2021年の抱負 [その他]

本年もよろしくお願い致します。

さて、2021年がスタートした。
本来であれば、オリンピックの余波で世間は浮かれていた所だろう。
だが、現実はコロナ禍である。そうしたなかでの正月になった。

備忘録的に今の状態を残しておこう。

結局のところ、安倍政権の歪みは相変わらず残ったままであり、
むしろ、あの7年半がとてつもなくこれからの未来に影響する。
振り返れば、小泉政権時からの問題でもあった。

社会は若者の搾取ののぞみ、それを実行した。
若者たちはかつての大人が得られる経済的な見返りもなく、
一労働者として、社会に吸収された。そして、それなりの数の若者たちは、
諦めを受け入れてきた。増えすぎた老人たちの世話という異常さをだ。

怒れる若者は本当にわずかだ。
多くの若者は、完全にスポイルされ、政治に無関心をきめこみ、
貧しい中でなんとか暮らしていればそれでいいやと思ったのだろうか。
かつての大人と同じだけの仕事をしながら、彼らの半分から二分の三程度の給与しか
もらえない非正規として働く。これは完全に新しい階層となってしまった。
そして、彼らの一部は結婚や子育てから遠ざかってしまった。

一方で、老人たちはのほほんと暮らしている。
かつて払った少額の年金保険料に、大きな利子がついて支払われている。
この額は、人によっては今の若者がフルで働くより多い。

私には、明らかな矛盾を感じる。若者はわざわざ自分の給与を減らして、
老人たちを養うどころか、自分たちより多くあげている。
世代間搾取が公然と行われているのだが、権力を持つ人間は誰もそれを口にしない。

そして、こうやって私が指摘しても、若者たちは調べもしないし、政治への無関心を
貫く。若者の給与明細からひきぬかれる保険料や年金は、あからさまな不公平であると
教えてもだ。

これを取り戻そうと犯罪をする連中もいる。いわゆるオレオレ詐欺だ。
善良な老人たちが、犯罪者に騙されているというイメージがつきものだが、
その金の流れだけをみれば、金が余っている老人から、若者へ金を還流しているとも
言える。つまり、もともとの所有者に非合法で戻されているのである。むろん、
犯罪は駄目だ。犯罪にあうのも、あわせるのも駄目である。

こんなものが成り立つのもとかく、現状の年金制度が不備だからだ。
そして、システムとして破綻しているからだ。今、保険料を払っている若者は、
将来だれが、自分たちの老後資金を払ってくれると思っているのだろう?

今生まれてなければならない子どもたちだろうに。だが、年々、その数を減らしている。
今の20〜40代が老人になった時、果たして日本人がいるというのか?

昨今の御老体たちは、それなら海外から呼べば良いと、移民を受け入れている。
もちろん、制限付きだ。だが、事実上、日本は移民国である。
彼らは、日本国内に別のグループを形成する。日本とは異なる文化のまま日本暮らすのだ。

労働者として搾取しておいて、時間が経てば追い出せば良いという異常さ。
日本はとかくこの方面については、極悪非道である。よそ者に徹底して厳しい。

彼らは年金を払ってくれるだろうか? そも日本語を話してくれるだろうか?
否。社会システムは彼らを放置し、教育も施さないからだ。そんな彼らが大きくなった時、
日本国内はどうなるのだろうか。明らかにこれからの社会問題の種である。

問題が小さいからと政府は無視を決め込んでいるが、早晩大きな問題となって現れるだろう。
今のうちに手当をすれば、軽症だが、あと30年後になれば、巨大な障壁となってしまう。

結局、わかっているけど、手が回らないので放置し、大問題を発生させては、
先送りにし続ける。これが日本の政治であり、既得権益である体制側の論理である。
搾取しておいて、あとは知らぬという厚かましい連中である。

私はなぜに多くの国民がこのシステムを正常とおもって参加しているのか疑問で仕方がない。
むろん、参加拒否はかなり困難である。実質上、海外移住するくらいしか手がない。


とにかくだ、2021年は、決して希望の始まりなどではない。
むしろ社会はますます混迷を深めていくだろう。コロナ禍において、ハリボテにしてあった
物事の皮が剥がれおち、どうしょうもない内実が湧き出してくるだろう。

それにどう対処するのかを委任しているのが政治や官僚だが、彼らは自分たちのことだけを
考えて生きている。一方で、庶民も自分たちの事だけをみて生きている。誰も社会など
どうでも良いのだ。そうやって無関心を貫く事で、ますます生きづらい日本になる。

もはや手遅れかとも思う。この10年ブログを書き続けてきて、果たして政治的に良いと
感じたことあっただろうか。おそらく皆無に等しい。経済的にいいことがあっただろうか、
これまた皆無だろう。

不遜であるが、述べさせてもらおう。
このコロナ禍は、私には幸いな出来事だと思うのだ。多くの人が犠牲になっていること、
それは大変嘆かわしい事である。犠牲になった方々にご冥福をお祈りしたい。
一方で、誰も止めることが出来なかった社会の運行を、誰のせいでもない形で、
水を差す事に成功したのである。これは誰にも出来ない事であった。

コロナ禍は、この災いという幸福から、再度生活を見直し、何が大事なのかを考え直す
きっかけになったと思う。仕事しすぎる事は、自分の首を締めている事に等しいと気がついたはずだ。
一方で、仕事に依存しきって生きている事にも気がついたはずだ。それが失われると、
こんなにも大変なのだと。そしてそれが本来の姿なのだと。金に依存して生きていると、
結局、人間としての尊厳を売り払うしか無くなってしまう。

では、希望はないのか。
私が見聞きするところ、現状に異変を感じて行動している人たちは少数ではあるが増えてきている。
彼らこそが、これからの希望である。決して、都会で暮らす金の亡者たちではない。

生産を自分たちの手に引き寄せ、拡大再生産を目指さなくても良い状態を作り出すこと。
これこそが幸福への道である。他者を搾取し続けなければ維持できない暮らしとは一体
なんだというのだろう。

持続可能な社会などと、資本主義体制下で何をぬかすのかと思う。
語義矛盾も甚だしいではないか。資本主義とは搾取構造を前提とするのだ。それは人だけではない、
環境の搾取もある。山を削り、河川を汚し、時に原発で土地を壊す。そうでもしないと、
維持できない暮らしなのだ。人は賢いというが、私には甚だ疑問である。
無理なのに、無理ではないと言い続ける事や、今は大丈夫だからと、将来を切り捨てる態度。

それでも、日本株式会社の社員たちは、現状維持を欲する。住宅ローンがあるし、
家族を養わなければならないからだ。事情はわかる。周りがやっているから、それが普通だから、
幸福だからと、行ったのだ。そして、そのバーターが苦しい仕事であり、辞められない仕事である。
つまり幸福には対価があるという事になる。

だが果たしてそうか? 結局何も考えていなかっただけではないか。

人生が苦しい。そうあえぐ人の多くは、自らの考えで自分を追い込んでいる。
自分描く、理想状態から、逸脱した状態に戸惑い焦るのだ。だが、その理想状態とは
誰が決めたのだ? そしてそれは手放せないほど、大事なものなのか? それは欺瞞だ。

ただ得をしたかっただけだろう? だったら損したって不思議じゃない。そういうゲームに
乗ったのは誰だったのか。自分は損をしないと思いこんでいる人が多すぎるし、損をしない
ような労働者など誰もいないのだ。それは隠蔽されているだけのことである。

我々はただ、生まれて生きて死ぬだけである。そこに道義などあってたまるか。

我々には意思がある。どう生きるかを模索する意思である。
置かれている現状がどれほど悲惨でも、意思を持つことは可能だ。
そして、意思を持つからこそ、我々の希望を持てるのである。

その意思を放棄しておいて、状況にあえぐのは自由である、とめはしない。
だが、その苦しみの殆どは、どうでもよいもので構成されていると再考すべきである。

困ったらどうしたらいいのか。
誰かに頼ればいい。助けてと外聞もなく叫べば良い。人はそもそもそういう存在だ。
そうやって人は生きてきたのだ。誰が、自分で稼がないと駄目だと決めたというのか。

さて、本当に散文してきたので、本年の抱負。
状況は相変わらずだが、私は行動したいと思う。トライ&エラーだ。
今まで形成してきた自分という枠をわずかでも崩す事。それが今年の目標である。
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