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一体何をしている? [思考・志向・試行]

社会で10年も働けば、日本社会がどういう場所かは理解可能だ。

若い頃は、社会の波の中で漂い、ときに溺れ、それでもなんとか顔を出しながら、
もがいた。それはこの社会に適応するという行為でもある。とにかく周りに
小突き回され、ひたすらにやるべき事を課される。それをパスすることはかなり
意志力が必要だ。不登校にでもなる外ないが実に心細い。

逆にやるべきことをこなしていれば、なんとかなる。
もちろん、どうにもならない事も少なくない。
そういう時は、好きなゲームや好きなアイドルに逃避したり、
仲間とつるんで悪さをする。性格や状況に依存して、やり過ごす方法は様々だ。

そのうちにどこかで気がつく。
そうか、金だと。

自分の好きなことをするには金がいる。
できれば自由にできる金は大きい方が良い。
親や社会の要求から逃走するにも、金がいるのだと。

多くの人は、ここで思考停止することになる。

大方は、ここから勉強を頑張り、なんとか高校を卒業して、
どこかの社員として働き始めるのだ。

もしくは、なんとか大学に滑り込み、いやいや勉強をして
これまた、どこかの社員として働き始める。

多少とも金が入る。それを休日に消費する。
そのうちに好いた惚れたと、結婚し子供が出来て、家を買い、通勤の日々が始まる。

ここではたと気がつく。
親や社会から自由になるために金を得ようと思ったのに、
金を得るために、「社会人」として振る舞う必要がある。
それは決して親や社会の要求からの自由などではないということに。

愕然とする。金があれば自由になれる。これは嘘だと。
むしろ、金がなくても良い状態こそが自由なのだ。これが本質である。

しかし、気がつく人は実に少ない。漫然となにかが違うと思いながら、
毎日、労働に勤しむことになる。

金を得ても、別に周りからの要求から自由になるわけではなく、
むしろ金のために奴隷となっていくのである。

じゃあ、どうすればいい? まさにこれが金があらゆる場に浸透した市場社会に
おける大いなる疑問なのだ。

なあなあで働いていてもそこそこ稼げた時代は、問題は少なかった。
ところが、失政が続き、経済が傾き始めると、働くことが割にあわなくなってきた。

いまやかなりの人間が、働くことが割に合わないと感じている。
非正規社員であればかなり強くそう感じているだろう。

正社員はなんとか自分の立場を確保したいし、確保するためなら、
理不尽なことでもするようになる。

それがおかしなことであっても、金が必要となってしまったこの社会において、
自分一人が組織に背いても、仕方がない。むしろ、会社が存続することは、
「正義」ではないのか。

そうして、親になり社会人になった人々は、生まれくる子供たちに、
この世界のルールを教えようとやっきになる。
そう自分が、かの時のように、子どもの自由を奪うのである。
もちろん、それが「子どもの自由」を増やすと信じて、である。

私にはこの事がとても恐ろしい。一体、みんな何をしているのだ?
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予想通りの結果に呆れる [思考・志向・試行]

結局、日本は予想通りになってきた。

アホノミクスは量的緩和政策。国債を発行して、市中に金を増やす方法だった。
加えて、政府が株を買い、土地を買った。

日銀はイールドカーブ・コントロールで金利を抑え、マイナス金利で融資を各銀行に
強要してきた。

これらは供給側の強化である。

デフレ下にあった日本に必要だったのは、需要喚起であった。
だが政府の相次ぐ消費税増税によって、むしろ需要は減った。

加えて、法人税の減税を行ったので、ますます企業の供給力は高まった。
正確に言えば、企業の資産が増えたというべきか。

増えた資産で企業は何をしたか。
需要が増えないので、余った金を金融に回したのである。

こうして政府も大企業もグルになって株価押上を行ったのである。
各企業は自社株買いをおこない、政府は年金資金をつかって株を買う。

日本は実態もないのに株価を釣り上げてきたのだった。
いまや日経平均は4万である。

一方で、金を増やしたので円安にふれてしまった。

一般庶民の視点でみると、大損をした。
・政府は国債を乱発した。
・国債を賄うために、実質的増税を繰り返してきた。
・法人税が減った分を消費税でまかなってきた。
・円安になったので、輸入資材が高騰し、インフレになった。

・さらにコストカットといって正社員を減らし、非正規を増やした。
・リストラといって、給与のあがる50代60代の首を切った。

庶民には何も良いことがないといってもいい。
むしろ、本来もらうべき金をもらえなくなっているとも言える。
搾取が公然と行われているということだ。

だが、こうなった理由は、大衆の政治への無関心である。
そしてろくでもない議員たちを選んでいることだ。
私にはとても許容できない人間たちが政治をやっている。
はっきり言えば、恥だ。実にくだらない連中である。

だが、日本の民度はそれなのだ。まさに日本の程度そのものなのだ。
エラソーなことを言わせてもらうが、はっきりいって庶民は愚昧である。
自らの人生を、顔もしらない人間たちに捧げている。

別に真実を知らなくてもいい。知らない人間のほうが大半なのだ。
そして、何も知らぬまま人生を終えていくのである。無知はある意味で幸福である。
当然、皮肉である。

このブログでは何年もアホノミクス批判をしてきた。
明確に指摘したのは2015年のことだった。
その問題が今まさに目に見え始めたのである。

原理的なことは、まず揺らがない。今の日本は当たり前のことが起こっているだけである。
株価をおしあげて、円安にしたのだから、その通りになったまでだ。

ところが大問題なのは、これをおいそれと戻せないことである。
株価を下げられるだろうか?
円高にできるだろうか?

ばかみたいだけれども、日本は目先の利益を引き換えに絶望の未来を選んだのである。
この30年の停滞は、まさにその時間であった。目先の利益を優先し続け、今もそれを
やっているのだ。

その一方で世界は動き、新しい技術が時代を変えようとしている。
日本人はそれに全く追いついていけないでいる。

端的に言えば、需要を抑制する消費税がもっとも問題だっただろう。
正確には売上税である。事業者が払うものだ。それを消費者に肩代わりさせる仕組み。

売上があったら、その一部を税としてよこせ。という事。
特例として輸出企業は免除というわけのわからない税であり、
BtoBについても消費税分は相殺できるというものなのだ。

本来消費税は売上税なので、価格内に収まるもの。それを外側に出して、
消費者に払わせるのである。これは別に私の見解ではない政府の公式見解である。

そのようなものを導入したらどうなったか。
買い物をするたびに、価格に応じて「罰金」を払う仕組みである。
需要が減るのは当然であろう。

減った需要は、売上の減少となる。
減った売上を補填するイージーな方法が、人減らし、コストカットである。
正社員を減らし、非正規を増やす。リストラして人を減らす。

人が減ると一人あたりの仕事量が増える。
正社員はそれなりに長時間労働を強要されるようになる。
一方で非正規は「やりがい」搾取や尊厳のない仕事への従事の憂き目にあう。

こうして、日本はデフレになった。
このデフレをみて、インフレにしようというのが政策になったわけだ。

だが、政府主導のインフレとは何か。それは先も述べたような金を刷ることであり、
金融的操作を日銀が行うことである。供給側に金を回すというだけなのだ。

誰でも了解できるように、馬を水辺までつれていくことはできる。なんなら水辺を
拡張することも出来る。だが、馬が水を飲むかどうかは別の話なのだ。

政府は需要を喚起させる必要があった。それによってインフレの解消をするべきだった。
だが、それらは全部避けた。なぜなら、庶民が得をすることになってしまうからだ。

政府は庶民の得になることなどしない。彼らはいまや、利権団体の手先である。
だから、インフレになっても需要喚起させるための方策は何一つしないのだ。

端的に言えば、政府は庶民の敵である。そして政府の背後には官僚たちがいる。

官僚たち、つまりテクノクラートは大企業にもいる。
簡単に言えば、受験エリートである。彼らは自らを選抜された人間と自負し、
大衆を心のどこかで見下している。やはり庶民とは敵対する。
なぜなら「努力して勝ったものが利益を得るのだ」と思い込んでいるからだ。
負けたものが悪い。そう心のどこかで思っているのである。

じゃあ、その庶民はこれをみて、官僚を止めさせられないのだから、せめて政治家は
まともな人を選べば良いのだが、それについては絶望的である。
なぜなら、庶民はもうすっかり愚民化してしまったからである。

社会の原理的真実を知るよりも、大谷がホームランを打つことのほうが重要だと
思っているのだからやむを得ない。

このブログの読者なら、私が述べたことが現実化していることを知っているだろう。
だが、このブログを読む奇特な人はごくごく少数なのだ。


日本はまだまだ沈む。これからは残念だが、治安悪化は否めない。
犯罪行為が横行するだろう。政治家の裏金などカワイイものかもしれない。

日本政府はいよいよ軍事国家化に本格参入である。
その後には、戦争が待っている。武器をもった人間はそれをつかいたくなるものなのだ。

もし金が余っているなら、軍需産業の株でも買うべきだろう。
(残念だがこれはかなりの確率で儲かってしまうだろう。)

その一方で、それによる犠牲者が生じることも確かなのだ。
紛争の裏の側面は、明らかに金儲けなのである。

世界はなんと愚かなんだろうか。

日本は軍需産業化することで、またもや体制側に金を流す仕組みを強化しようとしている。
その一方で、その歪みについては庶民に押し付けようとしているのだ。

ここにきて問題はもっと深刻である。押し付ける庶民が減っているのだから。
現状では意識できないかもしれないが、ものすごい少子化だということを
忘れてはいけないのである。それも無論、経済的な問題なのだ。

あと20年後、今の40代が60代になる頃に果たして、日本人がどれくらい存在するか。
支えてくれる人たちは減るだけである。増えやしないのに、今の現状が続くはずがない。

若者たちはおそらくは「出稼ぎ」になる。
諸外国に働きに出て、日本に送金という形になるのだろう。
優秀な人はそのまま海外にいつくのかもしれない。

日本国内には老朽化したインフラと、何の能もない老人ばかり。
そんな状態がどうして嬉しいだろうか?

老害というと聞こえが悪いだろうが、今の日本の意思決定は明らかに
遠くをみつめていない。50年後など知ったことかという、あまりにひどい意思決定が
行われてきているし、今もされている。

選挙にいかない若者世代は、老人のなすがままなのだ。

若者は若者を代表する党を結成して、抵抗しないと手遅れになるだろう。
いやもう手遅れだが、何もしないよりはマシであろう。

日本に壊滅的なカタストロフィが起こらないと見込めるなら、
若者は40代、50代まで生き延びれば、清々しい人生がくるかもしれない。
老人たちがいなくなるまで生き延びることだ。

ここからどうやっても避けられない経済的沈没を
どうにか生き抜くこと。これが大問題なのだ。
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矛盾する社会 [思考・志向・試行]

アドラー心理学を知っているだろうか。

嫌われる勇気などが一頃流行ったので知っている人もいるだろう。
しかし、その本質をちゃんと知っている人は少ないのではないか。

アドラー心理学の本質は、目的論であるということ。そして全体論であることだ。
これを聞いてピンとこないなら、アドラー心理学を掴んでないといっても良い。

さて、ここで話をしたいのはアドラー心理学の講義ではなく、
アドラーの言い分をもっともだと仮定した場合に生じる矛盾のことである。

アドラーの信念によれば、すべての悩みは対人関係から生じるという。
これは翻ると、幸せは他者との関わりによって生まれるということである。

他者と関わることでいわゆる幸せを得ることが出来る。
だからこそ、他者とどう関わるかの習慣であるライフスタイルを問題にした。
そして、そのライフスタイルは変更可能であると主張した。
むろん、それには相当な努力がいる。

なぜなら、多くの人は生まれてからずっとライフスタイルを続けているからだ。
幼少期には家族から、幼稚園や小学校くらいからは教師や友人から、
学校卒業後は、上司や同僚から、様々な影響をうける。
そのなかで、その場をやり過ごすためのやり方を身につける。
それがライフスタイルであり、それを変えるというのは、せっかく身につけたものを
壊して、作り直すことに相当する。それは非常に大変であり、しばしばそれは、
あまりにも高速に発動してしまうので、自分では気が付かないくらいなので、
修正が難しいのである。

アドラーは、他者との関わりを敷衍して、共同体感覚というものを唱えた。
共同体感覚とは、自分が他者に対して貢献感をもつことである。

しばしば勘違いされるのは、共同体を矮小化して、家族とか会社に置き換えて、
共同体感覚をそういう自分の所属への貢献と考えることだ。これは全然ちがう。

アドラーのいう共同体とは結局のところ、宇宙といっても良い程度に広い概念である。
もっといえば、世界といってもいい。そして、それは過去から未来までをも含む。

こういう視点で観た時に、貢献感とはなにか。ごく単純に言えば、「誰かのためになっている」
という感覚である。誰かとはもっぱら人であるが人だけに限らなくても良い。地球や他の生物
だって構わない。とにかく、自分の存在・行為が、誰かのためになっていると思える感覚である。

こういうと自己犠牲と勘違いする人がいる。他者のために自分を犠牲にするというのか?と。
それもまた全くの勘違いである。他者への貢献感は、自分が感じるものであって、相手が満足
するとか、相手の欲求を満たすものではない。

また、貢献しているかどうかは、自分が決めることであって、他者から認められることでもない。
ときおり、そのような解説が載っている本などがあるがそれは間違えである。

シンプルには、自分の存在・行為が他者のためになっていると自覚すること。これが貢献感。

これが確かな時に、その人は対人関係の悩みを乗り越え、幸福になれる。
逆に言えば、貢献感を得られない人は、どんなに頑張っても幸せにはなれない。

そういう話をアドラーはしている。

実際的にこれが微妙なバランスの上にしか成り立たないことは明らかだろう。
そもそもアドラー自身が、自身の心理学を実践するのはタフだと言っているくらいなのだ。

さて、主題の「矛盾」に戻ろう。

現代日本では8割くらいの人がサラリーマンをやっている。彼らは毎日会社にでかけて、
何らかの仕事をして暮らしている。その中で、どれくらいの人が「他者貢献」をしている
だろうか?

他者貢献を感じられる場面を考えてみる。例えば、資料を作成して上司に渡す。
その行為に「貢献」を感じられているだろうか? その資料を作ることで誰かの役になっている
なと心から実感できれば問題ない。だが、ほとんどの場合は、ルーティーンとなった
ただの作業にすぎないのではないか? それでは貢献感を得ることは難しいだろう。

他ではどうだろう? パン屋でパンを作る。それをお客がきて買ってくれる。
「美味しかったよ」といってくれたとすれば、パン屋は強く貢献感を得られるだろう。
だが、毎日、忙しくパンを作り、棚に並べれば売れることはわかっているのだという態度で
パンを売っていたら、果たして貢献感を得られるだろうか?

そう、もうおわかりだろう。行為自体の問題ではないのである。貢献感とは態度のことなのだ。

こういう勘違いをする人もいる。貢献感なのだから、誰かから感謝の言葉を得られれば良いと。
上司から「ありがとう」と言われ、お客から「ありがとう」と言われ感謝されれば良いと。

じゃあ、そうされなかったら? 感謝されなかったら、貢献感を持てないとしたら?

これは貢献感ではなく、承認欲求である。
実は、承認欲求を持つものは貢献感を得られないのである。つまり見返りを求める行為は、
貢献感につながらないのである。

承認欲求を当たり前だと思う人は少なくない。それは簡単で、日本社会では甘やかされて
育てられた人たちが少なくないからだ。甘やかされた人は、世界を「自分の思う通りに
なる場所」としてライフスタイルを形成する。すると、他者は自分に貢献するものと思って
生きていることになる。これでは話が逆なのだ。

自分が貢献される存在だと自己認識する人は、常に他者との軋轢を生み出す。
明に暗に、相手に「要求」するからである。些細なことであれ、それが続けば
周りは嫌になるのは当然のこと。そういうライフスタイルを持つ人は、結局のところ、
疎まれてしまうのである。

疎まれた人が、逆転を狙うのは、劣等コンプレックスや優越コンプレックスによってである。
そして利害関係を利用した人間関係に陥るのである。社会的成功を強く求める人は、
どういう人かといえば、権力や金で他者をつなぎとめておきたいからといえる。
そして、それは承認欲求として現れるのだ。

自分への貢献をもとめる承認欲求を満たそうとすることは、他者への貢献つまり共同体感覚の
真逆になってしまうのである。

ぼちぼち矛盾の意味がわかってきたと思う。

他者に対して貢献感をもつことが幸せの条件なのだが、現代社会に生きる日本人の多くは、
自己への貢献つまり承認欲求を満たそうとして生きているがゆえに、幸せになれないのだと。

現代日本社会において、成功者とはどういう人か。
いわゆる成功者とは、金や名誉、権力をもつものではないだろうか。

それを得るための努力とはどんなものだったろう?
他者と協力して、素晴らしい貢献をしたがゆえに、そうなったのだろうか?
どちらかといえば、他者を顧みず、自己もしくは周りの仲間の成功だけに注力した人ではないか。

テクノクラートはもっぱら受験エリートである。彼らは自分の能力を高めることに
注力したことでその地位を得たはずだ。その際に、周りの人間に協力して勉強を教えたとか、
他者を思いやる行為がどれほどあっただろうか? そういう行為よりも自分の成績を伸ばす
事に主眼をおいていたのではないだろうか。

それから自分の立場を守るため、出世のために、部下や下請けに仕事を強いる人たちが
会社の中枢に居座っていやしないだろうか。

コガネをうまく運用して金を儲けた人々は、自分の力量を誇るだろう。だが、彼らの仕事は
誰を幸せにしたというのだろうか。

もちろん、多くの人に良いサービスを作り出したことで金や名誉や権力を得た人もいる。
だが、少なくない「成功者」が自己利益を拡大させることを是としてきたのではないか。

すべてがすべて利己的であるはずはない。しかし、利己的傾向が強い人間が社会的に肯定
されている社会になっていやしないか。

というより、先にあげたような承認欲求の強い、疎まれた人間が、それを補うために
金や権力を手に入れようと必死なのではないか。なぜなら金や権力は、みかけの承認を
得ることを可能にするからである。金をもっていれば人が寄ってくる。権力があれば
周りが持ち上げてくれる。それは強い承認欲求を一時的に満たしてくれるかもしれない。

だが、一人ぽつんと立ったとき、例えば、会社を定年退職したとき、一気に失われる関係性
でしかないだろう。それは非常に強い心理的な動揺を生む。

もっと大上段に構えれば、資本主義の仕組み事態が、承認欲求を求めている。
資本が増加するには拡大再生産を加速させればよい。それには商品をマスで製造し、
大衆に売り、すぐに捨ててもらって、次を買ってもらうことが求められる。

そういう人間を作るには、流行りという宣伝をつかうのだ。古いものはカッコ悪い・ダサいと
価値づけて、新しいものを買わせる。これにひっかかる心根は、承認欲求である。

他者からの承認を求めるためのキーアイテムとしての消費につながるからだ。
現代社会には多分に、そのきらいがある。

他者から称賛されることを是とする価値観を持つ人、そこまでいかなくても、
他者からバカにされない事を気にする人たちは、承認欲求を抱えている。

そういう人間が多いほど、資本主義はうまく機能する。少なくとも資本主義社会では、
自分への貢献を求める人間を作り出す傾向があるといえるだろう。

これが、矛盾の正体である。

他者への貢献感を得るには、他者に貢献したと思える行動をとるべきなのだ。
その先に幸せが待っている。だが、現代社会はどうだ? むしろその逆を求められていない
だろうか。

自分のため、これを拡張しても、せいぜい家族・親族のため、友人のため、会社のため、
組織のため。そういう狭い限定された仲間に対して「貢献したことで」認められたいと
願っていないだろうか。

それをすることを要求され、それをすることを要求する。これは幸せとはほど遠い行為である。
裏返すと、この価値観から「役立たない奴は排除すべし」という論理が生まれてくる。
競争主義や成果主義とはその一派である。

現代社会で、アドラーが言う貢献感を仕事を通じて得られる人はまさに幸運である。
そして、承認欲求にかき乱されていない人もまた幸運である。

自分の仕事の意味をみつめたときに、「自分は貢献できている」と思えるかどうか。
それが幸福への鍵となる。アドラーはそう言っているのである。

蛇足:
  共同体感覚は全体主義とは違う。
  例えば組織で不正があったとき、その不正を黙っておくのが全体主義である。
  組織に不利なことは隠蔽する。共同体感覚はむしろ、告発する感性のことである。
  不正が社会正義に反するならば、それを正すことが「共同体」のためになるからである。
  これが他者への貢献の意味合いである。
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2023年とはなんだったか? [思考・志向・試行]

今年は、隠蔽された悪事が露呈した年であった。

人々はうっすら気がついていた悪事の数々。
それが裁かれない形で、何十年も隠蔽され続けてきた。
そうしたものがいよいよ吹き出してきている。

問題は、これらがまともに裁かれる可能性が低いということだ。
どう贔屓目にみても、権力者がまともに裁かれることはなかろう。
残念だが、所詮、その程度の国である。

およそ、ちまたにも大なり小なりの悪事がある。
それらもまた、力関係によって押し切られているのであろうと思うと、切なくなる。

正義とはなんだろうか。
私には子供心にずっと疑問があった。
大人は悪事をダメといいながら、平気で殺戮を行う。殺戮を行うことを否定しない。
私にはその態度が、恐ろしかった。それは悪事を行うからではなく、態度との乖離である。

みるからに悪党が悪事をするのは解せる。
しかし、現実は違う。まともそうにみえる人が平気で悪事をするのだ。
いっていることとやっていることが違うことがもっとも恐ろしい。

そして、一番恐ろしいのは、自分が正義と思って無意識に悪事を働くことである。

他者を踏み躙ることがどれほど、悪影響なのかはもはや明白だろう。
それは些細なことからスタートしている。親が不用意に子供をどやしつける。
これも悪事なのである。ましてや罰を与えたとして、行動が変わるわけでもない。
そして、そうやって罰を与え、どやしつけれられて育った大人は、同じことを
繰り返す。

問題は、そのように踏み躙られた子供がどうなるかである。
一方では、反発し過剰な言動を繰り返す。一方では、無気力になり反応が乏しくなる。
どちらにしても大いに問題になる。その最大の問題点は、他者との関わりが困難になるということだ。

私の同級生に、おかしい奴がいた。
彼はどこか常に陰湿だった。いじめを繰り返すのである。
私は直感的に家庭に問題があるんだろうと思っていた。別に調べたわけではないが、
彼の家庭には決定的な問題があるのだと。

彼は同級生とまともな関係性を築けなかった。
彼は代わりに「子分」を作り出した。彼のいうことを聞くやつを拾い上げ、まるで子分にしたのである。
数人の子分をとっかえひっかえしていた。

明らかに、この連中らの間に友情などなかった。ただ、支配ー被支配の関係である。
およそどちらにも家庭に問題があったのではないか。

親にいびられた子供は、やられたことを誰かに繰り返す。もしくはやられたことを繰り返す。
親分となった同級生は、子分となった同級生を連れ回すことで、鬱憤を解消していたに違いない。
子分となった同級生は、子分という立場を得て、安心していたに違いない。

このような関係性との類似系を、テレビでみるようになった。
それが、とんねるずやダウンタウンだ。
その前ならば、ビートたけしである。

私には彼らの振る舞いがやはり、踏み躙られた人々の虚しい様に見えた。
そうしてそのようなものからは離れていた。

高校と大学と、そのような人々から全く離れることができた。
学があるということの意味はそういうことなのだと思った。

だが、世間では相変わらず、踏み躙られた人々が、その鬱憤を晴らすかのようにおかしなことを
している。ましてや政治においてすら、このような踏み躙られた人々が現れ始めた。

そして社会においても、またそのような人々が現れ始めた。

およそ、彼らは踏み躙られた人々である。その吐口が、外で出るのか内に向かうのか。
どちらにしても、まともに扱われなかった人々が、ああいうことをしでかすのである。
そして、どうも可哀想だが、直す薬もないようだ。一生、そのように過ごすらしいのである。

私は、そのような人々をみて、不幸だと思う。そして可哀想だと思う一方で、
常にふざけるな!と思う。自分の感情を自分で処理できないのは大人ではない。ただのガキである。

「ガキの使い」とはよくもまあいったものだ。
要するにガキなのである。

ガキが世間に意見する。アホらしくてたまらない。一度もみたこなどない松本人志のワイドショーで
いったい何をいっていたのだろうか。くだらないことしか言ってなかっただろう。

同じことは屈折した人々全般に言えることだ。屈折したことを言う人間は、
果たして、いつ大人になるだろうか。私の経験上、一生かわらないのだろうと思う。

社会ができることは、こういう輩を相手にしないという事なのだが、
これがまた恐ろしい手合いがいる。

こういう輩を利用して儲けようという連中である。
踏み躙られた人を利用するのである。私には、世間での成功者のイメージとは、
まるで、ひどい身売り話にしか見えない。メディアに出てくるような人々は、
苦しんだのではないか。かわいそうなだけにしか見えないのはなぜか。
結果として成功した、いや成功と呼ぶ何かになった。でもそこに幸せはあるか?

努力する事、誰かに負けたくないと挑める事、そんなことを動機にして行動している人に、
まともな人はいない。それは明らかに病理的なのだ。踏み躙られた人間の行為である。

一見すると、勉学に励むとかスポーツに励む、また仕事に熱中するなどは、良いことに
思われるだろう。問題はその動機である。やりたいからやる以外の動機であれば、
すべからく、踏み躙られた人間の動機なのだ。そして、強い病理の発生原因になる。

そんなことをいったら、ほとんどの人が踏み躙られてるのでは?
そう、それが正解なのだ。日本の国民の多くは、踏み躙られている。
だからこそ、それを体現するような芸人たちが、政治家たちがもてはやされるのである。

日本が異常なまでに、抑圧的で陰惨なのは、踏み躙られた過去を持つからなのだ。
そうしなければ、自己を保てないような人々で溢れかえっているということだ。

多かれ少なかれ、そういう人々がたくさんいる社会なのだ。

支配ー被支配に甘んじる多くの人々は、踏み躙られている。それが当然と信じているからだ。
そして、それを生まれてくる子供にも強要する。そのように扱うからだ。
そうでなくても、社会がそのように扱ってくる。日本という国はそういう場所なのである。

実に残念だが、日本では踏み躙られた人以外が過ごせる場所は殆どない。
必ず、誰かが踏み躙ってくるのである。そのように仕組まれている。

そういう場であることを直視すると、物事はよくわかるようになる。
踏み躙られた人間の鬱憤ばらしとして利用されている行為が世に蔓延していることに。

誰かをいじめたくなるような衝動とは、結局、自分がいじめられたという事であろう。
抑圧を受けた人間が、吐口を作り出すのは自然な事なのだ。

2023年とは、社会に潜在していた鬱憤ばらしが、悪事として世に認識され始めたという年だった。
悪事を勤しむ連中こそ、歪んでいる。歪んでいるがゆえに、権力に拘泥し、人を踏み躙ろうとする。

私には、ようやく国際的な基準の一端が、日本に流れ込んだのだという認識である。
諸外国で直視された問題に、日本はようやくそれが問題なのだと指摘されたという段階なのだ。
ここから日本がまともになるか、それとも、問題をうやむやにするかによって、日本社会の
行く末は大きく変わるだろう。

残念だが、日本が良くなる兆しはない。断言しても良いが、日本は沈むほかない。
どうせ、松本の件も、政治の不正も、カルト宗教問題も、解決ではなく、隠蔽と潜伏によって
隠されるだけであり、他者を踏み躙る人々を量産していくのである。そうして、踏み躙られた
人々が権力をもてば、同じように被支配者に対して、横暴を繰り返すのである。

人間とは、所詮、そんなものである。それが明確になった2023年だった。
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現状日本のダメはどこから? [思考・志向・試行]

現在の日本は停滞を余儀なくされている。
その主たる原因は経済の停滞である。

停滞している経済にも関わらず、現役負担を増やすような政策ばかりをやり続けた結果、
そもそも内需国の日本において内需を減らしまくり景気は循環をやめてしまった。

8割が内需である日本において消費税というのは、かなり大きな賭けである。
なぜなら、消費税とは「消費に付随する罰金」みたいなものだからだ。

普通に考えてみてわかるだろう。百円のものを買いたいという人に、
じゃあ、手数料十円ね。というわけなのだ。そりゃ、買う際に躊躇させるに十分であろう。

このような愚策をやったのが直近でいえば、アベノミクス、もといアホノミクス。
金融緩和として金を刷ったはいいが、銀行に積み上げただけで、
市中からは消費税を増やして金を搾り取った。

複雑な経済理論など知らなくても理解できることだ。

片方の手で、金を刷ったのだ。つまり金の量を増やした。これは何をもたらすか。
端的に金の価値を下げたのである。たくさんあれば価値が下がることはわかること。
金だって同じである。流通する金を増やせば、価値は下がるのである。

これは今の円安につながっている。

もう片方ので手で消費税を増やした。つまり消費において、罰金を増やしたのである。
結果として、人々は買えるものが減った。買えるものが減ったということは、
店側からみれば、売れなくなったということである。

売れないので、コストを下げる他ない。まずは商品の小型化、サービスの縮小。
見えにくい形で値上げをしたのである。次に人件費削減。非正規雇用を増やして、
労働者の対価を減らしたのである。会社は生き残るためにこれを行なったのだが、
それは結局、会社をつぶすための手段に他ならない。

なぜなら、すべての会社が同じことをしたらどうなるか。労働者に渡る金が減るのだから、
人々がものを買わなくなるだろう。すると会社はどうなる? 傾くに決まっているではないか。

一瞬は、業績を保てるかもしれない。それがつまりこの20年だった。
しかし、その後はどうなる? 内袖は振れないのである。需要がガタ落ちになるのは
当然ではないか。

その明確な一端は、アパレルだろう。服というのは着られるという程度から、趣味として、
アイデンティティとしての服というのがありうる。家賃や日用品や日々の食費に比較して
優先度が低いがゆえに、一気に需要がなくなった。結果として、プチプラのブランドしか
残らなくなってきたのである。

こういうことがさまざまな分野に及び、結局、市場が縮小を続けているのが日本である。

明らかに失敗したのである。繰り返すが直近ではアホノミクスのせいである。
ちなみに私は安倍が嫌いなのではない。安倍という人間とその周りが行なっている愚策が
大嫌いである。ただし、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのは否めない。

元を正せば、消費税3%を導入したあの日から、現状日本の結果は見えていたのである。
なぜ消費税を入れたのか?

それは、企業経営者と資本家の利益を増やすためである。政治はその見返りに票の確保と
キックバックを得られるからである。その目的とは法人税減税である。

こうして逆進性が強い消費税が導入され、法人税が下げられた。
その結果、日本には富裕層という人間たちが生まれることになる。
一方で、労働者の生活は年々苦しくなったのである。

現状を肯定する人々とは、企業経営者か株主か、政府と癒着して仕事を得ている企業の
連中であろう。各企業で働く大多数の人たちにとっては、ただの損なのだ。

よって、私は告ぐ。庶民のみなさん、現状の政治体制は損なのだと。

これがちっとも伝わらないので、政治が変わらない。
日本人の多くはバカになってしまったのだろう。
毎日、テレビという洗脳装置で、いかに節約して暮らすか、いかに貧乏でも良いかを
アピールするようなものが垂れ流され、そんなものだよなと溜飲を下げる一般庶民。

はっきりいってアホである。

ただ、政治を見極めて、損をしない政党に票を投じるだけで、日本社会はバランスされるのに、
それをサボっているがために、どんどんと生活が苦しくなっていく。

その一方で、自民党与党は、現状体制を強化するために、言論統制を行い、
大学の自治を奪い、労働者の抵抗を削ぐように努めている。権力をつかって可能な限り、
庶民を搾取してやろうという事である。

それにもかかわらず、自民党を支持するような庶民もいる。
つまりサラリーマンなのに、自民党を支持するような輩はバカだと認定する他ない。

このような人たちは、自分がどういう存在かを知らない。自分を知らないがゆえに、
政府のやり方を肯定する。いうなれば、豚の家畜のなかで、ちょっとばかり有力な豚が
家畜小屋の制度を良しと言っているようなものである。いずれミンチにされてしまうのにだ。
こういうのをつける薬がないという。

その一方で、全く無知な人々もいる。彼らはもはや生けるロボットのようなものだ。
思考を停止して、自分を無力なものとして扱う。生きながら死んでいるようなものだろう。

私には意味不明だが、そういう人間もいるということだ。

もう少しだけマシな人々は、自殺を行う人たちである。
だが、人生はそんなことをするためにあるわけではない。ましてや自ら死ななくては
ならないような理由など、我々の人生には存在しない。

ほおっておいても必ず死ぬのだから、安心すればいい。
死にたいという動機をもつものは、逃げることを知らないだけなのだ。

人は逃げることができる。これを忘れてはならない。

さて、ではどうすれば日本をよくできるのか。
まずは、政治に関心をもつことだろう。少なくとも大手メディアを疑うことだ。
新聞やテレビは、宣伝であって、もはや報道ではないのだ。

そして、もっと良心をつかうべきなのだ。これではうまくいかないだろうと
思うなら、それは変えるべきなのだ。日本中のそこかしこにある、無駄なことや無意味なことを
やめて、少しでも有益なことに変える。これだけで、およそ問題の半分は解決するはずなのだ。

今の日本ではたったそれだけのことが出来ない。理由は、端的に言えば勇気がない。

日本の権力を握っている連中は腰抜けばかり。外見は一見、頼もしそうに見える。
が、中身は事大主義で、自己愛に満ち満ちている連中ばかりだ。

そういう人間には、良心にそった行為などできるわけがない。
彼らは結局、嫌がらせをしてくる市中の荒くれに絡まれて、終わるだけなのだ。

日本社会には明らかな裏面がある。私にはその裏面こそが日本の元凶だと思う。
彼らを刺激しないこと、彼らに利益誘導すること、それが表の人間の役割になってしまった。
本来、国の権力とはそういうものたちに向けて発せられるものであるのにだ。



もう一歩だけ、外側に出よう。

日本を外から見れば、もうオワコンである。あとはどう崩壊するか、それだけだ。
日本円がクズになる確率は、ちょっと前まで30%程度だったが、いまやどうだろうか。
50%程度はその可能性が増えたのではないかと思う。

現状の日本が続くのはせいぜいあと10年である。その後は、悲惨なことが増えてくる。

生活苦が増した庶民は、犯罪をおかすだろう。
そして、政府は管理体制を強化するだろう。これは要するに経済政策の失敗なのだが、
政府は個別的にみて、犯罪者が悪いということにするだろう。そうして、いずれは思想犯などと
言い始める。実に暗い社会が訪れるだろう。それは今の共産圏の社会とそっくりである。

現代のテクノロジーをつかえば、人々は家畜管理と同じになる。
その出始めがマイナンバーカードであろう。あれほど無意味なカードを、国民の6割くらいが
作ったらしい。どんだけ無能なのだろうと思う。どれほど洗脳が簡単かを示した事例だ。

もはや日本は崩壊するほかないだろう。

その次を考えたほうがいい段階である。その次だ。
まずは日本の金を、現物かドルか、何かに変えることが必要だ。これはこの5年くらいでやること。
次に10代であれば、諸外国に移り住むことをオプションにすることだ。20代でも間に合うかも
しれない。英語は必須になるし、諸外国で暮らすスキルが必要だ。もはや国民国家などと
いう時代でもないのだし。

もう社会に組み込まれた30代や40代は、もう潰れる船で沈むしかない。
潰れた社会において組織を移れるだけのスキルと、身軽さ、もしくは精神的な余裕が必要だ。
立て直しの中核となる。焼け野原をたがやすのはこの世代の仕事になる。

50代〜60代は惨めな人たちである。梯子を外されてもっとも精神的にきつい人々。
資産がある人たちは大丈夫だろうが、日々の労働でなんとか食っている人たちは、
餓死する可能性がある。いまから数年かけて、どの福祉が有効かを調べておく必要がある。
誰に助けを求めればよいのかを調べるということだ。そうして生き延びられる。

70代〜80代は、死んでしまうので問題はない。が、彼らがあまりにも無責任なために
日本人はこれから苦労するのである。私たちには彼らに文句をいうだけの権利があろう。
今の愚策を続ける政治家たちの一部は結果を見ずに死ぬのだから。
そういう意味では、議員も定年をもうけるべきだろう。

一番ガメツイ、企業の経営者や資本家たちは、何も変わらない。
彼らは日本という市場からアフリカや東南アジアなどでビジネスを展開するだけだろう。
資本主義をやり続けるという行為とはそういうことだ。

これは不可避である。これは妄想ではない。これは確率があまりにも高すぎる予測である。

最後に一つ。
経済がうまくいけば幸せになるわけではない。幸せとは「態度」である。
経済は「態度」を作り出すための手段の一つにすぎないのだ。

繰り返す。経済とは一つの手段に過ぎないのだと。

日本人はあまりにも経済に目が眩み過ぎていて、「生活」を忘れてしまった。
私たちの「態度」はもっぱら日々の生活から生じるというのにだ。
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ジャニーズ問題とその軽薄さ [思考・志向・試行]

はっきりいって、インボイス制度の大問題に比べたら、ジャニーズなんてどうでもよいだろう。
とはいっても、人類史上稀にみる、性的虐待の大事件。権力をもちいた性犯罪としては
前代未聞だろう。

その事務所の面々が、どうやって責任を取るのか。そういう話である。

むろん、残された人々には直接的な罪はない。
これが問題で、なんとも煮えきらない話になる要因なのだ。

性犯罪は当然、批判されるべきであり、あってはならない。
しかし、その責任を本人ではない人々がどの程度まで負うべきなのかは案外難しい。

とはいえ、その性犯罪者の名前を冠した組織がそのまま存続するということは
ありえまい。

ということで、ジャニーズ事務所が責任を追求されるのは致し方ないことである。
そして、その精算には大いなる犠牲が払われることになる。

一方で、ジャニーズという奇妙な団体にはファンが少なくない。
その彼らを利用したビジネスが昨今のメディアでは横行していた。
テレビやイベントにおいてジャニーズたちの知名度やキャラクターは利用されてきたし、
大企業もCMなどに起用し、その恩恵を受けてきた。

そして一部の人々は、ジャニー喜多川氏の所業を知ってなお、付き合いを続けてきたのである。
それは無作為な加担ではないか。

儲かればそれでよいというのは資本のあり方だろう。そしてそれを内面化している人々にとっては
こんかいの話も、どうでも良いのである。ジャニーズが金になるなら使うし、そうじゃなければ、
切り捨てるというだけの事であろう。

私にはそこに非道さしか感じないのである。もっとも醜悪を放っているのは、
ジャニーズを利用してきた人間たちである。

その彼らが、再出発をするという。
本体は保証会社になり、新しいマネジメント会社を作るという。
保証会社はSmile‐Upなる珍奇な名前になった。性犯罪者の責務を全うする社名には
およそふさわしくない。およそいまだに何が問題なのかわかってないのだ。

わかってないというよりも、未だに無関心というべきかもしれない。
そして、なんなら、本人じゃないのだから、さっさと保証を済まして、
今までとおんなじように儲け話を続けようじゃないかくらいにしか思っていないのだ。

本当に問題解決を望まぬ人々がなんとかごまかそうとする。
その現れが、この度の二度の会見で露呈した。

一度目は、まさかあんなに言われるとは思っていなかったという甘さ。
二度目は、一芝居を打ってみたら、バレて、元も子もなくなった。

はっきり言って、ポンコツである。
危機管理が全くできていない。

一度目の会見後に、大手のスポンサーが一斉にジャニーズおろしを行った。
当然である。海外にもシェアをもつ企業や外資が投入されている企業は、
グローバルな対応を迫られるのだ。いくら国内で水に流そうとも、無理である。

これに焦ったのがジャニーズだろう。
本当にこんなふうになるなんてと思ったのじゃないのだろうか。
そして、加害者なのに被害者ぶり始めたのである。

二度目の会見は明らかに意図的であった。
大手メディアとグルになって、都合よく終わらそうとしたのである。
ところが、不思議なことにNHKが茶番をすっぱ抜いた。

私にはこれが一番不可思議なのだが、NHKにもまだまともさがあるとみるべきか、
それともなにか裏があるのだろうか。あまりにも簡単に茶番がバレたのはどういうことか。

ともかくも、自らを守るために実質上、サクラ行為までしたジャニーズ。
それがバレた以上、もう歯止めがきかずに、落ちてゆくことだろう。

始めからもっと低姿勢に出てもっとも怖い質問に答えていれば、
ここまでの事態にはならずに収拾しただろうに。

結局、身の保身を考えたがゆえに、かえって危険をおかしてしまったジャニーズは
実に軽薄であった。

そして、その彼らとグルになっているメディア記者たちの存在も明らかになった。
結局のところ、性加害問題という大問題をメディア関係者たちはいまだにどうでも良いと
思っているのである。そういう人道性のない人間がメディアを握っているという事実。

井ノ原氏の発言に拍手をおくった記者たちは猛省すべきだろう。
自分たちの頭が異常なのだと知らなければならないのだ。
およそ反省もできないだろうが、それでも、強く言っておく。
自分が、精神的に洗脳状態にあるという事を知れ。
きっと1ミリも理解できないだろうからこそ、拍手などしたのだろうが。

私には彼らの気持ちがよく分かる。
長いものに巻かれてきた人々は、強いものが作り出したルールに唯唯諾諾と従う家畜だ。
都合よく利用されてきたのである。ジャニーズが仕込んだサクラに同調してしまった
記者は、気がついたら丸め込まれたのである。

Arctimesの記者らが前回の会見にてかなり切り込んだ。
そういうものを対して不快に感じる人々がいた。
私はそういう人たちを従属者とみなしている。

自分は決められた中でやっているのに、それにはみ出していると思われる人をみると
やっかむという思考パターンである。別に犯罪をおかしたというならともかく、ただ
目立つ人たちをやっかむ。

その心根は強い嫉妬である。自分が自由にできないという思考セットからくる嫉妬なのだ。
それを見事に煽ったのが前回の会見であった。

そうしておいて今回は、彼らに対して意地悪が行われたのである。
指名NGという事にして、質問をさせないという明確ないじめ行為が行われたのだ。

一部の記者は嫉妬の心を認めないがゆえに、そのいじめに加担にしたのである。
好き放題やりやがってと思っているからこそ、井ノ原氏のコメントに拍手をしたのである。

自分の嫉妬の裏返しとして、指名NGの記者たちに落ち度があるという認識を取っている。
実にみっともないのだが、それを否認するからこその態度なのだ。

私はこういう態度を学生時代なんども目にしてきた。
いじめの構造とはこういうことからスタートするのである。

自分の未熟さを棚に上げて、自分が嫉妬した相手を貶めることを肯定する。
まったく人として幼稚なのだ。だが、実にこういう人間はどこにでもいるし、
少なくもない。

自分は場にふさわしい態度をとっただけ。そう本人は思っているだろう。
あいつらが場の空気を乱したのだからだと。だが、その性根は気に食わないやつは
いじめても良いという態度そのものである。そしてそれがいじめの本質である。
実行している人間を諫めるべきが、実行している人間に乗っかるクズがいるのである。

こんなものに流される人間がいれば、加害者が被害者のフリをするのも容易いだろう。
そして日本の組織とはそんな人でごった返しているのである。実に陰湿なのだ。

言いたいことを言えば良い。聞きたいことを聞けばよいのだ。
人としてまともな事をすれば良い。
それが阻まれているのが現代日本という事なのである。

そうして、我々に届くニュースはそういう連中らの書いたもの、筋書きのものなのだと
理解すべきである。そしてテレビのニュースなどは本当のニュースではなく、都合が
良いことだけを流しているのだという厳然たる事実である。

ジャニーズ問題最大の闇は、大手メディアの対応である。
彼らこそ、ジャニーズをどう扱ってきたのか、本当にジャニーズの実態を知らなかったのか、
きちんと検証する必要がある。

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汚染水の海洋投棄について [思考・志向・試行]

今日は、23日。明日何もなければ、福島第一原発沖から汚染水が海洋投棄される。

ここではあえて「ALPS処理水」でもなければ「処理水」でもなく汚染水と明記する。
理由はALPS処理された水には当然ながら、他の核種も含んでいる事からだ。


まず言いたいのは、政府や東電の主張のおかしさである。
中国の当局にズバッと指摘されているが、
「安全なら投棄する必要はなく、危険ならなお投棄してはならない。」である。

ここが一番の肝であり、これ以外は些末なことである。

トリチウム水が安全だという声が聞こえてくる。
それも、政府や東電だけでなく、一般人の中にもこれを強く信じている人がいる。

じゃあ、そんなに安全ならなぜわざわざ1キロ沿岸に捨てるのだろう?
安全になったのなら、再度炉心を冷やす事に使えば良いではないか。
そうすれば、一定量の「処理水」をずっと使い続ける仕組みなり、
備蓄タンクの増設などせずとも問題は解決する。

これが分からない人たちがあまりに多すぎる。

よって、政府も東電もALPS処理水が決して安全なものだとは思っていないという事だ。
それをわざわざ「処理水」と呼ばせ、そのために広報までも使うという。
これは本当に大きな欺瞞である。実に精神的な異常な思考である。狂っていると断言しても良い。
原発は安全だという言説がいかにウソであったかを思い出したほうが良い。

100歩譲って、処理水を危険とまで言わずとも「安全ではない水」としよう。
この安全ではない水を政府や東電は、薄めて捨てるという。

これもまた大きな欺瞞である。ALPS処理水で残るのはトリチウムだけという。
そんなのはウソである。実際にセシウムやヨウ素はそれなりに残るのだ。他の核種も
ゼロではない。

トリチウムの半減期は13年ほど。すると放射性のトリチウムだけであれば、50年もすれば
かなり危険性はなくなる。これについては依存はない。

一方で、残りの核種はどうか。セシウム137では30年の半減期、ヨウ素などは、
実に1570万年という長期間である。こういった物質はごくわずかでもずっと影響が
残るという意味では少量であっても無害とはいえない。

つまり、水に薄めても数十年で捨てたとしても、海に捨て続ければずっと影響が残る
という事なのだ。

一般の人は、調味料かなにかと勘違いしているのだろう。
放射性物質の大半は、薄めても散らばるだけにすぎないのである。
除染という言葉は、単に放射性物質を移動させているだけであって、
放射能をなくせるわけではないという事である。

調味料であれば、細菌が分解したりして、地球において還元されていく。
だが、放射線物質は放射線をずっと出し続けるという事なのだ。
それを海にだせばどうなるか。

生物濃縮とはこういう事態において起こる。
メチル水銀が水俣病を引き起こしたのと同様に、
放射性物質を含む汚染水が、どういう影響かを及ぼす可能性だってあるのだ。

つまり薄めて出すという事に意味は、せいぜいちょっとずつ捨てるということであって、
害がなくなるという意味ではないのだ。


当然ながら、国や東電は理解している。ALPS処理水がいうほど安全ではない事を。
それを印象づけるためにトリチウムだけに話をフォーカスしているのだから。

海洋投棄を実施することで、以後、他の原発などにおいても、投棄しやすくする
などの効果や、実質的に保管する水を減らせばコストを減らせるというだけの事で、
政府や東電は、投棄を決めたのである。だがこれが手立てとして最良ではないのだ。

実際にはタンクの大型化や、モルタルなどによって固形化して保存するとか、
水蒸気化して水を飛ばすとか、他の手段は存在する。

けれども、コストがかからないという言い訳によって国や東電は海洋投棄を行うのである。


2018年にALPS処理をした水から、取り切れなかった核種が見つかっている。
2023年の現在において、この技術がどう変わったのだろう。きちんと取り除き続けられる
ようには到底思われない。

結局、ALPS処理したという建前によって、中身如何に関わらず、海洋投棄を行う。
これがこれから日本がやろうとしている実態である。

私にはこれが生物濃縮などの実害を生むのではないかと推定する。
もちろん、国はそれを否定し続けるであろう。投棄を始めたら、そのようなことが
あってはならないという禁忌になり、実際にALPS処理に問題が起こっても、
外には一切、知らせることはなかろう。隠蔽の極みになるに違いない。

害の薄いトリチウムですら、同じ箇所に50年もの間捨て続ければ、なにか異変がおこっても
不思議ではないのだ。そういう可能性があるというのが科学的視点であって、
安全だというために科学があるわけではない。



さて、明日24日にこれが実行されたとしよう。
害悪はすぐには起こらない。だが、すぐに次のようなことが起こる。
それは、中国や韓国などからの魚類の輸入禁止である。もしくは検査の厳格化である。

このような安全に対する態度の違いについては、国同士できちんと話し合うべきなのだ。
だが、岸田政権はそれを全く無視している。どう考えても害を出そうというのは日本なのにだ。

この諸国の態度は、いずれ東南アジアを含む海洋諸国に広がるだろう。
日本とは海を汚す国なのだというイメージをもつようになるかもしれない。

これは決して小さい話ではないのだ。福島の湾が小さく放射能汚染されるという
話では収まらないのである。(もちろん、それだけでも十分に問題なのだが。)


岸田内閣は、IAEAを呼び、アメリカにいって、海洋投棄の”許可”を得たつもりなのだ。
要するにアメリカが許容するといえば、それで良いと思っている。

だが、これからは中国やインドの時代である。地政学的に日本はアジア諸国と友好な
関係を保つべきなのだ。それに対して、汚染物の海洋投棄は時代にそぐわない方策となろう。

これによる漁業の損害や関連諸国の日本への態度の硬直化などは、国や東電が考える以上の
損を招く結果になるだろう。

このような事を、ろくに考えもせずによく決断できるものだなと思う。
私の理解を超えている。


アベノミクスについて批判し続けた。そして現にその影響がインフレという形で現れた。
とりわけガソリンに目が奪われるがあらゆる輸入品目において値上げがあり、その価格転嫁が
行われている。それはアホノミクスという政策がためだ。

これと同じく、岸田による汚染水の海洋投棄を私は批判する。それは日本のためにならない
という事から来る。日本のためを考えるなら、コストをかけてでも海洋投棄以外の道を
選ぶべきなのだ。

言いたいことはあらかた言った。
今後、どうなるのか、その結末を人生において確かめることにしよう。


余談:

  上記にいろいろ書いてきたが、一番書きたかったのはこれかもしれない。
  このひと月くらい、オカルトに興味があってYoutubeでオカルトをよく観ていた。
  もちろん、エンタメとしてだ。別段、何かを信じているわけでもない。
  ムーのかつての特集を楽しんだようにだ。

  その中で、気になっていたのは「未来人の話」。本当に未来人がいるのかどうかは
  不明だし、私は信じていないけれども、彼らのうちに数人が異口同音にこういっていた。
  「未来では魚は口に出来ない」と。

  一体海になにがあったのだろう?と思っていたが、それがここに来て急に信憑性が高まった。
  それがこの汚染水の海洋投棄である。

  もしかすると、この海洋投棄の影響で海産物の害が発生してしまったのではないか?
  あながち、ありえない話でもない。

  もちろん、ただの偶然かもしれない。けれども未来人と称する人々が魚を口にしてない
  という話が、いやが上にも気になってしまう。

  一応のメモとして、この内容をここに残そうと思ったのである。

  未来人の話を聞きたい人は、https://www.youtube.com/watch?v=f-ReTN6iSKQ&ab_channel=2ch%E3%83%88%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3
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日本社会の縮図ー山下達郎とJ [思考・志向・試行]

松尾氏がスマイルカンパニーとの契約を打ち切られた。
それは、松尾氏がジャニー喜多川氏の性加害問題について触れたせいだという。

このとばっちりを食らったが山下達郎氏だ。
泣く子も黙るシティポップの大物である。

山下氏がラジオで松尾氏への反論を行った事が火に油を注ぎ、
大炎上状態になっているのだけど、その本質的な中身について一言言及したい。

山下氏が「(私の言明が気に入らないなら)私の音楽は不要でしょう。」と皮肉とも
謙遜とも受け取れるようなセリフがクローズアップされているがそんなことはどうでも良い。

ことの本質は、喜多川氏が性的虐待をしていたという事実に対して、
どういう態度を周りが取るかという点である。


例えば、あなたが懇意にしていた人が、とある日犯罪で捕まったとしよう。
「そんなことをする人ではなかったのに」と思うかもしれない。けれども、
罪は罪である。友人といえど、罪は償うべきだという態度はごく普通だろう。

一方で、こういう人もいるかもしれない。
いままで懇意にしていたのに、犯罪で捕まったからといって、今までの仲を
変えるのはおかしい。いやむしろ、彼を庇うことこそが懇意の証になるのだ。
だから、犯罪を犯したからといっても、関係性は変えるべきではない。
それが義理や人情というものだろう。


このような問答については、過去の偉人が議論している。
カントである。カントは、道徳と幸福について考えた。

この道徳と幸福とは一般的な意味ではない。道徳とは社会規範のことを指す。
幸福とは義理や人情のことを指す。

カントはいう。本来的には道徳を幸福より優先させるべきだろうと。
そして、現実的にはこの順番が倒錯しており、多くの人は幸福を優先しがちなのだと看過した。

どういう事か?

例えば、政治犯として逃亡中の友人と出くわし、追われてているからもう行くと
いって去っていったとしよう。あとから、公安がやってきてあなたにこう聞く。
「***さんを知っていますよね? どちらに行かれたのかご存知ですか?」と。

むろん潜伏先を聞いている。道徳的に言えば、公安に正直にいうべきだろう。
社会通念としてはそれが善である。だが、正直に言えば彼は捕まってしまう。
それは友情として人情に欠ける行為ではないか。

どちらかを選ぶという状況に追い込まれた時、人はその立場が明確になる。
公安にどういう答えをするかに正解はない。

だが、道徳を優先するのか、幸福を優先するのかは明確に存在する。
このケースでは、道徳は蔑ろにされる場合が多いのではないか。


では、ジャニーズ問題に戻ろう。
山下達郎氏の事務所は、今までお世話になったジャニーズ事務所に対して
義理人情を優先することにしたのである。それはジャニー氏の性加害問題を不問にすることに等しい。

だが、犯罪である。どれほど親しくかつビジネスパートナーとして儲けさせてもらったとしても、
犯罪者を庇うのか?

多くの人がそれとなく分かっているが、ちゃんと明示されないのはこの事なのだ。
犯罪を犯したものへの態度とはどうあるべきか?という事なのだ。


これは別段、山下達郎氏の事に限らない。
政府要人であっても、世界平和家庭連合なるカルト集団に関わる事で利益を得ていた
国会議員たちは、カルト集団の犯罪に目をつぶってきた。その態度が問われているのだ。

一方では、こんな事例もある。山上容疑者は、安倍晋三氏を手製の銃で殺害した。
山上氏に直接関わった人たちは殆いないだろうし、山上氏の行為自体を不問にする人は
いないだろう。だが、山上氏が味わってきた苦渋を理解することはできるし、彼が
暴挙に出る動機もまた理解可能な範囲にある。山上氏を擁護する人すらいる。
これは、オカシイことだろうか?

犯罪者に対してどういう態度をとるかは、人それぞれだろう。
道徳と幸福のどちらを優先させるかは、存外難しい問題である。

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希望とは [思考・志向・試行]

私の希望はなにか。目先でいえば、多少とも自由になるお小遣いがあと2万ほどほしい。
という所か。何かと要用でしばしば金がイレギュラーに放出されていく。
昨今のインフレもあってか、予定以上に貯金が減っていく。

いやそんなことが問題なのではない。
今日から何かを変えたいと思ったのだ。
人生の残りを自分のために使うと決めた日から随分とたつ。
ところが、気がついたら目先のことばかりをやってきていた。
何か考えを変えないとダメじゃないのかと。

ということで視点をズラすことを意識したい。

閉塞感がある日本の生活。
でも、実際にはまだまだ余地が残されている。
この余地を今から利用し、生活を充実させる方法があるのではないか。

テレビや大手メディアが見せる世界は、耳目を集める事柄ばかり。
でも、わたしたちの生活そのものはもっと豊かなものになりえるはずだ。
それには既存のものは脇に置き、違うものの見方をしている人を参考する必要がある。

今、内山節氏の『民主主義を問い直す』を読んでいる。
2021年の本。
内容は少し古く2017年頃だと思うが、率直なことが書かれていて首肯するのみだ。

内山氏は、哲学者でもあり、実践の人でもある。大学やNPO法人に関わる
一方で、上野村という村の村人でもある。

新自由主義の申し子たちがいまやAIだ、DXだ、ビットコインだと騒いでいる傍らでは、
一種の「伝統回帰」がスタートしている。

この流れは当然であろう。金やポジションを巡る競争という事に疲弊している人々。
ほとんどの人にとって、それは幸福への道ではない。

都会で満足な暮らしをしようとしたら、そりゃ無理をする必要がある。
ところが、時代は流れ、かつてのような経済発展は見込めない上に、
かつてのような経済発展で喜んでいるような段階はとうに過ぎた。

我々にとっての幸福とは、金やポジションを巡る競争の先にあるわけではない。
しごく端的には、平穏な暮らしができればそれで良いのだ。

そのためにできることを実行している人たちがいる。
私も彼らのような人たちと繋がっていくように心がけたい。

政府が仕掛けてくる圧政は、今後も続くだろう。
それに反発するのは当然だが、それにばかり人生をとられても仕方がない。
それはそれ。こっちはこっちで、日々を充実させる行為を一つずつ増やそうではないか。

希望というのは、できることがあるという確信。
それはきっと死ぬまで続くことなのだと思う。
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東大卒の恐怖 [思考・志向・試行]

高度経済成長がピークに達した頃、受験戦争もピークに達した。
いや、まだあいも変わらず受験戦争をやっている。

多くの人が傷つき、そして学校を恨むようになる。
どうしたって勝者はごく一部なのだから、知性に対してネガティブな感情を植え付けられる
人が大半になろう。その一方で勝者は勝者で、「知性化」の権化のようになり、
いわゆるオタク自慢大会になりがちである。

「おまえ、これ知っているか?」である。知識の過多でマウントを取るわけだ。
まあ、どうでも良いことだ。

さて問題はここからだ。
多くの人は、つまらない授業をなんとかこなして卒業する。
それは卒業のための勉強であり、勉強などマトモな人がやることではないと学ぶ機会に
なってしまった。だから、日本では学部生で世に出て就職するというスタイルが
もっともスタンダードであることになっている。もちろん、お題目に過ぎないが。

大学進学率もあがり、いまや半分は大学へ行く。
それでも半分である。

こうなると、ますます「知性」に対する怨恨が出てくるだろう。
ちょっとしか違わないあいつが、大学に行き、こっちは家庭の事情で高卒。
それでいて社会に出てみれば、あいつがより高みから指示してくる世界。
心地が良いわけがなかろう。

こうして、この社会は勉強ということに意味を感じつつも、「あ、私は適当に
やり過ごしてきましたー」という態度をとっておくのが賢いという事になった。

それでいて憧れもあるのか、テレビではクイズ番組がいまだに流行っている。

このような状況を長く続けていると何が起こるのか。
それは、真っ当な知性のあり方が失われる事である。

方や、知性的な事への諦めと、その反動による反知性化が進んだ。
認知的不協和からいえば、反知性化は多分にもっともなことなのだ。
「あのとれないブドウはすっぱいのだ」との類比で「わからない勉強は意味がないのだ」
という感情が知性を小馬鹿にする風潮まで生み出した。

かつての理性主義はほぼ21世紀になって敗北したと言って良い。

その一方で、東大である。
受験を勝ち抜くのは、やはり大変な作業である。
地頭の良い子が、数年間かけてようやく合格するような大学である。
いや、本当に出来る子がいて、同じような労力でもずっと結果を出す。
そういう人が結局は、東大に入るのだ。

こうまでして入った東大。中身は大方の大学と変わりはない。
むしろ、知性化の権化たちがいる世界である。
オタクに磨きがかかっていく。そうして突出した知性になる人が出てくる。
これは喜ばしいことだ。

一方で、受験を勝ち抜く事で自己承認を得たいと思っていた人々も少なくない。
受験に成功しなければ死んでしまうかのような思い込み。そのような激しい精神的な
病理がなければ、凡人があの受験をクリアするのは難しい。

そうして、ごく一部のギフテッドと、多くの精神的病理の持ち主たちが
集まる大学が東大なのだ。

翻ってみれば、あのどうでも良いような問題を解くために身に着ける事が
できるというのは、人としての感性を失っているからこそできる事だ。
繰り返すが、人として欠損しているからこそ、あのような受験をやり遂げられる。

どれほどの学生が本当にやりたいから、それをやったのだろうか?
周りが褒めてくれるから、自分が自分を肯定できるから、そういった心理を抜きに
好奇心だけで勉強できていたとは思えない。

そうして、なんとか入った大学も卒なくこなして卒業し、社会へと出ていく。
この時、問題が大きく発生する。なぜなら社会では、あの反知性に足場を置く人たちが
半分はいるのだ。全く意見が合わないこともザラではなかろう。だが、多勢に無勢、
高学歴な人々は脇に追いやられる。ましてや東大など更にだ。

こうして東大生はひっくり返ったコンプレックスをもつ。
自分がいかに「普通」であるかをアピールするようになるのだ。
彼らは自分の特殊さを十分に理解している。だが、心は引き裂かれている。

才能のある子が、受験という外部から与えられたレールをひた走った。
必ず正解がある世界をだ。

何が起こるのか? そう、正解の無い事ができなくなったのだ。
もしくは正解以外を語れない人間になったと言っても良い。

彼らはある意味で可哀想な人達なのである。人のあり方としてはおかしいのだ。

では、東大を出た社会人は何をしでかすのか。
現在国会には、139人の東大出身議員がいる。衆参で定員が713人なので、
約20%が東大出なのだ。かなりの人数である。

ここに、早稲田、慶応、京大を加えると、およそ半分になる。
さらに、大卒を全部足せば、95%ほどにもなる。

つまりだ、この国の運営は大卒がやっているのである。
世間の半分は高卒にもかかわらずである。

官僚についても同様だ。上部にいくほど東大が多く占めるようになる。

先にも述べたが、普通ではない人として何かが欠損しているからこそ、
受験という場においてパフォーマンスが発揮出来た。そのような人々が
この国をハンドリングしている。

その心根にあるのは、「自分は勝ち組」であろう。
受験戦争に勝ったのだ。そして知性を十分に認められたと思い込んでいる。
そういう人間たちが政策を考えたらどうなるか、自ずとしれたことではないか。

現代の社会が、新自由主義を標榜するのは、当然の理になる。
新自由主義は、政策として規制緩和、民営化、社会保障削減を是とする。
それを支えているが、受験エリートたちという事なのだ。

彼らは過剰な競争に打つ勝つほかなかった。そのような心理的状況におかれていた。
普通なら、「こんなくだらない問題とく必要ないよ」となる事でも、
それが解けることで、他者から優越できた。いや、自分の居場所を確保できたのだ。

そんな正解主義の人々は、正解がある事をやろうとする。というかそれしか出来ない。

だから、社会が是とするアメリカ経済をひたすらにコピーしようとする。
そこにシカゴ学派の連中らが、まさに日本に侵略したのである。その代表例が
竹中平蔵であった。

自己責任論を国がさらっと口にするのは、「勉強した俺は偉い、しなかったお前が悪い」
という態度そのものである。何のことはないのだ、彼らはずっと学生時代を引きずっている
だけに過ぎないのである。そこには、他者との協調とか協力といった概念は存在しない。

なにしろ、他者が勉強ができるように手助けすれば、自分の立場が危うくなるのだから。
実にケツの穴の小さい人たちなのだ。

メリトクラシーは、結局、国をこのように傾けていく。

国の存続というものを真っ先に考えるはずの公務員がたちが、
アメリカというお手本をトレースするだけのコピーマシンになったのだから、
やむを得ない。日本を良くすると信じて、日本を破壊し続けているのである。

恐ろしいのは、まさにここである。彼らの頭の中では、メリトクラシーの徹底こそが
日本を良くする秘訣だと思っていることだ。要するに、自分が「成功」した方法こそが
まさにその手段だと言いたいのである。

私からすれば、彼ら自体がある意味で失敗作なのに。
自分がまさか失敗作だなんて、これっぽっちも思うことが出来ないので、
日本の方針、ベクトルの向きはちっとも変化しないのだ。むしろ、そちらに向かって
先鋭化していくのである。

私は、京都大卒のネトウヨと絡んだ事がある。
メリトクラシーは、誤った進化論的思想を内面化するらしく、
弱肉強食の世界で彼は生きていた。

ふたことめには自分がどれほど勉強したのかを自慢する。
何十年も昔の受験の話をいまだに口にする。

どれほどこだわっているのだろうか。怖いくらいである。

受験エリートたちがどうして、戦争へと向かおうとしているのか。
背後にある経済的パワーバランスというのがあろうが、それ以上に、
彼ら自身がそれを求めているように見えるのだ。

受験に勝った自分たちは、経済でも政治でもうまくやれるし、勝てるのだと思っているかのようだ。

はっきり言って愚かである。
そして可哀想な受験の犠牲者なのである。

何が大事なことか、もはや日本の官僚たちは分かっていない。
人がどうすれば幸福になるのかという視点がごそっと抜け落ちているのだ。
なぜなら、彼ら自身が幸福とはなんなのかを全く知らないからなのだ。

幸せとは、自分の思う有り様を、そのまま出せることである。
そこに目的など無い。あるのは方向だけだ。
社会が是とするレールを走った人間こそがもっとも幸せから遠いのは間違えない。
親が認めたから、友達が認めたから、同僚が上司が、社会が認めたからOKというのは
幸せとは無関係である。

幸せは当たり前がだが、自分が感じる事、感じるという行為である。
何かを得る事でも所有することでもない。

コンビニでうまい棒を買って食べる。人はこれで十分に幸せになれる。
友達とダベりながら、ダラダラする。人はこれで十分に幸せなのだ。

日本が世界との戦いに勝つとか、NATOに加勢するとか、アメリカから武器を爆買いするとか、
安倍晋三を神様に仕立て上げるとか、そんなことは幸せとは関係ないのだ。むしろ、
幸せを阻害する要因ばかりである。

そういうことが分からない人間が、国をいじっている以上、我々はそのとばっちりを
くらう事になるのだ。

残念だが、そういう事が続いていく。東大卒であっても、山添氏のように良識派がいる
事は知っている。できることなら、そういう人が今後増えていくようになって欲しいものだ。



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