ポリティカル・コレクトネスについて [思考・志向・試行]

ポリティカル・コレクトネス通称PCである。
PCとは、差別的発言や言葉などの表現をやめようという考えである。

PCの観点に抵触する例の代表はヘイト・スピーチである。
攻撃的で、差別的な言動はたしかに抑制されるべきであろう。
ドイツでは、ネオナチの問題もあり、刑罰があるほどだ。

昨今の世界情勢からいえば、民族や国などに関わる差別的発言はヨーロッパなど
では、もはや、議論の余地がないほどに規制されている。

PCの概念のコアは平等性である。肌の色、言葉の違い、文化の違い、性別の違い、年齢の違い、
そういったものを区別なく扱おうという志向である。これらの違いによって取り扱いが
変わるというのは確かに不正義かもしれない。なぜなら、それらは本人の意思とは無関係
であり、どうにも変更しようがないためだ。

ところで、言葉は差異を表現するために語彙が豊富にある。
そこには明確な差別がある。差別という語に含まれるニュアンスが嫌であれば、
区別でもいい。そして、その違いこそが言語表現の幅を広げる。その意味では、
言葉そのものに区別性が存在しており、そうでなければ、言葉の意味が失われてしまう。

このことを合わせると、言葉の区別が、不平等的扱いに発展した時に発動するのが
PCという事になる。だが、本質的に差異を生み出す言葉には、潜在的な「差別」がある。

https://www.huffingtonpost.jp/yuko-fujisawa/political-correctness_b_8802070.html

このサイトでは、大事な問題提起がある。
それは平等性というものの正当性である。

ということで、PCに拘る方はここから先を読むことは控えていただきたい。
時に、憤慨するかもしれないからだ。




少し穿った方から平等性を懐疑してみたい。
私には、この平等性という概念がどこか偽善的であり、ダブルスタンダードであるように
思われるからだ。本当に平等など実現できるのか? ということと、現実的な不要な
差別は批判を受けるべきだというものの間には、だいぶ開きがあるように思う。

上記サイトでは、仏教的な「平等」の地平にたどり着きたいと締めくくられている。
だが、それは無茶というものである。思想として、形而上学的には可能だろうが、
差異こそが我々が獲得する経験なのだから。同じ赤い実でも、グミやアセロラや、
トマトは別ものである。別であることを理解する事がいわゆる「成長」である。

もちろん仏教が差異に対する区別をなくす修行を行うことは知っている。仏教はまさに
区別や差異が我々の煩悩を惹起すると警告している。いわゆる差別はまさにそういう事だ。
こちらの村とあちらの村、差別をするから問題が生じるし、争いが生まれる。


PCの概念を平等性というものにまで拡張すると、現在の社会は否定されるだろう。
特に私有財産というものは不当なものとなる。そう平等性を推し進めると、共産主義的な
生活スタイルしか認めないということになる。そして、それは自由ではない。

先のPCにおける正義とは、本人のいわれなき性質による差別を不当とするものであった。
では、たとえば、能力についてはどうだろう? 我々は持って生まれた能力に差がある。
その差は、まさにPCがいう所のいわれなき差であろう。そして、その能力差が生み出す
資産や価値によって、差別をなくすべきではないか?と続くだろう。

ところが実際にはどうだろう? 我々はメリトクラシーの世界に生きている。
能力主義と社会的状況によって金銭的対価が決まる。この社会は学歴という差別を
あえて生み出す。わざわざ生み出している。そして、その差は「努力」の成果であると
みなされる。つまり、生物学的に能力に差がある事に目をつぶり、学歴は本人の努力に
よって生み出された差異なので、その差異は取り扱いの差になるという論理なのだ。
学歴差別は、社会が生み出した差別である。

PCのダブルスタンダードはこういう部分に現れる。能力という生得性は無視し、
その一方でもっぱら視覚的な生得的な差異には過敏に反応する。そして、取り扱いが
変わることに腹を立てている。

もちろん、常識的な事柄は理解できるし共感もする。
黒人だからと能力がないと決めつけたり、移民だからといって、下働きでしか採用しない
などは、不当な事であろう。また、PCのようにこれらを強化する言動も不当といえる。

これらから言えることは、極端な原理主義は危ういということだ。PCの平等性を
徹底するということは問題しか引き起こさない。これに対応するには、
少なくとも、資本主義社会においてメリトクラシーに生きる人間にとって、許容される
差別と許容されない差別があることを認め、許容されない差別は糾弾するという事
なのだろう。


もう少し、マクロに差別性を考えてみると、それは仲間という概念と抵触する。
同じ釜の飯を食うというように、身近に過ごした人と、地球の反対側で戦争や圧政に
苦しむ人を同等に扱う事は我々には不可能である。いや、理念としては可能であるが、
それはやはり空論に聞こえる。

その意味で、誰を仲間とし、誰をその外におくかという問題を孕んでいる。
それは国という概念や町や村という概念にも同様に関わる。男と女や、若者と老人という
区別にも当てはまる。我々の所属感は紛れもなく差別主義である。境界を作り出す事は
差別の前提である。そして、この境界によって紛れもなく扱いは変わる。

家族に対する対応と、家族外の人に対する対応は違うだろう。
いわゆる仲間とそうでない人への対応もだ。

差別をもつのが普通の人間である。これを認める事が私は大事だと思う。
その上で、その差別をどうやって乗り越えるのか。そう考えるほか無いだろう。
PCを守り、フェミニズムに生きているからといって、「私は潔白だ」という人間は
いるはずがないのである。

まずは、差別性を我々はもっている。ここからスタートするべきである。
よって、差別を発動することは自然である。


そこから、人は理念を持ち込む。差別はなくすべきだと。それを日々実行する事。
それが大事なのだろう。つまり、我々は差別を徐々に減らすように訓練を受けるほか無い
という事だ。

2つの方向性がある。一つは、差別の発生を抑える事。つまりナショナリズムを否定し、
所属性における自己肯定を否定する事だ。おそらく無理だろうが、小さくはできる。
もう一方は、作り出した差別をなくすことだ。既に起こっている差別はおかしいと把握し、
その差別の出現を減らすことである。


書いていて、やはり本質的に無理筋だなと思う。
人は仲間を生み出すように出来ている。それが人の社会性だ。
そして、国というものが他国と争うために存在するのだから、他国にやじを飛ばすのは
自然な事になる。それを拒否するならば、国という存在を拒否する他無い。

理念で人を動かそうとすると、大量に虐殺が起こる。平等性を追求した共産圏では、
相当な人数が犠牲になった。なぜなら、人とは理念で出来上がっていないからだ。
そしてそれは、理想を追求する事は、人以外のものになる事である。

難しいのは、何が学習の結果で、何が自然な区別なのかという事であろうか。

PCにしても、フェミニズムにしても、どこかで大概にする他無いのではないか。
私はそう思う。自らを善とみなす人間こそが、大悪事をなしたのが人類の歴史である。
それを鑑みるに、私は差別主義者でも仕方がないと思うのだ。そして、どういう風に
差別的であるかが問題なのだと思う。理想への漸近を目標に。

あなたはPCについてどう思うだろうか?


【追記】
https://www.theheadline.jp/articles/135

PCについて、上記であまり触れなかった点について整理されていると思う。
この主張のユニークさは「PCは功利主義的」であるいう点だ。そして、PCの
正当性は常に変化し続けるという事。

うーん、だとすると、PCは誰かの暴言をだまらせたい時の方便の箱みたいになってしまう。
一方で、同じPCの概念によって暴言もまた「表現の自由」だという主張を許容することになる。
価値観としてのPCをひてし、規範でもないとする解釈は正しいかもしれないが、ならば、
PCという概念自体が無意味になりそうな気もする。

PCがリベラルの範疇にあるとして、そのリベラルの主張が多文化主義そのものを否定しかねない。
PCに従わない人は、「差別主義」だと設定すれば、その主張を行っている人自身が
差別主義になりかねない。差別主義者だと糾弾する行為が差別的という事だ。
その心根に「私は正義で、あなたは間違っている」という前提がある。

上記サイトのいうPCは規範ではないというのは、この場合無理がある解釈だと思う。
やはり、ヘイト・スピーチは差別だと断じる事が規範であろう。これをPCと呼ぶべき
じゃないという事かもしれない。
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