思考の分解ー正月の挨拶に代えて [思考・志向・試行]

2019年の正月という事で、自分の志向性について考えてみた。

自分に備わっている「負けず嫌い」という所や、科学を志向する事などが
どこから来ているのかがなんだか分かった気がしている。
それは家族関係である。

プライベートなことはここではあまり書かないようにしているが、
個人的なことこそが、裏返って他者のためになるという事は厳然たる事実である。
恥を忍んで、少し考察してみたい。

私は弟であり、末っ子である。おそらくここが負けず嫌いの根本原因だろう。
そして、家族の志向性、主に母親の考え方が大きな影響を持つ。

末っ子である私は、あらゆる点において未熟なものとして扱われてきた。
それを是として美味いこと受益するというタイプであれば、良かったのだが、
不幸か幸いか、私には本を愛する父がおり、その影響からか、知識は私が多くを
持つようになった。その結果、経験は彼らが常に多いのだが、知識は私が多いという
ねじれ関係を持つようになった。それは中学くらいには既に始まっていた。

すると何が起こるのか。彼らがいう知識がいちいち間違えに満ち溢れている事に
気がつくのである。そして、思考パターンが誤りとはいえずとも、短絡的であり、
2つのステップを越えることはない。したがって、やる事は結果的に平均であるが、
ゆえに、いささかうんざりするところがあるのだ。何しろ、大して考えなしに動くから
である。それでも、世間の知恵は役立つ。他者と同様なものを志向し、同様に行動すれば
ひとまず問題は起こらない。そして、かつて来た道を繰り返せば、大きな誤りはないのだ。

どうして私が負けず嫌いになったのか。それは単に私を子ども扱いし続けるという
事にある。私が知識的に正しいこと、蓋然性の高い推論を行っても、彼らは自らの志向を
考え直すことは無い。それは私の思考を常に甘く見ることからスタートする。そういう
関係性を保つことを家族全体が志向するからなのだ。

すると、私は正しいことで勝つほか無い。知識としての正しさは、私の立場に
関係なく正しいからだ。そして推論についても正しさを追求する事になった。
間違えていれば、揚げ足をとってくるのである。正しいかどうかは私の志向の一部になった。

母親はとりわけ、推論の間違えや自分の発言のおかしさを認めない。
その言動は時に苛立ちを覚えさせる。要はあやまれないのだ。その振る舞いは
私に取り込まれ、そして、反発させる原因を作る。私もあやまりたくない。つまり
負けず嫌いである。しかし、内容的な正しさは担保するように気をつけている。
すると、母親のおかしさを正そうとする行為に及ぶことになる。だが、おかしさを
認めない母は私のいう事を聞かないのである。

小さい私は、単に家族が変なことをいっていることを修正したかっただけだった。
だが、そのような修正が一番小さな私から出ることは是認されなかった。
そうして、その行為はエスカレートした。要するに「私の話を聞け」である。

しかし、人は正しいことをいわれても耳を傾けない。自分のいっている事が
誤解を含まないように真実性に近寄るほど、彼らは理解しない。するともっと
正しさをふやそうとした。結果として、私の話は更に理解されなくなった。

もっとそうそうに彼らはアホでもかまわないという認識に至るべきだったのだ。
小さな私は、彼らの役に立とうとしていた。それは力や経験で太刀打ちできない
事による。ならば自分の得意において家族に役立とうとした。だが、彼らは
それによって行動を変えることはなかった。その理由は私には不明である。

考えようによっては、私は嫌な奴だろう。自分が知っているもしくは、理解している
事柄を、悉く違うと指摘する存在である。そしてそれが大抵は正しいのだから。

子供の頃が、そうであれば、大人になってもそう変わりはしない。
今になっても、私は父親に安倍政権のおかしさを納得させられない。父親は右翼系の
思想の持ち主だが、その思想性と安倍のやっている事に齟齬があり、彼らは保守でも
無いでもない事を理解させられない。父親がもっと若く政治的な人間でテクノロジーに
強ければ、ネトウヨと呼ばれても不思議は無いだろう。

その父親を私は説得不能である。こうしてブログを書いて、安倍政権批判だけでなく
環境問題や資本主義問題に言及している。それは独断的に結論付けているつもりはない。
志向は可能な限りメタ認知的に、可能な限り庶民にとって良い方向になるよう思考して
いるつもりだ。しかし、現に不本意ながら、オヤジ一人を説得できないのである。

どんな社会批判の人間も、どんな優れた思想家も、果たして家族を説得できるのか。
私には、それこそが一番の困難ではないかと思われるのだ。そして、それが出来も
しないのに、果たして言論に力があるとは到底思えないのである。

私が小さいながら役に立ちたいというシンプルな願いは、家族に通じることはなく、
ならばと、社会全体へと志向を広げたのが自分の行動だった。しかし、ブログを
読んだ人がどれほど、変わっただろうか。やっている事が小さい頃も今も変わらない
事に驚く。そう、私は役立ちたかったのである。

私は私のために知識を増やし、推論し、志向していたというよりも、
他者のために思考していたのである。そして、少しでも世界がよくなるようにと。
こんな事をかけば、自分を良く見せたいだけではないかと揶揄されるのかもしれない。
もちろん、私にもブログにおける無意識のアピールはあるといえる。たとえば
優れた人だと思われたいなど。しかし、小さな私は、素朴に世界に役立ちたいと
願ったのであり、そして今も願い続けているのだ。

家族によって志向された私の性根は、知識によって社会に役立つ事である。
残念ながら家族は説得不能である。それは認めざるを得ない。ならば、せめて
私の思考に共感してくれる人を探したい。それがこのブログの心なのだ。
そこには私は孤独ではないと思いたいという動機と、本当の意味で役立つのではないか
と期待がある。

このブログに書く事柄は、時におかしく響くことだろう。それは常識的ではないからだ。
だが、常識的ではない理由は、真実や真理性に可能な限り近づこうと努力した結果であり、
それがゆえに、一見の価値はあると私が思う事柄を記している。

もし、これを読んで、自らの小さい頃の人間関係もっぱら家族との関係を振り返って
もらえるのならば、私は本望なのである。

2019年の挨拶が長くなりましたが、今年もご贔屓のほど。
あけましておめでとうございます。
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