非婚のすすめー森永卓郎 [恋愛]

けっして、結婚を勧めないという本ではない。
むしろ、ある種の合理性が働いて、現在の若者たちはシングルでいるという切り口である。

独り身は損であると考えがちだが、それはかつての終身雇用制度などの
現在の経済を事情をとりまく状況が不変であった場合の話であり、
現代、そしてこれからの未来は、結婚という制度はひとつのオプションと
なるというストーリーを展開する。

特に興味深いのは、人にとって重要な要素として、「相互依存、相互理解、性愛」
という三つの頂点を作り、それぞれの間に
「仕事(相互依存ー相互理解)、恋愛(相互理解ー性愛)、夫婦愛(性愛ー相互依存)」
という役割を置くことで、結婚というものへの評価を行えるという部分である。

相互依存とは、つまり「家族」的なものである。
誰かに頼めば、車で送ってもらえるとか、掃除や洗濯してもらうなど、
生活における役割分担のことである。

相互理解とは、私とはこういう人であると理解されることである。
好き嫌いなどの好みなどを受け入れてもらうことである。

性愛は、そのままセックスのことである。
通常、セックスをすることは夫婦という形態に落とし込まれている。

著者の主張は、これらのトータルの満足度が大きくなるようにするというのが、
結局、結婚における幸せであるというものである。


近年の核家族とは、この3つの軸を全て一人の人間から得るという前提の元に
なりたっている。一方誰しも経験がすることだが、相互理解の満足度は、
数年たつとアッと言う間にゼロになってゆく。つまり相手を理解してしまうという
ことである。よって、恋愛の初期は十分にあった相互理解への満足度が夫婦生活に
よって無くなってしまうわけだ。一方で、相互依存は伸びる。
一緒に暮らすことで、何を求めているかが効率的に理解されるようになるためだ。
ところが、これもある一定で逓減する。

相互依存と相互理解は、いずれ相互理解=0、相互依存=αとなり、ほぼ相互依存
だけになる。加えて、性愛も夫婦間にあった恋愛という状態は収まり、かなり逓減する。
よって、時間が経つと性愛≒0に近づいてゆく。

かつては、これが当たり前であり、現代の夫婦は、こと結婚という視点からみれば、
最終的に残ったαの大きさのみで幸せが測られるわけだ。
爺さん、ばあさんが、もくもくと炬燵でお茶を飲んでいる姿をイメージすればよい。

これは性愛や相互理解、相互依存を一人のパートナーに依存するためであり、
上記のような状況になることは人である限り、避けられないのである。

一方で、現代の20代前半の未婚女性を想定してみる。
多くの女性は数年ごとに恋人を変える。そのため、相互理解の満足は0へ落ちる前に、
更新されて、高い値を保つことになる。その一方で、相互依存は、家族つまり親と
ほぼ同居しているために既に積み上げがあり、一定のαがすでに獲得されている。
また、性愛に関しても、結婚をしていないため、恋人以外ともときおり遊ぶことで、
性愛への満足度を増やすことも可能となる。もちろんするかしないかは個人の自由である。

つまり、現代女性にとって、結婚とは、子どもという部分を除けば、
むしろ、生活上の満足度を減らす作用しかもたらさない。

これは若い男も同様である。一人暮らしの独身者は相互依存が仕事のみに存在する。
よって、相互依存はそもそもゼロに近い値で停滞していることになる。
そこで、満足度を増やすにはパートナーを作り、相互理解や性愛の満足を増やすことが
キーとなる。男が結婚をすると、相互依存の上昇が見込まれて、生活は楽なる。
一方で、相互理解は年々減少し、性愛に限ってはかなり拘束される。
男にとっての結婚とは、相互依存αと引き換えに、相互理解と性愛の満足度を手放すこと
である。

このような状況下で、社会的な拘束を受けない若い男女が
結婚に踏み切るというのは、少々頭に血が上っている状態だったのだと考える他ない。
逆に言えば、結婚が減るのは合理的に考えれば当たり前なのである。

現代日本では、結婚と子どもがリンクするため、子供はどうしても減ってしまう。
もし、現代の状況下で少子化に歯止めをかけたいのであれば、婚外子の扱いを
完璧に平等にする必要がある。そうすれば、経済的にゆとりのある人は、子供を
作るだろう。それは女性一人でも可能かもしれない。好きな人の遺伝子を頂いて、
結婚せずに子供を育てる。その時にパートナーが手伝うかは、パートナー次第である。
結婚とは、この子育てにかかるコストの保障も兼ねているのである。

よって、現代社会において、結婚した男性が失った性愛と相互理解の
満足度をあげるには、不倫をするしかない。もしくは離婚してパートナーを変える
ということである。通常は離婚をすると築き上げた相互依存がゼロになってしまうので、
その部分は保存しつつ、性愛と相互理解のみを引き上げる不倫が極所解である。
かつて、裕福な家庭には妾さんがいたことを考えれば、理にかなっていることだろう。

不倫相手になる女性のメリットは、若い男と同じである。
性愛と相互理解の満足を増やすことが出来る。だが、結婚ができないために、
子どもを作ることが出来ない。少なくとも表立っては出来ないことになる。
ただし、相手が既婚であったとしても、「好きな人」と交流できるという
精神的な満足は間違えなくあるのだろう。

つまり、いいようによっては、現代は不倫をさせる動機を孕んだ社会となるわけだ。
そうでなければ、生物的な満足度を向上させることが出来ないのである。

もちろん、相互理解や性愛を減らなさい様に手を打っている人達もいて、
夫婦というコアで、できるだけ満足を引き上げようとする。
だが、そこはおのずと限界があることは否めないのである。

そこで、森永氏はいうのである。これからは非婚のすすめであると。
結婚をしていないことによるメリットとデメリット、どちらもあるが、
これからは、あまり差がなくなってくるのではないかと。
むしろ、制度上、結婚という形態をとり続けることが社会全体において
障害になる可能性すらある。なぜなら、全員が不幸になる仕組みの可能性が
高いからである。

現代はまだ過渡期である。まだまだ結婚する人は増えるだろう。
だが、一方で離婚する人も増えるはずだ。そうやっていろいろな形の家族形成が
可能となる方が、豊かな社会なのかもしれない。

少し先を見ることも重要なのだろう。
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20代若者の嘆き

いろいろな家族形成といっても、私には人の繋がりの崩壊、果ては地域社会の崩壊、国の崩壊という結果しか見えません。

先を見る前に、やるべきことがあるはずと思います。
by 20代若者の嘆き (2015-05-19 18:18) 

D-Blue

コメント有難うございます。確かに都市部では人と人の繋がりが希薄だと思います。多くの若者が上京して、家族から切り離され、地域性から切り離されて生きています。職場や大学などがメインの人間関係ですが、それらは生活という意味において基盤となってはいないのが現状ですね。友人を率先して作る人でもない限り、都市では孤独なのかもしれません。

運良く結婚しても地域との距離はまだあります。会社はあまり早く帰してくれませんし、地域社会とのつながりが希薄です。勤め先と住んでいる場所が異なっているというのが大きな要因かと思いますが。そして、子供が出来るとようやく地域性が出てきて、少なくとも近所の子供やその親同士のつながりが生まれます。これが郊外のベットタウンの一般的な人間関係模様かと思います。

地方ではまだ人と人との繋がりが存在します。お年寄りたちは寄り合いがありますし、若い人は同世代的なつながりの中で生きています。ただし、職がないので若者は結局、都市部や工場などへ通勤という形になる人が多いでしょうか。

根本は経済的な問題が、人々を地域性から切り離していると言えます。その経済とは賃金労働を主体とした資本主義形態です。金がなければ生きられない。その金を得るためには、職につかなくてはならない。その職は自分の住んでいる場所には少ない、もしくは希望の職がないということです。それが人が移動する原因ですね。

よって資本主義的な成長を踏まえている限りにおいて、個人化が促進されるのだと思います。経済をまわすなら、家族に一台の車より、一人に一台の車の方が良いですから。つまり、現状は暗に、人の繋がりを減らす方向が志向されているわけです。コンビニの存在やら便利な家具は一人でも生きられる土台を提供しています。

実際「20代若者の嘆き」さんの実感は確かなのだと思います。

かつては、企業が擬似的な「家」だったわけです。年功序列の終身雇用で、希薄化した人間関係の穴埋めになっていた。社内結婚もあり、お嫁さん候補としての女子社員の就職があったわけですね。それが良いか悪いかはともかく。現在は収益の効率化のため正規社員を減らし、派遣を増やしました。そうやって会社における人間関係の効率化が図られたわけです。一方で、入ってくる社員もそこに「家」を期待しなくなりました。そうして、人が孤立化していきます。その孤立化した人を拾うのが、便利な家電と携帯電話とコンビ二です。

森永氏は非婚をすすめていますが、現状過渡期では、結婚して子供を作らないと、社会性が途切れがちになりますね。これは社会構造の問題です。

一方で、かつては本人がどう思うかは関係なく、結婚させられていましたし、その圧力はかなり強かったはずです。多くの望まない結婚もあったに違いないですが、それは現代の望まない就職と似ています。そういう社会的プレッシャーにおける人間関係から、実は逃れたかった結果が現代という側面があります。

現代は自己責任において、人との繋がりを生み出せます。同級生でつるむのもありですし、SNSなどで仲間を探すという方法もあります。結婚するのもいいでしょう。この部分に関しては現代はラッキーでもあるわけです。森永氏はこの部分を強調したのだと思います。主体的に選ぼうとすれば選べるという意味です。

地域社会の崩壊、国の崩壊、おそらくそこまで行く前にゆり戻しがあると思います。そもそも国というのは共同幻想ですし、地域社会であっても、結局、顔なじみ以上でも以下でもありません。心配は無用な気がします。
by D-Blue (2015-05-21 23:01) 

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