マンゴーレアチーズムース [その他]

デザートである。

そんなことは言われなくてもわかってはいるだろう。
そう、今日はデザートのレポートなのだ。

私がデニーズファンであることは既に承知のことと思う。

しかし、今日は私の浮気心が騒いでしまった。
そう、ライバルグループのすかいらーくのジョナサンに来たのだ。


ジョナサンといっても、カモメではない。←これがわかればあなたも大人。

泣く子も黙るすかいらーくグループのジョナサンだ。
ジョナサン。。。よく考えてみるとこの名前はおかしいような気がしてきた。
一体何を表しているのやら意味不明である。

人物名なのだろうか。ジョ・ナサンという区切りだったらどうしよう?
そんな馬鹿なことをひとしきり考えながら頼んだのがそう、

マンゴーレアチーズケーキなのだ。

まんごーれあちーずけーき。

意味もなくひらがなにしてみたのは、自分の浮気心のせいだろう。

レアチーズムースの下にはスポンジケーキ。そして添え物として
生のマンゴーが2切れ、そして彩りアクセントのミントが添えてある。

ふーむ。黄色い。黄色いなあ。

デニーズのあんみつミニパルフェと比べてしまえば、
ぐっとライトなデザートである。

しかし、しかしだ。マンゴーがのっているのだよ。
豪華ではないか。


どれどれと、ミントを脇においてムースをスプーンですくう。

ああ、

ああ、なんと絶妙な甘み。そして口溶けが上品!
けっして甘ったるくはなく口に優しいではないか。

ムースの下までスプーンを進めると、スポンジケーキが現れる。

おお、

ごく普通である。

が、ムースとの相性は良い。なかなかやるではないかジョナサン!

そしてマンゴーをパクリと。ああ、至福。
マンゴーを夏の終わりに食べるのは贅沢じゃ。

マンゴー、マンゴー♪ と小躍りしたくなのを抑えて、
珈琲をすする。

ジョナサンの珈琲は、ちょっぴり贅沢なゲイシャ豆ブレンド!
なんというとっておき。でも、ほとんどの人にとっては
「そんな豆もあるんだね」くらいの情報かもしれん。

ゲイシャ豆はここ数年コーヒー業界では流行しているトレンドなのである。
そのゲイシャ豆を惜しげもなくブレンドに投入してくるとは、
ジョナサンもやるのう。

そして最後の一口は、残りのマンゴーとムースそしてスポンジケーキをひとまとめなのだ。

ぱく。

(余韻)





ああ、美味である。
余は満足なのじゃった。←誰?




いやここで油断してはならない。そう、カロリーだ。




あ、あれ?? カロリー表示がない。。
残念だがカロリー表示をしない流儀らしい。



して価格は、おお、税込み329円である。

納得の低価格。貧乏には嬉しい限り。


惜しむらくはもうちょっと量が、量がなあ、、、


まあ、そこはジョナサンだけにしかない、
「キウイジュース」でフォローするのだった。



というわけで、本日も回されております。
ジョナサンにも回されてしまいました。

ジョナサンのマンゴーレアチーズケーキもよろしくなのです。
ゲイシャブレンドもキウイジュースも合わせてどうぞ。
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夏のデザート [その他]

最近は、貧乏だ。ひどく貧乏なのだ。
特に贅沢をしたわけでもないのに、懐が涼しいのだ。
世の中、ひどく暑いというのに。。


とにかく貧乏なので贅沢は出来ない。
いつもなら、デニーズ。愛しいデニーズ。
ブログ読者はご存知だろう、私はデニーズファンである!!(どーーーーん)

だが、デニーズはちょっと、だいぶ、結構、お高め設定なのだ。
そう、今となっては高嶺の花。ああ、あんみつパフェ。。。はあ、はあ。

くっ、今は少しでも節約せねばならぬ。
このクソ暑い、失礼、灼熱の地獄の中で、遠くにみえるデニーズはまるで
蜃気楼のように消えてゆく。ああ、私の人生どうすればいいのだ?


そんな折、道端にて、フランス語っぽい文字の店が目に飛び込んできた。
「Châteraisé」とある。

え? 読めないって?

泣く子も黙るシャトレーゼ様だぞ!!


何を隠そう(隠してないけど)、シャトレーゼは、山梨発のお菓子チェーンである。
詳しくはこちら→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BC


そして、いまや全国区にまたがり、なんなら海外にも進出中だ! ←さっき知った。


諸君、覚えておいてほしいこれだけは。小さな声でいおう、
シャトレーゼ、何を隠そう「安い」のだ!! や~~~~す~~~~~い~~~~!!

こういうと語弊がありそうだが、安いデザートが買える庶民の味方なのだよ、ワトソン君!


最近は、暑さ避けにミストを店先で振りまいている。
なんと、ハイカラな!← 死語

ミストに誘われて、シャトレーゼに一歩、踏み込むと、涼しい。さわやかー。
ふう、大いに涼めるぜ! ←モクテキチガウ


シャトレーゼでの目的といえば、そう「ダブルシュークリーム」である。
https://www2.chateraise.co.jp/products/104238.html?&scrollPosition=500

無論、誰でも知っている。なにしろ、教科書に載っているほどだ。 ← ぜひ載せて♡

シュークリームの王様が、ビアード・パパのサクサクシュークリームだとすると、
このシュークリームは、絶対的王者! マハラジャじゃ! ← なんかちがう


ダブルシュークリーム(108円税込)。

おお、輝ける黄金のシュー。
口に咥えた食感、柔らかさが絶妙だ。

そしてトロけるクリーム。王道のカスタードクリーム、、、、だけじゃない!!!
そう、生クリームも入っておるのじゃ!! マハラジャじゃ! ← なんかちがう

カスタードそして生クリームからの、カスタードと生クリームのダブル攻撃!

もう口の中が、クリームの楽園なのだ。


何よりも、この絶品が108円というリーズナブルさ!
すごい、ゴイスーですよ、シャトレーゼ! いや、シャトレーゼ様!!


あまりの美味しさに腰がぬけたようなぬけなかったような、
ほっぺたが落ちたような落ちなかったような、
いやあ、本当にデザートっていいものですね(水野春朗風)


というわけで、本当は教えたくないけれど、
シャトレーゼのシュークリームは美味しいので、
ぜひ、食べていただきたい。


近所に店舗がなくても、通販可能らしいので、食べたくなってしまった、
そこのあなたもゲッツ!


え? 今度はシャトレーゼの回し者かって??
いえ、回され者です。本日もよく回っております。


追伸:
 アイスもうまいのです。チョコバッキーもオヌヌメです。
 https://www.chateraise.co.jp/campaign/chocobucky
1本60円。でも十分堪能できまっせ。
 コンビニアイスがバカバカしいくらいです。

 これも知らないなんて、月に代わって、お仕置きです!!



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あまおうとアボカドチーズ [その他]

またしても、デニーズである。


ついに、ついに聞いてしまった。
何をかって?




デニーズのドリンクバーの珈琲の違いである。

ご存知だろうか、デニーズのドリンクバーにはなぜかコーヒーメーカーが2つ有る。
一つはやや古めの業務用のコーヒーメーカー。
もう一つはセブンイレブンで飲めるやつである。

今までずっと、多少は違うのかなと感じていて、
その違いはマシーンの違いだけなのだろうと思っていた。

ところが、なんと、

豆が違うのだと。。

つまり、マシーンの入れ方の違いどころか味のベースも違ったのだ。

元々のマシーンはやや重たい味がする。
抽出に時間をかけているか、粉の引き方が細かいのだと思う。
加えて豆のローストが強いのかもしれない。

一方で、セブンのマシーンの方は、味は結構スッキリ。
飲みやすい珈琲に仕上がっている。きっと豆がやや浅めの煎りで、
抽出時間も短めなのだろう。

ということで、ガツンという珈琲がお好みなら、古いマシーンの珈琲。
スッキリな飲みやすさを求めるならセブンである。

デニーズにお越しの際はぜひ、飲み比べてみてほしい。
↑回し者じゃないです。回されモノです。本日もよく回っております。


さて、本日のメインはそちらではなく、あまおうシリーズの一つ、
「あまおうとアボカドチーズクリームの自家製パンケーキ」である。(名前長いよデニーズ)

ポイントはアボカドチーズという所とパンケーキをちゃんと作っている所だろう。
よって、提供までやや時間を要したのは、きっと焼いていたためだろう。

パンケーキそのものは普通である。
だが、そこにかかっているアボカドのソースが程よい。
そう、ソースがかかってからが勝負なのだ。

その隣にはいちごのソースもある。こちらもまた違った味わい。
なるほど、一度で二度美味しい。

ちなみにそれぞれのソースにはアボカドといちごがそのまま乗っている。贅沢。

ちょっとした味のアクセントのシャーベット。
そこからのクリームといちご。

まるで、、、まるで、、、、いちごのパンケーキ!

ふう、思わず普通の事を言ってしまった。



美味しかった。余は満足じゃ。←誰?

これで740円なり。ちょっと高いな。
実はクーポンがあるのだよ、ぐふふ。
50円引きで、690円になっている。これなら納得。
というわけで、愛しいデニーズよ、次なる企画、楽しみにしておるぞ!
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貧乏になった日本:結婚や妊娠報道 [その他]

結婚や妊娠はおめでたいので、報道として安牌だと思う。
だから、特に意識しないで報道しているのかもしれない。

だが、どうもこの数年おかしいと思い始めてきた。
というのも、とにかく少しでも名前がしれているなら、
誰彼構わず報道しているような気がするからだ。

それも第1子、第2子だとわざわざ人数を加えてある。
結婚にしても、誰?と思う人も少なくない。少なくとも一般には
知られていない人たちの報道が増えたと思う。


穿った見方をすれば、結婚や妊娠報道を増やせという圧力でもあるのか?と
思いたくなる。もっといえば、国策として人口増加に寄与するとでも思っている
のではないかとすら思う。

これがプロパガンダだとしたら、全くの的外れだろう。
金がないから結婚や子供にまで到達しないという部分が大いにある。
人が増えないのは当然である。資源量に比例して人口は増えるからだ。
それは自然の摂理であって、それ以外ではない。

問題は、日本が貧乏になったということであって、
それは結婚や子どもの問題ではないのだ。そして、その責任の一端は国にある。
国が組織的に中間層を没落させたのだ。それは社会制度上の必然である。

必然な結果に対して、自分たちは悪くないとのたまうのが自民党政治である。

消費税を導入し、消費に「バツ」を与えたが故に景気は悪化した。
派遣法を改悪したために、労働者の賃金は抑制されたがゆえに景気は悪化した。
保険料や年金など、どんどんと値上げをして実質の増税をしたがゆえに景気は悪化した。

ほとんどが失政であろう。少なくとも国民にとっては失政以外の何者でもない。
そうして人々は困窮し始めた。多くの人が感じているのは当然のことなのだ。
生活水準が明らかに下がったと。だから、華美さの象徴であるファッションは廃れ、
嗜好品への欲求も下がった。生活必需品をなんとか買い揃えるのがギリギリに
なってくる。

その一方で、投資家たちは労働者たちを搾取する。搾取構造があるのだ。
金を貸し付けて、そのギャンブルで金を増やす。投資と投機は違うと証券マンはいうだろう。
だが、金を投資する意味は、金を増やすことが大前提にある。そういう意味で、
投資は必ずギャンブル性がある。そうでないなら、財団などで資金提供のみを
するという事で良い。金を増やす前提でないならば、株などを買う理由がどこにあるのかと
問いたいものだ。寄付でいいではないか。

私には会社は株主のものだという考えがかなり違和感がある。
現実として、金を出していれば、所有なのだという考えが相当に異常なのだ。
これは病的な考えである。そして、病的な考えこそが資本主義の根幹にある。

所有を金でおこなうというのが、資本主義のルールである。
建前上、金をだしたものが所有者である。だが、その所有物は、有機的である。
中身は人の集団なのだ。それを所有できるというのがそもそもの勘違いなのだ。

だが、世の中は、そういう勘違いによって動いている。現実問題として、
資金がある人間が投資で金を稼いでいる。そしてそれができる仕組みを生み出した
のが資本主義である。

どこかで金を多くせしめて、投資して更に金を増やす。
このどこに投資するかがギャンブルである。なぜなら世の中に確実なものなどなにもないからだ。

こうして投資家の力が増せば、儲けの一定部分は確実に投資家に集まる。
経営者は株主のいいなりになる。利益を上げるために奔走する。
利益とは 売上からコストを引いたものだ。この粗利益を最大化するには、
2つの原理しかない。

売上を増やすか、コストを下げるかだ。

日本の大企業は官僚主義だ。現状維持のために現状維持をする。
だから、状況が変われば売上が下がる。なぜなら、状況に対応できないからだ。
市場は変化するのに、会社組織は変わらないために売上がどこかから下がるのだ。
また、資本には利子がついている。多少の波風があって、一瞬間の落ち込み時に
経営が危機になることもある。しかし、利子は待ってくれないのだ。債務不履行になって
しまう。それがゆえに、常に売上を伸ばし続けるという運命である。

これをなんとか維持するには、イノベーションを起こすか、販路を拡大するかしない。
しかし、状況は変わるので、必然的にこれらは頭打ちになる。株式会社はここからが
勝負である。

現状を維持するために会社を大きくする事になる。人員を増やして取引を増やしたり、
店舗を増やして売上の拡張を図る。営業マンが尻を叩かれるのはそういうことだ。

さて、売上はどこかで頭を打つ、ないしは逓減してくると、もう一方が強く働く。
つまり、コストカットである。

コストをカットするために、まずは増えすぎた人を減らす。つまりリストラだ。
もしくは、給与をあげない体制にする。つまり派遣を増やす事だ。
正社員の数を減らして、派遣をふやせば、コストをカットできるのだ。

製造コストも下げたい。工員を減らして、ロボット化する。
事務処理も効率化をするためにIT化をする。
こうやって、自動化を推し進めていく。

要するに人を増やさず、売上を伸ばせば良いのだ。昨今の成功した企業は全てそう
している。頭脳明晰な人を高給でやとう。彼らをつかって、オートメーション化システムを
構築する。これがネットを通じて行われたのがGoogleやFacebookやAmazonであろう。

イノベーションを強力に推し進めてブランド力を確保したのがアップルである。
販路を自ら設けて、差別化をはかり、独自の規格で攻めた。かつてのソニーに似ている。

どうして、GAFAと呼ばれるものが成り立ったのかと言えば、
売上を伸ばすことと、コストカットを行ったからだ。その肝は「自動化」である。
人がやれば、コストがかかる。それを電気代に置き換えたのである。自動化のためには
賢くなければならない。頭脳にコストを支払ったのである。そして、一度自動化された
仕組みは、いくらでも使い回せる仕組みである。アルゴリズムは改良しながら使えるのだ。

こうして、既存の体制は自動化の体制にあっという間に追いつかれ、追い抜かれた。

日本では相変わらず人間がやっている。だからコストがかかる。
そのコストを抑制するためには、派遣社員にするほかなかったのだ。
なんなら、季節労働者や、海外からの派遣性という名の半奴隷である。

日本は経営者が全く状況を変えられず、気がついたら、GAFAたちが作り上げた
仕組みの下に入っていた。モノを作りだすという下請けである。GAFAたちが
作った陳列棚に、ものを提供するのが日本の多くの製造業である。

生産性がきいて呆れる。人間がやっていることは当然頭打ちがあるのだ。
彼らが自動化して電気にやらせていることを人間がやれば、生産性は低いし、
コストはかかるのである。

この生産性をうまくつかう事で、小規模の経営も可能となってきた。技術が
コモディティ化していく。あとはどういうものを作り出すべきかというコンセプト
が大事になってきたのだ。消費者が何を望んでいるのか。それを明確にとらえて、
適切な価格で売りだす。そういう事が大事になってきたのである。

大量生産して、ブームを作って、売りさばくというマスプロダクトはもう通用しない。

ともあれ、日本は何を血迷ったか、消費税を導入し、法人税を下げた。
これによって、企業は努力をしなくても良くなってしまった。
そして、現状維持さえできれば良いという人間ばかりを作り出した。
というより、現状維持しかさせてもらえない仕組みで動いてきた。

だから、企業には内部留保がふえ、消費者は可処分所得が減った。
経団連は、給与をあげることをせず、投資に回したのだ。

投資に回した金は金融に流れた。なぜなら、どこも大きな消費がないからだ。
アメリカに大きく流れていたサブプライムローンという河に投資した人も少なくない。
そして、金余りはますます、金融バブルをおしあげていく。バブルは崩壊する定めなのに。

日本では、アホノミクスという政策によって、株価が押し上げられた。
国が株を買うのだから、そりゃ株価があがるに決まっている。

本来余った金は、借金の返済にあてるべきだろうに。国債をバンバン発行して、
金を市中にばらまいたのだ。といっても、銀行にだけ。

銀行は本来、投資につかう。ところが、どこもかしこも焦げ付いている。
仕方がないから、やはり金融に金が回る。
こうして株価は連動的にあがったし、土地の価格もあがった。

本来なら、国民が消費するはずだった金を国や企業や銀行が金融資産として使っている。
そして、これらもいずれ瓦解するに決まっている。

さて話を戻そう。
そういうわけで、本来我々が手にするはずだった。金は、金融に吸い取られていく。
内部留保によって、ソニーは銀行まで作ってしまった。セブンイレブンもしかりだ。
金が、彼らの手に渡るほど、消費は落ち込んでいく。あたりまえだ、可処分所得が
低いのだから、庶民の生活はますます苦しい。

日本は内需で回る国だ。だから、本来庶民の間をカネがぐるぐる回るのがよい。
ところが、金融という体制側の仕組みにばかり金が流れる。法人税と消費税の関係だ。
我々は金を吸い上げられているのだ。その残ったわずかをぐるぐると回している。
吸い取られた金は金融という形で資産増殖していく。これがじわじわと毎日
繰り返されている。そりゃ1%と99%になる。日本もすぐにこうなるだろう。
仕組みが変わらなければそうなるのだ。

さて、こうなると、若者たちの取り分はどうなるのか。
システムに入り込める一部は除き、当然減る。減れば、生活は苦しい。
結果として、結婚や子供は減るのである。

加えて皮肉をいえば、システムに入り込めるような若者たちは結婚や子供をコスパが
悪いと考えるかもしれない。儲けて安定する人々の一定割合は、家族を形成しない
傾向にあるだろう。それは男女ともである。

仕組み上、儲けている彼らは確実に年金を払っている人々である。
他者がコストをかけて育ててくれた子どもたちが、自分たちの老後を支えてくれるのである。
自分の子供という血さえこだわらなければ、コスパが良いといえる状態なのだ。

さらにいえば、本来的には金がない事は結婚や子供の有無とは無関係である。
貧乏でも子供がたくさんいたりする。だが、現代日本では、貧乏な状態を許容しない。
既存のあり方が正義という観念がある。だから、それがかなわないとするならば、
無理をして結婚や子供を考える必要がないとも考えるだろう。これは完全に価値観の
問題である。

親よりも貧乏な状態を許容する他ないのに、それを目指すがゆえに、
苦しみが広がっているのだ。実に悪いことは、親と同等の生活をできるという状態も
まだオアシス的に残されている事だ。正社員として働くという形で、親より少し
悪い程度での生活が見えている。だから、若者はそこに入ろうと必死になる。

そのためには、我慢であると教わっている。そして、失敗は許されないと。
社会的に失敗すると転落し、正社員としてのあり方が奪われると潜在的な恐怖に
怯えている。

親ガチャなる言葉は、この潜在的な恐怖を感じるマジョリティの心情であろう。
一方で、裕福な家庭に育った子どもたちは、失敗を許容されて生きる。どちらが
能力を発揮できるかは明確ではないか。

もしくは、貧乏そのものに生まれついたならば、また能力を発揮できるだろう。
逆説的だが、守るものがない人間は強いのだ。だから、中間的な人々こそ、つまり
マジョリティこそが、時代のアオリを強く受けるのである。


まあ、なんだか色々と放言してしまったが、
潜在的な子どもたちや夫婦を、消しているのが現状の日本なのだ。

様々な要因が絡み合って、現状を形成している。どこかを変えれば直ちに良くなるものではない。
わかっていることは、多くの人が悩んでいる事柄の半分くらいは時代の問題なのだ。
それは本人の問題ではない。だから、それに悩むのではなく、少しでも良い状況を
作り出すように、動いてほしいと願う。それくらいしか一人の人間にはできないのだから。
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イントゥ・ザ・ワイルドを観て [その他]

あまり映画については語らないのだけど、10年ぶりくらいに見返したので、
感想をかいてみる。ネタバレがあるので、読みたくない人は避けてください。


知っての通り、実話である。

この話のストーリーは単純で、親の関係性により自分の拠り所がみつからないまま、
大学を卒業した若者が、アラスカという大地を目指すロードムービー。そして、
アラスカで、運悪く命を落としてしまう。

表面だけをさらえば、自分探しの旅にでた若者が、結局、荒野で戻らぬ人になったという
無謀な話に聞こえるだろう。

しかし、中身をじっくり吟味すればそれは単純すぎるといえる。

映画ではテーマがある。
この場合のテーマは、愛なのだと思う。そして許しだ。

主人公は苦悩する若者である。
両親によって傷ついた男である。彼は、何かを求めて旅にでた。
そこにいわゆる自分探しがあったとは私は思わない。
むしろ、知りたかったのは生きるとはなにか?という問いだったのだろう。
そして、彼の行き着いたシンプルな解は「幸福とはシェアすることだ」という事実だ。
このセンテンスを知るだけでもこの映画の価値はあると思う。私も、この1つの答えに賛同する。

何かを知ったら、それを誰かに知らせたくなる。
それは非常にシンプルな行為だと思う。喜びだと思う。
そして、実をいえば、人の存在意義はそのあたりにしかないのかもしれない。

行為として単純化してしまえば、ジーンとミームを残すこと。
我々がこの世界に残せるのはこれらだけだ。あとは土に還るのみである。
人生に意味を求めると、究極的にはこの2つに収斂する。

人体を維持するためにある生理的欲求。
それを除けば、我々には性欲しかない。性欲を満たすことは快楽であるが、
その欲求の結果は、ジーンとミームである。生命とはそういう風にできている。

この映画の主役であったクリスは、何を残したのか。
あのバスの中で、大きな後悔を味わっていたのだろうか。
それとも、荒野生活にたどり着くまでに得た多くの経験に満足したのだろうか。
雪解けで渡れないほどに広くなった川。食糧難になるという計算外。
食べるものを見つけようともがいた末に、毒性のものを食べてしまうという失敗。
決して、成功とはいえない結末だったのではないか。

なぜアラスカなんて目指したのだろう? 父や母をどうして許せなかったのだろう?
強い自問自答があったはずだ。そして、こういう結果になってしまったことをどう
受け止めたのだろうか。いや、そんなことを考えられないくらい病気は苦しかった
だろうか。

初めてこの映画を観た時に感じたのは大きな絶望感だった。
彼の行為に一体どんな意味があったのだろうか。死んでしまったら元も子もないじゃないか。
こんな風に生きては駄目だと思った。それが正直な感想だった。

ところが今、自分はそれだけではないと感じてきている。
いや、実のところ彼の人生は無意味なんかではなかった。
少なくとも、彼の生き方が書籍になり、映画になった。
そして、遠く離れた島国に住む私に影響を及ぼしている。

そう、彼の残したミームは確かに伝搬したのだ。

彼の行動に賛同できない人も多いだろう。けれども、彼の行動に対して感じるなにかは
決して看過できないのだ。自由への憧れ。いや、およそ彼に絡みつく様々な社会的な事から
彼は逃れ、人間になりたかったのだろう。そのために一人で何ができるのか、人生の意義を
探していたのだろう。誰かが作り上げた道をそのまま歩く人生を否定して。

この映画をただの自分探しの旅とみるのは、およそ変だ。
彼が探していたのは自分ではない。人生を探していたのだから。
自分に張り付いている社会的なものを剥ぎ取ろうとしていたのだから。

彼の結末から、気がつくのが遅かったとか、未熟であったとか、
金持ちの息子の無謀さとか、中二病などと批評する人々がいるのは理解できる。
だが、そんなものは薄っぺらな感想である。何も映画を見ちゃいないからこそ、
そういう批判が出てくる。

いや、むしろそのように批判することで、自分が如何に文明社会の日常に埋没し、
人間関係に嫌気がさしながらも、自分を無理やり納得させ、人生こんなものだと嘯いている
自分を肯定しようとしているだけなのだ。自分のあり方に明確にNOと突きつけれらた
人間こそが、上記のような感想を抱くのである。その意味ではこの映画はおそろしいのだ。
未熟な人間こそがあぶり出される。

人は生きて死ぬ存在である。現代人らしく生きると、すぐに自殺でもしろということになる。
人生を効率的に生きるとは要するに生まれてすぐに死ぬことだからだ。それでも死ねないなら
ば、合理的で効率的な生き方を否定しているのだろう。それは、クリスと全く同じではないか。

成熟した人は、この映画にひとつの生き様を確認するだろう。
良いとか悪いとかではない。一人の人間が自分に正直に生きたという事なのだ。
結末の残念さは、我々が抱くクリスへの愛情なのだ。彼に生きていてほしかったと
望むのは我々なのだから。その思いが生まれるのに十分なほど、クリスの生き方は
美しい。そして儚かったのである。

もう一度、ジーンとミームを考えてみる。
人生の意義はジーンとミームなのだろうか。違うと私は思った。
生きがいを求める心は理解できるが、それすらも、本質的は人生の意義ではない。
そう思ったほうが「人生が楽になる」という話なのだ。

幸福は誰かと共有した時に本物になる。クリスはそう書いた。

だが、必ずしも「誰かと共有しなければ幸福ではない」という事ではないだろう。
私は、ジーンやミームを残す事という考え自体も1つの思想に過ぎないと思う。

命は存続を願う。太古の昔から人々は命の永続を望んできた。
生命とはそう宿命されたものだ。その方向性に向かって進むように設計されている。
それが延長されて、ジーンやミームとなる。自己の肉体は滅びても、世界に何かを
残したい。それが可能なのは、ジーンやミームである。

でもこれは、実は命の欲求ではなく、意識の欲求にほかならない。
ましてや、自己意識の存続を願うというだけにほかならない。
一種の文化ではないのかとすら思う。

確かな自己。それを信仰しているからこそ、自己の喪失が怖いのだ。
かつての社会に現代ほどの自己などあったのだろうか?

自己の存続という観念の中に、どこか、功利主義が混ざり込んでいる。
残さなければ損であるというような観念である。死んでしまえば、どうでも良いことなのに、
残さないことに未練を感じてしまう。それは何か? 本来的に生命が志向することなのか。

我々は生かされている。この厳然たる事実をうっかりすると忘れてしまう。
何かの力によって生かされているのであって、自意識的に生きているわけではない。
それがいつの間にか、生きている事が自分の権利かのように考えるようになる。

そして、生きているという事を棚に上げて、社会的なことに熱を上げる。
社会的な事が人を幸福にすると信じているからだろう。
他者が自分を幸せにすると信じているからだろう。

答えはもう出ている。
我々は、生きているだけで良いのだ。身体が存在するのは世界に望まれているからだ。
世界に許容されているから存在できるのだ。ならば、それ以上の理由など何が必要
なのだ? 我々はそこからスタートできる。その上に、社会が生み出す幸福が存在するのだ。

クリスの言葉はスタートだったのだ。私はそう思う。
Happiness only real when shared.
この文を、人間関係に限定するべきではないと思う。これは世界とのあり方を述べたのだ。
それこそが、クリスの信念ではなかったのか。

人は一人では生きられないという意味ではない。
命あるものは、すべからくシェアしているのだという事なのだと私は解釈する。

Life only real when shared.

私にはこう聞こえたのである。
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桃のヨーグルトココパルフェ [その他]

例によって、デニーズである。

またか! そう、そのまたかなのだ。

9月に入り、だいぶ気温は下がってきた。
だが、自転車で移動してきた自分としては、些かの体温上昇がある。

早速席について、メニューを見ると、目に入ってくる桃特集!
うまそうじゃないか。いや、きっとうまいに違いない。
思い切り宣伝にやられている。

ふと、携帯みると、ヨーグルトパルフェの30円クーポンがある。
ふむ。じゃあ、それを頼んでみるか。569円なり。


運ばれてくるパルフェ。白く桃色だ。まるで、桃太郎だ! なんか違うか。

上に白桃がスライスされ4枚ほど乗っている。
クリームの影には、キューブ状のアイス。
その下にはシャーベットである。

早速、桃に手を伸ばす。う、うまい。
残暑はどっかにいってしまったが、桃はうまい。

中央にあるクリームを救いながら、キューブのアイスを口に入れる。
ふわっととけて甘い味が口に広がる。ふむ、美味だ。

ジェラートが案外良い。冷たくてアクセントになる。
すると、ガリッと音がした。そうグラノーラが入っているのだ。
硬いグラノーラが口に振動を与えて、食感を変える。なるほど、面白い。

更に下には、四角いナタデココが控えている。
カスタードクリームとの味わいがまた新しい。

ああ、至福。
月に一度の贅沢。このために働いている、、、わけではないが、
贅沢は素敵だ。


そうそう、恒例の(?)カロリーはどうなのか。
250Kcal!! なんと程よい。
そう、このデザートはヨーグルトだったのだ。
これなら、いつ食べても、過剰にはならないぞ。


しかし、デニーズよ、さすがだ。私のデニーズは裏切らない。
流石としか言えないじゃないか。
いつも、やられてしまう。もうね、ブログ名もデニーズファンに変えてしまおうか。

ごちそうさま。また、来ます。
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ハンバーグカレードリア [その他]

再びデニーズである。

もちろん、あんみつミニパルフェを食べに来たのであるが、
今日はうっかりした。


それほど、腹が減っていたわけではない。
けれども、暑い場所から冷房が効いた場所にきたせいか、
身体が温かいものを求めていた。

そこでメニューをつぶさに眺めてみる。
担々麺が美味しそうな顔をしているのだが、
スープも考えるとボリュームがアリすぎな気もする。
また、ほぼ千円という価格。それなら、専門のラーメン屋に行くほうが良い気がする。

他にも、パスタなどに気を取られるが、なんか違う気がする。

すると、不思議な事にハンバーグが食べたくなってきた。
なぜかは不明だが、ハンバーグが食べたい。

ハンバーグメニューもいくつもある。
多少とも価格を抑えつつ、満足できる品が良いなと。

すると、ハンバーグカレードリアという、ハンバーグなのか、カレーなのか、ドリアなのか
不明瞭なメニューを発見した。写真の脇に、口コミで人気とある。なるほど。

878円という価格。た、たかい。。(私は貧乏なのであった。)

そういえば、と思いアプリでクーポンを探ってみると、
なんと30円オフ券がある。ならば、848円なり。むむむ。

ええい、食ってしまえ。
ピンポーン。

ということで、ハンバーグカレードリアが届く。
ブラウンの皿にひたひたになったカレー。チーズが溶けている。
その下には白いライスがあり、真ん中にはどうどうたるハンバーグが乗っている。
見事な見栄えである。そして漂うカレーのスパイス。ふーむ、名前の通りだ。

ついがっつきたくなるのだが、熱いのでゆっくりと味わう。

ハンバーグから漂うオラオラ感。
「おまえ、これが食いたいんだろ」と挑発してくるではないか。
その一片をスプーンでちぎりながら、ライスとカレーを合わせてすくう。
そして口の中へ。

こ、これは、

もはやハンバーグではない。

これは美味という食べ物である。

美味に続く、美味。そして、美味。

カレーはややスパイシーで辛口なのだが、気にならない。
いやむしろチーズとの相性が抜群である。

至福。

というか、やばいよ、これ。
どこを食べてもうまい。当たり前だが、どこを食べても、ハンバーグカレードリアである。
この世にはまだまだうまいものがあるのだな。私は世間知らずであった。

口コミで話題なのも当然である。


しかし、この世には、光があれば闇もあるものだ。
ちらと、成分表を見ると燦然と805Kcalの記載が。。。

はうっ!ハイパーカロリーだ!

うまいものは、カロリーが高いの法則が発動していた。

ふーむ。
カロリー消費を考えないとだめではないか。
美味という食べ物にはカロリーという毒が仕込まれていたのである。
なかなか都合良くはいかないものだ。


というわけで、デニーズのハンバーグカレードリア。
私の辞書にまた一つメニューが増えたのであった。
腹が減ったら、また食べたい。

みなさんもデニーズへお越しの際はぜひ。(回し者ではありません。回されモノです。)
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終わりなき日常 [その他]

あまり真剣に考えたことはなかったが、ふと頭を過ぎったのは、
ごく当然のことだった。それは、日常である。

生活といってもいいかもしれない。

どんなふうに生きようが、我々は日常を生きている。
どんな仕事をしようと、毎日何かを食べ、眠り、セックスをする。
そういった生活は死ぬまで永遠に繰り返される。

そういう意味では、日常をいかに豊かにするかは人生の極意かもしれない。
それは派手な消費やレジャーや旅行では生み出せないものだ。そして、
圧倒的に日常のほうが時間が長いのだ。同じだけの投資をするなら、
日常のレベルをどうやって向上させるのか。それが大事ではないか?

何度も繰り返される日常をもし、快楽で埋め尽くそうと思うなら、
それは危険であろう。人は物事になれるという性質があるからだ。

どんなにごちそうでも、毎日は食べられない。一定量しか食べられないのだ。
どんなに面白い映画でも、毎日は見られない。筋を覚えてしまえば、感動も減る。
どんなに良いセックスでも、毎回毎回同じように快楽があるわけもなく、また
なれてしまうものだ。

これを最大限化するには、絶えず新しい何かを取り入れなければならない。
人は、違いに敏感であるがゆえだ。ちょっとした違いでも、飽きを解消するには良い。
だから、快楽を前提に日常レベルを変えようと思ったら、絶えず消費は過剰さへと向かう。

この原理において、資本主義は動いてきた。だが、実際には人の数が問題なのだ。
消費において生活レベルをあげるにはカネが必要である。そのカネを得るには、
誰かが使わなければならない。もっといえば、誰かが借金をしなければパイは増えない。

だれかが、溜め込むほど、社会から消費が減る。消費がへれば、資本は回らず、
経済が停滞する。つまり、金持ちが増えるほど、消費は必然的に減るのである。

歴史はごく単純だ。リソースの分配構造の変遷である。
その支配権の争いであり、そのリソースを手元に引きとる行為にどれほど勤しむかである。
そこに変な価値観を付与することで、権威性が発生するが、それはただの幻である。
なぜなら、みんな等しくただの人間だからだ。生まれながらの貴族や王族もまた、
たんなる人に過ぎない。彼らがらしく見えるのは教育のたまものである。

ともあれ、リソースを溜め込む支配力が強くなれば、反発が起こる。
その反発は、しばしば内部ではなく外部へと向かった。ローマ帝国などは典型である。
貴族たちは溜め込んだ資本を労働者や奴隷に配分するのを嫌がった。そして、それは
外部への領土拡大への投資に向かったのである。貧乏人は兵隊となり、カネを得る。
そうやって、領土を拡大する事で、兵隊は住む場所を得たカネで得ることができ、
貴族は投資を領土から回収する。帝国的にみれば、うまくいく戦略であった。

もちろん、侵略される側はたまったものではない。彼らの日常レベル向上のために
なぜ、我々が攻撃されるのかと憤慨したことだろう。

ローマ帝国はこの後、更に強力な武力をもつ東方からの攻撃によって、崩壊を始める。
要するに、領土を拡張しようとしたけれど、もはや広がらなかったので、国の論理が
破綻したのである。結果として内部分裂を起こした。

現代に話を戻そう。現代は、要するに兵士の代わりにビジネスマンを育成して、
それを多方面に展開する形で動いてきた。それがいつしか、情報のやり取りのみに
おいて事が動くようになった。現代とは、新しい状況への過渡期である。

とはいえ、そのマクロな状況は全く変わらない。
日常的な快楽の増進というお題目が相変わらず存在し、それに向かうようにと
日々、人々を洗脳し続けている。それはあなたもだ。繰り返す。あなたも洗脳されている。

あなたはおそらく毎日働いている事だろう。大人であれば、高確率でそうであろう。
専業主婦であっても、家事労働という仕事が存在する。それは生活そのものであるが、
労働でもある。

生活における労働は必要不可欠であり、必然性がある。
一方で、日々の賃金労働には必然性がない。必然性がない行動はもっぱら社会が規定している。
社会が規定するのは、その社会の自己存立のための行動である。社会構造を維持するために、
社会が人に行動を押し付けてくるのである。

それを自覚すること。それを私は「目覚め」と呼ぶ。
大抵の人は、全く無知蒙昧に、社会の規範を生きている。
私もかつてはずっとそうだった。それで、良かったのかもしれない。

しかし、私は赤いカプセルを飲んでしまった。世界は「マトリクス」なのだと自覚した。
その自覚は私を幸福にしたわけではない。むしろ、不幸にしたかもしれない。
事実は、人をげんなりさせるものだからだ。

そして、私はマトリクスから抜け出すことの困難さも理解している。
およそ半歩も出てないのだろう。およそ、塀の上を歩いているという感じである。
何しろ、私の友人、家族、殆どの人は塀の中に生きているのだ。彼らとのつながりを
断つのは自殺行為であり、それゆえに、塀の外に降りられないでいる。

正確には、一時、塀の外に出たのであるが、日本という国では、塀の外があるようでなかった。
そのような無縁な世界は、日本にいる限りにおいて存在しないのではないか。そんなふうにすら
思えた。どこにいても、社会は追いかけてくる。

加えて、自分はそれほど強くもない。むしろ、日々弱さを実感している。
マトリクスが恋しいこともしばしばである。どこか間違っている世界なのにだ。
結局、塀の上を歩く。それが私にできるせいぜいなのだろうと思っている。

価値観の多様性と考えてきたが、私はそろそろ、そんなふうに考えるのはやめる事が
必要だと分かってきた。マトリクスの住人には、塀の上からでも、別のものがあると
いうべきなのだと。そして、私は塀の上を生きるともっとハッキリと自覚するべきなのだと。

塀の外にいけばもっと楽なのかもしれないし、塀の中でも、楽なのだろう。
中途半端だけれども、現状では塀の上がせいぜいなのだ。

話がだいぶそれてしまった。

日常の消費を差異で固めるには、コストが高い。
それなりのカネがいる。そのカネがありさえすればと思う人間は多い。
その欲望を利用して、資本家は労働搾取をする。良いか悪いのかは各人の問題であろう。
毎日、労働にでかけている皆さんは、れっきとしてこの一員である。憤慨しただろうか。
自分が何をしているのかを真剣に考えれば、別段、おかしなことは言ってないとわかる
と思う。

すぐ次にこう思うだろう。「カネを稼がないでどう暮らせというのか」と。
全くである。だから私も塀の上を歩くほかないのだ。だからといって、
快楽的消費にコミットしなくても良いとは思わないか。

我々がやるべきは、もっと、普通の事だ。
日常生活を、百均で彩ることではない。
むしろ逆である。日常生活ほど、ブランドで着飾るべきなのだ。
外には見えないがゆえに、カネをかけるのは、日常のクオリティである。

いや、正確にはカネではなくタイムである。タイムをかける事こそが、
日常のクオリティを担保する。

快楽的消費は、その消費を行うために、日常を切り詰めることを勧めてくる。
時間もカネもだ。そして、溜め込んだカネを非日常へと利用させようとする。
それは本質的に、貧乏な考えである。洗脳がゆえの価値観である。

むしろ、時間をかける事が大事なのだ。
それも、創造的な事にかける時間の増大こそが、大事なのである。

日常に創造性があり、そこにかける時間がある事が、豊かな日常である。
これが答えだと私は信じている。そして、ここから離れるほど、人は一時の
快楽を求めるようになる。

現代日本人の典型的生活に幸福など存在しない。なぜなら消費、それもカネによる
消費しか興味がないからだ。価値観はそれぞれだから、私はそれをどうとも思わない。
私の友人たちの一部は、それに興じている。ごく普通のことだろう。そして、十分に
「幸せ」を感じている事だろう。

他方で、私が言う豊かな生活を送る人々もいる。
どうせなら、創造性ある日常を生きるほうが良い。なぜなら、日常は死ぬまで続く
永遠の事柄なのだから。
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ホタルの墓 [その他]

ジブリのホタルの墓を初めてちゃんと観た。
噂には聞いていたが、かなりの鬱映画である。


しかしだ。私はこの映画を単純な反戦ものや、戦争孤児もののお涙ものとして解釈する気には
ならなかった。むしろ、あまりにも日常に見えたのである。

良くも悪くもリアリズムである。
この映画に救いはない。幼い二人が、戦争という時代において、ただ生きたという物語である。

清太も節子にも、やりようはあったかもしれない。
引き取りての伯母にも、対応のやり方はあったかもしれない。

けれど、そこに生じた出来事はごく自然のうちであり、これ以外の
流れなど、生まれてくるはずもないのである。

世の中の動静に、巻き込まれた家族がいた。
父は出兵し、母と子供の二人。ある日の空襲で、母とはぐれたがゆえに、
母は爆撃で帰らぬ人となり、その孤児たちである二人は生活を取り戻せずに死んだ。

この映画に込められたものはなんだろうか。

幽霊となった清太は、もどかしそうに過去を見つめている。
もっと違う方法があったのではないか。そう悔やんでいるのだろうか。

私が知っている戦争体験の話は、祖父に聞いたものや近所のおばあさんから聞いた話である。
そこにあったのは、ただ、ただ生活である。そして、あのような状況下では、
自分たちの生活が大事であって、他人の面倒など、到底みられるものではなかった。

これと現代を対比し、今の人は幸せだという人もいるだろう。
私は違うと思う。

私には清太や節子は、精一杯、生きただけではないかと。そして、
それは今の時代を生きる人間たちと、何も違わないのではないかと思う。

その時にできることをして、それがたまたま不幸な最後になってしまったのだと。

これは現代人だって同じことである。
今の生活のためにできることをやって、生き延びている。そういう事なのだ。

確かに、彼らは不幸であったと思う。
現代人の感覚から言えば、可哀想としか言いようがない。
だが、あの当時からいえば、ごく日常のありふれた光景だったのだ。

我々の日常でも、本来は、死というものは隣り合わせである。
そして、世間の冷たさも、人の冷淡さも、ごく日常である。

我々は、同じようにリアリズムの世界を生きているのだと、
きっとこの映画はそう言いたかったのだと思う。

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デザート [その他]

高級路線のファミレス、デニーズ。

実を言えば、デニーズのデザートが大好きだ。
いや、私の好みなど、どうでも良いかもしれない。

だが、ここで声を大にして言いたい。
デニーズの「あんみつ」は大変素晴らしいと。
このクオリティで350円(税抜)はものすごい!!


今日も、ご褒美にデニーズのあんみつを食べに来た。
ところが、ところがだ。。。


ない!!  メニューにあんみつがない!!!

ないいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ。


ショックである。大変なショックである。
どうも4月からの内税表示に伴ってか、メニューの改変が行われたらしい。

ゴディバとの共同開発メニュー、チョコレートパルフェがメインとなった。
その煽りをくらってか、あんみつがメニューから消えた。

な、なぜだ! なぜだ、デニーズ。
あんなに美味なあんみつをなぜやめる!!


ぐおおおお、もっとたくさん食べておけば良かったよ、トホホ。


新しくなったメニューをじっと見つめると、
あたらしいパルフェも登場している。

そこに、「5つの魔法グラスデザート」とある。
その一つに「あんみつミニパルフェ」を発見した。

ああ、あんみつが形をかえてパルフェになっとるではないか!!

ね、ねだんは、、、、


くわっ!! 399円の税込み438円!!

値上げだ、これ。メニュー改変にともなう値上げじゃないか!
容量が減り、グラスに乗っただけなのに。

しかし背に腹は変えられない。

おもむろに、注文したのであった。
「あんみつミニパルフェ、お願いします。」


運ばれてくるパルフェ。
今までより、ぐっとオサレ。
ただグラスに乗っただけなのに。

思いの外、たっぷりなクリーム。
寒天の上には、緑と赤の餅がのり、バナナ、杏とみかんが共演している。
バニラアイスとこしあんの上に、添付されている黒蜜をトロ〜〜リとかけるのだ。

まずはこしあんと寒天を一口。

ああ、ああ、変わらぬ味。
す、素晴らしい。。このこしあんはやはり良い、大変な美味だ。
気がついたら、すでにカップは空になっていた。


コーヒーをすすりながら、思う。
値上がりさえなければ、、、、値上がりさえなければ!!

50円ほどの値上がり。。

しかし、しかしだ。メニューが失われたわけではなかった。
それだけは褒めて使わそう、デニーズよ。←誰?


満足。実に満足なのである。
これでまた一月は暮らせるというもの。

ああ、デニーズのあんみつよ、Forever.
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