同情とはー綿矢りさー [雑学]

綿矢りさ著「かわいそうだね?」を読んだ。

女性の心理が見事に言語化されている。。。ようだ。
残念ながら私は男なので、この小説にある対人間における感情表象がどれほどリアル
なのかはわからない。だが、女性が思う何か一般性のある出来事に踏み込んでいるのだ
とわかる。

前半の「かわいそうだね?」は、彼氏の元に元彼女が転がり込んできて、
現彼女が苦悩するという話である。

一方で、後半の「亜美ちゃんは美人」は美人を友人として共に過ごしてきた女性の
美人の友人に対する思いについてが書かれている。

以下ネタばれを含むので、読まれる方は注意されたい。



さて、「かわいそうだね?」について言えば、
テーマは、同情とその心理的困惑である。

同情とは、聞こえが良いが、他者に対して「かわいそう」と発言する際の立場は、
どうとらえても「上から目線」である。この立場上の問題が問題を招くことがある。

かわいいという言葉は本来、憐みの言葉であった。それが転じて可愛らしいという
ポジティブなイメージを与えられた。かわいそうとは様態の助動詞をくつけて表現
されたものであり、本来的な意味を保持している。
よって可愛いも可哀そうも、「上から目線」な用語である。
また、この含意が小説「かわいそうだね?」の隠れテーマでもある。

元彼女が彼氏の家に転がり込むことを許すか許さざるか。
通常に考えてみたら、許す方があり得ないわけだが、
この主人公、樹理恵は許してしまう。おそらくここが分かれ道だったのだろう。
彼氏が受け入れた時点で、事は終わってしまっていた。

ヒロインは、この元彼女を「かわいそう」と思うことで、なんとか心理的安定を
保とうとするのだが、実際には許しようがなく、最終的には「かわいそう」という
概念の見直しが行われるのだ。

文中にて”「かわいそうな人」がいるわけではなく「困っている人」がいるだけ”という
表現がある。これは実に名言だろう。可哀そうと表現することの立場を考えた時、
そこに憐みだけではなく、”自分はそうではないし、そうなりはしない”という含意を
感じとってしまう。むしろ、可哀そうという表現をとることで、ヒロインのように
自分を安心させているのかもしれない。

元彼女は「可哀そう」な人という役割と見なせば、ヒロインは許すことが出来た。
だが、彼女は気が付いたのだ。可哀そうではなくて、ただ困っている人なのだと。
そして、ヒロインにとって彼氏はすでに彼氏ではなくなっていたという事実である。
そこで最後の行為に至るわけである。

男と女の間には様々な問題があって、それを乗り越えるのは難しいことなのかもしれない。

可哀そうという概念が持つ相対的な優位性はボランティア等にも当てはまる。
他者に対する同情は、どこか上から目線である。ボランティアされる側に
「可哀そうな人」を期待していると、それはいずれ問題を引き起こす。
これを「困っている人」とみれば、相対する人の意識も違ってくる。

この可哀そうという論理を巧妙に用いたのは、かのイエスキリストである。
強者に対して「可哀そう」というレッテルを用いることで、弱者が強者に
精神的超越を得たのであった。可哀そうであるという概念は、実は根が深いのである。
自らの立場を相対的に上昇させるための手段となりえるのが、この可哀そうなのだ。

綿矢りさが作中で問題にしたのは、この可哀そうが持つ二面性だった。
哀れみとは、決して単独では現れないのである。


「亜美ちゃんは美人」の方も秀逸だ。
美人は果たして、どんな風に恋愛可能かということ、それを周りがどのようにみるかということ。
これについてかなり具体的な心理描写が展開される。主なテーマは、美人の亜美ちゃん自体
ではなく、彼女をどのようにとらえるかという見方の問題である。

亜美ちゃんは、その美貌によって周囲から期待されている。亜美ちゃん自身は、
残念ながらナイーブであるために、周りの心配をしてはくれない。そして時に、
ナイーブであるがゆえに、親友である主人公を傷つけてゆく。

亜美ちゃんは、彼氏をとっかえひっかえするのだが、どの人も亜美ちゃんは愛せない。
そうしてある日、亜美ちゃんは愛せる彼氏を見つけるのだが、彼は世間一般では、
良いとは言えない男であった。

主人公はその彼と関わるうちに気が付く。なぜ亜美ちゃんは彼らと一緒にいるのかと。
その理由は彼らが亜美ちゃんを「好きではない」という事実ということに。

矛盾を含むようだけれど、亜美ちゃんは他者からの強烈な幻想にさらされてきた。
その亜美ちゃんが頼れるのは、亜美ちゃんに幻想を抱かない者だったという説明される。
そして、そのような存在として、世間との調和が悪い彼を選ぶということになったのである。
もちろん、その彼は亜美ちゃんを「好きなわけではない」。だからこそ、亜美ちゃんは
彼を愛しているのである。

綿矢りさが、亜美ちゃんの彼氏として、そのような彼を持ってきたのは、
そのような彼こそが亜美ちゃんにふさわしいとしたのか、それとも、ある種のカタルシスの
ためだったのかはわからない。ただ、そのようなバランス感覚があったに違いないだろう。
亜美ちゃんを愛さない「ふつう」な男だっているに違いないのだからと、私は思う。

亜美ちゃんはその彼氏と結婚をする。そうして、主人公の溜飲は下がるのだった。
つねに引き立て役としての自己と亜美ちゃんに対する憎しみを表現できないことへの
苛立ち、表現してしまいたいという事に対する自己嫌悪。主人公はここでは、ごく普通の
人として描かれる。そして美人が晒される環境を通じて、決して亜美ちゃんがどこまでも
順風満帆な人生を送っているわけではないことに気が付くのである。

ただ小説と実際は異なる。普通に幸せになる美人もたくさんいるし、むしろ、
その方が多いだろうと推測される。綿矢りさが示したストーリーに、「大衆」への
受けが見え隠れするのは、穿った見方すぎるだろうか?

綿矢りさという作家が持つ「底意地の悪さ」のようなものがこの小説には含まれている。
もちろん、これは賛辞として記すものである。
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Apple

『社交性の改善・社内と社外』


《真・善・美》

結論から言って、真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時、何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか、と。すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし、単純にからっぽという意味でもない。私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。この時、我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は、何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現しようとすること。目的地に経路、手段を含めた感覚の再具現という方向。志向性とはすなわち、或感覚を再具現させる基盤としての目的経路の原因・因子、そしてこれが、再び具現する能力と可能性を与える機構すなわち手段によって、再具現可能性という方向性を得たものである。また、志向は複数あり、意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され、この経験は、記憶の記録機構が確立された時点を起源として意識に何らかの影響を及ぼして来た。』

我々の志向性は、実体のない躰・物・形をもって再具現が可能なものであり、なお且つ因子に対応した感覚的対象が起こる条件になる。従って、躰が因子の再具現に相応しくない場合や、躰は因子の再具現が可能であってもそれに対応する特定の感覚的対象がない場合は、この志向は生じない。


《生命論》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは、生命であるとは言えない。』

生命は、過去の意識・記憶のあり様を何らかの形に変換し保存する記録機構を有しており、これにより生じた因子を再び具現する手段としての肉体・機構を同時に有するものである。すなわち生命とは、因子の具現たる創造物を意識中に造り表現するものである。また、記録機構の存在により、意識の変化から志向を変えてゆくことが可能であり、同じことの繰り返しではない己と自の発展すなわち、螺旋的発展が可能である。志向性という本質が変化し続ける存在であることが生命であることの条件である。

(*己自発展。己は躰・機構。自は過去の意識、記憶、その変換の形としてある因子・志向。その発展。躰・物・形と志向の相互発展。志向性を含んだ自然としてある意識が新しい志向を生み出し、この志向が再具現の機構である肉体と自然としてある意識・現象に連動して作用する。)

『生命は志向性・再具現可能性を有する存在である。意識の在り方が記録され、再び具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、再具現機構としてある肉体に何らかの変化を及ぼして来た。(無論、肉体が変われば廃れる志向もある。我々の祖先と自の意識は実体なき己の躰に眠っている。)』

従って、生命は自然摂理に屈する存在ではなく、その志向により自然としてある意識とその肉体を変革する存在であると言える。


《社会とは何か》

社交性を語る前に、社会であるとはどういうことかを考えなければならない。何故なら、社交的に見える人間が本当に社会性を持っているか分からないからである。それは事実存在であって、本質存在すなわち、当人がどう感じているかは判らない。我々が理念をもったもの、生命・人間として思われているか判らないからである。


『我々、個々はそれぞれが身の前の一つの宇宙であり、背後にある一つの中の複数の因子である。一個の人とは再具現性ある複数の因子の群体である。《哲理》』


『人間には各々、志向性がある。殺人志向を持つものもあれば、我々と同じような志向を持つ者もいる。理念とは、そんな彼らの目指す場所、返る場所。己という原風景。過去何らかの経を辿り得た場所の記憶である。《理念・生命》』

我々の目的への路は、環境の変化によって、度々閉ざされる。眼前の世界に対する拒絶と破壊衝動は、そうすることで何かを成した結果の反転した原因なのだろう。理念とは理想であり、想いの像であるからこそ鮮やかで美しい。理念は苦痛と共に明確に目的化する意義・志向を含んでいる。理念は、複数ある志向のうち、目的地に直結していた経路が目的に適合しない場合に生じる路迷いの志向である。

我々は理念をもった個人である。会社組織は理念をもった個人のツールとして資本家に肉体と労働力を提供する対象であり、会社の管理者個人、組織を構成するその他個々人の理念、方向性のちがいをもって生産的目的に統合される理念統合体である。そこでは個人の理念達成に向いた生産性があることを条件として各々の関係が互い互いに肯定される。職位・上下関係、命令、同僚、物質等その他あらゆるものは個人の理念を叶える可能性をもったもので、これの経験的結合と選別を経て理念実現の為のシステムと看做される。個々人が組織をこのように看做す場合を、合理性相互一致の状態という。合理性=選別的、選択的な合目的性。

社会とは、合理性相互一致の組織に於ける個の人や動物の生命の営みの最大の範囲であり、その維持には個の生命の尊重の理念・志向と適切な方法論が必要になる。個人理念と社会理念の両立性。

『社会性とはすなわち、個が互いに生命として認識し合い、これを尊重し、共存しようとする指向性である。』


《一宗教の意義》

生まれたとき既に或強い因子・志向を有し、再具現機構としての肉体及び肉体成長の方向性としてその因子を再具現可能なもの。この恵まれた志向を、個の起源と呼ぶ。個の起源はたんなる志向とはちがい、肉体的に具現の条件に恵まれている故に強くその方向に発展してゆき矯正が困難である。このような志向は誰にでもあるが、問題は現実としてある社会を脅かす場合である。

『個の起源は、志向であり、社会の脅威となる因子を有するものであっても、日々人間として模範となる生活を営むことで社会に調和することが出来る。』

『社会の脅威となる因子を有するものは、人間として方向付く迄はその因子の再具現の条件になる感覚的対象に触れてはならない。』

一宗教の意義は、人間として模範的な環境に身を置くことにより、社会脅威となる個の起源を抑え、社会での生活が営めるよう個を方向付けることである。宗教は社会から外れた人間の生命の志向を転換し、社会全体の調和をとる最高善でなければならない。


by Apple (2014-04-10 12:33) 

赤い果実

哲理
我々にとって結果とはつねにあり続けている感覚領域だが,これがあるという事は非感覚領域が存在するという事でもある。感覚領域を小果(しょうか)=小さな結果,感覚領域と非感覚領域の両方をさして大果(たいが)=大きな結果と呼ぶ。

結果の元々の象(かたち)について言及することはできない。結果の元々のかたちを決めれば際限なく結果を遡る事になる。元々象などない。非象的象(非感覚領域)も同じである。

結果があるという事はここに至るまでの方向性がある。この方向性がものの起りの起源である。これを因という。因は非象的象(真果・しんか)を生じ,非象的象はその機構をもって象=感覚領域(小果)を生じる。この非象的象を小因と呼ぶ。小因は因の不可視(不可感)的な変化のかたちであり,あらゆる感覚をもっている。我々のもつ自我,あらゆる感覚は小因の中に含まれる象(領域)である。

自我は世界(せかい)=意識(感覚)と同時に,またその領域を同じくして存在する感覚である。世界があるということと自我があるということは同義である。自我は本来世界の在り様であり,物質に宿るものではなく言葉(ことば)に宿るものでもない。自分というものは世界の何処にも存在していない。

物質・言語はもとよりあらゆる感覚は非象的象に含まれる不可視(不可感)的な因子の具現である。因子は具現性の中の再現性をもつ。具現とはいうならば再生された世界そのものの象であり,再現とはこの世界を決定する因子である。

物質は対象形質(あらゆる感覚的対象)によって言葉という感覚を伴って呼び起こされる特定の因子(記憶)の群体である。特定の再現性(※a)因子の具現が物質の正体であり可知認識である。可知認識は物質だけでなく,言語を含め象(かたち)ある様々な感覚に言葉を与える事でなる。本来の認識(不可視・不可感の象)とは別に,認識は一つの様式として再生されている。

⇒因子は再現性ある記憶が差違をもって再生され記憶される過程を繰り返して群のかたちを成す。

(※a)
再現性の付加は感覚領域下の因子(記憶)に対し再現する能力を与える事,感覚領域下にある機構によって再現可能性を得るという事である。この因子(記憶)を蓄え再現可能性を与える機構を表象下機構と呼ぶ。表象下機構は表象の下すなわち感覚領域下にある同時的に存在する原因。小果に対する小因である。認識という様式だけでなく,あらゆる感覚が再現可能性をもって再生される。


【漆問・質問】

目的是感覚再現

対象是形質類似

手法是経路図合

予測是一切

再生是差違宇宙

記憶是再現基礎

展望是螺旋因果


因⇒再現性記憶,果⇒意識の象

by 赤い果実 (2014-04-10 13:25) 

Apple

訂正

一宗教の意義は、人間の模範になる為の厳しい環境に身を置くことにより、社会脅威となる個の起源を抑え、社会での生活が営めるよう個を方向付けることである。宗教は社会から外れた人間の生命の志向を転換し、社会全体の調和をとる最高善でなければならない。
by Apple (2014-04-10 13:36) 

Apple

『宗教は最高善であっても良き善になることは出来ない。』

『宗教と哲学は明確に分けることは出来ないが、目的を明確化することは出来る。』

宗教とは善の“模範”であり、規範ではない。規範とはあくまで個人の持ち物であり、個を矯正するものではないからだ。善の模範を規範とする者も例外としているだろうが、それは本人の価値以外ではあり得ない。宗教の志向は個の特殊性に対して有用なものである。

反して哲学は個の自由の為にある。己が自らを由とする為に守るべき事柄・条件であり、その志向を加え掛け合わせた世界との調和を意味する。哲学とはいうならば、世界と自己の調停であり、自己の願望・理念を成し遂げようとする志向の足跡の途そのものである。哲学は人生を決定付ける要素であって、決められた道・模範ではない。

*己が自らを由とする。再具現機構としての躰が自・志向を具現した場合に生じる、己の存在の確証を得る感覚。志向を具現出来なければ、再具現機構としての己の存在も安定せず曖昧になる。自由とは、志向性の具現をそれ自体として己とすることである。

by Apple (2014-04-13 11:50) 

Apple

(訂正)

『宗教は最高善であっても良き善になることは出来ない。』

『宗教と哲学は明確に分けることは出来ないが、目的を明確化することは出来る。』

宗教とは善の“模範”であり、規範ではない。規範とはあくまで個人の持ち物であり、個を矯正するものではないからだ。善の模範を規範とする者も例外としているだろうが、それは本人の価値以外ではあり得ない。宗教の志向は個の特殊性に対して有用なものである。

反して哲学は個の自由の志向である。己が自らを由とする為に守るべき事柄・条件であり、その志向を加え掛け合わせた、世界との調和を意味する。哲学とはいうならば、世界と自己の調停であり、自己の願望・理念を成し遂げようとする志向の足蹟の途そのものである。哲学は人生を決定付ける要素であって、模範や決められた道ではない。

*己が自らを由とする。再具現機構である躰が、自・志向を具現した場合に生じる己の存在の確証を得る感覚。志向を具現出来なければ再具現機構である己の存在性も安定せず曖昧になる。つまり自由とは志向・因子の具現それ自体を己の証明とする志向である。


by Apple (2014-04-15 01:26) 

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