男女の友情ー繰り返される主張ー [恋愛]

生物学的にみれば、男女に同性間と同じ意味での友情は存在しない。
もし男女に友情があるとすれば、それは例外でしかないのだ。
その例外の解釈の仕方は人それぞれなので、多くの議論が起こる。

少なくともこの「男女の間に友情があるか?」の問いに対する答えは
わかりきっている。それは人によって答えが違うということだ。
統一見解を求めるから、話がややこしい。違うのが普通だと思えば、
話が終わる。とはいっても、それじゃあ、ちょっと味気ないので、
少し考察してみよう。

「一般的には、女性は友情をあると主張し、個別のケースを提出する。
男性は友情はないと主張し、男性の気持を解説する。」
ほとんどがこの説明で終わると思う。というわけで考察終了なのだが、
下記に、個人的なことを書かせてもらう。

私も男なので、男の気持から言わせてもらえば、
男女の友情は存在すると思う。もちろん、例外的に。

どんな相手にも友情があるわけではないし、
ほとんどの場合、個人的に仲良くしたいと思う女性には、
なんらかの恋愛感情を持つ。よって、大抵の場合、友情は成り立たない。

ところが、見た目があまりにも好みから離れていて、
それでも尚、話が良く合う女性というのも稀にいる。
この場合、相手に対して男に対する友情と似たものを持つ。
重要なのは相手が「女」を意識させないことだ。

女性が女を振りまいているのに、それを無視することは不可能である。
女性らしい女性に対して、友情という気持ちを持つのは相当に難しい。
その場合に友情というには、あえて相手のその女性の部分を無視するしかない。

例えば、友達の奥さんに対する態度などがそれに近い。
友達の奥さんがどんなに女性的に魅力でも、それは友達の奥さんなので、
仲良くするには「友人」という形をとるしかない。それは奥さんの
女性らしさを敢えて無視することに他ならないだろう。

そのような意味で、いつも思うのだが、女性が男に友情を求めているとすれば、
それは男に「私の女性の部分は無視してね」と言っているのと同等であり、
女として全く魅力がないと思わせなくてはならないのだけど、
それって女性にとって嬉しい事なのだろうか?

かりに、そのような女性がいて、一緒にご飯やら映画やらに行くとする。
その時、恋愛相談をするとして「私どうすればいいかな?」と聞かれたら、
内心では「どうにもならない、なぜなら自分にとって魅力的じゃないから」と
男は思っている。それでも大抵の男は優しいからこうすれば?などと言ってみる。

何でも話せる男友達がいると思っている女性は、その男性から、
「こいつは女としてどうにもならない」と思われていることを忘れないことだ。
そして、この女と付き合うなんて、もの珍しい趣味のやつがいるんだなあと
思っているのである。それが何でも話せる男友達の信条だ。
もし、そうでないとしたら、男は単に皮をかぶっているに過ぎない。

一方で、お互いにキープ状態を「友情」と呼ぶ関係もあるだろう。
それは男の立場から言わせてもらえば、友情でもなんでもない。
女性が単に鈍感か、そのような関係を「男女の友情」だと勘違いしているということだ。

はっきり言わせてもらえば、
女性として十分に魅力的ならば、男友達なんて滅多な事では出来ないだろう。
なぜなら、男を刺激するのに十分だから、いい女なのである。
逆に言えば、男友達が多いと公言できる女性は自ら女として大したことはないと
言っているに過ぎない。それか、女性が男の下心を敢えて無視している状態である。

もちろん状況にもよる。上記にあげたように、友達の奥さんや彼女であったり、
既婚者同士であったり、何らかの制約がある場合は「友情」ということに
するしかないだろう。また、同じ組織のメンバーであったり、長年の付き合いで
今更、男女というわけでもないというような関係性も制約に含まれるだろう。
そのような場合以外では、女性的に魅力的な人をあえて友達にする男の存在理由がわからない。


男女の友情に関して、よくある論争は、この男が下心を抱えているのに、それを無視して、
友情というラベルを張る女性の言い分を、男性がそれは友情ではないと批評することだ。
これはにはわけがあって、つまり、女性的として魅力的なのに、あえて友情を採用する男が
いるということだ。

なぜ、そのような行動に出るのか?一つには昨今の草食系なのかもしれない。
男女の間の関係性が昔に比べればフラットになってきた。
男でも女々しいやつはたくさんいる。つまり「おかまlikeな男」が増えたのだろう。
女性と同じ目線で、女性と共にいられるということだ。
女性の側も相手に男を感じないに違いない。

もう一つは、「友達から戦略」である。友人として付き合うことで、
意中の相手のそばにいるということだ。女性が理想とする男友達を装うことで、
相手と共にいるのである。これは弱腰な男のやり口であるが、
その理由も良くわかる。なぜなら、それを女性側が望むからだ。

いつからそういう存在を欲しがるようになったのだろうか?
女性側が、「男友達」を欲しがるようになった。
そして男はその望みをかなえているに過ぎない。

母親が子供に「良い子」を求めるように、
女性が男に「男友達」を求めているのである。

おそらく女性にとって、男友達とは女友達と違って
自分を批判しない優しい存在であり、時に守ってくれたり、おごってくれたり、
知恵を与えてくれる「ぬるま湯」みたいなものなのだろう。
当たり前だが、女性は快適だからそのような「男友達」を求める。
男から見れば、それはファザコンかブラコンに見えるのだが。

当然、そんな風にしてくれる男は稀だろう。
だから、男友達は稀なのだ。
改めて繰り返すが、ここでいう男友達は「制約付男友達」ではない。
俗にいう「男友達」のことである。

硬派な自分から言わせてもらえば、そんな男友達は、よほど暇人なのだなと思う。
仕事は普通忙しくて、空いた時間は趣味や彼女と付き合うのが精いっぱいだと思うからだ。
女性を彼女候補と考えているなら、納得するのだが、定義上、
そうではないはずで、自分としては全く奇奇怪怪となる。

もちろん、自分にも女性の友人もいる。時折、飯を食べたりする。
だが、それは制約付き女友達である。そうでもないのに、
一緒にいるとすれば、それはたまたま互いに彼女や彼氏がいなくて、
時間があり、一人よりは二人でいる方が楽しいだろうという感じだろうか?
かえってちょっと寂しくなりそうなシチュエーションに思うのだが。。


きっと男女の友情という言葉に、いろいろな意味を含めすぎているのだろう。
これを場合分けで考えていけば、全てのケースが納得できると思う。
つまり、「男女の友情はありでもあるし、なしでもある」のだ。

結婚制度ー性の商品化ー [恋愛]

以前にも、結婚について述べた。
ここでは、また岸田氏の見解をベースに再度、結婚という制度について考察する。

以前、結婚とは女のビジネスと書いた。
それはおそらく事実であろう。いかに自分を高く売るかということである。

その生物学的基盤は、メスとしての機能であり、具体的には子供を産むという
ことである。多くの女性はこの子供を産むという機能性について悩む。

人は哺乳類でも例外的に長い子育てを必要とする。
社会の複雑化により社会が必要とする人もまた複雑になったからだ。
子供の頃に習った習慣を捨てさせるところから、企業人としてのスタートが始まる。
それゆえに、現代では、学生時代のみならず、社会人の始めにも人が変化を求められる。

このように人を育てるのは非常に多くの労力がかかるため、
女性はその対価を子供の親から受け取ることにした。
これが結婚である。つまり、女性は自らを商品にしたのである。

一方、男性は女性という商品を得るために、仕事をすることになった。
本来的に、生存欲を満たすためだけならば、仕事にここまで励む必要性はない。
仕事における余剰は、女子供を育てるために存在している。
その見返りが、伴侶を性の対象とする権利を得ることである。

処女性の尊重とは、生物学的な意味はなく、ただ新品が中古よりも高いという
商品的価値観に基づくからである。女性は車の購入とほぼ同じようなものだ。
男は手にした車に乗る。始めは嬉々として乗るだろう。土日には洗車にでかけ、
人によっては乗るときに靴を履きかえたりもする。しばらくすると、扱いが
ぞんざいになるが、そこには様々な場所へと出かけた思い出が生まれ、情が湧く。
年々、大事な存在になるが、どうしてもガタがくるものである。新品に変更したく
なるのは当然である。

女を商品として見る男ならば、上記の車の部分を女に差し替えれば、
思っていることをあぶりだしてくれるだろう。男における結婚とは特定の車の
占有権なのである。基本的に車を他人に貸さないのもそういうことと同義だ。

自らを商品化した女性達。彼らの目指す目的は大きく二つしかない。
一つは、ハイパーガミーであり、上位のオスと結婚することである。
もう一つは、売春に生きることである。俗にいう「愛人」である。
どちらも、自らを性の商品としていることには変わりない。
そして目指すは、なるべく良い条件のオスを見つけることである。
自己の社会規定に敏感な女性たちはこの競争に巻き込まれていることを
幼少時より嗅ぎ取っているわけである。

実は自らを商品にしない手段もある。自らで自らの生活を支える方法である。
出産や子育てにかかる費用を全て自分で捻出することが出来るとしたら、
男の価値は俄然下がるだろう。すると、彼らには性の自由が存在する。
上記の二つの生き方は、自らの性を売り物にして生きているが、
この生き方は、そのようなことを必要としないのである。

誰とどこでどのようなセックスをしようが彼女にとっては、それは一つの
食事のようなものとなる。相手に対する対価を必要としないからである。
そして、婚姻や愛人となる理由もないからである。

問題は、女性の子供を産む適切な年齢が人生の若い側にピークがあることだ。
人生の始まりにおいて、自らの手で稼ぐ手段を得る人間は稀だ。
どうしても、多くの女性は上記の二つの枠組みで生きることを余儀なくされる。
もし、性の商品化をむなしいというのであれば、自らの生きる術を身に着けるしかない。

とはいえ最近では多少問題が変わってきているのも事実である。
結婚した女性は、本来伴侶にその性を売ったわけであるが、その契約を無視して、
旦那の求めに応じなかったり、むしろ積極的に不倫を行ったりするのである。

これは結婚という制度に抑圧された本来の性の在り方である。
女性にも男性同様の性欲があり、それを満たしたいのだ。

現代の携帯電話普及。どんなテクノロジーの裏側にもエロスの力が存在する。
ただ便利なだけではない。携帯電話がこれほどに普及したのも、その裏側に
エロスを刺激する道が存在することが本質である。そこに既婚女性も乗っかっている。

女性にとっての婚姻が、如何に華々しい夫婦生活の社会的証明であろうとも、
本質は自らの商品化であり、旦那はそれを独占する権利を有する存在である。
昔は、隠ぺいされていたこの厳然たる事実が明らかになってきたことで、
婚姻の在り方が問題となってきている。

現代の婚姻率の低さを景気のせいにする向きも多い。むろん、その意味は大きい。
なぜなら、オスは独占権を買うだけの余裕を失ったということであり、
女性は買い手を失ったということになるからだ。

それに拍車をかけて、多くの女性が勘違いを始めたからでもある。
結婚とは男性に対して自らを性の商品として売るという行為である。
それを何を間違ったか、売るという行為を自らの権利として考えるようになったのである。
つまり我儘になったのだ。

結婚した女性は、性に関して旦那の言いなりになるはずであった。なぜなら、
それが男性が背負う対価であるからだ。ところが現代では、女性は拒否が
出来ると考えるようになったのだ。女性たちは、結婚し、子供を育てはするが、
旦那とは別の男と恋をし、恋愛をするつもりなのである。旦那はただの金を
運ぶ新しい父親となるのである。

このような女性が増えているのだろう。離婚が増えるのも当然である。
男にとっての権利が女性によって侵害されているからである。
そして、このような現実を知りつつ結婚する男が増えることはありえないだろう。

女性達は、自ら糧を得る術をもたずして、上記の3つ目の道を進もうとしているのだ。
残念ながら、男はそれを許容するはずもないのである。許容する男がいるとしたら、
ただのお人よしである。現代女性はそのようなお人よしを求めているのかもしれない。

とはいえ、多くの女性は母親による洗脳を受けている。
そして、結婚はするべきものであると教え込まれている。
母がたどった惨めな道(結婚、愛人の道)が人生だと思わせようとしているのだ。

若い女性たちは今は、様々な複雑な価値観の中を暮している。
「男はバカだ」とのたまう彼女らの気持もわからなくはないのである。

メールのタイミングー好意の判定ー [恋愛]

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5928893.html?from=recommend

メールの返信のタイミングについて
男が聞いている。一日遅れて送ってくるメールに何か意味があるのかと。

上記の回答にもあるように、
(1)マイペース
(2)意図的
(3)無意識

なんてことが考えられるけれど、一日後にいちいち返信する方が難しいだろう。
もし、時間を変えても、一日後に返信があるなら、それは「意図的」とみなすしかない。
もしくは、アプリか何かで、一日後返信の設定になっているかだろう。

それにも関わらず、多くの回答は、自分の感情に任せて、
言いたいことを彼にぶつけている。少々度が過ぎる回答も存在する。
自分の彼でも男友達でもない人に、感情をぶつける程度の無礼は
許されると思っていることに驚きを隠せない。そういう自覚は最近の女子には
まったく欠けているだろうか。

とりあえず、そのことは置いといて、
返信パターンはさまざまである。

問題は、おそらく返信パターンそのものにあるわけではなく、
返信パターンに意味を持たせる・持つタイプと、そうでないタイプの二つがあることだ。

返信が遅かろうがはやかろうが、
そこに意味を持たせる人、たとえば、早い返答だと気があるとばれる等、がいて、
こういう人は結局、自分にくるメールにも意味を持たせているはずだ。

一方で、意味を考えない人もいて、返せるときに返す等の人は、
相手から来るメールにも特に意味をもたせないだろう。

つまり、返信パターンそのものにメッセージを感じるか否か、それが問題である。


現代は、メールを送るのにコストがかからないため、
やたらとメールを送ることになる。こうなると、そのメール送信自体が意味を
持ち始める。単に用件があるというわけではなくなるからだ。

好意を見せるという意味では、普通にメールのタイミングは早めになるだろう。
何しろ、「自分が」メールをしたいからだ。人は欲求を満たすことが出来る状況で、
わざわざ欲求を抑え付ける理由はない。つまり、早いタイミングの返事は好意と
みなすことが出来る。

ところがだ。人は計算もする。どうやってみられるかを考えだす。
ここで上記のことが関わってくる。それは返信パターンに意味を持たせる人と
持たせない人という区分である。

人は自分の感情を基盤に考える。逆に言えば、それしかできない。
よって想像力の問題となる。

この時、返信パターンに意味を持たせる人は自分の行動にも同様の類推を行う。
早く返信したら、暇人だと思われるとか、返事が遅すぎるのは失礼だとか、
そういうことを総合して、メールの返信を「意図的」に送ることだろう。

これがメール返信パターンにおける好意の意味である。

世の中には、こういうことに興味ある人間といない人間がいる。
ところが案外、そういう自分の立場から逃れられないために、
相手の行動予測を見誤ることになる。正確には誰も他人の行動予測など
不可能なのだが、とにかくも、自分の気持ちを土台に行動することだけ
は間違えがない。

メールのタイミングを気にしている時点で、その人はタイミングに意味を持たせる
タイプである。その意味では、質問者の男性も意味をもたせようとする人である。
ところが、自分の類推の正しさに確証が持てないため、人に聞いてみようと
思ったのだろう。きっと身近に聞ける女性がいないのかもしれない。

彼の素朴な疑問への回答は、そのような返信に好意の意味がある、もしくはない。
の二つしかない。ところが返信パターンなど、人によってまちまちである。

ならば、結局ところ、彼はその後の展開で、好意があるかないかを判断するしかない。
残念ながら、そういうことになってしまうのだ。

一般的なことはとかく、個別の事象には意味を持たないのである。

男女の友情ーその誤解ー [恋愛]

男女の友情が成立するか?
以前にも考察してみたことがあるが、再度考えてみたい。

大まかに言えば、
・女性は成り立つ派
・男性は成り立たない派

この差異があるために、論争が起こるわけである。
双方の言い分としては、

・女性
 ・付き合いたいとは思わないけど、仲良くしたい人がいる。
 ・実際に、そういう人がいるから。

・男性
 ・異性として見ない対象なら、友情はあり得る。
 ・結局は、恋人予備軍である。

常識的に考えて、男性が女性と仲良くするという場合は、
性的に魅力的ならば、恋愛関係を望むだろうし、
そうでなければ、会話を楽しんだり、相談したりするような関係となる。

そういう意味では、男性も友情が成り立つと考えてもいいカテゴリーがあるのに、
そこに友情が成り立つと言わないかがポイントだろう。

男が考える友情とは、男同士のような友情がバックグランドにあるのだ。
それは同じ釜の飯を食べるというような信頼関係を基準にする。
しかし、これはどこからくる感情なのだろうか?

この手の話で一番誤解を与えているのは「友情」という言葉の定義だろう。
それについて考えてみたい。

ここで一つの考えを導入しよう。それは多くの人が誤解していることでもある。
それは「全ての友情は性的愛情の一部である」ということ。

友情とは情愛の一つの形態であって、性的なものから分断されたものではない。
ここからがして、多くの人は誤解を持っている。友情は愛情の変化したものと
捉えるべきものであって、決して、友情がポツリと分離しているわけではないのだ。

上記を具体的に言えば、たとえば男が男に惚れるというような時、
男性同士では、性的につながる手段がないために、それが友情という形で発露されると
考えるべきということである。

性的な愛情が本来であって、友情はむしろ、その変異したバージョンであるのだ。

男にとって、親密な友好関係が男へ向けば、それは「友情」と呼ぶものになり、
親密な友好関係が女性へ向けば、それは「恋愛」と呼ぶのである。
だから、男にとって、男女の友情は成立しないのである。
つまり、異性に対する「友情」は「恋愛」と呼ぶことにしているのだ。

逆に言えば、男が口にする友情は同性間における「恋愛」のようなものだ。
そこには性的なものが含まれない。あるのは精神的な繋がりである。
なぜか?それは我々が持つ幻想によってタブー視される行為だからである。
それは、親子間、兄弟間に性が持ち込まれないことと同義である。

男性にとって、親密な友好関係が女性に向いているのに、そこに性を持ちこまない方が
おかしいことになるのである。男の友情は、相手が女性であったら、性的な関係になる
だろうと言える程度の強さを持つということだ。

よって、男が「友達」を強調する場合は、2つの場合がある。
一つは、正常な扱いから外れている場合である。それは相手を女性とみなさないと
いうこと以外の何物でもないし、それは友情程度に強い関わり合いでもない関係だ。
もう一つは、何かしらの条件があるために、親密な友好関係に歯止めをかけなくて
ならない状態でいることである。

一般には、後者が多いと思われる。

一方で、女性はどうだろうか?
女性にとって、親密な友好関係とは情愛を意味しない。
それは同性間の関わり合いを異性間にも、持ち込むという「友情」である。

これは男性が異性(女性)との関わりを男性相手にも持ち込んでいることと、
逆の作用と考えられるだろう。

同性間の親密な友好関係とはライバルであると共に同質であることだ。
それは要するに「兄弟関係」である。

このような友好関係を男性に求めることを女性は「友情」と呼ぶ。
よって、女性における男性への「友情」とは「兄弟になろう」というものと
同義である。当然ながら、そこに性はタブーである。

女性にとって、親密な友好関係を深めるほど、「兄弟」の度合が増すので
あって、決して「性愛」の程度が増すわけではない。よって、そこにセックスは
あり得ないのだ。

だから、友情から愛情に変わるには何らかのきっかけが必要となる。
そのとっかかりが、金や学歴や音楽やスポーツであることはもちろん、
キスであるとか、セックスでもとにかく女性が異性を意識する必要性があるのだ。

男にとってのソーシャリティと、女にとってのソーシャリティはその発端が違う。
男の社会性はセックスから生まれていると考えることが出来る。それが、男にも女に
も向かっている。男に向かえば「友情」となり女に向かえば「愛情」となる。
女の社会性は親子関係を基盤にした「兄弟関係」である。兄弟だから、それが
男に向かえば「兄や弟」となり、女性に向かえば「姉や妹」である。


多くの例外はあることは間違いないが、少なくとも男女によって「友情」に対する
スタンスが違いは明白である。
問題なのは、互いに「友情」に対する考え方の違いを押し付け合うことである。

婚活から社会問題へー大人にならない若者達ー [恋愛]

逆説的にモノをみてから、現状に返るという思考法がある。
つまり、何かの極限にパラメータを設定して、思考要素を減らすのである。
これは物理学では良くやられる手法である。

ここでは、現在の草食系男子という言葉を考えたい。
なぜか草食系であると問題があるかのようにプロパガンダが打たれているが、
本当にそうなのであろうか?

昔に比べて、肉食が減ったというのはある程度あたっているだろう。
それはかつてに比べて、恋愛に対する閾値が下がったからだ。
恋愛が特別な立場の人間にのみ存在していた時代から、
身近なよくあることに変ったことがその要因と言えよう。
それを受けて、セックスに対するタブー感も薄れてきた。
ある程度の年齢における付き合いの中に、セックスは普通に紛れる
こととなったのだ。つまり、セックスに対する閾値も下がったわけである。

このことで、どん欲に女性を求める必要もなく、セックスにたどり着くように
なった。ただし、イケメンに限る。これはジョークではない。
そもそもイケメンは適当にモテるわけで、肉食である必然性もない。

むしろ、本来肉食にならなければモテない群の人々が、
現在、草食と呼ばれていると考えるべきだ。かつては、自分がモテない
ことを自覚した男が何か(金、頭脳、芸術・身体能力)に秀でることで、
それを武器に女性を口説くことが肉食だったわけである。

現在はこの肉食が減ってしまった。理由はいくつかあるだろう。
一つには景気の問題だ。給料が減れば、金を魅力にできない。
頭の良さも、ほぼ金に還元されるため、その魅力度は景気に左右される。
芸術系はおそらく昔から、草食だっただろう。なぜなら、自己の欠落を
意識する人々しか芸術家にならないからだ。一種のナルシズムを必要と
する。これに共感する女がいれば、モテることになる。今の時代は
身体能力がなんとか輝きを放っている。つまり、スポーツ選手である。
多くのタレント・アナウンサーがスポーツ選手と結婚するのは、彼らが
依然として肉食であるからだ。

つまり、肉食中の金と頭脳に頼るべき人々は、景気に圧されて
元気が出ないのである。

さらに、これらの要素に元々縁のない人々は、草食にならざるを得なかった。
それは昔からであって、今に始まったことではないのだ。


さて、では何故これほどまでに、草食などという概念が流布しているか?
それは男の側の問題ではない。女性の問題であると考えられるのだ。
これが逆説的な見方である。草食男子という言葉の背景には、
女性の欲求が秘められている。当たり前だが、対人関係の問題は
その対象がいて始めて話しが進む。草食男子がいるならば、その対が
必要となる。それが肉食女子ということだ。

昔から肉食女子はいた。肉便器と呼ばれるような、惨い扱いのこともあるが、
一定数は必ずそのような女はいたのである。現代はあたかも肉食女子が
増えたかのような話しになっているが、これも誤解である。草食男子を定義
するためには、肉食女子が必要だっただけだ。先ほども述べたが、物事が
対人関係なのだから、片方が下がれば、片方は相対的に上がることになる。

つまり、景気によって金や頭脳に依存していた肉食が減ったことが、
翻って肉食女子を増やしたことになる。ただそれだけのことを大げさに
表現したのが草食系男子である。かつては会社に入り、それなりに訓練を
積めば、一人の見られる男になったというだけのことだ。現在はその道が
閉ざされているということである。

本質は上記の事柄だが、末節について検討してみよう。
例えば、草食男子が増えて困っているのは女子だけである。
男は単にセックスを我慢すれば良い。もちろん困っているのだが、女性の焦りとは
だいぶ違う。特定の時期に女性はしてくれる人いなければ、子どもが埋めないからだ。
現代における年の差婚の原因はここにある。

現代の若者の置かれている状況では、恋愛をするに足るだけの金を得ることが出来ない。
正確に書けば、女性が望む恋愛及び結婚をしてゆくだけの金銭的余裕がないということだ。
すると、若い女性はどうなるかといえば、金銭的な安定感がある年上男性と結婚する
ということだ。ほとんどこれだけである。これを女性は包容力とか大人の男という要因で
説明しようとする。しかし男は女性が想像するような大人ではない。大人に見える
男がいれば、それは経験による心の落ち着き程度である。それを若者に求めること自体が
間違っている。

逆に言えば、女性は幼児化が進んでいる。金銭的に困難な状況にある同世代に
見向きもしないのは、「甘え」以外の何者でもない。包容力がある人がいいという女性は
暗に父親を求めているのである。誰かの庇護になりたいと願うのは、人の性であるが、
それを標榜してはいけないと思う。年の差婚は、単に擬似的な親子関係であり、
それは女性が子供でいたいという考えを継続させるための手段であるのだ。

むろん、子どもでいることは心地が良いのかもしれない。それは男もそうだ。
だからこそ、草食男子になる。最近の熟女好きという話しもこれに通じるだろう。
セックスを拒否するのは、大人になることを暗に避けていることでもある。
つまり、現代の若者は総じて「子ども」なのである。いや子どもでいたいのである。

女性は年上の男性に「父」を求めて、自らは子どもとして生きていたいと言い、
男性はセックスを拒否して「男」になることを避けて、子どもとして生きていたいと言う。

なぜか?

それは大人になる必然性が失われてしまったからだ。
いや、現代は「大人」という概念が消失しつつあるのかもしれない。
社会から急速に「大人」が消えているのだ。大人とは自然発生しない。
それは訓練のたまものなのだ。だからこそ、成人の儀式があり、その後は
無理矢理「大人」にさせられていたのである。つまり大人とは社会的な
役割であって、自然発生的に大人になることはないのである。

その意味は、大人という形で責任ある社会の成員となることである。
ところが、現代では、大人になると何か得をするだろうか?
いや、昔から、大人になって得をすることなどあまりなかっただろう。
明治以降の日本では、大人になるとは、男にとってセックスできる
という意味だっただろう。それは妻をめとることであり、家庭を築くことでもある。
今のフリーセックス化では意味を持たない概念である。

現代の病理に、物事を資本主義視点で眺めるということがある。
効率主義は、得か損かで行動を変える。現代の若者は、意識的か無意識的に
大人になることを損だと思っているに違いない。世の中の基調として、
若いことが良いことだという考えが隅々まで浸透している。このような中で、
どうして、大人への希求を見いだせるというのだろうか。大人自体が
子供でありたいと願っている昨今である。


さて、子供でいたいという欲望をかなえるために何が出来るか?
女性は「父」を求めることである。男性は「母」を求めることである。

女性と男性で非対称なのは、男性はどうしてもどこかで「男」になる必要が
あり、女性は「女」にならずとも「子供」のまま過ごせるということだ。
女性は、既に大人である年上の男性と結婚することで、「父」と「男」の
両方を得ることが出来る。一方で、男性は年上の女性と結婚しても
「母」を得られても「女」は得ることが出来ない。だからこそ、男性は必然的に
年下好きにならざるを得ない。

かくして、世の中は、年の差婚が生まれていく。
女性は、景気のあおりをうけて、ますます「大人」を探そうとして、
男性は子供のままでいようとする。この差異が現代の恋愛状況である。

二つのシミュレーションがあり得る。
1,景気が回復する場合
  現代の差異は現代の若者に織り込まれている。よって、今の多くの若い女性は
  結婚や出産からあぶれることになる。 彼らは自ら働いていくしかない。社会は
  安定に向かうため、仕事そのものは問題ないが、結婚からあぶれたこと、とりわけ出産を
  逃したことによる生理的、精神的ダメージを負って生きることになる。この欠落した欲望
  の代償が必要となる。例えばペットのブームが起こるなどが予想される。また、子供について
  は現代日本では養子は流行らないため、精子バンクなどによる人工授精が流行るだろう。
  また、老後のために、子供ナシの結婚が増えるかも知れない。それも若い男を養うという形
  になり得る。父親を知らない子供が多く生まれることにおける社会問題が生まれるだろう。
  メンタリティとして「子供」な彼女らは、子育てに失敗する可能性が高い。日本はますます
  大人不在の国になるのかもしれない。

  男性は景気が回復してくれば、肉食に変っていく。若者は中年にさしかかるが、同世代には
  目を向けないので、若い子達が対象となるだろう。その結果、世代間の女性の奪いが起こる。
  このときに、女性が相変わらず「子供」であれば、年寄り有利な状況が続くことが予想される。
  一方で、若い世代も安定しているため、決して不利ではない。世代間闘争が表面化すれば、
  何らかの社会変革が起こるかも知れない。一方で、人工授精で生まれた子供の父親が代わり
  になることも続けて起こってゆくだろう。そのような家庭が珍しくなくなってゆく。
血というものが崩れると家という枠組みの考え方が揺らいでいく。社会単位が真の核家族
となるだろう。

  男女に仕事があり、社会が安定した上で、家を中心とした結婚という制度そのものが崩れる。
  結婚と離婚を繰り返す割合が増加し、次第に結婚自体の価値が失われていくだろう。

2,景気が回復しない場合
  若い女性はなんとかして生きる道を見いだすしかない。その活路は一つは年上世代だろう。
  収入源が安定している。少なくとも自分が子育てをこなす期間程度には、問題がない。
  よって、年の差婚は加速する。一方で、この結婚はいずれ崩壊する。まず男性に職がなくなる。
  金・頭脳によって女性にアピールしていた世代から仕事がなくなれば、そこに「大人」はいな
くなる。これに追い打ちをかけるように、男の健康問題が浮上する。要するに介護のスタートだ。
介護が必要となっても、女性達のメンタリティは「子供」だったため、この責任を引き受ける
ことが嫌になる。すると、男性の定年離婚が増える。女性達は彼らの年金を搾取しながら、
介護を回避する。捨てられた男は惨めに死んでいくことになる。このような孤独死が社会問題
となるが手の打ちようがなく、そのしわ寄せは下の世代に向かう。
 
  また国内に希望が見いだせない女性は、かつての中国女性のように、国外へ移動し始める
だろう。移住初期では、アメリカ・ヨーロッパに向かうが、次第に羽振りのよい中国・韓国へ
と移動する。インドやブラジルへはまだ抵抗感を持つだろう。

  若い男はますます、子供化する。金も持たず、仕事も持たずという二重・三重苦にあえぐこと
になる。あまりに貧困が続けば、年上にペット化される男性が出てくる。金を稼げる女性に傅く
ということだ。結婚など考えられず、二次元世界に没入するか、引きこもる日々。精神的に
追い詰められた若者で知能が高くないモノが犯罪に走り始める。また鬱病など精神疾患になる
ものが増えるだろう。女に対する欲望の抑圧は、社会不満となって、殺傷事件が増え、社会的
なセキュリティへの費用がかさむようになる。社会全体が不信に包まれていく。社会の荒廃を
嘆く心性から、宗教の復権が訴えられ、新興宗教を始め多くの信仰が強化されるだろう。
現世から離脱した宗教的視点は、厭世感により、新しい組織を生み出すだろう。多くの普通の
人々は、ネット上の新しいコミュニティに埋没していく。世界がWeb上で矮小化されて表現
されるようになる。

  生まれ来る子供達は、大人不在の中、成長をするが、ここで一つの転機が訪れる。大人になる
べき人々が大人にならないため、子供らが大人化する現象を生む。大人達よりも情報収集能力
たけ、思考もデジタルにそった形で発露するタイプの到来が予想される。彼らによって社会は、
急速に変化する。大人達は大人の姿をした子供であり、子供らは子供の姿をした大人である。
そのようにして社会がバランスするしかないだろう。

  社会のお荷物になった大人達を子供達はどうにかしてマネジメントするのだろう。

さて、だいぶ暴走?妄想したが、現代は人にとって始めて直面する問題を多く抱えている。
とりわけ、社会的な問題としての男女問題は、おそらくこれから社会制度の崩壊を招く要因を
内在している。上の世代がケチなばかりに社会が用意しなかったポジション不足が問題を招いて
いるのだ。いずれ上の世代は死に、我々が残る。そのときに、どういう形の生活があり得るのか
を考えることはひいては、現代の婚活と繋がるのである。

女性の価値、男の欲望 [恋愛]

http://toko03.easter.ne.jp/essay15.html
一人の30代、バツイチの語りである。この人はとても頭が良い人だと思う。
客観的に自分の状態を語り、現状に安易に答えを出さないだけの我慢がある。

ここで語りたいのは、彼女のような人々が増えてきていることと、
それ以前に男の女性に対する価値観についてである。

まず、女性に言いたいのだが、女性の多くは男に幻想を抱いているということだ。
男が女性に優しくする目的はセックスであり、それ意外はオプションである。
そう思ってまず間違いない。もちろん、そうでない人もいるがそれは例外と思うべきだ。

そのような意味で、男女の友情なんてものは信用してはいけない。
もし、男女に友情があると思っているのなら、男が女性への下心をごまかしているか、
全くもって、女性と思っていないかのどちらかである。どっちにしても、
男女の友情が成り立っている場面は非常に不安定な関係にあると言える。

男は女性に対して幻想を持つ。それは商品としての女性である。
よって、女性もまた、自己を商品としての女性と認識する。これが社会的常識である。
もちろん、例外もあるが、それは後程にしよう。この常識を踏まえると、
女性の生き方は3つしかないと岸田氏は言う。

1、商品して、結婚をして妻になる。
2、売春行為を行って生きる。
3、1,2に組せず、男に振りまわされつつも、自由に生きる。

1は言わずとも知れた「三食昼寝付の売春」と呼ばれる結婚である。
自分をなるべく高い値段で、男に売って養ってもらうというタイプである。
これが今までの大多数の生き方だった。男の立場から言えば、妻という商品を
手に入れるという行為が結婚である。それは男が好きな時にセックスをしても
良い対象を得るという意味であり、妻はそれにこたえる義務がある。ここに
女性の処女性が意味が出てくる。新品は中古よりも価値があると皆が思っている
からである。つまり、処女への欲望は女性を商品として見るという価値観に基づいている。

2について言えることは、結婚におけるセックスの提供という義務を行わない代わりに
不特定多数の男に何らかの性的サービスを行うことで、対価を得る生き方だ。売春と
書いたが、ここでは水商売全般を指すことにする。女性の性という部分の商品化では、
このやり方が一番儲かるかもしれない。しかしながら、欲望の一つである性を切り売り
するという意味では一番惨めかもしれない。また、子供を持つなど一般的な通念における
幸せはそこにはない。

3は、自己を商品化しない手段である。女であることを武器に、対価として養ってもらう
などと考えず、ただ自己における性的充足のためにセックスをする女性である。このような
女性は基本的に、一般的な通念における損をする。それは気が向いた時にセックスを求める
一方で、そこに「金銭」を必要としないからである。一般にはただのヤリマンにも見える
かもしれない。しかし、彼女はやりたくもない時に義務としての性交からは逃れることが
出来る。対価を求めない彼女は、女性からやっかまれるだろう。なぜなら、彼女らを
逆説的に侮辱しているからである。自分たちが対価としてしているものを彼女はタダで
提供するからである。これは彼女らにとっての脅威である。なぜなら、自分たちが対価と
している性的な欲望が、タダとして扱われてしまっているからである。

一方で、男の方は相も変わらず、女性を商品としてしか見ない。これは男がというよりも、
男女問わず社会がそのように考えることを要請しているためである。すると女性に対して
どのようなことをするか言えば、たとえば数を競ってみたり、如何にして安い価格
で最後までやるかなどと考えるわけである。商品なので、高級なものを手に入れるには、
コスト(金と時間)がかかると思っていて、だからその努力に見合わないと思うと
活動をやめてしまったりする。そして、手に入れた商品は自分の好きなようにできる
と思っている。商品であるからして、コストがかかった分だけ、その女の価値は上がる。
よって、すぐにやらせてくれる優しい女性よりも、しぶしぶようやく受け入れてくれた女性
に価値を見出すのである。女性が「身体が目当てだったのね!」と男をなじるとしても、
それは男の始めからの欲求であって、今更である。女性は、女性を商品として扱う男性に
対しては、カマトトぶっても始まらないのである。少なくとも、女性は彼から、何らかの
社会的・金銭的価値を得たはずなのだから。もしそれを得てないとすれば、ただ借金が
焦げ付いたまでのことである。

あなたが女性だとして、性行為の対価としての結婚や愛情を求めるのだとしたら、
それは自分を商品化していることと同義である。そのような発想に縛られている女性は、
上記の1か2しか選択できない。ともすれば、30までには何とかどこかの船に乗りたいと
思っていることだろう。女性的価値を増大させることに身を注ぎ、それを女性は商品だと
思っている男性が買うのだろう。その顛末は明らかだろう。女性の魅力は年を追うごとに
減衰し、男性はなぜ、このような商品を選んでしまったのかと後悔する日々である。女性は
年々大事にしてくれなくなる旦那に愛想が尽き、家庭が冷え切ったものになってゆく。
普通はそこに、人間的交流が生まれ、落ち着きを取り戻すのが夫婦である。しかし最近の
夫婦は冷え切った家庭から目をそらすように外に向かって活動を開始する。ここに浮気や
不倫の目があるのだ。

非常に数少ない可能性として、商品化せずに男女が人間的交流可能な状況もある。
女性がまず自己を商品化することをやめることである。自己の価値を若さや繁殖力に
おいて対価としての結婚や養うことを要求することを拒否することだ。男性にしても、
女性を商品として扱うのではなく、一人の人格ある女性として見つめることだ。
このような二人がいて気が合うとすれば、好意の発露として自然と性行動に向かうだろう。
それは決して、特別価値がある行為としてのセックスではなく、お喋りをしたり、
一緒にご飯とすることの延長としての性行為となるだろう。その限りにおいて、女性は
商品化された性ではなく、自己の性衝動を全うすることになる。男にしても、好意を持つ
相手には普通のこととして性行為を求めるだろう。そして、それを特別のこととして
捉えないので、それに対して代償を払ったりはしないだろう。要するに楽しくおしゃべり
したからといって、料金をとらないのと同じである。このような関係は稀であれ、可能で
あり、現代における理想なのかもしれない。

現代女性の悩みはおそらくこの過渡期にある。
彼女らの欲望として子どもが欲しいのである。そして家族が欲しいのである。
これを満たすための手段として、過去の価値観では1か2しかなかった。少なくとも
性を商品化して男を釣るという手段が多勢に無勢を占めていた。しかし現状では、
かなり女性の社会進出が進み、自己を支えて生きていくことが可能となってきた。
つまり、自己を性の商品として売らなくても生きていけるようになってきたのである。
すると、無理に売らなくても良いので、3の生き方が可能となってきたが、残念ながら
男の方がそのような考え方について行っていないために、現状では1か2に成らざるを
得ないのだろう。

また、一方に現代女性の心理としてがめつい精神があり、基本的にはハイパーガミーを
求めるように教育を受けている。そのため、自己よりもより優秀な男を求めることとなる。
ところが見渡してみれば、自分が優秀になってしまったがために、自分よりも優秀な男が
相対的に減ってしまっている。そうなると、選択肢が減り、相応の相手が見つからないと
嘆くことになる。これは考え方を変えるしかないのだが、多くの女性は相変わらず
男性に父親を求め、「包容力」がある人が良いなどと理想を掲げているのである。
それは、男が母親を求め、「優しい」人が良いということとほぼ同義である。

女における性の価値が社会的にどのように定義づけられるかで、社会の構成は変わるだろう。
これを「性の贈与論」と呼ぼう。性がどのように交換されるのか、これによって社会を
記述できるはずである。このような視点で、様々な社会を分類できるのではないだろうか?

好みのタイプー個人的見解ー [恋愛]

ここの所、やたらと好みのタイプを聞かれることが多い。
何も聞かれないより、聞かれる内が花だなあと思うのだけど、
この手の質問が案外難しい。

聞く側の立ち位置はおおよそ二つ。
・酒のつまみにしたいだけ
・自分が好みに入るかを知りたい

ということだと思う。ここではとりあえず、後者をだと思っておくw

「たとえば芸能人では?」と聞かれたときも似たようなことだと思う。
あまり深い意味はないのだけど、これに答えるのって難しいなと常々思っている。
それほど、好みがしっかりとあるわけではないからだ。
時には、井川遥のようなお姉さんが良いと思えば、可愛らしい綾瀬はるかがいい場合もある。
必ずしも、どんな人が良いかっていない気がする。いや自分であまり考えたことがないだけで
共通項があるのかもしれない。むしろ、どんな人が嫌い?と聞かれる方がもうちょっと
いろいろ言える気がする。

単純に外見は良いに越したことはない。そりゃそうだ。審美的なものは誰にでもある。
しかし、長く付き合うにはそれではだけが要素ではない。価値観が合ってることや
魅力度が近いこと、自分が置かれている状況を理解してくれることが重要だ。

表情は重要なファクターだと思う。喜怒哀楽がはっきりしていて、笑顔が良い人は、
大抵の人に好かれるだろう。そこに色気があればほとんど無敵である。
最初に人を引き付けるのは綺麗であることや可愛いことであるが、
それはとっかかりに過ぎない。きっとそれ以上に大事なのは反応なのだと思う。

そこで一つの仮説を立てたい。それは「反応美人」というコンセプトだ。
おそらく、人が心地よいと思うには、相手のリアクションが重要である。
一緒にいて落ち着けるのは、考えが違わないからであり、話して面白いのは、
思考が良く似ていてそれでいて違いがあるという場合である。

キャバクラのナンバーワンは、きっと聞き上手に違いない。つまり人の話に良い反応をする
ということだ。男は割合と小心ものだから、自分を受け入れてもらえるかどうかを気にして
いる。その時、重要なのは自分の話で、「笑ってくれる」かである。

おそらくこれはとても高度なことをやっているので、訓練でどうにかなるようなもので
なければ、長く付き合ったからといって変わるものではない。
とあるトピックスに関する知識や考え方が似てなければ、適切な笑いは生まれないし、
とってつけたような反応はすぐにばれてしまうからだ。

話をしてウマがあうと思った相手は同様な経験をしてきた人が多い。
これは同郷であることや時代が近いことが影響をもたらすだろう。
もちろん、そんなことは関係なくウマがあうことはある。

大事なのは好みのタイプは外見だけでは決まらないということと、
話をしてみて相手の反応がどうかということなのだと思う。

恋愛の難しさー自信と恋の反比例ー [恋愛]

恋をした。すると多くの人は、その相手を特別に思うが故、
その人の前に出ると少なからず緊張をする。

理由は単純で、気にいられたい!と思うからである。
相対的に相手の方が「上」の関係になるのだ。

だから、よく「惚れた弱みに」とか「好きになったら負け」とか言うことになる。
しかし、そういう状態にこそ、恋の媚薬が含まれているのであり、その恋愛が
特別になるのであって、惚れられた経験がいかにあっても、それはある意味で、
恋愛ではないのかもしれない。

恋する気持ちを持つと、少なくとも相手に対して自分の自信がなくなる。
逆に好かれてるとわかれば、相手に対して自信を持つことができる。
これを恋愛における「自信と恋の反比例の法則」という。(ことにしよう)

とある人を好きになることは素敵なことではあるが、喪失してしまった
相手に対する自信はどうやって回復させればいいのだろう?
これが案外とやっかいで、多くの恋はこの法則のためにうまくいかないのである。
つまり、相手を意識しすぎると、うまくいかないというわけだ。

好きだからこそ、ぶしつけな対応になったり、思わず目をそらしたり、
不器用になってしまう。相手からしてみたら、それは嫌われてると感じられても
不思議ではないかもしれない。なんとももどかしい。。

そういう自信はどうやって回復するのか?それはただ、相手に好意を許容してもらう
だけである。つまり、相手にも自分に好意を持ってもらうということだ。

歩み寄りに失敗すると、気まずい感じになる。これを恐れるとなお、気まずい。
好きな分だけ、やはり気まずくなる。反比例してしまうのだ。

逆にいえば、相手が少しも緊張感なく、接する場合は、恋がそこに存在しないと
言ってもよい。男がナンパするために気軽に声をかける。これは相手に対して
気持ちがないから、かけられるのであって、気持ちあったら恥ずかしいという気持ちが
出てくるので、難しくなるのだ。

この理屈からいえば、ナンパから恋愛になるのは難しいのかもしれない。
もちろん、その後に一緒に何かをしているうちに仲良くなることは当然あるが、
少なくとも始めの状態で、男は恋する気持ちがある場合、声をかけることは
相当に気恥ずかしくなるものである。

女性はナンパされて、嬉しくなってついて行くこともあるかもしれない。
でも、それは恋ではなく、ただのセックスであったり、利用されている可能性が高い。
そのような意味で、そこですぐに事に及ぶと恋愛を逃してしまうことになる。

恋愛をしたいのであれば、相手が恋愛状態にあるのかを確かめた方がいい。
それは態度を見ればすぐにわかるはずなのだ。女性が思い描くようなドラマにありがちな
男の態度は、恋をしていたら、とり得ない行動である。あのような余裕な態度は
相手に恋を感じないから出来る行為であることを女性は忘れてはいけない。
あのようなことに憧れる女性は、男に振り回されるだけである。
なぜなら、そのような男しか、あのような態度がとれないからだ。

男が対応に緊張感を持っている時、それは確かな恋である。
女性はそのような態度を女々しいと揶揄するかもしれない。
しかし、それは一過性のものに過ぎないのである。だから、
そのような態度のみを見つめて、頼りないとか余裕がないとか決めないで欲しいのだ。
このような男は女性を大切にしてくれる。それを覚えておいてほしい。

むしろ、女性が夢見がちな男の態度は、女性を適当に扱っているからこそ、
出来るのであって、決して大切にしはしないのである。

ああ、矛盾。嘆かわしくも、世の中このように出来ているのである。
女性が好む余裕な態度は、男に恋をもたらさず、女性が好まない余裕がない時、
男には恋が訪れている。多くの女性は見る目がないのかもしれないし、
もしくは心の奥底で、「適当にあしらわれる」ことを望んでいるのかもしれない。

どっちにしても、余裕のある男は決して相手に恋することはないことを明記して
おきたい。女性はどちらが幸せかを考えてほしい。

様々な恋愛論 [恋愛]

http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20110705/111412/

ものすごく的確なアドバイスを女性たちにしていると思う。
実際的に、「恋愛」を行うにはこの「ルールズ」なるものに従う方がいい。
女性は一度は目を通すべきだろう。

しかしと言いたい。
人生の目的は何も「恋愛」だけではない。
男の気持ちをキープするというだけで、何が嬉しいのだろう?
その不安定な安定性をどうして求めたがるのだろう?

二つの軸という話を用いて男の心境を説明している。
・子孫繁栄と自己維持

である。
なるほど、よく体系づけられている。説得力がある。
恋愛を記述するのはこのようなマトリクスなのかもしれない。

女性がなぜ、このようなマトリクスを使って戦略を練るかといえば、
「我儘」だからである。つまり、「私の事を一番として扱い続けてほしい」という
願いがあるからだ。普通に考えてみて、それが如何に無理かはすぐにわかるだろう。

あなたが欲しいものがあったとする。例えば、欲しいバックがあるとする。
買えないでいる状態では、とても欲求が高い。だんだんとお金がたまってきて、
いざ手に入れた時を思い出してほしい。とてもうれしかったはずだ。

もちろん、今もその鞄を大事にしているはずだ。だが、そこにはあの焦がれる
気持ちは存在しない。なぜなら既に「手に入ったから」である。そこにあるのは、
空気のような関係である。いつも手元にあって大事だけれど、常に意識するわけではない
という存在性だ。

当たり前だけれど、恋愛とは上記の事とまるで同じである。
人の状態を考えた時、「恋愛状態」とは「病気」と同じ異常事態である。
異常な時は、いつか終わらなければならない。その異常な状態を維持しようとすれば、
どこかに綻びが出て、関係が終わるのである。

男から興味を持ってもらいたいのはわかる。
しかし、「私の事を一番として扱い続けてほしい」という願いは「我儘」である。
それは男に常に「病気」でいろということに等しい。

では、どうなるべきか?
上記の軸の話でいえば、自己維持の軸に立って、互いに味方でいるということである。
それは普通「愛、愛情」と呼ばれる感情である。欲しかった鞄に恋することはなくても、
そこには一緒に過ごしたという思い出があり、愛着があるはずだ。

自己の「我儘」を愛情へとシフト出来ない女性が増えている。
だから、結婚できないのではないか?だから、恋愛が長続きしないのではないか?
当たり前の感情を当たり前と捉えることが重要ではないだろうか。

上記サイトの戦略を一時的にとることは良いと思う。
けれど、いつまでもそれをしていては、幸せにつながらないことも知っておくべきだろう。

携帯電話の功罪ー結婚できない理由ー [恋愛]

携帯電話が恋愛において果たす役割について考えてみた。

現代の恋愛において、携帯電話が関わらない方が難しいくらいだろう。
それくらいに携帯電話は普及してしまった。これによって、昔よりも恋愛の可能性が
あがり、浮気や不倫も増えたことだろう。つまり、人と人の接触を増やしているのだ。

このような社会になると、コミュニケーションにウェイトが増えることになる。
少なくとも、メールが来ているのに放置することは、相手に対する敬意の無さを
示すことになる。そのような意味では、メールを書くことは半場、義務的でもある。

一方で、好意を示すのにこんな恰好なツールはない。
なにしろ、ダイレクトに相手に情報を送れるからだ。
誰にも知られずに(盗み見られなければ)、男女が交流できるツールは
現代まで存在しなかったのだ。これによって恋愛事情は一変した。
少なくとも、現代において携帯を持たない人が恋愛をするのは難しいだろう。

さて、このような便利な機器を手に入れた我々だが、
当然のようにデメリットがあるはずだ。

そのデメリットの一つが携帯電話の気軽さである。
これが結婚を妨げている要因の一つになり得ることを論じたい。

気軽にメールが打てるし、必要となれば電話できる。
いつでもつながっていられるということになる。これは逆に
常に確認を取らなくてならないという意味にもなる。

付き合っている人にとっては、これは問題の種になる。
相手がちっともメールや電話をくれなければ、それをもって愛情がないと判断するだろう。
たとえそうでなくても、そのように感じてしまうはずである。
これによる相手への信頼感の喪失というのは少なかれ問題になるはずである。

一方で、出会いにおいてはこの気軽さがものをいう。
連絡先を交換しさえすれば、あとはいくらでも会うことが可能である。
つまり、浮気の可能性をあげるのである。仮にそこまでハードでなくても、
他愛もないコミュニケーションをとることが出来る。
魅力的な女性の元には、毎日多くの男性から何らかのメールが届くだろう。
仮に彼氏がいてもである。これによって、自分は少なからずモテることを意識するだろう。

また、今まではモテなかった男も、魅力的な彼女にアプローチをする手段を得たことになる。
外見では推し量れない何かをアピールする場になり得るからである。

携帯電話がもたらした気軽につながることが出来るという機能。
この機能が、二つの副次的作用をもたらした。
一つは、関係性の持続における困難さ。
もう一つは、気楽な関係の持ち易さ。

この二つの派生した機能性は、明らかに結婚という場において不利に働くだろう。
結婚とは、特定の相手と共に暮らしてゆくという社会的表明である。
携帯電話は、この社会表明を打ち崩す作用を持つのである。

時代的な背景として結婚しないという意味もあるだろう。
しかし、ミクロに見た場合には、恋愛市場の一極集中が起こっているということである。

つまり、特定のモテる女性に多くの男性が携帯をつかって気軽にアプローチできる時代
ということである。この意味は、あぶれた女性は、結婚できないということであり、
多くの男性が特定の女性にアプローチをかけるということは、男もあぶれるということだ。

おかしなことに、特定のモテる女性は、モテるがゆえにもっと良い男がいるのではないか?
もしくは、すべての男性が他愛もなく見えて、選べずにいる状態であり、結婚しない。
結局の所、結婚という社会制度と携帯電話の機能性は明らかに反するものである。

ここにさらに、結婚が「恋愛」の果ての行為であるという誤解が流布されていることで
なお問題に拍車をかけている。本来、結婚とは就職と同義の言葉である。かつては
否応なく行うべき社会行為であった。ところが近年はここに恋愛という本来誰にでも
起こるわけではないことが、結婚の前提にされてしまった。
このようなことで結婚はますます遠い話になってきたのである。

また、いざ結婚してみても、必ずしもうまくいくとは限らない。
世界はますます複雑になってきている。

携帯電話がもたらす関係性の変化は間違えなく影響を与えた。
それは便利になったとともに、面倒なことも運んできた。
少し、冷静になるべきか?それとも使い倒すべきか?

ものは使いようである。
便利さを失わない程度に面倒さを抱えて処理していくしかない。