日本社会の縮図ー山下達郎とJ [思考・志向・試行]
松尾氏がスマイルカンパニーとの契約を打ち切られた。
それは、松尾氏がジャニー喜多川氏の性加害問題について触れたせいだという。
このとばっちりを食らったが山下達郎氏だ。
泣く子も黙るシティポップの大物である。
山下氏がラジオで松尾氏への反論を行った事が火に油を注ぎ、
大炎上状態になっているのだけど、その本質的な中身について一言言及したい。
山下氏が「(私の言明が気に入らないなら)私の音楽は不要でしょう。」と皮肉とも
謙遜とも受け取れるようなセリフがクローズアップされているがそんなことはどうでも良い。
ことの本質は、喜多川氏が性的虐待をしていたという事実に対して、
どういう態度を周りが取るかという点である。
例えば、あなたが懇意にしていた人が、とある日犯罪で捕まったとしよう。
「そんなことをする人ではなかったのに」と思うかもしれない。けれども、
罪は罪である。友人といえど、罪は償うべきだという態度はごく普通だろう。
一方で、こういう人もいるかもしれない。
いままで懇意にしていたのに、犯罪で捕まったからといって、今までの仲を
変えるのはおかしい。いやむしろ、彼を庇うことこそが懇意の証になるのだ。
だから、犯罪を犯したからといっても、関係性は変えるべきではない。
それが義理や人情というものだろう。
このような問答については、過去の偉人が議論している。
カントである。カントは、道徳と幸福について考えた。
この道徳と幸福とは一般的な意味ではない。道徳とは社会規範のことを指す。
幸福とは義理や人情のことを指す。
カントはいう。本来的には道徳を幸福より優先させるべきだろうと。
そして、現実的にはこの順番が倒錯しており、多くの人は幸福を優先しがちなのだと看過した。
どういう事か?
例えば、政治犯として逃亡中の友人と出くわし、追われてているからもう行くと
いって去っていったとしよう。あとから、公安がやってきてあなたにこう聞く。
「***さんを知っていますよね? どちらに行かれたのかご存知ですか?」と。
むろん潜伏先を聞いている。道徳的に言えば、公安に正直にいうべきだろう。
社会通念としてはそれが善である。だが、正直に言えば彼は捕まってしまう。
それは友情として人情に欠ける行為ではないか。
どちらかを選ぶという状況に追い込まれた時、人はその立場が明確になる。
公安にどういう答えをするかに正解はない。
だが、道徳を優先するのか、幸福を優先するのかは明確に存在する。
このケースでは、道徳は蔑ろにされる場合が多いのではないか。
では、ジャニーズ問題に戻ろう。
山下達郎氏の事務所は、今までお世話になったジャニーズ事務所に対して
義理人情を優先することにしたのである。それはジャニー氏の性加害問題を不問にすることに等しい。
だが、犯罪である。どれほど親しくかつビジネスパートナーとして儲けさせてもらったとしても、
犯罪者を庇うのか?
多くの人がそれとなく分かっているが、ちゃんと明示されないのはこの事なのだ。
犯罪を犯したものへの態度とはどうあるべきか?という事なのだ。
これは別段、山下達郎氏の事に限らない。
政府要人であっても、世界平和家庭連合なるカルト集団に関わる事で利益を得ていた
国会議員たちは、カルト集団の犯罪に目をつぶってきた。その態度が問われているのだ。
一方では、こんな事例もある。山上容疑者は、安倍晋三氏を手製の銃で殺害した。
山上氏に直接関わった人たちは殆いないだろうし、山上氏の行為自体を不問にする人は
いないだろう。だが、山上氏が味わってきた苦渋を理解することはできるし、彼が
暴挙に出る動機もまた理解可能な範囲にある。山上氏を擁護する人すらいる。
これは、オカシイことだろうか?
犯罪者に対してどういう態度をとるかは、人それぞれだろう。
道徳と幸福のどちらを優先させるかは、存外難しい問題である。
それは、松尾氏がジャニー喜多川氏の性加害問題について触れたせいだという。
このとばっちりを食らったが山下達郎氏だ。
泣く子も黙るシティポップの大物である。
山下氏がラジオで松尾氏への反論を行った事が火に油を注ぎ、
大炎上状態になっているのだけど、その本質的な中身について一言言及したい。
山下氏が「(私の言明が気に入らないなら)私の音楽は不要でしょう。」と皮肉とも
謙遜とも受け取れるようなセリフがクローズアップされているがそんなことはどうでも良い。
ことの本質は、喜多川氏が性的虐待をしていたという事実に対して、
どういう態度を周りが取るかという点である。
例えば、あなたが懇意にしていた人が、とある日犯罪で捕まったとしよう。
「そんなことをする人ではなかったのに」と思うかもしれない。けれども、
罪は罪である。友人といえど、罪は償うべきだという態度はごく普通だろう。
一方で、こういう人もいるかもしれない。
いままで懇意にしていたのに、犯罪で捕まったからといって、今までの仲を
変えるのはおかしい。いやむしろ、彼を庇うことこそが懇意の証になるのだ。
だから、犯罪を犯したからといっても、関係性は変えるべきではない。
それが義理や人情というものだろう。
このような問答については、過去の偉人が議論している。
カントである。カントは、道徳と幸福について考えた。
この道徳と幸福とは一般的な意味ではない。道徳とは社会規範のことを指す。
幸福とは義理や人情のことを指す。
カントはいう。本来的には道徳を幸福より優先させるべきだろうと。
そして、現実的にはこの順番が倒錯しており、多くの人は幸福を優先しがちなのだと看過した。
どういう事か?
例えば、政治犯として逃亡中の友人と出くわし、追われてているからもう行くと
いって去っていったとしよう。あとから、公安がやってきてあなたにこう聞く。
「***さんを知っていますよね? どちらに行かれたのかご存知ですか?」と。
むろん潜伏先を聞いている。道徳的に言えば、公安に正直にいうべきだろう。
社会通念としてはそれが善である。だが、正直に言えば彼は捕まってしまう。
それは友情として人情に欠ける行為ではないか。
どちらかを選ぶという状況に追い込まれた時、人はその立場が明確になる。
公安にどういう答えをするかに正解はない。
だが、道徳を優先するのか、幸福を優先するのかは明確に存在する。
このケースでは、道徳は蔑ろにされる場合が多いのではないか。
では、ジャニーズ問題に戻ろう。
山下達郎氏の事務所は、今までお世話になったジャニーズ事務所に対して
義理人情を優先することにしたのである。それはジャニー氏の性加害問題を不問にすることに等しい。
だが、犯罪である。どれほど親しくかつビジネスパートナーとして儲けさせてもらったとしても、
犯罪者を庇うのか?
多くの人がそれとなく分かっているが、ちゃんと明示されないのはこの事なのだ。
犯罪を犯したものへの態度とはどうあるべきか?という事なのだ。
これは別段、山下達郎氏の事に限らない。
政府要人であっても、世界平和家庭連合なるカルト集団に関わる事で利益を得ていた
国会議員たちは、カルト集団の犯罪に目をつぶってきた。その態度が問われているのだ。
一方では、こんな事例もある。山上容疑者は、安倍晋三氏を手製の銃で殺害した。
山上氏に直接関わった人たちは殆いないだろうし、山上氏の行為自体を不問にする人は
いないだろう。だが、山上氏が味わってきた苦渋を理解することはできるし、彼が
暴挙に出る動機もまた理解可能な範囲にある。山上氏を擁護する人すらいる。
これは、オカシイことだろうか?
犯罪者に対してどういう態度をとるかは、人それぞれだろう。
道徳と幸福のどちらを優先させるかは、存外難しい問題である。
2023-07-19 13:26
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