分かったことーその先へー [思考・志向・試行]

色々、調べてみておおよその動向は掴んだ気がする。

政治的なことは石井紘基氏をベースに、小室直樹氏や森嶋通夫氏、安冨歩氏などを参照。
結局、価値というものは主観であって、市場で決まるものではないという事や、
価格という形では、価値は測れない事が分かった。加えて、均衡価格という概念は
ウソだと理解した。つまり現在のマクロ経済学は基本的に正しくない。

大学で数学を学ぶと、如何に仮定が多いか分かる。数理的な正しさとは、条件だらけに
なった時に始めて解が求まる。それを現実問題に適応すると、計算上の正しさは、
現実を捉える事に失敗する。数学的な正しさを担保するとはつまり、形而上学的なモデル
を構築する事にほかならない。その数学的帰結から、現実問題に対処するとはほとんど
無知蒙昧である。よって、経済学は、学である事における正しさはあるが、現実には無力で
あり、無意味であると結論できる。

そもそも数理的なものを現実化するとは、数字を入れ込まねばならない。常に流動的な
現実情報をどう反映させれば良いのか、そもそも統計的な数字の胡散臭さをどうやって
乗り越えろというのか。腐ったデータからは、腐った結論しか出てこないだろう。

また、価格の観点からいって、マルクスの基本定理が成り立つのであれば、
それはやはり再考を必要とする考えであろう。マルクスの基本定理とは、端的にいえば、
利潤の発生には労働の搾取が存在するという事だ。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_fmt.html

労働者諸君、搾取されてますよ。だからどうしたって感じだが、資本主義社会に生きる
人間に最低限必要なバックグラウンドだと思う。あらゆる労働者が知るべき事実である。

貨幣経済については、アダム・スミスやリカード、ホッブスなどから、帰納的に思考した。
最終的な貨幣に対する見解は、とどのつまり金とはみんなが欲しがる財の一つであり、
それが担保されるのは、金が他者を操るための負債であるという事だ。金とは言い換えれば、
他者をいいなりにさせる手段である。

ここに絡むのは、奴隷制である。他者に何かをさせるという、もっとも原始的な手段は、
むち打ちであった。痛みを避けるために労働する他ない。しかし、それはもっとも効率が
悪い手段でもある。生かすためのコストや、労働生産性を伸ばすための手段は、鞭打ちが
増えると言うだけである。

奴隷が労働者に置き換わったのは、要は金が、ムチ打ちの代わりになるとわかったからだ。
奴隷制が終わったのは決して人道的な意味ではない。むち打ちよりも有効な金という手段を
発明したからである。人々が金を欲しがるようにシステムを作れば、奴隷よりも有効に人を
利用できるのである。近年では、人は金のためなら死ぬまで働くことすらある事を我々は
知っている。金の他者に対する負債という機能は存分に利用されている。


社会体制については、柄谷行人氏をベースに、文化人類学系譜である、レヴィ=ストロースを
はじめとした構造主義を検討した。橋爪大三郎氏の解説などを参照し、フロイトを調べた。
その過程で、ユングやアドラーについても検討した。

これらの思想に埋め込まれた概念をたどると、アリストテレスまで行き着く。形相因、目的因、
作用因、質料因と4つの原因を仮定したわけだが、現代科学は、このうちの形相因と目的因を
作用因と質料因に閉じ込めることにした。すなわち、内在的な起因を可能な限り削ったのだ。

この指向性によって、社会というものを構成するものもまた、作用因や質量因で語ることになる。
社会科学や心理学において科学的手法を取り込んだ人々は、これらの2因による説明を試みる。
それは結局、因果関係をさだめる事であり、その関係性を内部化した系で物事を説明する事である。
そして解析の結果、構造が現れるがために、構造主義と呼ばれた。関係性で物事を論じると
こうなるのだろう。そして、それは一定の成果をもたらした。

現代社会を俯瞰する際にも、同じ思考原理が利用される。その根本はなにか。プリミティブで
はあるが、因果思考である。しかし、デヴィッド・ヒュームが指摘したように、我々には真なる
因果関係は知りえない。いや知る必要などないのである。人の脳の能力は、2つの出来事を
つなぎ合わせるという事。そしてそこにPならばQという因果の法則を観測事実として積み上げる
事であった。このルールが現実社会および、社会普遍的に成り立つ時、それは知恵や知識となって
後続に引き継がれる。これを十把一絡げに文化と呼ぶ。


文化的考察では、縄文時代の考察や、仏教、キリスト教などを大澤真幸氏をベースに、社会科学を
参照した。哲学的ではデカルトの方法序説や、カントの純粋理性批判等を考慮した。ヒュームなど、
イギリス経験主義はとても役立つように思われる。

結局、この2000年の間、人々は生存のための適応的戦略を様々に行ってきた。その急先鋒が、
500年前から始まった大航海時代である。2000年ほど前から、宗教がスタートし、その宗教の
示す事柄の真実性が問題となって、16世紀に科学がスタートする。天が回るのではなく、地が
動く事、宇宙の理解、物質の理解が進み、それは原発まで到達した。すでに人はコントロール
不能なエネルギーを生み出せるまでになった。宗教は廃れる一方で、経済が発展し、その経済的
反映のために、科学が進展した。人は生物として環境適応するよりも、環境を変更する事に力を
注いだのだ。

18万年まえに出アフリカをした人類は、その後猛烈に地球上に広がる。人の脳に変化が起きた
あとはあっという間であった。1万年程度昔、人は気がつく。他者から奪えば良いと。徒党を
組んで他者から奪えば、自分たちはよけいな事をしなくても生きていけると。この思想が是と
された瞬間から、我々は今もその思想を保持し続けている。その根底にあるのは、嫉妬や妬み
であり、他者の欲望のコピーである。人の能力は、他者をうまく利用するために発達した。

言葉についてその構造を知る事をソシュールなどで参照した。しかし、事の本質は言語構造では
ない。言語のもっとも重要な役割は、眼前にないものを指し示すことである。これが可能となった
ヒトという種族は、この能力を生活内で存分に利用し始める。そして、言葉もまた他者を操る
ために有効である事に気が付いた。眼前にないものを指し示すという作用は、また、他者への
働きかけに有効となったのだ。

人類は5000年前くらいに資源としての他者に気が付いた。それは十分に食料が増やせるように
なった事に関連する。ここが解釈の難しいところである。農業の起こりは、思想の変化である。
思想の変化とは、資源としての他者というところにある。人の脳は他者というリソースを有効
利用するために発展した。そこがポイントなのだ。

5000年前にはヒトはすでに農業が可能である事に気が付いていた。だが、それは効率が悪い
事であった。なぜなら食い物は自然の恵みとしてそこかしこにある。知恵を使えば、農業など
不要であった。縄文人は栗を栽培している。つまり農業である。なぜ栗を栽培したのか。
それは備えであったはずだ。栗は蓄えられる。その貯蔵性こそが、人が人を利用するための
契機である。

十分に蓄えられる手段が見つかるまでは良かった。集落ではどこかに保存したはずだ。
そして、その保存ということの発見こそが、奪うことへの動機となった。奪うことの正当化は
社会的ステータスが利用された。

共有であった保存財が、邪な、いや賢い個体によって奪われたのである。その根拠を担保した
のは何であったのか。チンパンジーにはステータスがある。それは集団生活する動物では
当たり前のことだ。その存在理由は、同種内争いを最小化することである。階級を作り出すとは
社会的コストの低下であり、種族の存続性を高める手段である。仲間集団内で争って、傷つけあい
体力を落としてしまえば、外側の集団にやられてしまう。結果として、内部的には暴力の強度が
他者を圧倒するために利用され、その序列性によって、群れの存続が担保されるようになった。

仲間内で発揮される暴力とは、つまり他者を操るということだ。そしてこれが先の言葉の
話と、経済問題、そしてマルクスの基本定理へとつながってゆく。もうおわかりだろう。

人はホモ・サピエンスである。ラテン語で知恵ある人を意味する。その知恵とはなんであったか。
それは「他者を自己のために利用する事」であった。これがトドのつまり、本質である。

様々な生物的欲求を満たす手段がある。その欲求をどうやってみたすのか。それは
他者を利用して、である。これを文化と呼ぶことが可能である。他者とは資源である。その
資源をどうやって効率的に使うのか。これが人類の文化史である。

かつての人々は、暴力に訴えた。ころすぞとおどせば、否応なく従う。むち打ちに合うくらいなら
否応なく従う。そういうものだった。その長い歴史のあとに、金というものが生まれた。金は
変形した暴力である。ものすごいマイルドな暴力と言える。金をやるから、これをしろと命令する。
金をやるから、サービスを提供しろと。利潤があるところに搾取あり、マルクスの基本定理は、
暴力をきちんと証明した。

日本人であれば、基本的に金を得る他ない。生きているだけで税金はふりかかる。その税金は
庶民から集められる。国は法というルールによって人々から金をせしめる。このルールもまた
暴力である。ルールを拒否することはできない。そのルールを拒否すると、暴力に晒される。
牢屋に入ったり、課税が増える。とにかく国は、金を巻き上げようとする。

まきあげた金に直接手をつけると、法にひっかかる。だから、他者の手を迂回して手に入れる。
これが安倍政権がやっている事だ。大企業からリベートをもらう。助成金として金を得る。税金の
一部を友人にくばる。すると道路が下関に出来上がり、加計学園が出来上がる。その一部がまた
リベートして政治家の懐に跳ね返る。選挙の費用であったり、ゴルフ代であったりするわけだ。

大企業は政治家や官僚と癒着する事で、仕事を作り出す。原発事業や、高速道路、IT産業、
これらの企業は、国から仕事を受注する。そして、中抜きをなんどもして、末端の業者が
実作業をする。他者を利用して、金を得る。それが国という仕組みであり、税という仕組みだ。

歴史的に一時は、庶民のために税金をつかう必要があった。でなければ票がとれなかったからだ。
だが、ソ連が解体し、社会主義・共産主義思想が衰退すると、社会福祉に力をかける理由がなく
なった。大企業はアメリカの真似をはじめ、アメリカ企業の参入のための法改正をすすめながら、
自分たちもその尻馬にのった。だから、社会保障など、国にとっては余計な出費であり、それを
減らした官僚は出世をする。当然である。国とは、支配者であり、搾取母体だからだ。その行動
原理の本質は、「自己生存のために他者を有効に利用せよ」である。


左派がどんなに人権や人道性を訴えても、そんなものは、目の前の金に対して無力である。
理念では、人は動かない。それだけ人間は動物であり、その動機は自己の拡張である。欲望
である。

欲望に関連して、生理現象を脳科学をベースに考察した。欲望には大きく二種類がある。
一つは生理的欲求だ。性欲・食欲・睡眠欲とはよくいったものだ。その他に、権力欲がある。
他者を使うというあれだ。それはチンパンジーにもみられる。つまり備え付けなのだろう。

権力欲を満たすために、金があり、言葉がある。そして、他の欲求と異なるのは、それが
満たされることがない欲である事だ。これについてはもっと詳細を調べなければ分からない。
だが、満たされることのない権力欲は、無尽蔵の金儲けにつながるだろう。

SNSの流行りは、言葉の流布であるが、それは要するに権力欲の発揮である。言葉を用いる
理由は、他者を操ることだからだ。私がこうやって記事をかくのも、とどのつまりは権力欲
である。言葉をつかって他者を説得しているといえるわけだ。

権力欲にはキリがない。資本主義はここに依存した社会である。金ではないのだ。
金を増やしたいのは、権力を拡張したいのだし、その権力を誇示するために、でかい家、
高い車を保持しようとする。

仏教では欲望を抑制せよという。それはもともと生理的なものではなかったのだろう。
あらゆる争いの元にある、権力欲を抑えること。そして、そんなものにさしたる価値はないと
みなす文化を形成する事だったのだろう。実際問題、人が生きる上で、権力欲の効果はもはや
ないと言える。


権力欲が必要だったのは、性欲の充足である。チンパンジーには序列がある。序列が低いもの
はセックスの機会を奪われる。抑制されるのだ。その性欲の抑制が翻って、権力欲をもたらす。

権力を得ようとする行動、つまり体力や知力に優れるという性淘汰があった。個体としての
優秀さは、権力欲の充足につながっていた。メスは権力をもつものと交尾をして子供を作る。
それは子供生育環境の保全であり、社会的ステータスの継承である。

時代が流れ、現代日本人は一夫一婦制を採用した。権力欲は、家の格の保持へと向かった。
一昔前の人々が家の格に拘るのは、権力欲の表れである。しかし、資本主義は家を解体した。
解体された人々の権力欲は、今はもっぱら金に移動した。だからこそのホリエモンであり、
ゾゾタウンの前澤氏になる。


現代社会のルールは、金を得る事。権力欲を満たすために金を得るという実に動物的な
行為にみんなが耽っているというのが私の現代社会考察である。

既得権益者は、金づるを失わないように、権力にはたらきかけて続けている。そして、時代遅れの
事業がのさばり、日本はそれが重しとなって若者の肩にのしかかっている。いずれ潰れるだろう。
私はそう予言せざるを得ない。それから、老人たちが急速に減り始める40年後まで待つか。


今更、権力欲を抑制せよとは、通じるとは思えない。一方の極には、強欲がのさばり、
もう一方の極は、日々の金に苦労する大勢の人々。これを是正するには、金持ちへの金を減らし、
庶民に配分するものを増やす他ない。だが、それも制度上かなわないだろう。

希望があるとしたら、まずは生き延びることだ。若者はとにかく生き延びろ。
そして強かに生きるのだ。社会は、お前も強欲教の信者になれとせまる。つまり労働者になれと。
生産手段をもたぬ労働者は、人生を搾取され、その一部が経営者のものとなる。企業だと、
上司のものになる。それは構造上仕方がないのだ。

今の30代、40代は上部への移行を楽しみに耐えている。そして、手ぐすねを引いて、若者が
この仕組に参加する事を待っている。50代60代は、このレースの逃げ切りを図っている。

だが、そんなことがうまくいくはずがない。川下りの先に滝があるのに、それを見ずに、
振り返り、過去の栄光と、うまくいっていたはずの事業を再び繰り返す。それが中高年の
努力である。どうにか筏を川岸へ運び状態を維持するなど、これっぽっちも考えていない。

若者はそんな連中の言説に埋没してはならない。考えよ。そのさきを。私もそのさきを
考えたいのだ。




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Met

名記事だと思います。

火星で地球ごっこをするのに最先端の叡智を注いで後のことはほったらかしなのが資本主義社会の本質ですよね。
by Met (2019-05-17 03:17) 

D-Blue

コメント有難うございます。
現状把握に努めてきたのですが、では実際に一個人として何をするのが良いのか思案中です。日々の仕事において、生活において、どんな心がけで、どんな思想で他者に触れ、行動するのが、良い社会を生み出すのか。一人では何も変わらないとも思えるのですが、でも、一人から始まるという気もしています。

どうお考えになりますか?
by D-Blue (2019-05-18 17:29) 

Met

そうですね、どの記事も大変わかりやすく整理されているので読むと自らの理解の助けになる若い人が沢山いると思います。ただ、このブログ自体にそういった若者たちがたどり着けるかというと、少し難しいのかなと。noteとか、そういったSNSのほうが若い人に向けて発信できるのかもしれません。
一応デザインやイラストの仕事をしていますので、記事の挿絵などであれば無償で協力しますよ!趣味でできる範囲の量になりますが。
by Met (2019-05-21 02:41) 

Met

そうですね、どの記事も大変わかりやすく整理されているので読むと自らの理解の助けになる若い人が沢山いると思います。ただ、このブログ自体にそういった若者たちがたどり着けるかというと、少し難しいのかなと。noteとか、そういったSNSのほうが若い人に向けて発信できるのかもしれません。
わたしは一応デザインやイラストの仕事をしていますので、記事の挿絵などであれば無償で協力しますよ!趣味でできる範囲の仕事量になりますが。
by Met (2019-05-21 02:42) 

D-Blue

お返事有難うございます。なるほど、確かにこのブログを読む人は、グーグルで検索後に何ページも深堀した人だけでしょうね。その頃には、何を探していたのかも忘れてしまったくらいに。おっしゃるとおり、他の媒体で記事を書く方がメッセージとして届くのかもしれません。noteは良いんですか?

イラストですか!いいですね。絵は内容に説得力をもたしてくれます。機会があればお助けください。記事に一つ絵があるだけで随分と変わるに違いありません。。

実は、そろそろブログの移設を考えています。のべアクセス数が大台に乗ったら、媒体変更も視野に入れてみようと思います。
by D-Blue (2019-05-26 21:14) 

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