日本社会の圧力ー変なルールー [その他]

情けないことに、自分で決定したことに自信を失いかけている。
何かに巻かれて生きるほうがどれだけ楽かを実感する。


その実感の中で、何ができるのか。
不安感は焦りを生む。世間における「真っ当」という行動から外れることの怖さ。
自己イメージを失わせる仕組み。そうか、これが社会の圧力であり、現代日本の正体。


誰でも自由に生きているなど、まるで嘘だろう。
自発的な行動を本当の意味で行ったら、この社会はもっと健全になる一方で、
現状のような生産性や効率性は保持されないことだろう。諸外国のようにでたらめな
部分が生まれてくるに違いない。だが、そのような社会のほうが幾分か健全だ。


日本社会はあらゆる場面で、我慢を強いる。忍耐力というけれど、その忍耐そのものが、
義務化されている。理不尽を我慢する能力こそが、現代社会の本質にある。だから、
学校教育では、理不尽な行為に我慢できる人材を育てようとする。それはつまり、平和な
時代の「兵士」たちである。文字通り、企業で働く兵士になるために。


上司がいう理不尽は、身近にある我慢である。全うに考えたらなぜ?となる主張でも、
部下は受け入れざるを得ない。するとその場では物分りのよい振りをする事になる。
だが、あとでその時発生した感情は、ザラザラと心の中に沈殿し、あとで愚痴となって、
タバコの煙に漂うことになる。そのちいさな不快感は、その人の人生に沁みる。その不快感が
ちがう場所にしみ出る。たとえば、家庭で、妻に子供に発揮される。そうやって小さな
復習をすることで、人は正常を保つ。


だが、その小さな復習は、子供の中に熟成される。その子供は友達に感情をぶつけてゆく。
それは大人の真似であり、触れてしまった毒気を抜くための自助行為なのだ。


社会は間違えなく、理不尽を動力にして動いている。そうでなければ、日本などまともに
動くはずがない。一方で、日本全体はおおよそ狂っている。大抵の人間が忍耐に生きるなんて
とてもまともに思えない。忍耐の習慣は戦中に身に着けた行動なのだろう。戦後70年たっても
まだその影響力があるのだ。


大抵の人は我慢している。だから、我慢をしない人間を妬みの感情から、容赦なく叩くのだ。
昨今の不倫問題や、暴力行為や、モンスターペアレンツなども、この忍耐の思想から生まれる。
「俺はこんなに我慢しているのに、抜け駆けして我慢を回避している奴がいる!」つまりは、
嫉妬なのだ。この不満の噴出は日本だけに限らない。世界的に発生している。たとえば
ブレグジットは、そういった感情によって起こった。トランプ政権も同様だ。


我慢は人を成長させる。そう思い込んでいる。おそらく嘘だ。これは、人々を互いに
縛り付けておくための言い分なのだ。相互に我慢をさせあうように仕組まれているのである。
誰かが抜け駆けをすると、それに制裁を加える感情が生まれる。それは我慢を強いる社会
だからだ。そして、あらゆる面で、我慢こそ美徳であると教えるのだ。それは結局、民主主義
の崩壊へといざなう。


政府がどんなことをしても、大抵の日本人はそれを受容する。それに不平をいうのは、成長が
足りないとか、忍耐が足りないというように扱われてしまう。その異常さにどうすれば気がつける
のか。日本にいると、そういう事が内面化されすぎて、不自然に感じないのかも知れない。


忍耐を強いる社会。先進国は多かれ少なかれ、忍耐を強いる仕組みに生きている。
そしてその忍耐もそろそろ限界に近づいている。きっと我々の我慢の限界に来たとき、
人々はいよいよ、暴発するのかもしれない。戦争になだれ込んだり、社会不安が冗長されるの
だろう。


本来は、社会の安定さを担保するために秩序、つまり法がある。だが、日本では法はただの
文言である。人々は世間というルール、それを遵守するよう求められているのだ。ところが、
そのルールが発する作用によって、人々を我慢を強いられている。結果として、我慢した人は、
どこかで鬱屈した感情を溜め込むことになる。これが仕事場や生活の場でもれ出るのだ。

そうして、社会は不寛容になってゆく。すると、逆にこの不寛容さに触れないために、予め
予防線を張ることをし始める。このラインはどんどんと程度があがり、人々を縛り付けてゆく。
これをしてはいけない、あれをしてはいけないと。その結果として、強いパターナリズムと、
それに盲従する庶民がうまれてくる。なにしろ歯向かうだけ労力がかかるうえに、社会的に
レッテルを貼られてしまうために、不利なのだ。サラリーマンが政治的な事をもっともタブー
とされるのはこの予防線のためなのだ。変なルールだらけなのが日本なのである。

もう少し、いい加減さを取り戻さないか。そうでなければ、いずれポキっと折れてしまうに
違いないのだから。
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仮想通貨の在り様ーその可能性ー [その他]

ビットコインやアルトコインなど、仮想通貨が現在流行している。
時に、ビットコインは1BTCが200万円に達しようとしている。

もともとは、コンピュータの中で定義された情報に過ぎない。
その情報にどんな価格を与えるかは、市場によって決まる。これが常識だ。
よって、仮想通貨は文字通り、仮想通貨であり、それ以上でもそれ以下でもない。

ナカモト・サトシというペンネームで書かれた論文が、
ビットコインのコアを説明している。ブロックチェーンと呼ばれる仕組みは、
分散型台帳システムにより、取引の総体を常に複数人、複数個所でチェック
しながら取引を記述し続ける点に特徴がある。

https://tech-camp.in/note/technology/28766/

ビットコインの主な特徴は、発行体がいない事、
紙幣貨幣など実物がない事、発行量に上限がある事、世界中で使える事、
価格変動は今のところ、大きい事などが挙げられる。

簡単に考えるならゲームの中のゴールドやグループ店舗で使われる
ポイントと大差ない。ただ、その情報の在り方が高度な数学を含み、
その改ざんを防ぐ技術の高さから、法定通貨の代替となる可能性を秘めている。

もしビットコインで給料をもらったとしても、クレジットカードのように
処理できるとしたら、多くの普通の人にとっては気にならないはずだ。
円と呼ばれないだけであろう。

法定通貨は、中央銀行による発行が行われている。
また実体を持つ。加えて発行量に上限がなく、価格変動はごくわずかだ。
使える場所は、主に国内のみである。

現状でこれらの大きな違いは、価格の変動性だろう。価格変動が大きいものは、
投機的な扱いを受ける。かつてのオランダのチューリップや、土地ころがしと
同じである。為替の変動はごくわずかだが、仮想通貨はとにかく変動が激しい。

そもそも、金とは何か。それは信用の事であった。信用ってなんだ?と
多くの人は思うだろう。それは要するに「将来の誰かの労働」の事である。
金が手元にあるということは、将来その金の額面分の労働を用いる権利と
いうことだ。5000万円あれば、それは家を建てるのに十分な労働を手に
している事となる。

しかしその裏付けは金が債権であるという点においてスタートしていた。
金とは債権である。誰かが借金しなければ、金は存在しえない。その意味で
仮想通貨は金のようで金ではない。また借金は人口が増えたらその額が増加
するものであるが、仮想通貨では上限がある。この辺りもリアルマネーとは
一線を画している。

仮想通貨がマネーになり得るか。現在のところ、金に代替するのは難しいだろう。
仮想通貨の増加の仕方は「信用創造」ではなく、マイニングによるものだからだ。
マイニングとは、ブロックを計算するための行為で、それを行うと報酬が
もらえる仕組みだ。よって、仮想通貨を手に入れる手段は、誰かがもつBTCを
リアルマネーによって手に入れるか、マイニングをしてその報酬として手に
入れるかとなる。リアルマネーは誰かが借金すればいい。これは大きな違いだ。

では仮想通貨が役立たないかと言えば、そんなことはないだろう。
改ざん不能性をもつことから取引の安全性などにおいて有効であるし、
世界中で使えることから、両替の不要さなどの利便性もある。

また、もっと重要な事は管理者不在という点である。中央銀行のような
存在によるものではない点をデメリットという人がいるが、それは大きな間違えだ。
金の信用とは実態にあるわけではない。大事な事なので繰り返すが、金の信用とは
国の保証などではない。それは人々の頭の中の強い幻想の事を指す。

つまり、目の前にひらひらさせている紙を金だといいはる人がいて、それを
みた人が、ああ金だと思えば、それで金となるのである。そこに国の存在性は
不要である。これが実態としての金だ。もちろん制度としての金は中央銀行に
よる発行という保証の元にある。だが、実体など使用者にとってはどうでもいい
事ではないか。

よって、信用を体現するものならば、金として有効に機能するはずなのだ。
ただし、先ほども述べた通り、現在の金の代替になるかといえば、ならない。
もう少し言えば、取引の決済手段としての仮想通貨はあり得るが、仮想通貨が
現代の金の機能全体を体現する事はあり得ないと言えるだろう。包含関係として
仮想通貨の方が機能性が小さいのである。

つまり「仮想通貨には信用創造がない」事が最大のネックである。

現在、取引が過熱しているが、その実態を比喩で考えてみよう。
例えば、芸術家の絵がある。芸術家が歳をとってゆくと、作品数が減り、
将来的には死んでしまうため、作品の制作が終わるとしよう。彼の絵は、
最終的に2100万点あるとしよう。

この時、絵を欲しいという人が現れるとする。はじめは物好きだけが絵を買った。
だが、次第に欲しいという人が増えてゆく。すると、どこかで相が転移して、
指数関数的に値段があがってゆく。あまりに作品点数が多いので、この作品の
やり取りをもって、金の代わりをする人が現れる。作品1つで、車一台と
交換するようなものだ。

多くの人がこの作品を欲しがっている時は、このような交換が成り立つ。
だが、みんなが欲しがらなくなると、価格は崩壊する事だろう。誰もが
欲しがる時のみ、金として機能するのである。

誰かが、作品を借金させてくれと言ってきたとする。現物がある人は
作品を返すための念書を書いて、貸してくれるかもしれない。だが、
利子をつけて返すにはどうしたらいいのだろう?作品の値上がりをもって、
作品で作品を買う??作品1つで、作品を2つ得る事が可能でなければ、
利子は得られないだろう。

これが仮想通貨ビットコインが金の代替にならない理由である。
有限な金のようなものは、リアルマネーの性質をイミテーション出来ないのだ。

もちろん、考え方をかえる事も出来る。リアルマネーの方が異常という
認識において、仮想通貨の性質をもって金とする方法である。

よく考えてみれば、なぜリアルマネーは利子がとれるのか。なぜ100円で
200円を買う事が可能なのか。ここのカネの矛盾がある。つまり信用創造
いや、債券創造があるのだ。

銀行は金を創る。本来は手元にない金を貸す能力を国から担保されている。
もしくは、その詐欺を見逃すように国と交渉しているともいえる。だから、
誰かが住宅ローンを組みたいとして、そこに返済の能力をみこめば、金を
貸すことになる。なぜなら、金を創ればいいのだから。これは公然と知られた
事実である。

もし私が、手元に何もなくても、誰かに100億円貸せるとしたら?
そんな馬鹿な!と誰しもがいうだろう。だが、銀行はそれをしている。
事実、それをしているのである。誰かが借金をすれば、その分金が増える。
だから、利子を払えるのである。これがリアルマネーの本質である。単に
決済出来ることが金の存在目的ではないのだ。

仮想通貨が、そのまま仮想なのは、この信用創造による金の膨張が存在しないからだ。
むろん、ビットコインを始めた人間はそんなこと百も承知だろう。
そして、現代のリアルマネーの特徴に異を唱えているのかもしれない。

さてさて、投機的な金がビットコインに流れている。まだまだその交換価値は
増加する事だろう。だが、仮想通貨が決済にだけ用いられるとしたら、
リアルマネーにとって代わられることはない。むしろ共存関係になることだろう。
大口の取引で、世界をまたぐときの決済などに積極的に使われるかもしれない。

逆に、ビットコインに使われているブロックチェーンの方式は、もっと
人々の生活に食い込むに違いない。私が可能性を感じているのは、地域通貨
としての仮想通貨である。シルビオ・ゲゼルの減価する貨幣としての利用である。

ブロックチェーンを地域通貨として利用する事で、自動的に減価出来る。
そして、発行数も管理できる。このようなブロックチェーンを用いた地域通貨
パッケージを市町村に提供できれば、かなり有効な景気刺激策になるだろう。

加えてもっといえば、個人通貨の可能性もある。誰かの労働をコインに変換し、
市場で交換するのだ。正確には逆で、個人の労働価値を個人の通貨で表すと
いうこと。例えば1鈴木が、パン一つ。でも、人によって労働価値が異なれば、
2田中がパン一つかもしれない。個人の信用をはかる手段としての通貨も
あり得る。この類似系はVALUというサービスとしてもう存在しており、
いずれ表舞台に現れるのかもしれない。

いずれにせよ、21世紀では通貨の概念は拡張してゆくことは間違えない。
その時、現在の仮想通貨がそのまま利用されているとは考えにくいだろう。
拡張された形に変形していると私は予測する。

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映画「リトル・フォレスト」 [その他]

とても良い映画だった。主演の橋本愛がかわいいというのはずるい気がするが、
何だか安心できる話。それは現代に決定的に欠けている事柄が写っているからだ。
それは「生活すること」である。

誰しもが生活している。でも、現代人とくに若者たちはちっとも「生活」をしていない。
生きるための活動と書く。だからその行動が生きることにつながっていなくてはならない。
サラリーマン生活が、生活だろうか。満員電車に乗って会社に行く。会社ではミーティングを
除けば書類作りだ。実際に手を動かしている人たちもいるが、大抵は生産物を作り出す以上に、
ビジネスをする。つまり情報を動かすのである。誰かに会う。商談をする。これこれの物品を
いくらで仕入れ、それをいくらで市場に出すか。この割合を話し合いで決めるのがビジネスだ。

供給側に立つ事。これがビジネスの基本である。そして内容物は自分たちで作らない。
実際に動くのは、社会的にはあまり認められていないワーカーたちだ。ものを運んだり、
穴を掘ったり、重機で道路を作ったり。農作物を作ったり。

だからサラリーマンは情報をただやり取りする。その行為を高尚だと思っている。
高尚だからその分前は多量であるべきだと思っている。つまり頭脳労働は、肉体労働より
優れていると思い込んでいる。こういう独りよがりな思想は基本的に間違えだ。価値観は
二項対立ではない。どちらにも優れた面があり、どちらにも劣った面がある。これが事実だ。

映画「リトル・フォレスト」では、農村の暮らしが描かれる。内容は、ひたすらに作業だ。
料理が主なテーマだが、その料理が出来るまでのプロセスが種まきから描かれる。農村での
リアルだ。コメを作って、そのコメを食べる。畑をつくって大豆やキャベツをとる。その行為
そのものが生きるためになっている。自分に必要なものを大地から生み出してゆく。
そのダイナミズムに圧倒される。圧倒されてしまう自分は、まさに都会人なのだと自覚させられる。

自分が食べている食材。これらは誰かが作ってくれたものだ。自分の代わりに作ってくれた。
だからその対価を払う。その対価を払うために労働をする。労働して金を稼ぐ。では、その金は誰が
作ってくれたものなのだろう?

金は誰かの労働の前借りである。実は作られたものじゃない。これから行われる労働を目に見える
形にしたものである。この世は不思議で、誰かが作ったものを将来の労働で交換するのである。

金持ちとは、誰かという不特定な相手を労働させる権利を持つ存在ということだ。そしてかなり
不自然なことに、労働させる権利は利子をとる。なぜか持っているだけで、誰かを使役する権利を
拡大出来るのが金というミステリーなのだ。そして自然に反する存在なのだ。

自然に反する存在ということは、この世のものではない。あの世のものだ。あの世のものであるから
それは幻である。人の頭の中にしかない。多くの人がそれを価値があると思い込んでいる実態を
我々は金と呼んでいる。

自分が労働する事で、誰かを労働させる権利を手元に引き寄せられる。だからご飯を作ってもらえる。
家電をつくってもらえる。家を作ってもらえる。つまりレストランやメーカーや建築である。
金で全てを生きている都会人は、ちっとも生産していない事に気がつく。生産はもっぱら農家や
工場で行われているのだから。

生活とは生きるための活動であった。都会人は果たして生活しているだろうか?
生きるために作物を作る。料理を作る。これがまっとうな事であると気がつく。そしてそれ
以上のことは余分なことになってゆく。その余分の中に生きる事は、生活の本質から乖離する。

労働が満足を与えてくれない、そう感じている人は少なくない。自然を相手に労働する人は、
自然の恵みを実感する。労働そのものは何も生産しない。ただ手伝いをするだけだ。生命は
生命自体で形を作る。我々はその恩恵を受けるのみなのだ。感謝する他無い。
だから、祭りなのだ。神が世界に宿るのは、ただ恩恵をひたすらに受けるという途方もない
横取りに対して、我々、些細な存在が出来るわずかながらの行為なのだ。映画でも、意識的か
無意識的か祭りのシーンが描かれる。それは自然との共生を願う心がそうさせるのである。

生きるとは何が出来ることなのか。改めて考えさせられる。食とは自然の恵みであることを忘れ、
金を儲ける事が目的化された社会において、都会人が欲求不満で生きるのはごく当然ではないか。
その解消のために、また金を稼ごうとする。悪夢とはこの事なのではないか。

映画「リトル・フォレスト」映像美だけでなく、暗に染み込んでくる問いかけに我々は
生活を考え直す事が求められる。そんな映画だった。
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Gとの果てしなき戦い [その他]

Gが現れた。コードネームである。
心臓が悪い方はこの辺りで退散してください。




奴らはなぜか気持ち悪い。
奴らは黒光りをしてこちらを威嚇してくる。
今年は既に3匹みてしまった。それも風呂場で。

そして、昨日はついに直接対決を挑まれた。
こちらは泣く子も黙る裸である。

やつらはこそこそとシャンプー台に潜んでいた。

シャワーを浴びて、ふと目をやると視界に黒い影。
その次の瞬間、裸であることを忘れ反射的に5メートルほど飛び退いていた!(ウソ)
まさか自分にそんな能力があるとは驚きである。

心臓がバクバクしているものの、売られた喧嘩は買わねばならぬ。

風呂の外に鎮座しているゴキジェット様!
こいつを手に浴室に戻ると、やつらは気配を消している。

上空からのピンポイント空爆をうけてみよ!
プシュー!!!


ささっと動く影。


んん??
二つに分裂??


ああ!!なんてこった、二匹じゃないか!
一匹を取り逃がしつつ、もう一匹を追う。

プシュー!!プシュー!!

一匹はかなり弱ったようだ。


二匹目はどこだ?


じゃ、じゃん。。。。じゃ、じゃん。。。。。(頭の中ではジョーズが流れる)


で、でたーー!

やみくもにプシュー!ともかくプシュー!
なるたけプシュー!あっちもプシュー!こっちもプシュー!



ぜいっ、ぜいっ。。

つ、ついにやった。やったよ、父さん!(←誰?)


二つの亡骸を背に、荒野のガンマンは馬に乗って去ってゆく。。。

こら、まて。片づけどうすんじゃい。


というわけで、気が進まない中、
割箸でつかんで包装紙で包んで、ゴミ箱へ。
う、成仏してくれたまえ。


まさに地獄絵図。夏の夜の恐怖体験。
みなさんはくれぐれも対策を。

団子でも買ってきますかねえ。

現代の在り方ー雑記ー [その他]

安冨歩氏が日本人は「立場主義」「役割主義」だと述べている。
確かにその通りだと思う。だが、それがために大事な事を失った。
それについて述べたいと思う。

敗戦後、日本は高度成長経済を60年に渡って推し進めた。
それはある意味で敗戦に対する憎しみであっただろう。行き場の無かった感情を
経済活動に振り向けたからこそ、今日の日本の発展がある。多くの日本人にとって、
戦後は戦後ではなく、復興という名の「戦争」状態であった。

それから70年経ち、人々はハタと気が付いた。もう戦争は終わったのだと。
経済大国二位にまで押し上げた原動力は、中流と呼ばれる階層の人々である。
その彼らが、頑張って物欲を満たしてみたけれど、心が満たされたわけではなかった。
もちろん、不幸ではなかった。それでいいと思っていた。そして、これが続くと考えていた。

当たり前だが、高々70年前に始まった事が永続するかどうかは未知である。
我々に押し付けられた資本主義社会では、金が人々を動かす要因となる。
その金システムの欠陥は、既に述べた。金システムは当然ながら永続不可能なシステムである。
よって、資本主義は必ずどこかで破綻を迎える。原理的に明らかであり、現代はそれを
様々な制度を通じて延命工作しているに過ぎない。つまり、戦後の人が安易に考えたような
現在の成長が続くというのは幻想である。いや、幻想であった。

21世紀に入り、デフレが進行し始める。その本源は需要の喪失と、金システムの相互作用だ。
中流層であった世代、とりわけ団塊世代を含む世代が老年期に差し掛かって、金を使わなく
なった。一方、株式会社は年功序列という緩いネズミ講である。その頂点側が増えてしまった事で、
払う人件費は増えていくが、儲けは減ってゆく。なぜなら老年期の彼らは買うものがないからだ。
金を持つ人々が購買しないのであれば、金は回らない。よって儲けが減るのは必然である。
つまり、人件費、労働単価の上昇があるにも関わらず、需要はむしろ減るという事が
起ったのである。

儲けが減れば、新しい社員を雇う事も出来ない。こうして雇用が悪化する。すると、
本来、消費傾向が高い若者に金が届かなくなる。需要がなくなれば、生産が減る。
結果として、給与は据え置かれる。こうなると、社会は停滞する。長い平成不況は
これが原因である。だが正社員を抱えている企業は、従業員の給与を減らすわけにも
いかず、といって新規の雇用を増やすわけにもいかない。一方で、従業員はやめてゆく。
退職金を得て悠々自適な老後生活である。しかし人が減れば、社内の仕事量は増えてゆく。

加えてIT化が進み労働の効率化が図られた。今までよりもすばやく作業が出来るわけだ。
これだけ聞けば良い事にみえるが、そうではない。素早く作業が出来るという事は、
それだけ仕事が増えることを意味する。労働をさせる側から言えば、時間当たりの労働量は
増えた方がいいに決まっているからだ。結果として、不景気により人は減ったが、仕事量は
膨大になった。これが昨今のブラック企業の所以である。

一方で、各家庭では気が付く。この企業連合体の仕組みならば、大手企業に就職する事が
もっとも良い生活が出来ると。何しろ孫請け、ひ孫請けでは利益はわずかだし、発注先の
気分一つで生活が貧窮する。どうやら学歴があると大企業は採用するらしいとなる。そこで
受験戦争が始まる。各家庭は余剰資金を教育に投資するようになった。そして教育が資本主義の
道具になった。

本来は学びとは権利である。行使してもしなくてもいい。だが、現代では企業連合体の総括
としてみれば、学びが義務化してしまった。義務教育とは本来的に意味の取り違えである。
かつては子供を労働者とみなす家庭が多かったために、子供には教育を受けさせなければ
ならないという親の義務であった。子供には学ぶ権利である。つまり、子供が学ぶ気がない
ならば、親は学ばせなくても問題は無いのである。むろん、これは制度上の話で、実際的に
社会は高卒程度の学歴を求めている。

さて、大学が単に企業への切符を意味するようになってしまったので、
大学は卒業出来れば良い場所になった。つまり、そこで身に着けるものなど何もなくてよい。
企業は新入社員に対して、変な思想や考えなど求めていない。単に社畜となってもらいたい
のである。逆にいえば、大企業に入れば、雇用の安定があり、そこに所属する事で、一定の
生活が営めることになる。そのための手段が勉強であり大卒という資格である。

大学卒の資格取得のため、大学自体のニーズが増えた。大学が増えた結果として誰しもが
ホワイトカラーを目指す事なる。一昔前なら、高卒で働きに出ていた人々が大卒としての
仕事を求めるようになる。ここに実社会との齟齬が発生する。人手は余っているのに、
仕事場がないのである。工場は仕方がないので、外国人を雇うことになる。これは今後の
移民問題を誘発するだろう。

ここに人口分布問題がある。若者が仮に全員仕事にありつけたとしても尚、社会はうまく
転がらない。なぜか?それは人口動態分布をみれば明らかである。資本主義社会はねずみ
講であるから、常に若者の数は、壮年者たちの数を上回る必要がある。出なければ、上納すべき
労働力が減ってしまい、十分な給与が得られなくなる。まさにここに不景気の原因の本丸がある。

かつて農作業を主もしくは副業とする家庭においては、子供は生産を担う労働力であった。
それが、いつしか米を食いつぶす存在へと変化した。子供が家庭を支えていた時代には、
子どもは多い方がいい。加えて戦後の人口減少状態からも、子供を増やすという動機に
溢れていた。一般に、4人、5人兄弟はざらであった。そのため、現代でも団塊世代という
「問題児」たちが世にあふれている。そして、その子供らも同様である。現代のねずみ講は、
彼らを支えるようにはなっていない。なぜなら、前述したように大企業に入るには、教育投資が
必要となる。加えて十分な収入が得られる見込みがない。更に、子供自体が生産に携わる手段が
実質上ない。よって、子供は減り、一人、もしくは二人がせいぜいとなる。4,5人を1,2人
で支えるのは物理的に不可能である。

こうして、現代社会問題は、経済つまり資本主義の行き詰まりをみせている。資本主義社会の
必然として現代が存在する。この後に控えているのは、戦争である。自分たちの制度が悪いと
誰も本気で信じていないために、経済の停滞を他国との関係で解消しようとする。アメリカなどは
典型的だ。経済的な利権を確保するため、そして利潤を得ようとするために戦争をする。
そして、やめることが出来ない。残念ながら、日本はそこに足を突っ込もうとしている。

結局のところ、小手先の問題ではなく、もっと制度的な部分で社会を変革しなければ、
必ず、経済的減退をむかえ、食べていけなくなった国民は、海外へのえげつない経済政策や
軍事政策を行う事を容認するだろう。

こんなことは絶対に避けるべきである。そのために何が我々にできるのか。
ひとまず、政治を見直すしかないのである。

粉飾決算と論文捏造 [その他]

エンロンやワールドコムのように、粉飾決算をして乗り切ろうとして
失敗したわけだが、このような不正会計処理に及んでしまうだけの
理由がある。そのようなインセンティブがあるからだ。

簡単に言えば経営者に対する報酬が決算による数字で決まるという手法だからである。
決算の数字を少しでもよく見せようとするだけの動機がそこに存在する。じゃあ、
経営者がそこまで不純な人々かと言えば、おそらく違うのだろう。

大きな企業になるほどに、その経営の結果による影響を受ける人々が増える。
従業員だけでなく多数の株主、出資者たち、多くの取引先。こういった人々に対して、
自社の決算がそれなりの影響力をもたらすのだとしたら、そこには数字をあげることの
義務が暗黙のうちに生じることになる。つまり、本人の理念とは無関係に、数字を増やす
こと自体が目的化される。

こうなれば、あとはいつ自体が起こってもおかしくはない。
数字が増えれば自分の稼ぎが増えて、社内外から評判が上がるわけだから、
不正をしてでも数字をよく見せたいとなるのがわかるだろう。

世の中には見えないけれど、大なり小なりの業績の割り増しはよくあることなのだろう。
予備校にある合格実績も、一度でも模試を受けたら、その予備校の合格実績にする等が
行われた。Youtubeの再生回数も、自分でなんども再生すれば、再生数は増やすことが
出来る。このような直ぐにいじることが出来る数字に惑わされてはいけないということだ。

論文の捏造も同じである。業績が出ているところに、多額の資金が降りる仕組みになっている。
だからこそ、業績を生み出さなければならないという圧力がかかる。研究とは本来的に、
業績を出す行為ではなく、物事を知るための活動であった。ところが、現在の研究者とは、
「論文ライター」であって研究する人々の事ではない。なぜなら、論文ライターが研究資金を
得られる仕組みだからである。つまり実態的には、研究能力より論文作成能力が求められている。

もちろん、この二つが兼ね備わることが理想であろう。だが、この二つの能力に相関がどれほど
あるのか?どちらか一方だけ選べと言われたら、論文作成能力だけが残るのが現代の日本における
研究スタイルである。ではこれで独創的な研究が生まれてくるのか?否。

多くの研究者は、海外の有名ラボによってなされた研究法や検討課題をあたかも、我が行っている
ごとくに踏襲し、それをわずかに変形させた検討する。なぜか?それは安定的に論文を生み出す
ためである。巨人の肩に乗ることは別に悪いことではない。だが、独創性はそんな論文作りからは
生まれるとは考えにくい。結果として、小粒な研究の数だけが増えるようになる。これは社会が
要請する構造であって、研究者の意図ではない。これを長く続けたらどうなるか?
当然ながら、ものまね集団として洗練されてくる。そのような人材が生き残り、独自性に命をかける
ようなギャンブル志向の研究者は減ることになるだろう。

結果として業績数は増えるかもしれない。だが、その内容は当然乏しくなってゆく。
とあるプロジェクトの結果を一つでまとめられる物を、わざわざ3つに分割したりする。
なぜなら、その方が業績が増えるからだ。一つずつが薄くなるのは仕方ないことである。
しかし、それすら覚束なくなる時がある。だが、巨大プロジェクトを推進しているボスで
あれば、アウトプットしなければならない。ここに来て、遂に手を染めるのである。
検証が薄い内容であっても、ストーリーに従う結果であれば、それで良いと論文を作成する。
論文は論文作成能力が高いものが書くわけで、それなりの論考になる。結果として論文が
世にでるわけだが、その内容には疑問がつくことになる。

内容は追試によって確かめられると思われるだろうが、実際に追試を行われることは
少ない。なぜなら、追試にも大きなコストがかかり、そのような資金を出すだけの
時間的資金的余裕がないからだ。なぜなら、アウトプットこそが第一だから。
他人の内容を精査している暇があるなら、プチ新しい事を進めることになる。
そして、適当な結果が出れば、またあまり精査をもせずに論文を作成することになる。
それが世間が求めるところの研究であるからだ。結果はどうなるか。間違えた結果の上に、
仮説を立て、新しい検討をしたら、当然次からはあまり良い結果を出せなくなる。
これが捏造を生む仕組みである。

うっかりと巨額の資金を得た人々は、その資金に見合った結果を求められる。
これは企業と全く同じであろう。巨大な企業では、それなりの数字を求められる。
だが実態が必ずしも伴うわけではない。むしろ、実態は常にギリギリの様相で動いている。

このような時、人は捏造でもいいから、形にこだわることになる。捏造することも、
粉飾決済することも、どちらも行為の点ではまるで一緒である。

小保方問題と東芝の粉飾決済。かなり様相が違う出来事に見えて、実は同根なのである。
人が求めるものを、実態との乖離が存在する時、心弱き人は形だけでもなんとかしようと
試みる。そして、小さな不正に手を染めるのである。

どちらの問題も要するに、効率・業績重視のシステムが招く欠陥である。
少なくともどちらもこのような効率主義によって評価すべき対象ではない。
企業とは、他者に役立つことをする集団である。その対価として金を得る。
ならば、人々が必要とする事をもっとも洗練されてゆくしかない。それには
当然時間がもかかり、利益が急増する事などない。企業の評価は本質的にはその
永続性で測られるべきだろう。

研究の評価も同様である。研究の結果をなんども検証し、確かに認められる結果こそ、
その成果にふさわしい。現代のように効率重視、すぐに結果が出ることにこだわれば、
内容が乏しくなってもちっとも不思議ではない。小保方問題も、再度、検証をしてさえ
すれば、その方法論的問題や、細胞の取り扱いミス(意図的?)なども分かったであろう。

現代の科学では決定すべきパラメータが多数に及ぶ。どのパラメータが重要であるか、
それを定めるだけでも、かなりの時間を要する。そのような事柄は地味な作業であり、
成果として表に出にくいのも事実である。だが、緻密に行われた結果こそが、のちの
研究者に大きな貢献をもたらすのである。

事を急げば、それだけ内容がおろそかになる。その当たり前のしわ寄せが、企業や研究の
不正なのである。

納得できないこと [その他]

納得できないことがある。
それを理不尽と呼ぶ。

世の中理不尽なことはどうしてもある。
そのうちの一つが恋愛である。

特定の人を好きになる。
それには往々にして、理由はないというが、
やっぱり理由があると思う。

女性は知ってか知らずか、なんとなしにサインを送っている。
それを感じた男は行動に出るのである。
にも関わらず、女性は断りを入れるのである。
もちろん、ポーズのこともあるが、実際的に断りを入れるのだ。

その理由は、要するにタイプでないということなのだろう。

ではなぜ女性がアプローチをするのだろう?
それは、簡単にいえば、自尊心の問題かもしれない。
自分を好いてくれる人が多ければ、それに越したことはないのだ。
多くの異性に好かれる「自分」が好きな人なのかもしれない。

一人の女性を好きだ。
けれども、上記のように、相手にされない。
普通は引き下がるべきなのだが、なぜだか、会うと
なんとなく誘われているような気がしてしまう。

相手の態度に惑わされて、引き際がわからなくなっている。
これはホストやキャバ嬢にはまる心理そのものかもしれない。

正直困るのだが、結論は常に一緒だと思うことにした。
つまり、向こうが望んでいるのは「好きでいてくれる」ことであって、
決して「付き合う」とかそういうことではないのだ。
これが確認し得る事実なのだろう。

好きになったらダメだと思った相手だったのに、
ミイラとりがミイラになってしまった。

そろそろ、自覚するべきかもしれない。

憤りを感じるー原発に関わる失業の話ー [その他]

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110728-00001207-yom-bus_all

正直いって、何を考えているのか。
国土をダメにする可能性と目先の経済的利益を比較してどうするつもりなのだろうか?
非常に憤慨するニュースである。

全ての原発をいきなり、止めるわけがない。
徐々に減らしてゆくという形で検討すれば問題ない。

どうせあと20年もすれば団塊世代が死ぬ。
そうしたら、必要となるGDPも減るだろう。
生産できる絶対的な量も減れば、それで構わないだろう。

上の記事は、要するに54基すべてを撤廃すると、こんなに貧乏になるという
政府からの脅しである。こんな脅しを真に受けてどうするんだ?
だいたいにおいて、国土がだめになれば、誰も生きていられないのだ。
どっちが重大な問題なのか考えればわかるはずであろう。

こういうのを目先の利益追求、金の亡者と呼ぶのである。

自分がよければ、あとのものはどうでもいい。
ならば、日本という国に住めなくなってもいいと言えるのか。

金が絡むと人がおかしくなるのは、お前ら団塊の連中がいかに
心が貧しいかということを如実に表している。
本当に怒りを感じてならない。

福島を見て、すでに我々が目の黒い内は、人が住めないことが明らかである。
そのような場所を日本全国に作って意味があるのだろうか?

明日になれば人が死ぬとすれば、人はどっかに移動するしかない。
でも国土は移動不能であり、代替不能だ。
生きとし生けるものにとって重要なのは、今の我々の命ではない。

原発はあくまで全廃の方向で動くべきだ。
全廃を目指して電力需給を合わせていくべきなのだ。

それでは生産が困るとなれば、海外へ出ていくしかあるまい。
もしくは自前で電力を作り出すしかあるまい。

なんどもエントリーしてきたが、資本主義とは「拡大再生産」であり、
そのためには「弱者を搾取」する必要性がある。
誰かを犠牲にしているから、今の産業が成り立っている。
その意味では、現産業構造は、おおよそ正義ではない。ずるさの上に
成り立っている。

後の歴史家はこう記述するだろう。
「21世紀初頭は、ごく一部の資本家と労働者という奴隷の元に経済が営まれていた。
 労働者には労働者となるべく学校教育が6歳からスタートし、その制度の中で、資本家は
 自らの体を動かさなくとも利潤を得る方法を発明した。労働者は教育制度の中で、
 構造的な欠陥に気が付かされずに、生かさず殺さずの状態に置かれた。多くの歴史が
 繰り返すように、人は認知的な枠組みを外すことが非常に難しい。このような
 経済的な基盤は高齢社会を生みだし、社会経済は衰退を始めた。資本主義と呼ばれた
 イデオロギーは持続不可能な方法論であり、エネルギーが無尽蔵にある場合にのみ
 有効な手段であることは理解されていたものの、人々は目の前の利益を優先し、国土を
 汚し、有効な手立てを打てないまま没落していった。」

誰もが資本主義の恩恵に預かれない。世界は搾取する側とされる側に置かれている。
少なくとも、日本という国においてはそのように認識されている。
現状で没落してゆくのなら、せめて国土は守らねばならない。それは我々の世代から
後世の人々への唯一の贈り物である。

決して、金では環境は買えないことを忘れてはならない。
いいか、どんなに大金を積んだとしても、失われた国土は二度と戻らない。
この意味がわかっていない人間があまりにも多すぎる。ほとんど狂気である。

その意味において、金など本質的に価値などない。
それは手段であって、そこに幸福などないのである。

当たり前を当たり前にやるという時期が近付いているのである。

とんでもないこと。 [その他]

自分が予期していないことが起こると人はパニックになる。
身をもってそういうことを経験している。いや、経験中である。

みぞおち辺りがもやもやして、胸が苦しい感じがする。
もう、人生が終わりじゃないかと思ってしまうような絶望感がある。

後悔という機能は何のためについているのだろう?
過ちを繰り返さないためなのはわかるが、これは苦しい。
本当に苦しい。そして悲しく惨めだ。

うつ病の人はこのような絶望感の中にずっといるのだろうか?
今なら、そのつらさがよくわかる。頑張り様がないではないか。
状況が絶望的なのに、自らの力ではどうにもならないことが起こったとき、
人は苦しい気持ちになるのだろう。

自らの力でどうにもならないのだから、自らの力でないものにすがってしまう。
何人もの友達に電話して、話を聞いてもらった。どうすればいいのかはわからないけど、
とにかく、誠意をもって行動するしかないのだろう。

絶望的な状況だと思っているけど、そこに望みを託すしかない。
でなければ、本当に絶望になってしまうから。

今まで自殺なんて考えたこともなかったけど、
これがずっと続くようなら、そういうのも一つの手段なのかもしれないと感じることがある。

自分がやってきた行いの報いでもある。
苦しいのは、関わりの大切さを改めて認識するきっかけなのかもしれない。

苦しさはきっと徐々に落ち着くとは思う。
そのあとに何が残るのだろう。
こういう時に、どうすればいい?
どうすると気持ちはつながるのだろう?

あきらめの気持ちと、希望があるという感情の狭間で、
自己がバラバラに解体されそうだ。

ここに今の気持ちを書き留めて、
あとで改めて見たときに、何かを理解できるのかもしれない。

自分が思っているよりも、大きな何かが動いていて、
全体としてうまくいくのだと思いたい。

ただ、今は、限りなく悲しい気持ちでいっぱいだ。

現実逃避 [その他]

仕事をしなくてはならないのに、現実逃避をしてしまう。
その理由は、今日最初に書いたエントリーのせいなのだけど。。

エントリーを書いてしまった理由は
(500)日のサマーという映画をみたことが要因だ。

以下、ネタばれ。



サマーという魅力的な女性が秘書として会社にやってくるところから、
物語は始まる。主人公のトムは、少し男前で、少しロマンチックな考えの持ち主だ。
このトムがサマーに徐々にはまっていく様が映画になっているのだ。
細かいあらすじは他にまかせるとしよう。

このサマーはトムに言う。「友達としてなら」と。
つまり、彼女にとって、トムは本命ではないと宣言した上で、
二人の恋愛がスタートするのだ。

それでも惚れた弱みをもつトムはサマーにどんどんと深みにはまってゆく。
サマーは恰も恋人のように振る舞い、最終的には体の関係までもってしまう。
それでもサマーはトムが「運命の人」だとは思えなかった。

結局サマーはトムをふって、別の男と結婚することになる。
トムはサマーに振られて絶望し、会社をやめて、昔の夢だった建築家を目指す。
そして、新しい女性オータムに出会うというのが筋だ。


要するに、サマーが中途半端にトムをつまみ食いしたけど、
やっぱり違っていたという話なのだ。
だから、トムが可哀想だというのが普通だと思うのだけど、
女性の多くはそうは思わないらしい。
http://cinema.pia.co.jp/title/152004/

俺が感じたのは、これ男女が入れ替わったら、
トムは女性から非難轟々なんだろうなと思ったこと。
そう思ったら、同じように感じている人がいて、
http://blog.livedoor.jp/sheep_tmc/archives/51609468.html

常識的に考えて、サマーを普通の女の子と見なす女性が多いことが
不気味だろう。サマーを男にすれば、ただのイケメンが一人の女性を持て遊んだと
解釈されるのだから、そのイケメンをただの普通の男と見なすのは無理があろう。

トムは決して子供でも、女々しいわけでもないと思う。
恋をするってことはトムのようになることだ。
むしろ、サマーはそのようなトムの反応に気がついて、
身を引くのが誠意ある対応だっただろう。


いろいろな教訓を含んでいるという意味において
良い映画だとは思う。ただ、サマーの様な人が少しでも
相手を思いやる気持ちを持ってくれるように願いたい。