この不安感のわけー他者との軋轢ー [その他]

たった今、私は強い不安感をもっている。それは、友人に怒られてしまったからだ。

喧嘩などはあってもいいと思うが、今の私がおっているダメージは、なかなか解消が難しい。
というのも、私なりに良かれと思った行為が、相手にとって不快だったからだ。
それを批判されるのは正直つらい。


言い分が違うから対立するというのとは違う。
傷ついている友人がいて、その友人が苦しんでいる(ように見える)。だから、
良かれとうっかり助言してしまったのだ。軽率であったと思う。

友人はPTSDに悩まされているという。精神科にも通うほどらしいのだ。
その人に向かって、何かをいうのは難しい事。慎重さが必要だった。
だが、うっかりと、気安く「状況は変わっていくよ」と言ってしまったのだ。
そして「(いずれ変わるから)あんまり現在の心境に囚われない方がいい」
と言ってしまったわけだ。

友人にとって、それがいつ訪れるか分からないから苦しんでいる。
それなのに、この人は無責任にも「変わる」という。そんな事どうしていえるのだ?と
憤慨してしまったのだ。

心の在り様が変わらないから苦しんでいる人に、心の有様は時間で変わるのだといって
しまったのである。実際的には、それは事実なのだけど(沢山の例がある)、だが渦中の人に
とってそれは酷な言い方であろう。何しろ、苦しさは自分じゃあ変えられないのだ。

私にもうつ傾向だった時がある。その時は自分の心の状態を変えられるわけじゃない事は
よく分かっていた。そして、結局時間とおかれている状況の変化によって、心の状態は
変わった。渦中に居るときに、私ならば「大丈夫、いずれ状態は変わるさ」と未来の自分に
いって貰えたら助かったろうなと感じていた。だから、うっかりと友人にそれを言ってしまった
のだ。

だが、友人には友人の世界観があり、異なった形で生きている。だから私が言って欲しかった
言葉が同様に有効であるとは限らないわけで、むしろ、批判されているように響いたのだろう。
余計な親切大きなお世話。そういう結末だったわけだ。

そして、私は善意を批判されて驚くとともに、自分の動揺にも気がついたのだ。
相手の立場に立つのは時に困難なこと。良かれがむしろ最悪の結果を招いたとき、
私はかなり動揺するのだと。良かれと思うことこそが、不正解みたいなとき、そして、
相手を傷つけたとき、どうにもならない欺瞞に陥る。

こういうときは、ひとまず謝るほか無い、複雑ではあるが。
先ほど謝りメールを書いたのだが、自分がいやになる瞬間である。


この世で恐ろしいことの一つは、悪ではないのかもしれない。
むしろ善こそが恐ろしい。善と思った行為こそが、最悪であったときが恐ろしい。
大切に相手をおもうゆえに、相手を傷つけたのなら一体なんなのだと。

ときおり感じていたこの感覚。これから逃げたいと思ってしまう。
他者と関わると、どうしても時にこういう感情を抱く。
それは強い恐怖心である。それは自分が不用意に他者を傷つけるという事。

悪気があるわけじゃない。こちらが普通にしていても、相手を傷つけることがある。
それが怖さになるのだ。自分が何か間違えた人間なのではないか?と感じるのだ。
そして、何かが足りていない自分が悪いのだと考えてしまう。その自己嫌悪もまた
恐ろしいのだ。

一度そのような感情を抱いた相手に対しては、どうしても距離が出てしまう。

当たり前なのだが、他者とまるきり同じ考えや感覚の人は居ない。
だから、時に善意が悪意に見えたりする。おそらくそれは他者からみた私もそうなのだろう。
衝突しながら、ああ、こういう人なのだと互いに理解するほか無い。

つまり、当たり前なのだ。このような衝突は。そして、それを避けてしまう私の
心の問題なのだ。自分でははっきりとわからないのだが、どうも私自身の心に棘が
ささっているらしい。

それが現れるのは、他者が怒りを表出した時らしいとまで分かってきた。
そして、それが第三者に向けられていても恐怖し、ましてや自分に向けられたら、
さらなる恐怖である。こんなに恐怖を覚えるのはなぜか? これは普通だろうか?

他者の怒りに対して、過剰に反応してしまっているのではないか?
それが最近の私の課題である。これは小さい頃からだ。


怒りを使った他者支配をしていた人がいる。それは祖父だ。
気に入らないことがあると祖父はすぐに怒りを表明した。そして、自分の欲求を
通したのである。私は祖父の怒りのつぼを探すことになった。それを避けるように
行動したのである。このような事が今の私に作用しているのだと思う。

私には他者の怒りを避ける傾向がある。もちろん、多くの人もそうだろう。
だが、私は極端に避けている気がするのだ。それは対人関係に影響する。
他者の怒りを避けているということは、じぶんの怒りも避けてしまう。つまり抑制だ。

こうして、怒るべき時におこれない自分がいる。そして他者の怒りに過剰に
反応してしまうのだ。おそらく何も起こらないのにだ。

アドラー的に考えてみる。課題の分離だ。
相手が怒っているのは、私のせいではない。私がきっかけかもしれないが、
私が相手を怒らせようとした事でなければ、私には怒らせる意図は無い。
それなのに相手が怒るとすれば、それは相手の課題なのだ。

ウェイトレスがうっかり水をこぼしたとき、怒鳴ったりして怒りをあらわにする人も
いれば、大丈夫ですよと状況に対処する人もいる。この違いはその個人に由来するものだ。
では、怒りとは何か?

怒りとは他者を操る手段である。少なくとも状況に対する攻撃的対処である。
私は不快だぞと訴えているわけだ。そしてその不快さを相手にみせつけることで、
相手をコントロールするわけだ。

これは幼児が泣き喚いて親をコントロールするのと同じである。
上司が部下を怒るのも、妻が夫をなじるのも、まるで同じことだ。

私にはどうやら祖父との関係を通じて、怒りに対する自己嫌悪を抱くように
学習したらしい。好意をもつ相手の怒りに対する対処に過剰に反応してしまうのだ。
それはいつしか、怒られたくないから何かをするという消極的な行動へと発展した。
私はそのような心根があることを自分に隠蔽してきてしまったのだ。

他者の怒りに直面した時、まさに今だが、その時こそ、対応を考えるときなのだ。
動揺している自分をちゃんと見つめ、その動揺は大丈夫だと言い聞かせる。
そして、可能な限りアサーティブに対処する。私の課題である。


話を友人に戻そう。
友人は最近よく口にしていたのが「私の気持ちは誰にも分からない」である。
そう、私は気がついていたのだ。友人の心境を。

私が友人にしたことは、よけいな「お説教」になってしまったのだろう。
教えてあげるオヤジという奴だ。何も分からないくせに、何をえらそうにという奴である。

もちろんこちらにその意図はない(あったら問題だ)。だが、こういうのは課題の分離
である。こちらの意図とは別に、相手が不快に思ったのなら、それに対処するほか無い。
むろん、私にも軽率さがあった。誤りメールはしたので、後は友人次第であろう。



さてもう一歩、進めて考えてみる。
トラウマは無意識的作用であるといえるだろう。本人の意図には関係が無い。
だからフロイトは、このトラウマを原因として精神疾患が生まれると考えた。
そして無意識であるから、それを本人が自分で何とかできるものではなく、他者との
関わりによって状態を変えようというのが精神分析であった。

現代では記憶のメカニズムの問題であるとも考えられている。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3445/1.html
https://toyokeizai.net/articles/-/141463


一方で、アドラーはトラウマを別の角度から考える。
極端なことをいえば、アドラーはトラウマなどないという。過去と未来とは人間にとって
現在そのものであろう。すると現在をどうするのかで、人の今後の人生は形作られる。

アドラーの新しいトラウマの解釈はいつでも目的論となる。とある目的のために、
トラウマが利用されるというのだ。

引きこもりになったのは、いじめが原因だからだ。いじめというトラウマのせいだと
解釈される。だが、アドラーはいう。引きこもりたいから、いじめという原因を作り
出したのだと。因果関係がさかさまに見えるが、そこがまさにアドラーの本質である。

トラウマをベースに生きるとしたら、そして、トラウマを克服できないのだとしたら、
一生、それを引きずって生きることになる。だから、原因を取り除こうと精神分析や
治療をほどこす。むしろ、過去の捉え方の問題じゃないのか?とアドラーは言う。

それは現在がうまくいかないから、トラウマなるものを作り出しているのだと。
いや、現在の目的のためにトラウマを作り出すのだと。

アドラーがフロイトと袂を分かつのは、この辺りが問題なのだろう。過去を現在の自分が
どう捉えるかを、原因とみなすことで、状況を理解し、心的安寧を得られるのであれば、
それは一つのやり方だと個人的には思う。一方で、アドラーのいうようにそれは解釈に
過ぎないという言明もまた確かなのだと思う。なぜなら過去や未来など、そもそも存在
しないからだ。

過去というのは、記憶である。記憶とは現実ではないのだ。主観的な何か作用がうんだ、
幻想である。それを材料にして、ヒトは未来をつむぐ。これもまた想像であり、創造である。
よって、過去も未来も、ヒトがその能力を発揮して生み出す産物である。

トラウマとは、現在の自分が、トラウマたる過去を生み出した結果とみなせるわけだ。
そして、それがあると確信すれば、それはますます確かなものとして生み出される。
こうしてフィードバックが働けば、トラウマは明示化されるのだ。

フロイトがやっている事は儀式に近いのだ。本来は存在しない過去を作り出し、その過去を
滅却する事で、その人に心の安寧を与えるというわけだから。トラウマとは身代わりのような
ものとも言える。

記憶は残る。強い感情をともなった記憶は確かに残る。それは、そのような状況を避けろと
叫ぶためだ。生死に関わるがために記憶は強化される。それが誤りであってもだ。ここが
最大の問題なのだ。

さて、友人はどうか。確かに友人の体験はつらいものだろう。そのつらさからくる欝や
PTSDは友人にしか分からない。それを他者がどうこういうべきではない。私は軽率だった。
だが、その一方で、他者を介在しなければ、また過去の捉え方を変更するのは難しい。
治療とはおそらく、他者につらさを理解してもらうことではなく、本人が過去を捉えなおす
事で起こる。本人が過去をつらいものであると思い込むほど、それは強化されてしまうのだ。

事態を客観的に捉えなおそう。
私の言明に、過剰に反応してきたということは、そこに何かがあるのだ。とりわけ、
他者に分かられては困るという何かが。友人の瑕疵をあげつらうわけではないが、
友人に潜む意図があるのだと、アドラーは語る。

もっと別なんらかの要因があるのではないかと私は考える。過去の体験によってPTSDと
診断されたのは直接的原因かもしれない。だが、それを過去のものであると切り離せない
のは、それを利用することで何か有効なことが起こるとアドラーなら考えるだろう。

目の前の仕事から逃れたい。現状の何かから抜け出したい。そのような恐れこそが、
トラウマを強化するのではないか。私はアドラーを援用するとそう思えるのだ。
そして、それを自覚する方が、状態は緩和されるに違いないと。

人は目的のためなら、病気にだってなる。良い言い訳が出来るように、人は求めたものを
ひきつける。友人もまた、何らかの目的をもってトラウマを顕在化させているのではないか。
冷たいようだが、このような解釈もまた可能なのだ。

同じことは私自身にもいえるのだろう。他者の怒りに過剰反応するという事で、
何か大事なものを守っているのである。不安感が生まれたわけを直視する必要があるのだろう。


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