悪とは何かー黙考ー [思考・志向・試行]

https://ja.wikipedia.org/wiki/

Wikiが大枠を与えてくれている。よって、細かなことは上記を参照してほしい。
ここでは、善悪の対比や、現実問題として悪とは何かという事だ。

上記サイトにはこうある
「マキャヴェッリはこう書いている: 「[…]善だと考えられてはいるが実際にそれに従うと
滅亡してしまうような特質がある一方で、悪徳とみなされているがそれを実行すると安全が
実現され君主にとって幸福であるような特質が存在する。」

つまり、国おける正義・善とは「国および国民の生活を守る事」であると。
そして、それを怠るような行為は、善とは言えないだろうと。

だが、まってほしい。これは大きな欺瞞である。
マキャベリのいうこの必要悪の話は、その主たる立ち位置を国においている。
そもそもにおいて、国を守る事=善ないしは良とみなす。これが君主論の要諦だ。
だから、このテーゼ以外の事は、一般に悪とみなされる行為も必要悪として肯定される。
目的のために手段を選ばずとはそういう意味である。

では、国を守る必要があるのか? ともっと根源的問を立てたらどうだろう。
そもそも国など必要なのかと。国としての集団化は、根本が防衛である。
ふたつの意味での防衛といえるだろう。一つは生活の防衛。もう一つが他集団からの防衛。
そして、それを実現するのは、暴力装置である。

現代は実際の暴力の発揮は滅多に起こらない。そのためすっかり国が暴力装置である
事を忘れている。だが、根本は国とは暴力装置であり、その暴力性を背景に法律があり、
その法律の内部において、所属する国民は法を遵守し、国に従事する事をもって、その
庇護を受ける。そういう構造である。

かつてはこの国を象徴する主体が人であった。つまり王である。
王なる存在が国という存在の象徴であり、王の命に従うことが国の存続そのものを
担保していた。いわゆる封建主義である。

だが、ルターらによって、解釈が変更された。現代では、国とは国民によって構成された
集団を指す。とはいえ実働する場合は主導する人間が必要なので、行政が存在し、そこで
働く官僚がいて、その上に立法を行う政治家たちがいる。国民はこれら機能を委託している。
そう考えるのが近代である。だから、国民は委託先の人間たちが行う政策に対し、どんな
文句を言っても良い。誤解がないようにいえば、個人として存在に対して非難を行うのは、
不当である。(安倍政権の政策の悪口はいくらいっても問題はないが、政治家個人の属性に
対する悪口は、ただの悪口に過ぎない)。

そして、これらを規定しているのが憲法である。憲法とは委託先の人間の行動を制するもの
である。また、委託先の人間が実行する政策の指針となる。だから、憲法は国民にとって
非常に重要である。にも関わらず、日本ではマトモに教えたりしない。なぜなら、教育が
その理念を有名無実化しているからだ。日本での教育とは、日本国民奴隷になるための手段
になっている。そして、そういうものだと自覚している人間は殆どいないほどなのだ。
ややこしいのは、人類の知識の授受もまた学校教育を通じて行われるので、全面的に否定
すべきものでもない。このようなとある概念に含まれる良し悪しにはグラデーションがあり、
一つの概念に価値判断を与えるのは、かなり丸め込みがある事には常に注意する必要がある。

話を戻そう。
国とは、本質的にその所属者たちを生活の面や他集団から防衛するために組織されている。
ならば、国が行う事が、生活や侵略からの防衛に機能するのであれば、どんなことでも
ありなのか? 否であろう。

21世紀は個人の時代である。その価値観をベースに置くのならば、国が個人の行為に口出し
出来る事は、個人が悪をなした時だけである。その悪とは何か? これが問題なのだ。

先のWikiにあるロウバウマイスターの悪の定義は、我々が素朴にもつ悪に対する感情だろう。
だが、必ずしも常に悪とは限らない。置かれた立場によっては悪ではないのかもしれない。
こういう事が、Wikiの哲学的問題に記されていて、絶対主義、虚無主義、相対主義、普遍主義
という悪に対する態度によって主に分かれるといえる。

子供の頃は、白と黒と断定しがちであり、おとなになるに従って、グレーを理解する。
その意味では、絶対主義や虚無主義はやり過ぎだと考えるのは大人である。
そして、理想としての普遍主義を考えたくなるのだろう。つまり、誰にとっても悪と
言えることがあると。

だが、考えてみてほしい。他者を暴力的に傷つける人間がいたとしよう。その人間は
いわゆる殺人鬼かもしれない。我々はそれを悪と解釈し、法律的に罰したりする。
では、殺人鬼の方からみたらどうだろう。社会は自分の行いを妨害してくる。その妨害は、
彼にとっての「悪」ではないのか。なぜ自由な行動を制約されなければならない??

他者によって、行動を制約されることを悪というのであれば、法律はどうだろう?
我々は国によって法律を押し付けられている。その遵守において、我々は国に生きられる。
もしくは、行動を許容されている。行動の制約が悪というのであれば、法律の遵守を義務
づけられる我々は、国から悪を受けている事になる。

個人的に暴力を発揮し、他者に自己の要求を通すという行為を、
我々はダブルスタンダードで捉えてるわけだ。

自己中心的な要求を押し通すために、とある個人が暴力をふるえば、それを悪と呼び、
集団や国が、同じく暴力を背景に法律を押し付ける事をやれば、それを善と呼ぶ。
もうすこし拡張し、国が他国からの侵略を防ぐという目的で暴力を振るうことを正義と呼ぶ。

もうおわかりであろう。そもそもにおいて暴力を振るう行為自体に善悪などない。
そういうことだ。悪と善の間は、暴力行為に実際におよぶか、そこまでいかないように
牽制するかの違いでしかない。そして実際に行為に及んでも、その行為目的によっては、
暴力は善にも悪にもなる。

こうかくと、ここでは善悪に対して相対主義をとることになる。
文化的なものや、人々の共通了解によってのみ善悪が生まれると言う主張である。

もう一歩すすめてみよう。もしすべての国がなくなったとしよう。
すべての人が人類という群れで住んでいるとする。そこにあるのは、ヒトという生物である。
そのヒトという生物が取り得る行動は全て肯定されるだろう。つまり悪などないのだ。
どれほど残忍であっても、どれほど悲惨であっても、悪などそもそもない。

我々はもっともプレーンにみれば善悪を作り出しているのであって、アプリオリに
善悪があるわけではないのだ。そして、人類は善悪を発明したのである。

ヒトの歴史によって、善悪を作り出した。善悪をダブルスタンダードで規定する事で、
社会維持が人々にとっての局所解になった。そしてうまれた組織つまり国が存続し続けて
いるというわけだ。なぜなら、国とは暴力的であるために、平和的な人々は存在しにくい
からである。

国の属する人は必然的に、国の暴力を肯定する考えを内面化する他ない。その一方で、
個人に依る暴力を否定する価値観を内面化する。これが現代人の特徴である。

このような人物が善悪を語れば、さきのWikiのような悪の項目になる。
悪とは所詮、そんなものなのだ。国という枠組みから離れた時、人は本質的な自由になる。


私が気にしていることの一つは、国から離脱した人、つまり法外の人にとっても、
現代的善悪は自動生成するのかどうか。また、善悪は人をしてそこまで重要なのかどうか。


最後にWikiにある、自制心というものだ。
我々が自制心を発揮し、暴力の発生を防いでいる。我々はそれを社会から要請されている。
自制心を発揮できない人間は、社会から排除される仕組みだからだ。だから親は子供に、
ひたすら自制心を植え付けるように鍛える。自制心をつねに発揮しなければならない人は、
日々の生活が大変だろう。一方で、社会道徳を内面化した人は、自制心を発揮する
場面がなくなる。結果として、その方がこの社会には適応的なのだ。

結局、社会というものを環境であるとみなすならば、人は脳を駆使して、社会が是とする
道徳や思考を適応的に受け入れる。それによって社会との齟齬が減ると学ぶわけだ。
善悪もこの社会的環境であろう。



蛇足であるが、現代的な問題に触れたい。
自制心を発揮したくない人がいる。その人が、もし自分の要求を通さないならば、
暴力を発揮するぞと脅したとする。周りは仕方無しに、その要求を認める事で、
その暴力を回避する。ただし、不道徳な人物は不問にされてしまうとしよう。

これがまかり通るなら、暴力を発揮するぞ!と脅したもの勝ちである。
実際に封建社会とはこの通りであったはずだ。

これをマイルドにしたのが現代の権力構造である。もし自分のいう事を聞かないなら、
金をやらないぞ!と脅す人々がいる。金が権力とはそういうことだ。金の運用を決める
決定権を持つ主体はつねに、暴力をちらつかせることが出来る。

国レベルでやれば、権力問題であるし、個人レベルでやればDVや虐待である。
実行しない所まで脅すというのが、現代ではそこかしこで発揮されている。
実際に行為してしまえば、それに対する社会的制裁があるからだ。

結局、自制心を発揮したくない人が最後に気にするのは社会的制約だけだろう。



現代の価値観として、得をしたものが偉いという概念がはびこってきた。
損を求めるとは、限りなく愚かしいと判断される。これが子供時代から刷り込まれる。
得をするために、もし暴力を発揮するぞと脅すことが可能な時、自制心を発揮して、
損な状態を保持することを是とする道徳はどれほど有効だろうか?
また、一度得をする事に加担してしまえば、それ以降に損をする行為を自ら選べるだろうか?

安倍政権にすりよれば、スポンサーとして金が流れてくる。儲かる。その見返りに票を
集めたり、献金をしたりする行為となる。メディアなら批判報道をしないなどであろう。
ただ、彼らの要求をのみさえすれば、得をするならば、それが社会的にグレーな行為でも
やってしまう。むしろ、なぜやらないのか? そう思うのが現代日本人の価値観である。

持ちつ持たれつ、などといい、社会的正義はただの建前になる。
なんだかんだいって、金という暴力の前に皆が屈している。
ここに苦悩する人々がいる。

経営者は、社員を守るためという。
個人は、家族を守るためという。
そのためには、社会的にグレーな事も是とする。当然の行為である。
マキャベリを思い出そう。組織の存続のためにはグレーは許容されるのだ。

結局、現代のおかしなことは、建前と本音の軋轢に端を発している。
すべての悪は、解釈をし直せる。だとしたら、悪など無意味な概念だ。
ずるいことや汚いことでも、自分の生存確保のためなら、手を染めるほか無いではないか。

もちろん、これは大いなる欺瞞である。

社会ルールは、その社会が存続するためにある。それを本音レベルで破壊したらどうなるか。
自制心を発揮している人からみれば、それはずるい事である。そのずるを皆がやったら
どうなるか。社会はもたないだろう。社会は崩壊するはずだ。ルールからの逸脱が増えるほどに。

現代日本は、かなり危うい。実態に合わせて社会ルールを変えようとしている。
憲法しかり、法律しかり、TPPしかりである。多国籍企業に有利になるように、
ルールが変更されてきた。それは、社会を存続するためのルールに抵触する。

現代日本の生活が苦しいことがあるならば、それはおよそ社会の存続ルールを
逸脱した行為が横行しているからだろう。結論からいえば、国は滅びる。

慢性的に自殺に向かっている。それが今の日本である。あとはどれほど緩やかに
行われるのか、ハードに落っこちるのかの違いだろう。

もう、私にはお手上げに見えるのだが、どうして他の人はのほほんとしていられるのか
全くの謎である。
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