2021年の抱負 [その他]

本年もよろしくお願い致します。

さて、2021年がスタートした。
本来であれば、オリンピックの余波で世間は浮かれていた所だろう。
だが、現実はコロナ禍である。そうしたなかでの正月になった。

備忘録的に今の状態を残しておこう。

結局のところ、安倍政権の歪みは相変わらず残ったままであり、
むしろ、あの7年半がとてつもなくこれからの未来に影響する。
振り返れば、小泉政権時からの問題でもあった。

社会は若者の搾取ののぞみ、それを実行した。
若者たちはかつての大人が得られる経済的な見返りもなく、
一労働者として、社会に吸収された。そして、それなりの数の若者たちは、
諦めを受け入れてきた。増えすぎた老人たちの世話という異常さをだ。

怒れる若者は本当にわずかだ。
多くの若者は、完全にスポイルされ、政治に無関心をきめこみ、
貧しい中でなんとか暮らしていればそれでいいやと思ったのだろうか。
かつての大人と同じだけの仕事をしながら、彼らの半分から二分の三程度の給与しか
もらえない非正規として働く。これは完全に新しい階層となってしまった。
そして、彼らの一部は結婚や子育てから遠ざかってしまった。

一方で、老人たちはのほほんと暮らしている。
かつて払った少額の年金保険料に、大きな利子がついて支払われている。
この額は、人によっては今の若者がフルで働くより多い。

私には、明らかな矛盾を感じる。若者はわざわざ自分の給与を減らして、
老人たちを養うどころか、自分たちより多くあげている。
世代間搾取が公然と行われているのだが、権力を持つ人間は誰もそれを口にしない。

そして、こうやって私が指摘しても、若者たちは調べもしないし、政治への無関心を
貫く。若者の給与明細からひきぬかれる保険料や年金は、あからさまな不公平であると
教えてもだ。

これを取り戻そうと犯罪をする連中もいる。いわゆるオレオレ詐欺だ。
善良な老人たちが、犯罪者に騙されているというイメージがつきものだが、
その金の流れだけをみれば、金が余っている老人から、若者へ金を還流しているとも
言える。つまり、もともとの所有者に非合法で戻されているのである。むろん、
犯罪は駄目だ。犯罪にあうのも、あわせるのも駄目である。

こんなものが成り立つのもとかく、現状の年金制度が不備だからだ。
そして、システムとして破綻しているからだ。今、保険料を払っている若者は、
将来だれが、自分たちの老後資金を払ってくれると思っているのだろう?

今生まれてなければならない子どもたちだろうに。だが、年々、その数を減らしている。
今の20〜40代が老人になった時、果たして日本人がいるというのか?

昨今の御老体たちは、それなら海外から呼べば良いと、移民を受け入れている。
もちろん、制限付きだ。だが、事実上、日本は移民国である。
彼らは、日本国内に別のグループを形成する。日本とは異なる文化のまま日本暮らすのだ。

労働者として搾取しておいて、時間が経てば追い出せば良いという異常さ。
日本はとかくこの方面については、極悪非道である。よそ者に徹底して厳しい。

彼らは年金を払ってくれるだろうか? そも日本語を話してくれるだろうか?
否。社会システムは彼らを放置し、教育も施さないからだ。そんな彼らが大きくなった時、
日本国内はどうなるのだろうか。明らかにこれからの社会問題の種である。

問題が小さいからと政府は無視を決め込んでいるが、早晩大きな問題となって現れるだろう。
今のうちに手当をすれば、軽症だが、あと30年後になれば、巨大な障壁となってしまう。

結局、わかっているけど、手が回らないので放置し、大問題を発生させては、
先送りにし続ける。これが日本の政治であり、既得権益である体制側の論理である。
搾取しておいて、あとは知らぬという厚かましい連中である。

私はなぜに多くの国民がこのシステムを正常とおもって参加しているのか疑問で仕方がない。
むろん、参加拒否はかなり困難である。実質上、海外移住するくらいしか手がない。


とにかくだ、2021年は、決して希望の始まりなどではない。
むしろ社会はますます混迷を深めていくだろう。コロナ禍において、ハリボテにしてあった
物事の皮が剥がれおち、どうしょうもない内実が湧き出してくるだろう。

それにどう対処するのかを委任しているのが政治や官僚だが、彼らは自分たちのことだけを
考えて生きている。一方で、庶民も自分たちの事だけをみて生きている。誰も社会など
どうでも良いのだ。そうやって無関心を貫く事で、ますます生きづらい日本になる。

もはや手遅れかとも思う。この10年ブログを書き続けてきて、果たして政治的に良いと
感じたことあっただろうか。おそらく皆無に等しい。経済的にいいことがあっただろうか、
これまた皆無だろう。

不遜であるが、述べさせてもらおう。
このコロナ禍は、私には幸いな出来事だと思うのだ。多くの人が犠牲になっていること、
それは大変嘆かわしい事である。犠牲になった方々にご冥福をお祈りしたい。
一方で、誰も止めることが出来なかった社会の運行を、誰のせいでもない形で、
水を差す事に成功したのである。これは誰にも出来ない事であった。

コロナ禍は、この災いという幸福から、再度生活を見直し、何が大事なのかを考え直す
きっかけになったと思う。仕事しすぎる事は、自分の首を締めている事に等しいと気がついたはずだ。
一方で、仕事に依存しきって生きている事にも気がついたはずだ。それが失われると、
こんなにも大変なのだと。そしてそれが本来の姿なのだと。金に依存して生きていると、
結局、人間としての尊厳を売り払うしか無くなってしまう。

では、希望はないのか。
私が見聞きするところ、現状に異変を感じて行動している人たちは少数ではあるが増えてきている。
彼らこそが、これからの希望である。決して、都会で暮らす金の亡者たちではない。

生産を自分たちの手に引き寄せ、拡大再生産を目指さなくても良い状態を作り出すこと。
これこそが幸福への道である。他者を搾取し続けなければ維持できない暮らしとは一体
なんだというのだろう。

持続可能な社会などと、資本主義体制下で何をぬかすのかと思う。
語義矛盾も甚だしいではないか。資本主義とは搾取構造を前提とするのだ。それは人だけではない、
環境の搾取もある。山を削り、河川を汚し、時に原発で土地を壊す。そうでもしないと、
維持できない暮らしなのだ。人は賢いというが、私には甚だ疑問である。
無理なのに、無理ではないと言い続ける事や、今は大丈夫だからと、将来を切り捨てる態度。

それでも、日本株式会社の社員たちは、現状維持を欲する。住宅ローンがあるし、
家族を養わなければならないからだ。事情はわかる。周りがやっているから、それが普通だから、
幸福だからと、行ったのだ。そして、そのバーターが苦しい仕事であり、辞められない仕事である。
つまり幸福には対価があるという事になる。

だが果たしてそうか? 結局何も考えていなかっただけではないか。

人生が苦しい。そうあえぐ人の多くは、自らの考えで自分を追い込んでいる。
自分描く、理想状態から、逸脱した状態に戸惑い焦るのだ。だが、その理想状態とは
誰が決めたのだ? そしてそれは手放せないほど、大事なものなのか? それは欺瞞だ。

ただ得をしたかっただけだろう? だったら損したって不思議じゃない。そういうゲームに
乗ったのは誰だったのか。自分は損をしないと思いこんでいる人が多すぎるし、損をしない
ような労働者など誰もいないのだ。それは隠蔽されているだけのことである。

我々はただ、生まれて生きて死ぬだけである。そこに道義などあってたまるか。

我々には意思がある。どう生きるかを模索する意思である。
置かれている現状がどれほど悲惨でも、意思を持つことは可能だ。
そして、意思を持つからこそ、我々の希望を持てるのである。

その意思を放棄しておいて、状況にあえぐのは自由である、とめはしない。
だが、その苦しみの殆どは、どうでもよいもので構成されていると再考すべきである。

困ったらどうしたらいいのか。
誰かに頼ればいい。助けてと外聞もなく叫べば良い。人はそもそもそういう存在だ。
そうやって人は生きてきたのだ。誰が、自分で稼がないと駄目だと決めたというのか。

さて、本当に散文してきたので、本年の抱負。
状況は相変わらずだが、私は行動したいと思う。トライ&エラーだ。
今まで形成してきた自分という枠をわずかでも崩す事。それが今年の目標である。
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完璧主義からの離脱ー好きなことと苦手なこと [その他]

アドラーを読みながら、自分のライフスタイルを問い直す。

そこでしょうもない事に気がついた。
好きな事の中に、苦手という要素が入っているという事に。

本当に手放しで好きなことしていいんだよ。そして、欺瞞のある”好き”はいらない。
今の自分なら、そういえる。

仕事をやりながらずっと、自分の能力不足に苛立っていた。
そしてそれを乗り越えるために、ストイックに作業を進めていた。だから、必然的に
完璧主義になり、それがまたストレスになっていた。

実はもっと前から分かっていた。自分の仕事の本質が、実は自分がもっとも
苦手な分野であると。

自分のライフスタイルの歪みとして、強度の負けず嫌いがあった。
その負けず嫌いとは、自己に負けることにも通じている。だから、手を抜けない。
抜きたくないのだ。そして、手を抜いたことに罪悪感を感じていた。
もっと自分は出来るのに、それをおざなりにしていると。

事実、それなりに自分の能力を存分に伸ばしてきた。だが、そもそもそれらは苦手なこと。
修行である。修行となった事で、人並みに上手くはなった。でも、所詮、苦手なことだ。
もともと得意な人や、それが好きな人に、仕事上及ぶわけがない。

もちろん、全ての仕事において、そういう事柄があるのは知っている。
だが、よりにもよって、苦手の事柄がもっとも仕事上評価されるポイントであるとは
困ったものである。むろん、修行はした。人並みには出来るようになった。

だからなんだ? これを一生の大部分を費やして生きるのか?

後で、もっと違うことが出来たのではないか? なんて思って生きたくない。

下手でもいいから、好きなことをして生きたい。
好きなことを存分にやって過ごしたい。それがリッチという事だろう。
金だって、生活に加えて、それをするために稼ぐものだろう。

そのために知恵を絞るほかない。そうだった。そのつもり行動を変えたのだった。
今もまだ、得意を仕事にしている。やりたいことなのか?とちゃんと自問しないと。

もがくほかない。

自分にとっての道をもがいて切り開くしかない。他人からみてバカだとしても、
そうすると決めたんだった。初心をすっかり忘れていた。

コロナ禍において、また自分の求める所を変更せねばならない。
きっと、多くの人がそうだろう。もっと深いところへと。
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なんか同じことの繰り返し [その他]

行動をどんどんと削っていったら、同じことの繰り返しが目立つようになってきた。
もちろん、日々変わっているんだけど、結構同じことをやっている。

Webも同じで、SNSを人通り巡回したあとは、ニュースサイトを眺め、
それに飽きたら、こうやってブログを書いたりして。
生産性があるようでない、そういう風になっている。

そして、SNSでは政権批判のタイムラインを眺め、ときに有益情報を得て、
ときに、自分も政権批判をする。これをエンドレスでやり続けている気がする。

ツイッターで誰かがいっていたが、文句をツイッターで飛ばしても、
何も変わらないと。そして、ただ不満感だけがつのると。まさに。

そういう怒れる人間にリアルで近づきたい人は少ないだろう。
結局、他者と距離をとってしまっている気もする。

まずい。正直まずいよ、この習慣は。


とはいえ、政権は無謀な事ばかり繰り返して、日本を破壊し続けているし、
そこに自分として何ができるのか。カウンターをかけるなら結局、日々の中で
カウンターになる行動をとるしかない。果たしてそんなことは可能なのだろうか?

うーむ。ここで、以下に安倍政権が愚昧かを述べてきたが、
それに影響を受けて、自分で調べてくれた人はどの程度いたのだろう?


行動で世の中をよくしたい、そう思うこの頃だ。
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この不安感のわけー他者との軋轢ー [その他]

たった今、私は強い不安感をもっている。それは、友人に怒られてしまったからだ。

喧嘩などはあってもいいと思うが、今の私がおっているダメージは、なかなか解消が難しい。
というのも、私なりに良かれと思った行為が、相手にとって不快だったからだ。
それを批判されるのは正直つらい。


言い分が違うから対立するというのとは違う。
傷ついている友人がいて、その友人が苦しんでいる(ように見える)。だから、
良かれとうっかり助言してしまったのだ。軽率であったと思う。

友人はPTSDに悩まされているという。精神科にも通うほどらしいのだ。
その人に向かって、何かをいうのは難しい事。慎重さが必要だった。
だが、うっかりと、気安く「状況は変わっていくよ」と言ってしまったのだ。
そして「(いずれ変わるから)あんまり現在の心境に囚われない方がいい」
と言ってしまったわけだ。

友人にとって、それがいつ訪れるか分からないから苦しんでいる。
それなのに、この人は無責任にも「変わる」という。そんな事どうしていえるのだ?と
憤慨してしまったのだ。

心の在り様が変わらないから苦しんでいる人に、心の有様は時間で変わるのだといって
しまったのである。実際的には、それは事実なのだけど(沢山の例がある)、だが渦中の人に
とってそれは酷な言い方であろう。何しろ、苦しさは自分じゃあ変えられないのだ。

私にもうつ傾向だった時がある。その時は自分の心の状態を変えられるわけじゃない事は
よく分かっていた。そして、結局時間とおかれている状況の変化によって、心の状態は
変わった。渦中に居るときに、私ならば「大丈夫、いずれ状態は変わるさ」と未来の自分に
いって貰えたら助かったろうなと感じていた。だから、うっかりと友人にそれを言ってしまった
のだ。

だが、友人には友人の世界観があり、異なった形で生きている。だから私が言って欲しかった
言葉が同様に有効であるとは限らないわけで、むしろ、批判されているように響いたのだろう。
余計な親切大きなお世話。そういう結末だったわけだ。

そして、私は善意を批判されて驚くとともに、自分の動揺にも気がついたのだ。
相手の立場に立つのは時に困難なこと。良かれがむしろ最悪の結果を招いたとき、
私はかなり動揺するのだと。良かれと思うことこそが、不正解みたいなとき、そして、
相手を傷つけたとき、どうにもならない欺瞞に陥る。

こういうときは、ひとまず謝るほか無い、複雑ではあるが。
先ほど謝りメールを書いたのだが、自分がいやになる瞬間である。


この世で恐ろしいことの一つは、悪ではないのかもしれない。
むしろ善こそが恐ろしい。善と思った行為こそが、最悪であったときが恐ろしい。
大切に相手をおもうゆえに、相手を傷つけたのなら一体なんなのだと。

ときおり感じていたこの感覚。これから逃げたいと思ってしまう。
他者と関わると、どうしても時にこういう感情を抱く。
それは強い恐怖心である。それは自分が不用意に他者を傷つけるという事。

悪気があるわけじゃない。こちらが普通にしていても、相手を傷つけることがある。
それが怖さになるのだ。自分が何か間違えた人間なのではないか?と感じるのだ。
そして、何かが足りていない自分が悪いのだと考えてしまう。その自己嫌悪もまた
恐ろしいのだ。

一度そのような感情を抱いた相手に対しては、どうしても距離が出てしまう。

当たり前なのだが、他者とまるきり同じ考えや感覚の人は居ない。
だから、時に善意が悪意に見えたりする。おそらくそれは他者からみた私もそうなのだろう。
衝突しながら、ああ、こういう人なのだと互いに理解するほか無い。

つまり、当たり前なのだ。このような衝突は。そして、それを避けてしまう私の
心の問題なのだ。自分でははっきりとわからないのだが、どうも私自身の心に棘が
ささっているらしい。

それが現れるのは、他者が怒りを表出した時らしいとまで分かってきた。
そして、それが第三者に向けられていても恐怖し、ましてや自分に向けられたら、
さらなる恐怖である。こんなに恐怖を覚えるのはなぜか? これは普通だろうか?

他者の怒りに対して、過剰に反応してしまっているのではないか?
それが最近の私の課題である。これは小さい頃からだ。


怒りを使った他者支配をしていた人がいる。それは祖父だ。
気に入らないことがあると祖父はすぐに怒りを表明した。そして、自分の欲求を
通したのである。私は祖父の怒りのつぼを探すことになった。それを避けるように
行動したのである。このような事が今の私に作用しているのだと思う。

私には他者の怒りを避ける傾向がある。もちろん、多くの人もそうだろう。
だが、私は極端に避けている気がするのだ。それは対人関係に影響する。
他者の怒りを避けているということは、じぶんの怒りも避けてしまう。つまり抑制だ。

こうして、怒るべき時におこれない自分がいる。そして他者の怒りに過剰に
反応してしまうのだ。おそらく何も起こらないのにだ。

アドラー的に考えてみる。課題の分離だ。
相手が怒っているのは、私のせいではない。私がきっかけかもしれないが、
私が相手を怒らせようとした事でなければ、私には怒らせる意図は無い。
それなのに相手が怒るとすれば、それは相手の課題なのだ。

ウェイトレスがうっかり水をこぼしたとき、怒鳴ったりして怒りをあらわにする人も
いれば、大丈夫ですよと状況に対処する人もいる。この違いはその個人に由来するものだ。
では、怒りとは何か?

怒りとは他者を操る手段である。少なくとも状況に対する攻撃的対処である。
私は不快だぞと訴えているわけだ。そしてその不快さを相手にみせつけることで、
相手をコントロールするわけだ。

これは幼児が泣き喚いて親をコントロールするのと同じである。
上司が部下を怒るのも、妻が夫をなじるのも、まるで同じことだ。

私にはどうやら祖父との関係を通じて、怒りに対する自己嫌悪を抱くように
学習したらしい。好意をもつ相手の怒りに対する対処に過剰に反応してしまうのだ。
それはいつしか、怒られたくないから何かをするという消極的な行動へと発展した。
私はそのような心根があることを自分に隠蔽してきてしまったのだ。

他者の怒りに直面した時、まさに今だが、その時こそ、対応を考えるときなのだ。
動揺している自分をちゃんと見つめ、その動揺は大丈夫だと言い聞かせる。
そして、可能な限りアサーティブに対処する。私の課題である。


話を友人に戻そう。
友人は最近よく口にしていたのが「私の気持ちは誰にも分からない」である。
そう、私は気がついていたのだ。友人の心境を。

私が友人にしたことは、よけいな「お説教」になってしまったのだろう。
教えてあげるオヤジという奴だ。何も分からないくせに、何をえらそうにという奴である。

もちろんこちらにその意図はない(あったら問題だ)。だが、こういうのは課題の分離
である。こちらの意図とは別に、相手が不快に思ったのなら、それに対処するほか無い。
むろん、私にも軽率さがあった。誤りメールはしたので、後は友人次第であろう。



さてもう一歩、進めて考えてみる。
トラウマは無意識的作用であるといえるだろう。本人の意図には関係が無い。
だからフロイトは、このトラウマを原因として精神疾患が生まれると考えた。
そして無意識であるから、それを本人が自分で何とかできるものではなく、他者との
関わりによって状態を変えようというのが精神分析であった。

現代では記憶のメカニズムの問題であるとも考えられている。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3445/1.html
https://toyokeizai.net/articles/-/141463


一方で、アドラーはトラウマを別の角度から考える。
極端なことをいえば、アドラーはトラウマなどないという。過去と未来とは人間にとって
現在そのものであろう。すると現在をどうするのかで、人の今後の人生は形作られる。

アドラーの新しいトラウマの解釈はいつでも目的論となる。とある目的のために、
トラウマが利用されるというのだ。

引きこもりになったのは、いじめが原因だからだ。いじめというトラウマのせいだと
解釈される。だが、アドラーはいう。引きこもりたいから、いじめという原因を作り
出したのだと。因果関係がさかさまに見えるが、そこがまさにアドラーの本質である。

トラウマをベースに生きるとしたら、そして、トラウマを克服できないのだとしたら、
一生、それを引きずって生きることになる。だから、原因を取り除こうと精神分析や
治療をほどこす。むしろ、過去の捉え方の問題じゃないのか?とアドラーは言う。

それは現在がうまくいかないから、トラウマなるものを作り出しているのだと。
いや、現在の目的のためにトラウマを作り出すのだと。

アドラーがフロイトと袂を分かつのは、この辺りが問題なのだろう。過去を現在の自分が
どう捉えるかを、原因とみなすことで、状況を理解し、心的安寧を得られるのであれば、
それは一つのやり方だと個人的には思う。一方で、アドラーのいうようにそれは解釈に
過ぎないという言明もまた確かなのだと思う。なぜなら過去や未来など、そもそも存在
しないからだ。

過去というのは、記憶である。記憶とは現実ではないのだ。主観的な何か作用がうんだ、
幻想である。それを材料にして、ヒトは未来をつむぐ。これもまた想像であり、創造である。
よって、過去も未来も、ヒトがその能力を発揮して生み出す産物である。

トラウマとは、現在の自分が、トラウマたる過去を生み出した結果とみなせるわけだ。
そして、それがあると確信すれば、それはますます確かなものとして生み出される。
こうしてフィードバックが働けば、トラウマは明示化されるのだ。

フロイトがやっている事は儀式に近いのだ。本来は存在しない過去を作り出し、その過去を
滅却する事で、その人に心の安寧を与えるというわけだから。トラウマとは身代わりのような
ものとも言える。

記憶は残る。強い感情をともなった記憶は確かに残る。それは、そのような状況を避けろと
叫ぶためだ。生死に関わるがために記憶は強化される。それが誤りであってもだ。ここが
最大の問題なのだ。

さて、友人はどうか。確かに友人の体験はつらいものだろう。そのつらさからくる欝や
PTSDは友人にしか分からない。それを他者がどうこういうべきではない。私は軽率だった。
だが、その一方で、他者を介在しなければ、また過去の捉え方を変更するのは難しい。
治療とはおそらく、他者につらさを理解してもらうことではなく、本人が過去を捉えなおす
事で起こる。本人が過去をつらいものであると思い込むほど、それは強化されてしまうのだ。

事態を客観的に捉えなおそう。
私の言明に、過剰に反応してきたということは、そこに何かがあるのだ。とりわけ、
他者に分かられては困るという何かが。友人の瑕疵をあげつらうわけではないが、
友人に潜む意図があるのだと、アドラーは語る。

もっと別なんらかの要因があるのではないかと私は考える。過去の体験によってPTSDと
診断されたのは直接的原因かもしれない。だが、それを過去のものであると切り離せない
のは、それを利用することで何か有効なことが起こるとアドラーなら考えるだろう。

目の前の仕事から逃れたい。現状の何かから抜け出したい。そのような恐れこそが、
トラウマを強化するのではないか。私はアドラーを援用するとそう思えるのだ。
そして、それを自覚する方が、状態は緩和されるに違いないと。

人は目的のためなら、病気にだってなる。良い言い訳が出来るように、人は求めたものを
ひきつける。友人もまた、何らかの目的をもってトラウマを顕在化させているのではないか。
冷たいようだが、このような解釈もまた可能なのだ。

同じことは私自身にもいえるのだろう。他者の怒りに過剰反応するという事で、
何か大事なものを守っているのである。不安感が生まれたわけを直視する必要があるのだろう。


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プリウス事故ー原因考察ー [その他]

まずは、今回池袋で犠牲になってしまった方々のご冥福をお祈り致します。

この手の話はあまり興味が無いのだけれど、事故現場付近を知っていたので、
少し興味が湧いた。

https://www.shogogor.com/gennnnba/3765/
https://news.yahoo.co.jp/byline/kunisawamitsuhiro/20190420-00123047/
https://bluesea0925.com/accident/7365/

状況は上記のサイトなどを参照すればだいたい理解できるだろう。
ポイントは、

1.高齢者ドライバーの技能低下問題
2.プリウス固有の問題
3.車の技術問題

4.運転手問題(報道後の追記)

この辺りだろうか。

1.高齢者ドライバーの技能問題

 高齢者になれば判断力が低下するのは仕方がない。つまり事故の確率は当然高まるといえる。
 操作ミスもあれば、判断ミスもある。また運転ミスも出てくるだろう。まずは、これらが
 起こるのは人ならば当たり前だと仮定するところからだ。

 人のせいにする人は、いざという時にあなたも言い訳不能となる事を忘れている。
 
 ヒューマンエラーは「どうしてそんな事したんだ!」ではなく、「それはあり得ることだ」
 で考えるべきことだ。車なら一番の危険性は、不用意にアクセルを開けてしまう事である。
 そんなの小学生でも分かることだ。ならば、例えばうっかりアクセルを開けてしまった時、
 どうすれば事故を最小限に抑えられるか、それを車会社は考えないきゃいけないのだ。

 一方で、人間の能力低下は間違えなくある。だから、歳をとったら、ブレーキテストのような
 ものを導入して検査するとか、免許の更新期間を短くして、認知能力を確認するなど検討した
 方がいいだろう。正直、警察署の免許書き換えの視力検査などのいい加減さをみていると、
 何をみているのだろう?と疑問になる。ただ”やった感”だけにみえるのは私だけじゃないだろう。

 結局、ヒューマンエラーが起こりそうな場合は、乗らないに限る。そして、それを防ぐ
 技術が必要になのだ。

 すると問題は生活空間の問題で、車がないと生活が著しくむずかしくなる場所には住めない。
 対応策は、タクシーやバスなどによる移動可能性の担保、誰かが買い物を代行するなどだろう。
 これは車だけの問題じゃなくて、地域の問題である。真剣に考える時だと思う。

 追記:

   2の追記を書いていて思ったのだが、今回のこの報道は、高齢者から免許を剥奪したい
   という意図も伺える。個人的にはちゃんと運転できるドライバーなら何歳でも構わない
   と思う。だから、高齢だから運転はだめというのはおかしな話であると付け加えておく。

   むしろ、暴走したり煽ったりするドライバーなど、明らかに運転に不向きな人からは、
   年齢に関係なく免許を剥奪すべきだと思う。そっちの方が問題かもしれない。


2.プリウス固有問題

  上記のサイトにもあるように、プリウスのシフトレバーはいささかイレギュラーだ。
  このようなインターフェースが時に問題を起こすことは容易に想像できる。これは
  トヨタのミスである。慣れろというのは簡単だが、他車と違う事は紛れもないこと。
  うっかりミスをさせる仕組みのまま放置しているなら、それは製造者の問題である。

  次にハイブリッド車固有の問題だ。シフトバイワイヤでは、アクセルやブレーキが
  電子制御されている。アクセルがそのままエンジンに影響を与えるのではなく、アクセル
  開度を信号に変更し、その信号をエンジンやモーターに送って動かすわけだ。
  http://news.livedoor.com/article/detail/13557570/
  https://www.tdk.co.jp/techmag/salon/car/car050926a.htm (参照)

  当然ながら、この部分は今回の事故原因になりえる。

  このシステムの異常が起これば、アクセル開度の信号が誤動作をしても不思議はない。
  アクセルを足の力で押してないのに、アクセルが押しっぱなしになるという誤動作が
  起こり得る。この構造がどうなっているかは、プリウスの仕組みを実際に知らないと
  分からない。しかし原理上、運転手の挙動と車が切り離されている事は、その間の
  不具合は確実に起こる事だ。問題はその程度である。

  追記:

   たとえばこれだ。
   https://response.jp/article/2010/03/16/137725.html

   この乗車していたジェームス・サイクス氏がウソをついていないのであれば、
   明らかになんらかのバイワイヤトラブルが考えられる。

   また不具合一覧がある。
   http://carinf.mlit.go.jp/jidosha/carinf/opn/search.html?selCarTp=1&lstCarNo=960&txtFrDat=1000/01/01&txtToDat=9999/12/31&txtNamNm=プリウス&txtMdlNm=&txtEgmNm=&chkDevCd=7&page=3

   これらをうちいくつかは明らかにメカニカルな問題やヒューマンエラーではなく、
   車が暴走している可能性が伺える。車側の問題も間違えなくあるといえる。

   トヨタはこれらをただの不具合や、ヒューマンエラーというのかもしれないが、
   今回のような出来事が他の場面で起こったら、今回の事故のようなことは十分に
   あり得る。
 
   どうやら人為的なご操作のみならず、明らかな不具合がある。それがプリウスであり、
   おそらく車の技術的問題なのだ。もちろん、殆の状況ではこんな不具合はないはずだ。
   特定の動作、特定の場合に起こるのではないかと思われる。

  追記2:
    上記のサイトで、どの型が急発進系のトラブルを起こしているかを調べてみた。
    2ZR-5JM、2ZR-3JM、2ZR-1NM、1NZ-3CM、1NZ-2CM という5つの型番だ。

    そのうちの一つに気になる事柄として
   「ハイブリッドバッテリーの充電レベルが高くなった状態での減速時、突然エンジンが
    吹ける事がある。」というものがある。

    5つの型番に共通した事故として、減速時の次のアクションで急発進が起こっている
    事である。駐車場や停車状態からの挙動で異常が起こった。しかも、この中には、
    ブレーキしか障っていないのに暴走したケースがあり、しかもログにはアクセル開度が
    開いていたとあった。

    滅多にない症状なのかもしれないが、プリウスはハイブリッド車であり、回生ブレーキ
    を積極的に採用している。その効率化の仕組みが不具合を起こしていると推測できる。
    特にバッテリーからの過剰放電などで、おかしな事が発生している可能性は否めない。

    特に2ZR-3JMをご使用の方は、低速走行時に気をつけることだ。報告が一番多かった。

    追記3:https://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-14/2016121401_04_0.html
    
     この3年前の事故を見ると、型番がDAA―ZVW30とある。これが車体の型式で
     エンジンの型式は2ZR-3JMである。上記のよく急発進系のトラブルを起こす車種と
     同じである。いよいよ怪しい。

    おそらく同じことが今回の池袋で起こったとしても不思議ではない。だとすると、
    ドライバーのせいではなく、全面的にプリウスに問題がある事になる。


  追記:
  
    まだ報道が続いている。プリウス固有の問題としてtwitterにあがっていたのは、
    シフト問題で、プリウスではNにいれた状態でアクセルを踏んでも動かず、そのまま
    Dに入れることが可能だという事らしい。つまりアクセルががっつり開いているのに、
    車がない動かない状態があって、そこに急にDに入れたら、そりゃ暴走すると。

    他のメーカーでは、ブレーキを踏まないとDに入らない仕組みらしい。それは合理的
    といえる。これがことの本質だとしたら、プリウスの設計上の問題+運転者の特殊な
    動作によって、今回の事故が引き起こされた可能性がある。

    もちろん、真実はちゃんとした検証を必要とするだろう。

3.車の技術問題

  車の技術として、バイワイヤが主流となった。つまり、車が電子部品化してる事になる。
  その安全性はおそらく恐ろしいほどのテストを経たもので、殆ど問題はないのだろう。
  だが、モノである限りに絶対はない。例えば、熱い場所に置かれた場合の部品の精度や
  バッテリーの経年劣化などで、マイコンがおかしな挙動をしないとは限らないのだ。
  どんなに設計上で、きっちり制御しようとも、モノは壊れるものである。それは家電を
  一つでも持っているならば分かることだろう。

  ヒューマンエラーは絶対に起こる。そして、モノとしては絶対に壊れる。
  では、どう対策するのか。ここが肝心なのだ。

  運転操作を誤る、壊れているのに動かすなどは論外として、正常に使用していても、
  なんらかのトラブルは大いにあり得るだろう。

  プリウスはハイブリッド車であり、電子化が進んだ車である。技術者が想定していない
  稀なケースにおいて、バイワイヤが狂い、アクセル開度が戻らないということはあり得ることだ。


  今回は、EDR(レコーダー)において、アクセルが押されブレーキの挙動がなかったと
  伝えられている。だが、果たして運転手本人が、それをしていなかったかどうかは、この
  ログからは明らかではない。機械がそのように動いていたというのがこのログだからだ。

  このログにあるような挙動を運転手がとっていたのかが問題になる。しかし、その情報はない。
  本人は「アクセルが戻らなかった」と言った。

  https://www.sentaku.co.jp/articles/view/17594

  この記事にあるように、衝突回避システムが搭載されていても、そもそも車がその通りに
  挙動しなければ無意味である。ましてや、システムがあるのに制御されていない。これは
  大問題である。

  また今回の池袋の事故では、運転手や同乗者が「危ない」「あー、どうしたんだろうね」
  と言ってたと記事にはある。これが車の挙動がおかしくて、どうしたんだろう?という事で、
  かつ、アクセルが事実戻らなかったのならば、これは車の不調を指し示す。いくら高齢だから
  といって、ヒューマンエラーの原因に帰するのは無理があるのではないか。


結局、断定できることは何もない。事故原因は結局、ヒューマンエラーで片付けられるのだろう。
だが、この事件は、車の異常な挙動という可能性が拭えないのだ。絶対に起こらないとは言えない。
それが、バイワイヤシステムのメリットとデメリットなのだから。


  私の類推では、他の事故も鑑みるに、プリウスなどバイワイヤシステムの車には、事故の
  恐れがあるといえる。それは機械の設計上仕方がない事だ。その可能性は恐ろしく低いの
  だろう。だが、車は何十万台も売られたわけだ。そしてあらゆる状況で走っている。その
  中の何台かに不慮な事が起こっても不思議ではない。今回は、条件が重なった結果として、
  車の異常発進が発生したのではないか。私は運転手だけに責任があるとは思えない。


  よって、トヨタはこの件についてあえて、リコールなどで全車検査をすべきなのだ。
  そして、安全であることを再度証明すればいい。もし、なんらかのトラブルが極稀に
  発生することを隠蔽しているなどでなければ、堂々と検査すればいいのだ。


  昨今では大企業が検査不正や燃費不正など、過当競争の煽りを受けて、消費者を騙す事が
  続いている。よもや、トヨタがそのような会社だとは思いたくない。ならば、積極的に
  情報を開示して、対策があるなら施せばいいのだ。


4.報道をみて

  今回の事件では、どうやら運転手は逮捕されないらしい。事故後は入院したという事もあり、
  事情聴取が難しいのかと思っていたのだが、どうやら事故後に息子に電話が出来たいたらしい
  事や、この運転手は元官僚だという事が明らかになってきた。

  通常、過大な事故を起こした人は、故意でも過失でも起訴されるのが通例だろう。
  たとえば、群馬の高速バス事故:https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0102J_R00C12A5000000/

  少なくとも今回も残念ながら死傷者が出たわけで、当然、自動車運転過失死傷で逮捕される
  のが当たり前だろうと思われる。この例をみれば本人が怪我をしていても関係はない。

  そして、裁判を通じて、プリウスの問題なのか本人の技量の問題なのかを明らかにして、
  相応の責務を果たす事になるはずだ。

  
  しかし、どうも逮捕されないという話になってきたらしい。それが真実なら一体、法とは
  なんなのか。全ての司法に関わる人間に問いたい。人を裁く根拠は何かと。そして、そこに
  例外を作る行為は、越権的行為であるはずだ。
  
  万が一にも、逮捕されないというのであれば、法を履行する意味がなくなる。元官僚なら
  逃げられるというならば、それは庶民を愚弄しているといえる。これは事故とは無関係に
  議論すべき問題である。


追記 税金の無駄使いについて

    プリウスと言う車は存在自体がおかしい所がある。国策車でもあるからだ。
    エコカーといきなり言われ始めたのを覚えているだろうか。あれは、環境に良いという
    宣伝の元、ハイブリッドという新しい車の形を過剰に宣伝していた。

    そもそもプリウスは高い。普通の車にモーターがつき、制御回路が積まれるのだ。
    そりゃ高いだろう。だから、そんなに売れるはずがない。そこで政治だ。環境に配慮
    という馬鹿みたいな標語を掲げることで、トヨタは税金の抑制を確保した。現在でも
    35万円ほど、コンシューマーは安く買える。(自動車取得税、自動車重量税、グリーン化
    特例、そしてCEV補助金)特に欺瞞なのが、最後のCEV補助金であろう。内訳は20万
    である。
    
    CEV補助金とはクリーンエネルギー自動車導入事業費補助金の略である。これは
    次世代自動車振興センターによって管理されている国の補助金である。

    ようは、誰かがプリウスを買うと、他のみんなから集めた金で負けてやろうという話。
    20万円を使うのだ。その金はトヨタを始めEV車系の会社の利益になる。税金の横流し
    と言えるだろう。その大義は、CO2の排出量削減である。だが、完全なEVでもなく、
    EVだとしても、その電気は誰がどうやって作っているというのか。石油を燃やして電気
    を作るのだとしたら、どこがエコだというのか。一番のエコは車をやめることだろう。

    プリウスはその代表格である。見る度にうんざりする。消費者は安く買えるからいいやと
    思い、かつ先進的な車にのれ、環境に優しいなら、多少高くても満足できると考える。
    それが本当に目的に適うかを考えていない愚昧さが私には大いに気なるのだ。それを
    確信犯でやる行政と自動車会社にも不信感が半端ない。
    
    またプリウスは売るほどに赤字になるという噂がある。おそらく、それをペイする形に
    しているのが公金の投入であり、減税なのだと思われる。

    そうまでして売ろうとしている車に欠陥があるとは、口が裂けても言わないだろうことは
    明らかだろう。プリウスには急発進の可能性があり得るとひとまず認識しておく必要がある。
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交友試行錯誤ー決裂ー [その他]

ここではあまりプライベートなことは書かない方針だ。
だが、今回は一つのエポックだったので、備忘録として、そして一つの事例として
書いておこうと思う。


元職場の人で、彼とはある意味で’戦友’のようなものだった。
職場の状況の問題点を指摘し、それを互いに確認できる相手だった。
私は職を辞してからも、彼とはときおり関わりを持っていた。

その彼と決裂したのだ。理由は私の心境の変化である。
彼は何も変わっていない。一方、私は変わってしまったのだ。

もともと彼の処遇はあまり良いものとは言えず、しばしば、それの相談を受け、
そして、その改善を彼は願っていた。そこで私は彼の置かれた状況でも可能な何かを
提案し続けた。私は、彼に職場の不本意な事について愚痴を言う。そんな感じであった。

すぐにどうこうなるものではない。だから、じっと待っていたが、状況は何も変わらない。
そして、次回にも同様の話をする。彼は不遇を嘆き、私はそれを聞いて提案する。私は
不本意な職場の状況に文句言う。

次回も、次次回も、話す事は少しずつ変わるものの、何も変化ない。簡単に言えば、
愚痴の言い合いである。

私は、職場にてできることはしてみた。同僚たちに話しかけ、仕事上のトラブルを
解決していった。しかし、不本意さはかわらない。その原因は、上司の作り出す職場の
規律や、方針なのだと気が付いた。決して悪い人ではない。だが、そのやり方が生産性に
つながる事など無かった。むしろ、同僚たちは内心では毛嫌いし、できるだけ仕事が
回ってこないように、非協力的に過ごしていた。上司はマイクロマネジメントばかり
していて、仕事の意義や大きな方針など、何一つ言わない。同僚たちは、仕事が単なる
こなすべき作業と化していた。私はこれを不本意に思っていた。

さて、その同僚のうちの一人である彼だが、彼はまた違った形で不本意であった。
彼は低い役職につき、その上の役職になるには、上司から認められることが必要だった。
言われていることは、結果がでたら昇進させるという事で。しかし、彼の実力は客観的にみて、
やや厳しく思えた。そこで、私は彼に仕事を教え、結果が出るようにと促した。しかし、
彼は積極的ではない。ここで私はひっかかりを覚えることになる。

自分の状況に不満があり、そして改善手段がある。ならばそれをするだけじゃないかと
私は思う。しかし彼は一向に何もしない。本人聞くと、それでも精一杯やっているという。
それならば仕方ないだろう。

だが、彼と話をする度に、出てくるのは自分の不遇であり、かつてが如何に素晴らしかったか
それだけなのだ。彼には<今ここ>をみる事がすっぽりと抜けていたのだ。そして<これから>
について考えるということが。

彼はどこか自己卑下的である。要するに自信がない。とりわけ仕事に対して。だから、
自分の処遇に不満はあるものの、いざ昇進したら、うまくできるかどうかに自信がない。
そして、それを無理だと思っているがために、今の状況に甘んじている。

私はどんな努力も報われるとか、どんな人もできるようになるとは考えない。だから、
彼が無理だと思い、それが達成されないのだと自己判断するなら、それでもいいと思う。
何も問題はない。だが、問題があるのは、それを受け入れきれないことだ。

彼は多少、年齢がいっている。それがためにプライドがある。この自己イメージと、
自分の実力不足が乖離し、どっちつかずになっているのだった。そして、もっと自分が
若かったら、やり直せたら実力不足が解消できるのにと思っている。

つまり、プライド(自己評価) vs 実力問題ー過去 である。

そして、彼はこの認知的不協和を乗り越えるために、哲学を援用して、自己武装する。
諦めることをなんとか自分に言い聞かしているのだ。自分のプライドをなんとか引き下げ、
実際のものに近づけようと努力をするのだ。その際に、出てくるのが自己卑下である。

自らのプライドを押し下げるという奇っ怪な手段は彼の特徴であるが、いじらしくもある。
一方でアホらしくもある。実力をあげればいいじゃないかと思うからだ。

そして、プライドを切り捨てようとする際に、どうしても自己卑下という愚痴がこぼれる。
それはそうだろう。誰しも自分を低く見積もろうと努力などしない。そうなってしまうか、
そうさせてしまうか、そういう類の話に対して、彼は自ら進んで、そちらに行こうとする。

更にそこから裏返り、その事を自慢してくるのである。「俺は自分のプライドを低くする
という忍耐力があるのだ」と。もはや泥沼化してきているのかもしれない。その事に
なんの意味もないと分からなくなっているのだ。手段に溺れて目的を見失っているのだ。

ややこしく見える彼の問題点。だが、紐解けば実にシンプルである。要するに現状の
自分を認められないのである。自分はこんなもんじゃないという観念と、一方で、
現状の自分は評価されないのだという事実。ただ、それを受け止められない。

彼は止まった時を生きている。




私は、彼の苦しさを理解しようと試みた。そして、次第に彼を疎ましく思った。
実を言えば、彼は苦しさを糧に生きているからなのだ。些か理解に苦しむが、
私が理解したのは、彼は苦しいから生きて行けるのである。だから、苦しみから開放されて
はいけないのだった。だから、私の助言など、どうでも良かったのである。

アドラーは言う。人の行動には<目的>があるのだと。因果律を逆にみるアドラーの視点
からみれば、彼はすなわち苦しみたいから、現状に固執しているのだといえる。
普通に考えたら、バカみたいだろう。だが、そういう人もいるのだ。

もっとも俗っぽく考えれば、苦しみを自分に与えることで、悲劇のヒーローになれる
からだ。自分が特別になれる。もっと同情的にみれば、苦しさをもっている事で、
現状を肯定できるからだ。それが希望になっている可能性がある。もっと病的にみれば、
置かれている状況に依存しているとも言えるだろう。

そして、理解しようとしてくれる他者には現状の悪さを訴え、自分の置かれた状態を肯定
して貰おうと試みる。その事で悲劇の主役になれる。一方で、自分を理解しない人は、
あいつらは、分かってないと一蹴する。そして見下す事で、心のバランスを保つのだ。

だから、私が状況を解決する手段として、仕事のやり方を教えても、何も変わらず、
また、対人関係の悪さについて、ひとまず挨拶でもすれば良いと、言っても行動を
変えないのだ。それは、すべからく彼が本心では望む結果ではないからだ。

彼は自分の実力不足が露呈し、真の意味で彼が求めたものが手に入らないことを恐れている。
だから、状況が動くことが困るのである。

様々な形で彼をサポートしてきたつもりだった。それは私の長所でもあり短所であるが、
頼まれるとつい助けてしまうのである。きっと良い顔をしたい人間なのだ。優しさの
証明をしたくなるのだ。自分にはそういうこすい所がある。

私は結局、その職場を離れた。自分の生きる目的にそぐわなかったからだ。
だが、彼の事を気にしていた。おそらくどこか似ている部分があるのだろう。
離職後も彼との関係は続いていた。


いざ離れてみると、彼と共有していた組織の悪状況など、どうでも良くなり、
ましてや元上司についても、私にはもうほとんど関係がない。だが、彼と会う度に、
その部分に話がフォーカスされ、うんざりし、同時に、彼からの自己卑下にどうにも
賛同できなくなってきたのだ。

状態を変えるために行動した私と、現状に固執し続ける彼。

そろそろ無理なんじゃないか。そう思えてきたのだ。
数年間も何も変わらない彼の言動にどうして、私が毎回、同情せねばならないのか。
同じ職場にいたときは、互いに愚痴をいうという形で依存していた。だが、今となっては
関わる動機を失いつつある。

彼の現状を良くする方法は明確であろう。一つはまず自分の現状を認めることだ。
実力不足も、それがために評価されないことも。そして、哲学的による自己防衛をやめる
ことだ。現状の自分を防備するために、理論武装した所で、その現状に不満があるのは、
彼自身ではないか。それを分かっていないのだ。

その上で、できる職能を伸ばせばいい。できることを増やしていけばいい。
もう実力は伴ないのかも知れないが、それは日々の喜びになる。そして、それがいずれ
評価につながるかもしれない。別に優れた人になれとかそういうことではない。毎日、
できることをやれば、それで十分じゃないか。そういう態度を示していけば、周りは
自ずと手伝ってくれる。頑張っている人を応援したいのは誰もが同じなのだ。たとえ、
それが昇進につながらなくても、できることが増える事、理解が増すことは、楽しい
ことであろう。

実力不足から目をそむけ、その不足の原因を過去に求める。そうして理屈で、現状に
固執する。ようは現状否認なのだ。認めたくないのだ。正確には、部分的に認めた上で、
「所詮、俺なんて・・・」と嘯くのだった。私にそれをいう事で、彼は何を求めていた
のか。彼の現状肯定の手伝いをする事だったろうか。それも分かる。そういう気分になる
歳なのしれないし、そういう事で自分を慰めたいのだろう。

人は弱いものだ。だから楽な方へと流れる。その流れに身を任せるという現状肯定。
それが彼の言い分だった。

だが、私は彼がもっと健全な方がよいとつくづく思っていた。端的にいえば、彼のやっている、
プライドをすり潰す事と、自己卑下するという事、実力不足から目を逸らすという事、
これらに全く賛同できなくなっていた。

強くあれなんて言わない。ただ、出来ることをやればいい。それ以外に何が出来るという
のか。弱さというものを肯定して、虚無に生きようとする。それを強さと勘違いしている。
全くもって駄目じゃないか。ダメな奴が言いそうな事をただ、高尚にみせているだけじゃないか。

もっと別の考えもある。職場では仕事の出来ない自分でもいい。プライベートで何か、
自分らしさを発揮できれば、それでも構わないだろう。だが、彼にはなにもない。
一体なにがしたいんだろう? もっと強かに生きればいい。それがロートルの知恵ではないか。

そういうものを期待していた私はただ、ひたすらにがっかりしたのだった。
結局、何も分かっていないのだ、この人は。


私は気持ちをぶつけることにしたのだ。だが、それを失敗したのだった。

今まで、ちいさな助言を繰り返したが、彼はそもそも変えたくないのだった。
アドラーを引用すれば、<可愛そうな私>や<悪い相手>の話に終始していた。
一番肝心なのは<これからどうするか>である。だから、これからどうするかに向かう
ために、まずは、彼の固執した考えを否定する他ない。

だが、ふと思ったのである。なんで私が頑張って彼の更生を考えているのか?
友人だと思っていたからであったが、果たして彼は友人なのだろうか。ただ愚痴を言い合うだけ
の元同僚じゃないのか? そう感じた瞬間に、わけもわからない感情が湧いたのだ。


今まで、彼から聞いてきた愚痴や自己卑下に対して、怒りが出てきたのだ。
これがどういう事か分からない。だが、猛烈に彼に対して、怒りという感情が湧いた。

彼の情けなさに、彼の変わらなさに、彼のもどかしさに。私の単なる言いがかりなのだろうか。
自分の行為が全て不毛だと思った時、人はこのような怒りを抱くのか。

お前、馬鹿じゃないか?と思い切りぶつけてしまった。


もちろん、それが決定的である事は分かっていた。だが、彼への同情はいつの間にか
怒りに転化したのだった。そして、なんどかのメールのやり取りの後、絶交状態になった。

やり取りの最中に考え直して、酷いことを言った事を詫た。だが、また怒りにまかせた
メールを送ったりしてしまった。

冷静に考えてみれば、私の独りよがりである。彼はただ自分を守るために必死であり、
その心情を私に吐露しただけだった。それを今まで、ただ受け流してきたつもりだった。

自分の中の悪が輪郭をもった瞬間であった。
押し付けの親切、お節介は空回りし、その不満足感は彼に対する怒りに転化した。

大事なことなので、私も逃げずにもう一歩つめてみたい。


結局、私は善意という名のもとに、彼に対して優位に立ちたかっただけなのではないか?
そういう側面は否めない。そして、自分の優しさを確認したかっただけではないか。
そのために彼を利用しようとした。だが、失敗した。彼は何も変わらなかったのだ。
だから、彼のせいにして、彼に怒りをぶつけたのではないか? 酷いのは私ではないか。

ハラスメント行為だったのではないか。そんな疑念があるのだ。

恐ろしいのは、善意がお節介に変わり、それがハラスメントに発展した事だ。
動機はきっと正しい。そして道筋も正しい。そしてハラスメントも正しい。いや正しくない。


一方で、彼の責はあるのか。彼の行動を考え直す。すると、とある事に気がつく。
彼の自己卑下的言動、同情を誘う行為、これらは本質的には攻撃ではないか?と。

相手に可哀相とか同情をかう行為は、こちらを疲弊させる。何かを彼は吸い取っている。
その現れである見かけとは裏腹に、彼は私に「攻撃」をし続けていたのだ。私の善意から
彼は同情心を吸い取っていた。そのようにして、我々は関係性を築いていた。彼は私を
利用していたのだ。自己肯定のために。


つまり、一方の善意という優性立場の確保の欲求と、自己防衛として他者利用の欲求が
噛み合っている時は、一見するとまともなコミュニケーションが起こっているような錯覚に
なるという事だ。そして、状況が変化した途端に、それはどちらかがどちらかを利用する
というアンバランスさが露呈するのだ。

そしてこれはハラスメントの一要因となりえる。潜在的な構造に由来するのがハラスメント
なのかもしれない。そうだとしたら、人が関係するとハラスメントは生じ得るという事だ。

ここまで来て、私ははっきりと自覚した。つまり彼は私は利用していたのだ。
それがどうやら限界にきたという事である。職を離れた私にとって、彼はもはや利用する
点がなくなりつつあり、彼は変わらず私を利用しようとしていたのだろう。

それを無意識に察したのだ。彼に対して急激にもやもやしたのは、彼が私を利用している
と感じたことなのだ。私が怒りを覚えたのは、自分を守るための行動だったのだ。

酷いという自己嫌悪は、私のライフスタイルなのだろう。人には親切にしろというのが、
私のアイデンティティなのだ。それに逆らうのだ、自分の心が動揺するはずなのだ。
親切は無償が基本だ。そこに見返りは求めない。彼に対する小さなアドバイスはそうやって
なされたものだ。仕事の手伝いも。損得などどうでもいいではないか。彼がそれで助かるので
あれば。

だが、違った。彼は何も私の言うことなど聞いていないし、何も変わらなかった。
なにも変わらないことをむしろ誇りにしていた。可哀相な私、それが彼の居場所だったのだ。
そして、そのために私の善意は利用されていた。それでも良いという事も出来る。だが、
何か一線を超えたのだ。私は、もはや彼に利用されることに耐えられなかった。それは
怒りとして彼に向かった。彼の態度を全面的に否定した。彼はきっと狼狽しただろう。
突如として私は怒ったのだ。


私は猛烈に彼の考えを否定した。そして行動を変えろと迫った。彼がする自己卑下を
変えろと。それが原因だと思っていたからだ。自分に自信をもてと。でなければ、いつも
自己卑下思考で生きることになるぞと。そんな事、出来ないと分かっているのにだ。

どうせ最後なのだから、彼に言いたいことをいおうと決意し、言いたいことをおよそ
言い切った。最後のお節介である。

見返りを求めたかもしれない。親切が役立つと。それをないがしろにされたことに腹を
立てた面はあるのだろう。だが、そもそもの原因は、我々の関係がややおかしかったのだ。
変な形で、互いに依存する部分があったのだろう。そして、それが今や解消されたのだ。

おそらく彼に会うことはなかろう。何か縁がない限りは。とても残念に思う。
もっと健全な形で友人関係を築きたかった。彼はそれに値する人だったと思うのだ。
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映画「それでも夜は明ける」 [その他]

映画「それでも夜は明ける」を観た。

かなり重たい話だ。奴隷制が残るアメリカの話。以下にネタバレを含みます。








奴隷制が残る時代に、ヴァイオリニストであってソロモンは、地方を回っていたが、
一緒に演奏していた白人に裏切られて、身柄を奴隷商に売り飛ばされてしまう。
彼は本来、自由黒人という地位にいた。つまり奴隷ではない黒人である。

この辺りがとても気になったのだけど、ひとまずそれはおいておこう。

川を下って、南部へいく。その農場で働くことになる。最初は木を切り出す仕事、
綿花のつみとり仕事に精を出す。いや、無理やり働かされる。いつも白人が銃をもって
監視しているなか、理不尽な仕打ちを受ける。彼は抵抗する。そして、何度かピンチに
なるが生き延びてゆく。

白人の農場主が、奴隷を使用することが当たり前だった時代。今日では
みられない光景なだけに、日本人としては不可思議な話に聞こえる。

ソロモンは、最終的に小屋を建てるために来ていた白人の信用できるエンジニアが
家族に連絡をしてくれた事で、戻ることが出来た。さらわれてから12年である。
そして、この話は実話をベースにしている。

ソロモンのように帰宅できた例は稀だったらしい。おそらく、相当に幸運だった。
むしろ、奴隷として働かされた黒人たちの殆どは、労働力として生涯を真っ当したのだろう。


映画はこの奴隷の現実をまざまざと見せてくれる。非人道的な仕打ちは観ていて辛くなる。
文字が読めるというだけで、敵視されたり、奴隷らしくしないと身の危険があるのだ。
女性の奴隷は、性の慰みものになったりする。白人たちの極悪非道さに驚く。

そして徐々に、思い始める。奴隷制はなぜ終わったのかと。
こんなにうまく利用出来るならば、そのまま続いてもおかしくはなかった。おそらく、
状況が変わったのだろう。それは労働力の機械化や、奴隷よりもむしろ消費者としての
労働者の方が都合がよいと気がついたのだ。

すると、この話は究極的には、現代社会の話でもある。奴隷として働かされる図は、
経営者に社員として働く労働者だろう。上司のいうことには服従する。それに逆らうと
なんらかのペナルティを食らう。でかい企業なら、出向や転勤、場合によって減給など
だろう。奴隷時代のようにむち打ちはない。けれども、精神的な鞭打ちはある。
それに耐えるのが良い社員であり、良き労働者である。状況はまったく黒人奴隷と何が
違うというのだろう。

経営者は、自分たちで奴隷の生活を囲い込むよりも、奴隷自身を金をつかって操り、
奴隷自身が、更に労働者としての子どもたちを育ててくれる仕組みがあれば、経費は削減される。
彼らが金を持てば、彼らにローンをさせることで、更に金をせしめることが出来る。
結局、奴隷制でなくても、彼らが利益を得られるからこそ、奴隷制は終わったのだろう。

マンションの間取りというのは、フランス炭鉱の炭鉱夫のための家で、そこには、
性欲のための嫁と、労働者の再生産としての子供がすまえる場となっていた。この話が
本当かは疑問があるが、一種の家畜のようなものである。家畜に金を渡して、自分たちで
繁殖し、次々に労働者として育つ。それを経営者・株主側は利用して、金を儲ければよい。
そして、それなら、大義名分が成り立つというものだし、聞こえも良い。そんなふうにすら
思える。

仕事を他者に依存するということは、大きな枠組みでみれば、奴隷制度の変形版に過ぎない。
それを踏まえた上で、奴隷の側はシステム利用を考える他ない。経営側が生み出す枠組みの
中で、評価され認められるという行為は、本質的に奴隷根性となにも変わらない。出世の
ために、ごまをすったり、社内政治をしたりするのは、奴隷がマスターに媚びへつらう事と
どう違うというのだろう?そして現代のマスターは投資家に傅く。

大枠でみれば、自尊心がないがしろにされながら多くの人が生きている。そして、それに
まるで無自覚なのだ。本当にそんな仕事をしたかったのか? 良き仕事についた人は問題ない。
だが、そうでない人たちは、金のために働く。それはむしろ、奴隷たちよりも状況が複雑に
なり、自分が本当は何をしているのか分からなくなっている。

奴隷制ではなく、労働制を取り入れた支配する人々は、金という武器の意味をよく知っている。
そして人間をよく知っている。人は、ムチで打たれるよりも、褒めたり金でつった方が、よく
働くのである。まだ日本では些か理解が足りないために、ブラック企業のように人を遣いつぶす
人達がいる。デフレで代えがいる時代である。ならば、使えるだけつかって駄目になったら
新しい奴隷を買えばいいのだ。ならば、失業率はゼロでは困るわけだ。むしろ、なるべく職は
少ないほうが良い。そしたら、金で労働者をうまく釣れる事になる。

金がないと惨めだとか、働かない者は駄目だとか、そういうプロパガンダを社会に流して
おけばもっとよい。金をつかって豪華なサービスを受ければ、恰も金持ちになったような
気分になれると。金持ち体験コーナーにせっかくの労働対価を惜しみなく投じる。それが
流行であり、欲を喚起させるサービスである。そして、都市近郊に家を買うことが甲斐かの
ように喧伝し、つらい通勤を恰も当たり前かのようだ。だが、そこまでして生きているのは、
本当の人生なのか?

いやはや、いやな映画をみてしまった。いや、とても素晴らしい映画だった。
白人の非道さと、奴隷なる労働者の始祖を観た気がする。ぜひ労働者たる人たちに
観てもらいたい。そして、日々の仕事について反省してもらいたい。

ソロモンは、農園を脱出し家族の元に戻れた。そして奴隷解放活動に参加する。
彼の最後は謎なのだ。それは一体どういうことなのだろう?
https://ja.wikipedia.org/wiki/ソロモン・ノーサップ

12年もの間、耐えたソロモンはすごいが、その背後にどれほどいるのか大きな犠牲の
上に、僕らが生活していることは忘れてはいけない。




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正しさへの拘泥ー [その他]

だいぶ憤っている。それは友人との議論における出来事によってだ。

彼はそれなりの高学歴者(博士)である。今回はそれ自体はどうでもよい。
むしろ、彼のような人がなぜ、他者を愚弄するような事をいうのか?である。

誰でも、「おまえ、その考えは間違っている」と正面切って言われたら不快である。
もしかすると、私がまるで間違っている可能性はある。それは仕方のないことだ。
だが、それは違うと頭ごなしに言われて「はい、そうですか」とはなるはずがない。
ましてや、彼の意見は正しいのかといえば、私からみればただの戯言なのだから、尚悪い。


物事には実証可能な命題と、不可能な命題がある。たとえば、正しさというものは、
実証するものではない。それは状況によって変わる。同じ行為でも、戦争中であれば、
英雄とされ、平時には刑務所行きである。また、その行為の執行者が変わればまた、
その行動の評価は変化する。絶対的な正しさという概念自体が幻想である。だが、
彼はそのようなものを信じており、そこに依拠して、自説の正しさを訴えてくる。

だから、そうではない考えもあるはずだと提示したのだが、すぐさまに「それは
間違えだ」という。何が間違えで何が問題なのかを説明せず、すぐに自説が正しいと
来るので、こりゃ対話が不能だと思ってしまったのだ。すべからく、あらゆる言明に
正しさを付与するのは困難である。ならば、自説と他説を競わせ、どちらが生き延びる
のかが、学問的な判断である。自説が正しいというだけでは、なぜ正しいのか誰も
理解できない。

では、その正しさを実証できるかといえば、先に上げた物事に対して実証可能ではない
類の話のため、おそらく無理だろうと思われる。ならば、我々はそのような類の命題には
保留をつけて判断する他ない。どちらが正しいとか間違っているという議論自体がナンセンスである。
だが、彼はそうは考えないらしい。絶対的な正しさがあるのだと言い張ってくる。
抽象論では、拉致があかないので具体例をあげてみた。

例えば、関西の味噌は白味噌である。長野の味噌は赤味噌である。どちらが本当の味噌
と言えるか? このような命題は実証不能でしょうと。

どちらが正解という事がナンセンスの話である。どちらも味噌であるし、どっちがより
味噌であるという回答が馬鹿らしい命題である。だが、彼はこれもまた優劣があり得ると
いう。私には、これを聞いてもはや話が通じないと思った次第なのだ。

類推なのだが、彼の頭の中にはとある物差しがあって、それで命題を評価するのだろう。
それを彼は絶対的なものであるという。だが、人によって物差しは違っていいし、違う
という事がより、真ではないかと私は思うのだ。

白味噌が本当の味噌だという人もいれば、赤味噌が本当の味噌だという人もいる。
いや、どっちも味噌じゃないとかいう人もいるだろうし、どちらも味噌だろっていう
人もいるだろう。そして、それぞれが正解とも間違えとも言えない。それは考えの違い
である。判断がつくとしたら、それは個別の評価である。それを普通は好みというのだ。
好みは正しいとか、そういう類の事ではない。だが、彼は自分は正しいと譲らない。

思わず「馬鹿なんじゃない?」と言いかけたがやめた。彼なりの思考の結果なのだろう。
それも博士の思考である。白味噌と赤味噌に味噌としての優劣があると言われたら、
ひっくりかえってしまう。そこで、考えたのが、ああ、そうか普通じゃない思考なのだろうと。

自分が普通の思考をしていないという自覚がないのだろうか? あるならば、頭ごなしに
「お前の意見は間違っている」とは言えない。せいぜい「普通はそう考えますね」だ。
そして、普通とはどう違うのかを明らかにして、味噌の優劣について解説する。それが学術的
態度だろうと私は思う。教養のある人間の行動だろうと思う。だから、彼の態度にはすっかり
がっかりしてしまったのだ。


学問をした結果が、白味噌と赤味噌には味噌として優劣があるという思考回路になるなら、
学問とは一体なのか。不毛な行為ではないか。むしろ、何もしなかった方が真っ当ではないか。

それとも、かなりおかしな思考をするために学問をするのか。かつて、私は勉学とは教養のため
にやるのだと聞いた。では教養となにか? それは他者の心を理解することであると聞いた。
他者を理解するために教養を身につける。それは愛であろう。学問が愛に接続する。

だが、自説の正しさを主張するのは、愛ではないし、ましてや頭ごなしに他者の意見を否定する
のは無教養である。それは他者の意見の真偽とは全く無関係に、無礼な態度である。それが
許せなかった。だから、すぐさまに返事をしたのだが、果たして伝わっただろうか?
分からないとしたら、罵倒する他ないのかもしれない。彼のほうが年上だが関係ない。
人の気持ちがわからない事はおかしなことだと伝えるのが、私がせいぜい出来る親切である。


さて、メタに考えてみる。なぜ彼が、自説の正しさに囚われているのか。正しくないとだめ
と思ってるのか。アドラー的に解釈すれば、他者承認に生きているのではないかというのが
私の意見である。彼は自分が正しいという事を目的にして、行動する。だから、自説は絶対に
正しくないとだめなのだ。正しくない事を信じているとは表明出来ないのである。だから、
自説を主張するとは、正しさの主張となる。私は、このような執拗な行為に対し、病的なもの
を感じる。歪んだ思想に見えるのだ。強迫的なのだ。

きっと他者に勝たないと親から見捨てられるという類の心理的状況があったのではないか?

人生の何処かで、正しくないと駄目だという考えを押し付けられたのかもしれない。
そのルサンチマンによって、他者に対して正しさを押し付ける人になってしまったのだろうか。
過剰な合理性は、不合理な理由によるという。厳密に正しさを追求する態度は、感情的な
問題であって、真理の探求とは無関係である。そもそも無矛盾な系は作られ得ないというのが
現代数学、論理学の理解である。厳密すぎるものは、フィクションに過ぎない。仮想された世界
における正しさだとしたら、他者にとってはどうでもいい。勝手に自己満足していてくれである。

一方で、他者と共有可能な命題の真理性を問いたいのであれば、他者がどう考えているのか、
自説とどう違うのか、それを開陳した上で、建設的な意見交換をする他ない。彼が私をその
ような相手とみなしていないと言うならば、それまでであるし、ならば、私も彼に意見をいう
必然性がない。

なんにしろ、私は彼の無礼な態度に怒っているのである。そして彼の正しさに対する偏狭な
思考が異常に見える。そこにはおそらく心理的な問題がある。だが、彼はそれをメタ認知出来ない。
とある思考に拘れるというのは、とても感情的なことである。自分は間違っていない!!と叫ぶ
のは勝手だが、そのアピールで何がしたいのだろう? 心理学的にいえば「知性化」だろうか。

真理を知っているものより賢いものがエライという価値観である。そして、私の方が知性が
あると主張することで、他者を納得させコントロールしようというものだ。私はそれを不快に思う。
私がそれを不快に思っていると、彼は分かっているのだろうか?

仮に彼が正しく、私が間違えだとしよう。それでもなお、彼の態度は人を馬鹿にしている
としか言えないのだ。人を馬鹿にする人の意見に耳を傾ける人間はいない。どうしてそれが
理解できないのか。そして、残念だが、彼の考えが正しいとも思えないのが更に問題なのだ。
答えのない命題に正しさをもちこむのは、愚かなことだと私は思う。

私は、既に彼に対する信頼を失いつつある。残念だが、彼と関わるのはゴメンだと思い始めた。
狭量かもしれない。だが、トライはしたのだ。次回に返事があったら罵倒して喧嘩別れするの
かもしれない。こちらが折れて、何か関わりを続けるだけの理由があるのだろうか?

不快な関係性を維持するのは、人生の無駄なのだ。
自分にとっての不愉快さを避けるのは自然なことだと思うのだが、みなさん、どう思うだろうか?
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世代間ジャンプー車輪の再発明ー [その他]

一つの分野の検討をきちんと穴掘って、深く調べたことはあるだろうか。
私の稚拙な探索では、ごく限られた領域ですら調べきる事は困難であった。

とはいえ、過去を調べてゆくと面白い事実に突き当たる。
それは「大抵のことは終わっている」という事だ。

特に手垢にまみれた分野では、大方の人が興味をもつようなトピックスは調べて尽くされている。
そして、なお新しく調べるのは甚だ困難を伴うようになる。

ところがだ、なぜか新しい話題がいまだに絶えない分野もある。
何がちがうのか。それは、単純に機材の問題である事が多い。
つまり手持ちの武器がハイテクなので、今までのやり方じゃ分からなかったことが
物量にまかせて探索できたり、高い精度で調べることが可能という事がおおい。

私が行っていた研究も同じようなことで、大抵のことは既にアナログ的な手法で
知られていて、私が使っていたデジタル的な機材で調べたことは、それ自体新しいのだが、
内容的な新しい発見というのはほとんどなく、むしろ、過去に既に言われている事の
再認に過ぎない事が分かったのだった。

がっかりといえば、がっかりな結果である。
その一方で、過去の人たちはちゃんと調べていたんだなあと感心したのだ。

これはある意味で「車輪の再発明」に近いのかもしれない。
だが、実はどんな分野にも同じことがあるんじゃないか?と思ったのだ。

というのも、私の分野はそれほど伝統は無い。1950年代くらいからの蓄積だ。
とはいえ、もう70年近い期間で検討が行われている。するとどういう事が起こるのか。

どんなに詳細を理解している人でも、過去にどんな研究があったのかをサーベイしきれる
ほどの時間を持っている人は居ない。すると、かつてどんな検討がブームで、それが
下火になったのかを生き証人としてかかえている分野はともかく、それすらなかった
分野では、実は途切れた文化が出てくるという事になる。

特定の時代に精力的に調べられてきたこと。それがちょうどひい爺さん世代、つまり、
自分の先生の先生くらいならまだしも、もうひとつ前の世代になると完全に知識が
途切れてしまうのだ。生存がかぶらないために、何が重要なものであったのか、私には
把握しきれない。たとえば、教科書と呼べるような本がどの分野にもあるだろうが、
その内容がどんな文献によって支えられているのかは、きちんと調べる事はまれだろう。

すると、こういう事が起こる。とある世代で充実した研究が行われて、ある程度概観が
明らかになると、次の世代は違うことをしようとする。これはAというブームを知った上で
Bというムーブメントを起こすことを意味する。これは何も問題ない。だが、次のCを
作り出す世代には、Aの話はだいぶ危うくなる。それは既にそういうもんだという認識が
B世代にあるために、C世代は教育的にそれを伝えられる。実感ではない。誰もリアルタイム
でそれを調べているわけではないからだ。だが知識としては頭に入る。だからC世代は
いささか不安定ながらもA世代のことを意識できる。だが、問題はD世代である。

Dを作り出すときにすでにA世代は死んでいる頃だろう。B世代も引退しているかもしれない。
すると頼りになるのはC世代なのだが、彼らも自分の手を使って得た結果ではないので、
知識としては知りつつも、その確度についてはD世代と変わらないのである。そして、その
知識もAやBほどには細かい部分は分からないことになる。すると、C世代はD世代任せで
検討がスタートする。

こうなるとD世代はかなりやっかいで、AやB世代の検討は教科書で知るしかないので、
知識にはなるが実感がない。その上、追試をするような時間も無い。C世代が頼りなのだが、
C世代も自分の手で追試をしているわけではない。昔話として先生から聞いているだけだ。
その一方で、計測機器は日々進歩している。D世代はかなりハイテクを駆使するわけだが、
その計測対象が往々にして、A世代やB世代と同じという事はままあるわけだ。

こうして、D世代が新しい機器で「車輪の再発明」を生み出す事になる。
大事なことはおそらく教科書に残ったであろうが、それもまた誰も検証していない事実
となってしまう。そして、時に、この事実が実は違う側面を持つときD世代は新しい発見
をすることになる。

とはいえ、昔の人も愚かではない。当時のテクニックで出来るだけの事はしているはずだ。
すると、ハイテクな結果でも、定性的議論でみれば、何も変わらない事はまま起こる。
特にサイエンスの分野では起こりがちであろう。

結局のところ、私の検討も、過去の論文をつぶさに精査してゆくと、大抵は言及があり、
それは自分の結果を先取りしているのだ。つまり、当時推察されていたことをハイテクを
つかって物量で示したという事になる。ある意味では過去の人と整合性があるわけだが、
その一方で、定性的な部分に関してあんまり進歩がない事になる。残念。

昨今のサイエンスは金がかかる。その意味は、ハイテク機材に金がかかるという事だ。
一方で、人の興味がハイテクになったか?否。人の興味は相変わらずなのだ。
現代の科学の文脈でいえば、かつての説明を、ハイテク機材のデータで再検討している
ようなものとなる。そこに何かジャンプや飛躍はないのだ。もしあるとしたら、
本来想定しているはずじゃないものをハイテク機材が捕らえたときである。

つまり、変な話、大抵の研究は定性的にみれば、昔とおんなじことをやっているのだ。
それは現世代が知らないだけということがままある。なにしろ、現代は論文で溢れている
のだ。それは教科書にも乗らないようなことだったりする。そして、その中身はハイテクで
生み出されているだけなのだ。それを繰り返しているうちに、時に予定外のことが起こる。
それが新しさである。つまり、常に新しさとは予定からはやってこない。新しさは定義も
不能である。そこに新しいものが出てきたとき、はじめて新しさに気がつく、そういう
性質のものなのだ。

これを理解しない研究人も多い。だから計画的に網羅的に検討したがる。それは結局、
新しいのではなく、ハイテクなだけなのだが、それに気がついていないのだ。仮説
検証が重要なのはわかる。しかし、仮説が立てられるとはそもそも新しくないという
事とほぼ同義ではないか。過去の命題から新しい命題を論理的に組み立てられるという
のは、利便性をあげる意味はあるが、実は新しくはないともいえる。

そういった意味で、真の新しい検討とは常に、過去からの逸脱である。
その逸脱は、才能のある人間のところに現れるのではない。物量的に様々な失敗を
繰り返したところに現れる。過去で知られている常識から類推不可能な結果が出たとき
始めて<成功>になる。

これが発見や新規というべきものだろう。イノベーションを同じように思ってる人が
いるが、イノベーションとは組み合わせである。混ぜ合わせたことがないものをまぜる
事がイノベーションである。それは発見でも新規でもない。意図して、まぜ、そこに
線形以上の結果を見出すのがイノベーションである。新しい技術を作りだすのは発見で
あって、イノベーションではないのだ。

よって、イノベーションが必要であれば、可能性のある組み合わせをやればいいだけだ。
つまり簡単なのである。イノベーションとはイージーな問題である。

むしろ発見こそが重要なのである。そしてそれは計画的に導けるものではない。
よって、計画書に書けるようなものでもないし、頭で考えて出てくるものでもない。
ここが要諦である。

ハイテクを駆使しても、別に新しいものは生まれない。それは過去の知識の精度を
上げる程度のことだろう。目が良くなる、耳がよくなる、触覚がよくなる、つまり
人の五感を拡張したものこそがハイテクである。そこで得たデータは、高精度であり、
物量が高いものだ。だからといって新しいわけではない。

真の新しさはつねに論理の延長には生まれない。論理破綻の上に生まれる。そして
その現象を説明するために新しい論理が生まれるのである。

さて、世代間をこえて、実はやっている事が同じということは往々にしてある。
ならばもっと過去をまとめなくてはならない。だが誰もそんなことは興味がないようだ。
教科書を年々分厚くするという話はいかにも地味だからだろう。

もしかすると人の頭では、全てを網羅できない。だとすると、分業するわけだが、
その結果として、さらに「車輪の再発明」がそこかしこで生まれているはずだ。
だが、全てを調査できるわけでもない。

これを乗り越える一つの手段はAIだろう。
人を超えて情報をまとめられる。

その意味で私は、AIが人智を超えた新しい知見を生み出すのは間近だろうと思っている。
そして、現時点でも過去の文献をあらためてまとめてくれるAIこそが本当の意味での
研究になるんではないかとも思うのだ。

AIがつむいだ知識体系に対して、イノベーションを用いた検討を行えば、
過去との差分をつぶさに検証してくれるだろう。もはやどんな専門家も自分の分野すら
網羅できていないのだから。新しさを担保できる人はもういないといえる。

そろそろ、学術分野も新時代に入るべきじゃなかろうか。

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無理は禁物ー失敗ー [その他]

他人の失敗は、他人の助けになる。そう信じて、へこんだ気持ちをなんとか立て直して
記事を書くことにした。

何に、へこんでいるかといえば、交通事故だ。車と車の物損事故を起こしてしまった。
相手が赤信号でとまった所に、赤信号に気がつかずそのままつっこんだので、
こちらが悪い事故となった。

というのも、事故は夕方3時50分ごろで、日中はアクティブに活動したので、疲れていた。
加えて、昨日は猛暑ということもあり、そこそこ寝不足だったのだが、朝早く起きて行動
していた。

結果として、とても疲れと眠気があるなか車を運転していたのだ。
途中で、あ、気が抜ける瞬間があるなと2度ほど気がついたのだが、ナビをみていて、
あと8分で目的地とある。それなら目的地で休みをしっかりとればいいな、あとちょっと
がんばろうと思った。まさに、その直後である。

流れにのって運転していたのだけれど、前の車が赤で止まったことに気がつかず、
少しゆっくりにしたものの、そのままどんと、突っ込んでしまったのだ。幸い、
そんなに早い速度ではなかったのと、相手の車が大きかったので、損傷はこちらの方が
やや強かった。とはいえ、基本の部品は無事で運転できる。

脇に車をとめ、前の車のドライバーと話し合った。彼らは怪我等は特にないと言ってくれた
ので、だいぶ安心したのだが、とりあえず、すぐに警察をよぶ。それから保険会社に連絡。
どちらも事故後、スムーズに対応してくれた。警察も20分後には検証しにきてくれた。



不幸中の幸いは、相手が無事であったこと、自分が無事であったこと、
車も相手の車は大丈夫だったし、自分の車も自走できる状態にあったこと。

というわけで、車の破損と、相手の車の弁済だけが、残った形だ。つまり金の問題である。
保険料の値上がりが、つらい。加えて車の破損をどうするか。まあ、どうにかしてゆくほか
ないんだろう。月割りとかにして、弁済を考えるほかない。

この教訓は、ただ一つ。無理は禁物である。
身体は疲れたので休めと訴えていた。それをあと少し!という形で、無理をさせた。
それが結果的に招いた事故だった。その弁済でのトータル損失は20~30万程度になるはずだ。
無理を身体にさせたこと、それが30万もの代償とみるか、30万程度で済んだとみるべきか。
ともあれ、大きな勉強となった。

今までも車の運転では、無理をしなかった。眠いとか疲れた場合は、早めの休憩をしていたのだ。
ところが、今回は同乗者がいて、目的地があったため、それを達成しようと無理をした。
もちろん、そんなことは同乗者は要求してなかったろう。休めばいいと思っただろう。
ナビの8分を見たとき、もう少しで達成だと思ってしまったんだ。疲れがあったのに、
身体の訴えを素直には聞かなかったのだ。

身体の重要性を説いてきたのに、まるで実践が出来てなかった。いや実践してきた。
だが、今日という日の例外さに気がついてなかった。まるで事故を起こすかのような
条件がそろっていた。

まずは暑さによる寝不足。そして今日の早起き。午前中の疲れ。当然、午後、それも、
16時前という鬼門の時間帯。結局、その時の身体反応に忠実にするならば、コンビ二に
寄って、ちょっと休むなどをすればよかったのだ。残り8分でも、きにせず休めばよかった。
そこから少し行った場所でやってしまった。本当に目的地まではあと少しで、おそらく
事故現場から1キロもなかったろう。そのわずかな無理が事故を招いた。

結局、事故後は気分が沈んで、食事をしてもあまり美味しいとは思えず、
相手にも申し訳なく思った。気の緩みというよりは、身体の疲れを無視したこと。
これが事故の最大の要因だった。

皆さんも多かれ、少なかれ事故につながるようなドキっとする場合があるだろう。
その時、思い出して欲しい。あなたの身体反応を無視しないでと。ああ、気が乗らないな
とか、ああ、疲れてるな眠たいなとか、そういう時は、車の運転とかやってはいけない。
車とは1トンを超える凶器である。それを不十分な形で操作するのは人の所業ではないのだ。
それ以外でも、仕事で大きなエネルギーを使う場合にはとりわけ注意が必要だ。

これまでの多くの事故もこういう身体反応の無視、もしくは軽視から来ているんだろう。
今回は金の問題だけで済んだわけだが、時に、身体に障害が残ったり、相手に何かあったら、
それこそ、自分だけの問題では済まない。その意味で今回はラッキーであった。
今後は、身体反応を無視して行動することはするまいと。


付け加えておけば、私はおそらくごく普通のドライバーであり、一般的にみたら、
車を走らせている方のドライバーである。十分に経験がある方だ。そして、普段なら、
無理はせずに休んで走っている。ところが、今回のように同乗者がいたり、時間的制約の
中で行動しているときは、おもわず無理をしてしまうものなのだ。いい所を見せたいとか、
間に合わせたいとか、早く休憩したいとか、本来的にどうでもいいことに気がとられ、
本質的な運転に支障がでているという点を過小評価しすぎたのである。

この安くない損失をただの損失にしないために、警句を残したいというのが今回の
エントリーである。皆さんの知恵にしていただきたい。

人生の様々な場面で、多くの人が、身体反応を無視する事で支障をきたした事故や過失
などは数え切れないだろう。特に心身的に無理をするのは本当に問題だと思う。

もう少し掘り下げるなら、ユングやフロイト的な解釈も可能かもしれない。
自分ひとりなら、無理はしなかっただろう。だが、同乗者がいて、ある程度時間が
制約されている条件だったのが今回。自分の中に、タスクをこなそうという欲が
あったのは間違えない。その理由は同乗者にある。

同乗者に対して、ええかっこしたかった。という心理は間違えなくあった。
そして、その動機は、同乗者と最近、関係が上手くいっていないという状況がある。
つまり、タスクをうまくこなすことで、関係の改良を願っていたのだ。といえる。

もちろん、そんなことで関係性がどうなるわけでもなかろう。だが、そうできたら
いいなと思ってしまったのだ。どこかそういう観念の結果が、身体反応の抑圧に
なっていたのだ。もちろん、今回のことは、些細な例である。

だが、社会にはそれが重要なこともある。
たとえば、重要な会議があるとき、ときに体調を崩すこともあろう。そういう時に、
身体反応を無視し、薬で抑圧して仕事に対処したとする。だが、身体反応は決して、
忘れたわけでも治ったわけでもない。それは一時、抑制して消しただけなのだ。
いずれ、体調を崩しているならば、身体反応が出てくるのである。

精神的な問題は身体に出る。病気はばい菌や食事、急激な環境の変化で起こる。
だが、実際的には、精神的な問題は免疫系に作用し、腸内状態を変化させる。
すると、病気にならずに済んでいたのに、ある意味でストレスによって病気になるわけだ。

その一歩手前で、身体はかならずサインを出す。それは無意識的な作動である。
人は意識と身体は同一であると思いがちだ。だが、実際には身体の上に意識は乗る。
よって、身体の方が情報に富むのである。その身体が何か嫌だなとか、ちょっとおかしいぞ
と感じているならば、それは危険のサインである。それがちょっとセキが多いなという
事だけでなく、なんか不安があるとかいう事も含めて。それらは身体が訴えている
状態なのだ。

結果として、その小さな身体反応をどれだけ逃さずキャッチできるのか。
それが大きな問題なのだ。

自分の事に限らず、たとえば、会社で違和感を感じる処理とか、業務がある場合。
これ法的に問題がないのか?とか、なんか変だなとか、そういうのは、身体が先に
反応するらしい。その時、どれくらいケアできるのか。もしそれを見てみぬ不利を
すると、たとえばスバルの燃費問題のように、問題が膨れ上がってから、発覚する
という事が起こる。

身体反応を見てみぬふりをするのはやめよう。その違和感は、おそらく問題なのだ。
自分の行動なら、無理は禁物である。身体を無視するのはやめよう。過労死とか、
長時間残業などはこういうものからスタートするんだろう。おかしさを指摘できない
会社の雰囲気とかも身体に悪い影響を与える。そういう環境に浴していることは、
けっして小さい害ではない。

ここ数年理解してきたことは、身体反応をつぶさに観察すべきだということ。
多くの人たちは、これを「常識」とか「みんながやっている」とか、そういう理屈で
抑圧する、隠蔽する。だが、それは病気という身体に影響するか、うつとか精神に
影響を及ぼす。

事故から身体反応の重要性を説いた。ぜひ、知恵としてご自身の身体を今一度、観察
して頂きたい。きっと何か得るものがあるだろう。

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