不可解なずれー男女の好みー [恋愛]


https://wired.jp/2011/12/09/do-nice-guys-finish-last/

いい人ほど、収入が低くなる。

残念ながら、そういうものだ。確かに、周りを見渡していい人は出世しない。
自分の取り分を烈しく主張する人こそが、競争的な状況下で強さを発揮する。

というわけで、悲しいかな、いい人は収入面では不利に立たされている。


これがどうして恋愛なのか?
それは、女性が男を見るときの尺度の一つが経済力だからだ。それは裏返せば
強さである。よく強引な男にほだされるという話があるが、これもまた一つの
男度を測る尺度になっている。

強引さを愛情と勘違いするのは、まさに上記の問題なのだ。
争いが起こった際に、自分の取り分を主張できそうという男は一般に頼れる人と
呼ばれることになる。だが、その争いに巻き込まれた人からみれば、そういう男は
ごちゃごちゃ煩いという人であり、感情的争いを引き起こす面倒な奴である。

いい人は、そういう人を相手にすると、やっかいなので、リソースの奪い合いが
起こったときは譲ってしまうものだ。それを女性目線でみれば、弱い人という事になる。


よって、こういう事が起こる。男からみて、優しくていい奴、そして信頼できるなという
タイプは、往々にして女性からみると、頼りなく男としての魅力に欠け、いまいちだなあ
という事になってしまうのだ。

そして、男からみて、自己中でどうにも信用ならんし、何かあるとがめついことをいう
奴だなあという男が、女性から見ると、強くて頼りがいのあるいい男という事になる。


だから、こと恋愛に限っていえば、男からみて性格悪いなという奴こそが女性にモテる
傾向にある。現代は、恋愛結婚を是としているので、女性は全般的に性格の悪い男に
群がる傾向となり、そこで結婚するわけだ。

結果は明らかだろう。そもそも性格が悪いのだから、結婚を続けていく上で、問題も多い。
約束を守らないとか、優しくないとか、自分の事しか考えないとか、そういう性格で
パートナーとうまく調整できる方がまれだろう。結果として、女性は苦労する事だろう。
でも、そういう男の方が、仕事はうまく行く。なぜなら、リソースを得る能力は高い
傾向だからだ。

収入は高いし、異性としての魅力はある。いかにも女性が好む傾向を持つけれど、
それがために、結婚という生活に関しては諍いが増えるといえる。結局、女性は我慢を
強いられることになる。

男から言わせてもらえば、そんな男を選んだからじゃないか?という事で、終わりなのだが。

じゃあ、性格良いけれど、収入が低くなる気心の良い男はどうか。
男としての魅力が低い彼らは、恋愛市場では不利になる。強引さにかける言動は女性にとって
弱さと映ることだろう。だから、なかなか相手が見つからない。

ただ、もしそういう頼りない男でも、まじめにコツコツやっている様を良しする女性が
現れたとき、結婚という事になろう。こういう女性はラッキーだと思う。
男からみても、いい奴だなあという人は、生活という上では、うまく調整ができることだろう。
ただし、何かトラブルが発生したときはこの限りではない。家族を守るという意味において
他者を蹴落としても、リソースを確保するという強さを欠いているがため、頼れないのだ。
その結果として、女性は我慢する事出てくる。そして、収入も期待できない。


これらは極端なケースである。実際にはこれらの傾向という事になる。6対4とか、
3対7とか、そういう感じでいい人具合がグラデーションしているわけだ。まあ程度問題
といえるだろう。男としては、女性に出来れば、いい人を選んで欲しいのだけど、
まあ、恋愛結婚に憧れている人は無理であろう。男からみてしょうがない奴がモテるという
のが、非常に不条理なのだが、そういう強引さがある男が存在するから、汚いことでも、
仕事が進むわけだ。

現実世界は不条理なことや、不本意なことで溢れている。ならば、不合理でも自分のところに
リソースを強引に確保できる男は、評価されることになる。嘘をついたり、騙したり、
そういう手段を選ばない事も、最終的には武器になる。それが生き物である限り、
しょうもない奴がモテる事になるのだ。


これは女性からみても同じに見えるらしい。
女性からみて、男に媚びるような女性は嫌われるわけだが、そうやって男をうまく利用できる
嫌な女性ほど、モテることになる。女性にとって、可愛い人というのは、男から見て魅力に
欠けるわけだ。だから、女性からみると、どうしてあんな子を選ぶんだろう?と思うことになる。
そして、もっと性格いい子がいるのに男ってバカだなあと。

つまり、まさにお互い様という事だ。
男は結局、分かり易い方がいい。だから、媚びてる女性にひっかかる。
女性は、強引な方がいい。だから、自己中心的な男にひっかかる。

なかなかどうしてうまくいかないものである。

マトリクス表現をしておこう。

   自己中心   他者中心
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
男  モテる    モテない

女  モテる    モテない
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

モテる同士だと、お互い自分勝手なので、続かない。
恋愛市場だと、男で他者中心の「いい人」は、相手にされず、
女性全体が、男の自己中心へとひきつけられるわけだ。

すると、一部の男が複数の女性からアプローチを受けることになる。
そうして、男はますます自己中心的になる。リソースをがめるタイプは、
浮気もするだろうし、約束も破るだろう。嘘もつく。目的のために手段を選ばずだ。

それなりの女性たちは、この市場において、男に幻滅する。そして、男って奴は
ひどい奴らだと認定する事になる。だが、まって欲しい。そういう男はむしろ少数で
どちらかといえば、いい奴の方が数が多いのだ。単に女性たちはそういう連中に興味が無い。

というわけで、女性たちに言いたいのは、男にひどいことをされて、男は酷いと
一般化しないで欲しいという事。そんな男は一部に過ぎない。そんな男をわざわざ
選んでいるだけと心得て欲しいわけだ。

一方で、いい人である男に言いたいのは、普段はともかく女性の前では、
自己中に振舞えばいいという事だ。つまり、お前は俺の女だという気概で挑めと。
そして、そのためなら身体を張る覚悟でいろと。女性が求めるのはそういう意味の
強引さなのだ。
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フェイクニュースとは? [思考・志向・試行]

笹原和俊氏著作の「フェイクニュースを科学する」を読んだ。

その要諦は一言でいえば「フェイクニュースほど拡散する」ということだ。
どういうことか。人々がどんな事を話題にするのかを考えれば良い。
うちのタマが子猫を産んでさ、とか、あっちのスーパーのほうがアジが安いとか、
そういう話は対して拡散力は持たない。むしろ、非日常的なものや、感情的なものに
人々は振り回される。

だから、芸能人の話も、結婚や映画やドラマの話など以外の、不倫や批判などに
耳目が集まる。要するに人は、感情を喚起されるものを流布しやすいのである。
フェイクニュースが問題になるのは、感情を喚起するものとして、デマや不信がばらまかれる
ところにある。

まず前提として、常日頃持ち合わせている常識の歪みがある。
特定の人は、高度成長期に国の存続や発展という物語にライドし続けてきた。
もっぱら団塊世代だろうが、彼らは仕事というものを国の発展という目的のためと認識し、
そこを拠り所として、日常的な抑圧に耐えてきた。戦争で敗れた人間たちの心理として
暴力として欧米を凌駕するのではなく、経済で追いつこうという視野狭窄状態にいた。

だからこそ、高度経済成長を無目的に肯定し、その後に訪れる停滞期を’問題’として扱う。
元来、人類は昨年度、同じ事が繰り返されればそれで十分であった。しかし近年は経済成長
こそが通常であるという歪んだ世界観に侵されてきた。

さて、そのように歪んだ思想の持ち主たち(といっても、かなりの割合だ)にとって、
中国や韓国を始めとするアジア圏は日本よりも後進であるという蔑視感情がある。
そして、欧米を主たる目標として自分たちのライバルとみなしてきた。この心理的構えは、
敵愾心を煽るのに、ちょうど良い。いまや50〜70代という戦後に育った人間たちが政治を
行っている。彼らはこの戦後行動成長期のエートスを内面化し、そこに自らのアイデンティティを
構築してきた。要するに、国差別主義者たちだ。多かれ少なかれ、戦後世代は差別主義者である
と言って良いだろう。それは時代のエートスであり、そのような風潮を生き延びた人々には
仕方がないとも言える。アジアを蔑視し、欧米を賛美するような下らない思想なのだが。

一方で、靖国の母というような良妻賢母型思想が色濃く残った。生活において女性たちが
どう振る舞うべきかは、社会の基盤を形成する。女性たちは息子を兵士に育てる事を是とした。
しかし時代は暴力ではない。だから、彼女たちは息子を企業戦士にするべく育てる事にした。
出来る事は、息子たちに国関連の企業へ就職させ、国の発展に貢献するという物語を遂行する
事である。財閥や官僚、大企業とは要するに国組織だとみなされてきた。そういう本音は
隠されてきたのだが、結局、大衆はそういう認識にある。団塊世代自体がこれらを浴びて
育ち、それが人生だと思わされてきた。結局、男も女も、国が発展するという大きな物語に
ライドし、事実、その恩恵を受けて育ったのが現在の政治の中核となる集団なのだ。

すると、政治家達や大企業、官僚の幹部たちは根本的に差別主義者である。多くの人が勘違い
しているのは、いつもはPCに沿った良い人間たちであって、ときおり粗相するという風に
思い違いをしている事だ。違う。現状において社会を動かす権力装置にいる人々は、根本が
差別主義者である。その上に、現代的な平等主義やリベラル思想が接ぎ木されているだけ
なのだ。

よって、現代政治は基本、差別的な思想を基盤とする。それは戦後に盛んに取り入れようとした
リベラル思想を排除する。そもそも社会はそんなものじゃなかったからだ。国が一丸となって、
高度成長を遂げたという思想こそが本音だからだ。差別は大前提である。それがここに来て
急速に表に出てきたという事だ。元来、差別主義者たちなのだから、そのような言説こそが
本当だと思っている。そのPCに反するような言明は今までずっと抑制されていたのだが、
それがネット上に漏れ出てきた。それが現代のフェイクニュース騒動の背後である。

フェイクニュースは、差別主義者にとっては肯定し得るものである。差別発言、たとえば女は
子供を生む機械というような事柄は、彼らの本音である。だから質が悪いのだ。そして、その
ような内容は、人々の感情を喚起する。すると、そのニュースに注目が集まり、拡散される。

笹原氏はフェイクニュースをこうまとめる。
1.受けての意見や価値観、思い込み、偏見に合致するニュース
2.受けての道徳的感情を刺激するニュース
3.みんなが評価するニュース

つまり、もともと差別的であり、人格的に劣る人間たちによって、フェイクニュースが
拡散されてゆくという事である。それは現代の政治を担う人々の人格的劣化の問題であり、
彼らの本心の問題なのだ。

女性たちは偏見をもつ母親に、女性の振る舞いを押し付けられ、息子たちは企業戦士にされる。
その男たちが作り出す企業という虚像は、武器から書類に変え、金や情報を用いて敵を駆逐する
という思想性を背後に隠し持つ。そうやって小汚く商売をやってきた人々が、表向きは如何にも
まともですよとポーズをとる。この乖離が甚だしい事が、若者にアパシーを生み出させる。
常に日本社会はダブルスタンダードのメッセージを送り続ける。精神的におかしくなるのは、
必然的であろう。

ゴッドファーザーはイタリアンマフィアであった。その息子の一人は、きちんと大学へ行かされ、
政治家や実業家にさせられている。結局は、ゴッドファーザーになるわけだが。まさに日本社会
の縮図のような話だ。暴力装置としての企業があり、その彼らのファミリーが拡大すると、
如何にもまともな事をしているかのように振る舞う。それは社会の要請なのだが、そのような
仮面をかぶると、実体と表面に大きな断裂がうまれ、それは精神的な分裂を引き起こす。

フェイクニュースが拡散するのは、分裂した精神の叫びであろう。嘘かどうか、事実かどうか
よりも、自分の本音に合致するかどうか。それだけが問題だからだ。そこに理性的な思想や
人間的な優しさや思いやりは存在しない。自分の発言が、人々にどういう影響をもたらすのか
考えられないほど、知性が劣化したのが、フェイクニュースの問題点なのだ。

本音をいって何が悪い。

おそらく、それだけなのだ。フェイクニュースなど、それで説明がつく。差別主義者が
差別発言をしている、ただそれだけの事なのだ。良心や発言によって毀損される人々の感情
とか、社会不安を煽ることなど、頭によぎりもしない。そういう本音だからこそ、同じ本音を
もつ人々によって拡散される。そして仲間がいたのだと安心する。こうして思想がエコーチャンバー
内で反響しあい、その思想の愚かさや、非道さは認識されないままになる。


差別的である事が、行動成長期には適応的な思想であった。あえてこう断言しよう。
それはコンプレックスであり、行動の原動力である。しかし、現代にはそぐわない。
もはや、死んだ思想である。その死んだ思想がなぜ現代に蘇るのか。思想とは恐ろしいものだ。
若い頃の思想性は、もはや変えられないのだろう。そして、抑制の努力も中高年になると
難しくなるようだ。脱抑制的になるのは、オヤジの証だが、そのような思想をもった人間
だらけになるのがこれからの日本である。既にモンスター化は進んでいる。中高年の
マナー違反は目立つ。これは今後ももっと大きな問題を生むだろう。


残念ながら、現象の原因が分かっても対処法は思いつかない。差別主義者に向かって、
お前は、差別主義者だと叫んでも、そんな事で反省するはずがない。本来、人社会では、
そのような差別主義者は軽蔑され、主要な立場から追い出される。しかし、差別主義者
だらけなので、誰もそれを実行することはない。戦後の教育の失敗が現に現れている。
今の、50〜70代には大いに反省してもらわないといけない。まあ、聞く耳など持たないだろうが。

彼らの常識における正義は、国の発展という物語の肯定である。自分がしがないサラリーマンで
あっても、大きな物語の正員であると勘違い出来る事は、不幸なことではない。ましてや、
自分たちの時代によって国が発展したという自負があるならばなおさらであろう。実績がある
などと、勘違いしているのだ。それはただの人口ボーナス期であっただけなのだ。

差別主義によって国が発展した。残念ながらそれが真実なのだ。
そして、差別主義によって国が傾く。どうもそれも真実のようだ。
最大の問題は、彼らはそれを常識であると思い、差別主義であるとは思わないことだ。
どうにもげんなりする。

そして、恐ろしいのは、彼らの思想をあびた若者が育っているという事だ。
差別主義の拡大再生産ではないのか? 昨今の若者の安倍政権支持を見ると、
差別主義が蔓延し始めていると思わざるを得ない。それはどうやら、浅はかな知恵と、
本音を語るという態度に、共感しているかのようだ。

社会的状況が悪い人は、本人の努力不足とのたまう若者は多い。
それは悪平等主義の誤援用であり、能力の平等主義という完璧な間違えの思想をベースにしている。
人は元来、違う。違うのだから社会的役割も違ってくる。そこに能力が努力によって生まれると
いうファッショが入り込むことで、できないのは本人の努力の問題だと認識する。
こうして、若者の高学歴エリートは能力差別主義者になる。

この差別主義は、団塊の連中が持つ、差別主義に接続する。
つまり、アジアが経済的に劣っているのは、彼らの努力が足りないからだと。
原因と結果を入れ替えて物事を浅はかに語る。これが、若者の陥る差別主義である。

そもそも、劣っているかどうかなど、基準がなければ決まらない。国の良し悪しなど、
本来的に決めようがない。出来もしないものを出来るかのごとく考えるのは知性のたりなさ
であり、その誤った思想をベースに差別を助長するのは愚昧である。

歴史をみれば、欧米諸国による過激な暴力が、アジアやアフリカを貶めたのは事実である。
そして先進国の繁栄とは、彼ら第三国の人間たちの血によって集められた資本に端を発している。
客観的にみて、極悪非道なのは欧米である。その欧米中心史観に日本が染まる理由はない。

欧米人の思想的精神疾患は、とどまるところを知らない。特にアメリカは重病だろう。
それなのに、それに追随する日本はアホとしか言えない。日本という国は、精神疾患のマネを
するという異常の上に成り立っている社会である。これで幸せだとか言っているのは、
井の中の蛙大海を知らずだ。まあ、知らずに生きるほうが幸せかもしれない。

生活者は、ほどほどに幸せである。一方で、サラリーマンは一番不幸な生き方かもしれない。
日本のオヤジ達は、自分の不幸を直視できない。だから、日本国の発展という幻想にすがる
のだ。昨今、その幻想を演出する装置に成り下がった政府。新しい東京タワーを立て、
新しい新幹線をひき、新しいオリンピックをやり、新しい万博をやる。幻想を現実化したい
かなしいオヤジ達の悲哀だけが映る。

若者はそんなものに巻き込まれたくない。愚かしい懐古主義と差別主義。どうにかならぬものか。
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ふと思い立つー2019年抱負 [雑学]

なんか、急にダイエットをしたくなった。
それはSNSダイエットである。

最近は本ばかり読んでいるのだが、一方で、ネットに向かうとFacebookやTwitterなどのSNSを
ついつい触ってしまうことが多い。客観的に自己を観察すると、かなり無意味な時間を過ごして
いる事に気がつく。これでは人生の浪費だろう。

テレビを漫然とみている家族をバカにしていたが、自分も漫然とネット、とくにSNSをやって
しまっているではないか。別に生産性がある事に時間を割り振るというわけではない。
むしろ、別の形の無駄な時間の過ごし方を考えたいのだ。

本をよむのは、その一つの手段である。だが、本はさすがに3時間も読むと、
疲れてくる。だから、映画を観たり、ネットをするのだが、このネットがくせもので、
無意味な時間過ぎる。むしろ、この時間をエクササイズや瞑想に当てればいい。

というわけで、無駄なSNS活動を意識的にやめてみようと思う。Facebookは連絡手段でも
あるので、時折みないと困る可能性がある。一方で、Twitterはニュースの摂取に利用している。
この辺りをどれくらいダイエットできるかがポイントだろう。

自分の行動がかなり一定なものにはまり込んできたことを危惧しないとまずい。
少し、デジタルから遠ざかる工夫をしてゆこう。

2019年はひとまず、SNSダイエットをしたいと思う。

そのために、今、Firefoxにブロックサイトというアドオンを追加した。
Facebookを見られないようにしてしまう。それから同じように、ついクリックしてしまう
サイトをブロックした。これがどう効果が出てくるかは分からないが、しばらくこの状態で
過ごしてみようと思う。

それから、スマホも触る時間を減らしたい。そのためには、強制的に使えない時間を
作るべきだろう。

少し意図的に、ネットから遠ざかり、アナログな情報ツールの割合を増やしたい。
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思考の分解ー正月の挨拶に代えて [思考・志向・試行]

2019年の正月という事で、自分の志向性について考えてみた。

自分に備わっている「負けず嫌い」という所や、科学を志向する事などが
どこから来ているのかがなんだか分かった気がしている。
それは家族関係である。

プライベートなことはここではあまり書かないようにしているが、
個人的なことこそが、裏返って他者のためになるという事は厳然たる事実である。
恥を忍んで、少し考察してみたい。

私は弟であり、末っ子である。おそらくここが負けず嫌いの根本原因だろう。
そして、家族の志向性、主に母親の考え方が大きな影響を持つ。

末っ子である私は、あらゆる点において未熟なものとして扱われてきた。
それを是として美味いこと受益するというタイプであれば、良かったのだが、
不幸か幸いか、私には本を愛する父がおり、その影響からか、知識は私が多くを
持つようになった。その結果、経験は彼らが常に多いのだが、知識は私が多いという
ねじれ関係を持つようになった。それは中学くらいには既に始まっていた。

すると何が起こるのか。彼らがいう知識がいちいち間違えに満ち溢れている事に
気がつくのである。そして、思考パターンが誤りとはいえずとも、短絡的であり、
2つのステップを越えることはない。したがって、やる事は結果的に平均であるが、
ゆえに、いささかうんざりするところがあるのだ。何しろ、大して考えなしに動くから
である。それでも、世間の知恵は役立つ。他者と同様なものを志向し、同様に行動すれば
ひとまず問題は起こらない。そして、かつて来た道を繰り返せば、大きな誤りはないのだ。

どうして私が負けず嫌いになったのか。それは単に私を子ども扱いし続けるという
事にある。私が知識的に正しいこと、蓋然性の高い推論を行っても、彼らは自らの志向を
考え直すことは無い。それは私の思考を常に甘く見ることからスタートする。そういう
関係性を保つことを家族全体が志向するからなのだ。

すると、私は正しいことで勝つほか無い。知識としての正しさは、私の立場に
関係なく正しいからだ。そして推論についても正しさを追求する事になった。
間違えていれば、揚げ足をとってくるのである。正しいかどうかは私の志向の一部になった。

母親はとりわけ、推論の間違えや自分の発言のおかしさを認めない。
その言動は時に苛立ちを覚えさせる。要はあやまれないのだ。その振る舞いは
私に取り込まれ、そして、反発させる原因を作る。私もあやまりたくない。つまり
負けず嫌いである。しかし、内容的な正しさは担保するように気をつけている。
すると、母親のおかしさを正そうとする行為に及ぶことになる。だが、おかしさを
認めない母は私のいう事を聞かないのである。

小さい私は、単に家族が変なことをいっていることを修正したかっただけだった。
だが、そのような修正が一番小さな私から出ることは是認されなかった。
そうして、その行為はエスカレートした。要するに「私の話を聞け」である。

しかし、人は正しいことをいわれても耳を傾けない。自分のいっている事が
誤解を含まないように真実性に近寄るほど、彼らは理解しない。するともっと
正しさをふやそうとした。結果として、私の話は更に理解されなくなった。

もっとそうそうに彼らはアホでもかまわないという認識に至るべきだったのだ。
小さな私は、彼らの役に立とうとしていた。それは力や経験で太刀打ちできない
事による。ならば自分の得意において家族に役立とうとした。だが、彼らは
それによって行動を変えることはなかった。その理由は私には不明である。

考えようによっては、私は嫌な奴だろう。自分が知っているもしくは、理解している
事柄を、悉く違うと指摘する存在である。そしてそれが大抵は正しいのだから。

子供の頃が、そうであれば、大人になってもそう変わりはしない。
今になっても、私は父親に安倍政権のおかしさを納得させられない。父親は右翼系の
思想の持ち主だが、その思想性と安倍のやっている事に齟齬があり、彼らは保守でも
無いでもない事を理解させられない。父親がもっと若く政治的な人間でテクノロジーに
強ければ、ネトウヨと呼ばれても不思議は無いだろう。

その父親を私は説得不能である。こうしてブログを書いて、安倍政権批判だけでなく
環境問題や資本主義問題に言及している。それは独断的に結論付けているつもりはない。
志向は可能な限りメタ認知的に、可能な限り庶民にとって良い方向になるよう思考して
いるつもりだ。しかし、現に不本意ながら、オヤジ一人を説得できないのである。

どんな社会批判の人間も、どんな優れた思想家も、果たして家族を説得できるのか。
私には、それこそが一番の困難ではないかと思われるのだ。そして、それが出来も
しないのに、果たして言論に力があるとは到底思えないのである。

私が小さいながら役に立ちたいというシンプルな願いは、家族に通じることはなく、
ならばと、社会全体へと志向を広げたのが自分の行動だった。しかし、ブログを
読んだ人がどれほど、変わっただろうか。やっている事が小さい頃も今も変わらない
事に驚く。そう、私は役立ちたかったのである。

私は私のために知識を増やし、推論し、志向していたというよりも、
他者のために思考していたのである。そして、少しでも世界がよくなるようにと。
こんな事をかけば、自分を良く見せたいだけではないかと揶揄されるのかもしれない。
もちろん、私にもブログにおける無意識のアピールはあるといえる。たとえば
優れた人だと思われたいなど。しかし、小さな私は、素朴に世界に役立ちたいと
願ったのであり、そして今も願い続けているのだ。

家族によって志向された私の性根は、知識によって社会に役立つ事である。
残念ながら家族は説得不能である。それは認めざるを得ない。ならば、せめて
私の思考に共感してくれる人を探したい。それがこのブログの心なのだ。
そこには私は孤独ではないと思いたいという動機と、本当の意味で役立つのではないか
と期待がある。

このブログに書く事柄は、時におかしく響くことだろう。それは常識的ではないからだ。
だが、常識的ではない理由は、真実や真理性に可能な限り近づこうと努力した結果であり、
それがゆえに、一見の価値はあると私が思う事柄を記している。

もし、これを読んで、自らの小さい頃の人間関係もっぱら家族との関係を振り返って
もらえるのならば、私は本望なのである。

2019年の挨拶が長くなりましたが、今年もご贔屓のほど。
あけましておめでとうございます。
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