なぜ寄り集まると悪が出てくるのかー仮説ー [思考・志向・試行]

ラテン語の格言に「元老院議員は良い人々だ、だが元老院は人でなしだ」というのがあるらしい。

個人をみれば日本人も良い人達なのかもしれない。
だが、集まれば人でなしになる。震災や洪水、様々な天災が日本を襲った。
しかし、そのサポートは相変わらず、雀の涙である。その一方では、兵器に1兆円などという
大金をつぎ込むらしい。甚だバカげた話ではあるが、何が大事であるかという優先順位を
間違えるような人物が政治をやっている。その意味では個人で見ても馬鹿なのかもしれない。

さて、その愚かな日本の政治を支えるのもまた愚かな日本人達である。
罵倒ばかりで申し訳ないが、そのように形容する以外に妥当な言葉が見つからない。
日本人という総称において、社会全体が良き方向へ向かっているとは到底思われないのだ。

我々日本人の暗黙の了解は、ルールさえ守っていれば、自己利益のために何をしても良い。
というような事だ。そして、そのようにうまくルールの間をすり抜けて多くを稼ぐ存在を
仰ぎ見るという馬鹿げた風習がある。その根底にあるのは、結局エゴイズムである。

アダム・スミスの原理を信奉するのであれば、各人がエゴイズムにそって行動すれば
社会が良くなる。そう思ってもおかしくはない。だが、アダム・スミスもエゴイズムのみで
あれば、社会が良くなるはずはないと百も承知であった。だからこそ彼は「道徳論」という
前提となる人間性について記述したのである。個が良心を持ち、社会に貢献するという予測に
おいてのみ市場原理は社会を豊かにする。だが、そんなものは幻想に過ぎなかった。
スミスがいうような道徳は普及しなかったのである。むしろ、そのような道徳は資本主義に
おいては負け組の論理であって、勝ち組ではなかったのだ。

とはいえ、個人で見ればそこまでひどくエゴイズムではないじゃないか。そう思うことだろう。
私もそうだと思う。個人の大半は、自分の生活を支えるため、地道に仕事を担っている。
決して裕福とはいえない状態でも、酒をあおり、タバコを吹かして、健康を害しながら仕事に
勤しんでいる。それをもって、エゴであるというのはひどくおかしな論理であると御思いだろう。
だが、それこそがエゴであるとここでは指摘する。

その生活を支えるというのは、誰のためか。大抵は自分や家族の生活を成り立たせるためではないか。
では、その生活以上の金銭はどうするのか。それは自分の銀行口座においておくか、投資でもする
事だろう。それもまた将来への備えであるという。だがそれもまたエゴイズムではないか。

自分の仕事の意義が、金をもらうためという事であれば、どんな事でも是認する事になる。
あなたが万が一、詐欺に会い被害を被ったとしても、詐欺師は悪くない。ただ法律に抵触する
だけだ。ルールを逸脱するから社会的バツを食らうが、その行為自体はあなたは否定できない。
あなたが詐欺を法律ではなく、単純に酷いことであると罵倒したいのであれば、それはそのまま
あなたへの罵倒となる。あなたも詐欺師と同じ動機で仕事をしているからだ。自分は良いことを
している?果たしてそんな理屈が通るだろうか。

あなたが売りつけた商品は、本当に必要であったのか?あなたが製造しているものは、本当に
他者のためになるのだろうか? そういった事を一度でも検証したことはあるのか? 
あなたの仕事で誰か傷ついていないのか? それを考えたことはあるだろうか。

また、あなたが首尾よく金を手に入れたとして、その金を行使する際に、はたして正義はあるのか。
その消費活動は、誰かを搾取した結果なのではないのか? 第三国の人々の涙によって作られた
製品だからこそ、チープなものを手に入れられているのではないか? そしてすぐに壊れ、やぶれ、
使い捨てられる時、その商品を売った人々の行為は、本当に他者のためだったのか?

否。これらはすべからく自己のためであり、エゴであろう。自分の行為にどんな名前をつけても
金を得るためにする仕事というのはエゴである。いやでも、みんながそれをしている。社会が
それを望んでいるから、その商売が存在できるのであって、もし不要だとか思われるなら、その
仕事は世の中から消えるだろうと思うかもしれない。もちろん、そのロジックは正しくない。

みんなが望めばというならば、みんながあなたの死を望めば、あなたは殺される事だろう。
それを是認する事になる。それを酷いと思うだろうか。いや、現代日本人はこれを既に肯定
しているのである。ここが最大の問題点なのだ。

自己の生活のためならば、他者は犠牲になってもいいか?と直接問えば誰もがそんな事は
許されないと建前であっても述べるだろう。だが、他者が誰かを犠牲にして得たものを
自分が得る事は問題がないのか?といえば、どうなるか。もっといえば、実際にどうやって
生産されているのか不明なものでも、望めば金と交換してもいいと思うのかどうか。

自分が欲しいというものにこだわる限り、つまりエゴをむき出しにする限りにおいて、
誰かが、そのサービスの生産時に、誰かを犠牲にしている可能性は否定できない。
どうやって作っているのかは知らんが、誰かが用意してくれて、それを自分が妥当と思う
価格で買って何が悪い?というのはおそらく日本人なら誰でも肯定する事がらだろう。

だが、ここまでの流れを読んできた人にとってそれはまた、結局、自己の生活のために
他者を犠牲にしてもいいというロジックを肯定する事である。ここでまた、話は自己に
立ち返る。つまり、自分のエゴを肯定するならば、それはまた他者からのエゴに絡め取られる
事を意味する。自分もまた、誰かから搾取され犠牲になってもいいという事である。

結局、資本主義のロジックでは、同等のものであれば、安いものを選ぶだろうという
アダム・スミスのいった見えざる手を肯定している。これは結局言い換えれば、自分が
誰かの犠牲になっても構わないというのと同等である。

自己が犠牲になるのが嫌ならば、他者の犠牲も減らさねばなるまい。だが、そこが隠されて
いれば、誰も知らないままにサービスは提供され、消費者としての自分は、その犠牲を
消費する事になる。無知である事は、罪なのだ。

資本主義に絡め取られて生きるものにとっては、生活のためという理屈によって、大抵の
事は肯定されてしまう。その裏側には、自己のためというエゴイズムがある。実際には、
資本主義では、エゴを明にも暗にも了承しなければ、生きていけない。そしてそれを肯定
するということは、自己はいついかなるとき、自分もまた犠牲になるかもしれないという
可能性に生きることになる。

みんなが望めば、あなたは殺される。そういう世界に我々は生きている。そんな馬鹿げた事が
あるだろうか? いや、現にあなたはそれを肯定して生きている。もちろん否認するだろう。
肯定してはやってられないではないか。だから、資本主義に生きる人間はすべからく自己欺瞞を
抱えることになる。自分が常に危うい立場に追いやられる可能性に目をつぶり、他者を崖から
突き落とすことによって、自分の命をつないでいる。この連鎖は誰にも止められず、世界中に
蔓延した。この資本主義病の本体は、結局、個人である。

個人が自己のエゴを肯定し、それを良きものとみなす限りにおいて、止むことはない。
自分が欲しいものを主張して何が悪いという事だろう。別に悪くない。大丈夫だ。
だが、それはまた他者から犠牲を求められることそのものである。それにあなたは文句を
いえる立場ではないのだ。

この資本主義システムは欺瞞を抱えている。誰か知らぬ人の犠牲は見ぬふりで、自分は
なるべくリソースを得ようという行為である。そんなものが蔓延って果たして社会が良くなる
はずはないのだ。だが、日本人はそれを肯定して今日を生きてゆく。

資本主義がもたらした繁栄を否定する気はない。だが、どこかからはその繁栄はただの
幻となる。そして、その活動自体は幸福とは何も関係がなくなるのである。わかってる
のかもしれない。だが、わかった所で、行動を変えるわけでもない。

日本人の主体性のなさは、骨の髄まで染み込んだ事大主義のせいなのだ。

じゃあ、どうすればいいのか? そんなこと私に聞くなと言いたい。
その考え自体が、主体性のなさである。自分で考えるほか無いのだ。

少なくとも、現状をただ肯定して生きる人にとっては、他者が犠牲になろうが関係なかろう。
自分が犠牲になるまでは。だが、現実問題として、すべからく金のしもべとして生きる。
それを私は犠牲と呼ぶ。大抵の日本人はそれを成長と呼ぶ。日本人が気持ち悪い理由の
一つだ。

多くの人が共有している当たり前のエゴ。各人は小さく持ち合わせているに過ぎない。
こっちのサンマより、あっちのサンマのほうが安い。ただそれだけの事。その安さが
果たしてどこから来ているのか思考停止に陥っている。そして、安いサンマだけが売れれば、
さらに安いサンマが出てくる。これを何度か繰り返すうちに、どこかに限界がくる。だが、
競争に勝たねば生き残れない。そう生活のためだ。その伝家の宝刀を繰り出し、誰かを限りなく
ただ働きさせるのである。そうして自分はそれを見ぬふりをする。そうして、安いサンマを得る。

結局、原理的な問題である。資本主義をそのまま信奉すれば、その刃がいずれ自分に向かってくる。
それが現実的には、デフレであり、不景気である。これは当然の帰結だろう。そして、同じ額だけ
稼ごうとするならば、多く働く必要が出てくる。多く働くということは、犠牲を被っている事だ。

つまり仕事が大変であるというのは、自分のエゴの帰結である。残念だが世の中、魔法はない。
だから私はいいたい。あなたが仕事が大変だとのたまうなら、それはあなたのせいであると。
だから私はあなた方に同情しない。愚痴など聞きたくもない。それはあなたのせいなのだから。

それが嫌なら、考えを変える他ない。それには自分が考えるしか無い。そういう事だ。
別に自分がシステムの犠牲になりたいなら、なればいいんじゃないか。好きでやってるんだろう。
反発は当然だろう。だが、好きでやってるんだから、付ける薬がないのだ。

自分の意志でやってるわけじゃないというなら、まずは自分で考えてみることだ。
自分の考えの帰結であると分かるはずだ。

悪人は自分そのものであると気が付かない限りは、状態を脱することはあるまい。
だが、みんなそれを否認する。そうして自己欺瞞の人生を歩むのである。それは誰かが
仕組んだ構造の上で、ロボットのように過ごすという事である。望むと望むまいと。
知らぬのなら、知らぬ方がマシかも知れない。そういうたぐいの事なのだ。
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イギリスの知恵ー井形慶子 [思考・志向・試行]

2001年の本である。
「お金とモノから開放されるイギリスの知恵」井形慶子著を読んだので、感想を。

出羽守になりたいわけではないが、日本が異常さを持つ事を述べるには
外国の事例を持ち出すのが手っ取り早い。

井形氏の話がすべからく肯定できるわけではないが、日本に足りないものがきちんと
述べられている。それが2001年の本。しかしながら、この本の主張は今の日本にも
しっかりと当てはまる。ということは、18年も日本は何も変わっておらず、停滞もしくは
衰退を余儀なくされている。

内容の主張は、端的に言えば、
「日本人には人生に対する主体性が欠如し、自分の価値観を持たない。」という事だ。

それは戦後に、アメリカの庇護のもと、経済成長を成し遂げたことで、金さえあれば、
なんでもまかり通り、幸福になれると勘違いした成金の志向である。金を得るための
仕組みが整備されれば、その金を得るためのルールに依拠して生きるほか無い。
ルールに依拠するとは、自分の意見が不要であるという事になる。

金を得るために、自己の価値観をないがしろに出来る。それが日本人の浅ましさであろう。
本に出てくるイギリス人の当たり前の価値観はとても自然で、自分とほとんど同じである。
だからこそ、日本人の異常さに驚く。誰もが、どこかで金を得る事に主眼をおいて生きる。
そのためのルールに縛られて生きる。そしてどこか「仕方がない」と言い訳する。

このような志向にうんざりした子供たちは別の道を探そうとする。そして現に別の道を
見出す子供たちが増えてきた。それは何か好きな事に没頭するという事であり、そのための
情報を以前よりも楽に手に入れられるようになったという事だ。

その一方で、そういう若者が増えれば、今までのやり方は通じなくなる。つまり商売が
傾く。当たり前なのだが、時代は移り変わる。成金の発想ではなくなった現代において、
経済発展が続くほうがおかしいのだ。

産業界は、その社会変化についていけず、ついていけないがために、ルールによって
既存のやり方をゴリ押しし始めた。頭の固いオヤジたちが求める行動を他者、主に若者に
やらせようとする仕組みづくりだ。それは彼ら自身の保身であり、他者のためではない。

イギリス人のもつ素朴な感情に他者のために何が出来るのかがある。それは文化である。
日本にもそのような発想はあったはずだが、明治を堺に消えてしまった。その後にあるのは
ひたすらに「他者に迷惑にならない」という事だけである。ルールによって行動が規定され、
そのルールをはみ出ることは、他者の迷惑であるという主張なのだ。

よって日本という国では、ルールこそが守るべきものとして君臨する。それは一般に、
世間と呼ばれたり、空気と呼ばれる。そう、恐ろしいのはルールが見えない形で存在する
事だ。書かれているものはまだマシかも知れない。いや、そもそもルールによって行動が
律されるという発想が異常なのだ。それはまるでロボットである。そのくせ、ルールを
守ってさえいれば、自分は何をしても自由だと考えている。実に浅ましい。

先にも述べたが日本人に主体性がないという事がもっとも問題である。それは生活の基礎中
の基礎となる自治に関して、まるで無関心に生きるという愚昧さがその現れである。つまり
政治だ。政治に興味がないという事は、自分の生活に興味がないという事と同義である。

生活自体に関心が無いわけではない。日々のやり繰りに追われている人は沢山いる。
だが、なぜそのやり繰りが必要になっているのかを考える人は皆無である。前提がおかしい
という事に気が付かない人間がほとんどなのだ。なぜそのルールが存在するのか、そんな
事をしなければならないのかという理由を問うことをしない。社会とはそういうものだと
考えて行動する。それが恰も利口だというかのように。ルールを逸脱せずに、ずるい事を
するのが賢いという発想、それがまさに浅ましい。いや、逸脱してもバレなければいい、
そういう輩が跋扈するのが現代日本なのだ。そして、それを誰も指ささない。その異常さ。

団塊世代にもっぱら責任があると私は思う。彼らは社会変革のブームにのり、闘争を行った。
その若さによる革命はただの運動で終わった。そして、彼らは社会に取り込まれていった
のである。そして数が多いことによる過大な消費活動が開始され、経済が発展を始めた。
そこには、何も哲学がない。ただ周りが儲けているなら、自分も儲けさせろという発想である。
儲けたら、何が出来るのかなんて考えもしないのだ。そうして、無意味な消費財だけが売れて
ゆく社会になった。

日本はかつての日本ではない。客観的にみるならば、明治期より精神病に陥っていると
言わざるを得ないのだ。とりわけ自分でものを考えるという行為が愚かしいほど低い。
誰かが何かいっている、誰かが何かしている、それを真似ばかりしているのが日本である。

主体性が圧倒的に欠如しているために、ルールがないと何も出来ない。よって、ルールが
形成されることを実は暗に願っている。そして、ルールを強要する事をまともだと思って
生きている。そういう下らない大人だらけなのが日本なのだ。

本には、まともな人間としてのイギリス人が沢山出てくる。それを読むたびに私はがっかりする。
日本にはなぜまともな人間がこれほど少ないのかと。まるでロボットなのだ。そうロボット。
生けるロボットだらけと言って良い。消費を目的とし、労働を格安で売り飛ばす存在。
時代は社会全体を底上げした。それがために、社会が発展したと勘違いした日本人達。
発展したのは、材料を環境から、海外から輸入し、加工して外国に輸出するという一連の
ながれだけだ。その中で金が生み出される仕組み。これが発展したのであって、けっして
豊かさが増したわけではない。むしろ、人間的な営みを次々と放棄し、金になる行動しか
しなくなった。それは実に貧相な文化を形成する。

昨今、中国人たちをみてその成金的行動を揶揄する人々がいるが、日本人も対して変わりない。
相も変わらず、ブランドを消費し、それを目指し、そこに価値があるかのように生きる。
そんなもの人間にとってなんの価値もないのに。名誉や地位に価値を見出すのもまたロボット
の為せる技である。それは軍人の階級となんら変わらない。

自分には自分の幸福がある。それを探して、そのために生きる。これが本来的な生き方だ。
そしてイギリス人は日本人に比べてこれに近いのだ。日本人はうっかり金を稼げてしまった
ために、金がありさえすれば何とかなると思っている。金がある事は人間的な素晴らしさ
ではない。

本より引用
「裕福に慣れていない国民がいきなり大金をつかんだら二度と手放せなくなる。金がなくて
 貧しくみじめだった体験が根本にある日本人は金さえあれば何でも手に入り、何でもまかり
 通る社会を作ってしまったんだ。他人を蹴落としても自分がのし上がろうとする社会。弱い
 者はいつも切り捨てられ、誰も他人をかえりみない。だからこそ日本人はいつも空しく人生に
 深い満足感を得られないのではないか」
(『お金とモノから開放されるイギリスの知恵』井形慶子著、p244より)

2001年時にイギリス人から指摘された上記の事は、変化するどころか、ますます先鋭化した。
日本では、今まさに金が正義となった。それは結局、不安や孤独を招いたのだった。

人は緊張下において攻撃性を増す。その背後にあるのは不安である。攻撃的な人間は、
総じて不幸である。その心理は怖さで溢れているのだ。また、金を得て消費活動する事が
喜びだと思っている人は多い。だが、多くの場合、その活動は単なる苦の解消である事が
多い。日常に満足が薄いからこそ、その日常から目を背け、消費に走るのである。

欲求が喚起されると、脳は同時に不安を生じさせる。欲求の実現に対する不安喚起によって、
欲求の充足が加速するからである。逆に言えば、欲求をもっている状態とは決して幸福では
ない。その充足も必ずしも幸福ではない。欲求の強さにより、その解消が快楽なってしまった
現代人にとって、その事実は受け入れられないのだ。だからこそ毎日何かを消費しようと
躍起になる。消費させようとする。

必要なものを必要なだけ手にいれるのであれば、経済発展は必ずしも必要ではない。
むしろ、無駄なものをいかに、必需品にするかが資本主義社会のスキームである。
携帯電話しかり、テレビしかり、車しかりである。不要であるからこそ、宣伝を多くうつ。

個人的な消費が低迷するのは単純に人の数が減ったからだ。一方で、日本の会社のほとんどが
経済発展を前提にシステム化されている。この構造的な齟齬を受け入れられないオヤジたちが、
その維持のため、税金にたかっている。まるでハエのようだが、大企業から中小企業まで、
かつての産業たちは寄りかかって生きている。だから、その産業に金を配ろうという安倍政権
にしっぽをふり、なりふり構わず金を得ようとする。もちろん、その金は、借金だ。つまり
未来のものである。未来を現在の維持に使っている。当然の帰結ながら、未来は暗い。

石井紘基氏はいう。もはや「計画経済」である日本社会は崩壊すると。それは、国が金を
配って経済を回すというモデルの崩壊である。未来を先に食っているという自覚抜きの
愚昧な経団連の経営者達。いや、自分たちだけが良ければそれで良いと思っているのだろう。
一度作ってしまったシステムを変えることはおろか、壊すなど誰も望まない。日本全体が
共犯的なのだ。

さて、この崩壊がどう起こるのか。本質的な崩壊が起こった時、社会はどれほど荒廃するか。
そんな日本はみたくない。だからこそ、海外に学べ。井形氏が述べるイギリス人たちは
まさに明治期のようにお手本とすべき社会である。いまこそ、再度イギリスに学ぶべきだ。
そして、なんとか社会をソフトランディングさせる手段を構築すべきなのだ。

崩壊の時は近い。その責任は、自民党政権にある。そしてそれは国民の総意である。
日本はまたもやカタストロフィ前夜にいる。ほとんどのロボットは気が付かないのだが。
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