社会正義とは?ー先進国の無責任 [思考・志向・試行]

最近はあんまり、第三国問題が取り上げられない。
多くの日本人はこれについて何も考えていない。

一方で、これらに責任ある人間たちー政治や経済の学者たちや、政治家ーは、これを
問題視することはない。なぜなら彼らがもっとも目を逸したい問題だからだ。
なぜ彼らが目をそらすのか、それは簡単なこと。自分の「罪」を認めたくないからだ。

なんども、ここでは取り上げているが、一般に日本で暮らしていると、
それだけで第三国から搾取を行っている事になる。現代日本に生まれただけで、
既得権益構造の上に立っていて、その恩恵を小さくも受けている。この事が逆に、
この問題解決に対する問題を大きくしている。

要するに、日本人の誰もが、この問題の当事者だが、その責務は限りなく小さいというわけだ。
国という単位において行われる不平等がそうさせるのである。

ややこしいのは、日本内部における格差問題と、日本と外部における格差問題という
二重の構造がある事だ。この事について、我々はもっと自覚的になるべきである。

人道的にいえば、飢えている国々に支援する事は当たり前であって、
別段偉いことでも、すごいことでもない。だが、人々はそれに対する欺瞞をもつ。
一方では、経済的に搾取をしながら、もう片方の手で、支援を与えるのだから。

こうなると、第三国は先進国にとって都合の良い奴隷である。
経済という枠組みで相手を縛っておいて、経済苦を与えながら、可哀想だといって
微々たる援助をする。このような欺瞞がまかり通るのがリアルである。

およそ、こう説明すれば大抵の人は「それは酷い、なんとかしなくては」というだろう。
じゃあ、そのために貴方が出来ることを教えましょう。我々の生活をいささか制限する事
です。と言われたら、肯定出来るだろうか? 片方では同情しながら、片方では既得権益を
手放さない。その欺瞞が表面化する事に耐えられる人はまずいない。

だから、問題があることはわかっていても、そしてそれを解決する手段があっても、
決して、自らの損を肯定して動く人間は絶望的に少ない。

人の心性がそうさせるのだ。周りの人間が是認しない事実は、無視するというのが常套手段
である。仮に上記の事実を直視し何かをしようとしても「自分だけがそんなことをしても」
という感覚は拭えない。残念ながら、人とはそういう生き物である。理性だけで生物は生きている
わけではない。

コンビニやスーパーにいけば食料が手に入るという事実。これを可能にしているのは、
少なくとも、その一部は第三国の人々の労働搾取である。同じく、ファーストファッションの
ようにとんでもなく安価な服が買えるのも、第三国の人々からの搾取である。

そんな事をいわずとも、もっと身の回りでいえば、例えば車に乗れるのは、その部品をつくる
のに、どれほどの労働搾取があるおかげか。価格を下げるには、労働の対価は下げられる
必要がある。その労働を担うのは、現代では海外からの流入した労働力である。車にのっている
人は、彼らの労働の恩恵を受けている。

こういう事をいって、普通の人を非難すると、いくつかの反論が飛んでくるだろう。
たとえば、彼らはその労働を喜んでやっているのだと。その労働ですら仕事があるという
事が彼らの役に立っているじゃないかと。要は好きでその仕事をやっているのだから、
それについての労働搾取の原因は我々にはないと言えるだろうと。

他には、搾取を認める立場もある。そのような労働につかざるを得ないのは、「努力が足りない」
からだと。能力がないから、そのような労働につくほか無いのだという。

私は、どの口がそれをいうのかと叱責したい。搾取している人間がそれを口にしていいはずがない。
正当に非難されているという事実から目を逸らす人間は、人として愚かだとしか言えない。
まずは、事実を認めることから始めるべきなのだ。

そして自分の責任において、事に対処するしかない。

我々がこれらの事を直ぐになんとか出来るとは考えにくい。だが、これらの事に加担することを
やめようというのは正しい態度である。それでこそ、人間である。

アドラーは共同体感覚を充足する行動こそ、幸福への道だと看破した。これを受け止めるならば、
明らかに、共同体感覚を損なう行為つまり労働搾取が、人々を幸福にさせるわけがないのだ。

つまり、既得権益として自己の利益を守ることは、ちっとも幸福ではないという事である。
コンビニやスーパーに食料品が溢れ、毎日相当な量の食料が捨てられていく事は本質的な
豊かさとは無関係なのだ。ところが、人々はそれをいまだに「豊かさ」や「幸福」の一部
だと思いこんでいる。

もはや明確なことは、長い目で見た時に社会にとって無利益なことは、不幸を生み出す装置に
他ならないということである。

既得権益者は、快適に贅を尽くして生きることが出来る。
それを肯定する社会を彼らは誘導してきた。そして多くの人はそれを肯定した。
生まれたときから、それを肯定するように洗脳するのだから、無理はない。普通の日本人は、
格差社会を肯定するように生活を強いられるのである。それを私は「不幸」と呼ぶ。

共同体感覚を基盤に据えるならば、人は他者と協力的であり、自己生存を確保できる仕事を
もち、喜怒哀楽を共有できる伴侶をもつ事が、人の幸福であると言える。多くの先人は、
これらを見出してきた。あらゆる時代の知性は、これらをわざわざ見出してきたのである。

ところが、我々はちっとも気が付かない。気がついても否認する。そんな事を言っても、
快適に贅をつくして生きる方が良いと。まったくもって、我々は愚かなのだろう。
おそらく、我々が必要とする「快適さや贅沢」は、自らによって生み出せるもののはずである。
ならば、なぜ他者を搾取してまで利を得なければ、幸福になれないと信じているのだろう?

協力すること。そのこと自体が我々にとっては「快適」である。
にも関わらず、あえて、おろかに、相手と対立関係を築いて、打ちのめす事を「快適」と
解釈するのである。ましては、打ちのめした相手に、今度は微々たる支援までして、
自己肯定感をもつのである。自分はなんと寛大であるかと。実に醜い。

人は醜い生き物だから仕方がないと言い放つのは、ただの逃亡である。
逃亡しているうちは、決して楽にはなれない。心に巣食う欺瞞に苦しむのだ。
現代人の多くは、気が付かずに、自らの行為によって自ら不幸の道を進む。そして、それを
全力でやることを「幸福」と呼ぶのだ。これを愚かと言わずして、なんというのか。

そう、つまりは、私は大抵の日本人はおろかであると言いたいのである。
そして、愚かな日本人たちは、努力する。不幸に向かって努力するのである。

不幸に突き進んだ人間はつねにこういう。
「お前らは努力が足りない、だから、既得権益者になれず、くいっぱぐれるのだ」と。
そして、自分の努力を心の底から自己肯定して、社会的弱者を否定するのだ。

こう書くと、じゃあ、弱者の責任はどうなる?という事だろう。
むろん、弱者にも責任がある。それは共同体感覚を得られなかったという事の責任である。
彼らは、彼らの力を放棄している点で、罪深いのだ。出来ることをやらぬという事は、
自らの立場を危うくするだろう。

とはいえ、現代人が間違えの道を突き進んでいる時に、それに参画しないのは、当然である。
人として全うであれば、そんな不幸な道になぜ進む必要があるというのか。まっとうな道が
あれば、そこへ向かうはずだった人々は、この世界にはまっとうな道がないと感じたはずで
ある。その心情に正直であれば、現代社会においては弱者になるほか無いのである。

共同体感覚が不足した人々の群れは、社会全体に蔓延る「他者を搾取せよ」の大号令に、
そまる大部分の人々と、それを避ける少数の人々を生み出す。このゲームに乗ったごくごく
素直なナイーブな人間が、既得権益者に貢献する労働搾取の主体になり、彼らが更に弱者
から搾取をする構造を作り出す。

その意味では、社会的強者も弱者も、同じ穴の狢なのだ。
強者がいう、「お前もまっとうに暮らしたければ、同じように努力して、立場を確保すれば
いい。それが出来ないのはお前には努力が足りなかったのだ。」という言明は一体誰に
向かっているのだろう? 社会的弱者の数なんてごく少数なのである。彼らは「その他」
みたいなものだ。その内訳は、生まれながらに能力がない場合がほとんどであろう。加えて、
現代社会の矛盾に気がついて、社会から逃れた人々である。そんな彼らに吠えたって無駄
である。

実をいえば、社会的強者は「自己責任」なんて事は言わない。こういう事をいうのは、
弱者の証である。つまり、社会体制で自己欺瞞を内包し鬱屈した精神をもちながら、
ほどほどの稼ぎで暮らす人間こそが「自己責任」を口にするのだ。その意味は、
「俺はこんなに頑張っているのに、思ったよりも快適でもなければ、幸福でもない」という
心情を吐露しているという事である。

つまり、社会的な弱者がさらなる弱者に向かって吠えているというのが描像である。
そして、その弱者達は、既得権益者に貢献しているのである。労働搾取の主体として。

一般の人が努力すればするほど、「他者を搾取せよ」という構造が強固になる。
要するに、「お前も努力すれば、我々のようになれるよ。」と言われた人々は、
彼らがこれをやるといいと言った事を、無批判に受け入れ、みずから進んで奴隷になった
というわけだ。そして、不幸道を突き進んでいるのである。少なくとも、自己欺瞞を
拡大し続けているのである。

生まれた瞬間に、我々は上記の搾取ゲームに乗せられている。現代社会とはそうなっている
と理解すべきなのだ。もちろん、全ての日本で、そうなっているわけではないし、世界の
大部分はそんな文化ではない。

日本の都市部、とりわけメディアの内部において、このような搾取ゲームに囚われてる。
毎日のように垂れ流される報道。その内容が世界認識を作り出す。そんなことはとっくに
分かっていた。だが、愚かしくも、人々はその魅力に圧倒されてしまったのだ。そして、
自分たちも「努力すれば」ああなれるという神話を信じたのである。

事実として、努力してああなった人々もいた。宝くじがあたった人間がいるのと一緒である。
胴元は、全員にくじを当てさせることは決してしない。誰かにだけごく一部だけを当選させる。
まったく同じである。みんなが努力したとしても、そのうちのごく一部だけが<当選>する
仕組みになっている。そして、そのような事を内面化していきている。それが日本人である。

たまたま当選した人が、その他の人にむかっていう。「お前らは努力が足りないのだ」と。
どうして、そんな事をくちばしってしまう事が不幸だと気が付かないのだろう?? そう
思わされているという事実に気が付かないのだろう? そんな価値観は生まれつきではなく
洗脳された結果に過ぎない。どうして、そこまで頭が悪いのだろう?

日本の都市部では、とかく洗脳がすっかりと板について、それを普通と思うらしい。
そして、それに殉じない人間は、非国民になってしまう。私はそれなら非国民でいいと思う。

現代社会の価値観にNOという人間が、どうこの世界を生き延びるのか。
少なくない人間たちは、このことに気がついてると私は思う。けれど、その価値観から
逃れた行動をとることにすっかり怯えているとも思う。なぜなら、日本の組織や行政などは、
そういう価値観にそって運営されているからだ。逃れられないのだ。

善良な人間たちが、現代社会のルールを是として生きる。
他愛もないことに喜び、体制が供給する娯楽に一喜一憂する。育ち、子を儲け、金を
生み出す。社会に労働者を再生産して、自らを労働搾取の実態を体現して死んでいく。
そして「いい人生だった」と幕を閉じる。その事を誰が否定できるのか。

だが、私は否定する。そこで生じている喜怒哀楽や、快適さはやはり、第三国の搾取から
生じているし、本当の意味で幸福を感じるには、他者との共同以外にありえないからだ。

日本社会は、この搾取ゲームを肯定しない人を排除している。少なくとも、土地をもたない、
自ら生産手段をもたない人々は、このゲームに参加する以外に道がないように思われる。

「努力すればいい」というセリフが出てきた瞬間に、その人間は洗脳済みという事だ。
そして、多少とも恩恵を受けたということである。難しいのは、搾取ゲームも隅から隅まで
徹底しているわけではないという事だ。日本社会にも搾取ゲームの隙間がある。その
隙間があるから、人々は生きていける。その隙間は、およそ地方都市にしかない気がしている。
都会には、その隙間はわずかにしかない。努力をする人々の活動のいくばくかは、単なる
搾取ではなく、共同体への貢献になっている。いや、継続されるビジネスとは常に、
共同への貢献なのだ。

問題は、共同体へ貢献しているのに、正当な対価を得られないことなのかもしれない。
搾取ゲームとは、その行為そのものではなく、分配問題なのかもしれない。
その辺りについて、再度考慮してみたい。
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