性問題ー恋とはー [恋愛]

「女性の冷感症」シュテーケル著

精神分析の祖の一人であるシュテーケルの本である。
この本のテーマは女性の性における男との格闘であるが、
その内実は、恋愛指南書の体をなす。
学術的にみるとあまりに文学的素養がありすぎるきらいがあるが、
内容は現代においてもなお興味深い。

ひとつには、性の問題は非常に根深い。
誰しもが正常な社会生活を送る場合に避けて通れない課題だからだ。
多くの女性たちは、男たちによる「子供を産む機械」といった誹りを
跳ね返すべく活動を行ってきた。ウーマンリブなどと呼ばれる活動と
思想を体現するフェミニストと呼ばれる人々がその代表だ。

実際にフェミニスト信仰において、社会に多くの女性たちが進出した。
このこと自体に異議を唱えるつもりはない。能力のある人々が仕事をすればよい。
一方で、それにともなう軋轢もある。社会進出した女性が増えれば、その仕事から
あぶれた男がいるはずである。家事手伝いの男の存在を現在の社会では許さない。
年長者は彼らをニートと呼んだり引きこもりと呼ぶ。彼らはある種の社会競争に
おいて、社会から取り残されたもしくは、その立場を選んだ人々である。
かつては、家事手伝いとして女性が家にいたのと大した差はないはずである。
現に家事をして過ごす若い男がいるのである。現実とは奇妙で、誰も仕事量が
減らずに、男用以外に女性用があり、その部分に女性が進出したかのように
記述されるが、いかんせん無理があろう。全体がバランスしているのである。
社会は過去をどうしても美化しがちなのである。

さて、女性が結婚というものにおける役割として、子供を産むということがある。
現代では、子供を産むという大義名分を得ること以外で、結婚を望む意義はほとんどない。
もちろん、関係性の永続的契約という意味もあるが、それは愛情を保証するものではない。
結婚にはむしろ愛情などといった本能的な作用は不要である。一つの社会契約に過ぎない。

女性が望むと望まざると、性の問題は訪れる。シュテーケルは女性の冷感症つまり
性的快感の欠如を意思の力によるものとみなす。少なくとも潜在的に冷感であることは
ごく例外的な症例とみなすわけである。つまり女性が感じにくいというのは、なんらかの
後天的作用があると主張するわけだ。

彼をして、この原因を精神的外傷とよぶ。現在よく口にされるトラウマである。
トラウマの需要なポイントは、後天的であるということだ。つまり経験依存的な
嫌悪感情の獲得である。この嫌悪感情が性に向かって発動しているのが冷感症という
わけである。

「恨み」という概念を導入する。恨みは精神的外傷により発生する。少なくとも、
何らかの心理的抵抗によって「恨み」を晴らそうとする。その一つの手段が感じないという
行動である。征服欲と服従欲があり、征服欲が強くなるにつれ、女性は感じなくなる。
感じるとはとどのつまり、征服されたことを意味し、その敗北感を払しょくするには、
それに対抗する行為を行う。つまり感じないようにするということである。
そして性嫌悪として表現されるのである。

恋愛とは決して快だけではない。恋愛に身を投じると相手のために、すべてをなげうっても
良いと感じてしまうほどの感情を持つ。これは自我を捨てて他者に同化しようといる作用で
もある。これには怖さを伴う。この自我の滅却よりも自我の保存を維持しようとすると、
どうしても征服されるわけにはいかなくなる。征服されることに喜びを見いだせない場合、
征服された証拠を残さないようにするという行為にでる。それが性嫌悪である。

つまり自己愛が強くなるほどに、性嫌悪が増すということになる。自我が他者に支配される
という恐怖と戦っているのである。すると、そのような女性は征服できる相手を探す。少なくとも
自己が上位にたっていると思える相手に身をゆだねることになる。これならば、自己を保存した
恋愛が可能だと考えるからだ。だが、ゆがんだ心では大事なことは救えない。その関係は本当の
意味での恋愛ではないからである。

誰かに身をゆだねてしまいたいという娼婦的思想と、自己のコントロールが利く関係性という
修道女的思想の間に立ち、女性は時に修道女的思想をとることがある。このようにして得た
関係には、残念ながら素晴らしい性愛は生まれない。なぜなら、性愛は自我のコントロール下
ではその真価を発揮しないからである。

多くの人がどのように感じているかはわからないが、性愛に満足できない夫婦間はすべからく
滑稽になる。現実として、そのような充実した関係性を持つことは案外に難しい。特に現代
女性たちは、男を恨む可能性に満ちている。傷ついた魂は、その傷の忘却するが、決して
忘れていない。その無意識に潜む恐怖感や絶望感が恨みとなって行動に表れるのだ。

男性を恨むことなく、その恋愛に身をゆだねられた女性は幸福である。
このようなことは、かつてごく普通なことだったに違いない。
現代は、「自我の時代」である。確固たる自我があると考え、その自我に影響を及ぼすものを
排除しようとするのが現代である。この現代における自我への執着は、そのまま性愛への
抵抗となる。恋愛とは服従欲の表れにも関わらず、それを承諾しない心の矛盾が、
人々をして性愛を複雑にしているのである。

女性は今なお、聖母か娼婦かの間で悩める。本質はどちらかであるということではない。
どちらでもあるということだ。かつてのように、娼婦である自己を滅却する必要はない。
本来の人のあり方に立ち返るのであれば、引き裂かれた本性を取り戻せばよいのである。
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