少女マンガの不条理 [恋愛]

少女漫画的世界観は基本的に嫌いである。
私が嫌いでも、世間一般的には一向に構わないと思うので、
どうして嫌いなのかを考えてみた。

おそらくは感情移入のしようがないからなのだ。
主人公は、愛のあるチャラ男か、やさ男と相場が決まっていて、
そういう女性が作り上げた理想的男という概念と自分の存在が
あまりに相容れないのである。

先のエントリーで「異性」について書いたが、その中に「所有」の話が
出てくる。男は基本的にあらゆるものに「所有欲」を出す。たとえば、
サッカーの試合を見ていて、「俺だったらこうするのに」というような
発言をする。その動機は、サッカーの試合自体を<所有>しているから
に他ならない。現実の所有ではなく、概念としての所有である。

少女漫画に出てくる男の気持ち悪さは、この所有の概念のもっともたる
シンボルであることだ。そして、女性に所有される喜びのようなものが
あって、その主体性の欠如がまた少女漫画を気持ち悪く感じさせるのである。

たとえば、男が女に「あれ?髪型かわった?似合ってるね」というとする。
女性はなぜかこれを好意とか優しさだと評価する。それはまったくの誤解で
ある。男は単に所有物に対しての変化について言及したのである。つまり、
そのような発言の裏側には、「お前は俺のもの」という暗黙があるのだ。
男からみれば、それらの男の言動は優しさではなく、所有物への感想に
過ぎないのだが、女性がそれを嬉々として受け入れることに不思議さを
感じるのである。

少女漫画の気持ち悪さは、この「お前は俺のもの」という所有感に
浸りたいという女性特有の自己満足が存在することからくる。
もっとはっきりいえば、その男はあなたを人として見てないという
意味であり、ある意味で馬鹿にしているのである。

女性たちは、自分たちが馬鹿にされていることを知りつつ、
それに酔いしれているのか、馬鹿にされているとはまったく思ってないのか。
どちらにしても、所有欲からくる言動を男らしさと考えるのは、
なにやら不可思議であるが理解できる。

なぜなら、この手の物語が好きな女性は子供なのである。
子供は所詮子供。だから、男と対等の関わりなど出来ないのである。
むしろ、庇護されてナンボだと考えているので、進んで子供を演じる。
そのためには、相手の男は大人ではありえない。むしろ、単純に
所有欲をさらけ出す人物像にならざるを得ないのだ。

典型的な少女漫画のプロットは、子供でいたい女性向けということになる。
むろん、単なる物語である。そういう気持ちをくすぐる物語にはまるのも
良いとは思う。しかし、現実にそういう男が良いと思っているのなら、
考えを改めた方がよいと思う。泣きをみるだけである。
いや、泣きたいのだから、それもいいのかもしれないが。

少女漫画のやたらと人が死んだり、記憶をなくしたり、
勝手に兄弟になってみたりする不条理設定によって、
切ないとかいうのは、正直なところイライラする。

不条理設定の根幹は、ちっとも不条理ではない。
考え方を変えれば、終わってしまうことだらけである。
むしろ、人生において本質的な不条理な設定など、皆無である。

よく用いられるプロットとして、生老病死がある。
生まれること、そして生きること。
老いること、成長すること。
病気をすること、死に向かうこと。

これらは不条理だと多くの人が言う。
だが、むしろ普遍の真理である。誰もがこれらにお世話になる。
誰もがお世話になるありふれた出来事である。なぜそれをもって
苦しむ必要があるのだろう。

苦しさとは、つまり状況を受け入れられない態度ということだ。
受け入れたら死んでしまうような悲惨な状況はしゃれにならないが、
誰かが死んだとか、病気になったということは、受け入れるしかない
出来事である。そのときに心に傷を負うかもしれない。だが、
時間が解決するのが人生の常である。

どんなことでも、いき続けていれば受け入れて消化する。
そのように出来ている。男に比べて女性はむしろタフである。
そのタフな女性たちが、過度の不条理設定にはまるのは、
むしろそのタフネスのなせる業なのかもしれない。

結局、少女漫画とは不条理なのである。
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