献を感じられる場面を考えてみる。例えば、資料を作成して上司に渡す。
その行為に「貢献」を感じられているだろうか? その資料を作ることで誰かの役になっている
なと心から実感できれば問題ない。だが、ほとんどの場合は、ルーティーンとなった
ただの作業にすぎないのではないか? それでは貢献感を得ることは難しいだろう。

他ではどうだろう? パン屋でパンを作る。それをお客がきて買ってくれる。
「美味しかったよ」といってくれたとすれば、パン屋は強く貢献感を得られるだろう。
だが、毎日、忙しくパンを作り、棚に並べれば売れることはわかっているのだという態度で
パンを売っていたら、果たして貢献感を得られるだろうか?

そう、もうおわかりだろう。行為自体の問題ではないのである。貢献感とは態度のことなのだ。

こういう勘違いをする人もいる。貢献感なのだから、誰かから感謝の言葉を得られれば良いと。
上司から「ありがとう」と言われ、お客から「ありがとう」と言われ感謝されれば良いと。

じゃあ、そうされなかったら? 感謝されなかったら、貢献感を持てないとしたら?

これは貢献感ではなく、承認欲求である。
実は、承認欲求を持つものは貢献感を得られないのである。つまり見返りを求める行為は、
貢献感につながらないのである。

承認欲求を当たり前だと思う人は少なくない。それは簡単で、日本社会では甘やかされて
育てられた人たちが少なくないからだ。甘やかされた人は、世界を「自分の思う通りに
なる場所」としてライフスタイルを形成する。すると、他者は自分に貢献するものと思って
生きていることになる。これでは話が逆なのだ。

自分が貢献される存在だと自己認識する人は、常に他者との軋轢を生み出す。
明に暗に、相手に「要求」するからである。些細なことであれ、それが続けば
周りは嫌になるのは当然のこと。そういうライフスタイルを持つ人は、結局のところ、
疎まれてしまうのである。

疎まれた人が、逆転を狙うのは、劣等コンプレックスや優越コンプレックスによってである。
そして利害関係を利用した人間関係に陥るのである。社会的成功を強く求める人は、
どういう人かといえば、権力や金で他者をつなぎとめておきたいからといえる。
そして、それは承認欲求として現れるのだ。

自分への貢献をもとめる承認欲求を満たそうとすることは、他者への貢献つまり共同体感覚の
真逆になってしまうのである。

ぼちぼち矛盾の意味がわかってきたと思う。

他者に対して貢献感をもつことが幸せの条件なのだが、現代社会に生きる日本人の多くは、
自己への貢献つまり承認欲求を満たそうとして生きているがゆえに、幸せになれないのだと。

現代日本社会において、成功者とはどういう人か。
いわゆる成功者とは、金や名誉、権力をもつものではないだろうか。

それを得るための努力とはどんなものだったろう?
他者と協力して、素晴らしい貢献をしたがゆえに、そうなったのだろうか?
どちらかといえば、他者を顧みず、自己もしくは周りの仲間の成功だけに注力した人ではないか。

テクノクラートはもっぱら受験エリートである。彼らは自分の能力を高めることに
注力したことでその地位を得たはずだ。その際に、周りの人間に協力して勉強を教えたとか、
他者を思いやる行為がどれほどあっただろうか? そういう行為よりも自分の成績を伸ばす
事に主眼をおいていたのではないだろうか。

それから自分の立場を守るため、出世のために、部下や下請けに仕事を強いる人たちが
会社の中枢に居座っていやしないだろうか。

コガネをうまく運用して金を儲けた人々は、自分の力量を誇るだろう。だが、彼らの仕事は
誰を幸せにしたというのだろうか。

もちろん、多くの人に良いサービスを作り出したことで金や名誉や権力を得た人もいる。
だが、少なくない「成功者」が自己利益を拡大させることを是としてきたのではないか。

すべてがすべて利己的であるはずはない。しかし、利己的傾向が強い人間が社会的に肯定
されている社会になっていやしないか。

というより、先にあげたような承認欲求の強い、疎まれた人間が、それを補うために
金や権力を手に入れようと必死なのではないか。なぜなら金や権力は、みかけの承認を
得ることを可能にするからである。金をもっていれば人が寄ってくる。権力があれば
周りが持ち上げてくれる。それは強い承認欲求を一時的に満たしてくれるかもしれない。

だが、一人ぽつんと立ったとき、例えば、会社を定年退職したとき、一気に失われる関係性
でしかないだろう。それは非常に強い心理的な動揺を生む。

もっと大上段に構えれば、資本主義の仕組み事態が、承認欲求を求めている。
資本が増加するには拡大再生産を加速させればよい。それには商品をマスで製造し、
大衆に売り、すぐに捨ててもらって、次を買ってもらうことが求められる。

そういう人間を作るには、流行りという宣伝をつかうのだ。古いものはカッコ悪い・ダサいと
価値づけて、新しいものを買わせる。これにひっかかる心根は、承認欲求である。

他者からの承認を求めるためのキーアイテムとしての消費につながるからだ。
現代社会には多分に、そのきらいがある。

他者から称賛されることを是とする価値観を持つ人、そこまでいかなくても、
他者からバカにされない事を気にする人たちは、承認欲求を抱えている。

そういう人間が多いほど、資本主義はうまく機能する。少なくとも資本主義社会では、
自分への貢献を求める人間を作り出す傾向があるといえるだろう。

これが、矛盾の正体である。

他者への貢献感を得るには、他者に貢献したと思える行動をとるべきなのだ。
その先に幸せが待っている。だが、現代社会はどうだ? むしろその逆を求められていない
だろうか。

自分のため、これを拡張しても、せいぜい家族・親族のため、友人のため、会社のため、
組織のため。そういう狭い限定された仲間に対して「貢献したことで」認められたいと
願っていないだろうか。

それをすることを要求され、それをすることを要求する。これは幸せとはほど遠い行為である。
裏返すと、この価値観から「役立たない奴は排除すべし」という論理が生まれてくる。
競争主義や成果主義とはその一派である。

現代社会で、アドラーが言う貢献感を仕事を通じて得られる人はまさに幸運である。
そして、承認欲求にかき乱されていない人もまた幸運である。

自分の仕事の意味をみつめたときに、「自分は貢献できている」と思えるかどうか。
それが幸福への鍵となる。アドラーはそう言っているのである。

蛇足:
  共同体感覚は全体主義とは違う。
  例えば組織で不正があったとき、その不正を黙っておくのが全体主義である。
  組織に不利なことは隠蔽する。共同体感覚はむしろ、告発する感性のことである。
  不正が社会正義に反するならば、それを正すことが「共同体」のためになるからである。
  これが他者への貢献の意味合いである。
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