意識論考02 [思考・志向・試行]

さて、神経系が意識を担うという前提での続きだ。

神経一つで意識が存在するのか?
この問いに対する素朴な回答は「否」である。

私たちは一つの神経細胞に意識を見出すことはない。

ここで一つ、大きな問題にぶち当たる。
それは、そもそも意識とは何か?である。


素朴な意味での意識とは、自分の存在性とほぼ同一だろう。
ところが他者の意識とは何か?となった瞬間に判断が極端に難しくなる。

というのも、他者は自分ではないために、そこに意識があるかどうかを
厳密に確かめる手段がない。

この議論を推し進めるとチャーマーズがいうように「哲学的ゾンビ」が問題になる。
哲学的ゾンビとは、恰も振る舞いが普通の人に見える存在だが、巧妙な仕掛けで駆動する
存在を仮定した場合、その対象に意識があるといえるのかという問題である。

つまり、我々は素朴に他者に意識があると仮定して生きている。
当然である。それが蓋然性が高いからであり、そうしておけば生きやすい。
だが、本当にそこに意識があるのか?と疑えば、その懐疑は膨らんでいく。

私たちは、自己に閉じ込められている存在なのだ。

その我々がどういうものを「意識がある」とみなすかは、ほとんど定義問題になる。

汎経験論のように、特定の事物、とりわけ基礎的な物理性に心がある考える人たちもいる。
一方で、私のように特定のシステムにおいて意識が生み出されるという創発論の人もいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E5%BF%83%E8%AB%96


どのような主義においても、およそ言える事がある。
それは「ヒトは他者の中に意識を見出す」という事だ。

それは「意図の創作」に依存する。

どういうことか。Heider & Simmelの有名な動画がある。△や□といったオブジェクトが
運動する。その時にある種の振る舞いをとると、それらのオブジェクトに「性格」があるか
のように感じられるというものだ。それはつまり、「意図」や「意識」の存在性である。

我々は動物である。その動物である我々は、生命の存続のための機能を有する。
その一つが、自然現象的振る舞いと、他の生物の行動を選りわける認知能力である。

脊椎動物の原型は魚であるが、魚たちが捕食されないようにするためには、
すばやく他の動物の動きを察知する必要があった。同様に自分が捕食する相手に
対してそれが目的の他者かどうかを認知する必要がある。

それには自然現象的な振る舞いと情報処理的振る舞いの弁別を必要とする。
ここでいう情報処理とはベイトソンがいう精神の事だ。
ベイトソンは精神過程が意識をもつかどうかは不問にしたが、
少なくとも我々は、それが必要条件であるとは認める所だろう。

「差異を検出し、その差異に応じて振る舞いを変更する事」

我々はそれが内包されている仕組みをみると、認知としての意識を見出す。
(現実問題として意識があるかどうかは不明である)

これを再帰的にメタ解釈すれば、他者に意識を見出すような存在は意識を持つ。
そうとも言える。他者の内部に意識を感じられる事=生存上有利という図式は、
まさに意識をもつが故に生じると。むろん、トートロジーである。

こうなると意識とはなにか? と問うことが愚問であると理解されよう。
要するに意識は、他の意識を探し求めているのであって、意識はつねに見いだされる事になる。
意識が存在しているかが問題ではなく、意識が感じられるかが問題なのだ。

チューリングがチューリングテストとして定義したものに近づいてきた。
さすがチューリングは彗眼だったのだ。今日ではチューリングテストを批判する意見もあろう。
だが、それは意識についての捉え方が異なるせいである。

自己の意識を考慮に含めれば、必ず上記のような話にならざるを得ないのだ。
そして、そのように配慮すれば、チューリングの提案が一つの落とし所といえる。

では、他者の意識問題はひとまずこの解釈によって棚上げし、
自己の意識問題を考えるのが良いのではないか。そう思われる諸氏もあろう。
まさに、そここそが問題なのである。

自己の意識こそが最大の問題なのだ。
他者の意識は自己の意識から派生した投影物なのだから。

ということで、次回は、自己の意識という側面を考察していくことにする。
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意識論考01 [思考・志向・試行]

たまには目線を変えて、科学的な事を気にしてみようと思う。

起源問題は問えない。我々は生まれてしまった存在である。
気がついたら生まれていたのだ。

その我々が、意識を意識する。不思議なことだが、我々は意識に気がついた。
というより、意識そのものが私達自身でもある。


現代科学では、心身一元論の立場を取る。私もこれだ。
この考えでは、いわゆる肉体から離れた心的なものを肯定しない。
(肯定しないのであって、否定しているわけでもない。)

よって、魂とか先祖の霊とか、そういうものは概念であって、
物理的実体とは考えない。また、そういう意味では来世や現世という考えも用いない。
(これらの概念を社会的な意味や、方便という意味では否定しない。)

精神的な活動はすべからく、身体に依拠していると考える。
とりわけ、脳という中枢神経系の働きとして意識を捉えることになる。

この時点で特定の人は、反発するかもしれない。
しかしながら、現象論的に意識を捉えると、魂などのような存在を物理的実体と
みなすことは出来ない。(要するに証拠がない。)

とはいえ、精神が存在しないと言っているわけではない。
それは、働きとして我々の自己存在そのものである。

少し横道にそれるが、意識というものを確固たる実態として認識している人がいる。
つまり存在としての意識である。だが、実際の意識は「働き」である。

なぜそう言えるのか。それは簡単で意識が途絶・変容されうるという事実からである。
例えば、睡眠を考えれば良い。意識は睡眠によって断絶される。
異なる例は、酒や薬を考えれば良い。意識は酒によって鈍麻する。薬によって変容する。
つまり、物理的実体によって干渉されるもの、それが意識の機能である。

結局、意識とは物理的実体から切り離されて意識が存在しているわけではなく、
中枢神経系が働く事によって駆動される働きという事である。
(少なくとも21世紀の科学的知見は、それ以上のことを主張出来ない。)

比喩表現をしておけば、「川」を考えれば良い。
川を構成しているのは地形と水である。地形と水がなければ川は存在出来ない。
そして、川はそこに厳然と存在するが、そこに「在る」わけではない。
水をせき止めれば、川はなくなってしまう。川という実体は物理的な流れであって、
水そのものでも、地形そのものでもない。水が重力に従って動き、一定量の水が
集まった時に生じている現象である。「川」は物理的実体を伴っているが、
物理的実体そのものではないのだ。

意識も同じように考える。身体における脳という臓器の働きが、意識である。
つまり、意識という現象がそこにある。

意識が現象だとすると、現象を支える実体が必要となる。
その代表的要素が、神経細胞である。(少なくとも現段階では最有力の物理的基盤)

神経細胞の働きについては神経科学を援用する事になる。
・神経は活動電位を生じる。
・神経細胞同士はネットワーク(神経回路)を構成している。
・神経細胞の活動は電気化学的である。
・神経細胞の信号伝達は、化学物質に依存する。
 など。

実に様々な事が知られてきているが、大きく言えば、信号を伝達する性質と、
信号の伝達を可変する仕組みがある。神経細胞がやっているのは、
「信号伝達と信号伝達効率の可変」である。

単一の神経細胞の挙動が意識を生み出すのか?

次回はこれについて検討していきたい。

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詭弁を弄する [思考・志向・試行]

なんだかわからんが、詭弁が多い。
事の本質をみれば、どうでもよい議論に巻き込んで、
そこで「論破」とかいう下らないことをやっている人達がいる。

その背後にあるのは、幼児性である。

コミュニケーションの本質は他者とともに自己が変わるという事だ。
ところが、詭弁を弄する人間たちは、自分は絶対に変わらないと
考えている。そして、相手から生じる反発の論点をずらして、
自分の主張を言い切るという形で、議論をする。いや、詭弁を放つ。
こんなものは議論とは言わない。

しばしば、議論でも話し合いでもないのに、それを議論や話し合いと
いう解釈をする詭弁がある。一方的に自分の話をするのは、演説であって、
コミュニケーションでもなんでもない。

加えて言えば、そもそも議論とは信頼関係がないと成り立たない。

今、世の中的に詭弁が多いのは、互いの信頼関係が崩れているという事だ。
話し合いが通じるのは、コミュニケーションをとると互いに認めた時で、
それ以外は、全く無意味である。

そういう意味では、政治の現場、もっと限定すれば国会の場で、
本当の議論がどれほど行われているのかは大いに疑問である。

多くの議論はディベートと化していて、それは勝ち負けを決めるもの。
その判断は本来、観客という第三者である。それ以外にディベートの判定はない。

ところが、昨今では片方が勝手に勝利宣言をするケースも少なくない。
それもまた、詭弁である。勝ったと口々に言う事で既成事実化を図るわけだ。

結局の所、この手の場は無意味であり、無価値であり、聞くのもやるのも
まるで無駄である。

では、なぜ詭弁を弄して、自分は勝ったという必要があるのか?
それが大問題である。


そもそもを考えてみると良い。
3歳児が、詭弁を使うであろうか? およそ使わない。
彼らはただ、自分の思うままを口にするだけだろう。

ところが、少したって、早ければ小学生ないしは中学生になると
屁理屈を覚える。揚げ足取りとも言える。

そこにある性根はなにか。それは、ごく単純に、他者を困らせたいという感情であろう。
それは翻って、かまったもらいたいという甘えである。

相手が一番反応する事を行う。これは幼児が、下品な言葉をつかうのと変わらない。
大人が困るのをみて楽しむというものだ。つまり、甘えているのである。

ところが、相手が本気になって怒る場合もある。
この時に生じるのは、申し訳ないという感情であり、やりすぎたという反省であろう。

詭弁はこの時に生じる。
相手が本気になってきた時に、生じる否定的な自己感情を否認するのである。
つまり「自分は悪くない」と考え、相手の言い分を否定するのである。
そのために使われるロジックは、いくつかある。

例えば、揚げ足取り。話していた内容の些末な部分を取り上げて、突っ込むという方法だ。
そしてあたかもそれが全体を突き崩しているかのように言い募る。

他には、誤解している作戦である。相手の言い分は、自分の主張を誤って受け取っている
からだと主張する方法である。つまりあと出しじゃんけんである。自分の意見に誤りが
あることを指摘された時、謝ったり、修正したりできないので、相手のせいにして逃げるのだ。

それから、フレームをずらす作戦もある。例えば、問題発言をした人物が非難されている事に
対して「発言によって、社会問題が認知されたのだから良かった」というのは明らかな詭弁だ。

また、ダブルスタンダードというものもある。
心理学には内集団と外集団の存在が知られているが、同じルールを内側と外側で
当てはめる時に、全く違う解釈を行い、ルールを捻じ曲げるのだ。
仲間に対しては、特別だったのだとルール適用を退け、外集団に対しては、ルール適用が
理にかなうと主張する。

要するに、自分たちに否があるときには、ルールは無視して、敵に否があるときは、
ルールを過剰適応しようとするわけだ。仲間が何度もルールを犯しても見なかったふりをし、
敵がちょっぴりでもルールを破れば執拗に叩くのである。


このような詭弁を弄する人々に一貫しているのは、
およそ育ちの問題である。詭弁を弄してまで、自己主張するのは、それが正しいからではなく、
吹き込まれた思想なりが作用しているのだ。それは負けてはならないという親の主義であったり、
勝つことしか認めないという周りの環境であろう。

可哀想なことだが、彼らはおよそ不幸な育ち方をしたのである。
そして、その不幸な目にあった事を潜在的にもつがゆえに、
そうではない他者に対して復讐しているのである。

だが、その彼らが撒き散らす復讐に感染する人々がいる。
その人々がまた、徒党を組むことで、復讐の心理が冗長される。はっきりいって、不毛である。

彼らの真の目的は愛される事。それが叶わぬなら、
悪目立ちをして自分を認識させたいと無意識に思っているのだ。
相手を叩いておいて、相手から愛されたいというのは土台無理な話である。
そんなことも分からないので、詭弁を弄することになる。

知性派にありがちな詭弁者は、およそ幼少期にハブられた経験でもあるのだろう。
それは、自己能力の過信と、他者への不作法からスタートする。
例えば、他者に対して「こんなのもわからないのか。」とか「なんで出来ないの?」とか
言ってしまう。結果として、他者の顰蹙をかうだろう。

周りも詭弁者が単に幼稚なばかりに他者の気持ちがわからない事までは気が回らないので、
相手の気持ちがわからない困った人認定してしまう。
結果として、周りから浮いてしまう事になる。

そのような彼らは、仲間に入れてもらえなかったという恨みをもち、
その恨みを晴らすべく、力を手に入れようとする。そういう能力を発揮する事で、
他者の注目を集めることが出来ると知ったことで、他者の仲間に入れてもらおうとする。

ところが、本質的に他者を馬鹿にしているので、肝心の共感が生じない。
当たり前である。相手を見下しておいて、能力をみせつけて、仲間にしろとのたまうのである。
そんな奴のどこを気に入ればよいのかという事になる。

ただ中には、彼らを利用してやろうという人間たちが近づくことはあるだろう。
彼らの能力を利用して金を作り出そうとする。それは悲しいかな、彼らのニーズとマッチする。

能力をみせつけて仲間にいれてくれという人間。
他者の能力を利用して金儲けしようと企む人間。

持ちつ持たれつである。まかり間違うと宗教じみてくる関係性である。
一部の言論系の人々が気持ち悪いのは、こういう人間関係がにじみ出ているためだ。
似た者同士で、傷を舐めあっているのである。誰とは言わないが類は友を呼ぶのだ。

ファンも居ることだろう。能力があるので、言論に面白さがあることもしばしばだ。
だが、彼らがどんなことを言おうとも心の奥底でファンを馬鹿にしているという本質がある。

一方で、彼らはファンをがっかりさせないためにも敗北者になれない。
常に賢いことを見せつけ続けなければならないのだ。それが彼らのアイデンティティなのだから。

だが、人は不完全な存在である。だから、必ず失敗する。
その時に、彼らが非を認めるのかどうか。
非を認めない人間になることを強さと勘違いし始めたら、いよいよ終わりである。

つまり、詭弁者の誕生である。

無謬な存在になれないのだから、必ず誤る事が出てくる。その時、すみませんと素直に言える
ならば、問題は生じない。だが、それを認めずに上記のように言い返し始めたら詭弁にしか
ならないのだ。

相手の主張を聞く耳をもてなくなったら、あとはディベートでしかない。
勝つか負けるかという行為にしかならない。不毛な関係だけ生み出される。

そもそもがおかしいのだから、どれほど詭弁を弄しても、本質は変わらない。
だが、ファンやただ感情的な人にとっては、印象でしか判断しないがゆえに、
それで良いと思う人々もいるのだろう。

結果、謝るより言い切ったほうが勝ちというスタイルが出来上がる。
なにしろ、謝ると損だと思うからだろう。


詭弁者同士が仲良くなることは明らかだろう。
なぜなら、境遇が似ていて、同じように扱われているのである。
共感しやすい他者なのだから。

こうして、詭弁者クラスターが生み出され、そのクラスターが権力や権限を持つと
仲間内の論理を強化させていく。そして批判者を排除するのである。
それが集団心理というものだ。

残念だがここまでくると害でしかない。
もはや手の打ちようがない。まっとうな批判すら、彼らには敵が騒いでいると感じるだろう。
そして、自分たちこそがマトモであると自己認識を強めていくのである。
気がつけば随分と遠くへいってしまうだろう。


詭弁者たちの共通項はこの他に、権威主義であることを取り上げよう。
彼らは自分の能力評価の担保を必要としている。能力をみせつけて、仲間に入れろと
いう人間たちなので、能力を評価する軸が必要なのだ。よって、彼らには個々人に、
特定の価値原理主義を抱えている。

それは往々にして歴史的人物であったり、トラディショナルなものである。

なぜか? 彼らは周りからハブられたときに、すがる縁として、
周りが認めざるを得ない権威を必要としたからである。
その一番安直なのが、トラディショナルである。

なので、詭弁者たちは一様に、トラディショナルに媚びる。
人により様々だが、権威に弱いのだ。時にそれは金という権威になることもある。

自分を評価してくれる軸であるがゆえに、そこに絶対的な価値を見出す。
それは宗教と近いだろう。権威の発露に対して憧れるのである。

よって、詭弁者たちはすべからく、権威主義になる。
どんなに取り繕っても権威を後生大事にする。そこが彼らの依り代だからだ。

国に取り付くものがあれば、学術権威に取り付くものもある。
宗教に取り付くものもあれば、金に取り付くものもある。

付け加えておけば、これらは詭弁者に限らず、弱者全般の論理でもある。
自己同一化をすることで、自己肯定したいのである。


そろそろ、詭弁者たちの描像が見えてきたであろう。
そして、彼らは決して幸福でもないという事も。むしろ、不幸なのではないかとも推察される。
間違った行動論理に陥った彼らは、袋小路にいる。最後は精神的に参るだけじゃあないかと
思うが、どうだろうか。

彼らに全く足りないのは、結局、他者への眼差しだろう。
敵ともどうにかして良い関係を取り結ぶほか無い。それには議論が必要だ。
だが、詭弁者は議論はせずディベートしかしない。なぜなら彼らの目的が、
結局、自己にあるからだ。要するに子供なのである。

大人とは社会に責任を感じるものたちだ。
社会問題の責任の一端は自分にあると考えられる人間。それが大人である。
子供は、自分は悪くない、あいつが悪いと、安直なのだ。
詭弁者たちは、結局、大人の形をした子供なのだ。



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