不安感や脅威ー社会原動力 [思考・志向・試行]

あらゆる人達がいて、あらゆる行為を行う。
社会とはそういうものだとどこか思ってしまう。

実際には、そんなわけはない。あらゆる生物が行う事とヒトはさして違わない。
すごく矮小化すれば、「くう、ねる、あそぶ」である。三大欲求を十全に満たせば、
我々はだいたい満足する。

すると、経済活動は1人の行動からいえば、すぐに逓減する。一人が出来ることなんて
そんなに多大なコストじゃない。どんなごちそうだって毎日食べてはいられない。
どんなに時間があろうが、いつまでも寝ていられない。どんなにスケベでも、ずっと
たちっぱなしというわけにはいかない。つまり、限界性があるわけだ。

経済を回すという観点からいえば、人が活動を一定にしてしまうと困るのだ。
なぜか。それが資本主義の要諦である。利子の事だ。利子の存在肯定こそが
現代社会の本質である。これと人間の本来的経済が矛盾している事が諸処の問題である。

経済を大きくしないと、利子は支払えない。当たり前であろう。金を増やすには、
経済が回らないとダメであり、そのためには金が増えないとまずい。金を増やすには、
どうするか。一人あたりの経済活動がある一定範囲にあるならば、人を増やせばいい。
つまり、経済活動をする人間を増やせば、経済が大きくなる。馬鹿みたいだが、これが
高度成長期の話であった。

戦後にかなりの人間を失った。その穴埋め的に沢山の子供を生んだ。その結果として、
経済活動が大きくなったのである。これがほとんど「成長」の内訳である。
企業が努力して売上が増えている??馬鹿な。単にサービスを受けたいという人が増えた
のである。そこにある努力など、消費者が多いという事実からみれば、誤差のようなものだ。

高度成長期の経済を回すため、人々をメディアが煽る。家を買え、車を買え、テレビを買えと。
服を買え、保険を買え、レジャーに出かけろ、などなど。一見すると豊かにみえる。しかし、
多角的な視点から言えば、そんなもの豊かさとは無縁であろう。人は実際に体験する事だけが
幸福度と関係する。そして、その本質は三大欲求の充足である。これを超えて何かが起こる
わけではない。

人々が欲望を掻き立てられるのか。その理由の一つは、嫉妬である。三大欲求を離れた
過分な欲望は、他者を見た時に生じる。他者がいい思いをしていると感じると人は、その
行為を模倣したくなるのだ。これはヒトという社会的生物の特徴である。そして、一部で
発生したその「幻想」的欲望が、広まる事で社会のスタンダードとなる。その際に使われる
のが、脅しである。

不安や脅しの行為は、欲望とは違った形でヒトに影響を与える。脳メカニズムとして、
別のものが駆動するのだ。広告や宣伝などは、2つの方向に訴えかける。一つは、欲望を
掻き立てる装置として、もう一つは、不安をあおる装置として機能する。これは脳の別々の
場所に作用し、人々に行動を引き起こす。

良い生活をするには学歴が必要だというのは一つの脅しである。この漠然とした不安を
払いのけるために青年たちは勉学に励む事になる。同様にカネがないと生きていけない
という思想もまた脅しである。ここから逆算されて様々な脅しがきくようになる。カネは
仕事がないと始まらない。仕事は何でも良いのだが、「まともな」仕事につくには、学歴が
必要だ。学歴をもつには、教育が肝心で、教育にはカネがかかる。カネがなければ仕事を
得るのも大変だ。ということで、貧乏の再生産が引き起こされている。そして、カネという
脅しによって、人々が動き、その動きの中でカネが生じているのが分かる。

労働が価値になるとマルクスは言った。労働時間が価値なのだと。もちろんここには無理がある。
同じ時間の労働でも、生産されるものはまるで違うだろうし、製品の価値は使用価値で決まるの
であって、交換価値で決まるわけではない。だから、交換価値という尺度つまりカネというもの
では、本来、ヒトの経済活動は決まらないのである。

しかし資本主義はカネが増えないと困る。なぜなら、投資したらそれを上回る利益が常にないと
会社が潰れるからだ。利子を払ってもそれでもなお、ペイするからこそ、事業を起す人がいる。
そして、事業を起すから借金が生まれる。借金が生まれるということはカネが増えるということだ。
カネが増えれば、利子は支払える。それをまた別の事業を起す事に使う。こうやって資本主義経済
は回る。煎じ詰めれば、資本主義社会は、カネを増やすためにある。そしてカネが増える事を
やめるわけにはいかないのである。

カネが増えたら、消費活動が増えてみんなの幸福度が増す。これが社会的コンセンサスであった。
しかし実際には、カネが増える要因は人口の増加であった。都市部がとりわけ経済発展したのは
人口の増加による経済活動の活発化である。高度成長期に人々はメディアに煽られて、都市へ移住
した。都市部に人が集まるほど経済が回り、結果として経済大国になった。だが、カネは人を
幸福にするのだろうか?

カネを増やすために、人々は不安や脅しにあう。資本主義はまるでひとつの生物体のように、
人々から労働を巻き上げる。そうしてカネを絞り出しては、いささかのカネを人々に戻す。
この仕組を国と資本家つまり大企業連合は維持するために活動する。

カネを得るために行動するという事がすでに不安の渦中にいる。仕事をするのもその不安を
解消するためである。カネが得られないという事が死を予期させるからなのだが、本当は違う。
それもまたプロパガンダの結果による不安煽りが功を奏しているわけだ。ヒトはカネがなくても
死なない。ヒトは食い物がなくなると死ぬのである。

仕事をする事=カネを得るという事は本来つながっていない。カネを得る=生きる事が
つながっていないように。これが恰もつながっているかのように全員が思い込んでいるのが
現代社会である。そして、カネがなければ「まともな」人生でないと不安にかられているのが
現代日本である。もちろん、実際上、カネがなければまともな人生にならないのはそのとおり
なのだが。

分かったことは、カネがあっても幸福とは言えない。しかしカネがなければまともな人生は
難しい。そのまともな人生とは何か。それは人々が手に届かない生活スタイルの事である。
肝心なことは、手がとどかないことだ。そう社会は喧伝する。つまりあなたにはあれが足りない
これが足りないと迫ってくる。その動機は煎じ詰めれば、借金であり利子であった。

だからこそ、カウンターパートを考える人にとっては、カネの問題や「まともな」人生が問題
となり、労働とは何かという事が大いに問題になるわけだ。断捨離というのは、社会が要求
する「あなたに足りないものリスト」を減らす事に相当する。ちょっとは自分でモノを考える
ということである。

とにかく普通にしていると社会から、「あなたに足りないものリスト」が押し付けられて、
それを満たそうとしないと社会から総スカンをくうというのが現代である。それは結局人々を
不安にさせ続けている。

この不安に鋭敏に反応すると、自分を卑下し無能だと思い込み、社会的行動を減らしてしまう。
それは精神的な苦痛であり、時にうつ病など本格的な病になる。元来的にこうなる方がまとも
だと私は思うのだが、現実は不可思議にも、異常な人の方が多い。異常な人たちは、不安など
ないかのように振る舞う癖を身に着けている。肝心なのは、フリであって、不安がないわけじゃ
無いということだ。

不安を抱えているとどうなるか。身体は正直である。ストレスを感じるとそのはけ口を求める。
それが嗜好品であり、レジャーであり、旅行である。不安を一時だけ忘れる事が出来るからだ。
貧乏人が太っている事が多いのは、不安感に依る食欲亢進がある事と、高カロリー食を選ぶ
からだろう。ストレス解消の結果なのだ。経営者たちなど忙しい人々にも何か依存しているもの
があるのだろう。一番の依存は、おそらくカネである。内在する不安に抵抗するには、カネを
得ることだ。だから、仕事をますます増やす。仕事が増えると、不安であるという事実から
目をそらすことができる。これがたまたまうまくいくと、実業家とか資本家と呼ばれる存在に
なる。社会的成功というわけだ。だが、そんなにワーカホリックになれるという事は、その実、
依存症である。金儲け依存症といえるだろう。

不安を解消する行為自体が、結局、カネを動かすことにつながる。これは資本主義経済にとって
とても有効である。するとますます社会は、不安を煽り、その不安の解消のため消費や経済活動
をふくらませる。そうして、ますます不安を煽り、その不安解消のため、消費や経済活動を拡大
させる。

もちろん、こんなループが永遠に続くことはない。近年の歴史では、カネの問題は、結局
借金が返せなくなるところから綻ぶ。できもしない借金を無理やりやる事がカネの問題を大きく
して、最終的に経済崩壊を招く。様々な要因があるといえるが、本質的には資本主義のこの
やり方が経済崩壊を招くようにデザインされている。そして、この仕組は人々を不安に陥れる。

おそらく不健康だろう。わざわざ自分を不安状態に常に置き続け、その不安を解消したければ、
経済活動をしろと脅迫される。これに打ち勝つのが現代の成功哲学となる。社会的成功者が
羨ましいのは、この脅迫に一見すると打ち勝ったかのように見えるからだ。しかしそのための
対価は大きい。そして、その対価のために支払ったコストー自分の人生ーは、果たして見合う
ものなのか。

不安解消のために、仕事をクビにならないようにと、へこへこし、大事を避けて、
感情を抑圧する。その感情の抑圧は、部下や同僚、家族に当たり散らす事で解消する。
もしくは昨今ならばネトウヨのようにヘイトする対象を見つけることで解消を考える。
本当は、自分の感情から目を背けているだけではないのか。その感情を直視する勇気が
ないだけでは。企業不正が後をたたないのは、こういう事大主義の蔓延であろう。
そして、虐待やハラスメントが減らないのは、感情のはけ口が弱い者へと向かうからだろう。

昨今における社会のルール構築の氾濫は、不安を減少させる手段である。
管理職は、問題行動を起こす奴を減らしたい。コントロールしたいというのは自分の身に
かかる責任を減らしたいということだ。責任を前もって逃れるには、ルールを作ればいい。
ルール内で行動させておけば、危ないことはないと組織の長たちは考えるわけだ。
不確定要素を減らす事=不安を減らすこと。その不安とはものすごく個人的な事である。
けっして、組織のためや社会のためではない。

上がこんななら、下もそんなである。ルールさえ守っていれば、クビにならんだろうと、
組織の論理に従う。時に、目に見えないルールにも、波風をたてぬよう行動する。だから、
サービス残業は減らないし、文句もでない。春闘で戦うなど、命がけのように見える。
今の立場なら、そこまでして戦う動機がない。そうやって自ら自己の権利や有り様を否定して
生きる。それを平気でやぶっている人をみると激怒したりして。それは結局「嫉妬」である。
このような感情的鬱屈を胸にみんなが生きているならば、そりゃ人生は苦しいだろう。

不満を抱えている人が幸せだとは到底思えない。それがどんなに豪奢な生活であろうとも。
その不満解消を成長とか進歩という呼び名で称賛するのはいかがなものか。

とある島に村があり漁師がいて、幸せに暮らしていた。そこに銀行マンが来て、融資をしようと
いう。船を買えば、今よりも沢山の魚が取れる。そしたらその魚を市場売って、カネを得ること
で船代を支払えるし、今までよりも贅沢が出来るじゃないか。

漁師はいう。「その贅沢って何だい?」
銀行マンが答える。「昼間からゴロゴロして、なんなら酒でものんで、のんびりとソファーで
くつろぎ、ごちそうを食べられますよ。」

漁師はいう、「そんなことなら、もうやってるよ。」


銀行マンつまり資本主義は、人々にカネという生産物を作らせる装置である。
その最終生成物は、果たして人を幸福にしているのか。むしろ不安を常にもたらし、
その不安が人々を経済活動にますますアディクションするように仕向けているのではないか。
そして常に「おまえにはこれが足りない」という足りない教の信者にしているのではないか。

銀行マンの甘言を真に受けるかどうかは、あなた次第なのだ。


世界は広い。すでに漁師のように生きている人はいる。むしろ、世界をみれば、農村や漁村など
で、豊かに暮らしている人の方が多いのかもしれない。現代日本でさえも、地方にいけば、
心平安に暮らす人々がいる。むしろ、都市の住人こそ上記のような不安を生きているように見える。
不安を解消するために、日々仕事に励んでいるのは、実は経済的に豊かだと言われている都市の
人々なのかもしれない。
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