驚き、怒り、そして苛立ち [雑学]

うまく言い表せないがメールによる自分の過失によって、人を怒らせてしまったようだ。
それに後悔している一方で、そこまで怒るか?という気分になった。
むろん、相手を怒らせた事は申し訳なく思っている。

端的に言えば、私の書いた内容が「性差別」であると断言されたのだ。
そこで、相手は強い口調で抗議してきた。私の瑕疵を非難するように。

ミスったという気持ちだ。こうなる可能性をもっと深く読むべきだったのだ。
なぜなら潔癖症の相手だったという事をうっかりしていたのだ。

自分が不快に思わないことでも、誰かにとっては不快ということもある。
よって自分を基準にする事はできない。といって、相手の基準をとるとして、
すべての基準などわかりようがない。私としては今回の内容は許容されると
踏んだのだが、全然ダメだったということだ。つまり私の全くの見込み違いであった。

メールには続きがあり、私の尋ねている内容がそもそも変であると指摘してあった。
ざっくり言えば、私がこの内容を作り出そうと思った事自体が性差別であるという
主旨なのだ。

相手の立場に納得した。なるほどと。
相手の言い分は、相手の立場にたつともっともなのだ。
そして、私は相手にとって自分が差別主義者であると理解したのである。

自分が知らぬ間にいわゆるハラスメントをしているという事に気づいたわけだ。


よほど私が酷いことを書いたかと思われるかもしれない。
そこで念の為、他の友人に同じ事を聞いてみた。

多少の不快さは示されたが、さすがに性差別とかそういう事は全くなかった。
前者とはえらい反応の違いだ。自分がおよそ想定していた問答が繰り返されて話は終わった。

ここで新しい知見を得た。つまりこれは解釈の問題でもあると。
私の行動が、とある人には完全なる性差別に見える。
別のある人にとっては、ありふれた問いかけに見えたというわけだ。

もちろん、後者が鈍感であるとか、私に遠慮して前者と同じコメントは
しなかっただけという可能性もある。そうだとしても、表現はまるで違う。


この前者から来たメールを読んだ時のいやーーな気分を再度考えてみたい。

まず非難されている事はすぐに分かった。
そして、それは多分にフェミニズムの話であった。ジェンダーに拘るなという形で
逆説的にとことんジェンダーに拘る議論である。そして、その観点からいえば、
私は確かに、女性に阿る形の形式を採用した。なぜなら、私の内容は
女性たちに教える事柄だからだ。聴衆の事を最優先して考慮したものだった。

そこには私が思う女性像というものが反映されている。きっとこんなことに興味が
あるだろうという推測である。まず、この推測が友人には不当に思えたわけだ。
つまり、女性であるということ前提に取捨した内容が差別なのだと。そんなことを
しなくても良い場面で、それを意図するのは女性差別なのだと友人は言う。

この論理はわからんでもない。女性が興味がありそうな話題として「浮気」を
用いていたからだ。そして私は、この「浮気」という題材を使うことが許容されるか
どうかを尋ねていた。私のバランス感覚では、ブラックジョーク的な意味合いであり、
気になる人がいるかもしれないなという配慮から、尋ねたわけである。まあ、ちょっと
危険かもしれないけれど、より関心を引けるかもという欲を出したのだ。

むろん、それを気に食わないと思う人が出ても仕方がない。だが、それを差別とまで
いうかと。しかしそれがハラスメントの本質なのだろう。私には大したことがなくても、
相手がそう思えば、それはハラスメントなのだ。その意味で私は友人に対する差別主義者になった。

更に、こんな例示を用いることは女性を侮辱しているという風に話が続く。
つまり暗に、私が女性を低く見積もっているために、このような例示を作り出そうとする
のだという。分かりやすくや親しみやすくと考慮した例示という配慮自体が侮辱なのだと。
もちろん、私にはそんな意図はない。ただ内容を噛み砕く方が良いだろうという判断である。
だが、考えようによっては、そう見える。

私はある意味で、私の行為にそのような意図をわざわざ見つけ出した友人に
驚いたのである。そして、自分の思考を鑑みて、指摘が全くの的外れとは言えないと
思った。なぜ、「浮気」という内容を含んだ例示をあえて作り出したか。
それは、女性はきっとこの手の話題に強い興味を持つだろうという事、そんな風に興味を
引かなければ、説明内容の概念を理解しないのではないか、つまり向学心が低く聞こうとも
しないと見積もったからである。まさに、友人の指摘の内容に心当たりがあるのだ。

いや正確に言えば、指摘された瞬間に、そういう意図が浮かび上がったといってもいい。
フェミニストである友人は、私すら意識していなかった「私の意図」を説明したのである。

繰り返すが、私は内容を作り出す時に、上記のようなことは一切考えていない。
ただ、説明の通りがよいように、理解を促すために例示をこさえた。小賢しく欲目を
だした内容なので、友人に危険がないかを聞いたわけである。ところが返ってきた返事は
完璧なバツであるという結果だったのだ。そして不快を背負った友人は、私の行為を
性差別であると断定した。


私はその反応を嫌悪した。当然だ。意図した事ではないのだ。だが、多くのハラスメント者は
自分は悪気はないと述べる。そうか、私も同じロジックの中にいる。そして、ハラスメントの
被害者だけが問題だというあの論に従えば、私の行動が友人にハラスメントと解釈されれば、
それは立派なハラスメントなのだ。この理解から、私は友人に内容を再考する旨を伝えた。

私はこの手の批判に弱い。なぜなら、善良でいることに対するコンプレックスがあるからだ。
そして、友人の期待に添えなかった事もまた心苦しかった。相手を失望させたであろうという
あの感覚だ。

そして、ある種の絶望を感じるのである。私が常識と考える行動で、相手が傷つくならば、
私はどうすべきなのかと。私の常識を変更し相手の常識に合わせる事が最善というのか。
これについては後に触れるとしよう。


さてここまでは友人の論に乗った場合である。ここからは私が思う解釈を述べたい。
私は私を擁護する権利がある。

まず、指摘の事柄が友人のいう通りであったとしよう。
私のやったことが性差別であったと。そうだとして、それをどのように示すべきか。
相手にどう伝えるべきかは考慮すべきことだ。それは内容とは無関係な作法である。

どんなに不快であったとしても、怒りを感じたとしてもそれをそのままに伝えるのは、
非常識である。友人のメールにはその怒りを感じる。かなり不愉快なものだ。私は、
その不快さに耐えなければならない理由はない。ここに友人の復讐が間違えなくある。
自分が受けた不快さを、同じ程度の不快さで仕返してやろうという意図だ。これは
邪悪だと思う。


批判を続けよう。
相手の言動のなかにジェンダーバイアスを探そうと思えば、常に探せる。
ここに疑問がある。ハラスメントの性質上、こちらがそれと意図せずに
相手を傷つけるということを基準にするならば、それはこちらの考えとは
無関係とも言える。常に相手の問題なのだ。

これはハラスメントが解消しない理由でもある。価値基準としてどうして、常にハラスメントを
受けたと考える側に立つ事が是とされるのだろうか。それが正義といえるのだろうか?

価値相対的に考えれば、価値観は対等であるべきだ。
ハラスメントを受けた側の価値観とは、意図しようとしまいが相手を傷つけてはいけないという
正義である。だが、通常、加害者に意図がなければ、それは過失であろう。過失を咎めるのは
許容されるが、相手に向かって面と向かっての性差別であると侮辱をぶつける事は許容されるのか。

たとえば一人の男がいて、私が何気なくちらっと目を合わせたとする。その男にとって、
見られる行為は喧嘩を売られたと解釈する。そして、男は私に殴りかかる。このケースで
果たして悪いのはどちらだろう? 見ることで喧嘩を売ってしまうことになると知らなかった
私が悪いのか。つまり、私の過失は、殴られることに相当するといえるのか?

私が受けた批判はこの類似系である。私は知らずと相手に性差別をした。
その時に、私は相手から言葉による侮辱を受けた。私はその非難を受けるほどの酷いことをした
というのだろうか?

上記の男であれば、言いがかりであって不当だという人が多いだろう。
だが、下記ならばどうだ? 場合によっては私に非があるという人がいるだろう。
ダブルスタンダードだと私は思う。

仮にだ。私が目を合わせることを喧嘩を売ることと同値だと知っていたとする。
それでもなお、殴りかかるほうが悪いのではないか。なぜなら、その行為そのものが
社会的悪と知られているからだ。

下記でも同じであろう。たとえ不当な扱いを受けたとしても、相手を侮辱しても良い
という事にはならない。言葉も十分に暴力である。つまり同じく社会悪である。
もし会社で、相手に面と向かってバカとかアホなどと罵れば、法規にふれる。
同様に相手に向かって、性差別であると断定する事は、かなり危険な行為である。
侮辱になる可能性を知った上で、使用していると受け取られるはずだ。

そして、私は反応に対して驚きと、その侮辱に怒りを感じたのである。
私はこの侮辱に対して抗議する。そこまで言われる筋合いはない。
友人と言えども、それを明確に口にして、相手が不快に思わないとは思ってないだろう。
なぜ、そんな言い方をするのだろうか。

もう少し、掘り下げて説明したい。

この友人は許容度の幅狭いともいえる。他の人が問題にしないことでも、
センシティブに問題にする。それはこの友人が海外にいることとも関係するだろう。
きっと、フェミニズムが行き届いた世界に住んでいる友人にとって、私が作り出した
ものに潜在的な差別を感じたのだろう。もしくは違和感を。そして、それを表現する
のが海外流である。私はこういう事で不快なのだと相手にいうのだ。

これによって、海外では女性たちの尊厳が確保される。不当な対応には抗議せよと。
その不当性に私の作ったものは該当したのだろう。そして、いつも通りに相手を
非難したのである。あなたの行為は性差別であると。

これが私が類推する友人の対応である。

一方で、私はそれに驚く。私は自分の行為は、配慮であり良かれと思ってした事である。
その良かれと思った事を不当性だと指摘された。もともと、侮辱するつもりならば、
私は友人の反応は仕方無しと思う。だが、こちらの配慮こそが差別であると指摘されて
狼狽したのである。

差別の指摘ポイントを繰り返すと、私が女性というターゲットにフォーカスしたこと、
そして、理解を促すために、話を単純化した例示(「浮気」を含む)を提示した事だ。
それらが性差別であるという。男女で区別した事を用意したことが男女差別になり、
例示の単純化が女性への侮辱であるという。女性を見下している証だといいたいのだろう。

私は、相当な言いがかりに思う。私は女性たちに説明をする仕事がある。
だからこそ、女性たちの理解を促すために資料を作り出した。なるべく関心を引くようにだ。
そして、女性たちに対して、おかしなことになっていないかを確認するために女性である
友人に尋ねたのである。

その結果、その配慮そのものが私の女性差別から生まれていると指摘された。

私は、配慮したことは認めるし、女性が関心を寄せそうなものを利用した。
その意味で私は女性を区別した。間違えなく区別をしたのである。
しかし、この区別した結果として、女性たちが失うものなど無い。

だが、友人はそれによって女性たちの尊厳が削られるという。
なるほど、男性と同じに扱われなかったという感情をもつならばそうかもしれない。
そこに平等性の問題がある。

結局の所、友人の私に対する侮辱は、女性を特別に扱うなという観念にいきつく。
まさにフェミニズムである。

私は十分に、友人の意見を理解している。ここまで読んでいただければ、それは
理解されるだろう。そして意見を尊重している事も。実際に、資料の内容は、
大方、無味乾燥な話題に作り変えた。例示の単純化は、そのまま残すつもりではある。

友人の意見を理解出来る分、私には、あのような文面で攻撃的な批判を受けたことに
苛立ちや怒りを感じるのである。そんな風に表現しなくても、私は友人のいうことを
理解できるし、行動基点を変えることが出来る。むしろ、あのような食って掛かる
ような言い方によって、友人の意見を否定し破棄しようかと思ったのが正直な所である。

ヒステリックな感情言葉で、人が行動を変えると思うのは、幼い行動である。
怒りは90秒で沈静化するとも言われている。文面を書きながら、怒りを表現する
のは、怒りたいからそうしているのだというアドラーの意見がぴったりだろう。

自ら怒りや苛立ちを選び取って、私に向かって投げかけたのだ。おそらく復讐のために。
そして、私はそれに抗議する。私が意図せずに差別したという意見は尊重するが、
それをもって、私を侮辱してもいいはずがない。その行為は不当である。



長くなっているが関連があるので、あと3つの話題を。

1.意図しない差別
  常識とは社会の中で身につくものだ。私は幼い頃から、女性に配慮するように教育された。
  女性を気に食わくても殴らない。言い負かして泣かせたりしない等だ。これは
  社会的区別である。当たり前の教育であろう。

  ものすごい穿った見方をすれば、私は「女性差別を促されて育った」という事になる。
  
  今持って女性を男性と同等に扱って良いという形式で社会は動いていない。
  つまり、女性と男性は扱いが違うのが現状の日本社会である。それが良いとか悪いとかは
  別の話だ。

  性に応じた区別があり、それが行動に結びつくと社会的役割いわゆるジェンダーになる。
  そのようなものがある理由は、それが妥協的に選ばれてきたという事であろう。
  よって、これらを基盤にして、男女で区別をする行動がとってしまう事がある。
  それが本質的に区別無用のさいでも、差をつけてしまうのが性差別である。

  だから、これを理念によって区別をするなというのは、無理だ。
  そして性区別が全面的に解消されるべきだろうか?
  
  フェミニズムが区別不要な特定の事柄について平等性を促す。女性が女性である
  ために虐げられてはいけないのだと。その理屈には納得するし、賛同はする。
  とりわけ、現代の仕事は力を必要としない。ならば、大抵の事は男女で同じ事が
  可能である。

  もう一歩踏み込んで、男性差別をも含んで解消すべきであろうとも思う。

  大抵の意図しない差別は、この社会が強制した性区別ないし性差別に由来する。
  意図しない差別が発生し、それを指摘された時、私のように反省する人は少ない。
  ましてや、私の友人のように感情的に批判されたら、なぜ私が悪いのだ?となる
  のが普通だろう。批判がエスカレートすれば、なお、自分は悪くないと思うだろう。
  なにしろ、現実的に悪くないのだから。不当な批判と感じるのは仕方がないのだ。


2.フェミニズムの中のファシズム性
  その一方で、社会全体が性差別を助長しているのだとしたら、どれほど一部の
  人間が、その差別を叫んだ所でどうにもならないだろう。出来るとしたら、大人ではなく
  子どもたちに性区別をへらすように教育することくらいである。

  事実、かつてより現代の若い子はその区別は小さいと思われる。その意味では、
  社会は確実に進んでいくのかもしれない。

  私が今回体験したのは、私の構造のフェミニズム的解釈であった。私の狼狽は、
  このフェミニズム的思想のあとから来た感に由来する。私の行動は、社会において
  さほど問題とされないだろう。仕事の資料内容を女性用にしたというだけである。
  しかし、フェミニズムの視点では、それは不当な行為である。では、何がフェミニズム的に
  正しくて、何が間違えなのだろう?

  フェミニズムの考えは、現状の社会批判よりスタートする。つまり、問題があって、
  それを解消するためなのだ。よって、問題が先行しなければならない。事前にそれが
  問題であると確定できないのである。性差別によって給与が違うとか、出世の扱いが
  違う等は、たしかに主張されるべきことだ。そういうものは無いほうが良い。

  一方で、女性への配慮はどうだろうか? 例えば、女性専用車両は男性差別ではない
  のか? いや男性からの性差別を予防するという意味で存在している。その意味で
  差別の解消である。こういう前向きな女性への配慮を良しとするのがアファーマティブ
 ・アクションである。採用においても、放おって置くと男性ばかりが採用されてしまう。
  その時に、一定の枠を備えようという事だ。そこでは、必ずしも同基準を採用しない。
  しばしば多少の嵩上げがある。

  このダブルスタンダードはフェミニズム視点では肯定するのだが、問題はすぐに分かる。
  その行為がむしろ、差別的であるという事なのだ。差別的状況を差別によって解消する
  。なんだかもやもやすることだろう。そして、その程度はどうやって決めればいいのか。

  そして、私の例では逆に、区別することが不当扱いされる。差をつけた行為が性差別
  であると。

  こうなると、フェミニズムは平均台の上を歩くような行為となる。一部では区別をとり
  払い、一部では進んで差別を行う。そして、トータルで差別をなくそうという事になる。
  しかし、本当にそれでうまくいくのだろうか?

  この時、フェミニズムは思想的な強制をもたらす。会社役員の中に必ず女性が1人必要だ
  というルールがあるとしたら、自由に人選はできなくなる。しかし、それを遂行する
  事が社会的に求められるとしたら、そうする他無い。これがフェミニズムによる強制
  である。そして、社会全体がその思想方向へ進まされるとしたら、一種のファシズムと
  なる。過度にフェミニズムを遂行する事は、思想強制でもある。

  私は、その渦中にある。フェミニズムにより思想変換を迫られている。私がこの思想に
  賛同して変更する場合は良いだろう。しかし、個人の思想と相容れない場合にはどう
  だろう?

  私が性差別主義者だという事を肯定するとしたら、どうだろう? 私はフェミニズムに
  よる批判はまるで無視する事ができる。そして自分の良心に従って行動するだろう。
  この時、自分の行動が反フェミニズムだとして、それをフェミニズムの観点から断罪
  できるだろうか? 私には大いに疑問だ。価値観の多様性と抵触する。

  フェミニズム的価値観が、他の価値観の上位に来ると考える事は肯定出来るだろうか?

3.PCの話題。
  昨日PCの記事を取り上げた。
  昨今のアメリカでは、PC疲れとも言われている。

  私は今回の友人からの批判によって、それも些細な事での批判によって、
  PC疲れの意味がよくわかった。自分にとって悪意なくやっている行為が、
  社会的な価値観が変容したために、非難されるべきことに変わってしまった社会。
  それを生きるのは結構たいへんだろう。「ニガー」といえば、怒られ、「ブラック」
  といえば、非難され、アメリカンアフリカンと呼ぶ事になったアメリカ。チャイナ服など
  特定の民族衣装をもともとの民族ではない人が来たりする事で、文化的盗用と言われたり。
  
  PCを満たそうとする苦しくなる事もあるのではないか。といって、余計な騒動は
  ごめんだろう。よって、右へ習うことになる。それが社会全体に広がればPCを規範
  とした社会になってしまう。

  フェミニズムも同様だ。私が何気なくやった行為は、気がついたらフェミニズムに
  抵触していた。言われてみれば、その理屈は理解できる。ある程度寄り添える。
  けれど、自分の今までの行動を隅から隅まで、それに対応できるわけはない。

  私はいわゆる日本人である。そして、日頃多少の失敗はあろうとも、
  つつがなく生きている。そこに突然あたらしい規範が訪れ、貴方は間違えだと
  言われて、はいそうですか。なんてうまくいくはずがないのである。



私の友人は、およそ自分の価値観が「正義」であると思っているはずだ。
それはフェミニズムに準拠している。その価値観からみれば、私は差別した事になろう。
私は私で区別はしたが、差別した、つまり不当な取り扱いをした覚えはない。ここに
大きな違いがある。解釈の違いがある。微妙すぎて、遠目からはわからないほどの違いが。

同じ行為が、そのままで良いという価値観と、変えるべきだという価値観が対立したとき、
我々はどういう選択をするべきなのだろう? 

誰にでも不変な規範など存在しないのではないか。
今回の事を受けて、この価値の普遍性について考えてみようと思う。
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