驚き、怒り、そして苛立ち [雑学]

うまく言い表せないがメールによる自分の過失によって、人を怒らせてしまったようだ。
それに後悔している一方で、そこまで怒るか?という気分になった。
むろん、相手を怒らせた事は申し訳なく思っている。

端的に言えば、私の書いた内容が「性差別」であると断言されたのだ。
そこで、相手は強い口調で抗議してきた。私の瑕疵を非難するように。

ミスったという気持ちだ。こうなる可能性をもっと深く読むべきだったのだ。
なぜなら潔癖症の相手だったという事をうっかりしていたのだ。

自分が不快に思わないことでも、誰かにとっては不快ということもある。
よって自分を基準にする事はできない。といって、相手の基準をとるとして、
すべての基準などわかりようがない。私としては今回の内容は許容されると
踏んだのだが、全然ダメだったということだ。つまり私の全くの見込み違いであった。

メールには続きがあり、私の尋ねている内容がそもそも変であると指摘してあった。
ざっくり言えば、私がこの内容を作り出そうと思った事自体が性差別であるという
主旨なのだ。

相手の立場に納得した。なるほどと。
相手の言い分は、相手の立場にたつともっともなのだ。
そして、私は相手にとって自分が差別主義者であると理解したのである。

自分が知らぬ間にいわゆるハラスメントをしているという事に気づいたわけだ。


よほど私が酷いことを書いたかと思われるかもしれない。
そこで念の為、他の友人に同じ事を聞いてみた。

多少の不快さは示されたが、さすがに性差別とかそういう事は全くなかった。
前者とはえらい反応の違いだ。自分がおよそ想定していた問答が繰り返されて話は終わった。

ここで新しい知見を得た。つまりこれは解釈の問題でもあると。
私の行動が、とある人には完全なる性差別に見える。
別のある人にとっては、ありふれた問いかけに見えたというわけだ。

もちろん、後者が鈍感であるとか、私に遠慮して前者と同じコメントは
しなかっただけという可能性もある。そうだとしても、表現はまるで違う。


この前者から来たメールを読んだ時のいやーーな気分を再度考えてみたい。

まず非難されている事はすぐに分かった。
そして、それは多分にフェミニズムの話であった。ジェンダーに拘るなという形で
逆説的にとことんジェンダーに拘る議論である。そして、その観点からいえば、
私は確かに、女性に阿る形の形式を採用した。なぜなら、私の内容は
女性たちに教える事柄だからだ。聴衆の事を最優先して考慮したものだった。

そこには私が思う女性像というものが反映されている。きっとこんなことに興味が
あるだろうという推測である。まず、この推測が友人には不当に思えたわけだ。
つまり、女性であるということ前提に取捨した内容が差別なのだと。そんなことを
しなくても良い場面で、それを意図するのは女性差別なのだと友人は言う。

この論理はわからんでもない。女性が興味がありそうな話題として「浮気」を
用いていたからだ。そして私は、この「浮気」という題材を使うことが許容されるか
どうかを尋ねていた。私のバランス感覚では、ブラックジョーク的な意味合いであり、
気になる人がいるかもしれないなという配慮から、尋ねたわけである。まあ、ちょっと
危険かもしれないけれど、より関心を引けるかもという欲を出したのだ。

むろん、それを気に食わないと思う人が出ても仕方がない。だが、それを差別とまで
いうかと。しかしそれがハラスメントの本質なのだろう。私には大したことがなくても、
相手がそう思えば、それはハラスメントなのだ。その意味で私は友人に対する差別主義者になった。

更に、こんな例示を用いることは女性を侮辱しているという風に話が続く。
つまり暗に、私が女性を低く見積もっているために、このような例示を作り出そうとする
のだという。分かりやすくや親しみやすくと考慮した例示という配慮自体が侮辱なのだと。
もちろん、私にはそんな意図はない。ただ内容を噛み砕く方が良いだろうという判断である。
だが、考えようによっては、そう見える。

私はある意味で、私の行為にそのような意図をわざわざ見つけ出した友人に
驚いたのである。そして、自分の思考を鑑みて、指摘が全くの的外れとは言えないと
思った。なぜ、「浮気」という内容を含んだ例示をあえて作り出したか。
それは、女性はきっとこの手の話題に強い興味を持つだろうという事、そんな風に興味を
引かなければ、説明内容の概念を理解しないのではないか、つまり向学心が低く聞こうとも
しないと見積もったからである。まさに、友人の指摘の内容に心当たりがあるのだ。

いや正確に言えば、指摘された瞬間に、そういう意図が浮かび上がったといってもいい。
フェミニストである友人は、私すら意識していなかった「私の意図」を説明したのである。

繰り返すが、私は内容を作り出す時に、上記のようなことは一切考えていない。
ただ、説明の通りがよいように、理解を促すために例示をこさえた。小賢しく欲目を
だした内容なので、友人に危険がないかを聞いたわけである。ところが返ってきた返事は
完璧なバツであるという結果だったのだ。そして不快を背負った友人は、私の行為を
性差別であると断定した。


私はその反応を嫌悪した。当然だ。意図した事ではないのだ。だが、多くのハラスメント者は
自分は悪気はないと述べる。そうか、私も同じロジックの中にいる。そして、ハラスメントの
被害者だけが問題だというあの論に従えば、私の行動が友人にハラスメントと解釈されれば、
それは立派なハラスメントなのだ。この理解から、私は友人に内容を再考する旨を伝えた。

私はこの手の批判に弱い。なぜなら、善良でいることに対するコンプレックスがあるからだ。
そして、友人の期待に添えなかった事もまた心苦しかった。相手を失望させたであろうという
あの感覚だ。

そして、ある種の絶望を感じるのである。私が常識と考える行動で、相手が傷つくならば、
私はどうすべきなのかと。私の常識を変更し相手の常識に合わせる事が最善というのか。
これについては後に触れるとしよう。


さてここまでは友人の論に乗った場合である。ここからは私が思う解釈を述べたい。
私は私を擁護する権利がある。

まず、指摘の事柄が友人のいう通りであったとしよう。
私のやったことが性差別であったと。そうだとして、それをどのように示すべきか。
相手にどう伝えるべきかは考慮すべきことだ。それは内容とは無関係な作法である。

どんなに不快であったとしても、怒りを感じたとしてもそれをそのままに伝えるのは、
非常識である。友人のメールにはその怒りを感じる。かなり不愉快なものだ。私は、
その不快さに耐えなければならない理由はない。ここに友人の復讐が間違えなくある。
自分が受けた不快さを、同じ程度の不快さで仕返してやろうという意図だ。これは
邪悪だと思う。


批判を続けよう。
相手の言動のなかにジェンダーバイアスを探そうと思えば、常に探せる。
ここに疑問がある。ハラスメントの性質上、こちらがそれと意図せずに
相手を傷つけるということを基準にするならば、それはこちらの考えとは
無関係とも言える。常に相手の問題なのだ。

これはハラスメントが解消しない理由でもある。価値基準としてどうして、常にハラスメントを
受けたと考える側に立つ事が是とされるのだろうか。それが正義といえるのだろうか?

価値相対的に考えれば、価値観は対等であるべきだ。
ハラスメントを受けた側の価値観とは、意図しようとしまいが相手を傷つけてはいけないという
正義である。だが、通常、加害者に意図がなければ、それは過失であろう。過失を咎めるのは
許容されるが、相手に向かって面と向かっての性差別であると侮辱をぶつける事は許容されるのか。

たとえば一人の男がいて、私が何気なくちらっと目を合わせたとする。その男にとって、
見られる行為は喧嘩を売られたと解釈する。そして、男は私に殴りかかる。このケースで
果たして悪いのはどちらだろう? 見ることで喧嘩を売ってしまうことになると知らなかった
私が悪いのか。つまり、私の過失は、殴られることに相当するといえるのか?

私が受けた批判はこの類似系である。私は知らずと相手に性差別をした。
その時に、私は相手から言葉による侮辱を受けた。私はその非難を受けるほどの酷いことをした
というのだろうか?

上記の男であれば、言いがかりであって不当だという人が多いだろう。
だが、下記ならばどうだ? 場合によっては私に非があるという人がいるだろう。
ダブルスタンダードだと私は思う。

仮にだ。私が目を合わせることを喧嘩を売ることと同値だと知っていたとする。
それでもなお、殴りかかるほうが悪いのではないか。なぜなら、その行為そのものが
社会的悪と知られているからだ。

下記でも同じであろう。たとえ不当な扱いを受けたとしても、相手を侮辱しても良い
という事にはならない。言葉も十分に暴力である。つまり同じく社会悪である。
もし会社で、相手に面と向かってバカとかアホなどと罵れば、法規にふれる。
同様に相手に向かって、性差別であると断定する事は、かなり危険な行為である。
侮辱になる可能性を知った上で、使用していると受け取られるはずだ。

そして、私は反応に対して驚きと、その侮辱に怒りを感じたのである。
私はこの侮辱に対して抗議する。そこまで言われる筋合いはない。
友人と言えども、それを明確に口にして、相手が不快に思わないとは思ってないだろう。
なぜ、そんな言い方をするのだろうか。

もう少し、掘り下げて説明したい。

この友人は許容度の幅狭いともいえる。他の人が問題にしないことでも、
センシティブに問題にする。それはこの友人が海外にいることとも関係するだろう。
きっと、フェミニズムが行き届いた世界に住んでいる友人にとって、私が作り出した
ものに潜在的な差別を感じたのだろう。もしくは違和感を。そして、それを表現する
のが海外流である。私はこういう事で不快なのだと相手にいうのだ。

これによって、海外では女性たちの尊厳が確保される。不当な対応には抗議せよと。
その不当性に私の作ったものは該当したのだろう。そして、いつも通りに相手を
非難したのである。あなたの行為は性差別であると。

これが私が類推する友人の対応である。

一方で、私はそれに驚く。私は自分の行為は、配慮であり良かれと思ってした事である。
その良かれと思った事を不当性だと指摘された。もともと、侮辱するつもりならば、
私は友人の反応は仕方無しと思う。だが、こちらの配慮こそが差別であると指摘されて
狼狽したのである。

差別の指摘ポイントを繰り返すと、私が女性というターゲットにフォーカスしたこと、
そして、理解を促すために、話を単純化した例示(「浮気」を含む)を提示した事だ。
それらが性差別であるという。男女で区別した事を用意したことが男女差別になり、
例示の単純化が女性への侮辱であるという。女性を見下している証だといいたいのだろう。

私は、相当な言いがかりに思う。私は女性たちに説明をする仕事がある。
だからこそ、女性たちの理解を促すために資料を作り出した。なるべく関心を引くようにだ。
そして、女性たちに対して、おかしなことになっていないかを確認するために女性である
友人に尋ねたのである。

その結果、その配慮そのものが私の女性差別から生まれていると指摘された。

私は、配慮したことは認めるし、女性が関心を寄せそうなものを利用した。
その意味で私は女性を区別した。間違えなく区別をしたのである。
しかし、この区別した結果として、女性たちが失うものなど無い。

だが、友人はそれによって女性たちの尊厳が削られるという。
なるほど、男性と同じに扱われなかったという感情をもつならばそうかもしれない。
そこに平等性の問題がある。

結局の所、友人の私に対する侮辱は、女性を特別に扱うなという観念にいきつく。
まさにフェミニズムである。

私は十分に、友人の意見を理解している。ここまで読んでいただければ、それは
理解されるだろう。そして意見を尊重している事も。実際に、資料の内容は、
大方、無味乾燥な話題に作り変えた。例示の単純化は、そのまま残すつもりではある。

友人の意見を理解出来る分、私には、あのような文面で攻撃的な批判を受けたことに
苛立ちや怒りを感じるのである。そんな風に表現しなくても、私は友人のいうことを
理解できるし、行動基点を変えることが出来る。むしろ、あのような食って掛かる
ような言い方によって、友人の意見を否定し破棄しようかと思ったのが正直な所である。

ヒステリックな感情言葉で、人が行動を変えると思うのは、幼い行動である。
怒りは90秒で沈静化するとも言われている。文面を書きながら、怒りを表現する
のは、怒りたいからそうしているのだというアドラーの意見がぴったりだろう。

自ら怒りや苛立ちを選び取って、私に向かって投げかけたのだ。おそらく復讐のために。
そして、私はそれに抗議する。私が意図せずに差別したという意見は尊重するが、
それをもって、私を侮辱してもいいはずがない。その行為は不当である。



長くなっているが関連があるので、あと3つの話題を。

1.意図しない差別
  常識とは社会の中で身につくものだ。私は幼い頃から、女性に配慮するように教育された。
  女性を気に食わくても殴らない。言い負かして泣かせたりしない等だ。これは
  社会的区別である。当たり前の教育であろう。

  ものすごい穿った見方をすれば、私は「女性差別を促されて育った」という事になる。
  
  今持って女性を男性と同等に扱って良いという形式で社会は動いていない。
  つまり、女性と男性は扱いが違うのが現状の日本社会である。それが良いとか悪いとかは
  別の話だ。

  性に応じた区別があり、それが行動に結びつくと社会的役割いわゆるジェンダーになる。
  そのようなものがある理由は、それが妥協的に選ばれてきたという事であろう。
  よって、これらを基盤にして、男女で区別をする行動がとってしまう事がある。
  それが本質的に区別無用のさいでも、差をつけてしまうのが性差別である。

  だから、これを理念によって区別をするなというのは、無理だ。
  そして性区別が全面的に解消されるべきだろうか?
  
  フェミニズムが区別不要な特定の事柄について平等性を促す。女性が女性である
  ために虐げられてはいけないのだと。その理屈には納得するし、賛同はする。
  とりわけ、現代の仕事は力を必要としない。ならば、大抵の事は男女で同じ事が
  可能である。

  もう一歩踏み込んで、男性差別をも含んで解消すべきであろうとも思う。

  大抵の意図しない差別は、この社会が強制した性区別ないし性差別に由来する。
  意図しない差別が発生し、それを指摘された時、私のように反省する人は少ない。
  ましてや、私の友人のように感情的に批判されたら、なぜ私が悪いのだ?となる
  のが普通だろう。批判がエスカレートすれば、なお、自分は悪くないと思うだろう。
  なにしろ、現実的に悪くないのだから。不当な批判と感じるのは仕方がないのだ。


2.フェミニズムの中のファシズム性
  その一方で、社会全体が性差別を助長しているのだとしたら、どれほど一部の
  人間が、その差別を叫んだ所でどうにもならないだろう。出来るとしたら、大人ではなく
  子どもたちに性区別をへらすように教育することくらいである。

  事実、かつてより現代の若い子はその区別は小さいと思われる。その意味では、
  社会は確実に進んでいくのかもしれない。

  私が今回体験したのは、私の構造のフェミニズム的解釈であった。私の狼狽は、
  このフェミニズム的思想のあとから来た感に由来する。私の行動は、社会において
  さほど問題とされないだろう。仕事の資料内容を女性用にしたというだけである。
  しかし、フェミニズムの視点では、それは不当な行為である。では、何がフェミニズム的に
  正しくて、何が間違えなのだろう?

  フェミニズムの考えは、現状の社会批判よりスタートする。つまり、問題があって、
  それを解消するためなのだ。よって、問題が先行しなければならない。事前にそれが
  問題であると確定できないのである。性差別によって給与が違うとか、出世の扱いが
  違う等は、たしかに主張されるべきことだ。そういうものは無いほうが良い。

  一方で、女性への配慮はどうだろうか? 例えば、女性専用車両は男性差別ではない
  のか? いや男性からの性差別を予防するという意味で存在している。その意味で
  差別の解消である。こういう前向きな女性への配慮を良しとするのがアファーマティブ
 ・アクションである。採用においても、放おって置くと男性ばかりが採用されてしまう。
  その時に、一定の枠を備えようという事だ。そこでは、必ずしも同基準を採用しない。
  しばしば多少の嵩上げがある。

  このダブルスタンダードはフェミニズム視点では肯定するのだが、問題はすぐに分かる。
  その行為がむしろ、差別的であるという事なのだ。差別的状況を差別によって解消する
  。なんだかもやもやすることだろう。そして、その程度はどうやって決めればいいのか。

  そして、私の例では逆に、区別することが不当扱いされる。差をつけた行為が性差別
  であると。

  こうなると、フェミニズムは平均台の上を歩くような行為となる。一部では区別をとり
  払い、一部では進んで差別を行う。そして、トータルで差別をなくそうという事になる。
  しかし、本当にそれでうまくいくのだろうか?

  この時、フェミニズムは思想的な強制をもたらす。会社役員の中に必ず女性が1人必要だ
  というルールがあるとしたら、自由に人選はできなくなる。しかし、それを遂行する
  事が社会的に求められるとしたら、そうする他無い。これがフェミニズムによる強制
  である。そして、社会全体がその思想方向へ進まされるとしたら、一種のファシズムと
  なる。過度にフェミニズムを遂行する事は、思想強制でもある。

  私は、その渦中にある。フェミニズムにより思想変換を迫られている。私がこの思想に
  賛同して変更する場合は良いだろう。しかし、個人の思想と相容れない場合にはどう
  だろう?

  私が性差別主義者だという事を肯定するとしたら、どうだろう? 私はフェミニズムに
  よる批判はまるで無視する事ができる。そして自分の良心に従って行動するだろう。
  この時、自分の行動が反フェミニズムだとして、それをフェミニズムの観点から断罪
  できるだろうか? 私には大いに疑問だ。価値観の多様性と抵触する。

  フェミニズム的価値観が、他の価値観の上位に来ると考える事は肯定出来るだろうか?

3.PCの話題。
  昨日PCの記事を取り上げた。
  昨今のアメリカでは、PC疲れとも言われている。

  私は今回の友人からの批判によって、それも些細な事での批判によって、
  PC疲れの意味がよくわかった。自分にとって悪意なくやっている行為が、
  社会的な価値観が変容したために、非難されるべきことに変わってしまった社会。
  それを生きるのは結構たいへんだろう。「ニガー」といえば、怒られ、「ブラック」
  といえば、非難され、アメリカンアフリカンと呼ぶ事になったアメリカ。チャイナ服など
  特定の民族衣装をもともとの民族ではない人が来たりする事で、文化的盗用と言われたり。
  
  PCを満たそうとする苦しくなる事もあるのではないか。といって、余計な騒動は
  ごめんだろう。よって、右へ習うことになる。それが社会全体に広がればPCを規範
  とした社会になってしまう。

  フェミニズムも同様だ。私が何気なくやった行為は、気がついたらフェミニズムに
  抵触していた。言われてみれば、その理屈は理解できる。ある程度寄り添える。
  けれど、自分の今までの行動を隅から隅まで、それに対応できるわけはない。

  私はいわゆる日本人である。そして、日頃多少の失敗はあろうとも、
  つつがなく生きている。そこに突然あたらしい規範が訪れ、貴方は間違えだと
  言われて、はいそうですか。なんてうまくいくはずがないのである。



私の友人は、およそ自分の価値観が「正義」であると思っているはずだ。
それはフェミニズムに準拠している。その価値観からみれば、私は差別した事になろう。
私は私で区別はしたが、差別した、つまり不当な取り扱いをした覚えはない。ここに
大きな違いがある。解釈の違いがある。微妙すぎて、遠目からはわからないほどの違いが。

同じ行為が、そのままで良いという価値観と、変えるべきだという価値観が対立したとき、
我々はどういう選択をするべきなのだろう? 

誰にでも不変な規範など存在しないのではないか。
今回の事を受けて、この価値の普遍性について考えてみようと思う。
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ポリティカル・コレクトネスについて [思考・志向・試行]

ポリティカル・コレクトネス通称PCである。
PCとは、差別的発言や言葉などの表現をやめようという考えである。

PCの観点に抵触する例の代表はヘイト・スピーチである。
攻撃的で、差別的な言動はたしかに抑制されるべきであろう。
ドイツでは、ネオナチの問題もあり、刑罰があるほどだ。

昨今の世界情勢からいえば、民族や国などに関わる差別的発言はヨーロッパなど
では、もはや、議論の余地がないほどに規制されている。

PCの概念のコアは平等性である。肌の色、言葉の違い、文化の違い、性別の違い、年齢の違い、
そういったものを区別なく扱おうという志向である。これらの違いによって取り扱いが
変わるというのは確かに不正義かもしれない。なぜなら、それらは本人の意思とは無関係
であり、どうにも変更しようがないためだ。

ところで、言葉は差異を表現するために語彙が豊富にある。
そこには明確な差別がある。差別という語に含まれるニュアンスが嫌であれば、
区別でもいい。そして、その違いこそが言語表現の幅を広げる。その意味では、
言葉そのものに区別性が存在しており、そうでなければ、言葉の意味が失われてしまう。

このことを合わせると、言葉の区別が、不平等的扱いに発展した時に発動するのが
PCという事になる。だが、本質的に差異を生み出す言葉には、潜在的な「差別」がある。

https://www.huffingtonpost.jp/yuko-fujisawa/political-correctness_b_8802070.html

このサイトでは、大事な問題提起がある。
それは平等性というものの正当性である。

ということで、PCに拘る方はここから先を読むことは控えていただきたい。
時に、憤慨するかもしれないからだ。




少し穿った方から平等性を懐疑してみたい。
私には、この平等性という概念がどこか偽善的であり、ダブルスタンダードであるように
思われるからだ。本当に平等など実現できるのか? ということと、現実的な不要な
差別は批判を受けるべきだというものの間には、だいぶ開きがあるように思う。

上記サイトでは、仏教的な「平等」の地平にたどり着きたいと締めくくられている。
だが、それは無茶というものである。思想として、形而上学的には可能だろうが、
差異こそが我々が獲得する経験なのだから。同じ赤い実でも、グミやアセロラや、
トマトは別ものである。別であることを理解する事がいわゆる「成長」である。

もちろん仏教が差異に対する区別をなくす修行を行うことは知っている。仏教はまさに
区別や差異が我々の煩悩を惹起すると警告している。いわゆる差別はまさにそういう事だ。
こちらの村とあちらの村、差別をするから問題が生じるし、争いが生まれる。


PCの概念を平等性というものにまで拡張すると、現在の社会は否定されるだろう。
特に私有財産というものは不当なものとなる。そう平等性を推し進めると、共産主義的な
生活スタイルしか認めないということになる。そして、それは自由ではない。

先のPCにおける正義とは、本人のいわれなき性質による差別を不当とするものであった。
では、たとえば、能力についてはどうだろう? 我々は持って生まれた能力に差がある。
その差は、まさにPCがいう所のいわれなき差であろう。そして、その能力差が生み出す
資産や価値によって、差別をなくすべきではないか?と続くだろう。

ところが実際にはどうだろう? 我々はメリトクラシーの世界に生きている。
能力主義と社会的状況によって金銭的対価が決まる。この社会は学歴という差別を
あえて生み出す。わざわざ生み出している。そして、その差は「努力」の成果であると
みなされる。つまり、生物学的に能力に差がある事に目をつぶり、学歴は本人の努力に
よって生み出された差異なので、その差異は取り扱いの差になるという論理なのだ。
学歴差別は、社会が生み出した差別である。

PCのダブルスタンダードはこういう部分に現れる。能力という生得性は無視し、
その一方でもっぱら視覚的な生得的な差異には過敏に反応する。そして、取り扱いが
変わることに腹を立てている。

もちろん、常識的な事柄は理解できるし共感もする。
黒人だからと能力がないと決めつけたり、移民だからといって、下働きでしか採用しない
などは、不当な事であろう。また、PCのようにこれらを強化する言動も不当といえる。

これらから言えることは、極端な原理主義は危ういということだ。PCの平等性を
徹底するということは問題しか引き起こさない。これに対応するには、
少なくとも、資本主義社会においてメリトクラシーに生きる人間にとって、許容される
差別と許容されない差別があることを認め、許容されない差別は糾弾するという事
なのだろう。


もう少し、マクロに差別性を考えてみると、それは仲間という概念と抵触する。
同じ釜の飯を食うというように、身近に過ごした人と、地球の反対側で戦争や圧政に
苦しむ人を同等に扱う事は我々には不可能である。いや、理念としては可能であるが、
それはやはり空論に聞こえる。

その意味で、誰を仲間とし、誰をその外におくかという問題を孕んでいる。
それは国という概念や町や村という概念にも同様に関わる。男と女や、若者と老人という
区別にも当てはまる。我々の所属感は紛れもなく差別主義である。境界を作り出す事は
差別の前提である。そして、この境界によって紛れもなく扱いは変わる。

家族に対する対応と、家族外の人に対する対応は違うだろう。
いわゆる仲間とそうでない人への対応もだ。

差別をもつのが普通の人間である。これを認める事が私は大事だと思う。
その上で、その差別をどうやって乗り越えるのか。そう考えるほか無いだろう。
PCを守り、フェミニズムに生きているからといって、「私は潔白だ」という人間は
いるはずがないのである。

まずは、差別性を我々はもっている。ここからスタートするべきである。
よって、差別を発動することは自然である。


そこから、人は理念を持ち込む。差別はなくすべきだと。それを日々実行する事。
それが大事なのだろう。つまり、我々は差別を徐々に減らすように訓練を受けるほか無い
という事だ。

2つの方向性がある。一つは、差別の発生を抑える事。つまりナショナリズムを否定し、
所属性における自己肯定を否定する事だ。おそらく無理だろうが、小さくはできる。
もう一方は、作り出した差別をなくすことだ。既に起こっている差別はおかしいと把握し、
その差別の出現を減らすことである。


書いていて、やはり本質的に無理筋だなと思う。
人は仲間を生み出すように出来ている。それが人の社会性だ。
そして、国というものが他国と争うために存在するのだから、他国にやじを飛ばすのは
自然な事になる。それを拒否するならば、国という存在を拒否する他無い。

理念で人を動かそうとすると、大量に虐殺が起こる。平等性を追求した共産圏では、
相当な人数が犠牲になった。なぜなら、人とは理念で出来上がっていないからだ。
そしてそれは、理想を追求する事は、人以外のものになる事である。

難しいのは、何が学習の結果で、何が自然な区別なのかという事であろうか。

PCにしても、フェミニズムにしても、どこかで大概にする他無いのではないか。
私はそう思う。自らを善とみなす人間こそが、大悪事をなしたのが人類の歴史である。
それを鑑みるに、私は差別主義者でも仕方がないと思うのだ。そして、どういう風に
差別的であるかが問題なのだと思う。理想への漸近を目標に。

あなたはPCについてどう思うだろうか?


【追記】
https://www.theheadline.jp/articles/135

PCについて、上記であまり触れなかった点について整理されていると思う。
この主張のユニークさは「PCは功利主義的」であるいう点だ。そして、PCの
正当性は常に変化し続けるという事。

うーん、だとすると、PCは誰かの暴言をだまらせたい時の方便の箱みたいになってしまう。
一方で、同じPCの概念によって暴言もまた「表現の自由」だという主張を許容することになる。
価値観としてのPCをひてし、規範でもないとする解釈は正しいかもしれないが、ならば、
PCという概念自体が無意味になりそうな気もする。

PCがリベラルの範疇にあるとして、そのリベラルの主張が多文化主義そのものを否定しかねない。
PCに従わない人は、「差別主義」だと設定すれば、その主張を行っている人自身が
差別主義になりかねない。差別主義者だと糾弾する行為が差別的という事だ。
その心根に「私は正義で、あなたは間違っている」という前提がある。

上記サイトのいうPCは規範ではないというのは、この場合無理がある解釈だと思う。
やはり、ヘイト・スピーチは差別だと断じる事が規範であろう。これをPCと呼ぶべき
じゃないという事かもしれない。
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安倍政権退陣ーようやく先に進めるー [雑学]

安倍晋三内閣総理大臣が「病気」を理由に辞任する。
ここまで、7年と8ヶ月。なんと長く異常な政権がいた事か。

実に多くのことを「改革」してしまった。
基本的に、良くしたものは存在しない。
むしろ、大抵の政策により日本の状況は悪化ないしは退化した。

安倍政権の政策の本質は「いいなり」という言葉に集約される。
唯一の主張は、憲法改正だけだった。だが、それも殆ど進んではない。

過去の記事に既に書いたので、ここでは繰り返さないが、
安倍晋三という人間はスネ夫に似ている。虎の威をかる狐のようなものだ。
岸や晋太郎という流れからきた政治への参画。おそらくさほど興味などなかったのだろう。
その彼がとったスタイルは、金をばらまいて仕事をした気になるというものであった。

顕著なのは外交である。600兆円とも言われる金をこの8年間でばらまいた。
相手国に言われるがまま、もしくは金さえ配れば相手を懐柔できるとの魂胆であったろう。
おもちゃで友達を買収するスネ夫と全く同じである。そこに理念や共感などまったくない。
なにしろ、安倍自身にそんなものなどないからだ。

こういう人物が便利だなと思ったのは、その周りである。
安倍にすり寄り、巨額の税金を優遇してもらうという手法だ。
モノが売れない時代で、頼れるのは税金だけとなった産業界。
メディアはとりわけ顕著で、政権から流れてくる金で息をつないだわけだ。

図式としてはシンプルで、メリトクラシーによる人材評定が徹底されるほどに、
儲けられる人間と儲けられない人間が増えた。資本主義は時間によって金が増える
社会である。よって、資本を次に機会に投じられる人間の経済性は年々良くなり、
カツカツないしはマイナス収支の人にとってはどんどんと苦しくなる。それは
「平和」という事でもある。

この「平和」の時代には、格差が生じる。運悪く能力や状況に恵まれなかった人は、
生活を安定化させる手段を失う。根無し草状態になった彼らは、末端の仕事を請け負う。
その仕事とは工場の組立工や農業の収穫要員だったりする。どんなに習熟しようとも、
技量を得ることが出来ない。そのため、低賃金を余儀なくされる。そのような彼らが
家族をもち、子供が出来ると、子どもたちの能力開発には大きなブレーキがかかる。

このような格差が蓄積すると、始めから這い上がれない人々が出てくる。
彼らの一部は、現状を打破するために特殊な仕事に足を突っ込んでいく。そこでは、
少なからず対価を得られるからだ。詐欺から、強盗、万引など違法かグレーな
商売に手を染める。もしくは裏の世界の門を叩く。女性なら、売春やキャバクラなどで性を売る。
そのようなものであればまだ許容されるかもしれないが、そこから社会に承認される
状態になるには、かなりの運やガッツが必要だろう。

このような不安定化が一部に限定され、スケープゴートとして機能しているうちは
問題は小さい。だが、社会の3割程度が不安定に晒されると、社会の屋台骨が揺らぐ。

そうして、ほころびは小さな所からスタートする。給与が減る、増えるかわからないと
実感する人々は、買い控えをするようになる。このくらいであれば、企業は多少のコスト
ダウンをはかれば対応出来た。ところが、買い控えの人間がどんどん増えていく。

その要員は、多方面に渡る。
・高齢化が進み消費が減る。質量ともに減ってしまう。
・社会が高齢者を助けるために、税を増やす。結果として、需要を換気するはずの
 若者世代の手取りが減る。
・教育等の高給を得るための仕事につくためのコスト(投資)が年々値上がる。
 結果として、高給取りは一部になる。
・需要喚起するための世代の手取りが減れば、企業はモノが売れないために、コスト
 ダウンをする。そのためにまずは人件費がカットされる。そうしてますます労働者の
 手取りがへる。
・また、労働者として移民をつかう、もしくは工場が海外移転する。
・すると工場労働の雇用すら減ってしまう。
・企業はモノが売れないので、いよいよ行政に泣きつく。正社員を維持するのが難しい
 ので派遣労働を増やすよう要望し、それが達成される。
・労働者は、手取りが増えず、仕事だけが増えていく。人件費抑制なので労働力は増えない。
 一人あたりの仕事量は年々ふえ、労働時間が増大する。
・労働そのものが負担となると、生活時間が削られる。結果として、余暇がへり、
 消費が減る。また、家庭環境は悪化する。
・若者たちは二重・三重に苦を味わっている。社会的圧力として、良い大学に入れと
 いう。だが、その能力を持つものはいつも一定数のみだ。一方で、大学入ったから
 といって、正社員を約束されたわけではない。仮に正社員になったとして、長時間
 労働で薄給という可能性だってある。いや、派遣社員になって不安定な中、それでも
 他の選択肢がなく、仕事に精をだすしかないという事になる。そういう人々が半分
 くらいいる。
・金のある若者はごく一部になり、親世代のように遊び呆けることは不可能となった。
 結果として、若者をターゲットした商売は採算が取れなくなる。

・他にたくさんあるが、とにかく良い材料は見当たらない。

トータルとして、デフレが起こり、モノが売れない時代になった。それは少子化に
拍車をかけ、老人たちは医療進歩や食糧事情の改善のために寿命が伸びて社会の
負担となった。

一方で、日本はバブル崩壊後の20年を無為に過ごした。大人たちは責任を放棄した。
バブルがあたかも自然現象かのように、そのつけを国が肩代わりした。不良債権問題など、
結局、私企業を国が助けたのだ。これは市場原理的にあり得ない。同じことは、東京電力
にも言える。完全な寡占企業である。フクシマ原発が爆発してメルトダウンしても、
東京電力はなくならなかった。そして、国によって保障が注ぎ込まれたのだ。原発とは
いざとなれば、多大な問題をはらむ存在である。それを理解した上でなお、その技術を
使い続けるのかいなか、考えるべきであろう。

ちなみに原発についていえば、本質的に維持不可能な高コストな発電方式である。
そのコストというのは、発電そのものではない。原発を管理するコストである。
放射性廃棄物は自然分解しない。崩壊するまでに10万年とも言われる時間がかかる。
よって、ゴミ箱がない発電方式であり、そのゴミを管理することを子孫に永続的に
押し付ける事になる。そのコストを加味したら、天文学的な高コストである。
それを解決できないのであれば、今すぐに撤退するのが正しい。だが、原発にロマンを
感じた一部の科学者と、そこに投資した国、電力会社はもう引き返せないといって、
滝壺に突っ込もうとしている。その滝壺に一部が突っ込んだのがフクシマだったのだが、
未だに、存続しようとしている事に、強い欺瞞を感じざるを得ない。

このような社会情勢の中、2011年の選挙で安倍政権が誕生した。
その直前に民主党が、官僚やアメリカのいいなりに成り始めていた。
消費税の導入と法人税の減税、TPPへの加入である。メディアはここぞと一斉に
民主党を叩いた。結果、順当に自民党に票が入ったのである。

政権を奪取した自民党は、まるで民主党であった。消費税を増税し、TPPを批准した。
フクシマの後始末は何もせず、犠牲者にわずかばかりの支援をして、うやむやにした。
その一方で、安倍政権は仲間たちに金を配り続けた。

最大の功罪は、日銀を借金漬けにして、二度と引き返せない状態にしたことだろう。
MMTなんという論が跋扈するほどに、政府は借金を発生させた。その一方で、産業を
買い支えると宣言し、そのとおりに株を買い続けた。また、アメリカの国債を買った。
つまり、株価の釣り上げと、為替の抑制を人為的に行ったのである。その上で、年金の
プールを金融につぎ込んだ。

だが、本質はこうだ。ミレニアムに既に日本社会環境は悪化していた。そして、その
悪化を立て直すのではなく、制度をそのままに破壊され続けるまで、続けると決めたのだ。
誰がというのであれば、自民党がそのような日本にしたし、そのような自民党を日本国民
が支えたのだ。多くの日本人が、痛みを引き受けることを放棄したわけだ。

けれども時間はとまらない。払わなければならない年金は膨大になっていく。
仕方がないので、年金は増額し、介護保険料なる税金も増やした。それでは結局
たりないので、政府は国債を発行して、その金を年金に流している。実をいえば、
国債によって作り出した金は老人たちを支えるために使われているのである。
およそ、300兆円はそのために使われた。

要するに老人向け「ベーシックインカム」はとっくに実施されているという事だ。
そして、それは老人向けであって、若者は搾取の対象でしかないのだ。

安倍政権になって、株価があがり、為替が下がり、大企業の一部は儲かった。
企業の内部留保はますます増加した。要するに、金を動かす人々にとって、安倍政権は
好ましい政治であったのだ。一方で、庶民にとっては、労働力を安く買い叩かれ、
なけなしの手取りからものを買う時に10%もの税金を取られる事になった。保険料は
増え、実質的な増税があちこちで行われたのだ。その結果、不景気にあえいでいる。

構造的にみれば、この8年で、大企業と金融業界は儲けた。それはもうかなり儲けた。
そして、それは国の異常な政策たとえばアベノミクスなどによって、実現した。
その結果、社会的歪はますます大きくなり、不当に低い賃金で働かされる労働者が増えた。
社会は分断されたのだ。

こうして、そもそも平和時に格差が広がるものを、社会制度的にさらに格差を
冗長する政策を行った。これがこの20年の自民党政治である。3年っぽっきりの
民主党政治など無視していいだろう。

何度も何度も、ここで繰り返してきたが、若者はこの状態に文句をいうべきだ。
はっきり言おう、若者は搾取対象であると。奴隷よりかはマシだが、奴隷よりも、
自尊心を奪われた。その意味では、奴隷よりも状況は悪い。自分の生活がみっともない
と思うのは、若者自身のせいではない。時代のせいである。今は、それを若者自身の
せいにする仕組みになっている。

安保法制に対する活動としてシールズというものが立ち上がった。私にはあれは
一つの機運になると思った。だが、すぐに鎮火した。一方で世界では、環境問題
についてグレタ氏が立ち上がり、今アメリカではBLMが広がった。日本の若者は、
何も知らないか、長期政権化した安倍に親近感を覚えてしまった。そして、自らを
奴隷化する事に励んでいる。もっと知らないと、搾取されるだけになるぞといいたい。

少し付け加えるなら、勉強・受験という椅子取りゲームに若者は参加させられている。
椅子取りゲームは、絶対に敗者が生まれる仕組みである。その仕組に参加したという
ことは、勝たねばならないという事になる。負けると惨めな人生が待っていると脅される
からだ。むろん、嘘である。大人は簡単に嘘をつくので注意する必要がある。

さて、ここで若者は大人のずるさに気がつく必要がある。そのずるさとは、
椅子取りゲームの椅子の数は、大人の事情ですぐに変えられてしまうという事だ。

ロスト・ジェネレーションとは、いざ椅子取りゲームになった段階で、椅子を
減らされた人々である。そうして、本来励んできた椅子取りゲームが厳しいものになった。
社会から排除されたと感じた一部は、社会に恨みをもったし、それをクリアできなかった
と自分をせめた人は自殺をしてしまった。

このゲームのずるさがある。椅子に座れなかったのは本人が悪いという言い訳が成り立つことだ。
大人たちは、自分たちの椅子を年金という形で確保したくせに、若者には自分たちの椅子が
減ることを恐れて、椅子を用意しなかった。その上で、若者に「お前らは努力が足りない」
とか「甲斐性がない」などとのたまうのである。腐れ外道である。

今もなお、国は借金をして、老人たちの椅子を確保し続けている一方で、若者に対する手当は
殆どない。むしろ、若者には借金をしろとまでいう。どこまでバカにしているのだろう?
まあ、若者は票が少ない。政党を維持する人々は、ターゲットを高齢者に絞るだろう。
これが、民主主義の欠陥である。マジョリティになれなかった人たちが虐げられるのが
議会制民主主義なのだ。

世代論を回避する人々は、この椅子取りゲームの勝者である。各世代に勝者がいるので、
世代論を無意味と破棄する。それは発言力のある学歴がある人々にこそ内面化されている。
よって、この事が問題視されることはない。だが、明らかなる世代格差がある。
世代論を亡きものにする議論であったら、嘘つきと思うべきである。

結局、安倍自民党は、大企業優遇の政策を推し進めた。その恩恵は今の老人たちと、
大企業につとめる人々、官僚および椅子取りゲームに勝利した若者たちである。
あとは、この仕組を維持するために犠牲になった。その上で、犠牲になった人々に
自己嫌悪を植え付けた。「椅子取りゲームに勝てなかったのは、自分が悪いのだ」と。


これが事実である。だから、世間で意見を聞くと、安倍政権の評価は分断されるのだ。
自分の置かれている状況によっては、安倍政権を支持するだろうし、批判される。
一部の人間はいい思いをしただろう。例えば金融だ。金をつかった賭け事に興じた
人々は、確度の高いレースをした。その結果、8000円程度で買った株を2万ほどで
売ることが出来た。資本が大きい人々がどれほど儲けたことだろうか。その儲けた金とは、
国の借金である。国が株式市場に金を突っ込んだ。その金を、取引に参加した人間たちが
掠め取ったというわけだ。結果としてだが。彼らは負ける可能性があったのだから、
その賭けに買った我々の文句を言うなとのたまうだろう。そして、それなら、お前も
参加すればいいのだと。

だが、元々を考えてみると、それは言いがかりだとも気がつく。利殖するだけの余った
資本がある人間は、椅子取りゲームの椅子に座った人間である。それを忘れてはいけない。
そこに座れなかった人間は、利殖に回す金はない。あっても、たかが知れている。
そして、負けるリスクをとることが出来ないのだ。

この辺りもまた大いなる欺瞞だと思う。私には不正義に思える。国がした借金を、
金持ちたちがゲームをして山分けするというイベントがあったわけだ。そのイベントに
参加するには手元に資本がないとだめだった。手元にないのはお前のせいだという
理屈が出てくる。だが、そもそも、国の借金を金持ち同士で分配するということ自体が
不正義そのものだろう。その借金は、むしろ、金のない人々を支えるために使われる
べきではないのか? すでに金を持っている人々になぜ、さらなる金を分配する必要がある?


私はとにかく、こういう一見するとまともに見える、大いなる欺瞞が許せない。
なぜなら、その利得は若者や弱者からの搾取だからだ。国借金のために消費税があがった
のだから、その金は弱者からのものも含む。それを金バラマキイベントに参加するか
しないかで区別するのは、国による完璧な差別行為だと考えるからである。
ならば、全員に等しく配るのが正しいのではないか? 一部だけでうまくやる事で、
社会から搾取する行為はやはり変であろう。


ホリエモンなどが言う。貧乏にあえぐのは、自分の努力が足りないからだろうと。
少し調べれば、もっとマシな職があるのにそれを探さないのは、怠慢だからだろうと。

たしかにそれには一理ある。情報を得るというのも能力だからだ。
だが、国が集めた金は、国民になるべく不公平にならない形で使うべきであろう。
それが無理というなら、国などやめてしまえという事になる。国が税金をとる理屈が
崩壊するからだ。最適な予算分配など存在しない。つねに偏ったものになる。だが、
それでもなお、バランスをとろうと努力すべきであろう。

安倍政権には、このような発想は一切ない。ただ、嘆願され、金や票を融通する人々に
金を配る。それがおよそ日本の政治家の仕事なのだ。公平性などそもそも担保されない
のだ。よって、税金とは体制側の人間に都合で使徒が決定される権力以外の何者でもない。

安倍政権がやったのは、結局、このような社会分断を作り出したという事だ。
正確に言えば、社会の構造上、分断する以外にできることはなかったということだ。
世代間格差を増やし、富めるものと貧するものを分断した。貧するものは情報弱者でも
ある。金儲けイベントに参加することもままならず、経済格差が固定されていく。

そういった中で、少なくない人々が貧困化し、そのカウンターとして一部が富化した。
それをとにかく冗長したのが安倍政権である。

理念もなにもない。ただ周りの言いなりで動いた。だから便利だった。
その便利な操り人形は、存在の自己矛盾の中で、病気を引き寄せた。おそらく身体は
正直だったのだ。からっぽな行動を8年もやらされて、耐えていること自体が不可思議だったのだ。

社会正義ってなんだろうか。
問題は、安倍政権そのものではない。それはあくまで象徴に過ぎない。
その政権が倒れてもなお、人々の生活は変わらず進む。

安倍の貢献は、忖度といった、政治と経済界のズブズブ関係をあからさまにし、
隠蔽を重ねに重ねた結果、裸の王様になるということが、どれほどみっともないかを
顕にした点であろう。私は、愚昧な政権がなくなって、せいせいした。

その一方で、これから出てくる次のリーダーは、どう舵をとるのか、それが
問題であろう。まともな大人を望むのだが、きっともう無理なのだ。

日本は名実ともに沈没する。今回の安倍の辞任とはその号砲である。
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一つの結論ー男女の事ー [思考・志向・試行]

ここで留意したいのは、ここでは統計的な男女の描像ということだ。
個々人や、特定の組み合わせにおいては全くこの限りではなく、むしろ真反対というペアも
居ることだろう。ずるい言い方だが、先にエクスキューズしておく。

男はもっぱら、種を蒔く。
女はもっぱら、子供を産む。

これが男女の性の役割分担である。この役割を全うしようとすると、
男は、なるべく多くの女性と交わり孕ませる事であり、
女性は、なるべく優秀な男の種から子供を産む事である。

これがどれほど内面化しているかは、個人に依るが、これらを否定する材料が
あるなら教えてほしいほどだ。人類が生存を続けているということは先のテーゼが
守れられてきたという事になる。

一方で、人はかなり環境や学習の影響を受ける。よって、上記の事を是としない
文化、そこまで言わなくとも、倫理などが生まれても不思議はない。その本質は、
社会を維持するという事に他ならない。

人は社会維持のためには、自制心を発揮すると言っていい。
それは社会活動を円滑にするという意味でもあり、社会への適応という意味でもある。
これは悪についての議論でも同じだった。悪とは本質的に存在しない概念である。
善を生み出すことで悪が生まれる。行動のコントラストといえるだろう。
そのコントラストは、他者が自制を発揮する際に生じやすい。

人がもともと持ち合わせる生物的行動。3大欲求を否定する人は多くないだろう。
そのうちの性欲についての本質は先に上げたテーゼであり、それは男女の差がある。
そして人々がこのテーゼを否定されたり、抑制される事で、さまざまな軋轢が生まれる。
そこに葛藤がうまれ、欲情が増幅される。

社会はこの葛藤や軋轢を可能な限り減らそうとする。
また、社会は可能な限り先のテーゼを肯定する形で社会を構成するだろう。
その結果が、現在の婚姻制度であり、男女間の関わりなのだ。

だが、その本質には常に先のテーゼが横たわっている。そして、そのテーゼのままに
行動することは、大抵の場合、社会的な干渉を受けることになる。

つまり、現代日本において、男女間の関係性は、生得的感情や情動とそれに対する社会的抑制
や制度への適応によって、記述される出来事だという事だ。2階建てになっているとも言える。

これが理解できれば、ほとんどの男女問題は見通すことができる。
例えば、なぜ浮気するのか?

答えはもう書いてある。テーゼの通りではないか。男は、なるべく多くの子を残すため、
多くの女性と関わろうとする。女は、なるべく優秀な男の種から子をなそうとする。
まんまである。よって、テーゼが否定されないのであれば、浮気は必ず発生する。

あとは、この浮気が社会的な維持に役立つかどうかだけである。社会的な維持に役立つなら、
社会はこれを歓迎し、反するなら、罰が生じるだけである。現代日本では、刑法は廃止された。
その意味では、浮気は社会維持を破壊するとまでは言わない事になった。一方で、社会的な
制裁は行われている。その意味では、社会維持に不穏な空気を及ぼす行為とみなされている。

そもそも、女の浮気が罪に問われていたのは、社会制度の根幹だからである。
家制度をもつ日本では、家の維持つまり社会の維持が命題だった。その家とは、家の役割を
長子相続していくというものだ。よって、子供が自分の子であるかどうかが大事であった。
では自分の子供であると確実性を担保するにはどうしたらいいのか、それは女を囲っておく
事である。そして自分とだけ交わった結果として、子ができれば間違えないだろうという
感性である。

よって、姦淫罪が存在していた。そして社会はそれを是認していたのである。

ところが、この制度は明らかに女性のテーゼに反する。女性は可能な限り、優秀な男の種を
を得て子供を産もうとする。すると、婚姻関係にあろうがなかろうが、「この人!」と思う
人の子供を産むことが大事である。ここに軋轢がある。

一方で、男の浮気がこれほどに叩かれるのは、これもまた社会制度を揺さぶるからである。
女性は常に子供を育てるという仕事がある。その育てるためのリソースは男から得るほか無い。
そういう社会が今制度化されているからだ。子育て中に稼ぐ手段がないという事であるが。

そうすると、子育てをしなくてはならない女性は、リソースをどうにか確保する必要がある。
それを当然ながら、男に要求する。その根拠は「この子はあなたの子である」だ。そして、
男の浮気とは、リソースが他の女性に割かれてしまう可能性があるという事だ。ライバルの
子供が増えれば、その分、自分たちの身が危険という事である。ここに軋轢がある。

ということで、男女ともに浮気は社会的維持のためには浮気は避けるべきものとなる。
だが、テーゼはどうなった? そう、テーゼからいえば、浮気は肯定されるべきものである。
ここに矛盾がある。そして、その矛盾があるからこそ、欺瞞や葛藤が生まれる。

生まれた葛藤や欺瞞の感情は、どう処理されるだろうか? 端的には我慢。
我慢が効かない場合は、小出しにする。もしくは一線を超えて秘密にする。
どう処理したとしても、その後ろめたさは変わらないだろう。社会的に肯定されないのだ。
このような感情は100%消え去ることはない。自己に生じた不快な感情は、どうやって
解消すべきなのか?

運動する? 歌を歌う? 何かしらの芸術やスポーツなどで葛藤感情を紛らわす。
もしくは酒を飲んで、タバコをすってうさ晴らす。本質的解決には程遠い。

私は、このように生得的な欲求の社会的抑圧が、諸悪の根源、邪悪さの根源なのだと思う。
それは、男女の性欲に限らないことだろう。自己承認欲求が満たされない事や、馬鹿にされ
続ける事に対する欲求不満、こういう事が他人の足を引っ張る事や、恨みとなり、その感情を
共有する他者が集団化しときに、社会に悪影響をもたらす。

社会から劣った者というレッテルを貼られた若者が数人でバイクで爆音を出しながら暴走する。
自分たちをコケにした社会というものへのプロテストである。受け入れてくれないなら、自ら
はみ出てやろう。そういう事をするのは、実はまだ良い方かもしれない。まだ表現があり、
訴えがあり、その暴走によって特定の感情が解消されている。


さて、再度男女の話に戻ろう。浮気をするのはテーゼだからだった。だが、それは可能性で
あって、実行するか否かは自分の一存である。では、どうして浮気を実行するのか。
自制にやぶれだけが問題だろうか? 実態はもう少し精神的なものではないか?

大脳は生得的な欲求にかなり抗える。たとえば、自殺を考えてみればすぐにわかろう。
社会的な制裁つまり大脳による妄想は、生物としての生存維持システムを乗り越えていく。
拒食症などもまた、大脳の強力な力を表している。ならば、どうして浮気は乗り越えられないのか?

人は意思の力を信じすぎてる。まずはこれがある。社会的な抑圧が生得的な欲求に打ち勝つ
ことはあり得ない。理念によっては、人は動かないのである。これは歴史が証明している。
資本主義体制が共産主義よりも長生きなのは、よりヒトの欲求に忠実だったからだ。むろん、
資本主義にも欠陥があるのだが。ここではその話はしない。

人が浮気をする時、そのもっともな動機は、同様に生得的なものである。
結婚は社会制度である。理性的行動だ。その理性的行動は、感情的行動に簡単に負ける。
むしろ、感情的に負けるからこそ、理性的に制度化しておくと言える。

おそらく、個人で見れば浮気者は、感情にほころびがあったのだろう。
どんな男女でも時間が立てば、相手への関心は下がる。そこに新しい関係が生じた時、
そちらに心惹かれるのは仕方がない事だろう。それを抑制するのは社会的な圧力だが、
それ以上に、新しい関係性は快楽的なのだ。

寂しい感情を持つ人は、他者からの慰めを必要とする。その孤独への非耐性は、
浮気という行為をもたらす。自分が誰からも求められないと感じた場合、より求めてくれる
相手にすがってしまう。ごく自然なことだろう。もしくはそういう相手を求めてしまう。

男女の関係性は揺らいでいる。その揺らいでいる感情が断ち切られないようにするには
忍耐が必要である。そして、それは生得的な人の能力を超えている。結婚制度は、
それを実行させるための塀であり、囲いである。だが、そもそもの本性とは噛み合わない
のだ。だから、感情だけに重きをおいた結婚は失敗する。必ずだ。

かつての婚姻はある意味で就職のようなものであった。多くのケースでは、
夜の営みですら、子をもうけるというビジネスであったのかもしれない。
そのような婚姻は、持続可能である。そもそもが社会制度として受け入れたものだからだ。

とはいえ、人間である。感情がある。無理なものは無理。半分程度の家庭は、
男女のそもそものスタンス上、崩壊しているといえる。ただ、それでも明日はくる。
我慢を小さくし、その我慢を他の事で解消しようとする。

昨今の韓流ブームやアイドル人気をみれば明らかであろう。
満たされない感情を代替することで絶賛解消中なのだ。
そして、安全でもある。妻が羽生結弦氏に夢中でも、害はないと考えるのだから。

まとめることは必要ないだろう。
そう、男女の関係は常にその根幹が背反しているのだ。そして、背反するシステム同士を
どうにか恋や婚姻という制度で結びつけることで、社会維持がなされているのだ。

むろん、この限りではない男女がいることも私は知っている。割れ鍋に綴じ蓋というような
夫婦だってたしかにいる。だが、男女に横たわるは背反が消えるわけではない。そして、
お互いを心の底からわかり合うことはあり得ない。

我々は無いものねだりをしている。けれど、無いものをねだる事は悪いことだろうか?
いや、その行為を通じて、なお現象を深く理解する事になるだろう。ならば、残念な状態
というのもまた意味を持つ。私はそう思うのだがみなさんはどう思うだろうか。


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悪とは何かー黙考ー [思考・志向・試行]

https://ja.wikipedia.org/wiki/

Wikiが大枠を与えてくれている。よって、細かなことは上記を参照してほしい。
ここでは、善悪の対比や、現実問題として悪とは何かという事だ。

上記サイトにはこうある
「マキャヴェッリはこう書いている: 「[…]善だと考えられてはいるが実際にそれに従うと
滅亡してしまうような特質がある一方で、悪徳とみなされているがそれを実行すると安全が
実現され君主にとって幸福であるような特質が存在する。」

つまり、国おける正義・善とは「国および国民の生活を守る事」であると。
そして、それを怠るような行為は、善とは言えないだろうと。

だが、まってほしい。これは大きな欺瞞である。
マキャベリのいうこの必要悪の話は、その主たる立ち位置を国においている。
そもそもにおいて、国を守る事=善ないしは良とみなす。これが君主論の要諦だ。
だから、このテーゼ以外の事は、一般に悪とみなされる行為も必要悪として肯定される。
目的のために手段を選ばずとはそういう意味である。

では、国を守る必要があるのか? ともっと根源的問を立てたらどうだろう。
そもそも国など必要なのかと。国としての集団化は、根本が防衛である。
ふたつの意味での防衛といえるだろう。一つは生活の防衛。もう一つが他集団からの防衛。
そして、それを実現するのは、暴力装置である。

現代は実際の暴力の発揮は滅多に起こらない。そのためすっかり国が暴力装置である
事を忘れている。だが、根本は国とは暴力装置であり、その暴力性を背景に法律があり、
その法律の内部において、所属する国民は法を遵守し、国に従事する事をもって、その
庇護を受ける。そういう構造である。

かつてはこの国を象徴する主体が人であった。つまり王である。
王なる存在が国という存在の象徴であり、王の命に従うことが国の存続そのものを
担保していた。いわゆる封建主義である。

だが、ルターらによって、解釈が変更された。現代では、国とは国民によって構成された
集団を指す。とはいえ実働する場合は主導する人間が必要なので、行政が存在し、そこで
働く官僚がいて、その上に立法を行う政治家たちがいる。国民はこれら機能を委託している。
そう考えるのが近代である。だから、国民は委託先の人間たちが行う政策に対し、どんな
文句を言っても良い。誤解がないようにいえば、個人として存在に対して非難を行うのは、
不当である。(安倍政権の政策の悪口はいくらいっても問題はないが、政治家個人の属性に
対する悪口は、ただの悪口に過ぎない)。

そして、これらを規定しているのが憲法である。憲法とは委託先の人間の行動を制するもの
である。また、委託先の人間が実行する政策の指針となる。だから、憲法は国民にとって
非常に重要である。にも関わらず、日本ではマトモに教えたりしない。なぜなら、教育が
その理念を有名無実化しているからだ。日本での教育とは、日本国民奴隷になるための手段
になっている。そして、そういうものだと自覚している人間は殆どいないほどなのだ。
ややこしいのは、人類の知識の授受もまた学校教育を通じて行われるので、全面的に否定
すべきものでもない。このようなとある概念に含まれる良し悪しにはグラデーションがあり、
一つの概念に価値判断を与えるのは、かなり丸め込みがある事には常に注意する必要がある。

話を戻そう。
国とは、本質的にその所属者たちを生活の面や他集団から防衛するために組織されている。
ならば、国が行う事が、生活や侵略からの防衛に機能するのであれば、どんなことでも
ありなのか? 否であろう。

21世紀は個人の時代である。その価値観をベースに置くのならば、国が個人の行為に口出し
出来る事は、個人が悪をなした時だけである。その悪とは何か? これが問題なのだ。

先のWikiにあるロウバウマイスターの悪の定義は、我々が素朴にもつ悪に対する感情だろう。
だが、必ずしも常に悪とは限らない。置かれた立場によっては悪ではないのかもしれない。
こういう事が、Wikiの哲学的問題に記されていて、絶対主義、虚無主義、相対主義、普遍主義
という悪に対する態度によって主に分かれるといえる。

子供の頃は、白と黒と断定しがちであり、おとなになるに従って、グレーを理解する。
その意味では、絶対主義や虚無主義はやり過ぎだと考えるのは大人である。
そして、理想としての普遍主義を考えたくなるのだろう。つまり、誰にとっても悪と
言えることがあると。

だが、考えてみてほしい。他者を暴力的に傷つける人間がいたとしよう。その人間は
いわゆる殺人鬼かもしれない。我々はそれを悪と解釈し、法律的に罰したりする。
では、殺人鬼の方からみたらどうだろう。社会は自分の行いを妨害してくる。その妨害は、
彼にとっての「悪」ではないのか。なぜ自由な行動を制約されなければならない??

他者によって、行動を制約されることを悪というのであれば、法律はどうだろう?
我々は国によって法律を押し付けられている。その遵守において、我々は国に生きられる。
もしくは、行動を許容されている。行動の制約が悪というのであれば、法律の遵守を義務
づけられる我々は、国から悪を受けている事になる。

個人的に暴力を発揮し、他者に自己の要求を通すという行為を、
我々はダブルスタンダードで捉えてるわけだ。

自己中心的な要求を押し通すために、とある個人が暴力をふるえば、それを悪と呼び、
集団や国が、同じく暴力を背景に法律を押し付ける事をやれば、それを善と呼ぶ。
もうすこし拡張し、国が他国からの侵略を防ぐという目的で暴力を振るうことを正義と呼ぶ。

もうおわかりであろう。そもそもにおいて暴力を振るう行為自体に善悪などない。
そういうことだ。悪と善の間は、暴力行為に実際におよぶか、そこまでいかないように
牽制するかの違いでしかない。そして実際に行為に及んでも、その行為目的によっては、
暴力は善にも悪にもなる。

こうかくと、ここでは善悪に対して相対主義をとることになる。
文化的なものや、人々の共通了解によってのみ善悪が生まれると言う主張である。

もう一歩すすめてみよう。もしすべての国がなくなったとしよう。
すべての人が人類という群れで住んでいるとする。そこにあるのは、ヒトという生物である。
そのヒトという生物が取り得る行動は全て肯定されるだろう。つまり悪などないのだ。
どれほど残忍であっても、どれほど悲惨であっても、悪などそもそもない。

我々はもっともプレーンにみれば善悪を作り出しているのであって、アプリオリに
善悪があるわけではないのだ。そして、人類は善悪を発明したのである。

ヒトの歴史によって、善悪を作り出した。善悪をダブルスタンダードで規定する事で、
社会維持が人々にとっての局所解になった。そしてうまれた組織つまり国が存続し続けて
いるというわけだ。なぜなら、国とは暴力的であるために、平和的な人々は存在しにくい
からである。

国の属する人は必然的に、国の暴力を肯定する考えを内面化する他ない。その一方で、
個人に依る暴力を否定する価値観を内面化する。これが現代人の特徴である。

このような人物が善悪を語れば、さきのWikiのような悪の項目になる。
悪とは所詮、そんなものなのだ。国という枠組みから離れた時、人は本質的な自由になる。


私が気にしていることの一つは、国から離脱した人、つまり法外の人にとっても、
現代的善悪は自動生成するのかどうか。また、善悪は人をしてそこまで重要なのかどうか。


最後にWikiにある、自制心というものだ。
我々が自制心を発揮し、暴力の発生を防いでいる。我々はそれを社会から要請されている。
自制心を発揮できない人間は、社会から排除される仕組みだからだ。だから親は子供に、
ひたすら自制心を植え付けるように鍛える。自制心をつねに発揮しなければならない人は、
日々の生活が大変だろう。一方で、社会道徳を内面化した人は、自制心を発揮する
場面がなくなる。結果として、その方がこの社会には適応的なのだ。

結局、社会というものを環境であるとみなすならば、人は脳を駆使して、社会が是とする
道徳や思考を適応的に受け入れる。それによって社会との齟齬が減ると学ぶわけだ。
善悪もこの社会的環境であろう。



蛇足であるが、現代的な問題に触れたい。
自制心を発揮したくない人がいる。その人が、もし自分の要求を通さないならば、
暴力を発揮するぞと脅したとする。周りは仕方無しに、その要求を認める事で、
その暴力を回避する。ただし、不道徳な人物は不問にされてしまうとしよう。

これがまかり通るなら、暴力を発揮するぞ!と脅したもの勝ちである。
実際に封建社会とはこの通りであったはずだ。

これをマイルドにしたのが現代の権力構造である。もし自分のいう事を聞かないなら、
金をやらないぞ!と脅す人々がいる。金が権力とはそういうことだ。金の運用を決める
決定権を持つ主体はつねに、暴力をちらつかせることが出来る。

国レベルでやれば、権力問題であるし、個人レベルでやればDVや虐待である。
実行しない所まで脅すというのが、現代ではそこかしこで発揮されている。
実際に行為してしまえば、それに対する社会的制裁があるからだ。

結局、自制心を発揮したくない人が最後に気にするのは社会的制約だけだろう。



現代の価値観として、得をしたものが偉いという概念がはびこってきた。
損を求めるとは、限りなく愚かしいと判断される。これが子供時代から刷り込まれる。
得をするために、もし暴力を発揮するぞと脅すことが可能な時、自制心を発揮して、
損な状態を保持することを是とする道徳はどれほど有効だろうか?
また、一度得をする事に加担してしまえば、それ以降に損をする行為を自ら選べるだろうか?

安倍政権にすりよれば、スポンサーとして金が流れてくる。儲かる。その見返りに票を
集めたり、献金をしたりする行為となる。メディアなら批判報道をしないなどであろう。
ただ、彼らの要求をのみさえすれば、得をするならば、それが社会的にグレーな行為でも
やってしまう。むしろ、なぜやらないのか? そう思うのが現代日本人の価値観である。

持ちつ持たれつ、などといい、社会的正義はただの建前になる。
なんだかんだいって、金という暴力の前に皆が屈している。
ここに苦悩する人々がいる。

経営者は、社員を守るためという。
個人は、家族を守るためという。
そのためには、社会的にグレーな事も是とする。当然の行為である。
マキャベリを思い出そう。組織の存続のためにはグレーは許容されるのだ。

結局、現代のおかしなことは、建前と本音の軋轢に端を発している。
すべての悪は、解釈をし直せる。だとしたら、悪など無意味な概念だ。
ずるいことや汚いことでも、自分の生存確保のためなら、手を染めるほか無いではないか。

もちろん、これは大いなる欺瞞である。

社会ルールは、その社会が存続するためにある。それを本音レベルで破壊したらどうなるか。
自制心を発揮している人からみれば、それはずるい事である。そのずるを皆がやったら
どうなるか。社会はもたないだろう。社会は崩壊するはずだ。ルールからの逸脱が増えるほどに。

現代日本は、かなり危うい。実態に合わせて社会ルールを変えようとしている。
憲法しかり、法律しかり、TPPしかりである。多国籍企業に有利になるように、
ルールが変更されてきた。それは、社会を存続するためのルールに抵触する。

現代日本の生活が苦しいことがあるならば、それはおよそ社会の存続ルールを
逸脱した行為が横行しているからだろう。結論からいえば、国は滅びる。

慢性的に自殺に向かっている。それが今の日本である。あとはどれほど緩やかに
行われるのか、ハードに落っこちるのかの違いだろう。

もう、私にはお手上げに見えるのだが、どうして他の人はのほほんとしていられるのか
全くの謎である。
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邪悪な人々ー隠蔽する心理ー [思考・志向・試行]

あなたは、邪悪な人にあったことがあるだろうか?

不機嫌な人や、短気な人、いわゆるDQNなど、一見して悪人というのは実は数少ない。
むしろ、邪悪な人はいわゆる「普通」なの中にいる。

例えば、不当な要求をする人々がいる。
それは無茶ぶりの上司だけではない。過剰な待遇を求めるモンスターや、
いつも不機嫌な人などがいる。彼らは、その行為を無意識に行っている。
そして、周りを自分の思うように動かすのである。これは、小さい頃からの癖である。
つまり、親の育て方が間違った結果である。

ありがちなのは、ダダを捏ねる事で、大人たちを操ってきた人々が
そのまま大人になることである。男なら暴れることで、女性なら泣くことで、
自分の思うようにする。周りが困る事を行い、それによって「権力」を駆使するのである。

些細なことに思うかもしれない。だが、人の社会では、一見すると同情を引く事や
心配させる事で、相手の感情を確認したい人々がいる。自分への興味を確保しようとする。
それがこじれると人格的問題をおこし、精神疾患として認められるほどになる。

多かれ少なかれ、誰しもが自分に注目してほしいと考えている。
だが、それも幼児期において顕著であって、その後は自分への視線は自分によって
まかなえるようになる。それが大人の健全さだ。むしろ、他者へ、周りを心配できる
人間になる。それが成熟というものだ。自己よりも他者、近未来よりも、遠い未来の
あり方を想像できるのが、健全な大人だ。

ところが、邪悪な大人たちは違う。彼らの目的は、自己愛を満たすこと。ナルシシズムである。
恐ろしいのは、彼らの行動の主目的が自己愛であるために、周りをみているようで見ていない
事だ。彼らは他者の悪口を生業としている。なぜか。それは相手が自分の思うように振る舞わない
からである。それは言い換えれば、自分にとって都合の良し悪しが他者評価そのものだからだ。
そして、大抵彼らの要求はワガママであり、他者のためでなく、自己のためであるがため、
反感を招く。その反感に対する反応が「あの人は意地悪である」や「あの人は冷たい人」である。

よって身の回りの他者への悪口ばかりの人は、自己愛を満たそうとしているのかもしれない。

一方で、昨今では、このような自己愛を満たそうとする人間で溢れているがために、
マトモな人が”悪口”を言わざるを得ない状況である。自己愛に生きる人間は、他者を
自分と同じ存在であると考えないために、いいように使おうとする。そして、頻繁に
事実を歪めて捉える。これが様々な点に及ぶことで、危機的な状況を招くのだ。

邪悪というのは、悪いことをダイレクトにするだけではない。
むしろ、自分を守るため、取り繕うために、他者をスケープゴート化することだ。
要するに悪とは「自己の快適性を守るために、事実を無視するか、歪めて捉え、
その解釈を他者に強要し、その自己矛盾の解消を弱い誰かになすりつける」という事だ。

例えば、親が子に要求された時、それを口約束したとする。守るつもりもない約束だ。
いや、その時点では守るつもりだったのかもしれない。だが、いざ親がそれを果たさないと、
子供になじられる。なじられた親はその不誠実を謝るべきだろう。しかし親はこんなことを
いったりする。「お前がいい子にしてないから、それは果たされないのだ」などと。
つまり、親の過失を子供に責任転嫁するのである。

同様に、会社内でも、上司がとある事業計画にGoを出したとして、それが頓挫したとする。
すると、その上司は、その事業を提案したAという部下に責任を押し付けたりする。「君が
推すプランだったじゃないか!どうしてくれるのだ!」などと。

これがもっと酷くなると、成功すると自分の功績、失敗すると誰かのせいという事になる。

更には、上司は決定しないようになる。責任を取りたくないので、意思決定を回避する。
部下がAプランで行くと決めた事を、追認ないしは黙認するのだ。すると、責任は部下が
追う。だが、部下には決定権はない。そういうおかしなコミュニケーションが発生する。

ここに含まれるのは、とにかく「ウソ」である。そして取り繕いがある。
また一方に、事実を歪めて受け取るという行為がある。その動機が自己愛に由来する事が
しばしばあるのだ。そして大抵は、歪める事実には都合の悪い真実があるのだ。

邪悪さは、ウソから生じている。それは意識的なだけではない。むしろ無意識的に
さらっと出てくるのだ。それもあたかもまっとうに聞こえるような言い訳が。
それを我々は許容してしまう。場合によっては、そのウソに乗じることすらある。

とりわけ、個人を超えて集団において我々はどうも未熟になる。
個々人をみれば良心的であっても、集団になると愚かになってしまうのだ。
それが、企業や組織、国といったものの倫理欠如を招く。

その理由はなんだろうか? おそらく単一の答えではない。様々な要因があるのだろう。
精神科医M・スコット・ペック氏によれば、
・分担による専門家(責任の拡散)
・従属による責任転嫁
・ストレスによる退行
・選抜されたメンバーの偏向
・集団的ナルシシズム(集団維持のために)

こういったものが発揮された時、集団もまたウソをつく。
たとえば、日本がアジアに侵略したという事実を隠蔽し、その結果についても
意図的に子どもたちに教えない。この背後にあるのは何か? 

ことの本質からいえば、集団の主目的との矛盾は、集団の有り様を妨げるからに
他ならない。国がどうして戦争時にウソをつくのか。それは、国というものが
「戦争のために存在している」という本音を隠すためでもある。そもそもが隠蔽
されているがゆえに、集団の目的遂行時に、ウソが発生するのだ。

子どもたちに、国というものの存在は争いを起こすためにあるときちんと教えないが
ために、なぜ戦争を起こすのかを理解できないままにしてしまう。それは大きな欺瞞である。

同様に、集団の本質は「集団状態を維持する事」である。それが目的化しているのであって、
集団が何か役立つことをするとかではないのである。

同じく、個人もまた、個人が存続する事が本質だ。その目的のために我々は行動する。
これが本音であって、それ以外は些末なことである。仕事による自己実現とか、金を得る
事で持てる快楽とか、性愛による自尊心の確保、あらゆる場面において、個人が存続できる
かどうかだけが、問題となる。

一方で、社会にはルールがある。そのルールを内面化し保持するには、どうしても、
個人の欲求は制約が加えられる。あらゆるレベルにおいて同様なのだ。その制約、
つまり欲求の抑制は、個人内においてすら困難である。だから、人々はウソをついて、
その欲求をマネジメントする。欲求をなかったことにしたり、他人を利用して、欲求を
実現したり、自己の欲求を無意識によって実現する。これをひとえに邪悪という。

そして、その個人がまとまり集団化するとますますマネジメントは困難になる。
集団の欲求を抑制する機構はあってないようなものだ。国という集団において、
国の存続以上に大事なものなどない。国の内部に国存続可能性を抑制する作用を
持ち続けられるだろうか? 法律や憲法は、国単位の抑制機構としても意味をもつ。
だが、しばしばそれは無視されるだろう。なぜなら国という役割が危機に陥ってる
からなのだ。存続できなければ、法律や憲法自体が無意味になる。だから、それを
超えて、国は欲求を実現しようとする。

その国の内部では、分担がおこり、責任は分散する。個々人は国の方針に不賛成でも、
不満でも、国はその存続のために有効な行為を非道にも行うのだ。そして、そのためには
嘘を付く。個々人の欺瞞を封じ込めるウソをだ。たとえば、日本はアジアに侵略したの
ではない。欧米諸国からの解放のために戦ったのだと。これを100%の嘘とは断定できない。
だが、事実は、日本がアジアを攻め、そこに第二、第三の日本を作り出そうとした。その
行為自体は否定できない。その目的がどうあれ、国というのはそういうものなのだ。

大事なのは、国が存続しているということは、どこかで手を汚したという事実である。
なぜなら、国とは戦争に勝つために作り上げられた組織なのである。その組織の存続とは
手を汚すということと同義である。ならば、国存続にあたって、なんらかの殺戮が
あったはずなのだ。

ところが、自分がそのような責めを追うという事を理不尽だとし、自分は潔白なのだと
思う人々がいる。それは原理主義であるが、それを信じてやまない人々がいる。
それはワガママというものである。自己愛に過ぎない。汚れた自分は愛せないという
論理から、自分は汚れていないと夢想する。その嘘こそが、悪を生み出す。

かつての先祖が責めを追う事。我々はそれを受け入れる必要がある。
そして、その責めに対して、今の我々に何が出来るのかを考えるべきなのだ。

自分は悪くない。そういう思想に固執し、自己愛を満たす事に汲々として生きる。
それは事実を歪めている。個人という意味では悪くない。だが、国というレベルでみれば、
残虐な行為があった。それは紛れもない事実である。その直接的な責任を子孫が担うべきか
どうか、それも含めて、解決を探らなくてはならない。それにはともあれ、その事実が
あったことを受け止めなければならないのだ。

さて、もう分かったであろう。
邪悪さとは何かを。事実から目を背け、その事実を亡き者にする事であり、
その責めを弱いものに押し付ける事である。我々には残念ながら、多かれ少なかれ、
責めをおうだけの事実がある。まずはそれを直視しなければならない。

ごく普通の人々こそが、邪悪の源泉なのだ。


【追記】

国というものが残虐性を担保する組織なのだとしたら、
ネーションステートはどんな美辞麗句を駆使しても、その欺瞞から逃れられない。
そういう結論をここで得たことになる。

つまり、国に属する人間が、残虐性を否定するならば、必ず欺瞞生じるという事である。
欺瞞の解消には、2つの道しかない。現状の国というものを保持するならば、人々は
残虐であることを肯定しなくてはならない。もう一つは、現状の国を解体し、残虐性を
否定した形で国を構築しなくてはならない。だがそんな事は可能だろうか?

現状において国の形態は世代を超えていかねば変わらないだろう。
その意味では、現在は残虐性を肯定する国に住むことになる。もうちょっといえば、
本音では残虐性を承認しつつ、建前ではそれを否定する組織という事だ。

この形態の問題点は、はじめっから存在する矛盾である。
国という存在自体が矛盾で生まれた事になる。我々の良心は、汝殺すことなかれである。
だが、国の目的は敵を自己愛の元に殲滅せよである。まったくの矛盾なのだ。
この矛盾がある限り、我々は決してゴールに辿り着くことはない。

残虐性を廃した国は可能なのか? おそらく無理だろう。他国から侵略をナシに出来ると
思わない限りは。国連とはそのために発足したが、果たして現状において残虐性を廃する
事は難しいと言わざるを得ない。

では、残虐性を肯定する国は可能なのか? それは個々人の自己愛と正面衝突する。
自分は事があれば他者を容易に殺戮する存在であると自己認識しなければならない。
だが、そんな事をすれば、暴力に怯える不安定な人間ばかりになる。いや、実際問題として
人間はそんなふうに出来上がってないというべきかもしれない。日本兵の多くは、戦争の
無残さに沈黙したことがその証左である。

つまりいくもかえるも、袋小路である。
残忍性を保持する国を、良心をもった国民で構成している。これが事実だ。
もう一度繰り返すと、
・残忍性を肯定すると良心をもつ個人は矛盾に苦しむ。
・残忍性を否定すると、国という存続は困難になる。

大抵の場合、我々は都合よく切り替える。
つまり、国の問題を取り上げるときは、残忍性を肯定する。防衛に力を注ぐということは
そういう事だ。一方で、個人の問題をとりあげるときは、残忍性を否定する。誰かがお前は
残忍だというと、狂ったように否定するはずだ。欺瞞を保持したまま矛盾を生きる。

前提が矛盾していれば、その内部の人は問題に直面するのは明らかなのだ。
現代人は、明に暗にこの矛盾に揺さぶられている。

先の戦争によって、日本国民のほとんどが、戦争を否定した。つまり国の残忍性を
否定した。そして、戦後は残忍性を廃した国が作られるはずだった。だからこその
憲法9条である。だが、まるで結果は違った。むしろ、その理念が高潔であるために、
強い強い自己矛盾を持つに至っている。

朝鮮戦争が始まると、GHQは日本にそれとなく暴力装置を作り出した。
そして結局、自衛隊になった。その存在自体が欺瞞であろう。
日本は戦後、人類における実験だった。国の残虐性をなくした組織は可能かどうか。
だが、その思惑は小さくしぼんでしまい、結局、普通の国になった。つまり、
国が残虐性を保持し、個人は良心に生きるという形だ。

安倍内閣を始めとして、憲法改正論者の主張は、なんならこの矛盾をなくそうという
試みに一見すると見える。だが、全然解決にならない。なぜならば、残虐性を保持する
国家というのは、過去に戻る事である。つまりありきたりの国になることだからだ。
そして、国レベルの残虐性保持と、個人の良心の間に葛藤はまるまる残る事になる。

まあ、彼らの主張を押し通していれば、何世代もあとには、個人の良心は溶けてなくなり、
残忍性をを保持した国と、残忍性を保持した個人という組織になるのかもしれない。
いや、極右の人々はまさにそういう国を志向しているのである。個人は兵隊であり、
平和時には田畑を耕していればいいと。だが、いざとなったら戦えと。国という体制側の
人間のために。

もっといえば、彼らの薄汚いところは、自分たちは手を汚さずに、残虐性は他人に押し付け、
そこで生まれてくる利益を貪るという腐った点にある。もはやヒトとすら言えないだろう。
だが、残忍性を肯定するとはそういう悪魔になり果てるという事である。

もう一方はどうだろう。
残忍性を廃した国が生み出せるだろうか。60年代ヒッピーはそういうものを想定した。
残忍性を持つ人々はシニカルに、そういう思想を「お花畑」として非現実的なものと
して批判する。だが、我々はそういう事をするかしないかの選択する意思がある。
戦争は自然現象ではない。侵略は自然現象ではない。

うまく想像できないのは、結局、国というものを仮定しているからではないか?
私がここ数年考えているのは、そのことなのだ。国というものが存続することは、
人類における自己矛盾の源泉なのだから。

だが、それを乗り越える手段がありそうもないのもまた事実かもしれない。

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敗戦の日 [雑学]

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6368360

こんなニュースがあがっていた。
まず第一に、政教分離の原則に反する。よって、この行為はおかしいというべきである。
少なくとも、私的な行為であるときちんと銘打つべきであるし、だとすると報道する事
ですらないだろう。誰がどこに行こうが勝手にすればいいのだ。それを報道するという
ことの意味を問いたい。

次に、靖国神社に行くといういう意味だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
(ちなみに靖国神社のHPに行こうとすると、安全ではないとFireFoxが教えてくれる。)

1869年に建てられている。明治天皇による。
この神社は、簡単に言えば「選抜死者の墓地」である。
246万人の集合墓地だと思えば、解釈としては正しい。

その内訳は、新政府軍のために戦った人々から、先の敗戦までの軍人を祀っている。

さすがにこの人数になると、誰がどういう経緯で祀られているのかの判別は不能になろう。
現在では、とにかく戦死者に数えられる人は「強制的」に祀られる仕組みである。
よって、これに違和感を覚えた人も当然いる。

勝手に祀るんじゃないという反発もある。
Wikiには、こうある。
「合祀に関して、靖国神社広報課では戦前戦後を通して祭神合祀にあたっての
 遺族への連絡はするが事前の合意は取らない、としており、本人・遺族の意向は
 基本的に考慮されずに神社側の判断のみで行われている。」

「このため、遺族が不満を抱き裁判に至っているものもあるが、靖国神社による
 遺族に対する同意なき合祀によって、原告遺族らの法的利益が侵害されたと
 認められる判決は下されていない。」

気がついたら、勝手に神社の神様になっていたという人々が沢山いるという事だ。
靖国神社に参拝するという事は、これらの人々に頭を下げに行くという意味合いがある。
大問題なのは、戦犯と言える人々と、戦争で犠牲になった人々を一緒くたにまつって
いる事だ。そして、もっと問題なのは戦死者の選別が行われている点である。

第二次世界大戦までという線引の意味や、そのこだわりはなんなのか?
やはりそこに、主義や主張を感じるのは致し方ない事であろう。
それは「明治政府や明治維新」という象徴としての靖国神社という事への違和感である。

もし、良心に基づいた先祖への敬意ということであるならば、
どのような形であれ、戦争に従事し亡くなった方全てを追悼すべきではないか?
その意味では靖国神社とは「戦没者差別」の温床でもある。

加えていえば、神社とは墓ではない事だ。
日本の伝統という事でいうならば、墓は寺にすべきである。
靖国寺という事であればまだ、私は許容できる。だが、なぜ神社なのか?
全く不明である。ここにも、「特別性」という選別意識を感じる。


つまり靖国神社の存在自体が、明に暗に、特別視されているという事だ。
そこが様々な思想的な問題を生み出し、政治的な問題を生じさせる要因である。

私は、靖国神社をどう思うかは各人が考えれば良いと思う。その程度の事だ。
政治家が参拝したければ勝手に行けば良いのである。報道などする必要すらない。
特別視することが、最大の問題だからだ。信仰の自由という点において、好きに
するのが良い。

一方で、公的な存在が参拝をするという意味では話が違ってくる。
それを喧伝するような事は間違っているだろう。例えば、日本が読売ジャイアンツを
応援していると、ジャイアンツに寄付をしています。という事であったらどうだろう?
かなり違和感を感じないか? 一方で、個人的に大好きだから、応援すると言われたら
どうだろう。別段なにも感じないだろう。全く同じことである。その意味では、
政治家の参拝もすべからく私的なものとみなし、職務外に行えば良いのである。


こうかくと、およそ私が「非国民」であるというような批判もでてこよう。
それについて言わせてもらえば、なぜ特定の戦死者だけを祀り上げてる神社への
コメントが「非国民」なのかと言わせてもらう。また、同じ理屈でいうならば、
多くの戦乱が日本にはあったわけで、なぜ「明治期」だけを特別視をして、
それに対する心情をもって他者をジャッジできるというのか?

先の大戦において身内をなくされた方々のお気持ちを察することは、
別に靖国神社への賛同でしめす必要など全くないのである。


さて、今日は敗戦の日である。
不幸にも戦争に巻き込まれて亡くなった方々全てに私は追悼の意を表す。
ご冥福をお祈り致します。

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社会正義とは?ー先進国の無責任 [思考・志向・試行]

最近はあんまり、第三国問題が取り上げられない。
多くの日本人はこれについて何も考えていない。

一方で、これらに責任ある人間たちー政治や経済の学者たちや、政治家ーは、これを
問題視することはない。なぜなら彼らがもっとも目を逸したい問題だからだ。
なぜ彼らが目をそらすのか、それは簡単なこと。自分の「罪」を認めたくないからだ。

なんども、ここでは取り上げているが、一般に日本で暮らしていると、
それだけで第三国から搾取を行っている事になる。現代日本に生まれただけで、
既得権益構造の上に立っていて、その恩恵を小さくも受けている。この事が逆に、
この問題解決に対する問題を大きくしている。

要するに、日本人の誰もが、この問題の当事者だが、その責務は限りなく小さいというわけだ。
国という単位において行われる不平等がそうさせるのである。

ややこしいのは、日本内部における格差問題と、日本と外部における格差問題という
二重の構造がある事だ。この事について、我々はもっと自覚的になるべきである。

人道的にいえば、飢えている国々に支援する事は当たり前であって、
別段偉いことでも、すごいことでもない。だが、人々はそれに対する欺瞞をもつ。
一方では、経済的に搾取をしながら、もう片方の手で、支援を与えるのだから。

こうなると、第三国は先進国にとって都合の良い奴隷である。
経済という枠組みで相手を縛っておいて、経済苦を与えながら、可哀想だといって
微々たる援助をする。このような欺瞞がまかり通るのがリアルである。

およそ、こう説明すれば大抵の人は「それは酷い、なんとかしなくては」というだろう。
じゃあ、そのために貴方が出来ることを教えましょう。我々の生活をいささか制限する事
です。と言われたら、肯定出来るだろうか? 片方では同情しながら、片方では既得権益を
手放さない。その欺瞞が表面化する事に耐えられる人はまずいない。

だから、問題があることはわかっていても、そしてそれを解決する手段があっても、
決して、自らの損を肯定して動く人間は絶望的に少ない。

人の心性がそうさせるのだ。周りの人間が是認しない事実は、無視するというのが常套手段
である。仮に上記の事実を直視し何かをしようとしても「自分だけがそんなことをしても」
という感覚は拭えない。残念ながら、人とはそういう生き物である。理性だけで生物は生きている
わけではない。

コンビニやスーパーにいけば食料が手に入るという事実。これを可能にしているのは、
少なくとも、その一部は第三国の人々の労働搾取である。同じく、ファーストファッションの
ようにとんでもなく安価な服が買えるのも、第三国の人々からの搾取である。

そんな事をいわずとも、もっと身の回りでいえば、例えば車に乗れるのは、その部品をつくる
のに、どれほどの労働搾取があるおかげか。価格を下げるには、労働の対価は下げられる
必要がある。その労働を担うのは、現代では海外からの流入した労働力である。車にのっている
人は、彼らの労働の恩恵を受けている。

こういう事をいって、普通の人を非難すると、いくつかの反論が飛んでくるだろう。
たとえば、彼らはその労働を喜んでやっているのだと。その労働ですら仕事があるという
事が彼らの役に立っているじゃないかと。要は好きでその仕事をやっているのだから、
それについての労働搾取の原因は我々にはないと言えるだろうと。

他には、搾取を認める立場もある。そのような労働につかざるを得ないのは、「努力が足りない」
からだと。能力がないから、そのような労働につくほか無いのだという。

私は、どの口がそれをいうのかと叱責したい。搾取している人間がそれを口にしていいはずがない。
正当に非難されているという事実から目を逸らす人間は、人として愚かだとしか言えない。
まずは、事実を認めることから始めるべきなのだ。

そして自分の責任において、事に対処するしかない。

我々がこれらの事を直ぐになんとか出来るとは考えにくい。だが、これらの事に加担することを
やめようというのは正しい態度である。それでこそ、人間である。

アドラーは共同体感覚を充足する行動こそ、幸福への道だと看破した。これを受け止めるならば、
明らかに、共同体感覚を損なう行為つまり労働搾取が、人々を幸福にさせるわけがないのだ。

つまり、既得権益として自己の利益を守ることは、ちっとも幸福ではないという事である。
コンビニやスーパーに食料品が溢れ、毎日相当な量の食料が捨てられていく事は本質的な
豊かさとは無関係なのだ。ところが、人々はそれをいまだに「豊かさ」や「幸福」の一部
だと思いこんでいる。

もはや明確なことは、長い目で見た時に社会にとって無利益なことは、不幸を生み出す装置に
他ならないということである。

既得権益者は、快適に贅を尽くして生きることが出来る。
それを肯定する社会を彼らは誘導してきた。そして多くの人はそれを肯定した。
生まれたときから、それを肯定するように洗脳するのだから、無理はない。普通の日本人は、
格差社会を肯定するように生活を強いられるのである。それを私は「不幸」と呼ぶ。

共同体感覚を基盤に据えるならば、人は他者と協力的であり、自己生存を確保できる仕事を
もち、喜怒哀楽を共有できる伴侶をもつ事が、人の幸福であると言える。多くの先人は、
これらを見出してきた。あらゆる時代の知性は、これらをわざわざ見出してきたのである。

ところが、我々はちっとも気が付かない。気がついても否認する。そんな事を言っても、
快適に贅をつくして生きる方が良いと。まったくもって、我々は愚かなのだろう。
おそらく、我々が必要とする「快適さや贅沢」は、自らによって生み出せるもののはずである。
ならば、なぜ他者を搾取してまで利を得なければ、幸福になれないと信じているのだろう?

協力すること。そのこと自体が我々にとっては「快適」である。
にも関わらず、あえて、おろかに、相手と対立関係を築いて、打ちのめす事を「快適」と
解釈するのである。ましては、打ちのめした相手に、今度は微々たる支援までして、
自己肯定感をもつのである。自分はなんと寛大であるかと。実に醜い。

人は醜い生き物だから仕方がないと言い放つのは、ただの逃亡である。
逃亡しているうちは、決して楽にはなれない。心に巣食う欺瞞に苦しむのだ。
現代人の多くは、気が付かずに、自らの行為によって自ら不幸の道を進む。そして、それを
全力でやることを「幸福」と呼ぶのだ。これを愚かと言わずして、なんというのか。

そう、つまりは、私は大抵の日本人はおろかであると言いたいのである。
そして、愚かな日本人たちは、努力する。不幸に向かって努力するのである。

不幸に突き進んだ人間はつねにこういう。
「お前らは努力が足りない、だから、既得権益者になれず、くいっぱぐれるのだ」と。
そして、自分の努力を心の底から自己肯定して、社会的弱者を否定するのだ。

こう書くと、じゃあ、弱者の責任はどうなる?という事だろう。
むろん、弱者にも責任がある。それは共同体感覚を得られなかったという事の責任である。
彼らは、彼らの力を放棄している点で、罪深いのだ。出来ることをやらぬという事は、
自らの立場を危うくするだろう。

とはいえ、現代人が間違えの道を突き進んでいる時に、それに参画しないのは、当然である。
人として全うであれば、そんな不幸な道になぜ進む必要があるというのか。まっとうな道が
あれば、そこへ向かうはずだった人々は、この世界にはまっとうな道がないと感じたはずで
ある。その心情に正直であれば、現代社会においては弱者になるほか無いのである。

共同体感覚が不足した人々の群れは、社会全体に蔓延る「他者を搾取せよ」の大号令に、
そまる大部分の人々と、それを避ける少数の人々を生み出す。このゲームに乗ったごくごく
素直なナイーブな人間が、既得権益者に貢献する労働搾取の主体になり、彼らが更に弱者
から搾取をする構造を作り出す。

その意味では、社会的強者も弱者も、同じ穴の狢なのだ。
強者がいう、「お前もまっとうに暮らしたければ、同じように努力して、立場を確保すれば
いい。それが出来ないのはお前には努力が足りなかったのだ。」という言明は一体誰に
向かっているのだろう? 社会的弱者の数なんてごく少数なのである。彼らは「その他」
みたいなものだ。その内訳は、生まれながらに能力がない場合がほとんどであろう。加えて、
現代社会の矛盾に気がついて、社会から逃れた人々である。そんな彼らに吠えたって無駄
である。

実をいえば、社会的強者は「自己責任」なんて事は言わない。こういう事をいうのは、
弱者の証である。つまり、社会体制で自己欺瞞を内包し鬱屈した精神をもちながら、
ほどほどの稼ぎで暮らす人間こそが「自己責任」を口にするのだ。その意味は、
「俺はこんなに頑張っているのに、思ったよりも快適でもなければ、幸福でもない」という
心情を吐露しているという事である。

つまり、社会的な弱者がさらなる弱者に向かって吠えているというのが描像である。
そして、その弱者達は、既得権益者に貢献しているのである。労働搾取の主体として。

一般の人が努力すればするほど、「他者を搾取せよ」という構造が強固になる。
要するに、「お前も努力すれば、我々のようになれるよ。」と言われた人々は、
彼らがこれをやるといいと言った事を、無批判に受け入れ、みずから進んで奴隷になった
というわけだ。そして、不幸道を突き進んでいるのである。少なくとも、自己欺瞞を
拡大し続けているのである。

生まれた瞬間に、我々は上記の搾取ゲームに乗せられている。現代社会とはそうなっている
と理解すべきなのだ。もちろん、全ての日本で、そうなっているわけではないし、世界の
大部分はそんな文化ではない。

日本の都市部、とりわけメディアの内部において、このような搾取ゲームに囚われてる。
毎日のように垂れ流される報道。その内容が世界認識を作り出す。そんなことはとっくに
分かっていた。だが、愚かしくも、人々はその魅力に圧倒されてしまったのだ。そして、
自分たちも「努力すれば」ああなれるという神話を信じたのである。

事実として、努力してああなった人々もいた。宝くじがあたった人間がいるのと一緒である。
胴元は、全員にくじを当てさせることは決してしない。誰かにだけごく一部だけを当選させる。
まったく同じである。みんなが努力したとしても、そのうちのごく一部だけが<当選>する
仕組みになっている。そして、そのような事を内面化していきている。それが日本人である。

たまたま当選した人が、その他の人にむかっていう。「お前らは努力が足りないのだ」と。
どうして、そんな事をくちばしってしまう事が不幸だと気が付かないのだろう?? そう
思わされているという事実に気が付かないのだろう? そんな価値観は生まれつきではなく
洗脳された結果に過ぎない。どうして、そこまで頭が悪いのだろう?

日本の都市部では、とかく洗脳がすっかりと板について、それを普通と思うらしい。
そして、それに殉じない人間は、非国民になってしまう。私はそれなら非国民でいいと思う。

現代社会の価値観にNOという人間が、どうこの世界を生き延びるのか。
少なくない人間たちは、このことに気がついてると私は思う。けれど、その価値観から
逃れた行動をとることにすっかり怯えているとも思う。なぜなら、日本の組織や行政などは、
そういう価値観にそって運営されているからだ。逃れられないのだ。

善良な人間たちが、現代社会のルールを是として生きる。
他愛もないことに喜び、体制が供給する娯楽に一喜一憂する。育ち、子を儲け、金を
生み出す。社会に労働者を再生産して、自らを労働搾取の実態を体現して死んでいく。
そして「いい人生だった」と幕を閉じる。その事を誰が否定できるのか。

だが、私は否定する。そこで生じている喜怒哀楽や、快適さはやはり、第三国の搾取から
生じているし、本当の意味で幸福を感じるには、他者との共同以外にありえないからだ。

日本社会は、この搾取ゲームを肯定しない人を排除している。少なくとも、土地をもたない、
自ら生産手段をもたない人々は、このゲームに参加する以外に道がないように思われる。

「努力すればいい」というセリフが出てきた瞬間に、その人間は洗脳済みという事だ。
そして、多少とも恩恵を受けたということである。難しいのは、搾取ゲームも隅から隅まで
徹底しているわけではないという事だ。日本社会にも搾取ゲームの隙間がある。その
隙間があるから、人々は生きていける。その隙間は、およそ地方都市にしかない気がしている。
都会には、その隙間はわずかにしかない。努力をする人々の活動のいくばくかは、単なる
搾取ではなく、共同体への貢献になっている。いや、継続されるビジネスとは常に、
共同への貢献なのだ。

問題は、共同体へ貢献しているのに、正当な対価を得られないことなのかもしれない。
搾取ゲームとは、その行為そのものではなく、分配問題なのかもしれない。
その辺りについて、再度考慮してみたい。
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甘やかしと共同体感覚 [思考・志向・試行]

社会という場は、本質的に「協力・協同」を求められる場である。
当たり前なのだけど、人はそのような場において生きるように設計されている。
だからこそ、言葉を話す能力をもち、他者と協同することに意味を感じるように
出来ている。

多くの演劇やコンサートなどが感動的なのは多数の他者と時空間を共有しているという
基盤によって、生成されている。その上において、よく訓練された行動が人に驚きを
与えるのだ。実は、観客とは、その舞台で行われる行為の一部になっている。

これは日常でも同じである。日常的な行動においても、時空間を他者と共有する事、
そのための能力を我々は有している。その時に、我々は喜怒哀楽を手にする。
もっぱら、人はそれに依存していており、その依存性によって、社会を形成する。

この依存とは心理的依存とは異なる。心理的依存とは、他者からの愛情の搾取の事だ。
自分と相手との間に交流のやり取りを形成する時に、自己を求められるという感覚が
ある。この求められたいという感情が、心理的依存である。誤解されやすいのは、これが
求めることを依存と考える事である。相手を求める事は、依存ではない。

他力本願であることは、人が健全である事において重要である。一方で、
自力本願であることは大抵不幸を招く。他者に何かを求めることはごく自然な行為である。

問題は、その求めた結果が、確実に自分の希望通りに行われると考えることである。
それはもう相手の問題なのである。自分の希望に応答されなくても、不思議ではない。
それは相手次第である。そして、それを非難する権利はこちら側には存在しないのだ。
これは、観音様を頼りする行為と同じ事である。

そして、時にその願いが叶うことがある。だから有り難いのである。「ある+難しい」の
造語である。求めたことが行われるとは、そういう奇跡である。

人は必ず共同体に生まれてくる。小さくは親と子という関係。だが、親が生存している
ということは、既に共同体に属しているので、子も親の共同体にほぼ自動的に組み込まれる。
よって、人は必然的に共同体に組み込まれるのだ。

遅れてやってくる人は、その共同体の志向に影響を受ける。子は母親に対して、求める。
母親は子の求めに応じる。母親は共同体に求める。共同体は母親に応じる。そして、
共同体は母親に求める。母親は共同体に応じる。繋がりの中で、子供は共同体にもとめており、
共同体は、子供が成長するまでその求めに応じる。そして、子供が大きくなれば、共同体が
その子に協力を求めるのだ。

もっといえば、母の求めに既に子は応じている。共同体からの求めに応じるまでを待つまでもなく。

ここで子供のライフスタイルが問題となる。子供の生きるすべは、共同体からの求めに
適切に応じられるか否かできまる。少なくとも共同体がもつ価値観により添えるかである。

アドラーは、この共同体への寄り添いを、共同体感覚とよんだ。
そして、共同体感覚が乏しいことで、多くの精神的トラブルが発生していると考えた。

多くの人がちょっと不可思議におもうかもしれないのは、共同体感覚の価値であろう。
共同体感覚がマトモかどうか、その共同体感覚が正常かどうか、そうでなければ、
共同体感覚に応えることが無意味になってしまう。私がアドラーの主張から解釈するに、
この共同体感覚自体が、進歩するものとして捉えられており、そういうものを持てなかった
共同体はいなくなったのだと考えている。

共同体感覚とは、「永い目で見つめた時」にもっともらしい思想・行動である。
つまり、人類がもつ普遍的な価値観に漸近し続けているものだとみなすのである。

戦前の日本のような全体主義があったとする。今の時代において、この全体主義に迎合する
のは、異常な事として移るだろう。だが時代が時に要請するような価値観を内面化する必要はない。
軍国少年になる必要はないのである。それが「永い目」という意味だ。人類にとって
戦争状態とは普遍的な行為ではなく、一時的なリアクションに過ぎないからである。

よって、アドラーの言う共同体感覚とは、もっとも基盤となる協力体制の求めるものである。
日本にありがちな掟や村八分の事ではない。それはおよそ、共同体感覚を実現させるための
手段であって、共同体感覚ではないのだ。そして、掟や村八分とは、とどのつまり、権力者が
人々を管理する手段であって、共同体感覚と時に対立することすらあるだろう。

とはいえ、地域差がある。人という資源が貴重な場合は、多くの協力を求められるし、
人が溢れていれば、その役割は小さくなる事だろう。その意味では、一般に田舎では、
地域貢献を多く求められ、都市部ではその逆に、役割は最小限になる事だろう。
この共同体からの、共同への協力量という事で人々の社会性を明確化できるかもしれない。
求められる協力量によって、都会ー田舎度を求めることができるだろう。

近代化とは、この共同体への貢献を金という数字で置き換える作業であった。

協力関係を金を抜きにして、結ぶためには、個人の行動振る舞いがものをいう。
喋り方だけでなく、どういう協力を提供するかである。これが出来るかできないか、
もしくは、やるかやらないかで、人生が大きく影響を受ける。

アドラーは、共同体感覚が不足している人が問題であると考察した。
そして、共同体感覚を失わせる一義的な事に、母子関係をもってきた。
つまりライフスタイルである。

昨今の子供たちは、母親にスポイルされているとアドラーは解釈した。
それは「甘やかされた」と表現されている。つまり、母が子供の要求に屈する事で、
子供は世界というものは、自己の欲求を叶える場所であると認識してしまうのだ。

そして、それを内面化した子供は、世界がいうとおりにならない時に、不満を抱くこと
になる。共同体が求める事が彼らには、敵として映る事になる。母や家族以外が、
自分の驚異になるのだ。その時に子供の対応は大きく2つである。一つは、求められる
事への反発・反抗であり、もう一つは、逃げることである。つまり闘争か逃走かである。

社会が求める事へ反発すれば、居場所を失う。そのような者たちを囲い込むのは
大抵は、アウトローな人々である。彼らはとどのつまり、犯罪予備軍になる。
社会を敵とみなし、戦おうとするのだ。そんな事をする必要はないはずなのに。

一方で、逃走する子たちは、引きこもりという物理的逃走や、内面に閉じこもるという
逃走を行う。母親を含めた家族がその状況に悪というレッテルをはれば、子供は、
2つのアンビバレントな価値観の間に挟まれて右往左往するだろう。閉じこもっている
自己を攻める自分。その一方で、共同体求める事に答えられない自分。これが極まると
自殺や人格障害を引き起こす。内部分裂するからだ。

「甘やかされた」子供たちは、こうして重荷を背負っていく事になる。
そもそもは母親が、子供の要求になんでも応えたという甘やかしであった。
そして母親は子供に協力を求めることをしなかったからだ。

どんなに小さな子どもにも、意思がある。だから母親は子供に協力をもとめることできる。
言葉がわからないようにみえても、子供を説得する術はある。それが出来ないとしたら、
子供は相変わらず自分の欲求が何でも通ると考えており、世界はそういうものだと認識
しているという事なのだ。

子供には本来、成長という特徴がある。それは自分で状況を克服出来るという能力の事だ。
それを発揮するには、親はじれったくも、子供の成長を見守るほか無い。子供ができることは
子供にやらせる。それが親としての健全な態度である。子供ができることを親がやってしまう
とは、子供の成長を取り上げてしまうことになるのだ。そして子供は成長できなかった事の
責務を親に求めることになる。つまり甘えである。

逆に、子供ができないことを押し付けることもまた問題を起こす。いわゆる虐待とはその
事だ。なかなか寝ない子供を、脅すことによって大人しくさせるなどは、子供が自身でも
制御不能なことについて責任を追求している事と等価である。ご飯を自力で作れない、
そのための金をつくれない子供は、親にそれを要求するというのは健全な態度である。
それを放棄するのは、親に依る虐待だ。

これは別段幼児期だけではない。甘やかされて育った大人が親になったとき、親が
小さい子供に甘えることがある。親が自分たちのトラブルを自分たちで解決できない時、
子供をダシにして、解決するというものだ。父親と母親の喧嘩に対して、子供が仲裁に
入るというような家庭では、子供は、本来の子供の役割を超えた事を要求されている。
これが続くと、子供はいわゆるアダルトチルドレンとなる。この場合も子供はスポイル
されてしまう。健全な子供時代を送れないためだ。

典型的なDVは、甘やかされて育った父親が、家庭に過大な要求をすることから生じる。
子供の頃に母親がスポイルしてしまったために、そのライフスタイルを父親が保持し続けている
からだ。自分の機嫌をとることや、自分の欲求をみたすものとして、母親を解釈した息子は、
同じ役割を妻に押し付ける。そして、それがかなわないと、その他者を敵とみなすのだ。
また、家庭という共同体から要求されることを「不当な事」と捉え、反発するわけだ。

多くの場合は、そこまで大きなトラブルにはならない事だろう。上記の事柄は
程度問題である。極端に問題と言えるほどではないけれど、甘やかされた子供は、
状況によっては、かつてのライフスタイルを発揮してしまう。つまり、親に成長を
妨げられたがゆえに、その代償を払えと要求するのである。

難しいのは、子供への要求である。健全な共同体感覚をもった親は、その教育を、
共同体のそれへと添わせようとする。ところが、親が時流の世間の価値観に根ざして
子供に損得を叩き込むような事をすれば、子供がそもそも持っている共同体感覚を
狂わせてしまう。その狂った感覚をもって育った子供が親になれば、その家庭は
健全な共同体感覚を保持できないであろう。DVや虐待が連鎖するとはそのことだ。

現代は、都市化が進んだ。つまり共同を金によって提供する社会である。
すると、どうしても、人々は金を得る事=個人の生存の目的と考えてしまう。
金が協力を駆動するための手段から、金儲けが人生の目的になってしまう。

そのように歪んだ価値観は、共同体感覚から乖離してしまう。そして、可能な限り
効率的な金の儲け方を考えるようになる。金を効率的に儲けるには、得になる事を
すればいい。得になる事とは、能力をつける事の他、他者を搾取することである。
つまり獲物を独り占めする事である。そして得の合理化や効率化をその儲けた金で
強化する。

こうして、多くの人は、共同体感覚から乖離した価値観をもち、大筋としては、
自分や自分の家族が生存できる事がせいぜい考えられうる最大の範囲となり、
それ以上は自分の責任とは無関係という態度を取り始める。

本来的に共同体感覚に寄り添うこと自体が、人を幸福にする。人類はそう設計されている
からだとアドラーはいう。人間に備わった能力を十全に発揮するとは、人類普遍的な
価値観で生きることであると。

ところが、金儲けという手段の最大効率化は、協力を得るための手段であるがゆえ、
発達したのだが、時に行き過ぎたり不足する事があるために、共同体感覚から離れて
発展してしまった。結果として、協力を得るために必要な金を超えて稼ぐことは、
むしろ不幸な行為となった。一方で、金がない事に怯える社会になった。

金を軸にした社会がそのまま問題ではない。程度の問題なのだ。共同体感覚から
乖離するほどの経済活動は、幸福を増進するどころか、不健全なのだ。そして、
決して幸福感を得られはしない行為となってしまうのだ。

こう考えていくと、我々はかなり難しいフェーズにいる。
少子化が進んだ社会。親の置かれている状況が変化し、子供に健全な共同体感覚を
示せる大人は減っているのではないか? むしろ、大人たちが甘やかされた結果と
して、子育てに脅威を感じているのではないか?

子供は社会から要求されたとき、適切に応答しなければならない。その状態に
するのが親の責務である。いやもう少し言えば、社会の責務である。親だけの責任ではない。
社会が健全な共同体感覚を備えているからこそ、親もまた健全な共同体感覚のもと、
子育てができる。昨今は、母親に対する社会的要求度が高すぎる気がする。

社会がいささか狂っているのに、その価値観を脇において、子供には健全な共同体感覚で
接して、なお、子供が狂っている社会において、適切に要求に答えさせるよう教育する。
こんなものは綱渡りすぎるだろう。大抵は、失敗するに決まっている。

こうなると、社会は崩壊へ向かう。トータルとして、人の本性から逸脱した社会のありようは
社会そのものを崩壊させてしまうだろう。社会とは抽象的な概念である。正確には、
人々の間で繰り広げられるコミュニケーションの総体である。親子の関わりから、政治まで、
あらゆる人々のかかわり合いそのものが社会なのだ。それを構成するのは人である。人の
価値観である。

一体どうしたら、この社会がもう少しマトモになるのか。ひとつの答えは、
ひとまずは「子供を守る」事。親が駄目なら、子供に期待する他無い。そんな気がする。

他にもなにか手段はあるのだろうが、どうしたものか。。
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強い違和感ーその正体とは? [雑学]

少しプライベートな話題を。
こういう事を誰に言えばいいのか、ちょっと不明なのでここに記す。

昨日久しぶりに後輩の一人とZoom飲みをした。
元気そうで何よりだったのだけど、その会話の中で違和感を感じた事がある。

それは「アベノマスク」についての事だ。
彼がいうには、アベノマスクのマスク自体の意味はともかくも、
政府がマスクを投入するというアナウンスによって、マスク価格の下落効果が
あったというのだ。

それを聞いて、私は「は?」となったわけなのだが、
信用している後輩である。何か根拠があるのかもと思い返した。

私の見解ではあれは一種のパフォーマンスであったという認識である。
そして、何らかの利権構造による税金横流しの一環であるという把握であった。
よって、後輩が述べたことを吟味したことすらなかった。ましてや良い効果が
あったという認識すらなかった。

500億円ほどの予算をつけて、あの小さいマスクを何ヶ月にも渡って、
1住所に2枚送りつけるという事業。まずは批判点をあげると、

1.そもそも布マスクの実用的効果が不明なために、何のために配布するのかの
  第一義的意味が不明。配るならマトモに使えるものを配る必要があろう。

2.あのタイミングでマスクを配るという事に、どれほど意味があるのかという疑問。
  4月の頭に決めて、実際は5月の中頃より配布されているが、使用率は如何ほど
  あるというのか。きちんと事後的調査を行うべきだろう。

3.税金使徒が許容される範囲とはいい難い点。半不良品みたいなものに、
  一枚あたり、200円程度らしい。実際にはもう少し安かったようだが、
  これが適正なのかどうか不明。

4.選定業者の不透明さ。当初こそ、発表されなかった1社は最終的に発表された。
  ユースビオという会社は、そもそもマスクを製造販売していたわけでもなく、
  結局、輸入業者という形で受注している。どうにもキナくさい。こういう不可思議な
  金の動きがあるために、税金使徒に不信感が生まれる。他4社とも随意契約らしいのだが
  その根拠もまた不透明である。


さて、細かい事は、Wikiに譲ろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アベノマスク#cite_note-150

この中で、実際に後輩が言うような効果があったというソースは、
政府側がしゃべった事だけに過ぎないとわかった。菅官房長官が「マスク配布による
マスク価格の押しさげた」という主旨のことを述べたらしい。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/16762
東京新聞の記事によれば、価格が高騰したのは、中国からの輸入が滞り、
供給が減った事に起因しているとの事。そして、4月あたりから値下がりに
なったのは、その供給がまた再開されたからだという。

私としては、そりゃそうだろうと素朴に思うし、まあ、当たり前の見解と感じる。

百歩譲って、アベノマスクが政府がいうその意味通りの効果がある仮定したとして、
アベノマスクが投入されたからというのは、どうにも因果関係が見えてこない。

4月1日に政府がマスクを配るとアナウンスし、4月7日に閣議決定している。
実際の配布は4月の下旬からだが、5月10日の時点で4.3%の配布率。
6月20日頃に全国的に配布終了との事。

マスクが手元に来るから、マスク需要が減ると考えて、マスクの在庫を放出して
売り始め、それによってマスクの値が下がったという考えだろうか。
すると、マスクが配布されたという発表後からのマスクの値下がりがどの程度か、
また、輸入の回復がどのタイミングであったのかを考慮すればある程度、関係がみえるだろう。


まずはマスクの価格変動。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000027.000021601.html
このサイトを信用するならば、マスクの価格が下がり始めたのは4月24日である。

政府が配るといった事自体が影響したというなら、発表からこの23日間の
価格維持はどういう事を意味するのだろう? もし政府がマスクを配るなら、
マスク需要が減ると考えたとして、23日間もほったらかすだろうか?
マスクが配布されるまでは、価格変動はないと見越した結果というのだろうか?
素朴には、政府がマスクを配るというアナウンスに、市場が反応しているとは言い難い。

実際にマスクを手にしていないからだというのだとしたら、逆に
この4月24日あたりで配布されていたのは東京の一部に過ぎない(4月17日より)
https://www.j-cast.com/trend/2020/05/25386627.html?p=all
よって、政府が配り始めたから、価格が下がったのだとはやはり言い難い。

ましてや配布状況がオフィシャルに報道され始めたのは5月に入ってからだ。
5月8日のアナウンスをみれば、実際に配布がある事が明らかだったのは、東京だけだ。
https://web.archive.org/web/20200508155021/https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/mask.html

よって、マスクを配るというアナウンス4月1日や7日においては、
マスクの価格に影響を与えず、実際にマスクの価格変動が始まった4月24日頃には
マスクの配布はまだほとんど始まっていなかったという事実が見てとれる。

つまり、マスクを配布するという政府の行動が、マスクの価格を押し下げ、
在庫を放出する事につながったとは、言い難いのだ。

ではなぜ、4月24日過ぎからマスクの価格が下がったのだろう?
東京新聞の記事に依拠すれば、単に需要過多で、供給が追いつかなかったものが、ようやく
4月終わり頃に追いついてきたという事になる。

https://toyokeizai.net/articles/-/344425
一般的にはこういう図式で需要と供給が変化する。問題は、いつ在庫が増えてきたかであろう。

https://pricesearch.jp/article/retail-05/
このサイトのECサイトにおけるメーカーの販売数をみると、2月から急激に増え3月で
ほとんど在庫を売り払って、4月以降は品薄であると分かる。よって、4月の終わり頃までは
そもそもマスクがなかったのだ。5月に入って少し回復が見え始める。ということは、
まさに、4月24日頃から、売り切れ状態にあったマスクの供給がみえてきたという事が
想定される。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000049563.html
4月27日に、トリニティという会社から、原価マスク販売のアナウンスが流れている。

https://ecdatalab.nint.jp/2020/06/01/mask_price/
ここをみると、既に1月の段階で価格高騰傾向がみられており、3月頃にはかなりの水準に
まで落ちてきている。加えて、ECサイトにおける原価マスク販売というアナウンス。

この辺りが通販サイトにおけるマスク価格変動のポイントだったのだろう。ということは、
4月中に供給の目処がつき、5月に向かって順次出荷された結果、じわじわと下がっていった
ということなのだろう。

東京新聞の業者のコメントが、もっともに聞こえる。
つまりアベノマスクなどほとんど関係なしに、市場の需要と供給のバランスで価格が
下がったのだろうという事だ。

そもそもアベノマスクは布製であり、繰り返しつかうことが前提のマスク。
不織布のマスクは競合ではないとも言える。よって、アベノマスクがマスクの価格低下を
もたらしたとする根拠はとても薄いといえよう。

価格変動のタイミングは、アベノマスクの動向とは関係しているようには見えないし、
ましてや配布されきったのは、結局6月の終わり頃だったのだ。

最後にどストレートな記事を。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6113eb8a311bdcc92089fc62e91e9f3e14c66695

3つのマスク価格下落の要因とあり、
1.中国などからの供給が増えたから(供給増える)。
2.ガーゼマスクに信頼感が出て自作派が増えたから(需要下がる)。
3.国内メーカーのマスク事業への参入(供給増える)。

ということで、ここではアベノマスクの成果を、ガーゼマスクでも代替可能であると
示した点にあるとし、自作派が増えて需要が減ったと考察している。なるほどありえる。
だが、それをもって、アベノマスクに意味があったとはとてもいえない。マスクを洗えば
大丈夫と広報すればいいだけのことだったのだ。それに果たして、自作の割合なんて
如何ほどというのか。

ざっと周りを見渡しても、せいぜい100人に数人程度ではないだろうか。それに、
自作するのは簡単に買えないというただそれだけの理由に過ぎないだろう。3つの要因に
入れるほどですらないはずだ。これは阿った可能性すらある。

どっちみち、マスクとしての使いみちがないアベノマスクが効果を
発揮したわけではないという結論でよかろう。




さて、それで問題はなんだったか。
それは、信頼する後輩のリテラシー問題なのではないかと。

そも直感的に、アベノマスクが愚策だと感じる。これが私の最初の印象だ。
筋が悪いとまずは感じる。この違和感は、マスクのクオリティのしょうもなさや、
利権構造を知る前から発生している。政府が1住所に2枚マスクを配るという、そのなんとも
言えないやり方だけで既に駄目な政策であると感じる。その配布コストや時間コストが直ぐに
頭をよぎるのだ。そのうえでマスク自体がどういうものなのかという事が出てきて、いよいよ
アウトだと確定した。これが私の初期判断である。

そしていざ配布されたのちも、使用者はほとんど存在せず、ただマスクを受注した業者が
儲かっただけ、政府は何か国民に対策したという雰囲気づくりになっただけであった。
こういう政策を愚策という。そして、私は愚策が嫌いである。税金返せと言いたくなるのだ。

ところがだ、後輩はどういうソースを辿ったのか、それとも自分で考えたのか、
アベノマスクには、マスク価格を押し下げるという効果があって、それが最大の評価だろうと
のたまった。つまりマスクが使えるか使えないかではなく、マスクを配布する事で、
世の中が動いて、マスクが供給されるようになったと考えているというわけだ。

私には、とんと不可解であった。会話終了後にすぐに検索してしまった。
その結果、そのような間抜けな考察をしたのは何を隠そう、内閣府そのものであった。
菅官房長官の談話が最初にひっかかるではないか。まさか、後輩はこれを見たから
なのだろうか? もう少し調べると、安倍政権のネトウヨサポーターが、同じように礼賛
しているものがいくつか見つかり、また、右翼系のWebサイトやブログにも同じ系統の
ものが散見される。どう読んでみても、信憑性がないものばかりだ。

そうすると、後輩の見識を疑うことになる。もしかすると私が勘違いをしていて、
アベノマスクによるそういう隠れた効果があるのかと思ったのだったが、やはりそんなことはなく、
上記のように調べても、効果ゼロではなかったのかもしれないが積極的な意味など
あるわけもない。

すると後輩の情報リテラシーが浅いのではないか?と疑われ、
もし自分で考えた結論だとすると、アホなんじゃないかと思われるのだ。。

安倍政権の発表の大部分はウソ偽りのオンパレードで出来ている。だから、
もし真実を述べているとしても、まずは疑う必要がある。それくらいに嘘つきなのだ。
それを後輩が「そうなのか」と思ったのだとしたら、お前の教養はどこにある?と
つっこみたくなる。

次に自分で考えた帰結だとすると、一体どんな情報によって、データによって
そう思うのかと問つめたい。私には、そのような傾向を伺うデータを発見できなかったからだ。
もし、アベノマスクの発表と配布時期と、マスクの価格低下の時期が重なっているという
事だけを頼りに、上記のことをいっているのだとすると、典型的な相関の罠にハマった事
になる。人は無関係なものに関係性を見出す癖があるからだ。それを侵さないために
リテラシーが必要で、そのリテラシーこそが能力である。


実をいえば、このように後輩の事実把握に違和感を覚えたのは今回がはじめてではない。
前回も、この20年間の不景気を差し置いて、第二次安倍政権を「好景気」と呼んだ事に
驚いたのだ。景気がよいならば、なぜ給与が増えない? なぜ増税する? なんで消費が
盛んにならない? 一体どこをどう読めば、今が景気が良いなどと思えるのか。

そうこれまた同じ事がいえる。政府発表では景気が良いことになっていた。(先日、
景気悪くなってましたと訂正が入っていたが。。)むろん、そんな事を信用できる
はずもない。GDPの計算を書き換え、年金資金で株をかい、国債を発行し続ける。
その上で、国民には10%増税を課する。そんな政府が発表する景気判断など、どう
信じろというのか。事実、景気がよいのは国の金を横流しされる業界であり、自社株を
国が買ってくれるようなところである。そういうごく一部の人間にとっては、そう
実感できるのかもしれない。

私はこの後輩とのリテラシー的ズレに驚いている。知性としてバカとは思ってない。
論理性が低いともだ。だとしたら、一体、何が認識を違えているのだろう??
まさか、自分の実感にないことを口にするとは思えないのだ。ともすれば本当に
実感しているのかもしれない、なぜなら彼は経団連に所属する会社に努めている。

およそ、世間ずれした感覚は、そういう周りとの兼ね合いがあるのだろう。
そしてきになることは、彼がどんなソースを元に話をしているのかである。

大手のメディアはとかく政権批判をしない。むしろ政権の広報である。
そこに電通が絡み、金が動く。加えて彼はニュースに課金をしない。新聞をとったり、
雑誌を読んだりしない。もっぱらウェブサイトのニュースをベースにしている。
結果として、無料ニュースばかり見る彼が、偏った地方紙たとえば産経新聞などの
ソースを読んだとして、それをそのまま鵜呑みにすることは大いにあり得る。

先頃みかけた、内閣支持率などをみても、新聞によりとんでもない差がある。
同じアンケート結果とは到底思えないほどだった。ソースが一つであることは
とても危険である。

おそらく、彼はニコ生系のニュースや、まとめニュー速あたりを参照している
のだろう。その手の中にはネトウヨ系のソースも多分に含まれている。

そして、もっとも恐ろしいのは日常が正常であるというバイアスである。
特に若い世代ほど、今の状況を普通と考えることだろう。そんなわけがないが、
彼らは比較対象を持たないのがよく分かる。

後輩の唯一の比較対象は、2011年時の民主党である。あの時の原発問題と、
政権のゴタゴタさがよほどかメディアにバッシングされていた。そのような
言説を受けて、政府批判がウケる時代になっていた。ミンスと呼ばれた時代である。
それに比較したら「マシ」だという安倍政権。そういう認識がベーシックに存在する。

私からみたら、あまりにも愕然とする思考回路である。
そして不勉強極まりない。民主党の政治家たちの半分はもと自民党である。
似たりよったりだ。そして、政治家主導の政治を稚拙に推し進めたがゆえに、
官僚たち、既存勢力に叩きのめされたのだ。おそらくアメリカなどから圧力が
あったのだろう。アメリカに利益をもたらさぬ、邪魔する政権は、叩くというのが
日本メディアのあり方なのだから、仕方がない。

そうして、自民党に比べればいささかマトモにみえた民主党は、
自ら瓦解し、管政権でTPP、野田政権で増税と、ちぐはぐな政策を掲げて頓挫した。
私にはとても残念な出来事だった。なにより小沢内閣が誕生しなかったことが、
最大の問題だったろう。彼がどのように指揮をとるかは、ひとつ賭けになったのにと思う。

その民主党に比べたら安倍政権がマシ?? バカも休み休み言えといいたい。
ロクでもなかった民主党より輪をかけて、愚かしいのが安倍政権である。

後輩がその政権をどこかしら支持している事、そして、彼の生活は少なからずその
既存体制から益を受けている事。そういった事が頭をよぎり、いたたまれなくなった。

自分がよけば良いとお前、おもってんじゃないか? と言い出しかけた。


学歴エリートの彼は中高一貫校育ちである。
非常に偏った意見を言わせてもらえば、受験の勝利者と自覚する人間は、おぞましい自己中心的
人間である。彼らはどこか、勉強ができないことは、100%本人のせいであると思っていて、
落ちぶれた人間はただ努力が足りないだけと信じ込んでいるようにみえるのだ。

その目線の高さが、俗物っぽさを冗長する。その無神経な思想が、共同体を不安定にさせ、
分裂を生む事を理解していない。人生をゲームにみたて、その勝者になればいいという
思想が透けてみえるのだ。

私から見れば、後輩はただ未熟だなと断定するのみなのだが、果たしてそれでいいのか。
私は彼のような人間を他に知っている。その彼らもまた、安倍政権支持者であった。
保守という言葉を履き違えているような人間であった。

この違和感はどうすればいいのだろう? 人は他者に親切であるべきだ。
可能な限り、弱者は守るべきだ。出来ないことまでやる必要はないが、自分を人生の勝利者と
位置づけ、くすぶっている人々をもって、努力不足だと一蹴するのは、甚だ間違えだ。

だが、どうも、昨今の若者にはそういう面を感じて仕方がない。
とりわけ、20代後半から30代真ん中までの男にだ。とても危険を感じる。

自分がやられたらどう思うのか?という想像力の欠如があり、
ナイーブに自分の正義を当てはめる。そういうのを無邪気と書いてバカと読むのだ。
決して褒められたことじゃない。人間として、立ち方を間違えている。

都会に済む、若い男で、学歴エリート。そういう人間たちの一部にどうも、
嫌悪感を抱く。その根底にある思想に嫌悪する。それはホリエモンを信奉したり、
藤原和希を称揚したりする若者たちだ。効率主義で、役立たずに用はないという切り捨て
を感じる。心がない感じといえば分かるだろうか。

このような人間たちが国の主要な場所に生きている。官僚になったり、大企業の役員になる。
権力を掌握するわけだ。遅かれとも。私には、日本は滅びを選んだとしか思えないのだ。

他者を、とりわけ弱いものを守るという、組織として当たり前をどこか忘れやしないだろうか、
そう若者たちに問いたい。というか、お前ら、人として浅はかなままでいいのか?と言いたいのだ。
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