負の強化が社会を滅ぼす [思考・志向・試行]

負の強化を知っているだろうか。

何かを自分や他者にやらせようという時、方法論が2つある。
正の強化子か、負の強化子だ。

正の強化子とは一般には報酬と呼ばれる。
負の強化子は少々わかりにくい概念である。
一般的な言い方ならば、「嫌がらせをしてやらせる」事を意味する。

嫌がらせなのに、なぜやる事になるのか?
それは程度の差こそあれ、命を人質にされているという事である。

ほとんどの人は、自分の命を惜しむものだ。
その生命を人質にされると、人は行為に及ぶのである。

もしあなたが、銃を突きつけられ今すぐ金をだせと言われたら、やむを得ないと思うだろう。
これをスケールダウンしていくと、負の強化と呼ばれるものになる。

もっとも発生頻度が高いのは、親から子供への負の強化だ。
叱る事で、何かをやらせようとする。
勉強しなさいと言う事で、勉強をやらせようとする。
もう少しだけエスカレートすると、殴る蹴るによってやらせようとする。
いわゆる虐待である。

負の強化はもちろん、大人の世界においてもっとも使わえる。
上司が、部下を叱る。叱責する事で、仕事を進めようとする。
あたりまえじゃないか、と思っているならば、認識を改めた方がいい。
それはちっとも当たり前などではない。

動物たちに同じようにして芸を仕込むとしよう。
やらせるために、ムチをふるったとする。
動物はどうなるか。力ある動物であれば反抗するだろう。
力ない動物であれば、逃げるだろう。そう、芸を仕込むことに100%失敗する。

つまり、暴力でも叱責でも、嫌がらせをして何かをさせるというのは、
生物学的な視点からみれば、ナンセンスの極みであって、何の意味もない行為なのだ。
暴力を加えようという労力はかければかけるほど、加えられた人はやる気を喪失し、
その行為から回避しようとする。これが正常な反応である。

ところがだ。

これを訓練するのが近代国家である。
近代国家の学校教育とは、軍隊を作るためというのがその大目的であった。
言葉を習うのは、命令が行き渡るようにという事。数が数えられるように
するとは、人や武器の数が分かるという事。運動するのは文字通り、戦うため。
これが近代国家からみた、教育である。

この教育の一部が、負の強化を通常なこととなるように洗脳することが含まれる。
むろん、これはもっぱら日本のような全体主義の国における話だが。

親、教師、上司は、子供、生徒、部下を怒鳴り散らし、叱責することで、
目的行動を取らせるように、訓練するのである。
これが日本の社会におけるドグマになっている。

このようなものはコミュニケーションとは言わないが、
これをコミュニケーションと考える人間ばかりがはびこる理由は、
単に国をあげて、負の強化の一般化を行っているからである。

繰り返すがこれは、決して人類に共通する話ではない。ただの文化である。
そして、日本の伝統でもない。ごく最近の富国強兵がスタートした時代からの
現象である。むろん、この負の強化の一般化を行っている国は他にもあろうが。

この概念をねじ込まれた国民は、
負の強化を正しいことと勘違いして人生を生きて死ぬ。
一生、気がつくことはない。だが、その負の強化の一般化は、
不幸しか生み出さない。

負の強化によって生まれてくるのは、全体主義とファシズムである。
物理的・精神的暴力によって、人を管理する社会になる。その証左が日本である。

一見すると、日本社会はうまくやっているように見える。
全くのウソである。大人のほとんどは、負の強化によって精神的に蝕まれていて、
それはほとんど病気と言っても良い。その病気は特定の症状を呈する。

酒、タバコ、ギャンブル、性的快楽、こういった事ならまだしも、
過労死、ワーカホリックも病気であり、結果としての社会的成功もまた症状の一つなのだ。
社会的成功というのは、負の強化のいきつく先であって、殆ど神経症の領域である。

このような事をしなければ、正気が保てないのは、負の強化の犠牲者だからである。

彼らの生活には「べき」「べし」が多い。それは要するに、負の強化内容を内面化している
からだ。大元をたどれば、べきやべしの中身は、親に言われたから、教師に言われたから、
上司に言われたからに過ぎない。そのトップであっても、株主に言われたから、資本家に
言われたからであって、総理大臣になっても、ロートル議員に言われたから、アメリカに
言われたから、という形で自分の行動を制御しているのである。

そして、二言目には「自分がそうしたいわけではないのだけど。」とエクスキューズする。
つまり責任回避なのだ。

世間がこうしろといっている。だから否応なく、自分は子供に、生徒に、部下に、
負の強化をするというストーリーで、自分を納得させる。また、自分もそうされてきた
という過去の軛によって、同じことを繰り返す。

このような大人ばかりが目立つ。そしてその無意味な負の強化に唯唯諾諾と従う
大人たち。波風を立てないようにするという事ばかり気にして生きる。
結局、事大主義なのであって、決して褒められるような態度ではないのだ。

負の強化の結末ははっきりしている。そのような行為をするものに対する
潜在的・顕在的憎悪である。そしてその強制された行為への嫌悪が植え付けられる。
その結果、世界に憎悪を撒き散らす存在になるのだ。


この枠組みに組み込まれる事は、いわゆる日本人化と呼べるだろう。
日本人とは、この負の強化システムに組み込まれた人を指す。

一方で、このような枠組みではない諸外国の人々は、日本人には絶対になれないのである。
むろん、ならない方がいいが。

負の強化によって動く人間を作り上げることは、戦争という場面においては
有利であった。そして経済戦争においてもだ。

ところが、価値を作り出す、生み出すという点においては決定的に失敗をする。
何しろ、負の強化によって作り出された人間がもっとも縁遠いのが創造性だからだ。
なにしろ、全ていやいややっているのであって、そこに創意工夫などの主体的
行為が発生するはずがない。

そして、負の強化により、大嫌いになった仕事と、仕事場の人間を、あたかも
良い仕事、良い場所、良い人間関係と思うように生きている人が如何に多いことか。
欺瞞がすごすぎて、狂人としか言いようがない。狂っている事に気が付かない人ほど
手に負えないものはない。

日本の問題の根幹は、この負の強化である。


日常的に負の強化を聞かぬのは、それは別の言い方をされるからだ。
ハラスメントや、虐待、体罰、暴力、場合によっては「教育」「指導」「叱責」
と言い換えられている。だが、全て負の強化である。

すべての日本人、私も含め、多かれ少なかれ、負の強化を受けてきた。
そして、負の強化をしているのである。その結果、また負の強化をする人間を
量産しているのである。

日本が衰退したのは、この仕組みはもはや時流と合わないという事だ。
負の強化戦略は、もう時代にマッチしていない。

だが、この体制を維持することだけが目的化した大人たち。
その悪あがきが、現代の政治問題にまで及んでいる。

今の与党政権は、この負の強化が弱ってきたことが日本の衰退の要因と考えているのだろう。
だから、これを引き締めれば、日本が発展するとでも思っている。愚昧な人々である。

そもそも非人間的、いや、非動物的な負の強化で、やる気やイノベーションが
起こるわけがない。こんなことを是とする社会に人が増えるわけがない。

負の強化による体制維持はもはや崩壊するのみである。
今を生きる人々はそれを目撃することになろう。

問題は、その目撃によって自分もまた生活を破壊されてしまうかもしれないことだ。
自分は全く悪くないと思った人もいるだろうが、あなたが果たして負の強化を
他者にしなかったのか? しなかったと言い切れる人間は、おそらく日本に
住んでいられないはずである。

あなたもまた加害者である。それは理解するべきなのだ。
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