世代間ジャンプー車輪の再発明ー [その他]

一つの分野の検討をきちんと穴掘って、深く調べたことはあるだろうか。
私の稚拙な探索では、ごく限られた領域ですら調べきる事は困難であった。

とはいえ、過去を調べてゆくと面白い事実に突き当たる。
それは「大抵のことは終わっている」という事だ。

特に手垢にまみれた分野では、大方の人が興味をもつようなトピックスは調べて尽くされている。
そして、なお新しく調べるのは甚だ困難を伴うようになる。

ところがだ、なぜか新しい話題がいまだに絶えない分野もある。
何がちがうのか。それは、単純に機材の問題である事が多い。
つまり手持ちの武器がハイテクなので、今までのやり方じゃ分からなかったことが
物量にまかせて探索できたり、高い精度で調べることが可能という事がおおい。

私が行っていた研究も同じようなことで、大抵のことは既にアナログ的な手法で
知られていて、私が使っていたデジタル的な機材で調べたことは、それ自体新しいのだが、
内容的な新しい発見というのはほとんどなく、むしろ、過去に既に言われている事の
再認に過ぎない事が分かったのだった。

がっかりといえば、がっかりな結果である。
その一方で、過去の人たちはちゃんと調べていたんだなあと感心したのだ。

これはある意味で「車輪の再発明」に近いのかもしれない。
だが、実はどんな分野にも同じことがあるんじゃないか?と思ったのだ。

というのも、私の分野はそれほど伝統は無い。1950年代くらいからの蓄積だ。
とはいえ、もう70年近い期間で検討が行われている。するとどういう事が起こるのか。

どんなに詳細を理解している人でも、過去にどんな研究があったのかをサーベイしきれる
ほどの時間を持っている人は居ない。すると、かつてどんな検討がブームで、それが
下火になったのかを生き証人としてかかえている分野はともかく、それすらなかった
分野では、実は途切れた文化が出てくるという事になる。

特定の時代に精力的に調べられてきたこと。それがちょうどひい爺さん世代、つまり、
自分の先生の先生くらいならまだしも、もうひとつ前の世代になると完全に知識が
途切れてしまうのだ。生存がかぶらないために、何が重要なものであったのか、私には
把握しきれない。たとえば、教科書と呼べるような本がどの分野にもあるだろうが、
その内容がどんな文献によって支えられているのかは、きちんと調べる事はまれだろう。

すると、こういう事が起こる。とある世代で充実した研究が行われて、ある程度概観が
明らかになると、次の世代は違うことをしようとする。これはAというブームを知った上で
Bというムーブメントを起こすことを意味する。これは何も問題ない。だが、次のCを
作り出す世代には、Aの話はだいぶ危うくなる。それは既にそういうもんだという認識が
B世代にあるために、C世代は教育的にそれを伝えられる。実感ではない。誰もリアルタイム
でそれを調べているわけではないからだ。だが知識としては頭に入る。だからC世代は
いささか不安定ながらもA世代のことを意識できる。だが、問題はD世代である。

Dを作り出すときにすでにA世代は死んでいる頃だろう。B世代も引退しているかもしれない。
すると頼りになるのはC世代なのだが、彼らも自分の手を使って得た結果ではないので、
知識としては知りつつも、その確度についてはD世代と変わらないのである。そして、その
知識もAやBほどには細かい部分は分からないことになる。すると、C世代はD世代任せで
検討がスタートする。

こうなるとD世代はかなりやっかいで、AやB世代の検討は教科書で知るしかないので、
知識にはなるが実感がない。その上、追試をするような時間も無い。C世代が頼りなのだが、
C世代も自分の手で追試をしているわけではない。昔話として先生から聞いているだけだ。
その一方で、計測機器は日々進歩している。D世代はかなりハイテクを駆使するわけだが、
その計測対象が往々にして、A世代やB世代と同じという事はままあるわけだ。

こうして、D世代が新しい機器で「車輪の再発明」を生み出す事になる。
大事なことはおそらく教科書に残ったであろうが、それもまた誰も検証していない事実
となってしまう。そして、時に、この事実が実は違う側面を持つときD世代は新しい発見
をすることになる。

とはいえ、昔の人も愚かではない。当時のテクニックで出来るだけの事はしているはずだ。
すると、ハイテクな結果でも、定性的議論でみれば、何も変わらない事はまま起こる。
特にサイエンスの分野では起こりがちであろう。

結局のところ、私の検討も、過去の論文をつぶさに精査してゆくと、大抵は言及があり、
それは自分の結果を先取りしているのだ。つまり、当時推察されていたことをハイテクを
つかって物量で示したという事になる。ある意味では過去の人と整合性があるわけだが、
その一方で、定性的な部分に関してあんまり進歩がない事になる。残念。

昨今のサイエンスは金がかかる。その意味は、ハイテク機材に金がかかるという事だ。
一方で、人の興味がハイテクになったか?否。人の興味は相変わらずなのだ。
現代の科学の文脈でいえば、かつての説明を、ハイテク機材のデータで再検討している
ようなものとなる。そこに何かジャンプや飛躍はないのだ。もしあるとしたら、
本来想定しているはずじゃないものをハイテク機材が捕らえたときである。

つまり、変な話、大抵の研究は定性的にみれば、昔とおんなじことをやっているのだ。
それは現世代が知らないだけということがままある。なにしろ、現代は論文で溢れている
のだ。それは教科書にも乗らないようなことだったりする。そして、その中身はハイテクで
生み出されているだけなのだ。それを繰り返しているうちに、時に予定外のことが起こる。
それが新しさである。つまり、常に新しさとは予定からはやってこない。新しさは定義も
不能である。そこに新しいものが出てきたとき、はじめて新しさに気がつく、そういう
性質のものなのだ。

これを理解しない研究人も多い。だから計画的に網羅的に検討したがる。それは結局、
新しいのではなく、ハイテクなだけなのだが、それに気がついていないのだ。仮説
検証が重要なのはわかる。しかし、仮説が立てられるとはそもそも新しくないという
事とほぼ同義ではないか。過去の命題から新しい命題を論理的に組み立てられるという
のは、利便性をあげる意味はあるが、実は新しくはないともいえる。

そういった意味で、真の新しい検討とは常に、過去からの逸脱である。
その逸脱は、才能のある人間のところに現れるのではない。物量的に様々な失敗を
繰り返したところに現れる。過去で知られている常識から類推不可能な結果が出たとき
始めて<成功>になる。

これが発見や新規というべきものだろう。イノベーションを同じように思ってる人が
いるが、イノベーションとは組み合わせである。混ぜ合わせたことがないものをまぜる
事がイノベーションである。それは発見でも新規でもない。意図して、まぜ、そこに
線形以上の結果を見出すのがイノベーションである。新しい技術を作りだすのは発見で
あって、イノベーションではないのだ。

よって、イノベーションが必要であれば、可能性のある組み合わせをやればいいだけだ。
つまり簡単なのである。イノベーションとはイージーな問題である。

むしろ発見こそが重要なのである。そしてそれは計画的に導けるものではない。
よって、計画書に書けるようなものでもないし、頭で考えて出てくるものでもない。
ここが要諦である。

ハイテクを駆使しても、別に新しいものは生まれない。それは過去の知識の精度を
上げる程度のことだろう。目が良くなる、耳がよくなる、触覚がよくなる、つまり
人の五感を拡張したものこそがハイテクである。そこで得たデータは、高精度であり、
物量が高いものだ。だからといって新しいわけではない。

真の新しさはつねに論理の延長には生まれない。論理破綻の上に生まれる。そして
その現象を説明するために新しい論理が生まれるのである。

さて、世代間をこえて、実はやっている事が同じということは往々にしてある。
ならばもっと過去をまとめなくてはならない。だが誰もそんなことは興味がないようだ。
教科書を年々分厚くするという話はいかにも地味だからだろう。

もしかすると人の頭では、全てを網羅できない。だとすると、分業するわけだが、
その結果として、さらに「車輪の再発明」がそこかしこで生まれているはずだ。
だが、全てを調査できるわけでもない。

これを乗り越える一つの手段はAIだろう。
人を超えて情報をまとめられる。

その意味で私は、AIが人智を超えた新しい知見を生み出すのは間近だろうと思っている。
そして、現時点でも過去の文献をあらためてまとめてくれるAIこそが本当の意味での
研究になるんではないかとも思うのだ。

AIがつむいだ知識体系に対して、イノベーションを用いた検討を行えば、
過去との差分をつぶさに検証してくれるだろう。もはやどんな専門家も自分の分野すら
網羅できていないのだから。新しさを担保できる人はもういないといえる。

そろそろ、学術分野も新時代に入るべきじゃなかろうか。

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