メディアの嘘ープロパガンダー [思考・志向・試行]

メディアは嘘をつく。

問題は、どれが嘘で、どれが本当か、庶民にはわからないことだ。
その時、我々に出来ることはなんだろうか。

今度の組閣で、安倍家からの養子である岸信夫が防相になった。
私はこれに危惧を感じている。

その岸信夫の記事を読んでいたら、ひとつメディアの隠蔽が見つかった。
台湾政治家、蔡英文氏が、2015年10月8日に、安倍晋三元総理とホテルでランチを
したという。しかし、その時の首相動静には書いていない。

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例えば、これは首相動静において、我々は知り得ない情報があるという事を意味する。

あることをないとし、ないことをあるとする報道。

「記者たち」というアメリカ・ドキュメンタリー映画を観た。
イラクの大量破壊兵器保有が嘘であるという報道をしつづけた新聞社の物語だ。
アメリカ国民の多くは、ジョージ・ブッシュの嘘を、ラムズフェルドの嘘を、
そのままに受け取った。なぜなら、大手の新聞社がこぞって、政府発表をそのまま
流したからだ。

このような自体は日本も似ている。電通が牛耳るメディア界。
政府は広告代理店と結託して、メディアの報道を取り締まっている。
ときおり、法務大臣がメディアに釘をさし、時に放送法を振りかざして、
いうことを聞かせるというシーンが安倍政権時に何度も見られた。

およそ、政府報道に関して大手は信用ならないというのが、現状の日本である。
残念だが、疑いの目で、政治報道を眺めなければならないのだ。

政府は常にプロパガンダを流す。常にだ。
だから、我々は情報の意図を理解するしかない。つまり裏を読む事だ。

政府発表のニュースをみて、それを信じているのは愚かである。
まずは、この立場に立つ必要がある。話半分に聞くという態度である。

次に、その話の元をたどるべきなのだ。ただ大手が流しているだけならば、
まずは不審に思っておく他ない。そして、自分で調べるほかない。

とはいえ、一介の庶民に何を知ることができるのか。
およそ、真実を知ることなどはありえないだろう。
ならば、せめて嘘は信じてはならない。つまり、報道を信じるなという事になる。

むろん、全ての報道が嘘ではないだろう。では、どうやって嘘かどうかを知るべきか。

疑うべきことは、そのニュース内容で得をするのは誰かと問うことだ。
そして、そのニュースは何を報道し、何を隠しているのかを推定することだ。

例えば日々のニュース。どこどこで犯罪がありました。どこどこでひき逃げがありました。
とても些細なニュースである。しかし、そのニュースはなんのために流されているのか。
交通事故に気をつけましょう? それとも犯罪に気をつけましょう? 
おそらくは、ニュースは耳目を集めたいという事だけである。

新聞やテレビはたくさんの人に見られるという事において、金が生み出される。
だからセンセーションな事柄を報道する。逆にい言えば、相当に稀な事しかニュースには
ならない。テレビで流れているということは、「これは特殊なんだ。」という認識が
必要である。

ファクトフルネスという本がひところはやった。事実と報道内容は必ずしもリンクしない。
報道は常に、取捨選択されている。事実は事実でも、みんなに見せたい何かだけが報道
されるのだ。

芸能人の逮捕ニュース。このようなものの背景に何があるというのか。
ゴシップは耳目を集めるために、メディアは儲かる。結局、人間というのはそういうもの
である。よって、そのようなニュースは大抵の場合、何かを隠したい時に使われる。
よく薬でつかまる芸能人がいる。ああいうのは、報道利用されていると考えたほうがいい。
何か、我々が知るべきニュースを覆い隠している。

とにかく、メディアは嘘を付く。報道内容は事実でも、その切り取り方には意図がある。
その意味でも、メディアは嘘を付く。

庶民は、なにはともあれ、全部を信じないことだ。
特に、政治家の発言や政府の意向についての報道は、彼らの都合の良いことだけが流布される。
そして、その報道に我々は行動を影響されるのだから、気をつけなければならない。

メディアのうそには徹底的に気をつけろ。
私が言いたいのはそれだけである。
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不遜な言い分ー大人の振る舞いー [思考・志向・試行]

モンスター化した人々が溢れている。
自粛警察など、ごく一般的な人々が過剰に反応をする。ルールを徹底させようとすると
凶暴化するのは今に始まったことではない。

共産主義の負の側面は、まさに理念の過剰さによって生じた暴力を背景とした強要である。


さて、モンスター化してしまった人々を単に迷惑だと排斥するのは簡単である。
むしろ、彼らの心情を考察すべきなのだ。もちろん、モンスターが迷惑なのは変わりない。

不遜な言い分を聞こうと思う。モンスターたちの。


人は生まれてから、模倣し続ける。
ましてや、特定の行為に抑圧された人間は、その抑圧が強いほど、
その代償を必要とする。

「魂の殺人」アリス・ミラーの著作である。
これを読めば、虐待の連鎖がどういうものか理解できるだろう。
更に、社会的に行われる残虐の発露の謂れも分かるだろう。

子供は何もなしに凶暴になったり、犯罪に手を染めるわけではない。
もともと、犯罪者として生まれてくる子供などいない。
あるとすれば、周りが、地域が、社会がそういう人間を作り出す。

アリス・ミラーはいう。幼児期に、本人がそれを完全に忘れてしまう頃に行われる
精神的・身体的暴力によって、人は残虐性を身につける。それはひとえに「躾」と呼ばれる。

子どもたちが、強烈な体験をすればするほど、その代償が必要となる。
暴力が発露するのは、誰かの暴力によるものだ。誰かが彼らに暴力をふるったのである。
そして、バランスをするかのように大人になった子らは、自らの子供に同じことを繰り返す。
もちろん、「躾」の下にだ。

これは大人のやり方である。大人が肉体的・精神的暴力をふるった事で、
彼らは、それを覚えるのである。子供は、大人のやることを模倣するからだ。
それは、大人の隠蔽した嘘をもひっくるめて行われる。

大人が子供を操作したい時に繰り出した暴力などを、子供は覚える。
そして、スキあらば、その暴力を他者に試すのである。
子供は、ただ真似をしたに過ぎない。

子供をもつ大人には、見に覚えがあるはずだ。子供の行為に激怒する瞬間が。
その怒りはどこからくるか。ただ子供がダダを捏ねているだけなのに、そこまで怒る理由は
なにか。それは、かつて同じことをやられたという事実である。自分が行い、それを罰せられ、
その体験を繰り返そうとしている。

人は子供の頃の経験に無意識に従うのである。
親のいうことを聞かずに叱られ、ひどい目にあったとする。
すると、同じように上司のいうことを聞かない部下に、怒りを感じる。そして、同じように
ひどい目に合わせようとする。行動を繰り返すのである。

誰かにやられた暴力を内面化し、それが時折、発露するのだ。


これを虐待の話だけでなく、もっと日常的な部分にまで落とし込んでみよう。
もし、モンスター化する大人たちに、そのような暴力を受けた経験があったとしたら、
彼らは、それを当たり前かのように繰り出してくると考えられる。
推測ではあるが、モンスター化した大人は、同じ行動を誰かにやられたのだということになる。

正しいとすると、昨今の自粛警察などの行為が理解できる。

彼らはどこかで本質を度外視したルールで規制された経験があるのだ。
ルールに正当性があるかどうかではなく、ルールには従うべきという規範をどこかで
暴力的に体験しているはずなのだ。

たとえば、学校。かつて遅刻ギリギリの学生が校門に挟まれて亡くなる事件があった。
ルールの厳正化による過剰な行為である。なぜこれがまかり通ったのか。自粛警察と
同じ論理である。つまりルールを守らぬ奴は容赦しないという事柄だ。このような行為を
毎日身にあびて育った人間がどうなるのか。当然ながら、ルールを守らぬやつは容赦しない
という事柄が内面化されるだろう。

同様に職場でも同じだ。職場内規定を守らぬ奴は、ペナルティがあってもしかるべしと
なる。空気を守れということだ。このような会社に40年間も通っていたらどうなるか。
ルール規定をやぶる人間は、悪であると断じる事だろう。

本来ルールとは、お互いを守るためのものである。それが許容される範囲内にて
行われるものであって、それを逸脱して、ルールを守ることが目的化されてしまう。

このようなルール至上主義はかつての学生たちだけでなく、今の学生にも存在する。
そして、この背後には、物理的・精神的暴力が横たわっている。罰則と言う名の暴力である。

人々は、このようなエートスを抱えて生きている。
ならば、自粛警察が現れるのは必然的であろう。ただ、それはかつての自分への制裁を
他者へ向けているだけなのだ。それが彼らの心根なのだ。自分がされたことを他人にして
何が悪いのだと。ましてや、ルールを守るのは「正義」なのだと。

すると、彼らモンスターは甚だ同情すべき人々である。
もちろん、その行為にはどこにも酌量の余地などない。おこした事件は責任がある。
ただ、自分がそのようなかつての出来事に傷ついている事に無自覚である事や、
まさか、その行為が過剰な「正義」であるとは思いもよらないのだろう。

これは同じように、体制維持にも使われている。
学校という場、会社という場のルールを守らないのは、不届きであるという感覚。
そこに自己の思考が介在しない。また感情も介在しない。なぜなら、彼らは理不尽な
目にあってきたからであり、そのような理不尽さを肯定するまで、暴力を振るわれた
からである。自分で考えて行動するなど、もっとも大きな罰がくだされる禁忌である。

実に息苦しい。

だが、処方箋は見つかった。
彼らの傷を癒やすということである。かつて受けた傷を明示化して、再解釈を加える事だ。
そして、ときに感情を発露させることなのだ。

もしあなたがなにかに怒っているならば、どんな正義を自分が信奉しているか
理解すべきである。その上でなお、怒るべきこともある。その時は大いに怒れば良い。
一方で、自分がただ復讐したいのであれば、それは理不尽な行為である。
その理不尽さを理解し、自分の感情をコントロールするほかない。

もちろん、とてもむずかしいと伝えておこう。
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所有される自己という発見 [思考・志向・試行]

私は所有されている。
端的にいえば、私はこれを発見した。

発見などと大それた言い方ではなくても良いが、私は確かにこの意味の実感を得た。
かつての人々もこれを大いに意識してきたに違いないが、それを明示的に示した
ものは見たことがないので、ここに書き記す。


私達は所有されている。
自分が今、何をしようとしているのか、よろけながら考えた。
その中に立ち現れたのは「逃げる」事であった。

逃げる。私は逃げた。逃げようとした。
何からだろうか?

朧気に感じていたいた事が突然明瞭になった。
それは「所有される事」からである。

誰かに指図される人生はまっぴらごめんだと思った。
それで会社を辞めた。
だが無職になっても所有されている事から逃れる事は出来ていない。

まず私は日本という国に所有されている。IDをつけられて管理されている。
そこから逃れるには法の外へでる必要がある。
名無しのごん兵衛になる事。徹底するならそういう手段しかない。

一方で、生活するのに金が必要である。
金を得るには、仕事をする必要がある。仕事とは社会が所有するものだ。
その仕事をするとは、社会に所有されることである。それが一瞬の出来事であるとしても。

その意味で、現代人の我々はどこにも所有から逃れるすべはないのではないか。
金から逃れられるのか? 法から逃れられるのか?
所有される事から、どうも逃げられないのではないか?

自由という意味。日本では自由の中に「自分勝手」というニュアンスがある。
所有されていない人間はろくでなしというのが日本の価値観である。
それは社会がよってたつ価値観である。その価値観に日本は覆われている。
そして自由は存在し得ないかのようだ。

社会に所有される存在。それが人である。
各自の行動原理は、誰に所有されているかによって規定される。

日本では明示的な神がいないが、一神教の世界では、神に所有されている。
日本だって「日本教」に所有されている。それ以外の人間は目に映らないように
なっている。

恐ろしいことに気がついてしまった。我々は生まれてから死ぬまで
所有されている。

親に所有され、学校に所有され、会社に所有され、金に所有されて生きる。
自由があった試しがない。現実は断ち切れない網で塞がれている。

私は思う。どんなに哲学者が自由と言おうとも、社会学的に考察されようとも、
故人も未来人が自由を叫ぼうとも、我々にはそれを知る術はない。それは絶望でしかない。
過去5000年前に戻れるとしたら。そこには我々の想像を絶する自由があったのだろうか。

それとも、多くの哲学者がいうように、拘束なき自由とは不自由そのものだろうか。
我々が知りうるのは不自由な自由でしかあり得ない。


いや、気を確かにしよう。そうではない。
哲学者たちがいうような自由を求めているのではない。

所有からの脱出なのだ。社会という網が問題なのではない。
誰かがよって、自分の身が拘束されているという事が問題なのだ。

自らが所有されることを望むならば、まだ良い。
しかし、人は生まれてきた瞬間より、所有されている。
その所有された生を我々は生きるほか無い。

いや、脱出することは出来る。脱出して生きられるはずだ。

そう考えた時、一体日々の生活とはなんだろう?
自分がやっている事って、誰の考えなんだろうか。
欲が欲する以外に、我々が行っている行動って、何の行為なんだろう。

自分が無意識に「所有される事」から逃れようとしていた事。
今、それを明示的に自覚した事を備忘録として残すものである。
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皆困っているー経済 [思考・志向・試行]

経済問題をどうやって解決するのか。


現状に日本の経済ベースは内需が8割、外需が2割だと言われていた。
2020年現在は、もう少しバランスが輸出に偏ったと考えられるが、本質は変わってない。

つまり、日本の経済対策は、どうやって内需をマネジメントするかがメインである。
ところが、アベノミクスはこれを無視して、投資に金を金を回す。供給側に金をばらまく。
一方で、政府は過去の約束を果たすために、国債を発行して年金を支えている。

老人たちは金を溜め込み使わない。すると、恒常的に金は老人たちの懐に貯まる。
溜まった金は銀行へ還流し、それはまた国債購入費用になる。ぐるぐる金が巡って、
国債の額だけが増大していく。なんのための国債なのかと疑問だ。

政府は増税を志向する。結果として、家庭が駆動する需要は減り続けている。
かつてはGDP比4割ほどあったと言われる個人消費が、いまやGDP比2割になった。
つまり、内需の力がどんどん落ちているのである。

我々に求められるのは、この内需のフローである。
経済活動の成長とは、2つのファクターがある。一つはプレイヤーが増える事だ。
つまり、人口が増えるか、取引先がふえるかである。自国民の数を増大させるには、
その子が経済活動をするまでに支出しながら、成人するまでまたねばならない。
それを待っていられないので、企業はその勢力を海外にのばす。海外には消費をする
主体がいるからだ。もう一つのファクターは、フローを増やすこと、つまり取引の回数の
増大である。取引回数が増えれば、それはGDPの増大になる。

誰かが手元に10万を持っているとする。人口10人の村としよう。するとここに100万ある。
これを誰も使わなかったら、経済はストップする。資産があるけれど、金が動かないので、
経済は停滞する。一方でこれらを皆が動かせば、100万以上の経済効果が生まれる。

金は協力を促す債権である。労働の対価が多く得られるということは、金が流れている
という事だ。ところがみんなが出し惜しみをすれば、実質的に金の量は減る。もちろん、
大抵の人は、投資をするので、金が市場から減るということはあまりない。ただ、その
利用先が変わるというだけのことだ。もっぱらそれらの金は、生産に向かずに、抽象的
な媒体を買うことばかりになる。つまり証券などである。

多くの人は意識してないが、貯金とは投資である。銀行への投資なのだ。
その貯金をつかって、銀行は企業に投資し、利息を得ることで儲ける。その一部が
金利となって、預金者に返ってくる。ま、こんなものは今や有名無実であるが。

とにかく、今、経済を動かそうと思ったら、人々にものを買わせればいい。
購買力がある人が買えばいいわけだが、そこに問題がある。


個人を考えてみる。毎月、安定的に金が手に入る人は、金を使う事に抵抗がないだろう。
すると、金をある人に訴求する商品をつくればいい。では、金は誰がもっているのか。
人口動態を考えれば、もっぱら中高年以上の人々が金を持っている。

ところが彼らは金を使わない。なぜなら、将来が心配だからである。
政府が老後に2000万円必要だとのたまった。そんなに金を残していられる人は、
殆どいないのではないか。そもそも、現状でどれほど退職金が得られるのか、
年金が得られるのか。

75もすぎれば、働くのは辛いものだ。どの程度老後の金が必要なのだろうか?
ハッキリ言って、今の老人たちは恵まれていると思う。年金は約束の通りに支払われ、
それは死ぬまで続く。ならば、なぜ彼らは年金を使い切るほどに使わないのか?

一つには、金を溜めておいて葬式代にする。住宅ローンや家賃を支払う。
残りをなんとかやりくりして、生きている。つまり、余裕などないのである。
結果的に、彼らはなるべくコストの少ないもので済まそうとする。

家の価格は今もかつても高い。かなり多くの日本人は、人生を借金の形として、
家を車を買う事を行ってきた。それは戦後からの流れである。これが日本経済を駆動した。
これにともなって、不動産が動き、山は切り開かれて住宅街を生み出した。
車を使えるように道路が整備され、あらゆる道路が舗装された。都市部には地方よりも
良い給与のよい仕事がある。それらを求めると都市部に移動する必要がある。

こうして家を買うために、車を買うために、都市部へと働きに出る。
そのためには、電車やバスなどの交通機関が整備された。そして、その駅の周りに
店が発生した。人がいれば、人にまつわる欲求の解消が必要だからだ。

このような流れこそが、高度成長のコアである。ところが、この流れは終わった。
この流れが停滞を始めた70年代後半から、多くの人が借りた金があまった。それらは
生産に向かわずに、土地に流れた。いわゆるバブルである。土地への金の投資が
生産と異なるのは、土地をどんだけ売買しても、土地自体が増えたり減ったりするわけ
ではないということだ。銀座の土地は常に一定量しかない。この一定量しかないものへの
投資をいわゆるバブルという。

そして、崩壊した。暴落はあっという間である。もともと、生産物への投資ではなかった
のだから、その収縮もあっというまだ。そうして経済が傾くと、金を借りていた人たちは、
返せなくなった。会社も同じだ。不動産で儲けていた会社は金が回らなくなった。そうして、
連鎖的にバブル崩壊は、不動産にとどまらず社会全体に影響をひろげたのだ。

さて、今はどうか。
かつてバブルを演じた人々が初老になった。彼らは家のローンを返し続けている。
その足かせがあるために、大きな買い物はしない。いや、する必要がない。
日常的にもどうか。日々の生活費以上のものを購入することは稀だ。たまに壊れた
家電を、崩れた家を直すという程度の出費だろう。維持費にもっぱら消える。

維持費は、サービスであって、生産は大きくない。よって、市場から需要がなくなる。

では、金を大いにつかっていくはずの若者はどうか。
若者は、社会構造の犠牲者になった。お年寄り達が作り上げてしまった高コスト社会。
何をするにも多額の金がかかる。その金はこの低賃金社会でどうやって手に入るという
のか? そういった中で結婚形態は重みになり、男は結婚を重荷に感じるようになる。
女性は、男に甲斐性を見出すのが難しくなる。ミスマッチが増えていく。その間に、
子供は減り続け、いまや100万人切ってしまった。日本は全人口でみても、減少を
始めた。

若者は年金や保険料をとられ、家賃をとられる。高給取りは大学を出ているが、大学の
学資ローン返済が重たい。高卒の人々の多くは非正規社員になった。立場が不安定な
若者たちは、金を使い切ることなど考えられない。様々な要因で大きな経済活動をする
コアではなくなった。

人口縮小の流れの中で、企業もまた売上を落としていく。売上がおちれば、
従業員を増やすわけにはいかない。新規雇用を減らすほかなく、引退した人の
後釜はとらず、内部で仕事を分散させる。分散させるとはようは長時間労働が増える
という事だ。

男どもは長時間労働の中で、家庭を、生活基盤をないがしろにしている。
いや、そうでなければ、企業が回らないからだ。このような勤務形態に女性はそぐわない。
男女雇用均等化は遅々としてすすまないのだ。

一人の仕事が増えても、会社の売上がのびるわけではない。一生懸命やっても、
報われない形のしごとが増えた。中高年はゴールが見えているが、若者はどう思うか。
これがあと40年続くのか。。そう思ったら、辞職も増えることだろう。プライドや
社会的な立場、例えば養う家族がいるなど、から、辞めるもままならず、かといって、
仕事に喜びも見いだせない。そんな若者がゴロゴロいる。その不満のはけ口が、
スマホに向かう。SNSに向かう。

いささか余裕のある若者は、金のなさを工夫で乗り切ろうとする。思想的に追い求めたりする。
たとえば断捨離だ。もしくは、コストをかけない遊びを考える。若者はそれをやむなしと
している。我々は親のようには暮らせないのだと自覚しているのだ。

親のように暮らせないなら、そんな人生のコースから足を洗って違うことをしようかと思う
若者がじわりと現れている。

さて話を戻そう。需要は老人からも若者からも生まれない。困ったものだ。
日々の糧を得る。そういう意味では、日本人は恵まれている。拡大投資こそが資本主義で
の正しいふるまいだが、それが出来ない人々で溢れている。

人々は現在、消費を減らしまくっている。コロナによって先はさらに不透明になった。
モノが売れなければ、サービスも生産も滞る。


では、どうしたら?
実をいえば、色々な手段はある。本当をいえばあるのだ。

私は何度も、利子の非現実性を唱えてきた。利子とは本質的におとぎ話である。
どこかで息詰まる仕組みを全員が利用する社会は、やはり異常だと思う。しかし、
今のところ、それがベターという事になっている。本当か?

金は負債である。その負債をへらす努力がいる。どうやるか。
2種類の金があってもいい。例えば資産形成や期間の長い資産運用に関わる金と、
日常的な金は種類を変えてもいい。長期債と短期債と同じことだ。

その上で、短期債には、マイナス利子をつけるのはどうだろう。
時間が経つと、額面が減るという仕組みである。かつて地域通貨として考案された。

たとえば、年金にはこのマイナス利子の金を配る。
すると、老人たちは日々金が減ってしまうので、なるべく使おうとするだろう。
もしくは、長期債に変更しようとするだろう。この間にマージンをとり、それを
税として収めてもらう。一方で、短期債は額面が減るのでなるべく早めに買い物を
するはずだ。毎月の年金を例えば、一年後に消失する腐る金にしたとしよう。
月に6万ほどもらったとして、放おっておくとなくなってしまう。ならば、なくなる
前に使おうとする。そうして、必要なもの+アルファを買うようになる。

このアルファが意味を持つ。現状よりも需要を掘り起こせるからだ。
すると企業はじわりと業績を回復する。下支えされた企業は、生産戦略を変える。
結果として、事業が増え、雇用される若者が増えるだろう。雇用が安定的でなくても、
働き口が発生しやすい状況になれば、人々は困らなくなる。

このような額が目減りする金は、キャッシュフローを生み出す。
実際に、それがうまくいくことは分かっている。ただ問題もあって、循環し継続的に
使用されるかどうかである。

もう一方は、BIである。人々に政府が金を配る。それも恒常的に配る。すると、
人々は金をある程度使い始める。次が入っていくる事がわかっていれば、金をつかうし、
空いた時間は好きなことをすればいい。日々の生活がまかなえる程度に金があるなら、
仕事で無理をするかしないかは本人の自由になるのだ。一見するとBIは政府が借金を
重ねてしまうように思われるが、税金として回収されるわけで、常にマイナスというわけ
ではない。この辺りはもっと議論が必要だろう。

実をいえば、年金とはBIである。老人たちに今、国債を発行して金を配っている。
それは若い頃の制度に依拠しているわけだが。


もっと根本的な経済成長はあるのか? 現実的にはそれはもう時代遅れなのだろう。
如何に定常的に生産し消費するのか。それが問われている。

その時に考えるべきは、資本体系の改革である。私は共産主義をもう一度見直すべきだと思う。
今の制度に共産主義の良い部分を取り入れるのだ。共産主義と資本主義をバランス良く配置
することが、結局、社会の発展につながるのだと私は今考えている。
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