交友試行錯誤ー決裂ー [その他]

ここではあまりプライベートなことは書かない方針だ。
だが、今回は一つのエポックだったので、備忘録として、そして一つの事例として
書いておこうと思う。


元職場の人で、彼とはある意味で’戦友’のようなものだった。
職場の状況の問題点を指摘し、それを互いに確認できる相手だった。
私は職を辞してからも、彼とはときおり関わりを持っていた。

その彼と決裂したのだ。理由は私の心境の変化である。
彼は何も変わっていない。一方、私は変わってしまったのだ。

もともと彼の処遇はあまり良いものとは言えず、しばしば、それの相談を受け、
そして、その改善を彼は願っていた。そこで私は彼の置かれた状況でも可能な何かを
提案し続けた。私は、彼に職場の不本意な事について愚痴を言う。そんな感じであった。

すぐにどうこうなるものではない。だから、じっと待っていたが、状況は何も変わらない。
そして、次回にも同様の話をする。彼は不遇を嘆き、私はそれを聞いて提案する。私は
不本意な職場の状況に文句言う。

次回も、次次回も、話す事は少しずつ変わるものの、何も変化ない。簡単に言えば、
愚痴の言い合いである。

私は、職場にてできることはしてみた。同僚たちに話しかけ、仕事上のトラブルを
解決していった。しかし、不本意さはかわらない。その原因は、上司の作り出す職場の
規律や、方針なのだと気が付いた。決して悪い人ではない。だが、そのやり方が生産性に
つながる事など無かった。むしろ、同僚たちは内心では毛嫌いし、できるだけ仕事が
回ってこないように、非協力的に過ごしていた。上司はマイクロマネジメントばかり
していて、仕事の意義や大きな方針など、何一つ言わない。同僚たちは、仕事が単なる
こなすべき作業と化していた。私はこれを不本意に思っていた。

さて、その同僚のうちの一人である彼だが、彼はまた違った形で不本意であった。
彼は低い役職につき、その上の役職になるには、上司から認められることが必要だった。
言われていることは、結果がでたら昇進させるという事で。しかし、彼の実力は客観的にみて、
やや厳しく思えた。そこで、私は彼に仕事を教え、結果が出るようにと促した。しかし、
彼は積極的ではない。ここで私はひっかかりを覚えることになる。

自分の状況に不満があり、そして改善手段がある。ならばそれをするだけじゃないかと
私は思う。しかし彼は一向に何もしない。本人聞くと、それでも精一杯やっているという。
それならば仕方ないだろう。

だが、彼と話をする度に、出てくるのは自分の不遇であり、かつてが如何に素晴らしかったか
それだけなのだ。彼には<今ここ>をみる事がすっぽりと抜けていたのだ。そして<これから>
について考えるということが。

彼はどこか自己卑下的である。要するに自信がない。とりわけ仕事に対して。だから、
自分の処遇に不満はあるものの、いざ昇進したら、うまくできるかどうかに自信がない。
そして、それを無理だと思っているがために、今の状況に甘んじている。

私はどんな努力も報われるとか、どんな人もできるようになるとは考えない。だから、
彼が無理だと思い、それが達成されないのだと自己判断するなら、それでもいいと思う。
何も問題はない。だが、問題があるのは、それを受け入れきれないことだ。

彼は多少、年齢がいっている。それがためにプライドがある。この自己イメージと、
自分の実力不足が乖離し、どっちつかずになっているのだった。そして、もっと自分が
若かったら、やり直せたら実力不足が解消できるのにと思っている。

つまり、プライド(自己評価) vs 実力問題ー過去 である。

そして、彼はこの認知的不協和を乗り越えるために、哲学を援用して、自己武装する。
諦めることをなんとか自分に言い聞かしているのだ。自分のプライドをなんとか引き下げ、
実際のものに近づけようと努力をするのだ。その際に、出てくるのが自己卑下である。

自らのプライドを押し下げるという奇っ怪な手段は彼の特徴であるが、いじらしくもある。
一方でアホらしくもある。実力をあげればいいじゃないかと思うからだ。

そして、プライドを切り捨てようとする際に、どうしても自己卑下という愚痴がこぼれる。
それはそうだろう。誰しも自分を低く見積もろうと努力などしない。そうなってしまうか、
そうさせてしまうか、そういう類の話に対して、彼は自ら進んで、そちらに行こうとする。

更にそこから裏返り、その事を自慢してくるのである。「俺は自分のプライドを低くする
という忍耐力があるのだ」と。もはや泥沼化してきているのかもしれない。その事に
なんの意味もないと分からなくなっているのだ。手段に溺れて目的を見失っているのだ。

ややこしく見える彼の問題点。だが、紐解けば実にシンプルである。要するに現状の
自分を認められないのである。自分はこんなもんじゃないという観念と、一方で、
現状の自分は評価されないのだという事実。ただ、それを受け止められない。

彼は止まった時を生きている。




私は、彼の苦しさを理解しようと試みた。そして、次第に彼を疎ましく思った。
実を言えば、彼は苦しさを糧に生きているからなのだ。些か理解に苦しむが、
私が理解したのは、彼は苦しいから生きて行けるのである。だから、苦しみから開放されて
はいけないのだった。だから、私の助言など、どうでも良かったのである。

アドラーは言う。人の行動には<目的>があるのだと。因果律を逆にみるアドラーの視点
からみれば、彼はすなわち苦しみたいから、現状に固執しているのだといえる。
普通に考えたら、バカみたいだろう。だが、そういう人もいるのだ。

もっとも俗っぽく考えれば、苦しみを自分に与えることで、悲劇のヒーローになれる
からだ。自分が特別になれる。もっと同情的にみれば、苦しさをもっている事で、
現状を肯定できるからだ。それが希望になっている可能性がある。もっと病的にみれば、
置かれている状況に依存しているとも言えるだろう。

そして、理解しようとしてくれる他者には現状の悪さを訴え、自分の置かれた状態を肯定
して貰おうと試みる。その事で悲劇の主役になれる。一方で、自分を理解しない人は、
あいつらは、分かってないと一蹴する。そして見下す事で、心のバランスを保つのだ。

だから、私が状況を解決する手段として、仕事のやり方を教えても、何も変わらず、
また、対人関係の悪さについて、ひとまず挨拶でもすれば良いと、言っても行動を
変えないのだ。それは、すべからく彼が本心では望む結果ではないからだ。

彼は自分の実力不足が露呈し、真の意味で彼が求めたものが手に入らないことを恐れている。
だから、状況が動くことが困るのである。

様々な形で彼をサポートしてきたつもりだった。それは私の長所でもあり短所であるが、
頼まれるとつい助けてしまうのである。きっと良い顔をしたい人間なのだ。優しさの
証明をしたくなるのだ。自分にはそういうこすい所がある。

私は結局、その職場を離れた。自分の生きる目的にそぐわなかったからだ。
だが、彼の事を気にしていた。おそらくどこか似ている部分があるのだろう。
離職後も彼との関係は続いていた。


いざ離れてみると、彼と共有していた組織の悪状況など、どうでも良くなり、
ましてや元上司についても、私にはもうほとんど関係がない。だが、彼と会う度に、
その部分に話がフォーカスされ、うんざりし、同時に、彼からの自己卑下にどうにも
賛同できなくなってきたのだ。

状態を変えるために行動した私と、現状に固執し続ける彼。

そろそろ無理なんじゃないか。そう思えてきたのだ。
数年間も何も変わらない彼の言動にどうして、私が毎回、同情せねばならないのか。
同じ職場にいたときは、互いに愚痴をいうという形で依存していた。だが、今となっては
関わる動機を失いつつある。

彼の現状を良くする方法は明確であろう。一つはまず自分の現状を認めることだ。
実力不足も、それがために評価されないことも。そして、哲学的による自己防衛をやめる
ことだ。現状の自分を防備するために、理論武装した所で、その現状に不満があるのは、
彼自身ではないか。それを分かっていないのだ。

その上で、できる職能を伸ばせばいい。できることを増やしていけばいい。
もう実力は伴ないのかも知れないが、それは日々の喜びになる。そして、それがいずれ
評価につながるかもしれない。別に優れた人になれとかそういうことではない。毎日、
できることをやれば、それで十分じゃないか。そういう態度を示していけば、周りは
自ずと手伝ってくれる。頑張っている人を応援したいのは誰もが同じなのだ。たとえ、
それが昇進につながらなくても、できることが増える事、理解が増すことは、楽しい
ことであろう。

実力不足から目をそむけ、その不足の原因を過去に求める。そうして理屈で、現状に
固執する。ようは現状否認なのだ。認めたくないのだ。正確には、部分的に認めた上で、
「所詮、俺なんて・・・」と嘯くのだった。私にそれをいう事で、彼は何を求めていた
のか。彼の現状肯定の手伝いをする事だったろうか。それも分かる。そういう気分になる
歳なのしれないし、そういう事で自分を慰めたいのだろう。

人は弱いものだ。だから楽な方へと流れる。その流れに身を任せるという現状肯定。
それが彼の言い分だった。

だが、私は彼がもっと健全な方がよいとつくづく思っていた。端的にいえば、彼のやっている、
プライドをすり潰す事と、自己卑下するという事、実力不足から目を逸らすという事、
これらに全く賛同できなくなっていた。

強くあれなんて言わない。ただ、出来ることをやればいい。それ以外に何が出来るという
のか。弱さというものを肯定して、虚無に生きようとする。それを強さと勘違いしている。
全くもって駄目じゃないか。ダメな奴が言いそうな事をただ、高尚にみせているだけじゃないか。

もっと別の考えもある。職場では仕事の出来ない自分でもいい。プライベートで何か、
自分らしさを発揮できれば、それでも構わないだろう。だが、彼にはなにもない。
一体なにがしたいんだろう? もっと強かに生きればいい。それがロートルの知恵ではないか。

そういうものを期待していた私はただ、ひたすらにがっかりしたのだった。
結局、何も分かっていないのだ、この人は。


私は気持ちをぶつけることにしたのだ。だが、それを失敗したのだった。

今まで、ちいさな助言を繰り返したが、彼はそもそも変えたくないのだった。
アドラーを引用すれば、<可愛そうな私>や<悪い相手>の話に終始していた。
一番肝心なのは<これからどうするか>である。だから、これからどうするかに向かう
ために、まずは、彼の固執した考えを否定する他ない。

だが、ふと思ったのである。なんで私が頑張って彼の更生を考えているのか?
友人だと思っていたからであったが、果たして彼は友人なのだろうか。ただ愚痴を言い合うだけ
の元同僚じゃないのか? そう感じた瞬間に、わけもわからない感情が湧いたのだ。


今まで、彼から聞いてきた愚痴や自己卑下に対して、怒りが出てきたのだ。
これがどういう事か分からない。だが、猛烈に彼に対して、怒りという感情が湧いた。

彼の情けなさに、彼の変わらなさに、彼のもどかしさに。私の単なる言いがかりなのだろうか。
自分の行為が全て不毛だと思った時、人はこのような怒りを抱くのか。

お前、馬鹿じゃないか?と思い切りぶつけてしまった。


もちろん、それが決定的である事は分かっていた。だが、彼への同情はいつの間にか
怒りに転化したのだった。そして、なんどかのメールのやり取りの後、絶交状態になった。

やり取りの最中に考え直して、酷いことを言った事を詫た。だが、また怒りにまかせた
メールを送ったりしてしまった。

冷静に考えてみれば、私の独りよがりである。彼はただ自分を守るために必死であり、
その心情を私に吐露しただけだった。それを今まで、ただ受け流してきたつもりだった。

自分の中の悪が輪郭をもった瞬間であった。
押し付けの親切、お節介は空回りし、その不満足感は彼に対する怒りに転化した。

大事なことなので、私も逃げずにもう一歩つめてみたい。


結局、私は善意という名のもとに、彼に対して優位に立ちたかっただけなのではないか?
そういう側面は否めない。そして、自分の優しさを確認したかっただけではないか。
そのために彼を利用しようとした。だが、失敗した。彼は何も変わらなかったのだ。
だから、彼のせいにして、彼に怒りをぶつけたのではないか? 酷いのは私ではないか。

ハラスメント行為だったのではないか。そんな疑念があるのだ。

恐ろしいのは、善意がお節介に変わり、それがハラスメントに発展した事だ。
動機はきっと正しい。そして道筋も正しい。そしてハラスメントも正しい。いや正しくない。


一方で、彼の責はあるのか。彼の行動を考え直す。すると、とある事に気がつく。
彼の自己卑下的言動、同情を誘う行為、これらは本質的には攻撃ではないか?と。

相手に可哀相とか同情をかう行為は、こちらを疲弊させる。何かを彼は吸い取っている。
その現れである見かけとは裏腹に、彼は私に「攻撃」をし続けていたのだ。私の善意から
彼は同情心を吸い取っていた。そのようにして、我々は関係性を築いていた。彼は私を
利用していたのだ。自己肯定のために。


つまり、一方の善意という優性立場の確保の欲求と、自己防衛として他者利用の欲求が
噛み合っている時は、一見するとまともなコミュニケーションが起こっているような錯覚に
なるという事だ。そして、状況が変化した途端に、それはどちらかがどちらかを利用する
というアンバランスさが露呈するのだ。

そしてこれはハラスメントの一要因となりえる。潜在的な構造に由来するのがハラスメント
なのかもしれない。そうだとしたら、人が関係するとハラスメントは生じ得るという事だ。

ここまで来て、私ははっきりと自覚した。つまり彼は私は利用していたのだ。
それがどうやら限界にきたという事である。職を離れた私にとって、彼はもはや利用する
点がなくなりつつあり、彼は変わらず私を利用しようとしていたのだろう。

それを無意識に察したのだ。彼に対して急激にもやもやしたのは、彼が私を利用している
と感じたことなのだ。私が怒りを覚えたのは、自分を守るための行動だったのだ。

酷いという自己嫌悪は、私のライフスタイルなのだろう。人には親切にしろというのが、
私のアイデンティティなのだ。それに逆らうのだ、自分の心が動揺するはずなのだ。
親切は無償が基本だ。そこに見返りは求めない。彼に対する小さなアドバイスはそうやって
なされたものだ。仕事の手伝いも。損得などどうでもいいではないか。彼がそれで助かるので
あれば。

だが、違った。彼は何も私の言うことなど聞いていないし、何も変わらなかった。
なにも変わらないことをむしろ誇りにしていた。可哀相な私、それが彼の居場所だったのだ。
そして、そのために私の善意は利用されていた。それでも良いという事も出来る。だが、
何か一線を超えたのだ。私は、もはや彼に利用されることに耐えられなかった。それは
怒りとして彼に向かった。彼の態度を全面的に否定した。彼はきっと狼狽しただろう。
突如として私は怒ったのだ。


私は猛烈に彼の考えを否定した。そして行動を変えろと迫った。彼がする自己卑下を
変えろと。それが原因だと思っていたからだ。自分に自信をもてと。でなければ、いつも
自己卑下思考で生きることになるぞと。そんな事、出来ないと分かっているのにだ。

どうせ最後なのだから、彼に言いたいことをいおうと決意し、言いたいことをおよそ
言い切った。最後のお節介である。

見返りを求めたかもしれない。親切が役立つと。それをないがしろにされたことに腹を
立てた面はあるのだろう。だが、そもそもの原因は、我々の関係がややおかしかったのだ。
変な形で、互いに依存する部分があったのだろう。そして、それが今や解消されたのだ。

おそらく彼に会うことはなかろう。何か縁がない限りは。とても残念に思う。
もっと健全な形で友人関係を築きたかった。彼はそれに値する人だったと思うのだ。
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この考察の続きのような話。
ただ、“彼”が家族のケース…。

私は、彼女が自己卑下を捨て、どうすれば自信を持って生きられるのかを考えた。提案した方法は、弁護士になるための取り組みだ。
ただ、彼女は自分が短大の家政科しか出ていないこともあり、その提案にも否定的だった。(端折って…)
旧試験を1回で合格した彼女は、ものの見方や考え方が変わり、まるで別人のようになった。つまり、自己卑下をなくすことに成功し、自分に自信が持てるようになったのだ。
彼女は、社会的に高い身分を身につけ、意気揚々と活躍しはじめた。
委員会活動に積極的に参加しだした頃だろうか、彼女は私を罵るようになった。それは、私の職種や家庭内でのふるまい、人格に至るまで、彼女独特の価値基準で、ほぼ毎日行われる。
そして、委員会で要職に就くほどの実力と自信を身につけた彼女は、私に無断で家を購入した。理由は「私を自由にしてあげるため」だという。(続く…)
by お名前(必須) (2019-04-09 01:43) 

D-Blue

コメント有難うございます。とても考えさせられます。

おこがましくも、ふと思ったのは、
自己卑下していた時代の何かを取り戻そうとしているのかと。

自己卑下の背後にはプライドがあります。優越したいという思いが、
あるからこそ自己卑下するんですよね。現実と理想の乖離です。

その自己卑下していた人が、いざ優越的立場に立つとどうなるのか、
そういう事例なのかと思いました。つまり、同じ心理の表裏ではない
かと。自己卑下を引き起こす心理は変わってないのかもしれません。

自分の状況がマイナスにふれれば、自己卑下になり、
プラスにふれれば、他者への優越的態度に変わる。
そんな風に感じました。

「あなたのため」という言明も気になります。

私は彼のためという行為(助言)が、自己反省すると、ものすごい
横暴に思えたので、彼と関わるのはやめたという経緯があります。
互いにとって良くない関係になってしまっているからです。

もし貴方が状況を苦慮されているとしたら、ご苦労お察し致します。
私には処方箋は分かりません。ですが、私の経験からいえるのは、
ひとまず急激な解決や感情的なやり取りは避けて、じっくりと自分
意見を表明する事をおすすめします。
by D-Blue (2019-04-10 15:47) 

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