失恋の痛みー回復の物語ー [恋愛]

失恋とは、身近にありふれた出来事である。
よくある失恋への対処は、

1、仕事(何か)をするー逃避
2、次の恋人を作るー代替
3、時間が必要ー忘却

これらの手段が良く考慮される。
おそらくだが、これは真実である。人が失恋に際して出来ることは、
このような3つの事のみなのだろう。実際、世界的・歴史的にも明らかである。

もちろん、その状態になってみればわかるが、
上記の対処法は、そんなにすんなりいかない。
思いが強いほど、大抵は七転八倒するのであるし、
下手をすると、命を失うような事態にだって発展するのである。

失恋において一番の問題は、そのやり切れなさである。
後悔の念というのは、とてつもなく強く、これがこじれると体を悪くする。

恋愛においては脳の作用がある。少なくとも特定のペプチドの増量が知られている。
おそらく人間も本能的に規定されていて、ある条件下において、特定の解発が
与えられると生理的に恋と呼ばれる状態になるのだと推測される。
つまり、恋とは、人類と呼ばれる霊長類動物における本能的行動と呼べる。

本能的行動であるから、その強さは計り知れない。
その相手のことをしきりに考えてしまうのである。

恋は盲目とよくいったもので、恋した相手には、精神的服従をしてしまう。
このような行動変化がどうして特定の相手に起こるかは明らかではないが、
少なからず、人類が恋を獲得した時から、絶えず人類の間に起こってきた
現象であり、それがために、人は子孫を残す行動をドライブさせてきた。
おそらく恋とは人をして子供を作らせるための生理的行動である。

だから、恋はときおりおかしなものにも発動される。
これは雛が幼少期に側を通り過ぎる適当なサイズの動くものを親だと
勘違いするのと同じようなことである。ある枠組みに合致する対象がいれば、
人は恋を発動するのである。

さて、恋が脳内現象であるならば、その対象の喪失は相当な痛手である。
恋の対象にある日、別れを告げられたなら、その生理学的な作用は
もはや空回りするしかない。なぜなら、相手に気にいられることこそ、
恋の欲求の最大目的だからである。それが不可能になった場合に、
どう対処するのかなど、問うだけ無駄である。

よって、先の3つの戦略は、恋愛<脳>になっている個人の脳状態の
変遷を待つという理にかなったものである。ようするに解発によって
起こってしまった脳機能回路を抑えるということである。

1、逃避
特定の機能が亢進しているならば、それを抑える手段として、
違う部分の機能を亢進させるというのが一つの手段である。
恋愛が欲求する脳状態から、違うことを意図的に行う事で、
恋愛に陥っている脳から脱却をはかるということだ。

2、代替
次の恋人を見つけるというのは、欲求の矛先を違う相手に向けることで、
気を紛らわすという作戦である。これは恋愛脳を保持したままであり、
対象をすり替えるという荒業である。荒業であるから、大抵はうまくいかない。
自己評価が下がっている際は判断力もにぶっている。相手がたまたま良い人で
あることも当然あるが、恋は特定の条件の相手に対して起こる作用であるから
単純に代替できるものではないのである。冷静になると齟齬が明らかになって、
別れが発生することも少なくない。

3、忘却
恋愛脳状態であることが失恋の苦しさであるならば、その状態からシフトさせて
やれば良い。残念ながら現代においても、そのようなことに対応する薬は見つかって
いないのだが、これを天然に行うのが「時間をかけて忘れる」というものだ。
どうやら、生物には崩れたバランスを回復する機能がそなわっている。その回復
のための機能は数日などという短いスパンの事柄ではなく、もっと長い時間を要する。
恋愛脳は形成されるとよほどか堅牢らしく、その機能を落とすには短くとも半年、
長くて数年程度かかるらしい。多くの事例がその程度の時間スパンを指し示している。
仕事などに打ち込むというもの、結局は、忘却のための助けなのかもしれない。

よって、恋愛の機能亢進が起こってしまった脳を抑え込むには、
現実的は時間によって解決するしかない。逆に言えば時間が経てば、
恋愛脳ではなくなるのである。これは事実であり、誰しもが経験することである。
だから恋愛結婚における関係性は、恋愛期の状態を基本してはならない。
それは互いに少し頭が変になっていると考えるべきなのだ。

失恋の緩和には、まずは忘却なのである。だから、相手からもらったプレゼントや
写真などを全て処分するなどはとても良い手段となる。人は外部からの刺激で思考が
スタートする。だから、周りにかつての恋人を思い出させる何かがある場合は、
うっかりと思い出されてしまって、忘れるための時間が余計にかかるのである。

それから、失恋状態の心理として自己評価の低下があげられる。
自分は捨てられたのだから、取るに足りない人間であると考えたりする。
これは、失恋上やむを得ないのだが、この時にどう自分を助けるかはのちの
生活に大きな影響を与える。

自己評価の低下は否めないので、これに対する考えは二つに絞られる。
一つは、相手を貶めることである。もう一つは、自分を貶めることである。

自分が捨てられたという事実を真っ向から捉えると、とても耐えきれない場合、
その認知的不協和は、相手への感情となって現れる。つまり、自分を捨てるような
相手が悪いのだと考えるのである。自己評価を落とさないための方便となるが、
これが実際の行動として出ると、社会的トラブルを引き起こす要因となる。

例えば、ストーカーである。別れた元恋人が恨みを募らせる。これはよくあることだ。
振った側は、このような衝動を抱かせないために誠意をみせるしかないが、
現代ではこの対処を甘く見る人が増えたように思う。恋愛自体が近年の流行であるから、
その流行における身の処し方は学ぶしかない。振った相手を憎むというのは、すべからく
自己評価に対する認知的不協和の解消に過ぎない。せめて、これを「あんな奴ろくでも
なかったんだ」という悪態にて気持ちを収めてもらいたいものである。

次に自己を責める場合である。自己評価の低下をまともに受け止めると自己を責めること
になる。そして更に自己評価を落とすことになる。捨てられた自分という考えに囚われて
いると、そのように自分を基礎づけてしまうのだ。すると自己評価が下がった人は、
私なんてどうでも良いと自暴自棄になりがちである。これに拍車がかかれば、命を絶つ
人も現れるだろう。それほどまでに、自己評価の低下は苦しいのである。

自己評価の低下が本当に苦しいため、別れた恋人に体を投げ出す女性もいる。
もしかすると私にもう一度振り向いてくれるかもしれないという望みが、
セフレという妥協点にいきつくことだってある。本人が望めば仕方がないのかもしれない。
だが、そのような行為は更に自己評価を低下させてしまうことに気がつく必要がある。

また下がった自己評価を他者によって穴埋めする場合がある。これはすぐに新しく
恋人を作る場合のことを指す。下がった自己評価をサポートするのは、あくまでも
自己である。他者によって自己評価を支えてもらった人の人生はひどいものになる
可能性が高い。なぜなら、自己評価の基準値を下げたままにしてしまうからである。
自己評価を他者によって埋めた人は、他者に心理的依存を行うようになる。その依存は
関係がうまくいっているときは良いが、人間関係の波によって、他者からの心理的
支援を失うこともある。そのときに、実はまだ回復していていない低下した自己評価と
また改めて向き合う羽目になるのである。

失恋は当たり前のように誰にでも起こる。あなたが特別なわけではない。
その特別ではないことにどうしても拘泥してしまう気持ちもわかる。実に良くわかる。
だから、今すぐに立ち直れとも、誰かほかの人を探せとも言わない。それが無力である
ことは既に述べた。失恋をしているあなたには、恋愛脳をあくまで沈静化する期間を
設けてほしいのだ。それはあなたが悪いと自己を責める時間ではない。あなたが本来
持つ自己尊厳を取り戻し、次なる恋愛に向かって進むための準備期間なのである。

失恋には安易な回復の物語は存在しない。一定の時間をかけてゆっくり回復するのみ
なのだ。そして多くの経験者は語る。あれは今となっては良い思い出であると。
そう、失恋の痛みも過ぎれば、過去になり、思い出となる。それもまた事実である。
人間とはそう弱くはできていないのである。

失恋して心痛めている人達には、ぜひとも自分を大事にしてもらいたい。
自分を大事にするという訓練の場なのだと思ってもらいたい。失恋からの回復に
よって人は一回り大きくなる。それは決して悪い事ではない。このような痛みを
経験する事は役立つのだと思いたいではないか。

焦らずに、自己回復をはかる。それが失恋からの回復物語になるのだ。

性問題ー恋とはー [恋愛]

「女性の冷感症」シュテーケル著

精神分析の祖の一人であるシュテーケルの本である。
この本のテーマは女性の性における男との格闘であるが、
その内実は、恋愛指南書の体をなす。
学術的にみるとあまりに文学的素養がありすぎるきらいがあるが、
内容は現代においてもなお興味深い。

ひとつには、性の問題は非常に根深い。
誰しもが正常な社会生活を送る場合に避けて通れない課題だからだ。
多くの女性たちは、男たちによる「子供を産む機械」といった誹りを
跳ね返すべく活動を行ってきた。ウーマンリブなどと呼ばれる活動と
思想を体現するフェミニストと呼ばれる人々がその代表だ。

実際にフェミニスト信仰において、社会に多くの女性たちが進出した。
このこと自体に異議を唱えるつもりはない。能力のある人々が仕事をすればよい。
一方で、それにともなう軋轢もある。社会進出した女性が増えれば、その仕事から
あぶれた男がいるはずである。家事手伝いの男の存在を現在の社会では許さない。
年長者は彼らをニートと呼んだり引きこもりと呼ぶ。彼らはある種の社会競争に
おいて、社会から取り残されたもしくは、その立場を選んだ人々である。
かつては、家事手伝いとして女性が家にいたのと大した差はないはずである。
現に家事をして過ごす若い男がいるのである。現実とは奇妙で、誰も仕事量が
減らずに、男用以外に女性用があり、その部分に女性が進出したかのように
記述されるが、いかんせん無理があろう。全体がバランスしているのである。
社会は過去をどうしても美化しがちなのである。

さて、女性が結婚というものにおける役割として、子供を産むということがある。
現代では、子供を産むという大義名分を得ること以外で、結婚を望む意義はほとんどない。
もちろん、関係性の永続的契約という意味もあるが、それは愛情を保証するものではない。
結婚にはむしろ愛情などといった本能的な作用は不要である。一つの社会契約に過ぎない。

女性が望むと望まざると、性の問題は訪れる。シュテーケルは女性の冷感症つまり
性的快感の欠如を意思の力によるものとみなす。少なくとも潜在的に冷感であることは
ごく例外的な症例とみなすわけである。つまり女性が感じにくいというのは、なんらかの
後天的作用があると主張するわけだ。

彼をして、この原因を精神的外傷とよぶ。現在よく口にされるトラウマである。
トラウマの需要なポイントは、後天的であるということだ。つまり経験依存的な
嫌悪感情の獲得である。この嫌悪感情が性に向かって発動しているのが冷感症という
わけである。

「恨み」という概念を導入する。恨みは精神的外傷により発生する。少なくとも、
何らかの心理的抵抗によって「恨み」を晴らそうとする。その一つの手段が感じないという
行動である。征服欲と服従欲があり、征服欲が強くなるにつれ、女性は感じなくなる。
感じるとはとどのつまり、征服されたことを意味し、その敗北感を払しょくするには、
それに対抗する行為を行う。つまり感じないようにするということである。
そして性嫌悪として表現されるのである。

恋愛とは決して快だけではない。恋愛に身を投じると相手のために、すべてをなげうっても
良いと感じてしまうほどの感情を持つ。これは自我を捨てて他者に同化しようといる作用で
もある。これには怖さを伴う。この自我の滅却よりも自我の保存を維持しようとすると、
どうしても征服されるわけにはいかなくなる。征服されることに喜びを見いだせない場合、
征服された証拠を残さないようにするという行為にでる。それが性嫌悪である。

つまり自己愛が強くなるほどに、性嫌悪が増すということになる。自我が他者に支配される
という恐怖と戦っているのである。すると、そのような女性は征服できる相手を探す。少なくとも
自己が上位にたっていると思える相手に身をゆだねることになる。これならば、自己を保存した
恋愛が可能だと考えるからだ。だが、ゆがんだ心では大事なことは救えない。その関係は本当の
意味での恋愛ではないからである。

誰かに身をゆだねてしまいたいという娼婦的思想と、自己のコントロールが利く関係性という
修道女的思想の間に立ち、女性は時に修道女的思想をとることがある。このようにして得た
関係には、残念ながら素晴らしい性愛は生まれない。なぜなら、性愛は自我のコントロール下
ではその真価を発揮しないからである。

多くの人がどのように感じているかはわからないが、性愛に満足できない夫婦間はすべからく
滑稽になる。現実として、そのような充実した関係性を持つことは案外に難しい。特に現代
女性たちは、男を恨む可能性に満ちている。傷ついた魂は、その傷の忘却するが、決して
忘れていない。その無意識に潜む恐怖感や絶望感が恨みとなって行動に表れるのだ。

男性を恨むことなく、その恋愛に身をゆだねられた女性は幸福である。
このようなことは、かつてごく普通なことだったに違いない。
現代は、「自我の時代」である。確固たる自我があると考え、その自我に影響を及ぼすものを
排除しようとするのが現代である。この現代における自我への執着は、そのまま性愛への
抵抗となる。恋愛とは服従欲の表れにも関わらず、それを承諾しない心の矛盾が、
人々をして性愛を複雑にしているのである。

女性は今なお、聖母か娼婦かの間で悩める。本質はどちらかであるということではない。
どちらでもあるということだ。かつてのように、娼婦である自己を滅却する必要はない。
本来の人のあり方に立ち返るのであれば、引き裂かれた本性を取り戻せばよいのである。

非婚のすすめー森永卓郎 [恋愛]

けっして、結婚を勧めないという本ではない。
むしろ、ある種の合理性が働いて、現在の若者たちはシングルでいるという切り口である。

独り身は損であると考えがちだが、それはかつての終身雇用制度などの
現在の経済を事情をとりまく状況が不変であった場合の話であり、
現代、そしてこれからの未来は、結婚という制度はひとつのオプションと
なるというストーリーを展開する。

特に興味深いのは、人にとって重要な要素として、「相互依存、相互理解、性愛」
という三つの頂点を作り、それぞれの間に
「仕事(相互依存ー相互理解)、恋愛(相互理解ー性愛)、夫婦愛(性愛ー相互依存)」
という役割を置くことで、結婚というものへの評価を行えるという部分である。

相互依存とは、つまり「家族」的なものである。
誰かに頼めば、車で送ってもらえるとか、掃除や洗濯してもらうなど、
生活における役割分担のことである。

相互理解とは、私とはこういう人であると理解されることである。
好き嫌いなどの好みなどを受け入れてもらうことである。

性愛は、そのままセックスのことである。
通常、セックスをすることは夫婦という形態に落とし込まれている。

著者の主張は、これらのトータルの満足度が大きくなるようにするというのが、
結局、結婚における幸せであるというものである。


近年の核家族とは、この3つの軸を全て一人の人間から得るという前提の元に
なりたっている。一方誰しも経験がすることだが、相互理解の満足度は、
数年たつとアッと言う間にゼロになってゆく。つまり相手を理解してしまうという
ことである。よって、恋愛の初期は十分にあった相互理解への満足度が夫婦生活に
よって無くなってしまうわけだ。一方で、相互依存は伸びる。
一緒に暮らすことで、何を求めているかが効率的に理解されるようになるためだ。
ところが、これもある一定で逓減する。

相互依存と相互理解は、いずれ相互理解=0、相互依存=αとなり、ほぼ相互依存
だけになる。加えて、性愛も夫婦間にあった恋愛という状態は収まり、かなり逓減する。
よって、時間が経つと性愛≒0に近づいてゆく。

かつては、これが当たり前であり、現代の夫婦は、こと結婚という視点からみれば、
最終的に残ったαの大きさのみで幸せが測られるわけだ。
爺さん、ばあさんが、もくもくと炬燵でお茶を飲んでいる姿をイメージすればよい。

これは性愛や相互理解、相互依存を一人のパートナーに依存するためであり、
上記のような状況になることは人である限り、避けられないのである。

一方で、現代の20代前半の未婚女性を想定してみる。
多くの女性は数年ごとに恋人を変える。そのため、相互理解の満足は0へ落ちる前に、
更新されて、高い値を保つことになる。その一方で、相互依存は、家族つまり親と
ほぼ同居しているために既に積み上げがあり、一定のαがすでに獲得されている。
また、性愛に関しても、結婚をしていないため、恋人以外ともときおり遊ぶことで、
性愛への満足度を増やすことも可能となる。もちろんするかしないかは個人の自由である。

つまり、現代女性にとって、結婚とは、子どもという部分を除けば、
むしろ、生活上の満足度を減らす作用しかもたらさない。

これは若い男も同様である。一人暮らしの独身者は相互依存が仕事のみに存在する。
よって、相互依存はそもそもゼロに近い値で停滞していることになる。
そこで、満足度を増やすにはパートナーを作り、相互理解や性愛の満足を増やすことが
キーとなる。男が結婚をすると、相互依存の上昇が見込まれて、生活は楽なる。
一方で、相互理解は年々減少し、性愛に限ってはかなり拘束される。
男にとっての結婚とは、相互依存αと引き換えに、相互理解と性愛の満足度を手放すこと
である。

このような状況下で、社会的な拘束を受けない若い男女が
結婚に踏み切るというのは、少々頭に血が上っている状態だったのだと考える他ない。
逆に言えば、結婚が減るのは合理的に考えれば当たり前なのである。

現代日本では、結婚と子どもがリンクするため、子供はどうしても減ってしまう。
もし、現代の状況下で少子化に歯止めをかけたいのであれば、婚外子の扱いを
完璧に平等にする必要がある。そうすれば、経済的にゆとりのある人は、子供を
作るだろう。それは女性一人でも可能かもしれない。好きな人の遺伝子を頂いて、
結婚せずに子供を育てる。その時にパートナーが手伝うかは、パートナー次第である。
結婚とは、この子育てにかかるコストの保障も兼ねているのである。

よって、現代社会において、結婚した男性が失った性愛と相互理解の
満足度をあげるには、不倫をするしかない。もしくは離婚してパートナーを変える
ということである。通常は離婚をすると築き上げた相互依存がゼロになってしまうので、
その部分は保存しつつ、性愛と相互理解のみを引き上げる不倫が極所解である。
かつて、裕福な家庭には妾さんがいたことを考えれば、理にかなっていることだろう。

不倫相手になる女性のメリットは、若い男と同じである。
性愛と相互理解の満足を増やすことが出来る。だが、結婚ができないために、
子どもを作ることが出来ない。少なくとも表立っては出来ないことになる。
ただし、相手が既婚であったとしても、「好きな人」と交流できるという
精神的な満足は間違えなくあるのだろう。

つまり、いいようによっては、現代は不倫をさせる動機を孕んだ社会となるわけだ。
そうでなければ、生物的な満足度を向上させることが出来ないのである。

もちろん、相互理解や性愛を減らなさい様に手を打っている人達もいて、
夫婦というコアで、できるだけ満足を引き上げようとする。
だが、そこはおのずと限界があることは否めないのである。

そこで、森永氏はいうのである。これからは非婚のすすめであると。
結婚をしていないことによるメリットとデメリット、どちらもあるが、
これからは、あまり差がなくなってくるのではないかと。
むしろ、制度上、結婚という形態をとり続けることが社会全体において
障害になる可能性すらある。なぜなら、全員が不幸になる仕組みの可能性が
高いからである。

現代はまだ過渡期である。まだまだ結婚する人は増えるだろう。
だが、一方で離婚する人も増えるはずだ。そうやっていろいろな形の家族形成が
可能となる方が、豊かな社会なのかもしれない。

少し先を見ることも重要なのだろう。

少女マンガの不条理 [恋愛]

少女漫画的世界観は基本的に嫌いである。
私が嫌いでも、世間一般的には一向に構わないと思うので、
どうして嫌いなのかを考えてみた。

おそらくは感情移入のしようがないからなのだ。
主人公は、愛のあるチャラ男か、やさ男と相場が決まっていて、
そういう女性が作り上げた理想的男という概念と自分の存在が
あまりに相容れないのである。

先のエントリーで「異性」について書いたが、その中に「所有」の話が
出てくる。男は基本的にあらゆるものに「所有欲」を出す。たとえば、
サッカーの試合を見ていて、「俺だったらこうするのに」というような
発言をする。その動機は、サッカーの試合自体を<所有>しているから
に他ならない。現実の所有ではなく、概念としての所有である。

少女漫画に出てくる男の気持ち悪さは、この所有の概念のもっともたる
シンボルであることだ。そして、女性に所有される喜びのようなものが
あって、その主体性の欠如がまた少女漫画を気持ち悪く感じさせるのである。

たとえば、男が女に「あれ?髪型かわった?似合ってるね」というとする。
女性はなぜかこれを好意とか優しさだと評価する。それはまったくの誤解で
ある。男は単に所有物に対しての変化について言及したのである。つまり、
そのような発言の裏側には、「お前は俺のもの」という暗黙があるのだ。
男からみれば、それらの男の言動は優しさではなく、所有物への感想に
過ぎないのだが、女性がそれを嬉々として受け入れることに不思議さを
感じるのである。

少女漫画の気持ち悪さは、この「お前は俺のもの」という所有感に
浸りたいという女性特有の自己満足が存在することからくる。
もっとはっきりいえば、その男はあなたを人として見てないという
意味であり、ある意味で馬鹿にしているのである。

女性たちは、自分たちが馬鹿にされていることを知りつつ、
それに酔いしれているのか、馬鹿にされているとはまったく思ってないのか。
どちらにしても、所有欲からくる言動を男らしさと考えるのは、
なにやら不可思議であるが理解できる。

なぜなら、この手の物語が好きな女性は子供なのである。
子供は所詮子供。だから、男と対等の関わりなど出来ないのである。
むしろ、庇護されてナンボだと考えているので、進んで子供を演じる。
そのためには、相手の男は大人ではありえない。むしろ、単純に
所有欲をさらけ出す人物像にならざるを得ないのだ。

典型的な少女漫画のプロットは、子供でいたい女性向けということになる。
むろん、単なる物語である。そういう気持ちをくすぐる物語にはまるのも
良いとは思う。しかし、現実にそういう男が良いと思っているのなら、
考えを改めた方がよいと思う。泣きをみるだけである。
いや、泣きたいのだから、それもいいのかもしれないが。

少女漫画のやたらと人が死んだり、記憶をなくしたり、
勝手に兄弟になってみたりする不条理設定によって、
切ないとかいうのは、正直なところイライラする。

不条理設定の根幹は、ちっとも不条理ではない。
考え方を変えれば、終わってしまうことだらけである。
むしろ、人生において本質的な不条理な設定など、皆無である。

よく用いられるプロットとして、生老病死がある。
生まれること、そして生きること。
老いること、成長すること。
病気をすること、死に向かうこと。

これらは不条理だと多くの人が言う。
だが、むしろ普遍の真理である。誰もがこれらにお世話になる。
誰もがお世話になるありふれた出来事である。なぜそれをもって
苦しむ必要があるのだろう。

苦しさとは、つまり状況を受け入れられない態度ということだ。
受け入れたら死んでしまうような悲惨な状況はしゃれにならないが、
誰かが死んだとか、病気になったということは、受け入れるしかない
出来事である。そのときに心に傷を負うかもしれない。だが、
時間が解決するのが人生の常である。

どんなことでも、いき続けていれば受け入れて消化する。
そのように出来ている。男に比べて女性はむしろタフである。
そのタフな女性たちが、過度の不条理設定にはまるのは、
むしろそのタフネスのなせる業なのかもしれない。

結局、少女漫画とは不条理なのである。

異性ー不思議な相違ー [恋愛]

角田光代と稲村弘のエッセイ「異性」を読んだ。
なるほど、男と女とはかくも違うものなのか!と目からうろこがボロボロと落ちる。

彼ら小説家のすごいところは、人がおもむろに感じていることをうまいこと
言語化することである。「ああ、そういうことが言いたかったんだよ」という内容なのだ。

さて、内容であるが、男女のことについて二人が交互に書簡的に
物事を書いてゆくという体裁である。

こういうと誤解があるのかもしれないが、お二方ともとてもモテるというタイプではない。
だから、どうしたらモテるのかとか、異性がわからないなどと考える。そうやって
考えるからこそ、言語化されてくるのである。よって、この本からモテる手段を
学ぼうと思っても無駄であるが、内容はとても共感できる。(ということは私は・・・)

冒頭ののっけから、角田さんが問う。
「好き」と好意を伝えることは有効なのか?

好きという感情をどうやってフォローするべきなのかは確かにとても難しい。
とある好きな人に、好きと伝える手段はなぜこうもまどろっこしくなるのか?
昔は確かに恥じという気分があった。なぜ、恥ずかしいのか?
なんだかわからないが、好意を伝えるのは「負け」という気がする。
これは角田さんもそう思っている。不思議ではあるが、そういうものらしい。

でも、好意を表象しない限りは、やっぱり伝わらない。

女性はとかく、好意を直接的に表象しないと思う。では男は?
女性に男から好意を示す場合に考えられる反応は随分と極端で、「わーうれしい」か
「マジ、きもい」かのどちらかである。男は少なくともそのような行為を良く見ている。
自意識過剰な男は、よもや告白などして「まじきもい」とか思われたら生きていけない。
よって、好意を示すような行動を極力排除することになる。つまりハイリスクなのだ。
女性の側は好意を示すと負けだと思い、男性の側はリスクだと思っている。
これでは埒があくわけもなく、恋愛は起こらないのだ。

もちろん、気軽に、軽妙に好意を示す男もいる。自分をモテると思っている男だ。
このような男性は実は陰では「まじきもい」と思われているのかもしれない。
だが、多くの女性の中には彼に好意を寄せている女性もいることだろう。
すると、そこに恋愛が引き起こされることになる。そして、彼はまたも思う。
「自分はモテる」のだと。これが繰り返されるうちに彼は女性の扱いがうまくなり、
事実上、モテることになる。結局、経験がものをいうのだ。

ということは、男は「マジきもい」を乗り越える精神性が必要となる。
一方、女性も、もし意中の男性がいるならば、ちょっとしたきっかけを与えるのは、
必要な行為だと思う。それをぶりっ子だの、策士だのとひきょうだのと考えたり、
プライドが許さないなどと考えていては、意中の男性から声がかかる可能性は低くなる。

よく「私、モテない」とのたまう人がいる。客観的にはいろんな人から好意を持たれている
のに、そういうことを言う人は、他者の扱いを間違っているのだろう。
好意を持たない相手に気安く接していないか?好意をもった相手に距離をとっていないか?
男の多くは自意識過剰で、好意を見せることに戸惑いを持っているのだ。そこに、
気安く接する女性がいたら、「あれ?もしかして僕のことを?」と勘違いさせるだろう。
これが要はきっかけである。そうやって、好意を持たない相手をその気にさせる一方で、
意中の人には好意をみせまいとガードが堅いせいで、声をかけられることがないのである。
結果として、「私、モテない」なのである。勿体ない事である。

特有の変な幻想を抱いてはいけないのである。
白馬の王子様幻想とでも言おうか。自分がある日突然、好意を持った相手から見初められる
という幻想だ。自分の真価を認めてくれるという幻想があるのだ。もちろん、意中の人に限る。
こんな虫の良い話は、おとといきやがれである。

普通の男はそんな恐ろしい暗闇に飛び込まない。何が出てくるかもわからない闇に
飛び込むより、薄明りが漏れているいかにも暖かそうな家に向かうだろう。これが男性の
一般的な心理である。だからこそ、時にブス、、、というと語弊があるから、顔が不自由な
方が、多くの恋愛を重ねることがあるのだ。彼女は男にとっての安らぎになり得る。
むろん、付き合ってしまえば、誰でもそう変わらないのだが。。。

意中の人ではない人から、よく声をかけられているのに、どうして意中の人は誘わないのかは
まさに自身の態度の問題なのである。

だいぶ、話がそれてしまった。ちっとも書評になっていないが、
他にもさまざまな内容があり、それぞれがとても確信をついていると思う。
異性について気になるなら、一読をお勧めしたい本である。

男を落とす方法ー心理を突くー [恋愛]

内田樹氏曰く、
男の落とし方は簡単で、二つの点を褒めればいい。

一つは<才能>である。

確かに多くの男は、社会的に何らかのプラスの成果をあげるべきだという
プレッシャーを感じている。すると、男はバカなので自分にはなんらかの才能があって、
現状がうまくいっていないのは、それが発揮できていないだけと考えることで、
そのプレッシャーに対応していることが多い。

そのようなギャップを感じている人には
「あなたは才能があるのよ!みんなわかってないけど、私にはわかるの♡」
と言えば、かなりの確率でグッとくるはずである。

一方で、少し経験のある男は、これだけでは落ちない。
なぜなら、自分の能力についてある程度適切な判断を下しているからだ。
むしろ、そのくらいの男の方が、まともなわけで、始めの一刀で落ちる男は
まだ経験が足りない。

そこで第二弾を繰り出す。
それは、<ルックス>である。
ルックスを褒めるのだ。

実は、男には隠れた願望があって、どこかで自分の容姿を好きになってくる
女がいるものだとひそかに希望を抱いているのだ。

だから、「あなたって、いい顔してるわね、雰囲気が好き♡」
みたいに、世間的な価値観における良い顔かではなく、私は
あなたのルックスを肯定しますよと言うのである。

これで、男はだいたい籠絡される。

なるほど、言い得て妙だ。
多くの女性はこの逆をすることが多い。男を何かとバカだといい、
ぶっさいくのくせして、何をきどったこと言ってるんだと批評する。
うん、これでは男は落とせない。

マイナスの要件を掲げられて、それでもがんばるという人は
よっぽどのマゾである。そんな男はむしろ嫌だ。

というわけで、女性諸氏、男にはこの二つの決め文句で攻めれば、
大抵落とせるのだから、有効に使ってもらいたい。

男が求めているのは、どこかに「母性」がある関係性である。
自分という存在を受け入れてくれるか否か、その部分が重要である。
「私はあなたの味方だから」という態度に加えて、
<才能がある><ルックスが好き>というコンセプトで、
あなたは恋のライバルを蹴散らせるだろう。

まあ、女性から迫るだけでは、のちの関係はうまくない。
その辺りは、適当なさじ加減が重要なんだろう。

すれ違いー好意の現れー [恋愛]

どういうわけか人は誰かからの好意がわかると、
その人を低くみてしまう傾向があるようだ。

だから、相手から好意を持たれると、ぞんざいに扱いがちになる。
おそらく二人の関係性が無意識にバランスされるのだろう。
片方が強く相手を想うほど、もう一人は距離を置きたくなる。

これに関して、悲しい擦れ違いがある。それは男の恋心だ。

大抵の女性は、女好きのする男性が好きだ。
少なくとも、優しそうで女性慣れしている人に、
コロっといく女性は少なくない。

女性の考え方がわかっていて、それをフォローできる人は
基本的にモテるだろう。そんな男も少なからずいる。

ところが考えてみれば、男は恋に落ちるとぎこちなくなるものだ。
つまり、本当に好きな相手には、上記のような扱いは出来ないということだ。
これはどんな男性でもそうである。もし、女性がこの人なんだかぎこちなくて
扱いにくい人だなと思うことがあったら、そしてそれが自分に対してのみで
あれば、ほぼ間違えなく彼はあなたに好意を持っていると言えるだろう。

男は気持ちが高まっているときに、スマートな行動などとれはしない。
相手に嫌われないか、どうしたら好かれるのかなど一生懸命になる。
女性から見れば、そのような行為はかえって鬱陶しいものに見えるかもしれない。
だが、そのような行動こそが本当の恋心なのである。

逆に言えば、女性が好きな余裕があってスマートにリードしてくれる大人の男は、
例外なく、その女性に対する好意は低いと言わざるを得ない。なぜなら、恋をすると
男は緊張するのだから、スマートに対応できるということは緊張がないわけで、
それはつまり相手に恋をしているわけではないという意味になる。

不倫関係の既婚男性と独身女性はこのような状況に当てはまっているだろう。
既婚男性には既に家庭があり落ち着いている。そのような状況下で、独身女性が
彼に好意を寄せると、結果は明らかだろう。男性は心の余裕があるから、
スマートにリードでき、女性はますます恋心を募らせるだろう。一方で、男性は
可愛い女性にせまられてまんざらでもないのだ。しかし、そこに本当の恋愛は
無い。なぜなら、そこに好意の緊張が存在しないからである。

多くの恋愛小説には、スマートにリードする男性が描かれており、いつでも
味方になり、包容力があり、恋愛とはこのようなものだと描かれる。
しかし声を大にして言いたいのは、そんな風に振る舞う男は本当にあなたが
好きなわけではないということだ。本来、恋をしている男は緊張している
のだから、スマートにリードなどあり得ない。

むしろ、あなたが頼りないと思うような男こそが、あなたを真剣に好きで
いるのである。それは好意を見せられると相手を低く見てしまうという
人間の性質に依存している。真剣に好意を寄せられると、相手に嫌われないか、
どうしたら、相手に喜んでもらえるかを考えるだろう。これは女性も変わらない
心理である。そのような態度が、女性にとって頼りなく見えるのは致し方ない
ことだ。何せ、女性の側にイニシアティブが存在するのが明白であり、
女性の一存で、彼を地獄に突き落とすことが可能なのだから。

残念ながら、このようなことを理解していない女性がほとんどである。
女性が理想とするような男性は、あなたを本当には愛さない。
女性が困ってしまうような男性は、あなたを本当に愛しているのである。
悲しいかな、不器用な男の気持をぞんざいに扱う女性は、真に愛されない人である。

男性諸君よ、包容力がある男性がいいという女性には、気を付けるべきだ。
そのような女性は、男らしくない行為を散々責めるような心狭い人の可能性が高い。
真に人間理解のある女性ならば、男の弱さを知っている人であり、それを受け入れて
くれるだろう。それは包容力を求めるような女性には備わっていない性質なのだ。

人はそんなに完璧じゃあない。
だから、女性は男性の好意を肯定してあげてほしい。
ぎこちないアプローチこそ本当の気持の現れである。
ナイーブな感情はスマートではありえないのだから。

もっとも近頃は、そんな完璧じゃないなら、そもそも恋愛しないと思うらしいのだが。

好きな人ー相手を想ってー [恋愛]

どんなに相手を想っても、どんなに相手を支えても、
相手の気持ちをどうにかすることは難しいものだ。

それは逆を想像すればすぐにわかる。
相手からどんなに好きだと言われても、
こちらからはどうにもならないことがあるだろう。

そういう意味では、両思いになれる機会は人生では、
おそらく数回程度あれば、良い方ではないだろうか。

恋に落ちるのは、本能的な作用である。
どういうわけか、ヒトにはそのような気質が備わっている。
特定の人と一緒にいることを喜びと感じるようにできている。
問題は、その嗜好が必ずしも双方向じゃない事だ。

恋には、ある程度の先天的作用と後天的作用がある。
外観の特徴に否応なく反応する性質および、そこに後から付加された価値観。
我々を支配しているのはこのような恋の力である。

恋には本来、お金や地位や名誉など含まれない。
むしろ、外観や雰囲気や相手の気質が問題となる。
フロイトがアニマやアニムスと呼んだもの、
そのような実体が我々の認識にあるかは定かではないが、
何かしらのひっかかりが恋を呼ぶ。

一方で、多くの人が恋に落ちるとはどういうことか?
もし、運命の人のような特定の人のみにしか、恋を感じられないとしたら
果たして人類は生き延びてこられたであろうか?おそらく無理だったであろう。

逆に言えば、必ず恋に落ちる枠組みがあるのだろう。
特定の外見と、関わり合いの頻度、相手との相性。
ある程度の条件がそろえば、恋に落ちるようでなければ、
このように多くの人が恋に落ちることはないし、特定の人がモテやすいことも
説明できない。これをフロイトは、アニマ、アニムスの他者への投影と呼んだ。
投影されやすい人がいて、そういう人はモテるのである。

もし、モテたいと思えば、投影されやすいステレオタイプを目指せばいい。
特定の相手から好かれたいなら、その人のアニマ、アニムスを体現すればいいのだ。
むろん、そんなに容易いことではないから、多くの人が苦しむのだが。

では、恋に落ちてしまったら?
落ちてしまった恋の行方は常に危うい。
その気持ちを成就するか諦めるかである。

ここに恋の興味は集中する。
喜びも、悲しみも、この恋という状態に置かれていることによる。
青春とはまさにそのことを意味するのである。

恋の最後も存在する。
一般に「飽きる・冷める」というものだ。
これは常に起こる。起こらない恋はあり得ない。つまり、恋の最後はあっけないものなのだ。
通常は、それまでの過程で、情愛に変化し、関係性は恋とは異なった形で継続する。

恋の生物学的な意味あいは、一種の「交尾期の形成」なのだと思う。
特定の相手に対する発情なのである。その発情を綺麗な呼称で「恋」と呼ぶ。
発情状態は長く続かないのは当たり前である。しかし、このような発情状態を
形成することが人類にとって、有益な作用をもたらしたことは確かである。

好きな人を想う。これは誰もが一度は持つ感情だろう。
そして、それを大事にしたいと願う。
うまくいく恋もあれば、うまくいかない恋もある。
どちらにしても、恋からいずれ覚める。
その時に、あの恋という感情を愛おしく思えるとしたら、それは素敵なことかもしれない。

利用する女ー勘違いする男ー [恋愛]

一人の魅力的な女性がいて、その人が自分に興味を持ってくれた。
たまたま音楽の趣味が似ていて、一緒にライブを見に行こうという運びになった。
電話番号・メールアドレスを交換して、日々のやりとりが始まった。

ライブは楽しかった。そして何より彼女の魅力に参ってしまった。
男は彼女を好きになってしまったのだ。そして告白をすることを決意した。

「ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったの」

こうして男の恋は散った。
男は思う、なぜだ?どうしてなんだ?

女は言う「彼氏にするとかじゃなくて、友達として楽しかったからなのに、
     これだから勘違い男は困るのよね」

昨今の草食系というが、どう考えても、草食系が問題なのではない。
むしろ、女性の幼稚さが問題じゃないかと思う。
男に対して、無警戒で気安く接する。男はそれに好意を感じる。
別段間違えではないだろう。ところが女はそれを「友情」だと断じる。
女性は相手の男がどういうつもりなのか、果たしてわからないのだろうか?

魅力的な女性がいて、その人が男友達を探しているとする。
そして仲良くなった男と出かけたりするわけだが、男から告白されたり
誘われたりして、幻滅し、また新しい男友達を探す。

この行為の裏側には、魅力的な女性で男好きのするタイプは、
女性に嫌われがちであり、それを男友達でカバーしたがる。
主張は「私って、さばさばしてて、男っぽいから、男友達が多いんだよね」である。

普通に考えて、あまりに不細工な女性なら、男友達が多い筈がない。
愛嬌がある面白い女性という可能性もあるが、そういう女性は女性にも人気があるものだ。
女友達が極端に少なくて、男友達が多いのは、人間関係の築き方が性に依存しているから
である。女性は同性の性的アピールに敏感であり、それがあらわになると嫌悪を示す。
だから、女性の友達が少ない。男からはその性的アピールによって、好意を受ける。
それは通常、性的対象としてである。だから、そこには「友情」はない。

よって、性的に魅力的な人は、その魅力のために、通常の人間関係を築きにくい
のかもしれない。

これは逆もしかりだろう。イケメンに仲良くされた女性が勘違いして恋心を抱く。
一緒に出掛けたり、メールでやり取りをする。思わせぶりな態度でやきもきして、
こっちから告白すると、「ごめん、そういう対象としてみられない」と言われる。
そして友達でいてほしいなどと言われるのである。全く同じ問題である。

両者に共通するのは、彼らは異性といると気楽であることだ。
それはその異性が気を使ってくれるからであるのだが、彼らはその気遣いを理解しない。
単にウマが合うなとか、楽しいな程度にしか思っていないのだ。相手が気遣うからこそ
快適に過ごせていることに頭が向かないのである。

この点が、魅力的な人に利用されていると思わされる要因になる。
相手に気を使って、自分を気にいってもらおうとアピールしていることが、
彼らにとっては、単なる日常の場面になっている可能性が高い。
なぜなら、多くの異性がそのような態度をとるからである。


女友達が多い男性は、男性に評価されることは稀である。なぜなら、当然嫉妬されるし、
彼のメンタリティは受け身のため、相手を理解しないからである。
同様に男友達が多い女性は、女性に評価されにくい。
こうしてますます、性的に魅力ある男女は異性に依存してゆくことになる。

さて上記の問題に戻ろう。
性的に魅力的な女性が、異性の友達を作るのは普通に考えて困難であることが
容易にわかろう。その友達には、何らかの制約が必要である。例えば、友達の彼氏で
あるとか、既婚者であるとか、はたまた、おかまであるなど、男が女性に性的に
惹きつけられないための口実が必要となる。でなければ、一般的な意味での
友達ではいられないだろう。セフレなら別であるが。。

世間では、性的な魅力で異性を釣って、つるむような女性を「あばずれ」と呼ぶのだけど、
本人は「性的な魅力」で釣っていることを極端なまで否定する。ここに多くの男性は
欺瞞を感じて、小悪魔とか悪女と呼ぶのである。内実は単に幼稚なのだろう。
自分のやっていることを客観的に眺められないのだから。

男性に告ぐ。男友達しかいない魅力的な女性に気をつけろ!
女性に告ぐ。女友達しかいない魅力的な男性に気をつけろ!

彼らは恐ろしいことに、自覚がないまま、異性を利用し生きているのだ。
本当のいい女は、その辺りをきちんとわきまえているものなのだから。

典型的男女の会話ー目的の違いー [恋愛]

男女では会話の意味合いが違う。
そして、そのオチの方向性も違う。

以下は、電話でのやり取りであるが、
女性が聞いてほしいことと、男性が解決したいことの
分離が見事に現れていて、とても興味深い。

女『車のエンジンがかからないの…』
男『あらら?バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『トラブルって怖いよね。で、バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『それは困ったね。どう?ライトは点く?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『…ライトは点く?点かない?』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る。』
男『そうだね。で、ライトはどうかな?点くかな?』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『あ、えーと、、ライトは点くかな?』
女『何で?』
男『あ、えーと、エンジン掛からないんだよね?バッテリーがあがってるかも知れないから』
女『何の?』
男『え?』
女『ん?』
男『車のバッテリーがあがってるかどうか知りたいから、ライト点けてみてくれないかな?』
女『別にいいけど。でもバッテリーあがってたらライト点かないよね?』
男『いや、だから。それを知りたいからライト点けてみて欲しいんだけど。』
女『もしかしてちょっと怒ってる?』
男『いや別に怒ってはないけど?』
女『怒ってるじゃん。何で怒ってるの?』
男『だから怒ってないです』
女『何か悪いこと言いました?言ってくれれば謝りますけど?』
男『大丈夫だから。怒ってないから。大丈夫、大丈夫だから』
女『何が大丈夫なの?』
男『バッテリーの話だったよね?』
女『車でしょ?』
男『ああそう車の話だった』

あまりにも秀逸な展開だ。
こうやって話がこじれていくというのがとても良くわかる。

男は、最初の一言で、女が問題解決を図りたいんだ!と思った。
女は、困っている状況を共感して欲しいと思っていて、
解決方法を知りたいと思っているわけではない。
この大前提が食い違っているから、話がやっかいになる。

問題解決がしたい男と、困っている状況を共有したい女。
これは永遠のスレ違いかもしれないなあ。

無駄だが、このやりとりを有意義なものにする方法を考えてみよう。
アプローチは3つある。

1、男性が女性に歩み寄る。

 男が問題解決というプロセスを諦めて、女性に共感をすればいい。
 「ああ、困ったねー。それは大変だ!」と。むろん、問題は解決しないが、
 女性の「心の問題」は解決する。

2、女性が男性に歩み寄る。

 女性は共感してもらうというプロセスを諦めて、問題解決に集中すればいい。
 男に電話をした時点で、困ったということを共有することはやめて、
 男からは問題解決の手段を聞き出すということのみに徹することだ。

3、そもそも電話しない。

 女性はこのような状況で男に電話すると、問題解決を求めることになってしまう
 ことを知っておくべきだ。共感して、大変だね、なんていう能力は男に備わって
 いないのだ。だからどうしても共感が欲しければ、それは彼氏に求めるのではなく、
 女友達に求めればよい。女友達は解決はしてくれないが、一生懸命共感してくれる
 だろう。もし解決が欲しいなら、彼氏に電話をすればいい。きっとどう行動すべき
 かの有益なアドバイスを探してくれるだろう。女性は賢くあってほしい。

というわけで、男は女の真の目的が常に問題解決にあるわけではないことを、
女は男の考えとして、共感などがあるわけではないことを知っておくべきなのだ。