自由な行動とその対価ー恋愛継続の困難さー [恋愛]

恋人をつくるということは、制約を作ることでもある。
あなたを見ていますということは、他の人をみませんという事でもある。

だが、それを拒絶するとどうなるのか?

まず大きな問題点として、通常はカップルは相手のみを優先する。
なるべく一緒にいようとする。そういう風に脳は訴えかけてくる。それが恋だ。

恋をしたことがない人は、この感じが分からないのだと思う。
あの強烈な感情からいえば、そもそも他の人をみようと気すら起きない。
ヒトというサルはそういう風にできている。それは、一種の繁殖戦略であり、
そういう事をできなかった人たちは、子供づくりに失敗していなくなったわけだ。

さて、恋をするとできるだけ一緒にいようとする気持ちが生じる。
これはとても自然なことだ。この理由を冷めた生物学で解説すると、

1.パートナーの浮気防止
2.パートナー相互のリソース確保

である。

恋をした相手が同様に恋してくれることは稀だ。時にそういうこともあるかもしれないが、
きっと、難しいのだろう。そういう時、一緒にいることを求めるのは生物学的に意味がある。
一つは、女性が他の男の子を宿さないかをチェックすること。女性からみれば、男が他の女に
手を出していないかをチェックすることだ。この手間を省くには一緒にいる方がいい。よって、
恋をするとそばに居ようとする行動が生まれる。

人は他者に自己投影する。恋するものも例外ではない。自分の気持ちを投影すると、
相手もまた恋愛状態を想定してしまう。だが、大抵はどちらかに偏りがあるために、
相手は自分が思うようには行動しないのだ。

よくあるすれ違いの話として、束縛がある。その理由は上記である。恋するものは、
相手に対して疑心暗鬼になったりするわけだ。もしかすると、今、他の誰かと会っている
のではないか?と。それは生物学的に許せない行為である。

ここに不思議な規範が出てくる。それは「相手を束縛すべきではない」という規範だ。
生物学的な要請と矛盾している概念である。生物としては相手を自分の目の届くところに
おいておくのが正しい。繁殖戦略として正しい。だから、束縛があるのは当たり前である。
ところが、昨今の社会では、それをかっこ悪いとか、非先進的な考えだとし、ダサいと
一刀両断する。そして、それを許容しない人を糾弾さえするのである。この不思議な規範が
あるがゆえに崩壊するカップルがいる。

例えば、彼氏と彼女がどこどこで何かするという予定を立てたとする。
ところが、その日の都合で彼氏が友達との付き合いを優先する事になったとしよう。
そこで彼女は本来であれば「私を優先するのが普通でしょ!」となじるはずだが、
それをかっこ悪いとか、みっともないと我慢すると「いいよ、いってきな」となる。
面倒な女だと思われたくないという自意識と、それくらい許容しないという面子が
あるのだろう。

ところが、ぽっかり空いた時間がある。ヒトはそういう時間を無意識に埋めようとする。
誰かといるはずだった時間を埋める行為は、しばしばトラブルを招くことになる。

彼女は空いた時間を友達で埋めることにした。ほかの男である。そうして、飯を
食べに行ったり、飲みに行ったりして空いた時間を埋めたのだ。

のちに、彼氏がこれを聞いて憤慨する。なんで他の男と出かけるのかと。
当然である。生物として全く正しい。だが、その空いた時間を作り出したのは、
自分である。そこにふがいなさがある。矛盾である。そして、こちらも当初は、
それをかっこ悪いとかんがえ、面子を保つために許容しようとする。

これに加えて、彼女が多少「自律的な人」であった場合は拍車がかかる。
まあ、一人でもいいかと、勝手に行動するのだ。彼氏に声をかければ来てくれる。
しかし、その突き合わせているという事がいささか気が重い。だから、自分だけで
行動してしまうのだ。

これが何度か続くと、男は思う。こいつ、もう俺の事どうでもいいのかな?と。
実に勝手なものだが、男とはそういうものだ。自分から原因をつくってることに
加え、彼女の性格がそうさせる。結果として、彼氏は彼女の愛情を試そうとする。

自分に会おうとしないのは、なんでなのか。自問自答した結果、あほなことに
彼女への当てつけを考えるのだ。彼女が他の男とでかけるなら、俺もやろうと。
そして、どう思うのか聞いてみたいと。いわゆる嫌がらせである。もしくは、
別れ話をしてみる。彼女が嫌がるかどうかをみたいのだ。その行為をみることで、
ようやく男は安心しようとする。自分の価値を確かめようとする。

一方で、彼女はその男の幼稚さに驚く。そして気持ちが冷めていく。「ないわー」と。
頼れそうもない男をみて、彼女は決意を確かにする。私をないがしろして、どこかに
行ってたくせに、いまさら私を試そうというのはおかしくない?と。

こうして、二人は気持ちをたがえてしまう。まことに残念なことだ。

元はといえば、お互いを気遣った結果でもあり、お互いが感情を隠蔽した結果である。
友達より私を優先してほしい。男友達とは遊んでほしくない。そういう当然の感情を
規範によって覆い隠し、懐が深いふりをする。面子を保とうとする。けれど、その隠蔽
した気持ちは決して消えることはない。どこかでくすぶっていて、どこかで吐き出される。

実をいえば、相手を傷つけない、問題を起こしたくないという自分本位の考えが背後にある。
むしろ、二人でいれば必ず相手を傷つけると覚悟しなくちゃいけないのだ。相手に迷惑を
かける事。迷惑をかけることができる相手。それがパートナーである。大前提が間違っている
のだ。恋路とは、いばらでしかない。何かと互いに傷をつけあうことになる。それは恋の
度合が強いほど、強く傷つく。当然である。それが生物の生物たるゆえんだからだ。

だが、昨今の妙な風潮からうまれた規範によって、そのあたりを避けようとする。
これが問題の核心である。その生物的に生まれてしまう感情を避けてはならないのだ。

ではどうしたらよかったのか。
万能な解決はないと断言して、解決策を考えてみよう。

ひとつには、やはり思ったことはちゃんと伝えるべきだという事。
自分より友達を優先した彼氏に、彼女はそういうのは嫌と伝えるべきだ。冷静に。
でなければ、自分を優先する彼氏にならないのは当たり前である。言わなくても、
わかるでしょとか、言わなくても優先するのが当たり前でしょと、何様のつもりか、
思い込んでいる女子は少なくない。言わなきゃわからないことがたくさんあるのだ。

男もまた、気軽に相手の気持ちを踏みにじらないことだ。相手の期待を裏切るほかないなら
その埋め合わせを考えるべきだ。これもまた丁寧に説明するほかない。いやいや言わなくても
男の付き合いってあるじゃんとか、それくらい言わなくてもわかるのがいい女でしょとか、
妄想を抱くのはいい加減にした方がいい。うしろめたさという確かな感情があったじゃないか。
それを棚に上げたのは自分であろう。

次に、言われた側がどうするか。単純にはなるべく嫌がることはしないってことだろう。
時折おかしい人はいて、この相手が嫌がることをして、嫌がるのを見るのがうれしい人という
のがいる。ゆがんだ自己愛の形である。嫌がるさまをみると安心するのだ。この人は、私に
関心があるのだと。そう、親や友達に嫌がらせとか、驚かせる行為によって注目を浴びよう
とするタイプである。ともかくも、相手が嫌がることは避けようとしないのは、ただの自己
中である。折り合いをつけるようにするしかないのだ。

それから、損得で二人の間を測らない事だ。自分の愛情が相手よりも大きいとか小さいとか、
そういうみみっちい事を言わないという事。自分が相手より好意があると「まけてる」とか
「相手にもっと好きになってほしい」とか思ってしまう性根が問題なのだ。それが高じると
相手の自分への小さな不遜に対して大きな不満を抱くことになる。

真の懐の深さを得ることも大事だろう。相手が多少変なことをしても、相手を信じている
事や、相手に対して変な猜疑心を起こさせないようする事。誤解が生まれそうな行為は
慎むという事だ。

結局、二人の間にルールを形成し、それを流動的に運用しながら、またルールを組み替えていく。
そういうダイナミックな運動以外に、うまくやる方法はない。これは夫婦だって同じことだ。

というわけで、およそ決まった解決手段はないが対応はある。
肝心なのは、自分の気持ちにうそをつかない事。隠蔽しないことだ。
それは何も、思いを相手にぶつけろという事ではない。気が付いた自分の気持ちを
丁寧に相手に伝えろということだ。感情の大きさと表現は同一でなくていいのだ。
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好意の返答性ー女性のアプローチ [恋愛]

仏教の本を読んでいたら、これはひょっとすると恋愛の話にも通ずるのではないかとひらめいた。

それは好意の返答性である。
あたりまえだが、誰かから「いいね!」とされたら、その人物に好感を持つだろう。
その当たり前が、男女の間にも当然現れる。ところが、日本の女性はそこを間違えていると
思うのだ。

よく、男が誘って女性が選ばれるという図式が問題視される。
その割には、相変わらず女性は選ばれる事を目指し、男が能動的になるという規範を
維持している。鳥などをみればよく分かる図式ではある。

雄の鳥は、鳴いてダンスしてなんとか雌の気を引こうとして頑張る。
そうして、ようやく求婚が成立する。確かにそうだ。では、人ではどうなのだろう?

一生懸命求婚することは、悪いことじゃない。
だが、知性をもつ人間は、それだけではどうにもならない事も知っている。

一般にみれば、女性の好みは、造形美から徐々に経済的安定に移る。
よって、繁殖戦略は単純に、若いときはイケメンに走り、歳をとると金持ちに走る。
こういっては身もふたもないけれど、これが統計的に見れば事実なので、それを批判
しても仕方がない。

そうして、現実はその中間的なものになる。つまり、大概はこの亜流に落ち着く。
でなければ、こんなに多くの男女のがパートナーとはなりえないからだ。
どこかで、理想とは異なることを含め、良しとするという事になるのだ。

昨今のパートナーがいない問題は、まずは男女ともに理想から降りられないことにある。
自意識過剰な若者が、理想にだけ恋愛を求めるのは致し方がない。それはつくられた心地よい
偶像を愛することなのだが、それは偶像であるがゆえに、リアル以上の造形が生み出される。
よって、偶像的な恋愛を求める限り、リアルな恋愛にはなり得ないといえる。なにしろ、
現実はもっと下世話だからだ。こうして、オタや腐女子は、理想像にはまり込む。

もちろん彼らも理解している。だからこそ、それはそれ、これはこれと分離可能な
文脈を生きる人達もいる。とはいえ、どこかで偶像崇拝をやめられない。それは
ある意味で健全であるが、結果としては不健全である。かつては現代ほどの偶像を
拝める時代はなかったということであり、現在はとにかく人々の欲望を満たす装置が
発達しすぎたのだろう。

この頭で考えた理想像に振り回されていると恋愛ができないという点はひとまず
クリアーしたとしよう。次に待つのは、実際の出会いと交流である。

今日問題にしたいのは、ここだ。
人々の多くは見栄で生きている。でなければタワーマンションも売れないし、大企業だって
儲からない。何しろ、生活はユニクロや六畳一間でも可能なのだから。残りはただの見栄。
その見栄というのは、承認欲求と考えられている。他者から認められたいのである。

人々はそのために、実に労力をかける。みすぼらしいと思われたくないと。
それがエスカレートしたものを文化と呼んだりする。見えであるという事を誤魔化すためだ。
小さな違いをもって、他者と差異を構築し、その違いに価値を見出そうとする。
そうやって、自分をユニークであると承認してほしいのである。そのような承認欲求を
強く持つほど、見栄をはらなければならない。

さて、この承認欲求が恋愛において発揮されるとどうなるのか。
その一つが、女性の好意的拒否である。

子供はよく、いたずらをする。またときに、親が嫌がることをやる。
それはつまり、承認欲求である。こっちに注目してほしい、寂しいと説明できない子供は、
自分に注目させる術として、悪い子になるのだ。良い子になるだけが親からの注意を得る
手段ではない。ある意味では怒られるということすら、愛情として受け取る。それが子供だ。

女性が男性の誘いを断る。冷たくする。実は好意があるがゆえに、そういう振る舞いに出る。
承認欲求の低い女性は、しばしばやりがちである。自分を高く見せるためとまではいかずとも、
あんまり簡単に誘いに乗るのは、軽く扱われてしまうと思うからだ。そうして、男の本気度を
測ろうとしている。

多少はそういう行為も意味があろう。誰で彼でも声をかけるような男から距離をとるには
いいかもしれない。しかし、もっと実直な男にも、同じ事をするのであれば、間違えが起こる。

勇気を振り絞って声をかけたけれど、女性があっけなく袖にする。
およそ真面目な男ほど、大いに傷つくだろう。女性はそれくらいでくじけるなんて、
私に対して興味はなかったのだろうと解釈する。実に勝手な論理である。

相手を見ればわかるではないか。相手がどれほど真剣なのか。
それを誰かの恋愛や、恋愛物語などと比較し、その男の行動自体をちゃんとみないがために、
本気の男を簡単に袖にする。たった一度でも、そこに込めた思いが本気かどうかは、
女性にだってわかるはずである。それが分からないのはボンクラとしか言えない。

もちろん、その男が駄目なら、それしか手段がない。むしろ、相手が本気であれば
きちんと振るのが礼儀というものだろう。誠意をもってお断りをするべきだ。

ところが、女性の中には質が悪い人がいる。相手の本気を知りながら、相手を自分の
承認欲求を満たすために利用する人である。そういう女性は、男の好意を便利に使う。
かつてはアッシーとかメッシーとか言われたが、そういう取り巻きとして男を利用する。
そこまでいかなくても、自分がモテているという自負のために、本気の男をちゃんと
振らないのだ。俗に言うキープである。

世のストーカー事件には2つのパターンがあり得る。一つは、全くの勘違い。
およそ話したこともない相手から付きまとわれること。おそらくは、一度挨拶した
とかいう程度の関わりでだ。もう一つは上記のキープである。つきまといについては
災難としか言いようがないが、キープのもつれについては、女性が悪い。相手の気持ちを
弄んだという事なのだから。むろん、そういう女性ほど、それを理解しないし、理解する
つもりないのだが。そして、相手のアプローチが強まると、急に被害者ズラをする。
自分は悪くないというためには自分が事実被害を受けていると認識する必要が
ある。それがために、自分の立場が危うくなると、自身で事を隠蔽し、相手の問題で
あるかのように避難するのである。往々にして周りはそれに騙されるのだ。完全なる
自己欺瞞である。


話を少し戻して、もし女性が承認欲求が低いがために、誠実な男からのアプローチを
断るなら、それは考え直してほしいと思う。

相手の真剣度を測るために、そういう駆け引き的な事をしているなら、やめた
方が無難である。誠実な相手にどうして無用な駆け引きに出るのか不思議だ。オッケーなら
ひとまずはデートにでもでかけてみれば良いのである。断りを入れてから、「あのあと
なんにも言ってこないんだよね。」という女性をみるたびに、アホかと言いたくなるのだ。

相手が誠実なら、断りをもって諦めるだろう。それが誠実な男だからだ。
逆に、チャラい男なら、またアプローチするだろう。それがチャラい男だからだ。
つまり、断っているのに何度も誘うしつこい男だけが残るのが、最初の無用な駆け引き
なのだ。女性はわざわざ、まともな男をフィルターして除外していると言える。

そういておいて、しつこさをもった男と付き合って振られる。なぜなら、そういう男
だからこそ、しつこさを発揮できるからである。我が強い男とはそういうものだ。他に
気になる人ができればそちらにも、同様にアプローチするからだ。

要するに、初期のアプローチのしつこさをもって、愛情の強さだと思いこんでいる女性は
むざむざと幸福を捨てている。そんなもので、愛情をはかるのは間違えているのだ。
むしろ、そうやって自分を吊り上げた分だけ、手に入れた男はそこで満足し、愛情が
冷めることだろう。手に入れるまでのゲームになってしまうからだ。

もし、相手をいいなと思うなら、素直に最初から話を進めればいい。話はそれからだ。
相手を知ってからでも、振るのは遅くない。むしろ、良さがわかるかもしれないのだから。

自己承認が弱い女性は、また一方でわがままにもなる。
それは、相手の気持ちが信じられないからだ。子供がいたずらをするのと同じである。
相手に不快なことをして、それでも、自分のことを好きで居てくれるかどうかを試すのだ。
これは、自己承認が低い男もやることである。

相手の愛情を試すために、正確にいえば、本人はそれと知らず無意識にだが、相手の
様子を伺うような行為にでる。相手が好意を示すと「なんで?」と聞いたり、約束を
すっぽかしたり、無理な事をいって困らせたりする。要するに嫌がらせである。
その背後には、不安感がある。私のことをどう思っているのか分からないという不安である。
小さい子供も、まるで同じことをする。兄弟が生まれて、自分より下の子に興味が移った
事を理解するや、上の子が赤ちゃん返りをする。嫌がらせを通じて、自分に対する愛情を
推し量っているのだ。

その結果、相手の男や女は嫌になってしまう。要は恋愛するにはまだまだ子供すぎるのだ。
相手がどう思うのかを思いやるだけの余力がない。そして、自分のことしか考えてない
からだ。嫌がらせがあっても、相手と関わり続けようのは歪んだ愛情である。それを共依存
という。メンヘラ女子と自己犠牲の男という組み合わせでしばしばみられるやつだ。依存を
愛情と勘違いしているのである。ときに誠実な男がメンヘラちゃんをかまうことになるのだが、
最後は無理になって破綻する。そりゃそうだ、四六時中他人を考えて暮らせるわけがない。


自尊心が低く、承認を欲する女性にはとある傾向がある。
一つは、誠実な男とは付き合えないという事。
もう一つは、駄目な男に振り回されるという事。

この説明はすでにした。このような女性の言い分は「私って男運がなくて~」である。
違う。まともな男とは恋愛できないという性格上の問題である。
わざわざ駄目な男だけが近づけるように仕組んでいるのに気が付かないのである。

むろん、自分が駄目だと思っているから、駄目な男じゃないと愛せないという事でもある。
立派な人といると、自分が駄目であることが浮き彫りになるからだ。それは辛いことでも
ある。駄目な相手を選ぶのは、相手をバカにすることで自分の弱さから目を逸らせるからでもある。


さて、本題。(いままではなんだったのかって?)

私が思うに、昨今の男を草食系とよび、恋愛が成立しないことを男のせいにしてきた。
だが、私は多分に、女性の問題でもあるといいたいのだ。日本の環境下では、なんらかの
自己承認欲求が満たされない女性が多い気がするからだ。自分を肯定できない女性が
あんまりに多いのではないか? それを問題にしたい。

私の少ない経験からいえば、美形な女性たちはどこか心が歪んでいる。自己のありようを
持て余しているように見える。小さい頃からの周りの扱いによって、同性からのやっかみや
妬みなどを受け、それへの対処法として、小さくなるか、男に紛れようとする。どこか
受け入れられなかったという諦めがあり、それを克服するために、極端にふれている事が
多い。やたら良い子になってみたり、悪女になってみたり、男を使ってみたり、居場所を
同性内にみつけるのが難しいからなのだろう。結果、自己肯定感が下がってしまう。

一方で、適度な女性たちは、あからさまな依怙贔屓や優遇をみつけ、自分がそこに入り込めない
と気がつくと、諦め始める。そして、いじけてしまう事がままある。その心の歪みが外へ
向かうと、いじめや徒党になり、グループを形成し仲間という形で味方を囲い込もうとする。
一方で、内側に向かうと、深い悩みになりオタク的なものに走り始める。およそ不健全で
ある。

ただ、これらはおとなになるに連れバランスが図られ、自分の立ち位置がわかり、
自己を受け入れられるようになる。よって、大人の女性は自分を肯定できる。
ところが若い子たちは、それが難しいために、化粧やファッションなどに凝って、
着飾る事で、コンプレックスを解消したり、そうそうに男と付き合うことで、自己を
周りに認めさせようとする。このあたりで、かなり拗れるのではないかと思う。10代
後半あたりの事だ。

こうして、日本の女性において健全に若い頃をすごし、成人するのはかなり難しい
道なのではないかと思うのだ。どうにかすると、すぐに自己卑下するような自尊心の
低い人になりがちになる。なぜなら、みんなが互いに足を引っ張っているからだ。

全般において、日本女性の自己肯定感が低いとすると、先の恋愛問題につながる。
男子が草食系になったという話の裏側には、女性たちがまともな恋愛ができない状況に
あるとも言えるのではないか。そんな女性たちを脇目にみる男子が、女性たちに幻滅し、
3次元はどうもなあ、という感想を抱くのもあり得ることだろう。一方的に男子の未成熟さを
非難するのはおそらく間違えだ。

かつての日本では、自尊心の低い女性が良かったのだろう。男尊女卑の思想をもつ
オヤジたちが多いことを考えれば、自己肯定感が低く、旦那に付き従うことで生きる
女性が便利だったに違いない。しかし、それは恋愛という行為からみれば、不適当な
心的状況である。

女性が男性の所有物という感性はもはや昔になった。なってほしい。
そして、それに伴って必要なのは、自己肯定感を持つ自己である。それは男女に限らずだ。
とりわけ女性において、必要なのは自己肯定感である。誰かに選ばれなければならない
というような受動的スタンスでいては、いつまでも自己肯定しにくい。むしろ、
自分が選ぶという、自分で自分の事を決めるというスタイルでなければ、健全な恋愛など
できはしないのだ。

いいなとおもった男性からアプローチされてなぜ断る?自意識過剰ではないか?
また、しつこさは決して愛情の深さではない。それは執着であって、愛情ではない。
何度か誘って断られたら、誠実な男は去っていく。それが普通だ。そんなところで、
変な駆け引きをしない女性が増えてほしい。

また、きちんと誠実に振ってほしいと思う。相手が本気であればなおのこと。
そして、男の気持ちを利用しないでほしいと思う。そういう女性がいることで、
男はミソジニストになる。女性に復習しようとする男を生み出してしまう。
女性の自尊心の低さは、女性が被害者ズラするためにあるなら、別にかまわないが、
男を無用に傷つけ、誠実な男を減らすのはやはり加害なのではないか。

「自分を肯定してもいいんだよ」と私は若人に言いたいのだ。


最後に付け加えるとするならば、自己肯定感が低いのはもっと問題をはらむことがある。
ロジカルに言えば、自分のことを好きになったという相手を肯定できない問題である。


どういうことか。自分の事を嫌いだと思う人間は、究極的には誰も愛せないし、
愛されない。なぜか。それは、相手の好意を肯定できないからである。そして、
そんな相手の審美性を疑うからである。

自分が嫌いなものがあるとしよう。それを好きな異性がいたとして、どう思うだろうか。
それが食べ物や趣味なら大丈夫。しかし、それが自分であったらどうだろう。

自分が嫌いな人は、自分を好きになってくれる人の気持ちがわからない事になる。
だって、自分が嫌いなものに好意をむけている相手に賛同ができないからだ。
すると、せっかく自分の事を好きになってくれる人が現れても、原理的に、相手を
拒否することになる。そして、自分は、自分のことを好きになってくれない人を
いいなと思う事になる。

しかし、その相手は自分のことに興味がない。結果として、誰とも恋愛できない。
相手から好意を見せられると、その途端に、相手への興味を失ってしまう。
これが、自己肯定感が低い人間の問題点なのだ。

これは無意識的なものも含む。自分が好きだと言葉で言う人間であっても、
心の中で自分を嫌っていれば、同じことが起こる。

この自分嫌いの女性が、恋愛する場合があるとすれば、極端には2つしか無い。
一つは、相手を嫌いつつ、付き合う。相手の愛情だけが頼りであるが、自分は相手に
興味がないという状況だ。なぜ付き合うのか不明だが。。

もう一つは、一方的に相手に尽くす場合だ。女性性はその意味では役立つ。
男の方はそんなに好きではないが、アプローチされたからいいかくらいで、付き合う。
そういう関係性だ。性を担保に付き合いは持続できるが、満たされることはなかろう。
いずれ捨てられる可能性が高い。

結局、自己肯定感が低いのはやっかいなのだ。自分を卑下するのは、不幸を招き入れる
事である。なるべくなら、やめたほうが良いだろう。
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不可解なずれー男女の好みー [恋愛]


https://wired.jp/2011/12/09/do-nice-guys-finish-last/

いい人ほど、収入が低くなる。

残念ながら、そういうものだ。確かに、周りを見渡していい人は出世しない。
自分の取り分を烈しく主張する人こそが、競争的な状況下で強さを発揮する。

というわけで、悲しいかな、いい人は収入面では不利に立たされている。


これがどうして恋愛なのか?
それは、女性が男を見るときの尺度の一つが経済力だからだ。それは裏返せば
強さである。よく強引な男にほだされるという話があるが、これもまた一つの
男度を測る尺度になっている。

強引さを愛情と勘違いするのは、まさに上記の問題なのだ。
争いが起こった際に、自分の取り分を主張できそうという男は一般に頼れる人と
呼ばれることになる。だが、その争いに巻き込まれた人からみれば、そういう男は
ごちゃごちゃ煩いという人であり、感情的争いを引き起こす面倒な奴である。

いい人は、そういう人を相手にすると、やっかいなので、リソースの奪い合いが
起こったときは譲ってしまうものだ。それを女性目線でみれば、弱い人という事になる。


よって、こういう事が起こる。男からみて、優しくていい奴、そして信頼できるなという
タイプは、往々にして女性からみると、頼りなく男としての魅力に欠け、いまいちだなあ
という事になってしまうのだ。

そして、男からみて、自己中でどうにも信用ならんし、何かあるとがめついことをいう
奴だなあという男が、女性から見ると、強くて頼りがいのあるいい男という事になる。


だから、こと恋愛に限っていえば、男からみて性格悪いなという奴こそが女性にモテる
傾向にある。現代は、恋愛結婚を是としているので、女性は全般的に性格の悪い男に
群がる傾向となり、そこで結婚するわけだ。

結果は明らかだろう。そもそも性格が悪いのだから、結婚を続けていく上で、問題も多い。
約束を守らないとか、優しくないとか、自分の事しか考えないとか、そういう性格で
パートナーとうまく調整できる方がまれだろう。結果として、女性は苦労する事だろう。
でも、そういう男の方が、仕事はうまく行く。なぜなら、リソースを得る能力は高い
傾向だからだ。

収入は高いし、異性としての魅力はある。いかにも女性が好む傾向を持つけれど、
それがために、結婚という生活に関しては諍いが増えるといえる。結局、女性は我慢を
強いられることになる。

男から言わせてもらえば、そんな男を選んだからじゃないか?という事で、終わりなのだが。

じゃあ、性格良いけれど、収入が低くなる気心の良い男はどうか。
男としての魅力が低い彼らは、恋愛市場では不利になる。強引さにかける言動は女性にとって
弱さと映ることだろう。だから、なかなか相手が見つからない。

ただ、もしそういう頼りない男でも、まじめにコツコツやっている様を良しする女性が
現れたとき、結婚という事になろう。こういう女性はラッキーだと思う。
男からみても、いい奴だなあという人は、生活という上では、うまく調整ができることだろう。
ただし、何かトラブルが発生したときはこの限りではない。家族を守るという意味において
他者を蹴落としても、リソースを確保するという強さを欠いているがため、頼れないのだ。
その結果として、女性は我慢する事出てくる。そして、収入も期待できない。


これらは極端なケースである。実際にはこれらの傾向という事になる。6対4とか、
3対7とか、そういう感じでいい人具合がグラデーションしているわけだ。まあ程度問題
といえるだろう。男としては、女性に出来れば、いい人を選んで欲しいのだけど、
まあ、恋愛結婚に憧れている人は無理であろう。男からみてしょうがない奴がモテるという
のが、非常に不条理なのだが、そういう強引さがある男が存在するから、汚いことでも、
仕事が進むわけだ。

現実世界は不条理なことや、不本意なことで溢れている。ならば、不合理でも自分のところに
リソースを強引に確保できる男は、評価されることになる。嘘をついたり、騙したり、
そういう手段を選ばない事も、最終的には武器になる。それが生き物である限り、
しょうもない奴がモテる事になるのだ。


これは女性からみても同じに見えるらしい。
女性からみて、男に媚びるような女性は嫌われるわけだが、そうやって男をうまく利用できる
嫌な女性ほど、モテることになる。女性にとって、可愛い人というのは、男から見て魅力に
欠けるわけだ。だから、女性からみると、どうしてあんな子を選ぶんだろう?と思うことになる。
そして、もっと性格いい子がいるのに男ってバカだなあと。

つまり、まさにお互い様という事だ。
男は結局、分かり易い方がいい。だから、媚びてる女性にひっかかる。
女性は、強引な方がいい。だから、自己中心的な男にひっかかる。

なかなかどうしてうまくいかないものである。

マトリクス表現をしておこう。

   自己中心   他者中心
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
男  モテる    モテない

女  モテる    モテない
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

モテる同士だと、お互い自分勝手なので、続かない。
恋愛市場だと、男で他者中心の「いい人」は、相手にされず、
女性全体が、男の自己中心へとひきつけられるわけだ。

すると、一部の男が複数の女性からアプローチを受けることになる。
そうして、男はますます自己中心的になる。リソースをがめるタイプは、
浮気もするだろうし、約束も破るだろう。嘘もつく。目的のために手段を選ばずだ。

それなりの女性たちは、この市場において、男に幻滅する。そして、男って奴は
ひどい奴らだと認定する事になる。だが、まって欲しい。そういう男はむしろ少数で
どちらかといえば、いい奴の方が数が多いのだ。単に女性たちはそういう連中に興味が無い。

というわけで、女性たちに言いたいのは、男にひどいことをされて、男は酷いと
一般化しないで欲しいという事。そんな男は一部に過ぎない。そんな男をわざわざ
選んでいるだけと心得て欲しいわけだ。

一方で、いい人である男に言いたいのは、普段はともかく女性の前では、
自己中に振舞えばいいという事だ。つまり、お前は俺の女だという気概で挑めと。
そして、そのためなら身体を張る覚悟でいろと。女性が求めるのはそういう意味の
強引さなのだ。
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恋愛市場における容姿問題 [恋愛]

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=5343966&media_id=173&from=twitter&share_from=view_news

ものすごく秀逸な話だろう。
内容をざっくりいえば、美人が骨折して動けなくなり、10キロも太ったら、
あからさまに男たちの態度が変わり、その違いに驚いたという事。そして、
結局、見た目でしか判断されていないのだろうか?という疑問だ。

これに鴻上尚史氏がものすごく適切に回答している。
正直なところ、これ以上、私も述べることはあんまりない。
ぜひ読んでいただきたい。

蛇足ながら、少しだけ付け加えてみよう。


見た目なんて、という考えははっきりいって、事実から目を背けていると言える。
一方で、中身だけで勝負、という考えも極端だ。要するに、どちらもそれなりに大事である。

そして、恋愛において見た目はとても重要である。
それは致し方ない事だろう。なぜなら、生物は生殖行動の成功確率を最大化する。
そのために、見た目というファクタにて繁殖におけるフレーム問題を解いてきたのだ。

ちょっと考えれば分かるだろう。もし、見た目ではなく中身で相手をすべて判断しろというのなら、
とてつもなく時間がかかる。そもそもにおいて、沢山いるから判断を求められるわけで、
その判断のコストを下げるのが見た目なのだ。もし人がもっと少なければ、中身で判断も
良いのだろうし、実際にそういう相手を探すこともある。

日本では同調圧力がひどい。そのため、自分の彼氏や彼女がどうみられるかという事に
まるで無頓着というわけにもいかない。すると、自分の感性に正直に相手を探すだけでなく、
みんなにとっても素敵な相手を探そうとしてしまう。結果として、見た目に荷重がかかる。

見た目が重要なのは、何も自分にとってだけではない。それは子孫にとっても重要だ。
子孫に見た目がある割合で移譲されるのだから、その子の人生に大いに影響する。もし、
自分が見た目良く生まれたら、それは親に感謝すべきことであろう。

じゃあ、中身は不要なのか?いや違うだろう。むしろ、一緒に暮らす事を考えたら、
中身こそが重要であろう。中身は結局、長く付き合いを保てるかに関係する。結婚してしまえば、
見ためはさほど重要じゃなくなるのはそのためだ。むしろ健康であるかとか、甲斐性があるかとか
優しさがあるかが大事になる。

若くてかわいい子が、その見た目だけでモテているのなら、とても危険な兆候だろう。
ちやほやされているうちに、誰かを捕まえられれば、御の字かもしれない。
だがこれはトロフィーワイフという存在である。金や成功者が、見栄えの良い女性を妻に
迎えるというものだ。妻は若さを保つために様々な浪費に走る。老いを認められなくなる。
おそらくは、不幸な行動だろう。

鴻上氏が述べているように、いずれ若さは失われる。それは男でも女でも変わらない。
その時、果たして良き関係性を保持できるのか。それは中身の問題になる。
そういった関係性を築ける人になる。そこがいずれゴールになると理解しているかどうかは、
かなり大きな差になる。

この若い女性は、今回の事で、それを理解したことだろう。見た目による魅力はいずれ
失われる。ならば、中身を磨く事は必要になるのだ。


個人的な意見をのべさせて頂ければ、見た目はたいしたことがなくても
魅力的な女性はいるし、反対に見た目は良くても、接しにくい女性もいる。
どちらにしても、相性の問題が大きく、それは見た目と中身のバランスなのだろう。

ひとつ酷い事を述べれば、やはり全般的に、美人は性格が悪い(優しくない)。
一方で、顔が不自由な方も性格が悪い(ひねくれている)。極端なのは問題を引き起こす。
どちらも扱いに対してセンシティブになるからだ。

美人は努力しなくても異性をひきつける事が出来る(正確には、不細工よりは努力がいらない)。
そのためにどうしても思弁的な能力は下がる。不都合がなければ人間思考しないからだ。
相手は常に自分を欲していると考えがちになり横柄な態度がまかりとおる。
時に、自分より劣っていると思われる同姓が自分よりも、大切に扱われたりすると妬む
傾向がある。一方で、知らぬうちに好意を抱かれて、それをはじき返しているうちに、
冷たい印象をもたれたり、不意に気に入られないように努力が必要な場合がある。


一方で、不細工は、容姿による差別を受ける分、心がひねくれがちになる。自分を受け入れている
人は問題は無いのだが、どこか自分の理想とずれている人は、自分より容姿の良い人に嫉妬する。
時に、可愛い子や美人を攻撃する。自尊心が容姿へのコンプレックスで傷つけられているからだ。
その解消法が、美容への執着になったり、他者の足をひっぱる存在になったりする。

どちらにしても、問題なのは在るがゆえの葛藤と、無いがゆえの葛藤である。

私としては、むかしから言われているように「愛嬌」なのだと思う。
女性は、愛嬌があれば愛される。それほど外見が優れていなくても、情緒が安定していて、
笑顔の多い人は、幸せになっているように思う。それは一重に親の育て方や、兄弟との関係
などで決まってくるのだろう。小さい頃に自分を受け入れることを学べた人は幸福である。


見た目に恵まれた人も、そうでなかった人も、
どうせなら変な自己嫌悪や、自己卑下を互いにすることなく、自分を肯定し、
魅力的に人生をいきる術を身に着けたほうがいい。それは見た目や中身だけで解決は
しないのだ。自分に自信をもつ事が結局、大事なのだ。自分に自信があれば、見た目のことは
二の次、三の次だ。みかけで判断されようが、されなかろうが、気にしないでいられること
こそが一番の魅力になる。
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モテ欲求を満たすために。 [恋愛]

社会が求める能力が人生において変わりゆく事は明白である。
だが、それを理解している若者は限りなく少ない。
そして、それが女性における性選択の要因にもなるとわかっている男は更に少ない。
ここでは女性の恋愛視点の変遷をみていこう。

幼少期はとにかく見た目に左右される。
せいぜい身体能力が加味されるくらいだ。
中学くらいまではこれが主な要因となる。

次に学力だ。高校受験への準備がはじまると、
学業成績の良し悪しが性選択に紛れ込んでくる。
高校生では一つの要素をしめる。
そこでようやく性格とか人柄が注目される。

一方大学ともなると学業よりも「面白さ」や「ノリ」などが重要視され、
人間性の在り方が見られる。友人の多さや誠実さなども加味されてくる。

そして社会人。働き出すと途端に経済的要因が割り込んでくる。
どれくらい稼いでいるか。稼ぐ能力があるのか。これが問題視されるのだ。

つまり、外見に始まった恋愛ポイントは、最後は金で終わるのである。
もちろん、これは順番に起こるわけではない。またどれかがなくなるわけではない。
大人の女性はこれらすべての要素をひっくるめて、相手を選ぶのである。
その重視する要素は、周りの状況などで変化するわけだ。


小学生や中学生は、学校の成績など女性の眼中にはなかった。
ひたすらに外見や、運動が出来るなど、そういう事がモテるか否かを決めていた。
要素としては、ほぼ3つだ。

1.身体的魅力
2.運動能力
3.面白さ

これらが満たされる事がモテる事であった。
残念ながら、学業成績が注目されるのは、中学2年の後半くらいからだ。
また性格的な優しさとか誠実さなどは、ずっと後にならないと興味の対象にならない。
なぜなら付き合うという過程を経ていないからである。

よって、上記の要素をもった人々が恋愛市場において活躍する。
モテるか否かがスクールカーストを形成し、それが上下関係を作り出す。
中学の二年くらいまではこれでやってくるのだが、中学3年になると途端に変化する。
学業が大きなウェイトを占めてくるのだ。

成績が高校選択の大きなウェイトである。しかも得点は目にみえてしまう。
女性の一部は、頭の良さをモテ要素に加えてくるのである。
とはいえ、成績の良さによるカーストが出来上がるほどに、後発要素は強くない。
かつてのモテ要素が大きな幅を利かし続けるのである。

すると、ねじれ現象が出てくる。身体性や面白さでモテを得てきた人達は
急激に社会的な評価が下がるのである。とはいえ、モテてきたという自負がある。
負けを認められないのだ。このクロスする社会的評価基準によって中学は「荒れる」。

身体性と頭の良さを兼ね備えた人も一部には、いる。だが大抵は学業成績と身体性が
反比例する。なぜなら、モテていた人々は学業に興味を持つ動機を失っているからだ。
他者がちやほやするならば、なぜわざわざ学問的な事に興味をもつだろうか。知的好奇心とは
基本的な事柄を理解したところで生まれてくる。その前段階にあるとすれば、興味がないのは
仕方がない事だ。そして、そもそも仲間とダベる事に忙しい。

中学におけるこのクロスした価値観をどう克服するか。図らずも、勉強を全くしなかった
人々は異なる基準で勝負しようとする。それはより身体を使った手段、つまり非行に走る
事で、注目を集めようとする。悪事であっても、それによる注目が重要なのだ。よって、
ファッションは先鋭化し、言動は激しくなる。かつてのモテ要素をとがらせるとそうなる。
さらに道具を得ようとする。バイクや車である。身体性の拡張手段であるこれらの道具は、
彼らにとっての武器なのだ。

現代においてマイルドヤンキーと呼ばれる人々はこの価値観の元に生きている。
かつての身体性を元にした価値観に。彼らの身体は見栄えがする事が多いのは、
こういう事の結果である。この路線で金を得ようとすると、ガテン系などになるのだろう。
夜の仕事なども彼らが担う事が多い。

一方で、身体性をマッチョではなく、飾る方向に発散させるとどうなるか。
それがアパレル系である。ファッションという形で、モテる要素を拡張する。
優れた身体の持ち主である彼らにとってこれがハマっている事は間違えない。
近い方向性では、美容師であろうか。これは男に限らない傾向だろう。
美的なセンスがモテにつながっていた彼らは、それを生かして仕事をするのである。

面白さはどうだろうか。この要素は必ずしも成績とクロスしない。両方を兼ね備える
事は可能である。ただし、面白さを表現する手段として、言語を駆使するか身体を
駆使するかで異なる笑いとなる。身体を駆使した笑いはわかりやすい。だから幅広く受ける。
ただ、細かい事柄を伝えるのは非常に難しい。一方で、言語を駆使した笑いはバックグラウンド
を必要とする。共通知識が必要なのだ。つまり、面白さというモテ要素は、様々な
ファクターがあり、必ずしも学業とクロスするわけではないのだ。それは昨今、高学歴
芸人がいる事とも整合性がある。

男とは単純なもので、かつてのモテ時期をひきずって生きているのである。

では、学業成績が良かった人々はどうなるのか。
高校に入ると、学校成績は一度横並びになる。ここでは成績が一つのモテ要素になる。
加えて、実際に付き合うという事が本格的に始まる。すると女性たちは気が付く。
身体性や面白さだけではない、性格の良さというファクターに。

ここでうまくモテに乗れた男たちは救われただろう。
だが、ここに乗り様もなかった人々もいる。
彼等は建前としての学業に走る、もしくは引きこもる事になる。

大学になると話は一変する。
学力もさることながら、興味の対象も似通った人々が集まる。
ここでようやく恋愛がスタートすると、目出度く大学デビューとなる。

加えて社会人となれば、遂に金である。経済的な事柄が主たるパートナー選びの
ポイントとなってくる。

女性たちは、恋愛という場において、上記の身体性由来の特徴で男性を選んできた
のかもしれないが、結婚という市場において、別次元の尺度が入ってくるわけだ。
もちろん、高校時代に理解した性格というファクターもある。

ものすごく簡単に見れば、男性の行為は女性にモテるためという側面を持つ。
そしてどの要素が突出するかは、かつての成功体験に依存するという訳だ。


現実社会では学歴はものをいう。なぜなら大きな取引の仕事自は長期的目標に向かう
行動形態をとれる人材を欲しているからだ。学歴はその忍耐の証左である。そして、
抽象的な思考を構築するためには、ある程度の思考力が問われるからだ。その結果、
仕事における経済格差が付きやすい。

一般的に、高学歴を得る人材はモテにくい特質を持つ。逆にモテる人材は大きな
ビジネスに絡みにくいのだ。結果として経済力に差がつく事になる。
そしてそれがために女性は男性を選ぶ際に苦労することになる。

おそらく女性にも同様のことがあるだろう。
勉学に励んだ女子は、身体性を磨いてきた女子とは一線を画すことになる。
どちらも兼ね備えた人はまれであり、どちらかのウェートが高いかで関わる人間が決まる。

モテというファクターが、その人間に対する正のフィードバックをかけるのだ。
モテるための行為=その人が選んだ人生となるわけだ。どんなモテを求めるのか、
自分はどういうタイプなのか、考えてみてはどうだろうか?

合コンの妙ー世の不思議ー [恋愛]

合コンに行く。そして程よい子を見つけて付き合ったりする。
きっとそんなことを皆、夢想しているのだろう。

だが実際にそんなことが起こるのは非常にまれだ。
なぜなら、ある種の拘束条件が強いのが合コンだからだ。
それについて考察を試みようと思う。

まず、合コンと聞いて何を思うだろうか?
付き合いに飢えた男女が出会いの場を求めてあらぬ画策を抱く場であろうか。
それとも、異性をなんとか口説いてものにするというゲームだろうか。
人によって思惑は違えども、下心というものを否定する事は難しい。

異性にどうにか近づこうと画策する意図をもたずして合コンに出る理由が
あるとすれば、友情に基づく数合わせか、たまたま暇であったかくらいだろう。
そうして少なくとも、相対するときには、相手に少なからず、何らかの意図が
浮かび上がるだろう。それこそがここで問題とする意識である。これを
合コン感情とでも呼んでおこう。

さて、ここからどんな人が参加しているのかを考えてみる。
ただの飲み会ならいざ知らず、基本的に合コンは彼氏や彼女、もしくはセフレ、二股相手、
そういうものを求めてやってくる。そういう相手を探すということは、まず一義的に言える
のは、その人は普通にしていると相手が見つからない人たちということになる。

理由1:出会いがない。実際に回りに恋愛対象者がいない場合。恋愛対象者はいるが、
   気に入る要素がないなど。

理由2:相手にされてない。恋愛対象者がいるのだが、その人たちに相手にされない要素を
   持っている場合。

実はこのような理由にはもっと深いわけがある。フェミニストに総スカンを食いそう
であるが、ここでざっくりと2つのパラメータ性格と容姿を導入する。

         性格
      良い    悪い
容姿 良い Aグループ Bグループ
   悪い Cグループ Dグループ

結論から言えば、もっぱら合コンにくるのは、BグループかCグループがメインで
AグループやDグループではないということ。

まずはAグループを考えてみよう。性格が良くて容姿が良い子は、大抵すでに彼氏や
旦那がいる。当たり前である。身近な人たちが彼女たちを放っておくはずがないからだ。
とっくの昔に身近な人にアプローチされて一緒になっている決まっている。


Dグループは残念だけども、合コン自体に呼ばれない。人を惹きつける魅力に
かけるために、そういう場への参加が困難である。ごく少数派であろうが、
このグループが合コンをするのはちょっとつらい。

Cグループは、性格が良い。だから友達から信頼されていて、合コンという場に
呼んでもらえる。けれども、どこかで比較対象として誘われている間が否めない。
身近に良い人がいたとしても、なかなか相手にされないため、パートナーを求める
自体となる。そこで合コンへと繰り出すことになる。

Bグループ、ここは容姿はよいのだが、性格に癖がある場合。
彼女らは容姿のよさによって人をひきつける。だが、関係性が持続しない。
その理由は性格。相手を気遣うことなどにおいて問題があるために、
せっかく彼氏や旦那が出来ても、関係性を保つのが難しいのだ。
俗に言う恋多き女はこの範疇であろう。性格の悪さのために、別れを繰り返してしまう。
だが、その外見的魅力によって次の相手が見つかりやすいのだ。

出会いがないAグループもいるであろうが、不思議と勝手に相手がみつかるのが
Aグループである。まあクラスに数人はいるマドンナ的な人である。
性格がよいので、男を見るときも、容姿だけには囚われない。男の優しさや逞しさ
などによって選別し良さに着目するので、彼氏候補の幅は広めになる。そして男は
彼女の容姿と性格の良さに惹かれる。

もう少し考察してみよう。
合コンにおける出会いがうまくいくとすれば、それはCグループの人が程よく
受け入れられた場合だろう。それ以外にあり得るだろうか?

容姿が良いBグループ。普通に考えれば、身近に彼氏が出来るはずだ。
ではなぜ出来ないか?恋愛候補者がいても、性格に難ありとみられて避けられている
可能性。本人が身近な相手をはなから排除している可能性だ。
恋愛候補者に言い寄られても、理想が高い場合は相手にしないし、そんな態度に出られたら
言い寄る人もいなくなるだろう。結果として、身近に候補者いなくなる。これが
ここでいう性格の悪さという意味である。

そんな彼女らに言い分は、「いい男は大抵相手がいる」である。
むろん、そういう面もある。いい男がいれば周りの女子がほおって置かないだろう。
そして、性格の良い彼は、そのような中からめぼしい子を選ぶであろう。
Bグループの子をわざわざ「いい男」は選ばないのだ。

というわけで、Bグループはめぼしい男を探しに合コンへ行く。運よく見つけても、
性格のために関係維持が難しい。そうして次の合コンへと出かけてゆく、次こそはと。
その意味Bグループはなかなか苦しい。Bグループの容姿の良さに重きを置く男が
現れた時に落ち着けるのかもしれない。

性格の良いCグループ。その性格の良さは、身近な相手にこそ発揮される。それなのに
合コンというアウェイに乗り出すのはなぜか?もっとも単純なのは、周りに男がいない
場所にいるということだろう。残念ながらCグループの彼女らは、Bグループの引き立て
役になりがちだ。そうしてせっかくの性格の良さをアピールするまもなく、敗退してゆく。
だが、時にそういう部分を気にしない男が現れてうまくいくことがある。

そのためには、Cグループの子が合コンで相手を求めるときは、いつもよりやや積極的に
行くしかない。性格の良さを知ってもらうには、そばにいなければならない。その機会を
増やすしかあなたの魅力は伝わらない。だから、男から誘ってもらおうなどと楚々として
いても何も起こらないのである。大丈夫、あなた方は性格がよいのだから、少しくらい
強引にせまるくらいでちょうど良い。性格が災いして、好みの人がいるのに奥手になって
いては始まらないのだ。男から声をかけてもらえるなどと思えるほど容姿でアピール
出来ているかを自問する必要がある。

DグループはせめてCになるように、性格的な問題を減らす必要があろう。
まあ、蓼食う虫も好き好きなのだけれど。

Aグループは、大抵ほおって置いても、彼氏が出来るだろう。言い寄ってくれる男の
良さを認めるだけの性格の良さをもち合わせているためだ。時にAの人が合コンに来る
場合もあるだろうが、大抵は人数あわせである。断れないたちだったりする。


根本的なこととして、下心があると書いた。合コン感情である。
これはどこかで開き直りが必要だろう。自分をある意味で「陳列棚」に並べる行為である。
素直に育てられた人はそこに抵抗感を持つだろう。Aの人やCの人は、その感情のため
そもそも、あまり合コン自体に乗り気ではないだろう。そんなこと杞憂ではないか?
ならば、結婚式で出会いの理由を「知人の紹介」とするのはなぜか。合コンといわないのは
そこにある種の意味合いがあるからではなかろうか。

加えて、互いに「こいつは男(女)を求めてるんだろ?」という暗黙の仮定があるため、
どこか欺瞞がつきまとう。それが目的だから当たり前といえば当たり前なのだが、
その安易さがどこか興ざめを引き起こす。

さらに飲み会であるので、酒が入る。すると冷静な判断が落ちる。
相手を判断する理性も低下するし、一時の気の迷いということもある。

結局のところ、合コンはあんまり出会いの場として優れていないのだ。
Bグループにとっては悪くない選択肢であるが、残りのACDにとってはむしろアウェイで
ある。実際に合コンにでかけてゆくCグループは、合コン後に誰かから連絡がこないかと
そわそわするが、反応がなければがっかりするだろう。そうして、次だ次と積極的に
なるとすれば、それは合コン感情に対する麻痺であろうし、がっかりによって行かなく
事もあるだろう。どちらに転んでも心理的につらい。

それよりも多数を占めるCグループが相手を見つけるには、サークルのようなものが
良いのだろう。性格のよさは何かを一緒にやったときに始めて発揮される。それは
ハイキングのようなものでもいいし、BBQなどでもいい。相手と何度も関わること、
それが結果として、相手の気持ちに変化を与えるのだ。

今日もどこかで行われている合コン。良い出会いがあることを願ってやまない。

女ごころーサマセットモーム [恋愛]

女ごころは、男にはなかなかわからない物と相場が決まっている。
だが、このサマセットモームの小説はどうだろうか?
もし女性が共感できるのであれば、モームは女性心理の一旦を理解しているといえる。

以下、ネタばれを含むので、邦題「女ごころ」(Up at the Villa)を読む場合は留意されたい。







さて、本題の小説のあらすじは、とある英国出身の美しい未亡人がフィレンツェで暮らして
いるのだが、彼女がダンディな年上のイギリス人行政官に結婚を申し込まれる
所から、話はスタートする。この年上のダンディは父親の友人で、彼女は小さい頃から
何かと可愛がられてきた経緯があった。そんなダンディも彼女が未亡人となると、
いよいよ彼女に求婚したのであった。ところが彼女は彼を好きではあるものの、
結婚となると年齢的にも躊躇するものがあった。そこで彼が出張するという数日間
返事を保留することにした。

そこに遊び人が現れる。二人目の男だ。遊び人といっても、決してハンサムではないが、
どことなく女性を安心させる魅力を持つ男であって、数度の結婚・離婚歴があるという
設定である。彼は同世代であるが、彼の軽い感じが好ましくなく、彼女はこれといって
興味を持っていなかった。むろん彼はその気がある。ダンディにプロポーズされたことを
聞き出した彼は、彼女に同じくプロポーズを試みるが、まったく見向きもされないのであった。

そんな時、友人の夕食会に出ていった彼女は、一人の年下の青年と出会う。彼はヴァイオリン
弾きなのだが、決してうまいわけではなく日銭を稼ぐため無理にやっている演者だった。
実は彼は亡命者であって、戦火から逃れて海外で生活を送っているのであった。
その夕食会でもあまりうまくないヴァイオリンを弾いて帰って行った。

同じ夕食会に出ていた遊び人を車で送ったのち、寄り道をしたところで、ばったりと先ほどの
青年と出会う。そして「気まぐれ」によって彼女は青年を家に呼び、事に至ってしまう。
彼女の気まぐれは母性の発露だったのか、それとも本能であったのか、ともかく彼女は、
青年に対してある種の恵みを与えた気でいたのだった。そうして、青年に夢を与えたのだが、
彼女は非情にも言う。「もうあなたとは会わないでしょう。」なぜなら、ダンディと結婚し
インドに赴任するのについていくつもりなのだった。

所が、もう会えないと知った青年は、急転直下、天国から地獄に落とされたような気分になった。
なぜこんなことをしたのだと彼女に詰め寄る。そうして、もめているうちに彼は決意する。
彼女と居られないのであればと、彼女の持っていた拳銃で、自殺をしてしまうのだった。

これに動転した彼女は、ダンディには連絡が出来ないため、ふと思いついて遊び人に助けを
求める。遊び人は事態を把握したうえで、二人で協力して、青年の亡骸をなんとか山中へ
捨てる事に成功したのだった。遊び人はこのことは話すなと忠告して、去っていった。

出張から帰ったダンディに、彼女は罪の意識から、この数日の事の顛末を洗いざらい話した
のだった。そのダンディは彼女の話を受けて、ならばインド赴任を止めてリタイヤして
あなたと暮らすと提案した。公職に就く彼には彼女の行為を隠蔽したまま、職務を全う出来ない
と考えたからだ。

その途端、彼女は悟ってしまった。ああ、私はダンディと結婚したいのではないと。
彼女はダンディのプロポーズを断るのだった。そうして、遊び人の元へといくのであった。

これが女ごころのあらすじである。


簡単に言えば、美しい未亡人がいて、3人の異なるタイプの男性に迫られるという話である。
そうして、一番有得ないと感じていた遊び人の彼の元に収まるという筋である。
まあ、ありきたりのようであり、示唆に富んでいる話であろう。女心の不可思議さを
表しているという事なのだろうか。

女性の心理をどうこう言うつもりはない。それは私が男だからであって、如何に想像力を
働かせようとも、私には女性の真の気持ちは分からない。ただ、それでもわかることはある。
一つには女性は自分の行為を自己決定したという認識に乏しいものだという観念である。

自分の行為の主体が自己決定とどこか(男から見ると)不自然に乖離しているのだ。
頭で考えた事と行動がバラバラと言っても良い。もしくは言っている事とやっている事が
論理的に統一を見ないという事だ。

あの人は嫌な人。というような言明がどこまで徹頭徹尾、額面通りなのかは男は疑うべき
なのだろう。彼を嫌な人とすることで、自己を守っているのかもしれず、その言葉は
おそらく男ほどには重くないのである。そうしてそれに付随する義理人情というものに
それほど気を払わない。彼女らの行動原理は「自己が如何に快適な状態を保つか」である。
よって、さっきまで嫌っていた人物が、自己にとって有利な状況をこさえてくれると
わかった所で、急に態度が変更されるのだ。そして、彼女らにとって、男とはその手段で
あって、決して目的ではないのである。女性が惚れるとは、現状を指すのであって、
決して、それが決意であるとか守るべき信条とかに昇華されるわけではないのだ。

だからこそ、様々なシーンにおいて、彼女らは迷いを見せる。服を買う時、食事を選ぶとき、
その時の気持ちによって物事を決めようとする。決定する事で生まれてくる責任や行為の
主体感覚を避けようとするのだ。

女ごころの主人公であるメアリーも同様に、主体性を保持しない。だからこそ、ダンディへの
気持ちも、遊び人への気持ちも、青年への気持ちも、釈然としない。そうして、一番自分に
とって快適さをもたらす相手(遊び人)を受け入れるのである。なぜなら、それが彼女に
とって一番責任をとらない楽な選択肢だからである。

この物語の名前を女ごころにしたのは、なるほど、この女性の主体感覚の不可思議さを
表したかったのかもしれない。決して、フェミニストが起こるようなステレオタイプの
「女性ってこんなもんだよね」という意味合いではない。むしろ、こういうことが
起る不可思議さをモームは描写したかったかのだろう。
遊び人は彼女の責任をさらってくれた。その意味において魅力的なのだった。

自己決定に対する執拗なまでの回避はどこからくるのだろう?
自己決定に対する回避心理は、女性好みのものにも如実に表れる。
因果性を強く規定しない世界で生きる彼女らにとって、世界とは、流れるものであって、
自己が介入すべきものとして映っていないのではないか。ましてや行為によって事態が
好転すると信じてはいないのかもしれない。または、自己が介入することによって事態が
変わる事が恐ろしい事として感じられるのかもしれない。

希望はある。こうして欲しいやこうしたいという。ただ、それを自らが掴み取るという
行為には出られない。それを広義に社会性と呼ぶことが可能だろう。自己の主張を出す
という行為に対して徹底的に抑制がかけられているのが子女なのかもしれない。
そして、その希望とは心情や思想に基かないために、行為を一貫出来ないのだろう。
例えば、小さな損をして大きな得をとるというような行為は、彼女らの眼中にない。
なぜなら、小さな事象こそが彼女らの大事であって、小さな事象で得をしなければ
ならぬと信じているのである。それは行為を思索するにあたって、指針がまるで
変わってしまうであろう。だからこそ、目のまえの食事のどちらを選ぶかが一大事で
あり、その上で矛盾するかのように決定を回避したいのだから、決まるのに骨が
折れるというものだ。

流れとしての世界認識は、たとえば、占い好きが女性に多い事もその証拠となろう。
占いというのは、自己の決定に無関係に向こうからやってくるものである。大きな
物事の流れは受け入れるしかないとしたら、せめてそれが良い物かどうかを知りたくなる。
その心理が女性の占い好きにつながるのだろう。それは自己決定の影響を恐れる心理が
そうさせるのだろう。

実際に、世の中は自己決定する事で自体が大きく変化することは少ない。
むしろ男はその自分の無力さに絶望する側面を持つ。一方で、女性は自己決定という事を
過剰に見積もっている。だから、責任を回避したいし、それを肩代わりしてくれる人を
求める。それが彼女らにとっての社会性なのだろう。目の前にある食べ物を独り占めしたら
その後彼女は群れに居られなくなるだろう。そのような協力体制を強いられてきた霊長類
のメスにとって、自己決定的行為とは、両刃の剣になってしまうのだ。自己主張は
命とりであると遺伝子が叫んでいるのかもしれない。

さて、女ごころに戻ろう。彼女は最終的に遊び人を選んだ。おそらくスペック言えば、
ダンディを選ぶのが答えだろう。だが、女心にもプライドがある。彼女のとった行為に
対して仕事を放棄するという言明は、彼女に責任を強く押し付ける行為である。むろん、
男がそのような意図は皆無であるのだけど、彼女にそう映るのだ。そして、彼女は、
ダンディが自分に対して無垢な子女という側面において愛していたことを理解する。
彼女は、ダンディが求める人ではなくなったという事実と、自己が欲するのは、まさに
今の私を受け入れてくれる人であるべきという思いが交錯した時、ダンディを選ぶ
理由は霧散した。

女性特有の同情がある。それは母性につながる重要な感情だろう。可哀そうなものに手を
差し伸べるとは、その行為がもたらす幸福感と自己の効力感を大きくさせるのだろう。
時にどうしようもない男を養う女性がいる。つまりヒモであるが、その存在を実現させる
のは「母性」なのだろう。この人は私がいないとダメだという気持ちである。

逆の見方をすれば、この同情は非常に利己的である。考えても見ればよい。
その人を助けるのは誰でも良いのだ。あなたである必要は全くない。どうして、そのような
意識を抱くかと言えば、容易い自己決定で在り得るからである。ヒトはどこかで、コントロール
したい、支配したいという欲があるようだ。人助けという行為は、大義を名分を持つ。
その大義名分によって、相手をどうにかするというのは、さぞ気持ちが良かろう。
そして、その建て前によって、本質である自己が他者に影響を与えるという部分を
カモフラージュできるのである。

つまり、女性の同情を額面通りヒューマニティとして理解してはならぬということである。
女性の行動原理は、「自己の状態を快適に保つ」であった。少なくとも同情という行為は、
社会的な肯定がある。そして、自己に快楽を与えてくれる行為となる。自己決定しても、
それを咎められることは稀である。つまり責任回避可能な行為の一つなのである。
ならば、進んで行うであろう。それも、自己決定に関して抑圧の強い状況下におかれている
女性であれば、なおさらである。

この感情は、実は有益である。とりわけ子育てにおいて有益なのだ。子育てとは、同情的
行為の延長にある。子供が問答無動で可愛いということもあろう。だが、子育てにおける
心理的中核は、自己が無尽蔵に頼られるという自己効力感の増大でもある。つまり、自己に
責任はない。なぜなら、他者が求めるからであると、大手を振って言えるのだ。それでいて
他者をコントロール下に置くことが出来る。それがどれほど快楽であろうか。
もちろん、すぐに子供は自立を求めるようになる。そこに生き物としての駆け引きがある。
母親が偉大なのは、無償の愛であるが、そこに「ミソ」があるのだと主張したい。

青年はなぜ悲劇を迎えたのだろうか。それは女性特有の同情心の発露だったからだろう。
男の気持ちを揺さぶる事がどれほど意味をもつを持っているのかわからぬ女性は多い。
それは女性は、その瞬間の快適さを求めるからである。男は信条を生み出す。それを
ロマンと呼んでも良い。その幻想が性衝動を高めるからである。

このメアリーは、青年の中に信条を作りだしたのだが、それを突然放棄させようとする
わけだ。男の信条は若ければその思い込みは強固である。それを裏切った彼女に対する
復讐としての自殺であった。その自殺が彼女の脳裏に残り続けるという意味において、
復讐なのである。青年がその場で思いつく限りのあがきであったのだろう。
女性はこのシーンにおいて、なぜ自殺をしたのか理解できないかもしれない。
それが男心の中核なのだから。

さて、かくして美しき未亡人メアリーは遊び人を受け入れた。それはある意味で、
メアリーにぴったりとする人物であったろう。なぜなら遊び人は、女性心理に敏い。
それこそが、典型的女性であるメアリにとって男に求めるところだからである。

この結末をもって、男は「やっぱり女性ってこんなもんだよな」とぼやくのであった。

恋愛至上主義ーその欠陥ー [恋愛]

恋愛をするということが当たり前かのようになっている現代。
ちょっと考えを変えてみよう。

サッカーをするということはだいぶ当たり前になっているが、
それでも、サッカーを趣味としていない人にとっては、
それは単なる行動の1つの選択肢に過ぎないであろう。

別段、サッカーをするために資格が必要なわけでもなく、
やれば面白いのがスポーツであるけれど、それ以上でもそれ以下でもない。
誰かがいないと出来ないということくらいである。

こんな思考実験をしてみる。
「サッカーをしなければ結婚できない。」という命題が真だとする世界を想定しよう。
すると、一部の得意な人は、それこそ多くの結婚機会ないしは出会いに恵まれ、
一部の不得意もしくは苦手な人は、結婚できない事になる。

苦手な人は練習すればうまくなるよと言われてしまうために、
ひとまず、やってはみるが、どうもうまくない。それを努力することで
なんとか人並みに出来るようになることもあるだろう。

とはいえ、得意な人からみれば、不器用この上ないわけである。
この手の事は、得意な人、つまりそのようなことが好きな人は、
経験を積んで益々うまくなるし、不器用な人は避けて通ろうとするため、
益々、不得手に磨きがかかる事になる。

結果、サッカーが得意でないために結婚が出来ないわけだ。

さて、ここで、サッカーを恋愛に置き換えれば良い。
「恋愛をしなければ結婚が出来ない」という命題は現代社会ではかなり真に近い。
かつてほど、政略結婚もなければ、お見合いも減った。むろん、今では結婚斡旋
サービスがあり、そういう形で結婚を真剣に考えている人々もいる。ただ多くの
場合においては、恋愛至上主義による幻想と、そのルート以外が見出しにくい
時代になっている。

では恋愛をすればいいじゃないか?簡単にいうが、よくよく考えて欲しい。
好きになる人はそんなに多くないのではないか?そして、その好きになった人が
自分も好きになってくれる確率はもっと低いだろう。よって恋愛を経てからの
結婚というは、半分以上の人にとってハードルが高い事になる。

さて、そもそも結婚という形態を考えないとしたらどうなるか?
それは、トドの群れと同じようになるかもしれない。
トドはオスがハーレムを形成する。一匹のオスが数十頭のメスを囲ってしまうのだ。
むろん、それが子孫を強くする因子になるわけだが、そうすると多くのオスは
不満を抱えて生きてゆくことになる。

恋愛というものの活動素地が作られるのは、当然思春期である。
多くの人が少なからず、誰かを好きになって、その思いを遂げられずに切ない思いを
した事だろう。そういう喪失体験が人を変えてゆくため、それが悪いわけではないが、
その時の体験が強く残るとその後の人生に影響を与えることになる。

中学、高校生くらいの恋愛事情であれば、紛れもなく「スクールカースト」があった。
男文化としては、大まかにオラオラのヤンキー系か、大人しめの有象無象となる。
(ここではスポーツが出来る等のリア充もヤンキー系列とする)
そして、その末端にオタクの人々がいる。この場合に恋愛に参加するのはヤンキー系である。
女子の可愛い子は大体がヤンキー系と絡むし、そこに人気が集中する事になる。
つまり、男子の大多数は、モテない自分という自己像との葛藤に苦しむことになる。

逆に、男子が好む女性は、同じくノリの良いヤンキー系か、清楚なお嬢様系か、
スポーツが出来る運動系、など方向性がいろいろあるものの、結局のところ、可愛いか
どうか、美人かどうかという造詣がモノを言う事になる。

すると、恋愛という競技には、主にスクールカーストの上位の男女たちと、残りの女性たちが
主に参加し、大多数の男は範疇外に追いやられることになる。トドの群れにまあ似てるわけだ。
この現象はひとえに、若すぎるがゆえの事である。

女性の男を判定する手段は、大きく二点だ。一つは造形、もう一つは能力つまり金だ。
学生時代は金を稼ぐという面に関して、まったく推し量れない状況下にある。少なくとも
学生が金儲けをすることは社会的に推奨されていない。すると、女性の判断材料は男の
身体性に特化してくるわけだ。これが若者をトド化させる要因である。
顔が良いもしくは、スポーツが出来るという事が大きな要因となる。むろん勉強が出来る
という事が金儲けにつながる能力の発露なのだが、幼い女子たちは、そこに気が付かない
のだ。奇特な女子だけが勉強が出来るという事を強く評価する事になる。

この時に、大体数の男、6割から7割の男は、恋愛市場からあぶれる。
これを小学校は置いとくとしても、中高と、6年間みっちりやられたらどうなるか。
6年間もの間(つまりこの時点での人生の3分の1)恋愛市場から、はじかれていたら、
当然ながら考えが歪んでしまう事になる。経験がなければ、方法が未知となるし、
経験がなければ、経験値のいささかある女子にとっては不甲斐ない男として映るだろう。
これが、現在の二次元やアイドル人気への伏線となる。

むろん逆もある。女性たちは女性であるというだけで恋愛市場への参入が許されているが、
それでも、数の違いがある。モテる男たちも、当然可愛い子が良いので、そちらに流れて
しまい、むなしい想いをする女子もたくさんいる。そこで彼らの目がその他大勢の男子へ
向かうかと思いきや、アイドルや二次元に移行するのである。

つまりスクールカーストにおける恋愛事情に対する「嫉妬」があるのだ。
自分もあんな可愛い子といちゃいちゃしたいという思いや、あんなかっこいい人と
恋愛したいという思いである。それが脳内恋愛を育む土台となってゆくわけだ。
それがため、大勢の群である人々は「妥協」することには興味を失い、偶像へと
想いを馳せる事になるのだ。

さて、一つ朗報なのは、ヤンキー系の男子は大方頭が悪いこと。少なくとも大学に行って
というパターンは多くない。すると、大学ではその他大勢およびオタク系の男が活躍できる
素地が出てくるわけだ。いわゆる大学デビューである。これでうまく変われる男もいる。
だが、そもそも不器用な彼らは方法がわからないため、それなりに経験のある女子への
対処法がわからない。むしろ、彼女らを怖いとすら思うのである。二次元の脳内女子たちを
相手にしてきた彼らにとって、三次元はもっと生々しい。そこにある種の認知的不協和が
起こる。可愛いあの子に近づきたいが、可愛いあの子は「汚れている」という感覚である。

男のナイーブな感情を傷つけないようにアイドルは虚飾されている。つまり、男関係の
隠蔽である。よってかのA〇Bの団体のように、恋愛禁止という文脈が必要不可欠となるのだ。

さて、大学に入り、そこで大学デビューに失敗した男どもにはまだ次のステージがある。
それは就職である。勉強が出来るという能力が、金の生成につながりだすと、
今度は女の目が変わり始める。社会に出た女性たちの多くは、見かけの良さが金を生む
能力と相関しない事を目の当たりにするのだ。そして金儲けの能力には、勉強が出来ると
いうものや、オタクらのように多くの知識があるという事が大きく影響を与えるわけだ。
社会人となった女性たちにとって、仕事が出来るという能力が大きな価値となってくる。

恋愛至上主義では、恋愛後の結婚が想定されていた。ぱっとしない男も仕事が出来れば
女性に認めてもらえる事がわかってくるのだが、何しろ、だいぶ恋愛から遠い。女性から
みれば仕事は出来るし、性格も処し易いのでよろしいのだが、恋愛にならないのだ。
なぜなら、男は恋愛に不器用で在り続けたからである。これが昨今の「草食」の一部である。
なんだか残念。

もっと残念なのは、この能力を金に変換することにうまく乗れなかった人々である。
つまりは非正規社員の男たちだ。おおまかに3割程度いるはずだ。この人たちは卑屈となる。
外見上ぱっとしない上に、自己能力をうまく金儲けにつなげられない。これでは女性たちに
認めてもらうのは難しくなる。そんな自分をうまく肯定できない事が一番の問題である。
これは時代背景と社会問題であって、全部が本人の問題ではないのだが、それでもと
考えてしまう人々である。

こうして、恋愛至上主義は、結婚できない(しない)男どもを生成する一端を担う事になった。
実質上の草食とやさぐれた草食がいるわけだ。

では、どうしたらよいか?
この問題の元凶は、女性の男性への視線だろう。女性は一般に男性への評価を
身体に特化した評価基準から、金銭(能力)への評価基準に変更してゆく。
これがナチュラルな現代女性の思考法だが、もう少し早い段階で、能力への評価を
高めてあげる事で、少し状況が緩和されないだろうか?

学校にいると、勉強が出来るという事が明に正当化されているために、
勉強ができるという価値で男を判断する事に強い躊躇いが生じている。
勉強が出来るを評価基準とすると、「世間」に阿っている印象なのだ。
もちろん、そんなのはただの幻想にすぎないのだが。そして、自分も
勉強しなければならないので、それがある意味では自己否定にも働く。
なかなか自分以外の人を一つの価値基準で褒めるのは困難だろう。

例えば、世相的に勉強が出来ることをもっと価値能力として見なす風潮が合っても良いのでは
なかろうか。現代は、そこを敢えて隠蔽することで、歪んだ形で勉強への意欲が殺がれている。
つまりは悪平等である。出来る子は、出来る能力に合わせて勉強すれば良いのではないか。
これが一般的になれば、女子はこれらの子たちにも目を向けるだろう。それは、恋愛経験を
増やす方向へ向かわせるだろう。

ばかげているのだが、子どもにとって、ましてや女児にとって、周りの評価は大きなウェイト
占めるからである。そして、その女児の評価が男の自己評価に影響を与えているからだ。
たかが恋愛、されど恋愛である。生き物である限り、文化は影響をもたらす。

もっとこれらを推し進めていけば、別に勉強の能力だけをモテの対象にしなくても良いだろう。
いろんな能力、例えば、他者を思いやれる能力でもいい、みんなをまとめる能力でもいい、
いつも機嫌が良いという能力でもいい、多様な対象に対するモテをもっと肯定すれば、
男子たちの性根が捻じ曲がらなくても良くなるはずなのだ。

これはとどのつまり、世相の問題でもある。子供らの価値観は親の価値観の真似である。
つまりは、親の価値観が回り巡って子供らの心的なねじれを生んでいるのだ。
いろんな能力を肯定的に捉えるならば、どうして、恋愛カーストなど生まれる事があり得るか?

生物である限り、性選択は仕方がない。とはいえ、現代を素直に考察するなら、
草食を作り出しているのは、あなた方全員の仕業であることをお忘れなくと言いたかったのである。

心の機微ー男と女ー [恋愛]

他人から気持ちを類推されて「可哀そうに」とか「良かったね」と言われることが
どことなく嫌だった。それが合っていても、違っていても、反応に困るからだ。

他者が自分に向ける共調行為は嬉しくもあり、嫌でもある。
それは自分を理解してもらいたいという気持ちと、そんな簡単に理解されてたまるかという
気持ちの表れである。他者がどのように自分を思っているかが表現される時、人は一番
人柄が出るのかもしれない。

このような心の機微を捉えるのは女性のうまいと言われている。その女性たちは、
男性の心の機微を捉えているつもりになっていることが多い。他者を理解する時は、
自己を投影する。だが、男と女は違うため、投影が誤解を招いている場合は多い。

どうしてすぐに連絡しないのか?なぜ、もっと頻繁に連絡してくれないのか?と
悩む女性は多い。その裏側には(自分なら)連絡するのに、(自分なら)会いに行くのに
というカッコ付きの考えがあるからである。男からしてみれば、それを「我儘」という
言葉に置き換えてしまうのだ。なぜなら、(自分なら)気にしないのにと思っている
からである。つまり男の心を女性は類推可能と思っているだが、実の所、それほど
うまく類推出来ないということだ。

これは男性が女性を類推する場合も一緒である。女性の「どっちが似合う?」にうまく
答えられず、髪型が変わっても気が付かないのは、単純に男性がそのような事にリソース
割かないからである。どっちが似合うのかは自分で決めるし、髪型を変えたは自分の
気分の問題で、他人にどうこう言われることと関係ないからである。

よって、「相手の立場にたって考える」とは大事であるが、類推はあくまで類推に
過ぎない事を忘れてはならない。当然、誤解しているかもしれないと思っておく必要がある。
これをわかっているかどうかは、とても大事な事で、人生における真理の一つと言える。

さて、これから少し離れるが、私がいつも不安になるエピソードをあげる。
それは、女性たちが「あの人はいつも気が利く人ですね」と噂をする時である。
とある男性が誰かに対してわかりやすいサービスをする場合だ。
例えば、まめに連絡をとるとか、人の顔を見てひと声かけるとか、進んで
人が避けるようなことをやるとか、面白がらせるためにバカをしてみるとかである。

男から見ると、あれは気が利くという行為というより、見栄を張ったのか、
受けを狙ってやっているのか、ちょっとした意図を感じさせる行為に見えたりする。
一方で、それを女性たちが褒めているわけである。つまり、その行為が異性に奨励された
瞬間なのだが、すると、自分はどう思われているか?と跳ね返るのである。

自分としては、受けを狙うような、そのような行為を行う気はない。
だが、そのような行為を行う男性を女性は好意的に受けて止めている。
このような時、素直に、そのような行為を行う男がいわゆるモテる男であろう。
逆に、私のような自分が求めない行為を他者の願望にそって行うことを是としない
男はいわゆるモテない男であり、気が利かない男となる。

当然、モテないよりモテる方がいいので、その行為をすればいいだけであるが、
これが案外難しい。例えば、粋の良い青年が粗雑な振る舞いをすると、カッコいいと
なるが、素朴な男がやると、バカに見えたりするからだ。受けをとる行為も同じである。
似合う人と、似あわない人がいる。キムタクなら許されるが、アンガールズの田中では
許されない行為が間違えなくある。

つまり、特定の行為には、それをしても良い人と、してもダメな人がいることになる。
自分の特性が、その行為の評価を分けることになるのだ。
だから、そのような行為が女性たちに受けることがわかっていても、やらないことが
当然あるし、それが自分の「持ち場」ではないと理解できている。

ところが、女性たちはその行為を見て「彼は気が利く」とか「素敵である」などという。
そしてそのような行為をしない男たちを見て、わからないのだろうとか、気が利かないとか
評価する。だが多くの場合、そうではない。多くの男性が、「柄でもないからやらない」
という態度をとっているに過ぎないのだ。

かくして、女性たちは、受けの良い男性たちに群がり、実直な男性たちを敬遠する。
それはあたりまえであるが、女性たちこそがそのような行為を助長させていることも
理解してほしいものである。受けが良かった男はそれを繰り返し、受けが悪かった男は
それをしなくなる。ただそれだけのことである。

よって、女性たちが「彼は気が利く」と言って評価するのは構わないけれども、
それは彼の優しさの表れというよりも、彼の扱われ方に依存している行為なのだ。
だから、それを優しさと勘違いした女性がよく「だまされた」というのである。

男からみれば、それはだましでもなんでもない、ただの行為に過ぎない。
それが男性の性格を反映しているわけではないと気が付く。単なる習慣でやっている
男はまだしも、それが受けると知っていてやっている男は、ふつう性悪というのである。

というわけで、このような女性が下す男性評価には疑問を抱かざるを得ないのだけれども
女性はだまされたとしても、そのような行為を求めているのだろうし、それをする
男性が良いと思うのだから仕方ないのである。そして、自分はこのような考えの元、
結局、モテ行為を行わない「こじらせ男」なのであるが、それは気が利かないのではなく、
気がついてもやらないという考えがあることをお知らせしたいのである。

きっと、世間の「こじらせ女子」とはこのような心の機微の持ち主たちなのだろう。
男性受けを狙う女性をこき下ろすタイプの女性たちである。批判まではしなくても、
男性受けがわかる女性を「性格が悪い」と表現する人たちである。つまり、その行為が
男性に受けるとわかっているにも関わらず、プライドのためか、自身のアイデンティティ
によるのか、それらの行為を行わない、もしくは行えない人たちである。
そして、男性受けする女性と仲良くなる男を見て「わかってない」と思っている。

これは「こじらせ男」と全く同じ心境である。男からみても、どうして女性たちは、
あのような軽薄な男がいいと思うんだろうか?と考えてしまうのである。

そして不思議なのは、そのような「こじらせ女子」に限って、女性受けを狙う男性に
焦がれているように見えるのはなぜだろうか?自分にはない特性を持つということで
惹かれるのだろうか?

男女で価値観が違うとは既に述べた。だが、一方で「こじらせ」のように
同様の価値観も存在する。このような心の機微が女性だけでなく、男性にも
当然あると考える。これが「相手の立場に立って考える」の効能なのだ。

受け入れることー男女の差ー [恋愛]

受け入れることはかなり難しいと思った方がいいのかもしれない。

相手から期待されることがある。些細なことであっても相手にはそれが大事な場合もある。
ところが自分にとってはどうでもいい場合もある。するとそこに溝が生まれる。
大したことではない。つまらない話に相槌を打つことであったり、一緒に喜んで
あげることであったり、時には一緒に泣いてあげることだ。

だが、根本的に同意できないこともある。同じことを見ても喜んだりできなかったり、
楽しいと思えない場合もある。それからつまらない話だって、そう長いこと聞いては
いられない。時には「はいはい」と流そうとすることもある。

もちろん、個人的には出来る範囲で相手に合わせようと思っている。
ところが出来ないこともある。どーにもしようがない。
出来ないことをもってして「やっぱりそうなのか」といわれると切ない気持ちになる。
きっと問題は出来ないことではなくて、出来なくてもいいと思ってくれないことにある。

感情まで合わせるのは難しい。こちらが興味のない話になれば、やはり退屈なため、
取り繕ってもどうしても表情や態度に出る。感情を合わせるのは価値観の差なのだと
思うから、致し方ないことが多いと思うのだが、どうも女性は感情を合わせることを
求めているように見える。

男は論理を合わせようとする。考えの根本に据えるものがロジックなので、
ロジックが変更されれば合わせることは不可能ではない。なぜならロジックはその中心核が
後天的に形成されるからだ。よって中心核を揺るがすことでロジックを変更するということ
が、新入社員など新規参入者に対してよく行われる。それが「みそぎ」研修である。

一方で、女性は感情を合わせようとする。男は自分の感情を相手と同じにして共感
しようとはしない。少なくとも個人的には無理までして共感しようと試みない。だから
といって、相手の感情がわからないということではない。単純に相手と同じように
ふるまわないだけである。だが、女性は感情を合わせることが直ちに共感と思っていて、
その感情は肉体で表現しないといけないと思っているらしい。ここに大きな違いがある。

よって、女性が感情による共感を求めているときに、男がロジックによる共感をした
ところで女性が満足することはないのである。女性は男が同様の感情を示すリアクションを
求めているのだ。

「へぇ」「そうなんだ」「すごいね」というリアクションでモテるという石田純一は、
その意味で女性をよくわかっているのである。これを心からできるとすれば、
それは卓越した能力であり、特殊能力だと思う。

自分の気持ちを変化させて相手に共感するというのは、女性の得意とする能力であると
言いたくなるのだがどうなのだろうか。いやせんじ詰めれば、女性はその「演技」が
卓越しているといえるのではないか。

男同士の場合、コミュニケーションにおいて相手の感情が同調することは主たる目的ではない。
むしろ、感情の同調が強い人をみると、困った感がある。誰かが感情的になっても、
それに全員がつられていては組織がおかしくなるからだろう。おそらくそういう感情の同調は
ほどほどになるように変化してきたはずである。狩りや戦争に出かけて、相手を傷つけたら
かわいそうだとあまりに感情的になる男は、やられてしまう可能性が高かったに違いない。

女性同士の場合、コミュニケーションにおいて誰かの心情を慮ることが重要だったはずだ。
それは子育てにも通じる能力であるし、そもそもにおいて、男抜きの共同作業があったからだ。
その際には、誰がどういう心情でいるのかを見積もる能力はうまく立ち回るために必要な
能力であったに違いない。

当然であるが、男だって共感能力の高い人もいる。女性だって共感能力が低い人もいる。
だから男と女と分けることは正確な描写ではないことは注意が必要だ。

女性が要求することに答えない男性は少なくない。どーしても生返事をしてしまうし、
相手に向き合うことを避けることがある。それは相手をないがしろしているというより、
単に興味ない話題であったり、意見が食い違うと感じていることだったりするからだ。

だが、女性はどうも全面的に賛同してほしいという欲求があるように思われる。
これをもって男は女性の幼児性としてしまうことが多いのだが、現代女性はこの
幼児性を客観視できないでいる。そして男に過大な要求をつきつけ続けるのである。

女性に言いたいのは、男と女は違うということであり、違うから面白いということである。
一番違っていいのは、感情だと思っている男は多い。相手と同じ感情を生成することを
相手への理解だと了解しない。むしろ、相手と同じ感情になって理解する男を気持ち悪い
とすら思うものだ。自らの感情を相手と同じ状態することは本質的ではないはずなのだ。

女性が満足する共感のスタイルは、およそ男には共感ではないというのが事の問題である。
感情を同じにする努力を払うことはしないのである。だがそれは女性の怒りをかうのである。

女性に訴えたいのは、そこで怒ったとしても、男は行動を修正しないということだ。
決して、言いたいことがわからないわけではない。女性の訴えが間違っているとも思わないが、
それに従いたいとはまるで考えないのである。なぜならそれが男を形成する性質の一つだからだ。

相手の感情を自分の中に取り込んで再生するということは、男が生きる上では足かせになる
のである。政治的に成功する男は、相手への共感を断ち切ることができる必要性がある。
なぜなら、政治的というのは、得をするために誰かを犠牲にするという意味だからである。
世の中は、そのような政治的な人物でなければ、出世しないようにできているのである。

さて個人的な見解として、女性の方々のお怒りをかうことを承知でいうのであれば、
とどのつまり、女性の話の内容がつまらないのである。少なくとも、男にとって
つまらないということである。いや私にとってつまらないのである。それに素直な
反応を返すと怒りをかうというわけだ。逆に言わせてもらえば、自分が本当に興味が
あることを女性に話すことは滅多にない。なぜなら、つまらないと思われるのが
よくわかるからである。だから相手を選んで話をすることになる。

私をつまらない男と思う人も多いと思う。その一方で、面白いという人もいる。
結局、誰かにとってつまらないことでなければ、誰かにとって面白いと思えない
のかもしれない。女性が男のつまらない話に付き合わないのであれば、男も
女性のつまらない話に付き合わないだけである。それはお互い様である。

つまらない話を聞かされているときに、どう対処するのか?
1、つまらなくてもできるだけ共感してあげるようにする。(演技含む)
2、つまらないと正直に言う。(角がたつから、「よくわからないんだけど?」くらいに)
3、つまらない話は聞かない。(よく男がする方法、問題が大きくなることが多い)
4、うまく誘導して、面白い話へと持っていく。(かなりのテクニック)

結局、相手の話がつまらないことへどう対処するか、
きっとそのあたりに適切な解答がないということであり、
うまく立ちまわるしかないということだ。

それにしても、多くの女性は自分の話が男にとってつまらないのだという自覚を
なぜ持たないんだろうか?それをなぜ男の方のせいにしたがるのだろうか?
このあたりに女性がはやく気が付いてくれればいいと思う。

そんな風にいうのであれば、指摘してくれればと思うかもしれないが、
男からつまらないといわれないのは、それが問題を引き起こすと知っているからであり、
女性から、つまらないといわれないのは、その話が女性向けだからで案外に面白いのだろう。

女性の話がつまらないと思う男性は少なくない。そして指摘しない男も少なくない。
だから、女性が男に何かを話して反応が薄かったら、それは興味がないと思ってほしいのである。

なぜ、女性がそのことに腹を立てるのかは、今までの扱われ方の問題なのだと思う。
幼少時より、大事に育てられた女性は、相手からつまらないから話を聞かないという対応の
されかたはしなかったはずである。それが、特定の男性(私を含む)は、つまらないと
思うのであり、それを態度に出すということなのだ。もちろん相手の感情を考えて、
つまらないとは言いにくい。だから、生返事をすることになる。だが、女性はそれを
ぞんざいな扱いであると判断する。そして、男性を責めるのである。

さらにやっかいなのは、大事に思ってくれているなら、つまらない話も聞いてくれるはず
であると考えていることだ。つまらない話を聞いてくれることが大事に思っているという
証拠としてみる女性が多いということなのである。当たり前のことほど忘れられやすい。
話がつまらないから、興味を示さないという誰でもわかっているルールがなぜかどこかに
言ってしまうのである。それを愛情というもので補えると思っている節がある。それは
本質的に無関係ではないだろうか。

よりやっかいなのは、こうやって書くと、イジケてしまう女性いて、じゃあ、私の
つまんない話は聞かないということなんだねと断定してしまう人がいる。そしてあんた
なんてキライだと吐き捨てる人がいる。男は決して全部を否定したわけではない。内容によって
は興味を持つものもあるし、相手が嫌いだから話を聞かないわけではないのである。
女性のAll or Nothingの考え方はどうにも問題を大きくしているのだが、それに気が付かない
のである。

男を立てるという言葉がある。この意味は、自分がへりくだるという意味ではない。
男をうまく使えというメッセージである。負けて勝という意味である。男は結局、
興味がない話を聞かないというただそれだけのことなのである。だから、男を理解する
女性は話題を変えるか、話すのをやめるのである。その話は女友達に電話して発散する
のである。使えない男に向かって話を続けるのは、お互いにとって不毛ではないだろうか。

一方で、男も努力が必要である。それは表現力である。演技力といってもいいかも
しれない。つまらない話をされたとき、対処法としては、正直になるか、不誠実に
なるかしかない。リアクションをとらないという選択肢は一番の不幸を招くからだ。

最終的なところでは、仕方がないと思ってもらうしかないのだと思うのだが。。