左派やエリートの冷血さともどかしさ [思考・志向・試行]

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74417
石戸諭氏の記事である。

これを読んでいてふと思うのは、左派的な思想性をもつ人々の裏返った冷たさだ。
どこまでも、理知的なエリートたちは、論理で世界を把握しようとする。
その世界の把握が、感情や情動といったものを置いてきぼりにしている。

一方で、世界に住む人々の大部分は、もっと利己的で短絡的な人々である。
こう書くとおこがましいのだろうが、批判的思想や自己批判が出来る事自体が
相当に高度な知的行為である。大抵の場合は、そんな事を考慮しない。
なぜなら、そういう態度は「負け」と世界は規定しているのだから。
よって、仮に理知的に理解はしても、ふるまいとしては、短絡的な情動をのせた方が
良いということになり、そのような態度がデフォルト化される。

それはある意味ではやむを得ないのだろう。
だが、一方では物事を理知的にコストをかけて理解した人々がいる。
その人々からいえば、物事に対する短絡的な態度は馬鹿にしたくなるようなものだろう。
そして、一種のパターナリズムが発動する。啓蒙というやつである。相手の理解を
見限った場合は、命令や強制というものに変化する。

世界を理知的に把握したエリートたちが、こうすれば良いと考えること。
それは一見すると、短期的に損をふくむ事が多い。場合によって、事実上損をする。
だが、その損を上回る得が全体として体現出来る。こういう物事の決定指針は、
民主主義にそぐわないのは当然である。

たとえば原発問題。この問題は二重にねじれているので厄介なのだが。
他には、環境問題である。環境問題を自分たちの問題と考えないのは、もはや
反知性主義であると断定できる段階である。多くのデータを信用するならば、
温暖化は発生しているし、もっと具体的には多くの森林伐採が行われており、
それだけをみても、人類の持続性は危ういのである。

そこで、知的エリートはこういう時に、正当な手続きで人々を説得しようとする。
つまり人々に警告を与えて、行動を変容させようという事だ。そして、その行動とは
大抵の場合「短期的な損で、長期的な得」である。

だが、説得すべき相手はどういう人々であるのか。説明をそもそも理解不能である
場合と、その説明を理解した所で、そのような行動をとる事を嫌がる人々である。
その結末はどういうことか。

昨今の反知性主義とは、要するに「あいつらわけわからないことをいって、
俺らを騙そうとしてるんじゃないか?」と言う懐疑主義である。

エリートたちとの間にある相互不信が、問題を大きくしているのだ。
知恵あるものの判断を仰ぐのは、人類の知恵であった。だが、その知恵あるものが、
自らの利益しか考えないとしたら? その時、普通の人々は理解可能なものに親しみを
抱くだろう。理解可能な中身とは「短絡的で目先の利得を押し上げる」言説だ。
そして、わけのわからない理屈ではなく「単純でわかりやすい断定」言説である。


民主主義を構成する人々は一般的知性である。ところが、社会は日々複雑化していく。
あらゆる場面で物事がややこしくなるのだ。社会を複雑化させるのはエリートたちの
やり口でもある。複雑な仕組みであれば、騙しが効くからだ。法律は日々ややこしく
なるし、社会のありようもまた同じ事。ましてや情報を得る手段として発達したネット
だって、ますますややこしくなっている。こういう時に何を信じて行動するといいのか。

全体を細部を含め理解できるのは、知的エリートたちと言いたいところだが、
もはや、知的エリートすら全体把握は無理であろう。そのくらいに社会はややこしい。
だが、問題を限定すれば、知的エリート達はきちんと正解を導く。残念なのは、その
ことだけみても、一般的な人々からみれば十分に複雑なのだ。

結果、知的エリートは結論だけを連呼する。そして現状の危機を説明して行動変容を促す。
理路が正しいならば、誰でも同じ解にいきつくはずである。これが知的エリートの思考法だ。
そして、間違えならば、誰かが修正するだろうと考えている。

ところが世間は違う価値観を持つ。回答は唯一にして完璧正解であるべきだと思っている。
そして、その答えとは「自分でも理解できる」と信じているのだ。

これはリベラルが追い求めてきた事柄でもある。かつては、非知性的な態度が支配していた。
それを知性は打破してきたのだ。ところが、知性のありようが複雑化した結果、こうした
方が良いという内容が、実にややこしくなった。一見すると常識外の事が答えになったりする。

また、知的エリートたちも酷いもので、バカは相手にしないという態度をとることが
しばしばである。結果として、理解させようという気がない人々が多くなり、理解したいと
思う人達は減った。また、そもそも的に、知的エリートはその差分によって高給取りに
なっているわけで、他者が同様に理解するならば、自分の立場が危うくなってしまう。
例えば、法律家などは、顕著であろう。法を理解しているかどうかで、金を稼ぐのだから。
ルールは複雑な方が良いのだ。それを理解できない一般的な人々は損をする仕組みである。

こうして、一般の人々は知性主義から離脱していく。知的エリートの言説がややもすると
信じられない場合や、ややこしくて理解できない。そういう時に、自分でも分かる単純化
した言説を、断定する人間が現れたらどうだろうか? さらに自分でもそう思っていたと
したら、同士が現れたと思うだろう。

この状態をネットが冗長する。自分にも理解可能な言説を流布する人々がいて、それに
賛同する。そのコミュニティに入れば、そこでの言説が常識化していく。

我々はこのような事態にまだ、対応しきれていないのだ。個々人が、自己にとって心地よい
思想に浸かっていられるという状態に。そのようにして常識を改変した人々同士をどうやって、
政治的にコンセンサスをとるかということに、まだ何も対応できていない。

その結果として、日本では安倍晋三がのさばり、アメリカではトランプが、フランスでは
マクロンが長となっている。彼らの言動は実に単純である。古典的といってもいい。
そこにリベラルさはない。意味不明な知的な理路は存在せず、問題を断定し、その解決策を
示す。彼らを求めていたリーダーとみなす人々が一定数いるわけだ。その言動が、どれほど
差別的であったり、ウソやデマに溢れているか、それは問題にならないのだ。

本当に恐ろしい事だ。ウソつきリーダーの言説を、ウソだと見抜く力がないのか、あっても
それで良い、なぜなら、自分たちも同じ様に考えているからという事実。

これに対して知的エリートたちも黙ってはいない。嘘つきがウソであると暴く。そして、
正しい事柄を説明する。だが、それは一般の人々の耳には届かない。むしろ、嘘つきの
言説が正しいと思ったほうが、自分にとって居心地が良いためだ。

残念なことだが、これが現状のあり得る描写である。

これを踏まえると、知的エリートたちのまともな言説はいっこうに広がらないだろう。
なにしろ、受け取り手がバカなのでわからないからだ。その一方で、同じ様に愚かな
エリートも存在する。名誉や地位をもっとも求めるような愚かなエリートは、知的
エリートの邪魔をする。問題なのは、知的エリートと愚昧エリートの区別が一般の
人々には不明だからだ。

こうして、愚昧エリートは、その愚昧さ故に、人々から支持される。その愚昧さとは、
非知的思想なのだが、実はの非知的思想こそがマジョリティなのだから、仕方がない。

原理的にいえば、社会が複雑化し、一般の人々が理解不能な領域が増えるほどに、
知的エリートと一般の人々の間には溝が生まれるのだ。そして、そこに対立が生じる。
知的エリートの願いは、ただ、正しい情報を提供し、人々が間違ったことをしないように
と訴えているのに。人々はそれを否定し、話をきかないのだ。なぜなら、自分たちにとって
都合が悪いからである。

昨今の多くの問題の発生源が、そもそも一般の人々の一般的行動に由来するという事なのだ。

わかるだろうか。その考察を知的エリートが実行すると、「悪いのはあんたらだ」という
結論が出る。果たして、お前が悪いと言われて、はい、そうですか、自分たちの行動を変えます。
なんてことが起こるだろうか?

また、現代人は自己認識が二極化している。一方には、自己肯定感が低すぎて苦しむ人々がいる。
反対に、自己肯定感に溢れ、自己の問題を理解しない人々がいる。一般人は大抵の場合、自己を
実際以上に肯定している。無論、それが心理的に健康なのだが、それが大きな問題を作り出す。

自分の理解を越えたものは、無視する。こういう思考の仕方を内面化するからだ。
理屈は単純で、自尊心を守るためである。自分が理解できないと表明するのは、この世界では
「負け」である。それ自体が失態なのである。すると態度は、反発か無視かの二択である。
そこに理解をするという行為は存在しない。

その結果は、当然、あやまった行動である。近視眼的には得であり、長期的には損をする。
そういう行動である。それは、我々が考慮すべき時間の射程が長い方が有利に振る舞えるのと
相同である。

さて、再度戻ろう。一般人が、特定の問題において誤った行動をとっている。それを知的
エリートが考察して、問題点を明らかにしたとする。じゃあ、その解決策や問題のあり方を
受け入れるだろうか? 否。 無視するか、反発するだろう。

そもそも人数的に知的エリートは数がいない。その一方で愚昧エリートは多いし、更に
一般人は圧倒的に数が多い。この状態で民主主義を貫徹したら、どうなるか。あたりまえだが、
愚昧政治になることだろう。そして事実愚昧政治が横行している。

まあ、どうにもならないのかもしれない。


知的エリートにも問題はある。彼らは時に冷血にみえる。事実冷血のこともある。
それは問題がどうにもならないまでに対応できなかった人々をみて、愚昧だと切り捨てたり、
こうすべきだと頭ごなしに行動を強要させたりするのだから。

また、知的エリートになるために、知性による競争を勝ち抜いてきている。そこにあるのは、
知的に優れていれば、ほかはどうでも良いというくらいの許容がある。だが、知的に優れている
事と、人格が優れていることはまるで別の事だ。極めて知的で、極めて悪辣な人間は確かにいる。
そして、知的エリートの生成過程から、彼らの内面にあるのは、「自分は勝ち抜いた人間なのだ」
という自負と、「勝ち抜けなかった人間たちは努力不足なのだ」という蔑視である。

こうして、また、知的エリートと一般人の間には溝が生じるのだ。

だが、そういう感情的対立は、実に不毛である。なぜなら我々は同じ船に乗っているのである。
対立している暇などない。対立を煽って儲けている愚劣なメディア人間は少なくない。そして
一般人はそういう対立を喜んで消費する。

こうなるともうどうにもならない。知的エリートで良心をもつ人々も、一般人の一部が
発揮する感情的反発や、酷い差別などをみて、諦める事だろう。そして、「こいつら駄目だ」と
断定するに至るのである。

知的エリートが、正しいことを訴えても、政治家は聞く耳を持たない。人々にとって
良いはずの事が、採用されず、ごく一部の人間だけが得をするような政策が大手をふって
実行されていく。それは「勝ち抜いた自分たちに有利にする」のが当たり前という価値観である。

知的エリートが牛耳る、官僚と大企業は政治家を利用して、自分たちの利権を広げる事に
終始する。それで何が悪い? いや、悪くはない。今の資本主義とはそういうものだ。
そして民主主義とはそういう事だ。社会は理想のためにあるのではなく、勝ち抜いた人々の
ものなのだ。これがリアリズムである。

勝ったという言い方はおかしなことだが、それで良いと、権力をもつ人々は考えている。
そういう人間しか権力を志向せず、上に立たないからでもある。大抵の長とはたぬきじじい
やばばあであろう。人格者ではやっていられないものだ。


ここまで理解したら、どうして現代日本が失敗してるかはっきりするだろう。
その対策はどこにあるのか。

安富氏は、どうにもならない大人は諦めて「子供を守れ」と主張している。
宮台氏は、どうにもならない社会は、どうにもならないのだから、とっとと崩壊して
新しい世界をその先に築くしかないだろうと言っている。

私は、彼らほどざっくりとは割り切れない。どこかで一般知性を信じているのだ。
個々人に存在する良心をもっとかき集められないだろうか。その方法はないのだろうか?
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命の尊厳ー尊厳死とは? [思考・志向・試行]

本質的なことだが、我々は日々、死に向かっている。
よって、いつ死ぬともわからないのだが、それは日常的には隠蔽されている。
そして、常にやるべきことの中で生きている。

そんな中で、難病というものにかかる事がある。
ALSとは、意志の発露を失ってしまう病気である。

多くの人は実感はないだろうが、我々は出力を断たれてしまうと、
何も表現できなくなる。筋肉の動きこそが我々の意志を体現している。

ALSの人はそれを恐れている。自分の意志が発揮できない状態になること、
それが、一種の社会的な死をもたらすことを。生きながらにして、死んでいることを。

患者の中には、それを自らの意志で乗り越えようと考える人がいる。
それは死を自分のものとすることだ。そうすることで、自己の尊厳を保持しようとする。

我々は幸か不幸か、意識を持つ。意識とは脳によって生み出される機能だ。
一方、肉体はつねに生を選択する。生物とは生きるために存在しているからだ。

もともと、脳は生を確実にするために生まれた。
ところが、脳は身体の生と切り離された「生と死」を持つことになった。
それは社会的な死である。社会とは脳が感受する存在である。ある意味で実在といってもいい。
なぜなら、我々はその実感がないと社会的には生きられないからだ。

脳は身体の生よりも、脳の「生」を優先させる。
それがいわゆる尊厳死である。脳の「生」を優先するがために、身体的死が選択されるのだ。

死んでしまっては元も子もないと人は言う。
この場合の死とは身体的死であろう。
だが、ことはそんなに単純ではない。

人には「脳の生死」があり、身体の生死よりもむしろ重要なのだ。

だからこそ多くの人類は、身体の死よりも、脳の「死」を恐怖した。
より正確に言えば、人は身体の死は実感不能であり、ただ、脳の「死」のみを想像するに
過ぎない。身体が死ねば、当然従属関係にある脳も死ぬ。よって人が身体の死を怖がるのは、
身体の死が脳の「死」につながるからだ。

この脳の死に対する恐怖は、反動で様々な宗教を作り出した。だが、根本は常に、
死への態度である。宗教とは結局、死する運命にある我々の心情の支えである。

私達が尊厳死を前に考えるべきことは、脳の「生死」の決定権を、身体の生死より
優先して良いのかどうかという点であろう。

脳の「生死」は、現代人にとって、世界全てである。ならば、その脳の「生死」を
最優先して何が問題なのか? その「生死」の有り様は、本人の意志に従うべきではないか。

これが現代人のある意味でのコンセンサスであろう。
ならば、日本では違法である「尊厳死」はなぜ正当に扱われないのか。
また、自殺についても同様である。自己の生死を自己が決定して何が問題なのか。

実のところ、我々はそこまで割り切れないでいる。
自殺が問題なのは、本人の問題だけではない。周りの問題でもあるのだ。

他者の死がもたらす影響は決して小さくない。
その根本までたどれば、その死が、自己の死を想起させるからだろう。
そう、隠蔽した自己の死をだ。

死の悲しみは、戻せないという事にある。取り返しがつかないということ。
我々はその感情を乗り越えるすべを未だにもたないのだ。そして、それにショックを
受けるということそのものが人間らしさであろう。

尊厳死は、現代人の矛盾をついてくる。
脳の「生死」は、身体の生死にまさるのかどうか。

忠臣蔵において討ち入りを果たした侍たちは、ほぼ確実に死ぬ運命だと分かっていた。
それでなお、討ち入りを行ったのは、ある意味で尊厳死である。
社会的な生死こそが、大事であるという信念がそこにはある。
身体的な死を通じて、社会的な「生」を保持するということなのだ。

その社会的な「生」とは自己への言及とは限らない。他者の社会的な「生」や身体的生の
ために、自己の命を使うということもあり得るのだ。事実、多くの戦争においては、
そういう想いが利用されたのだから。

自分の命を使うことで、つまり、身体的な死をもってして、社会的な「生」を得られる
機会があるときに、人はときに社会的な「生」を求めるのだ。そのくらいに脳は強烈
なのである。

もちろん、身体も黙ってはいない。身体は脳に強烈な生への欲望を喚起する。
生物の目的が生である限り、その生を失うことに対して、最後まで抵抗するだろう。

我々はそこまで割り切れない。結局、死を前に、自己葛藤して苦しむほかはない。
受容するにしても、大きな葛藤は否めない。我々には、それしか道は残されてはいない。
横着は許されない事柄である。

考えてみれば恐ろしい事だ。すべての人が、この自己葛藤から逃れられない。
キリストはこれを原罪と言ったのであろう。我々が意識という「生」を授かってから、
常に、ずっとこの恐怖は人々のそばにあったのだ。

闇雲に恐れることはない。その一方で、自らを死について避けては通れない。
それを避けようとすればするほど、大きな問題となって立ちはだかるだろう。
どんなに金を積んでも、権力をもっても、死ぬのである。

もう少し、これについて考えてみたい。
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日本の構造:大企業と中小企業 [思考・志向・試行]

「日本のしくみ」小熊英二著を読み始めた。
データベースによる社会学の本だ。

まだ、出だしだけしか読んでいないが、なかなか興味深い事が記載してある。
現代日本の経済的社会構造を3つの形態にまずは落とし込む。
「大企業型」「地元型」「残余型」である。ぞれぞれ、26%、36%、38%の割合という。

「大企業型」というのは都市型ホワイトカラーをイメージすれば良い。
満員電車にゆられて会社に出勤していく人々である。いわゆる「カイシャ」生活だ。

「地元型」というのは、もともとは農林水産業、つまり一次産業と接点をもつ人々だ。
地域社会で生活している。商店をやったり、農業をやったり、様々なスタイルがあるが、
基本的にローカルで生活がまとまっている人々である。いわゆる「ムラ」生活である。

これ以外の状態を「残余型」と呼ぶ。その他型でも良かった気がするのだが、
小熊氏は残余と書いた。

日本社会が用意している生活スタイルはおおよそ、いずれかであるという事だ。
残余型を当初から目指す人はともかく、普通に暮らしていれば「大企業型」と「地元型」の
二択である。かつての日本はまだまだ農業など一次産業に従事する人々は多かった。
家業を継ぐ人々も少なくなかった。その彼らの中から、都市部へと金やムラから脱出を
試みた結果、都市部の企業への就職が果たされるようになったわけだ。

中小企業の立場は大企業型とも地元型とも言えるが、その違いは採用スタイルである。
大企業は全国、場合によっては世界から、人を募集する。一方で、体力的限界から
中小は地域から選抜する。結果として、中小は地元型になりがちである。

結局、都市部の大企業と、地方の中小企業という図式になる。大企業には大卒の
ホワイトカラーが属し、地方の中小企業には、地元の熟練職工たちが取り仕切る世界がある。
大企業は系列会社に仕事を発注し、それを地域の企業が下請けするという形である。

ざっくりと言えば、大卒は都会へ出てホワイトカラーになり、高卒や専門学校卒は
地元に残って、中小企業で働くという事だ。そして、この形態が日本の社会保障を
決めている。だが、近年ではこの枠組から溢れる人が増えてきた、それが社会問題なのである。

日本型雇用の特徴として
・終身雇用
・学歴主義
がある。

大企業型が社会全体の雇用形態を牽引する。その大企業の採用の思惑は、ポテンシャル
のみである。よって、何を勉強してきたかに関わらず、大学名によって取捨選択する。
このような人材を全国から広く採用するという慣習によって、子どもたちは受験戦争を
行うことになった。知名度のある大学を「卒業」したという事が、唯一評価される
ポイントなのだ。その仕組みを肌で感じている親たちは、なんとか子供をこの路線に
のせようとする。

なぜならこれがいわゆる既得権益への入り口だからだ。
日本における社会的成功とは、知名度のある大学を出て、官僚ないしは大企業の社員になり、
それなりの給与で、組織に守られながら40年ほどの時を過ごすという事なのだから。
それは他の立場よりも圧倒的に有利であるという事に尽きる。腐っても大企業なのだ。

国は経団連と癒着している。大きな企業は様々な面で優遇される。仕事の受注だけでなく、
税金にしても、年金にしてもだ。その「美味しい」立場を求めて、若者たちは競争する
という仕組みをこの数十年続けてきたというわけだ。

日本の大企業は、ポテンシャルのある人間をカイシャという名前のムラに招き入れる。
なにしろ40年もあるわけだから、何かが身についている必要はない。時間をかけて
使える人材にすればいいわけだ。そして評価体系は、ひたすらに勤務日数に比例する。
これは労働者を一つの企業にしばっておく方法である。長く居るほどに退職金や年金が
増えるのだから。多少の不服には目をつぶることだろう。

逆にいえば、大企業に採用されさえすれば、ひとまずは安心できる。それが日本社会の実情
である。そのようなものが数十年の続いた結果として、企業が求める人材はある型がでてくる。

それについて、内田樹氏はこうつぶやく。
”日本の学校教育が子どもたちに求めているのは「上位者に抗命しないこと、
無意味なタスクに耐えること、査定に基づく資源分配が唯一のフェアネスだと信じること、
周りの子どもの市民的成熟を妨害すること」です。そういう子どもばかりだと管理コストが
削減できますからね。”と。

そう、従順な命令に従い、それでいて与えられた仕事をこなす人間。これが大卒の人間に
求められる資質になってしまった。こういうフィルターで人を選抜しているのだから、
やるべきことが定まっている時はとても物事がスムーズに進むことだろう。だが、一旦
イレギュラーな状態になったとき、つまり社会情勢が変わってしまい、今までと同じ事で
儲からなくなった時、新規な事に挑戦するという事にはならないのは明白だろう。

また、官僚たちや大企業の人間たちがこのようなメンタリティということは、日本全体の
経済圏は、現状維持マインドという事になる。そうして意地でも、今までと同じを目指そうと
する。なぜなら、それが「正解」だと思っているからだ。価値観を時代に合わせて柔軟に
変える事ができない。

40年も同じ会社で働いているのだ。そのムラの中では、いろいろな事が生じる。
だが、多くの人は事なかれ主義のはずだ。なぜならそういう人間をこそ見つけて採用しつづけ
たわけだから。考えようによってはおおらかであるが、逆にいえば、やる気などどんどん
失われる事だろう。何しろ、がんばっても、給与は一定にしか増えない。出世するといえど、
上がつかえている。変な肩書が増えていくのみだ。そうして、カイシャというムラは、
その活気を失う。まさに、それが日本社会の現状を繁栄している。

一方で、中小企業はもっとシビアである。仕事の継続性は会社の規模に比例する。よって、
常に資金繰りが厳しい状態に置かれ続ける。ギリギリで耐えていた経営者が不景気になると
クビをくくるのは、そのシビアさの現れだ。そもそも、人材が不足している。若者たちは
都市へ憧れ、都市部へと流れる。地元に残った高卒を母体とする商工会は、つねにどうやって
消費を増やそうかと頭を捻っている。

地方のジレンマは、人材が都市部大企業へ移動してしまうことであり、人口そのものが
減って活力が減退することである。しかし、若者がより「豊かな生活」を求めて、
ホワイトカラー職を追い求める事を止めるのも難しい。自分たちの農業生活ではジリ貧なのは
明確だからだ。そこにある金銭以外の豊かさは無視され、現代日本の社会における普通生活
を築こうとすれば、都会へと移り住むほかない。

地方の若者の一部は、大学へ行き、高卒や専門卒は、中小企業で働き始める。
この大枠の中で、様々な問題が生じている。それが今の日本である。

ちなみに、人材の流動はそうそうに起こらない。なぜなら、それが損な仕組みであるためだ。
大企業ムラに入った人間は大企業間を渡り歩く。もしくは中小企業にうつる。中小企業の
人間は、中小企業内を渡り歩く。もしくは、非正規になる。とりわけ女性や高齢者はそうなる。

大企業が終身雇用を維持する事で、企業内人事統制をとったわけだ。それはインセンティブで
あったわけだが、それが長く続いた結果、入った人間はその能力がスポイルされてしまった。
面従腹背でなければ、なかなかつらいのが組織内での行動なのだ。そこには会社都合の転勤
や、サービス残業への圧力がある。今の職をやめると損をするのが明確なのだから、多少の
我慢はやむを得ないと、休日出勤するのである。

これがエスカレートすれば、社畜やブラック企業化する。他にいく当てがなければ、
当然ながら、従業員の搾取はその力を強める事だろう。

不景気になれば、中小企業だって同じ事だ。地元にはなかなか就職口がない。
ともすれば、嫌な仕事であっても、引き受けざるを得ない。そうして、不本意な仕事に
従事する人達が増えていく。

日本の雇用が、長時間で低生産なのは、仕事へのインセンティブがない事と、
従業員の創意工夫など、求められていないという事に尽きる。評価がひたすらに、
在籍期間なのだから、何をしたからといって、大した事ではない。むしろ、何かをやろうと
すれば、新しい仕事を増やしかねない。そうなった時には、同僚から恨みを買うことだって
ある。何もしないのが善なのだ。そこにナッシュ均衡が存在するわけだ。

こういう社会ルールでは、まるで共産主義と同じ事が起こる。頑張ったものがより多くを
得るわけではないなら、そこで頑張る理由は見当たらない。手をなるべく抜くのが労働者と
しての賢さになる。能力の有無に関わらず、賃金があがるなら、ほどほどでいいのだ。

これを防ごうと、日本社会は管理化する。ノルマ化する。こうして職場は薄暗くなっていく。
管理するものとされるものは対立し、ムラの内部は険悪さが蔓延するのだ。管理を簡便に
したい企業は、従順な社員を登用する。しかし、従順な社員は企業を成長させたりはしない。
ただ、目の前の仕事をするだけなのだ。

こうしてここ20年は食いつぶされた。かつての成功体験を引きずりながら。
未だに、60代の人間はこれを追い求めている。それがための安倍政権であろう。
かつての夢をもう一度ということだ。だが、世界は元には戻らない。

小熊氏は、日本社会における職能雇用に疑問をなげかける。諸外国では、特定の職につく
には、その職のスペシャリストになる必要性がある。そのためには学ぶ必要があり、
その証拠が必要である。世界的にみれば、日本は低学歴社会のままだ。海外では、特定の
ポジションにつくには学歴、それは名前ではなく、ランクが必要とされる。博士号が
なければ、役員になれないなどである。そういう壁があるがために、海外の人々は、
本当の意味で学歴をつけることに真剣である。

日本では、どこに所属しているかが問題であって、何をしているのか、何ができるのかが
問題にならないのだ。その結果として、色々できなくもないが、どれも中途半端という
人材が大企業にはゴロゴロいる。彼らはますます外へ出られない。出る理由を失うのだ。
実力で勝負できないなら、勤続年数を誇るだけになってしまうだろう。


現代日本において、正社員は減っているのかという事について、小熊氏はデータを示し、
否定する。むしろ、ずっと横ばいといえる。一方で、非正規社員は増えている。
その裏側で自営業者がいなくなっているのだ。

端的にいえばかつては一次産業従事者たちが自営業者として存在していたが、彼らは、
より普通の生活をもとめて、足を洗ってしまい、その担い手になるはずだった人々は、
非正規社員として、大企業の手足になったという事だ。

これが現状日本で起こっている事なのだ。不幸にも勉強が不得手であると、
日本社会では、中小企業に入りゼネコンとか地元企業に入り、もっぱら大企業の下請けになるか、
家業をついで、零細の農家や、漁業や林業をやるかとなる。いわば、王道の経済圏から排斥される形
でしか生きられない。多くの人が思い描く、日本的生活を手に入れるのは、一部の人に過ぎない
ということだ。

逆に、転がり落ちればどんどんと落ちていく。特に不景気になって、正社員になれなかった
人達は、パートやアルバイトで生計を立てるしか無い。そうなると技量も技術も増やせない。
よいより職を見つけるための手段は存在しないのだ。そのような立場はさぞ苦しいことに
違いない。かつてならば、ムラ社会の中で、農作業に真面目に性を出していれば、それなりの
豊かさで暮らせた人々である。

日本のしくみは、なるほど、ほどよく歪んでいる。
それが今の所の感想である。
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自衛その①:資産を守る [雑学]

コロナ禍は残念ながら夢ではなく、現実だ。
そして、多くの人が今まで通りの仕事を維持しようとして頑張っている。

だが、飲食業を始めとして、人出が必要な産業はことごとくピンチになっている。
そして、それはもはやピンチというようなものではなく、破滅という道に到達しつつある。

芸術を始めとする文化活動が影響を受け、停滞し廃業する可能性もある。
近所の小売店はいよいよアウトで店をたたむかもしれない。
そうやって、経済圏が狭くなると、大手が価格決定権を強くし、ますますインフレが
加速するだろう。簡単に言えば、日々の生活が大変になるということだ。

これを指を加えているのが今の日本国民である。
自分は自分で頑張っているからと、自分を善人として扱い、小さなルールから
逸脱する人間をバッシングするというスケールの小さい所で争いを起こす一方で、
もっと大きな市や県や国と行政に対して批判することをしない。だから本質的な
解決は行われず、ならばと行政を仕切る人間たちは、自分たちに都合の良いように
税金を利用していく。

あなたの生活がこれから大変になるけれど、その責務の一旦は、政治に無関心な
あなた方にある。それはまずは忘れてはいけない。自分たちに都合のよい政策をする
人間を選ばないから、そういう目にあうのだから。国や県が何もしてくれないと思うなら、
何もしてくれないような長を選んだ自分をまずは責めるべきである。もっといえば、
全く選挙にいかない自分の自己責任である。これは仕組み上、絶えずかかる個人への責務である。

一方で、社会構造上、資本主義的な社会が運営されるという事と、人間が相変わらず
利己的であるという事が合わされば、必然的に政治は腐敗し、全体のためというより、
個人的に権力を振り回す輩が現れ、その彼らに阿る人間たちが群れをなすのは必然である。

自らが従属状態にある事に気がついた、このブログの読者はこの限りではない。
よって、ここから自衛のための方法論を考えたい。また、これから何が起こり得るのかに
ついても考慮したい。

今、マイナンバーカードの普及率は20%にも満たない。
政府はこれをなんとしても、普及させたい上に、そこの銀行座をタグ付けする事を義務化を
目指している(もしかするとすでに義務化されたか?)。遅かれ早かれ、この方向性は
強化されていくことだろう。例えば、マイナンバーカードを使わなければ税金を払えない
仕組みするなどである。強制化のはてに何があるか。それは国に依る国民の資産把握である。

かつて、大きな大名が土地を新しく与えられると真っ先に、検地が行われた。それは、
税金を収める能力を確かめるためである。そうしておいて、なるべく確実に年貢を取り立てる
ということだ。

マイナンバーカードと銀行口座とのタグ付は、同じ意味を持つ。令和における検地なのだ。
ゆくゆくは、ただの検地ではなくなる。ハイパーインフレが起こると、最終的にはデノミが
行われる。その際に、個人の資産が差し押さえられて、新しい通貨を割り当てられるだろう。
こうして、資産を実質的に取り上げられるという可能性がある。

現段階では、ただの妄想である。だが、現状の1000兆円を超えるような国債を誰が
どう返すというのだろう? 最後は負債を抹消するはずである。その際に国民資産を
召し上げるということは十分に起こり得る事だ。

デフォルトのような事が起これば、まっさきに銀行口座は閉まる。国に依る口座管理が
行われる。我々はその時に、何ができるというのか。おそらく、何もできやしまい。
ただ、ただ、資産を奪われるのみである。国とはそういう存在である事は忘れてはならない。

そんな事あるわけがない? 日本だって預金封鎖は行っている。戦後の1945年の12月に
実行されている。要するに、政府はいざとなったら、それくらいの国権を発動するという
事である。

また、今、しきりに国債を個人や企業に買わせようという動きがある。
なんで国を上げて国の借金を買うという事をさせてるのか。むろん、利率が良いというのが
謳い文句ではあるが、そもそもそれを自由に売り買いできる権利はこちらにはない。
国は、国民の貯金を市場に引きずり出したいのである。そして、できることなら、召し上げたまま
消滅させたいのだ。3年、5年、10年などの商品がある。いざがいつ起こるのかは不明だ。
だが、それが起これば、これらは紙切れになる。

そもそも金とは、債権であるとはもう散々解説した。
債権ということは誰か他者がそれを欲しがる事でしか価値を担保できない。
そして、その価値とは経済ががたつけばあっという間に暴落する。

それを化け物にしたような株(NISA)や国債(まさに債権)に資金を変換する理由は、
そこについてくる利殖だろう。うまくやる人は良いが、国がポシャれば、騙されたという
事になろう。それは賭けである。

コロナ禍において、何が起こるのか。それは経済不振である。経済不振ということは、
国という組織の不安定化である。それなのに、金や、金融商品を頼りにするというのは
そもそもが間違えである。

資産を守りたいならば、もっと現物的なものに変換する他無い。
似ても食えないけれど、銀行券よりも安全なのは金属だろう。金や銀を資産にするのは
悪くない手である。それでも資産をまもれるのかは不明だが、およそ現金や株よりマシだろう。

他には、所有権である。国という単位が傾いた時に、土地所有などがどうなるのかは
定かではないが、人のマインドはそうは変わらない。よって資産をそれ相応の土地など
有形資産に変換しておく事は意味があるかもしれない。

もっといえば体験や知識に変換するという手もある。いざとなれば貯金が差し押さえられ、
土地なども召し上げられるかもしれない。けれど、体験や知識は奪い取られることはない。
ならば、資産を使って、素晴らしい体験や知識を得る事に使うというのは一種のリスクヘッジだ。

体験は人生を豊かにしてくれる。そして知識は新しい生産物を作り出す時に役立つ。
いや、本当の知識とは生活そのものを豊かにしてくれるのだ。

そのためには時間を使うことである。まだ多くの人は感じていないかもしれないが、
自分が自由に使える時間が存在するという人がもっともリッチな時代が来る。私はそう
信じている。

現代社会は金がなければ生きられない。それは日本という国に生まれた悲劇である。
だが、朝から晩まで週5日間を労働に費やさなければならない理由はない。それを
仕方がないというのは、ただの怠慢である。金のかからない生活は見つけられるし、
それでも、かつて程、大変でもない。

ならば、持つべきは自由な時間ではないか。そういう価値観になっていくのが
これからの方向性なのだと私は思う。


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愚策GoTo:昭和社会崩壊の序章 [思考・志向・試行]

もう自民党の右往左往は酷い事になっている。

彼らのコンセプトは、票田になる経済団体に金を融通するということ。
GoToの話も、オリンピックで来客があって儲かるはずだったゼネコン系の
人々に 金を流すという話だろう。自民党の行動は明確で、何のベールにも
包まなくなったから 意図がダダ漏れ状態である。

それにしてもGoToは本当にやるのだろうか? 都内にさえ泊まらなければ良いと。
ともすれば都内で遊んで、近隣の県に泊まれば良い。 ほとんど無意味に思える都内除外の方策。
そして、結局、キャンセル料を政府が持つみたいである。 何がしたいのか全く謎になってきた。

やることなすこと、ちぐはずがものすごい。 そもそもGoToだって、移動してほしいのか、
ほしくないのか矛盾が酷い。 都内ではなるべく街に出るなといっておきながら、
国全体としては旅行にいけという メッセージを流す。欺瞞がひどすぎて話にならない。

これは各所で分断を招く。首都圏からきた客と、ローカルの客では扱いが変わるかもしれない。
東京付近からきたというだけで、怪しい目でみられるだろう。でも仕方がないではないか。
そういう蓋然性の高さがあるからこそ、都内では移動はどうかという話になっているのだから。

それから、いまいち不明なのは、GoToの補助がでないからとキャンセルする人々である。
旅行に行きたいなら行けばいい。それが自由の国だ。まさか補助があるから行くと決めたのか?
得をしたいから旅行にいくというのか? それでは目的が違うであろう。

およそ、GoToによって明らかに拡散する。ヨーロッパ、特にイタリアで問題になったのは
都会に出ていた若者たちが実家に戻ってコロナを拡散させてしまうことだった。全く同じ事が
日本でも起こるだろう。東京や大阪など都会に人口を集中させてきた結果が、コロナ拡散に
つながる。

果たして、感染者数が増えた時の責任は、誰がとるというのか。きっと、いつも みたいに、
そんなことは想定外だとか、感染が増えているのに「GoToのために感染が 増えたとの見解には
当たらない」という意味不明な日本語を発するのだろう。 こんな異常な政権をまだ支持すると
いう愚昧な国民たち。 この前の都知事選をみればわかる。

どう考えても宇都宮氏や山本氏に票がもっと入って良い。 だが、何もしない、ただ横文字を
並べるだけの小池氏が再選した。それも、投票率はぼちぼち という状況でだ。
つまり、市民は政治リテラシーのかけらもないという事である。

まあ、もういいんじゃないか。日本が崩壊しても。そう思えてきた。
思考方向はもう、なんとか立て直すという方向ではあり得ないと実感した。

既存の体制崩壊を前提にする他無いのだ。
これを読んでいる読者には、その準備をしてもらいたい。既存の体制は崩壊するという
覚悟である。そして、その対策である。それには、およそなるべく身軽になることだ。

例えば、まだ顕在化していない経済的問題。もうそんなに遠くない所で、かなりの商店が
なくなる。加えて、病院なども経営が悪化し、数が減ることだろう。そういうインフラが
不安定化した時に、仕事があって、食い扶持を確保できるのは誰だろうか?

都会のサラリーマンなどは、最悪かもしれない。都会近郊に住宅ローンを抱えて、
出勤する人々の事だ。彼らはこれから数年、下手をするとずっとコロナ感染の可能性を
抱えて、都会近郊にすまねばならない。その仕事が持続するのかもわからないのに。
そして、その賭けに失敗したならば、住宅ローンどころの騒ぎではなくなるだろう。

また、食料を完全に他者に依存しているがために、その流通が滞ることが起こったら、
とんでもない額の金を必要とする事になる。文字通りインフレになるのだ。
それにも関わらず政府は増税を試みようとする。なぜなら体制に配り続ける資金を
確保 したいからである。彼らは、美辞麗句を並べ、「国民のため」という大義をかかげて、
一部の人間達だけに金を横流しする。そういう利己的な人間たちが巣食うのが永田町である。
残念だが、田中角栄のような政治家はいないのだ。国はますます阿漕になるはずだ。

住宅ローンを払えず、会社の売上が下がり、場合によってはクビを来られるような
そのような脆弱な立場なのがサラリーマンである。コロナはこれを突きつけてくる。
そういう万が一は、どこか念頭に置くほかない。 コロナは自然現象である。

陰謀論もあるけれど、別段そんなものが無くても、いつの時代も 流行り病は存在した。
そして、その時、その時で人類は生き延びてきた。

そういう視点 からいえば、これは普通の事なのだ。何も特別なのではない。
むしろ、ここ70年程の時代が稀な現象であったのだろう。それには高度経済成長も含まれる。
現代はその時代のやり方をいまだに信奉し、その価値観の中で、生きようとしている。

そこにこだわる方が変であろう。 現代社会はあまりにも計画的である。
論理的に社会的な事柄を考えすぎである。 それが駄目だということは、ソ連の崩壊をみれば
明らかであろう。彼らの計画経済は 巨大官僚利権を生み出し、硬直化したシステムは自ら
瓦解したのである。 この場合のポイントは決して、共産主義や社会主義という話ではない。

ソ連が崩壊したのは 「経済というオープンシステムを、人智によって統制し計画できる」
という思想がためである。 これは、現代日本そのものである。日本におけるシステムが、
ソ連と相似形であるのだから、 そのシステムが崩壊するのは時間の問題なのだ。

多くの人はこのことを全く勘違いしている。思想が問題なのではない。仕組みが問題なのだ。
人がやることは、所詮、そんなに変わらないものだ。ソ連だろうが日本だろうが差はない。

その人類が、似たようなシステムを用いていれば、結果は同じ事になる。 現代日本は、
国がかなりの金を国民から巻き上げ、その金を体制側に都合がよい人々に
配る事で仕事が回る仕組みである。この仕組がうまくいくのは、常に経済成長している時だけ。

そうでなくなったのが20年前である。まさにバブルが弾けて、この仕組は破綻した。
だが、 それまでにためておいたものでごまかし、システムを動かし続けてきただけに過ぎない。
むしろ、日本はこの20年でももっと、タイトにシステムを駆動させようとしてきた。

国家の権力を強め、国民を統制さえすれば、元の昭和社会に戻せると思ったからだ。
あらゆる人の行動を管理し、物事を計画し、うまく振る舞おうと努力した。その結果
システムはますます硬化し、特定の状況以外ではうまく動かないものになった。そして、
人もそういう人になるよう適応してしまった。 結果として、政治リテラシーを始めとして、
自分では一切ものごとを考えようとしない愚昧な 人々の群れになったのだ。
何しろ、総白痴化したのだから仕方あるまい。

タイトなシステムで は、個々人が考えて動くと困るからだ。言いなりになる人間を増やし、
奴隷化しないことには このシステムは維持できない。逆に言えば、そのように機械的な事しか
出来ない人間がのさばる 仕組みを作ったのだ。 問題はもう明確であろう。オープンシステム
である生物圏に生きている我々は、脳化を推し進め 過ぎたのである。それは資本主義だろうが、
共産主義だろうが関係ない。養老氏がいう 「こうすれば、ああなる」思想こそが、
現在の日本の停滞の本質である。そして、常にその かつてのシステムの延命を第一義的に
考えるのが、東大エリートを擁する官僚たちである。 ならば、日本という国は、現状維持だけが
至上命題となるのは明らかであろう。新しいことなど が始まったら困ってしまうのだ。

同じ事は私企業ですら起こった。大企業の人々は、放おって置いても儲かる仕組みを作った。
システムである。このシステムを回し続ける事。これが彼らの至上命題である。全く国の官僚と
同じであろう。そして、国と大企業連合は、仕組みを維持するために全力を尽くす。

その結果が、まさにGoToキャンペーンであり、オリンピックであり、万博なのだ。

もう時代が流れ、何が儲かる事なのか、なにが価値あることなのか、そういうものが変わった
のに、相変わらず、国や大企業はかつての価値観に生きている。その価値観から変わることが
不可能なのだ。みんなどこかでおかしいと思いつつ、本音を押し殺して生きている。

この国にはもはや、諦観しか存在しない。そんな国で誰が子育てしようと思うのか。
そして事実、子育てしにくい環境しかない。大きな視点でみれば、問題は明らかであるし、
それを変える事は容易い。かつての価値観をかえて、より生活重視の社会を築けばいいのだ。

さてさて、コロナはこの社会変容を引き起こすための、きっかけとなるのか。 それとも、
既存体制へと戻そうとする断末魔の叫びをますます大きくさせるのか。 残念だが、
テレビばっかり見ている50代以降の人間たちが牛耳る日本は後者でしかない。

だからこそ、自衛である。そのための準備である。 これを読んだ奇特な方々に告ぐ。
「崩壊の序章に入った。備えよ!」 私がいいたいのはそれだけだ。
今後は、どう備えるべきかを考えていきたい。
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経営者の立ち位置ー資本との関わりー [思考・志向・試行]

当然ながら、経営者と労働者は、くくりとしては同じ労働者である。
だが、経営者は労働者を使う立場であり、その意味ではだいぶ異なる。

マルクスは、すべての人間が「資本」に使われるといった。それを「疎外」という。
その意味では、経営者も労働者も同じであるが、やはりそこにはギャップが有る。

経営者の立場からいえば、社員の仕事の捗りは非常に重要だ。
利益があがるかどうかが、社員の働きにかかっているからである。

一人では仕事がしきれないから、それを他人にやってもらう。
これが経営者の基本的スタイルである。喫茶店で言えば、マスターという経営者に、
アルバイトという社員がいるという形だ。マスターはオーナー兼である場合もあれば、
雇われ店長ということもある。これが経営者でも、自己資金か、多額の外部資金なのか
という事と等価である。

さて、経営者の目的は社員の単位あたりの時間における労働力を最大化することである。
ある側面できれば、なるべくやすい賃金で、長い時間を働いてもらい、生産してもらうことだ。
そのための手段は沢山あるようでいて、ほとんど選択肢がない。

1.賃金を払う。
2.褒める。
3.脅す。
4.その他(信仰心・尊敬・カリスマの利用)

である。ファミコンのコマンドみたいになってしまったが、他人を動かすには、何かしらの
動機づけが必要である。その根本は賃金だ。また、褒めるや脅すというのは、心理的な
戦略である。アメとムチというようなものかもしれない。そして、最後は人間関係的な
信頼などの手段である。

労働してもらうということの意義は、本来的には「誰かを満足させる」という事だ。
それ意外は、手段になる。多くの人は、企業体が利益をあげるために労働が必要だと
考えている事だろう。それは実際に事実なのだが、利益を上げることは企業にとっての
最大のポイントではない。利益をあげ続けなければ、「誰かを満足させる」事が
できなくなるという事なのだ。

よって、別に賃金がなくても人は労働することができる。その労働の志向性は、労働主体の
気分に依存する。だから、誰かを喜ばせるために、路上で歌をうたってもいいし、言葉を
かけてもいいし、料理を作っても良いし、家を掃除しても良い。これらは立派な労働である。
労働というと、苦しいこととか、嫌なことと連想してしまうのは、そもそも間違えである。

だが、現実的には労働は苦しいことである。なぜか? それは、金を得る手段として、
労働を行うためである。金を得るつもりのない労働こそ、本来の人の有り様である。
要は他人の生活のお手伝いというものになる。狩猟採集的生活において、大物を獲ったら、
それを持ち帰り、村人で分けたことだろう。その時に「金を得るつもり」で懸命に
なったわけではない。みんなの喜ぶ顔がみたい、自慢したいというような気持ちが先行
しているはずだ。人は本来的に、そういう事を喜ぶという本性を持つ。

ところが、現代の労働とは、金を得るためのものである。金を得るような事をしたという
ことは、誰かを満足させたという事でもある。その意味では、かつてと変わらないはずだ。
だが、現代の労働は細分化が進み、自己の労働行為が他者の満足を満たす瞬間に立ち会うこと
から遠ざかってしまった。結果として、自分の労働で誰が満足しているのか不明な状態に
おかれてしまうのだ。

面白いことに、賃金の額は、そのような不明瞭な労働に従事する人間ほど高いように相場が
設定されている。本来的な労働の有り様からかけ離れているほど、儲かるのである。不思議だ。
逆に、他者の満足が見える位置にいる労働者は、たいてい低賃金に苦しんでいる。これも
また不思議である。およそ、手間の量の差なのだろう、後ほど触れる。

このことからも、労働と賃金とは本来的に関係はないのだ。労働という仕組みの上に賃金と
いう体系があとから乗っかったという事であろう。賃金が労働を乗っ取ったともいえる。

賃金に乗っ取られた労働は、市場で取引されることになった。労働の質により競争が発生する。
同じ仕事をするのにかかった額が小さいほど、競争力を発揮する。本来、労働は比較不能なの
だが、労働を市場にのせた瞬間に記号化されたものに変換され、その評価が資本主義合理性
によって行われるために、効率性や合理性が最優先される労働が要求されるようになる。

端的に言えば、日本の鉄道のようなものだ。どんどん正確なダイヤになるように力学が
働く。それは市場からの圧力だからだ。ラーメン屋でも同じかもしれない。ますますうまい
ラーメンになるように力学が働く。

その時、大抵の労働の質は、かけた手間に比例する。必要な労働の質があるとして、その質の
基準は年々あがってしまう。それは競争が存在するからだ。では、質をどうあげるのか?
一つには手間をかけることである。同じコーヒーでも、アフリカの奥地から運んできたものと、
ベトナムの畑からとってきたものであれば、前者の値があがる。お米を作る場合でも、
手植えの畑と、機械で作った畑ならば、前者の方が単価がとれるだろう。生産物の多くは、
かけた手間によって質を担保する。

手間は必ずしも、時間に比例はしない。昭和時代の日本人はここを勘違いしている。
かつて多くの手間をかけるとは、時間に比例していた。だが、技術はそれを解消する。
そして、同じ時間の中に、もっと多くの手間を入れ込むことも可能となっている。
また、その手間もある程度アルゴリズムを取り出すことで、オートメーション化できる。
こうして、必要な労働の質を満たす、労働時間は減った。

ところがだ。資本主義の合理性からいえば、労働は常に市場にさらされている。
労働の質をあげるには、手間が必要であり、手間には一般的に時間が必要である。

もし職場において、合理化が進んでいない作業過程(例えば印鑑を押す)があると、
そこが律速段階になり、時間に対する手間の密度は下がってしまう。すると、時間は
かかっていても、手間が増えることはない。こういう部分が多ければ、時間があろうと
も、労働の質は向上しない。これがまさに日本の問題点であると指摘され続けて久しい。

合理化できる部分、そもそも労働になっているのかもわからない労働があるのに、
それをそのまま放置するのは、さまざまな面で問題を引き起こす。長時間労働に
なりがちなのは、手間の合理化が進まないからだ。

要するにこういう事だ。まず大枠で、資本は労働の効率化を促す。労働の質の向上が
つねにプレッシャーとして存在するわけだ。これを実現するには、手間をかけるほかない。
ところが、日本ではこの手間を加える手段が従来型で、人力な事が多いわけだ。新しい
やり方を使わないためである。この古いやり方でも手間を増やせば、労働の質はあがる。
すると、とにかく時間をかけることが労働の質をあげることになり、長時間労働の元凶
となる。

一方で、新しいやり方ならどうだろう? ITを導入して、手間を合理化・効率化すれば、
労働の質を短い時間で上げられる。なるほど、じゃあそれを導入してみるかと、体力の
ある企業は考える。ところがだ、2つの問題点が生まれてくる。一つは、空いた時間問題
であり、もう一つは能力問題である。

新しいやり方は、手間をかなり省いてくれる。ハンコを押さなくても良い仕組みにしたと
しよう。たとえばサイボウズの許可制のようなもの。ところが、効率化すると、時間が
生まれてくる。日本では労働時間という概念の中に、特定の労働量と質という観念がない
ので、常に仕事時間は8時間などと枠が定められている。結果として、効率化して空いた
時間は、他の仕事で埋められてしまうのだ。そうなると、労働時間は短くなることはない。
せっかく手間を労力を減らして追加できるようになったわけだが、その分、空いた時間で
他の手間を作り出すことになるわけだ。

こうなると更に問題が出てきて、かつての仕事が効率化して手間が減るということは、
新しい仕事が入ってくる事になる。これが常に起こると、仕事の経験が活かせる部分は、
つねに仕事の総体よりも小さいものになる。むしろそのように小さくならないと、仕事の
効率化の意味はない。小さくしておいて、新しい仕事を繰り込む。そう、すると常に
新しい仕事のやり方を理解し、できる能力が求められる。これがあらゆる分野で起こる
ために、仕事が細分化し、その求められる能力のハードルが上がっていく。誰でもできる
とは言えなくなってくるわけだ。

また新しい方法は手間を軽減するわけだが、その習得には多少の時間がかかる上に、能力に
柔軟性を必要とする。これは、原理的に日本型年功序列体系とぶつかり合う。仕事の総体
を理解し、全体を見渡せるからこそ、上司には多額の賃金が支払われる。少なくとも、業務
はこなせるという最低限のスキルの存在を認められている。ところがだ、新手法を学び、
取り入れ、有効に活用できるのは若者である。年寄りにも能力のあるものはいるが、全体で
みれば、どうしても適応力に差がある。すると、上司は徐々に能力的にお荷物化することに
なる。業務全体の流れを見渡せるけれど、ここの作業については何もわからないという人物
になるわけだ。それは新手法の導入のせいである。

一般に新手法こそが、労働の付加価値を高めている。その中身が理解できない上司に
果たして、業務評価ができるだろうか? また、経営方針を決めることができるだろうか?
経営者が右往左往するのは、新しいテクノロジーへの無理解であり、その習得困難さである。
使えない50代~60代。今後はそういう人物がどんどん増えてくる事になる。いや、
そういう人物だらけになっているのにも関わらず、何も対策をしないがゆえに、失われた
20年が存在する。日本はかつての高度成長期(40年代~70年代)の幻想のままでいる。


さて上記の、古い手法や新しい手法を眺めてみると、もうお気づきだろう。
労働の中に手間を増やす。従来手法のような非効率的な手間は長時間労働を生む。
また、一方で、効率化した手間は、新しい仕事を増やす。結果、長時間労働を生み出す。
要するに、どちらにしても、労働者は長時間労働を追い求められるわけだ。残念であろう。

どうして長時間労働なのかには前提があった事を思い出そう。そう、ことの発端は、
労働の質を高める事であった。労働の質を高めるには手間を増やすほかない。だからこその
長時間労働である。では、質を高める理由はなんだったかのか? そう、企業の利益の
確保である。競争が存在する世界では、同じものを作り続けていては、いずれ存続が
難しくなる。利益を確保しなければならないから、商品における手間’密度’を増やす
しかないのである。

要するに、大量生産品において利益をあげ続けるには、長時間労働が義務付けられているのだ。


上記を踏まえると、経営者は無理難題をこなさなくてはならない。理不尽な要求を労働者に
おしつけることになる。経営者は、利益を確保し続けるために、労働の質を確保したいわけだ。
現代社会では、仕事をITなどで効率化し、空いた時間でさらなる手間を生産物に押し込める。
つまり、労働者は常に、新しいことを学び続けろと。そして、仕事に適応し続けろと要求する
わけだ。だが、人は物理的実体であり、老化する存在である。つねに適応し続けられるわけ
がない。

すると、組織内では、徐々に適応できなくなる壮年の人々がいて、適応的な若者を必要とする。
上司ができない仕事を、若者がすることになるのだ。ところが日本は年功序列賃金が基本である。
ロイヤルティを確保するという面や、人間関係の安定化という意味でとても優れているが、
時代にはそぐわない。優秀な若者たちは思う。なぜ、この使えない上司が俺よりも多くの年収を
得ているのだろう?と。

若者を雇う時に、経営側は「あなたには適応的な能力を求めます。
常に新しい事を学んで、手間密度をあげる事に励んでください。上司はあなたの仕事が理解
できないかもしれません。その時は説得してください。優秀なあなたならできるはずです。
その対価として、社内で一番低い賃金を与えます。仕事が上司よりもできるけれど、低い
賃金なのは、仕方がない事です。日本ではそれが普通なので。私達は、あなたに”雇用”という
場を提供できます。それでまずは満足してください。」と明に暗に言ってるわけだ。

例えばDeep learning。これを理解し適応できる人間が高給で雇われるとニュースになった。
それは、上記の矛盾があるためだ。そして、海外などでは、そのような能力に対して給料を
与える事が普通である。はじめから高い給料を払ってくれるところにいくだろう。中国や
アメリカではありふれた事。

日本のもっぱら経団連の側の論理は、そもそも時代に対して矛盾が生じているのだ。
こうして、優秀な若者は、日本のろくでも無い企業体制にあきれて離職する。
そもそも、時代のお荷物になっている壮年連中を食べさせるために、若者が利用させられる
ということ自体が変であろう。結局、企業のピラミッド体制とは、もともと、ネズミ講的な
発想で作られた組織であり、長く居続ける事でようやく元が取れる仕組みというわけだ。

彼らの若い頃にも同様のことはもちろんあっただろう。だが、今ほどそのズレは大きくなかった。
それに、資本が要求する労働の質向上もまだまだ上限まで余裕があった。だが、この70年で
ぼちぼちサチっているのではないか。

少しまとめてみると、
・資本は、労働の質向上を常に要求する。
・労働者は能力を常に拡張することを求められる。
・経営者は、利益確保のために長時間労働を強いる。
・結果的に、組織内秩序は不安定化する。(世代間問題、長時間労働、評価の指針問題)


じゃあ、手も足も出ないのか。いやそれは違う。
問題の手当の手段はレベルによって異なるだろう。本質的な問題解決は、
資本による要求をどう解消するかである。かつてはマルクスやエンゲルスは「革命」と
いった。だが、現代においてそれは非現実的に思える。とはいえ、根本的な解消は
この要求をどう扱うかであろう。これは今後50年や100年単位で思考すべき事柄である。

そんな事をいっていたら、死んじゃうよって。そりゃまさにそうである。よって、
まずは食い扶持を確保するほかない。そのときに、上記のような事態に巻き込まれることを
可能な限り避けるにはどうしたらいいのか。

現状の仕組みの上で企業が生き延びるには、特殊な手間を作り出すほかない。
つまり、独自性である。他の企業がつくらないものを作る事。上記の設定では、競争の
存在が、結局、長時間労働をもたらした。それは手法の良し悪しに関わらずである。
ということは、その競争性を排除すればいい。

すると、例えば、各地に存在する名産というのは、それに相当する。その土地でだけ穫れる。
それ自体に価値を見出してくれる人が一定数いれば、売上を確保できるだろう。
それは町中の商店でも同じこと。同じ物品を売る商売、小売店がスーパーや、イオンなどの
巨大ショッピングセンターに対抗するのは、まず無理である。効率化や合理化への体力に
よって、かんたんに差がついてしまう。だが、同じものを多少高くても買う理由がある
としたら、何があればいいのか。例えば、人。名物おばあちゃんがいる、名物猫がいる。
そんなことだろうか。他と差異化をはかり、その無形にみえるサービスに力をいれることだ。

もっと単純には、独自製品をつくればいい。オリジナルな商品である。真似されにくいものが
ベターである。特許をつかって確保するのもいいけれど、結局購買するかは、独自性と
その商品の意味性にかかっている。これは流行りのイノベーションという言い方でもいい。
わずかな差でも、差がついていれば、長い目でみて、競争に打ち勝つ事ができる。

さらに単純なのは、ブルーオーシャンを目指すことだ。誰もやってない事を商売にすれば
いい。新しい技術や、考え方によって、生産されるもの。そういうものを作り出す事。

とはいえ、これらはすべて、資本の要求下における対処法に過ぎない。
我々はもっと大きな目で、資本の要求からこそ、離れてしまう方がいい。

長くなったので、このへんで一旦切り上げにする。ここでは労働者側の論理について
触れていないし、労働の社会問題についても触れていない。それらは次の機会に記したい。

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大人たちの欺瞞ー子供らの正義ー [思考・志向・試行]

https://d-blue.blog.ss-blog.jp/2013-03-15

かつて、ゴッドファーザーについて述べたことがあった。
彼らは「仲間」を守ることに関しては、法をも越えていく。
その守備の範囲が、面子にまで及んだ時、彼らの行為は何でもありに変わる。

本来とるべき責任を放棄し他人に押し付ける事や、ルール上本来出来ないことを可能にする事。
マフィア連中は、これらを暴力を後ろ盾にして可能にする。そこに欺瞞があることは
わかった上でやる。なぜなら最優先されるルールは「仲間を守れ」だからだ。そして、
そのルールを逸脱し、社会的ルールを持ち込もうという人間を粛清する。世間の法律など、
くそくらえというわけだ。

「レ・ミゼラブル」という映画を観た。ラジ・リ監督の2020年の作品である。
ビクトル・ユーゴーの有名なミュージカルではないので注意されたい。

この映画は、とある警察官が今のパリ郊外、モンフェルメイユに赴任する所から
スタートする。この地域は移民が多く、貧困層が暮らしている。様々な地域から
人々が集まっている。そのため多くの犯罪が発生し、その犯罪を取り締まる警察官も
その対応に苦労しているのだが、そこに暮らす一人の少年が犯したいたずらから大事になっていく。
そういうストーリーである。

下記、ややネタバレに注意。

事件を解決しようとするなかで警官たちはヘマをやらかす。そして、それを地域のヤサグレども
を通じて隠蔽しようとする。よくある貸し借りである。暴力装置同士は親和性がある。そのような
話はごまんとあるだろう。ヤクザものと警官のもっともたる違いは誰を仲間と呼ぶかの違いに
過ぎないのだ。

大人たちは最終的に子供にその隠蔽を押し付ける。そうして、今回もヘマを隠蔽できたかに
思えた。だが、これが最終的に反発を招く要因となるのだった。

さて映画についてはもう脇に置こう。
大事なポイントはこの欺瞞についてだ。本来であれば、責任をとるべき人間がその責任を
回避し、誰かに負わせる。その強制を暴力ないしは権力を通じて行うこと。これが現代の
社会に大きな影響をもたらしているのではないか、私はそう考える。

大人だって完璧ではない。しばしば間違えを犯す。その時にルールに従い責任を負うべき
なのだが、その責任を逃れるために権力を利用することがある。「自分は悪くない」と
主張するために「誰かを犠牲にする」わけだ。そのお手本のような話がゴッドファーザー
である。そして、レ・ミゼラブルの警官たちである。


本来、責任とは権力とオモテウラの関係にある。権力という言葉がいやならば決定権でも
いい。何かを決める人達は、決める事の責任を果たす必要がある。決めたことで問題が生じたら
その問題解決に対する責務を負うわけだ。だからこそ、長という人々はやみくもに物事を
発動しない。

ところが、上記のように権力者たちは、往々にして持てる権力を振り回しておいて
何か問題が生じると、さらに権力を振りかざすのだ。責任を放棄し、その責務を権力によって
隠蔽しようと試みる。結果として、弱い人間がその犠牲になる。こういう事がしばしば生じる。

この現象の発生原因は、決定するものはたいてい暴力装置の発動者でもある事だ。この2つは
昔からセットである。そして、この2つがセットであるがために、問題もいつもここから生じる。

権威あるもの、時の支配者たちは、つねに物事をうまくなさんとする。
だが、人なのだから失敗する。どうも権威というものはこの失敗をうまく扱うことが出来ない。
失敗を認めないという態度に出る事になる。失敗部分を権威・権力によって
なんとかしようとするわけだ。そして実際的になんとかしてしまう事がある。これが一度
発令されるともう後戻りは出来ない。この責任回避の欺瞞は、次なる問題を生じる。
なぜなら、人々の間に強い違和感をもたらすからだ。それは結局、不審につながる。

互いを不審に思うようなれば、そこに緊張感が生まれる。そのテンションはなにかの
きっかけで暴発する事だろう。その結果、誰にも止められない暴力が連鎖していく事になる。


そう、まさに歴史はこの事を教えてくれている。権威者は失敗をしないという面子問題が、
今までに多くの悲劇を生んできた。そしてその悲劇は恨みを成熟させたのである。

何も歴史に限らない。今の安倍晋三内閣だって、たびたびこの欺瞞を発生させている。
安倍らは権威を発動し、本来あり得ない形でルールを逸脱した。自分の面子のために、
実行させた政策決定。それは「総理大臣である私は行政に関して何でも出来る」という
奢りである。国有の土地を格安で業者に下ろす、本来の規模を越えたパーティーを税金で
主催する等々。今の広島議会への賄賂問題も同根だ。すべて、他人からの要求にいい顔を
しようとする事で生じたのだ。腐った権力者のちっこい尊厳を守るために。

稚拙な首相はおそらく何考えていない。おそらく気心しれた人(正確には利用しようと
群がってくる人々)から要求があったのだけなのだ。「人の良い」安倍首相は、それらを
実現しようとしただけなのかもしれない。軽い気持ちで「土地を安くうってやれ」とか
「地元の世話になっている山口の後援者をたくさんよんでやれ」とか、「あいつ気に食わ
ないから別候補を立てて追い出そう」とか、自分や自分の周りのニーズに、首長権限を
最大に使って応えたわけだ。

本来なら、官僚たちはそんな事はできませんと応えるべきだった。いや多くの官僚たちは
出来ませんと言ったに違いない。そしたら、自己愛性人格障害を抱えている首相連中は
憤怒したのだろう。「自分は首相なんだぞ」とか「大臣なんだぞ」とか腐った連中が考え
そうな事だ。そうして、それならばと内閣の人事権を振りかざすことにしたのだ。

元来形式的なものだったはずが、本当に権力を振り回す。人事をちらつかせ、自分たちに
都合の良い人間を登用し、都合の悪い人間を排除する。これをあらゆる官僚ポストで
繰り返した。あのNHKに対してすら振り回した。こうして、自分たちの都合を押し付ける
事に成功してしまったのだ。官僚にもおバカがいるという事である。

こうして、「首相は偉いんだから、いうことをきけ」という馬鹿げた論理が通ることになり、
その無理を官僚組織が引き受けることになった。だが、当然のようにルールを逸脱する。
ではルールを捻じ曲げるのか? いや官僚にはそこまでの権限はない。ならば、ごまかす
しかないではないか。そうして、数々の誤魔化しが生じたのである。

こっそりとやったはずの数々のワガママ。そのワガママはリークされる。なぜなら、
そこに大いなる欺瞞があるからだ。そしてその欺瞞を背負わされた人々がいるからだ。
背負わされそうになって、抵抗した人物の代表は文科省の前川氏だろう。だが、そんな風に
反発できる強い人はそうめったにいるものではない。みんな生活を人質に取られている。
クビになったり左遷になったりしたくはない。ならば、汚れ仕事もする他無い。

しかしながら、これが発覚するとどうなったか。都合の悪いことをやらせている側は
口裏を合わせ、責任を回避する。そしてその責任を誰かに押し付ける。一体、何人が
死んだのだろう。そして何人が牢屋に入るのだろう。

ヤクザたちは、法を犯す事を前提に行動する。だから、はじめから罪をかぶる人間を決めておく。
そして罪をかぶらせることで、責任を回避する。またかぶった人間を重用する。こうして
仲間内の結束を強めるとともに、足抜けしにくいように仕組む。なかなかうまく出来たルール
である。

安倍とそのお友達は同じ論理を官僚たちに対して行う。官僚たちはその「立場」の安堵のために
指示されたことを行う。だが、社会ルールにより自己欺瞞を生じる。そして、そこには指示をだした
ものへの恨みが生じている。ヤクザと同じ様に役立った者は登用する。一方でヤクザと違うのは
実行部隊は切り捨てる点である。実働の官僚は罪を被せられて排除されるのだ。これに絶望した
官僚は一体どれほどいるのだろう。それとも、いまや、慣れてしまったのだろうか。

自分たちのワガママを権力を使って実現するというだけの事に、日本中の行政がつきあわされて
いる。その一端は「アベノマスク」をみれば明確ではないか。また、持続化給付金の不審な金の
流れをみれば明らかであろう。そこに欺瞞があり、それをやらされている官僚たちには恨みが
生じているはずなのだ。


さて、日本の愚昧さはこの辺にして、視点を再度映画に移そう。
結局、権力を振りかざす人間は人格が陶冶されているべきなのだ。でなければ、ただのご都合
主義になる。責任をとるべき人間たちがそれを回避する事は、大きなモラル・ハザードである。
そのモラル・ハザードが社会全体に浸透した時、社会は不安定化する。レ・ミゼラブルは
まさにそれを表現していた。そうなってしまったら、個別の善悪などどうでも良くなってしまう。

悪と知ってなお、権力者に付き従うならば、アイヒマンとどう違うというのか?
ハーレントが指摘した凡庸の悪とはまさに、そういうことだった。
個人は一体、組織の反社会的行動にどう立ち向かえばいいのか。
結局、誰にもわからないというニヒリズムだけが残るのだろうか。
これについてはもっと熟慮が必要なのである。


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ハラスメントの構造と選挙ー近視眼思考ー [思考・志向・試行]

今回、東京都知事はろくに選挙活動もしなかった小池氏が再選となった。
一体、どういうことなのだろう?

宇都宮氏や山本氏はそれなりに人気があったし、票を集めたはずなのだが、
開けてみれば、小池氏が圧勝である。元来、知事選については現職が強いと
わかっているが、今までの都政において何も貢献していない小池氏をどう評価すると
いうのだろう?

ツイッターに流れていたテレビ番組にキャプチャに、
こんなものがある。

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加えて
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都民は、そこまで小池氏を不正確に判断しているわけではない。
だが、なぜか今回も小池氏を選ぶ。その理由はなんだろうか?

公約などまるで果たせていないと理解している。なのに選ぶ。
次に、あからさまだが「弱者への共感のなさ」「将来像を描く力」といった政治家に
必要な要素がかけていても、選ぶ。

評価されている「リーダーシップ」があるや「発信力がある」「決断力がある」について
いえば、大きな誤解である。メディアの露出度が高いという事だけであるし、決断力とは、
豊洲の移転の事でも言ってるのだろうか? それともオリンピックの話をしているのだろうか?
小池氏はただ、長いものに巻かれただけである。それをリーダーシップなどと評価するのは、
妥当だろうか?

ある側面では単なる印象論なのだ。その印象とは「グローバル経済に阿り、弱者を
排斥する」という描像である。つまり自民党的であるという意味だ。経済を回す事優先で、
市中の人々の生活など気にもとめない。そういう人物が首長にふさわしいという異常性が
ここにみてとれる。

これはどういうことか?

第一に、こんかいの選挙が不正ではない事を前提としよう。
民間団体が、出口調査をすると時に、まるで異なる選挙結果を得ることがある。
それは特定の地域の偏りとみなすのか、それとも、サンプルの偏りとみなすのか分からない。
だが、明らかに不自然な偏りがあるケースがある。また、本当かどうか不明だが、同一人物が
書いたかのような投票用紙があるという疑惑もある。さらに集計方法が手作業ではなく機械が
導入された所では、その投票結果の操作など疑惑があり得る。

我々には、まともに選挙をされたかをしるすべがない。今回の都知事選もどれほどマトモに
行われたのか、私は疑義を持つ。0.1%程度の開票率で、当確と打った報道。どうにも胡散臭い。
この選挙のあり方自体が再度、考慮されるべき事であることは間違えないだろう。

さて、ひとまずこの問題は棚上げし、どうして「弱者を養護するような人道的な人物が
選ばれず、金を回す事を第一に考える人間が首長になるのか」を考えたい。


答えはこうだ。主だった投票者は高齢者たちである。50代〜70代。彼らが最大の勢力である
事は明らかである。そして、彼らの目的は現状維持である。現状を維持するためには何をする
べきか。目の前の生活維持のために、長いものに巻かれようとする。それが彼らのスタイル
なのだ。そして、それに一番合致しているのが、自民党政治なのだ。

経済を回して年金を確保する。そのために若者を搾取しても仕方がないと。構造上、
犠牲になるのは、一番利権を持たぬものたちである。金と社会的権力を持つ高齢者層は、
絶えず、彼らの利益を最大優先する。それのどこが悪いのか? 個人の指向性として
悪いとは言わない。だが、その本質は「悪」である。まるでアイヒマンがユダヤ人をゲットーに
送り込んで虐殺したのと同じ構造として「悪」である。

まず前提として、多くの大人は物事を深く考えない。いや、大抵の人は私ほど、深く考えない。
不遜な言い方を許してもらいたい。だが、事実である。それほどに人々は何も考えていない。
考えない人間の強みは、いくらでも他者を搾取できることである。構造的な事を考えられない
ので、目先の事だけに注意を払う。それが普通の大人である。

彼らは自分にとって利益のある事を求める。なぜなら、それが幸福の道と洗脳されたからだ。

もちろん、そうでない人々もいる。いまや絶滅に瀕している。イメージするのは田舎のおばあさん
たちである。彼女らは田畑を耕して生きてきた。地場産業に関わり、一次産業のにないでとして
嫁に入り苦労をしてきた。彼らの願いは基本的に平和な日常である。それは、近所の人々を含む。
そういう共同体における安定性を求めている。逆に言えば、そういう共同体ルールに生きるほかない
という苦労をしている。このような世界は地方で衰退の一途をたどっている。そして、このムラの
息苦しさこそが、若者が都会を目指す要因となっている。地方にうまれた若者は、その将来が
透けて見える。そこに済む限り、あの近所のおじさんが未来の自分であると認識される。そんなの
は嫌だと思う。そして何か変わるのではないかと、都会へと憧れ移動する。だが、都会で何を
感じるのか。

都市部では、まるで様相が違う。家族以外の他者は基本的にどうでも良い存在である。
友人ですら、利用できる時は有効に活用するが、いざとなれば、切り捨てる。
そういう関係性が主なものである。このような世界観において、共同体ルールは、成り立たない。

そして、頼れるものは金だけになった。資本主義社会はあらゆるものに値段をつける。友人や
彼女にすら値段をつける。そういう時代になってしまった。今まで気軽に行ってきた行動、
つまり親切やコミュニケーションといった無償の行為が、シチュエーションによっては
金になると分かった途端に、自分の行為をケチるようになったというわけだ。なんでタダで
それをやらなきゃならないの?と。

キャバクラやガールズバーが成り立つのは、お姉さんと話をするという事自体が価値があると
表明しているのと同じである。じゃあ、若い子が会社のおじさんと話をする時に何が起こっている
のか。彼女らは仕事以外に、コミュニケーションという仕事をしている事になる。会社の飲み会で
酒をつぐということは果たして、なんなのか? タダでやる事なのか? 当然そういう考えになる。

一方で、家庭でも同じ事だ。炊事や家事を代行するサービスはある。それらが売れると分かった
時、専業主婦は何を考えるのか。私の行為が経済的に対価を生むとして、なぜこれをやるのか。
家族だから? 子供はともかく旦那は他人じゃないかと。その対価を望むのは当然じゃないかと
思い始める。

彼氏とデートに出かける。その時に、おしゃれをして愛想を振りまく。そういう事が金になる
と知った時、それほど嬉しくもないデートに行くなら、対価がほしいと思う。そういう気持ちを
生じるようになるのはさほど不思議ではない。対価がないなら、わざわざ出かける必要がある
だろうか?

これらのことは極端な事だ。ここまで合理的な人はそうそうにいないだろう。自発的な行為は
存在しているし、対価を求めない行動もそこにちゃんとある。だが、対価という概念が浸透する
ほどに、なんで自分がそれをやらねばならない?と考えるようにはなるだろう。

共同体維持はなんのためか。それは巡り巡って自分のためである。それは自分の行為が地域の
共同体へ貢献するという実感と、実際にその思いが他者と共有されるという事実から生じる。
その条件として、同じ人がそこの場に居続けるという前提がある。田舎とは人間関係が固定化
される場所なのだ。だからこそ、共同体へのコミットに正の意味が生じる。

一方で、都会では、何のためにその行為を行うのか。コンビニに来た客は、自分の生活に関わる
だろうか? 常連になったとして、コンビニの売上以外の共同性は発生するだろうか。同じく、
道行く人々は、自分にとってどういう存在なのか。ただのモブキャラじゃないだろうか。こうして
共同体へのコミットは単なる無駄に思えてくる。親切にする事に何にも意義がないとしたら、
どうして親切にするだろうか? 客と店という関係の部分だけ、BtoBの部分だけに親切は集中
されればいいのであって、地域という共同体に関係する理由があるだろうか?

また、都会では職場と生活の場が離れている。離れているがゆえに、職場周辺の人間関係は
ほとんど希薄である。同じテナントビルの人々を一体何人知っているのだろう? 顔以外に
何を理解しているというのだろう? 四六時中同じような場所で過ごしていていながら、全く
そこに存在していないかのようにお互いが扱うのだ。そして、生活を過ごす場所では、休日
以外には存在していない。だから、子供が唯一の窓口になる。子供をつれてあるくこと、子供
が作り出すコミュニティーにのっかることでなんとか近所の共同体が駆動する。もっぱら母親
の役割になっている昨今、オヤジたちは、生活の場において共同を作り出すことは自助努力と
なってしまった。

さあ、もうおわかりだろう。地方ではもう、若者は土地の生活を引き継がない。だからこそ
地方の共同体は金を必要としている。地方税としての人口を必要としている。仕事を回すための
人手を必要としている。それらはもう夢のようなもの。唯一の希望は、金をつかって人に来てもらう
事だ。衰退していく共同体。自分の分身のようなものとしての共同体。それが無くなる事は自分の
存在意義を左右する。だから、その存続を願い、地方に金を回してくれる事を願う。

その彼らの願いを叶えるのは、かつての自民党である。今でも地方には田中角栄時代の流れに
よって作られた金移動の仕組みがある。それをせめて維持しようと自民党に票をいれるのだ。
もしくは、それに準じたものに票をいれるのである。地域を守るために。

都会では、他人に対して自分の分け前を与える事は、自分にとって殆ど無意味な行為である。
うまく行かない他人は、都会では努力不足とみなされる。なぜなら、自分がうまく行ってるの
は共同体のおかげではなく、自分の実力のためだと思いこんでいるからだ。そんな見知らぬ他者
に金を配るような人ではなく、自分らの利益のために行動してくれる人を選びたい。自分にとって
大事なのは、自分の会社の持続である。

自分の会社が持続するとは、日本経済が回ること。日本経済は4割程度、国の金で回っている。
だから、どんな民間会社にいようとも、国の金が巡ることは自分にとっての利益になる。ましてや
大企業が揃っている都会なら尚更だ。国の金がふってくる業界は多数存在する。結果として、
経済を回そうとする人間を求めるのだ。

そう、こうして、都会に済むものも地方に住むものも自民党的な政策を支持する事になるのだ。
近視眼的にしか物事をみない人達は、つねに現状維持を望む。現状維持こそが最低の選択肢に
なる可能性に目を向けることはない。それほどの思考もない。考えたくないし、考えることも
しないのだ。ましてや、自分の利益を減らして他者に貢献しようなどとはこれっぽっちも考えない。

もし考えてるのなら、安売りバーゲンに飛びつくような真似はしないだろう。
安売りバーゲンとは誰かが労働力のピンハネにあっているという事なのだから。
ようするに、自分たちの労働を自分たちで搾取しているのが、現代日本なのだ。

小池氏が当選するのは既定路線であった。それは仕方がない事でもある。


ここで、啓蒙主義的にもっと長期的視点で政治家を選べといったとして、誰が聞くのか。
経済とは弱者をどれほどケア出来るかで良質さが図られる。弱者を切り捨てるような経済は、
長い目でみれば、客を失い、売上をうしない、自分たちの首を締める。労働者が儲かれば、
消費者が増えるという当たり前の事実に誰も気が付かない。だから、売上を伸ばすためだけに、
労働者の賃金が切り下げられてきた。企業が潰れないようにである。そして、老人たちが死なない
ようにである。結果として、消費の少ない老人たちに金が集中し、経済は停滞した。

答えは分かっている。減税するなり、労働者の賃金をあげるなりして、消費を増やすことだ。
既存の産業を維持していくにはそういう方法しかない。一方で、国の関与を減らすことだ。
国が動かす金の4割で生きている人間というものを減らして、民間のまっとうな競争の中で、
経済をうごかせばいい。そうしたら、どうなるか、基本的には今までの既得権益者は貧乏に
なる。一方で、低賃金で過ごしてきた人々の給与は増えるだろう。不当な値付けが是正される。
私にはその方が良いと思うのだかどうだろうか。


自分が短期的に損になっても、長期的に社会が安定し、自分の存在が確かに共同体に
貢献するという社会のほうが、生きがいがあって良いと思うのだが、どうも現代日本では
そういう価値観は流行らない。ホリエモンのごとく、前澤氏のごとく、金をかせいだ人間の
価値みたいになっている。それは都会の論理に過ぎない。


では、どうしてこういう社会なのか。その一つの理由がハラスメント社会だからだろう。
日本全体がハラスメントで構成されている。ここでいうハラスメントとは安富氏の定義を
つかう。詳しくは、安富歩著「複雑さを生きる」を参照されたい。

親は善意によって、子供をハラスメントする。会社で当然のように社員にハラスメントを
行う。何をいっているのかわからないかもしれない。普通の人は、親や上司が小言をいうのは
当然だとおもっているし、そうやって躾けなければ、人生はまともにならないと思っている
からだ。もちろん、それは嘘だし、欺瞞に満ちているのだが、自分がそういう目にあっている
ために、それを否定できはしない。否定する事は自分の過去を否定する事になるためである。

子供の可能性を潰すのは基本的に親たちである。現代社会にフィットするためだけに、親は
子供を操作しようとする。自分の求めているように振る舞うように仕向ける。子供らは、
その結果として、「親が望まないように考えたり、行動したり、感じたりする事は悪なんだ」と
学ぶ。つまり自己嫌悪である。そういう感情が芽生えたら、自己嫌悪するように仕向けられて
しまうのだ。そして、親の言いなりになってしまう。親が望まないことをすることを恐れる
人間の誕生である。

同様に学校や、会社でも同じ事が起こる。会社の内部では、おかしなことが繰り広げられる。
そして、このようなハラスメント受けた子どもたちと、上司たちの間においてのみ成り立つ
関係の上に仕事推し進められる。このような人間たちの主たる行動パターンは、流行に流されろ
であり、長いものに巻かれろであり、それ以外の事は批判されるべきだという信念である。

これが昨今の不倫報道への過剰なまでのバッシングであり、ネット上の暴言の源泉である。
自分が異常であるとは、理解できないのも、このハラスメント社会が存続する要因である。

今回の選挙で、桜井氏がほどほどの得票を得た。その意味は、弱者たちの支持である。
ハラスメントを受けた子どもたちは、なぜか、極右的なものに染まる。ハラスメントの極地
のような思想に親和性があるためだ。ハラスメントの結果として、世間が是とするものを
絶対視するという愚かな考えを持つに至る。パターナリズムに陥るのである。自分の考えを
持つ事が、彼らにとっては罪なのだ。だから、自分で物事を考えてる人間を敵視する。
なぜなら、自分で考えて行動することを親からバツとして教え込まれたからだ。

彼らは日本という単位に意味を見出そうとする。それについては誰も批判出来ないことを
知っているからである。自分が日本人であるという事に唯一の価値を見出す。田舎でも
都会でも、自分の立ち位置を確保できなかった人間が、心の拠り所に、日本という概念を
選んだわけだ。

弱者は明らかに、日本社会から排斥されている。少なくとも歓迎されていない。
ハラスメントを受けているという点において、排斥を感じている。一方で、自分を歓迎して
くれる共同体を求めている。その共同体に何の努力もなしに入れるのが、日本という単位
である。これを利用してのさばっているのが、大阪維新であり、ネトウヨである。このような
思想性に染まる人々はごく一部なので、さほど心配していなかったのだが、どうも危険を感じる。

これはネトウヨといった少数だけの問題じゃない。
ハラスメントは、一般的な人々全体に及んでいる。

日本社会がハラスメントなのだろう。私は世間が押し付ける規範に脅威を感じている。
まっとうに物事を考える人間ならば、日本社会に適応するのは困難であろう。どう考えても
不自然な社会なのだから。

人の本質は他者との共同である。それなのに対立を煽る。わざわざ他人と対立することをやらせて、
それでいて他者と協力するというのは、単純な人々にとっては無理難題である。結局、対立し
競争に勝ったと思うことで、利益を自分の手にするという単純なストーリーに身を委ねるのだ。
まったく下らないのだが、それを誇る人間で日本社会は溢れている。そして、やぶれた者共は
その元々のスタートラインの不公平さや、そもそも対立することに無意味さは考えもせず、
自分が勝てるフィールドを見つけて、自分より弱いものをいじめることだけを考える。

こんなふうな世界観で、まともな子供が変にならないほうがおかしい。
苦しむ若者がいるのは当然至極である。そうならないのは、競争に勝てるだけの能力をもって
生まれた人間たちと、そういう人間たちが構築した不公平な社会に阿る事で生き延びる人々
だからだ。

子供は協力しようとし、共同しようとする。なぜなら、それが人間だから。だが、それを
阻害される。阻害された結果として、恨みをもつ。これがハラスメントの源泉である。
多かれ少なかれ、日本人は世間からハラスメントを受けている。

その結果として、長いものには巻かれろという事大主義が蔓延する。自分がなにか物事を変えられる
と信じられないがために、ならば自分に有利なものを選ぶ、有利になる立場を選ぶ。

そういう事の結果としての選挙結果なのだ。地方の欲求と、都会の欲求の兼ね合いが、
小池なのだ。

その近視眼的な選択により、状況はさらなる悪化を招くだろう。
コロナによって、経済的体力のない人々が失業していく。社会はそれをサポートせざるを得ない。
自助努力という名の見捨てが横行するだろう。社会が不安定になれば、犯罪も増えるだろう。
その反動で、社会的な行動制約が増えるだろう。この行く末は、中国共産主義的な政治体制
である。

まったく民主主義が聞いて呆れる。私には選挙のたびにそう思うのだが、誰も深く考えない。
それがもっとも怖いことなのだ。

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社会に生まれて落ちるとはー遅れてきた者たちー [思考・志向・試行]

社会的な概念から、意図的に遠ざかろうとしてここ数年過ごしてきた。
そうして見えてきたものは、社会に生まれるという事の意味だ。

子供の頃は、生殺与奪権を大人たちに握られている。
どんなに家族が嫌であろうとも、大人たちが作り出している社会に適応的に
ならざるを得ない。でなければ、生きることが困難になるからだ。
子供には生産する手段もなければ、食料を確保する能力もない(事になっている)。

*本当は、他人から強奪することで、賄うことは可能だが、
 それはすぐに捕まる仕組みになっている。

子どもたちは、生物的な本能によってそれを敏感に感じ取る。
親の機嫌を、本質的に損ねてしまえば、身に危険が及ぶと理解する。
これはいわゆるハラスメントである。生物が、その生物らしさを抑制される事、
それ自体がそもそも不自然であるにも関わらず、ヒトはそうやって、他者の顔色を伺う
事で生存を開始する。赤ちゃんであった時代を経て、子供は社会に適応を始める。

この過程を大人の視点でみれば「成長」である。
だが、多くのルールは子供の元々の能力を制約する。現代になればなるほど、
この制約を増えた。とりわけ都市に適応した人々は、強くルールに晒されている。
なぜなら、他人が大量にいる場所で秩序を保つには、個々人にルールが内面化されている
必要があるからだ。

この時に植え付けられるルールとして、資本主義的論理がある。
A.他人の物は奪わない事(私有権)
である。

この制約を洗脳状態まで、内面化した人々は、他人の物という概念に縛られ生きていく。
その一方で、別のルールもある。共産主義的論理である。
B.他人と協力せよ、生産物を独占するな(公有論理)
である。

この2つのルールは矛盾する。当たり前である。人類はこの矛盾に生きてきたのだ。
そして、この統一を図ろうとして常に失敗を続けてきたのだから。

この2つを暗黙裡に使い分ける。現代は資本主義社会のルールを採用する。
その時、AルールとBルールはどうなっているのか。

資本主義のいわゆる問題点は、生産物の所有権である。もしAルールを強く主張する労働者が
いたら、どうだろう? メーカーの工場に勤めている労働者が、自分が作ったものは自分の
ものなのだと言ったら。当然、首になるだろう。そう、資本が投下し、その資本が生み出した
生産物はすべからくBルール、つまり会社という共同体の生産物としてみなされ、それは共有
せよと主張される。企業側の論理としては、生産財はこちらで用意したのだから、生産物は
資本側に帰属すると。

だが、労働者がいなければ、その生産物は生じなかったではないか? そこで資本はいう。
生産物そのものではなく、給与を与えているではないかと。対価を支払っているのではないかと。

よく考えてみてほしい。生産物を資本側はどこかに売る。その時の売上は、労働者への給与
以上に利益があがるはずだ。材を生産物にしたのは労働者で、その労働者もらう金以上に利益が
あるからこそ、資本はその生産物を所有しようとする。この点に関しては、労働者は常に自分の
労働の成果物よりも少ない金額の給与しか受け取れないという事になる。そして、その差分は、
資本の側の懐に収まるという事だ。

この差分について、納得できるだろうか? その割合はどの程度であるべきなのか。
その違いや取り分はいったいどう決まるのか。本来なら労使交渉とはそういうものである。
実態はただの賃上げ論争に過ぎないわけだ。それは労働者の側の立場が弱いからである。
なぜか?

資本からみれば労働者は金に見える。労働を売ってくれる存在である。
これは取引なのだ。労働を売る人間が多くなればなるほど、資本には有利になる。なぜなら
安い対価で労働を得ることが出来るからである。エンクロージャーで囲い込みによって
小作人たちは、労働者になった。要するに、労働者はあぶれていたわけだ。

資本はつねに、労働を搾取する。これが「マルクスの定理」である。利益があがっている
ということは、そこに搾取が存在する。だが、搾取が悪という価値かどうかは別問題である。

特定の人々は、搾取されてもなお、生活があれば良いと思っている。むしろ生活のために
進んで搾取される。資本のために忠誠を誓い、資本の増大のために努力するものすらいる。
なぜなら、搾取割合を変えることができるとほのめかされるからだ。いわゆる経営というもの
である。

資本と労働の間に、経営者という中間媒体が現れた。彼らは、資本でもなければ、労働者でもない。
だが、基本的に資本のおこぼれを頂く存在である。そのおこぼれは案外大きい。だから、労働者の
一部は経営者をめざせと言われる。むろんここでいう経営者とは、大きなくくりでいえば、
ホワイトカラー全般をさす。サラリーマンでも労働をしない人々は経営者の亜流である。

人を使ってその労働を搾取する存在ならば、それは経営者である。経営者は資本をもつものと
もたぬものがいる。そこは任意である。一般には、経営者は労働者を使役する人と言える。資本の
有無はオプションに過ぎない。現実は、資本が労働を利用する。という図式は、経営者が労働者を
利用するとおおまかに同値である。幾分か留意が必要なのは、これは常に同体ではないということだ。

一般に、搾取する側はされる側よりも儲けを得る。むしろ、儲けがあるから搾取する。
儲けのない搾取は持続不能になり、その集団は解散するだけだから。結果、労働者は経営者に
なりたいと思うだろう。そして、資本は労働者の中から経営者を見つけ出す。

では資本はどうやって、経営者を探すのか。我々に埋め込まれた概念は、学歴である。
資本主義社会は、人間を選抜する。それは資本が常に経営者を探しているからだ。そして、
労働者の親は子供に経営者をめざせと洗脳するからである。なぜなら、そうしている者たちが
目の前に居て、自分とそう変わらないのに、彼らがより利益を享受できるからである。その違いは
学歴であった。

人々は、近視眼的にものを考える。身の回りの事しか目に映らないのだ。だから、少しでも
良いという生活、自分にも手が届きそうな生活、それが学歴によって閉ざされていると知った時、
子供については学ばせようと願ったに違いない。もっと大きな視点ではなく、ただ目の前の事と
して。結果として親の善意は、子供に大きな負荷を背負わせることになる。

こうして、資本は学歴により人を選抜する仕組みを組み上げていく。その形が先鋭化するほど、
学歴はインフレを起こし始める。学歴の恐ろしい所は、能力の証明だけではない点だ。
競争が高まれば、本質的に無意味なことで、差異を作ろうとする。その無意味なものを判別できる
能力競争に適応的な人間。それがいわゆる学士エリートである。東大学部生がその象徴として
扱われている。

もちろん、学歴は仕事の能力とは別である。あまりにも学問に偏った人々が、経営する社会に
なった結果、どうなってしまったのか。彼らには、学歴という物差ししか人を推し量る能力がない。
当然ながら、仕事の効率は下がり、経営は滞る。だが学歴を持つものたちのアリバイ作りはすごい。
自分たちに職能がないとさとるや、アウトソーシングという名の、外部労働の取り込みを始めた。
そうして、生産物を確保し、売買する巧妙な仕組みを作り上げた。もはや日本のメーカーは
メーカーではなく、一種の金融機関のようなものになってしまっている。

そもそも、能力とはどうやって身につくのか。
遺伝学の研究からすでに、学歴能力は生まれつきの方が割合が多いと分かっている。努力は
意味があるけれど、地頭には生まれつきの差がある。彼らが同じ様に努力したら、地頭に勝る
ものがよい成績をとるだろう。ここに教育の欺瞞がある。では能力がないものはどうやって
経営者になればいいのか。なれそうもない。ならば、別の能力を発揮する他無い。それが、
社会の大問題なのだが、誰もこれをケアしようとはしない。そして、彼らに対して、安い月給の
労働者になるように洗脳するのである。その理由は「勉強しなかったからだろう」と
エクスキューズが出来るからだ。

上記の図式でみれば、今の日本で、一次産業などに従事しない人々は、経営者になるか労働者に
なるかしかない。そして、資本主義はあらゆるものに値札を貼った。金がなければ生きられない
ように仕組んだ。もちろん、金がなくても生きられる。だが、その生活は非常に不利になる仕組み。
そういうのが日本の形である。昨今は、その抜け道をきりひらこうという若者が増えてきたのだが。

広瀬すず(彼女の名前をだす事を容赦してほしい)が、スタジオの照明係に対して
「どうして照明を職業やろうとしたのか、よくわからない」という主旨の発言をして、非難を浴びた。
なぜ、非難されたのか。どうしてそういう心情になるのか。それは、上記の労働者か経営者かという
図式をあぶり出すもの言いだったからである。

多くの人はそこに欺瞞があることを知っている。そして諦めている。
諦めた先になにがあるのかも知っている。そうして、自分は「幸せだった」とうそぶくのだ。

だいぶ横道に逸れた。話をAルールとBルールに戻そう。

すると、Aルールは集団において適応され、Bルールは個人に対して適応されていると見て取れる。
説明不足だろうか。資本に対してはAルールが採用され、労働に対してはBルールが適応される。
言い直せばこうなる。資本は労働を搾取し、その成果物は自分のものであると主張する。
労働者はその生産物は組織における共有物として買い上げられ、売上の一部を対価としてシャア
しているのだ。

私が言いたかったのは、このダブルスタンダードの事だ。もし、このルールの割合が違えば
どうだろうか。もっといえば、資本に対してBルールが適応され、個人に対してAルールが
採用される社会はあり得るのか。もっと検討されるべきことだろう。


さて、生まれて数年もすれば植え付けられるAとBのルール。
人類は長い事、Aルールを認めなかった。ごく一部を除いてBルールを基盤に生きてきた。
ところが、いつからか、Aルールを採用した。Aルールを採用した社会は繁栄した。
一般にAルールは、保存穀物の生産からスタートしている。そういう社会は暴力装置を保持できる。
戦うための人々の存在だ。彼らを食わせるためには、Aルールが必然的であったのだ。
そう共同体内部にAルールを暴力を背景に存立させたわけだ。

Aルールを保持できる集団は、他国を勝る。結果として、Aルールは強化された。
集団に対するAルールは、次第に氏や家に対してもAルールを適応し始める。そして、
現代は個人に対してAルールを認めるに至った。

だが、矛盾するBルールも依然として残り続けた。なぜなら、Bルールはルーツを遥かに以前に
持つのだ。人類はBルールがあったからこそ生き延びてきた。皆で協力し合う事で、生きたのだ。
それが出来たのは、財の蓄積が少なかったからだろう。嫉妬されるものは身の危険を感じたはずだ。
よって自らそれを放棄する事で、集団における自分のイチを確保する。そういう息苦しさが
あった。一方で、協力することでヒトは気持ちよくなる事も分かっている。そう、他者との
関わりによって幸福感を得られる仕組みに身体が作られているのだ。

現代人はこの矛盾に生きる。Bルールに従えば、ヒトとしての快楽をもたらす。自分が仕事をして
その対価をみんなでシェアする。そのこと自体が喜びになる。幸福なのだ。だが、Aルールに
従えば、Bルールは消失する。Aルールには絶えず不満足が生じる。だから回りくどいことが
おこる。Aルールで稼いだものを、寄付したり、仲間という人々とシェアしようとするのだ。
こうすることで、ヒトのもつBルールに依る快感を得ようとする。

もっといえば、Bルールは人の存在意義でもある。他者のために行動する。綺麗事に思えるだろう。
しかし、人の幸福とは、そこに源泉がある。Aルールで、独り占めしたところで、満足はしない。
出来ない。それはあらゆる賢人が語る事だ。そして、過剰なAルールの適応は、社会のアンバランス
をもたらす。資本はそれを冗長する。現代は、その歪が目に見えて現れる社会なのだ。

今は揺り戻しになってきた。とはいえ、中途半端である。なぜなら、Aルールを基本にして、
どうやってBルールを体現できるのか。と皆問い始めているからだ。あくまでAルールは変えたくない
のである。

現代社会は、Aルール、もっぱら金によってBルールを実現しようとする社会なのだ。

誰かの協力を得るために金を使う。つまりサービスを得ようとするのだ。
そして資本主義とは、あらゆるBルール基盤の行動を、Aルールに転換する事を求められている。

今、家族というものはBルールを基盤にしている。だがもしAルールを強く推し進めるなら、
家族も金で買うという事になる。実際に、伴侶は金で買うこともある。結婚を三食昼寝付きの
売春といった人がいた。遠からずAルール要素を含んでいるという意味だ。今の所、血筋に対して
Aルールは入り込めていないが、家族をバラバラにしたという意味では、核家族化したという
点においては、Aルールの浸透は続いている。

客のモンスター化は、このAルールへの過剰適応だろう。相手のサービスを工業製品を買うかの
ように考え、期待品質に満たないものへ文句を言う。それがモンスターである。そしてサービスを
買ったからには、最大限利益を得ようとする、まさにAルールそのものである。

Bルールの解体は、Aルールの悲願なのだ。だが、愛や友情は金で買えるのか?
過渡期の人間として意見するならば、金で買った友情はまがい物であると断定する。
いわんや愛もだ。私にはBルールも同時に内面化されているのだ。


現代日本における息苦しさは、AルールのBルール地帯への浸潤である。誰もが気づいている。
けれど、だれもAルールを見直そうとは考えない。それは都市の論理である。自然のルールは
Bルールだ。

現代社会に生きるものは、結局、このAとBの違いをどう消化して生きるのかを問われる。
それがその人の幸福をきめていくのである。それが現代に生まれ落ちた我々のなすべきことなのだ。
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いよいよ石井紘基氏の予言通りにー日本崩壊の序章ー [思考・志向・試行]

日本の社会は、国というシステムに如何に寄生するかで、立ち位置が決まる。
安富氏はこれを「立場主義」と読んだ。

実際的に大きな企業の一員にでもならない限り商売は難しいものだ。
大きな会社というのは、要するに構造的に収益をあげる仕組みを手にしている
という事であり、余力を持つということだ。

それは社会が安定しているほど、そのシステムはぐるぐると回り続ける。
だが、実際には社会は完全ではない。まったく不完全である。
その不完全さは、誰かが負荷を背負うことで、物事が動く。

最近の政治は非体制側の人間に負荷を負わせて、立場を最大限生かすという政治が
行われている。貯蓄してきた国民の財産であるゆうちょや年金基金は、本来国民の
ために使われるべきだ。だが、体制側は、これを自分たちのために使うことにして、
そこから利益をふんだくっている。それが現在行われている政府による株買いであり、
経団連等による利益誘導である。庶民は、「介護」や「社会保障」の名のもとに、
重税を課され、それに文句も言わない。その税をかけているのは、体制側であり、
それは自民党をはじめとする官僚体制なのだ。

マルクス的な革命というものと同等の事柄が存在する。それは搾取である。
国家というものの中に生まれた我々は、搾取される仕組みに生きている。
この搾取とはマルクスのいう搾取ではない。国による国民からの搾取なのである。

このような思想はいわゆるアナーキズムである。だが、考えてみてほしい。
野良猫は、税金を払うだろうか? サバンナにいる動物たちは、納税するのだろうか?
いや、しない。するわけがない。気ままに生きているのだ。ときに激しく、ときに楽ちんに。

日本人として生まれるということは、息をするだけで金を奪われるという意味である。
およそ国民国家の住民は、多かれ少なかれそういう場を過ごしている。
私はこれを国家による民の搾取であると言いたい。

税金を収めるのは、なんのためか。国の運営のため?
バカをいっては行けない。共同募金とはわけが違うのだ。
税金とは、上納金であり、その上前をピンはねする人間たちを食わせるためにある。
国家とは、そういう装置なのだ。

そもそも、国民国家の成り立ちは、戦争に勝つためであった。
暴力集団である。暴力を内在させている集団は常に「国」である。
その国同士が戦い続けて、現代に至り、さも平和という面をして過ごしている。
だが、そもそも国とは暴力装置を内在させているものだ。そして、その暴力とは
とどのつまり、他者を操作するというためのものだ。なんのために? そう財の没収の
ためである。

露骨なのは、戦争である。戦争の目的は資源の争奪である。つまり財の没収である。
その装置は、気がつけば国内部における財没収権の固定化を生み出す。法を生み出す側
、その法を執行させる側、その人々を操作する側がいる。彼らは金という利権構造から、
人々を動かす。その根本は暴力である。現代は、社会的暴力によって制裁される。

国という実態はそもそも存在しない。あるのは、国という仕組みで儲ける人間と、
搾取される人間である。これは順番が違えど、すべての人がどちらの立場にもなる。
とある瞬間は、搾取され、とある瞬間は搾取する。あとはその割合と、大きさである。

この時間的な変遷が人の目をくらませるが、本質は、幅広く税金をとり、その金を
分配する事で社会を回す装置、それが昨今の国となったわけだ。そしてその根拠は暴力
である。社会的制裁という暴力である。

そもそもの起源は違ったのかもしれない。よその村からの襲撃に備えただけかもしれない。
だが、その暴力装置は村内部の力関係を規定しただろう。そうして、他者の労力を貪る
人間が出てきたわけだ。従わない人間に制裁を加える事で見せしめとし、税を取り立てる。
そうして、国を回してきた。いまや、国は自動的に回っていて、そのシステムが人々を
喜ばせかつ苦しませている。

政治とは、集めた金をどう配るかである。行政とはその実務である。彼らが権力を
もつのは当然である。そして、彼らは自分たちの良いように使うのは当たり前であろう。
建前は、みんなのため。だが、内実は自分たちのため。そういう露骨さを知りつつ、
おこぼれをもらうために、政治や行政に企業は群がった。

それが電通の問題、メディアの問題、経団連の問題であり、石井氏が調べ上げた
政府の金の流れである。日本の3~4割の会社は国からの金で食っている。要するに、
金を国から巻き上げているのだ。その原資は、いわゆる税金である。

税金で食っている人間たちが、3~4割いて、その彼らの掴んだお金が取引を通じて、
様々なところまで流れていく。その一方で半分程度は、自力で稼いでいるわけだ。

現代のように需要があっても、カネがないために、供給しても買ってくれない状況では、
金の動きが滞る。結果として、税金が減る。税金が減ると増税する。増税するから、
市中の金は減り、その減った金を補填しなければならなくなった。なぜなら、3~4割に
配る金がなくなったからだ。そう、それを国債とよぶのだ。

国は税収が減ると、増税するか、国債を発行する他無い。歳出を減らせば良いのだが、
減らすと「食えなくなる」人が出てくる。なぜなら、国や行政は計画的に給与を計算する
からだ。その辻褄をあわせるには、歳出を減らすのではなく、増税するか国債を発行する
以外にない。

当然ながら、増税には反発がある。ならばと、まずは国債を発行し始める。最初こそ慎重に
慎重に発行していた。歯止めがかかる仕組みだった。だが、途中から麻痺し始める。足りない
なら未来から借金すればいい。いつのまにか借金グセがついた。そうして、公務員たちは
自分たちの利権確保を行い、そのおこぼれに預かる3~4割の体制側は、安心してたかる事が
できた。だが、借金は所詮借金だ。行政の一部が増税を言い始める。歳出を減らすとはいわず
に、とにかく増税だと。なぜなら、それが一番腹が痛くないからだ。

国民はこういう時バカだから、すぐに受け入れてしまう。消費税は気がつけば10%になり、
介護保険料や年金負担は増大した。また、あらゆる場面で税を収める。ガゾリンだって、
温泉だって、小さくちまちまと税金をとっていく。

そうして、行政は金を集めてきて、非常に非効率に使う。本当に必要な金額か不明なまま、
仕事が作り出されるのだ。これが批判される公共事業である。今で言えば、電通の中抜、
持続化給付金であるし、政府の特殊法人等はそのためにあると言っても過言ではない。
つまり官僚たちは、国の金をせしめる組織をつくっては天下って汁をチューチューと
吸っているのだ。

こうして、増税と、偏った税金の市場への投入によって、体制の一部は儲かり、全体は
やせ細っていく。日本はもともと内需の国である。今だって8割程度は内需である。
その国が重たい税金を課している。ならば、金は停滞して当たり前である。

するとまた税収が下がる。下がるからまた増税である。保険料と名ばかりの税金を増やす。
人々が使える金が減ると、資金繰りが苦しい会社が増える。すると変なことをし始める。
国にたかるのだ。もしくは法整備を促し、自分たちに有利なルールを作らせようとする。

不景気になると、政府へのたかりは当然増える。市中の金がなければ、金のあるところから
得ようとするからだ。そもそも日本は共産主義的官僚性資本主義であるから、つまり、
でたらめな経済社会であるから、国が金を巻き上げて配るほど、市場がゆがみおかしなこと
になる。

しかし人々はこれを望んだ。民主党政権下において、歳出を絞るための行動をした際に、
官僚側と、グルになっている民間企業らは、辟易したのだ。そうして、メディアを駆使して
歳出をしぼるような政党バッシングを激しく繰り広げたのだ。その結果が今の自民党である。

そして、彼らは周りが望むことをそのまんま実行した。政府にたかりに来た企業には金を
出すということである。そうして、不景気のママ、国民から吸い上げた金を、お友達に
分配したのである。結果、一部の人間たちはおこぼれに預かった。一方で、そもそも経済弱者
は、そのアオリをくらって、ますます貧乏になった。これが現状である。

金のなくなった庶民は、金がかかわることを抑制した。そのもっとも足ることが、
結婚であり、子育てである。資源がなければ子供は生まれない。自然の摂理ではないか。

国は人が減れば、税収が減る。税収が減れば、また増税だ。増税するから、人が減り、
また増税する。理屈的にいえばアホなのだが、それを地でやるのが日本の官僚主義である。
彼らは計画した給与の支払いを滞りなくすませるため、辻褄を合わせることに全精力を注ぐ
からである。その結果、少子化しようが構わないということだ。

年寄りはこれでいいと思っている。なぜなら、もう自分は先が長くない。
だが、年寄以外は正直何も嬉しくない。

民主主義の恐ろしいところは、年寄が今のママを望もうが、そもそもそれは叶わないのに、
それを「叶う」かのごとく宣伝する政党に票をいれるということだ。団塊というマスが
そういう行動をすれば、このシステム全体は止められない。つまり、現状維持という名の
衰退である。

日本は間違えなく衰退する。それは事実であり、避けようがない話。
あとはどの程度ですむのかというだけである。

石井紘基氏は、ソ連を研究し、肥大化した官僚組織が経済崩壊を招く要因であると看破した。
そして、ソ連の崩壊を予言した。まさにそのとおりになった。その石井氏は日本の状況も
研究した。結果、日本もまるでソ連と同じ構造であると気がつく。その結末はなにか、
日本体制の崩壊である。それは予言であり、およそ「予定」である。

国を維持するには、増税か借金しか無い。だが、それは国を衰退させる要因となる。
もはや打つ手はないのか。

どうやって、収支のバランスを整えるべきか。私にはすぐにはわからない。だが、
これだけは言える。今のママでは、崩壊するのみだと。

我々は21世紀の日本の経済的崩壊を目にする世代なのかもしれない。
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