甘やかしと共同体感覚 [思考・志向・試行]

社会という場は、本質的に「協力・協同」を求められる場である。
当たり前なのだけど、人はそのような場において生きるように設計されている。
だからこそ、言葉を話す能力をもち、他者と協同することに意味を感じるように
出来ている。

多くの演劇やコンサートなどが感動的なのは多数の他者と時空間を共有しているという
基盤によって、生成されている。その上において、よく訓練された行動が人に驚きを
与えるのだ。実は、観客とは、その舞台で行われる行為の一部になっている。

これは日常でも同じである。日常的な行動においても、時空間を他者と共有する事、
そのための能力を我々は有している。その時に、我々は喜怒哀楽を手にする。
もっぱら、人はそれに依存していており、その依存性によって、社会を形成する。

この依存とは心理的依存とは異なる。心理的依存とは、他者からの愛情の搾取の事だ。
自分と相手との間に交流のやり取りを形成する時に、自己を求められるという感覚が
ある。この求められたいという感情が、心理的依存である。誤解されやすいのは、これが
求めることを依存と考える事である。相手を求める事は、依存ではない。

他力本願であることは、人が健全である事において重要である。一方で、
自力本願であることは大抵不幸を招く。他者に何かを求めることはごく自然な行為である。

問題は、その求めた結果が、確実に自分の希望通りに行われると考えることである。
それはもう相手の問題なのである。自分の希望に応答されなくても、不思議ではない。
それは相手次第である。そして、それを非難する権利はこちら側には存在しないのだ。
これは、観音様を頼りする行為と同じ事である。

そして、時にその願いが叶うことがある。だから有り難いのである。「ある+難しい」の
造語である。求めたことが行われるとは、そういう奇跡である。

人は必ず共同体に生まれてくる。小さくは親と子という関係。だが、親が生存している
ということは、既に共同体に属しているので、子も親の共同体にほぼ自動的に組み込まれる。
よって、人は必然的に共同体に組み込まれるのだ。

遅れてやってくる人は、その共同体の志向に影響を受ける。子は母親に対して、求める。
母親は子の求めに応じる。母親は共同体に求める。共同体は母親に応じる。そして、
共同体は母親に求める。母親は共同体に応じる。繋がりの中で、子供は共同体にもとめており、
共同体は、子供が成長するまでその求めに応じる。そして、子供が大きくなれば、共同体が
その子に協力を求めるのだ。

もっといえば、母の求めに既に子は応じている。共同体からの求めに応じるまでを待つまでもなく。

ここで子供のライフスタイルが問題となる。子供の生きるすべは、共同体からの求めに
適切に応じられるか否かできまる。少なくとも共同体がもつ価値観により添えるかである。

アドラーは、この共同体への寄り添いを、共同体感覚とよんだ。
そして、共同体感覚が乏しいことで、多くの精神的トラブルが発生していると考えた。

多くの人がちょっと不可思議におもうかもしれないのは、共同体感覚の価値であろう。
共同体感覚がマトモかどうか、その共同体感覚が正常かどうか、そうでなければ、
共同体感覚に応えることが無意味になってしまう。私がアドラーの主張から解釈するに、
この共同体感覚自体が、進歩するものとして捉えられており、そういうものを持てなかった
共同体はいなくなったのだと考えている。

共同体感覚とは、「永い目で見つめた時」にもっともらしい思想・行動である。
つまり、人類がもつ普遍的な価値観に漸近し続けているものだとみなすのである。

戦前の日本のような全体主義があったとする。今の時代において、この全体主義に迎合する
のは、異常な事として移るだろう。だが時代が時に要請するような価値観を内面化する必要はない。
軍国少年になる必要はないのである。それが「永い目」という意味だ。人類にとって
戦争状態とは普遍的な行為ではなく、一時的なリアクションに過ぎないからである。

よって、アドラーの言う共同体感覚とは、もっとも基盤となる協力体制の求めるものである。
日本にありがちな掟や村八分の事ではない。それはおよそ、共同体感覚を実現させるための
手段であって、共同体感覚ではないのだ。そして、掟や村八分とは、とどのつまり、権力者が
人々を管理する手段であって、共同体感覚と時に対立することすらあるだろう。

とはいえ、地域差がある。人という資源が貴重な場合は、多くの協力を求められるし、
人が溢れていれば、その役割は小さくなる事だろう。その意味では、一般に田舎では、
地域貢献を多く求められ、都市部ではその逆に、役割は最小限になる事だろう。
この共同体からの、共同への協力量という事で人々の社会性を明確化できるかもしれない。
求められる協力量によって、都会ー田舎度を求めることができるだろう。

近代化とは、この共同体への貢献を金という数字で置き換える作業であった。

協力関係を金を抜きにして、結ぶためには、個人の行動振る舞いがものをいう。
喋り方だけでなく、どういう協力を提供するかである。これが出来るかできないか、
もしくは、やるかやらないかで、人生が大きく影響を受ける。

アドラーは、共同体感覚が不足している人が問題であると考察した。
そして、共同体感覚を失わせる一義的な事に、母子関係をもってきた。
つまりライフスタイルである。

昨今の子供たちは、母親にスポイルされているとアドラーは解釈した。
それは「甘やかされた」と表現されている。つまり、母が子供の要求に屈する事で、
子供は世界というものは、自己の欲求を叶える場所であると認識してしまうのだ。

そして、それを内面化した子供は、世界がいうとおりにならない時に、不満を抱くこと
になる。共同体が求める事が彼らには、敵として映る事になる。母や家族以外が、
自分の驚異になるのだ。その時に子供の対応は大きく2つである。一つは、求められる
事への反発・反抗であり、もう一つは、逃げることである。つまり闘争か逃走かである。

社会が求める事へ反発すれば、居場所を失う。そのような者たちを囲い込むのは
大抵は、アウトローな人々である。彼らはとどのつまり、犯罪予備軍になる。
社会を敵とみなし、戦おうとするのだ。そんな事をする必要はないはずなのに。

一方で、逃走する子たちは、引きこもりという物理的逃走や、内面に閉じこもるという
逃走を行う。母親を含めた家族がその状況に悪というレッテルをはれば、子供は、
2つのアンビバレントな価値観の間に挟まれて右往左往するだろう。閉じこもっている
自己を攻める自分。その一方で、共同体求める事に答えられない自分。これが極まると
自殺や人格障害を引き起こす。内部分裂するからだ。

「甘やかされた」子供たちは、こうして重荷を背負っていく事になる。
そもそもは母親が、子供の要求になんでも応えたという甘やかしであった。
そして母親は子供に協力を求めることをしなかったからだ。

どんなに小さな子どもにも、意思がある。だから母親は子供に協力をもとめることできる。
言葉がわからないようにみえても、子供を説得する術はある。それが出来ないとしたら、
子供は相変わらず自分の欲求が何でも通ると考えており、世界はそういうものだと認識
しているという事なのだ。

子供には本来、成長という特徴がある。それは自分で状況を克服出来るという能力の事だ。
それを発揮するには、親はじれったくも、子供の成長を見守るほか無い。子供ができることは
子供にやらせる。それが親としての健全な態度である。子供ができることを親がやってしまう
とは、子供の成長を取り上げてしまうことになるのだ。そして子供は成長できなかった事の
責務を親に求めることになる。つまり甘えである。

逆に、子供ができないことを押し付けることもまた問題を起こす。いわゆる虐待とはその
事だ。なかなか寝ない子供を、脅すことによって大人しくさせるなどは、子供が自身でも
制御不能なことについて責任を追求している事と等価である。ご飯を自力で作れない、
そのための金をつくれない子供は、親にそれを要求するというのは健全な態度である。
それを放棄するのは、親に依る虐待だ。

これは別段幼児期だけではない。甘やかされて育った大人が親になったとき、親が
小さい子供に甘えることがある。親が自分たちのトラブルを自分たちで解決できない時、
子供をダシにして、解決するというものだ。父親と母親の喧嘩に対して、子供が仲裁に
入るというような家庭では、子供は、本来の子供の役割を超えた事を要求されている。
これが続くと、子供はいわゆるアダルトチルドレンとなる。この場合も子供はスポイル
されてしまう。健全な子供時代を送れないためだ。

典型的なDVは、甘やかされて育った父親が、家庭に過大な要求をすることから生じる。
子供の頃に母親がスポイルしてしまったために、そのライフスタイルを父親が保持し続けている
からだ。自分の機嫌をとることや、自分の欲求をみたすものとして、母親を解釈した息子は、
同じ役割を妻に押し付ける。そして、それがかなわないと、その他者を敵とみなすのだ。
また、家庭という共同体から要求されることを「不当な事」と捉え、反発するわけだ。

多くの場合は、そこまで大きなトラブルにはならない事だろう。上記の事柄は
程度問題である。極端に問題と言えるほどではないけれど、甘やかされた子供は、
状況によっては、かつてのライフスタイルを発揮してしまう。つまり、親に成長を
妨げられたがゆえに、その代償を払えと要求するのである。

難しいのは、子供への要求である。健全な共同体感覚をもった親は、その教育を、
共同体のそれへと添わせようとする。ところが、親が時流の世間の価値観に根ざして
子供に損得を叩き込むような事をすれば、子供がそもそも持っている共同体感覚を
狂わせてしまう。その狂った感覚をもって育った子供が親になれば、その家庭は
健全な共同体感覚を保持できないであろう。DVや虐待が連鎖するとはそのことだ。

現代は、都市化が進んだ。つまり共同を金によって提供する社会である。
すると、どうしても、人々は金を得る事=個人の生存の目的と考えてしまう。
金が協力を駆動するための手段から、金儲けが人生の目的になってしまう。

そのように歪んだ価値観は、共同体感覚から乖離してしまう。そして、可能な限り
効率的な金の儲け方を考えるようになる。金を効率的に儲けるには、得になる事を
すればいい。得になる事とは、能力をつける事の他、他者を搾取することである。
つまり獲物を独り占めする事である。そして得の合理化や効率化をその儲けた金で
強化する。

こうして、多くの人は、共同体感覚から乖離した価値観をもち、大筋としては、
自分や自分の家族が生存できる事がせいぜい考えられうる最大の範囲となり、
それ以上は自分の責任とは無関係という態度を取り始める。

本来的に共同体感覚に寄り添うこと自体が、人を幸福にする。人類はそう設計されている
からだとアドラーはいう。人間に備わった能力を十全に発揮するとは、人類普遍的な
価値観で生きることであると。

ところが、金儲けという手段の最大効率化は、協力を得るための手段であるがゆえ、
発達したのだが、時に行き過ぎたり不足する事があるために、共同体感覚から離れて
発展してしまった。結果として、協力を得るために必要な金を超えて稼ぐことは、
むしろ不幸な行為となった。一方で、金がない事に怯える社会になった。

金を軸にした社会がそのまま問題ではない。程度の問題なのだ。共同体感覚から
乖離するほどの経済活動は、幸福を増進するどころか、不健全なのだ。そして、
決して幸福感を得られはしない行為となってしまうのだ。

こう考えていくと、我々はかなり難しいフェーズにいる。
少子化が進んだ社会。親の置かれている状況が変化し、子供に健全な共同体感覚を
示せる大人は減っているのではないか? むしろ、大人たちが甘やかされた結果と
して、子育てに脅威を感じているのではないか?

子供は社会から要求されたとき、適切に応答しなければならない。その状態に
するのが親の責務である。いやもう少し言えば、社会の責務である。親だけの責任ではない。
社会が健全な共同体感覚を備えているからこそ、親もまた健全な共同体感覚のもと、
子育てができる。昨今は、母親に対する社会的要求度が高すぎる気がする。

社会がいささか狂っているのに、その価値観を脇において、子供には健全な共同体感覚で
接して、なお、子供が狂っている社会において、適切に要求に答えさせるよう教育する。
こんなものは綱渡りすぎるだろう。大抵は、失敗するに決まっている。

こうなると、社会は崩壊へ向かう。トータルとして、人の本性から逸脱した社会のありようは
社会そのものを崩壊させてしまうだろう。社会とは抽象的な概念である。正確には、
人々の間で繰り広げられるコミュニケーションの総体である。親子の関わりから、政治まで、
あらゆる人々のかかわり合いそのものが社会なのだ。それを構成するのは人である。人の
価値観である。

一体どうしたら、この社会がもう少しマトモになるのか。ひとつの答えは、
ひとまずは「子供を守る」事。親が駄目なら、子供に期待する他無い。そんな気がする。

他にもなにか手段はあるのだろうが、どうしたものか。。
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