2023年とはなんだったか? [思考・志向・試行]

今年は、隠蔽された悪事が露呈した年であった。

人々はうっすら気がついていた悪事の数々。
それが裁かれない形で、何十年も隠蔽され続けてきた。
そうしたものがいよいよ吹き出してきている。

問題は、これらがまともに裁かれる可能性が低いということだ。
どう贔屓目にみても、権力者がまともに裁かれることはなかろう。
残念だが、所詮、その程度の国である。

およそ、ちまたにも大なり小なりの悪事がある。
それらもまた、力関係によって押し切られているのであろうと思うと、切なくなる。

正義とはなんだろうか。
私には子供心にずっと疑問があった。
大人は悪事をダメといいながら、平気で殺戮を行う。殺戮を行うことを否定しない。
私にはその態度が、恐ろしかった。それは悪事を行うからではなく、態度との乖離である。

みるからに悪党が悪事をするのは解せる。
しかし、現実は違う。まともそうにみえる人が平気で悪事をするのだ。
いっていることとやっていることが違うことがもっとも恐ろしい。

そして、一番恐ろしいのは、自分が正義と思って無意識に悪事を働くことである。

他者を踏み躙ることがどれほど、悪影響なのかはもはや明白だろう。
それは些細なことからスタートしている。親が不用意に子供をどやしつける。
これも悪事なのである。ましてや罰を与えたとして、行動が変わるわけでもない。
そして、そうやって罰を与え、どやしつけれられて育った大人は、同じことを
繰り返す。

問題は、そのように踏み躙られた子供がどうなるかである。
一方では、反発し過剰な言動を繰り返す。一方では、無気力になり反応が乏しくなる。
どちらにしても大いに問題になる。その最大の問題点は、他者との関わりが困難になるということだ。

私の同級生に、おかしい奴がいた。
彼はどこか常に陰湿だった。いじめを繰り返すのである。
私は直感的に家庭に問題があるんだろうと思っていた。別に調べたわけではないが、
彼の家庭には決定的な問題があるのだと。

彼は同級生とまともな関係性を築けなかった。
彼は代わりに「子分」を作り出した。彼のいうことを聞くやつを拾い上げ、まるで子分にしたのである。
数人の子分をとっかえひっかえしていた。

明らかに、この連中らの間に友情などなかった。ただ、支配ー被支配の関係である。
およそどちらにも家庭に問題があったのではないか。

親にいびられた子供は、やられたことを誰かに繰り返す。もしくはやられたことを繰り返す。
親分となった同級生は、子分となった同級生を連れ回すことで、鬱憤を解消していたに違いない。
子分となった同級生は、子分という立場を得て、安心していたに違いない。

このような関係性との類似系を、テレビでみるようになった。
それが、とんねるずやダウンタウンだ。
その前ならば、ビートたけしである。

私には彼らの振る舞いがやはり、踏み躙られた人々の虚しい様に見えた。
そうしてそのようなものからは離れていた。

高校と大学と、そのような人々から全く離れることができた。
学があるということの意味はそういうことなのだと思った。

だが、世間では相変わらず、踏み躙られた人々が、その鬱憤を晴らすかのようにおかしなことを
している。ましてや政治においてすら、このような踏み躙られた人々が現れ始めた。

そして社会においても、またそのような人々が現れ始めた。

およそ、彼らは踏み躙られた人々である。その吐口が、外で出るのか内に向かうのか。
どちらにしても、まともに扱われなかった人々が、ああいうことをしでかすのである。
そして、どうも可哀想だが、直す薬もないようだ。一生、そのように過ごすらしいのである。

私は、そのような人々をみて、不幸だと思う。そして可哀想だと思う一方で、
常にふざけるな!と思う。自分の感情を自分で処理できないのは大人ではない。ただのガキである。

「ガキの使い」とはよくもまあいったものだ。
要するにガキなのである。

ガキが世間に意見する。アホらしくてたまらない。一度もみたこなどない松本人志のワイドショーで
いったい何をいっていたのだろうか。くだらないことしか言ってなかっただろう。

同じことは屈折した人々全般に言えることだ。屈折したことを言う人間は、
果たして、いつ大人になるだろうか。私の経験上、一生かわらないのだろうと思う。

社会ができることは、こういう輩を相手にしないという事なのだが、
これがまた恐ろしい手合いがいる。

こういう輩を利用して儲けようという連中である。
踏み躙られた人を利用するのである。私には、世間での成功者のイメージとは、
まるで、ひどい身売り話にしか見えない。メディアに出てくるような人々は、
苦しんだのではないか。かわいそうなだけにしか見えないのはなぜか。
結果として成功した、いや成功と呼ぶ何かになった。でもそこに幸せはあるか?

努力する事、誰かに負けたくないと挑める事、そんなことを動機にして行動している人に、
まともな人はいない。それは明らかに病理的なのだ。踏み躙られた人間の行為である。

一見すると、勉学に励むとかスポーツに励む、また仕事に熱中するなどは、良いことに
思われるだろう。問題はその動機である。やりたいからやる以外の動機であれば、
すべからく、踏み躙られた人間の動機なのだ。そして、強い病理の発生原因になる。

そんなことをいったら、ほとんどの人が踏み躙られてるのでは?
そう、それが正解なのだ。日本の国民の多くは、踏み躙られている。
だからこそ、それを体現するような芸人たちが、政治家たちがもてはやされるのである。

日本が異常なまでに、抑圧的で陰惨なのは、踏み躙られた過去を持つからなのだ。
そうしなければ、自己を保てないような人々で溢れかえっているということだ。

多かれ少なかれ、そういう人々がたくさんいる社会なのだ。

支配ー被支配に甘んじる多くの人々は、踏み躙られている。それが当然と信じているからだ。
そして、それを生まれてくる子供にも強要する。そのように扱うからだ。
そうでなくても、社会がそのように扱ってくる。日本という国はそういう場所なのである。

実に残念だが、日本では踏み躙られた人以外が過ごせる場所は殆どない。
必ず、誰かが踏み躙ってくるのである。そのように仕組まれている。

そういう場であることを直視すると、物事はよくわかるようになる。
踏み躙られた人間の鬱憤ばらしとして利用されている行為が世に蔓延していることに。

誰かをいじめたくなるような衝動とは、結局、自分がいじめられたという事であろう。
抑圧を受けた人間が、吐口を作り出すのは自然な事なのだ。

2023年とは、社会に潜在していた鬱憤ばらしが、悪事として世に認識され始めたという年だった。
悪事を勤しむ連中こそ、歪んでいる。歪んでいるがゆえに、権力に拘泥し、人を踏み躙ろうとする。

私には、ようやく国際的な基準の一端が、日本に流れ込んだのだという認識である。
諸外国で直視された問題に、日本はようやくそれが問題なのだと指摘されたという段階なのだ。
ここから日本がまともになるか、それとも、問題をうやむやにするかによって、日本社会の
行く末は大きく変わるだろう。

残念だが、日本が良くなる兆しはない。断言しても良いが、日本は沈むほかない。
どうせ、松本の件も、政治の不正も、カルト宗教問題も、解決ではなく、隠蔽と潜伏によって
隠されるだけであり、他者を踏み躙る人々を量産していくのである。そうして、踏み躙られた
人々が権力をもてば、同じように被支配者に対して、横暴を繰り返すのである。

人間とは、所詮、そんなものである。それが明確になった2023年だった。
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