世代間ジャンプー車輪の再発明ー [その他]

一つの分野の検討をきちんと穴掘って、深く調べたことはあるだろうか。
私の稚拙な探索では、ごく限られた領域ですら調べきる事は困難であった。

とはいえ、過去を調べてゆくと面白い事実に突き当たる。
それは「大抵のことは終わっている」という事だ。

特に手垢にまみれた分野では、大方の人が興味をもつようなトピックスは調べて尽くされている。
そして、なお新しく調べるのは甚だ困難を伴うようになる。

ところがだ、なぜか新しい話題がいまだに絶えない分野もある。
何がちがうのか。それは、単純に機材の問題である事が多い。
つまり手持ちの武器がハイテクなので、今までのやり方じゃ分からなかったことが
物量にまかせて探索できたり、高い精度で調べることが可能という事がおおい。

私が行っていた研究も同じようなことで、大抵のことは既にアナログ的な手法で
知られていて、私が使っていたデジタル的な機材で調べたことは、それ自体新しいのだが、
内容的な新しい発見というのはほとんどなく、むしろ、過去に既に言われている事の
再認に過ぎない事が分かったのだった。

がっかりといえば、がっかりな結果である。
その一方で、過去の人たちはちゃんと調べていたんだなあと感心したのだ。

これはある意味で「車輪の再発明」に近いのかもしれない。
だが、実はどんな分野にも同じことがあるんじゃないか?と思ったのだ。

というのも、私の分野はそれほど伝統は無い。1950年代くらいからの蓄積だ。
とはいえ、もう70年近い期間で検討が行われている。するとどういう事が起こるのか。

どんなに詳細を理解している人でも、過去にどんな研究があったのかをサーベイしきれる
ほどの時間を持っている人は居ない。すると、かつてどんな検討がブームで、それが
下火になったのかを生き証人としてかかえている分野はともかく、それすらなかった
分野では、実は途切れた文化が出てくるという事になる。

特定の時代に精力的に調べられてきたこと。それがちょうどひい爺さん世代、つまり、
自分の先生の先生くらいならまだしも、もうひとつ前の世代になると完全に知識が
途切れてしまうのだ。生存がかぶらないために、何が重要なものであったのか、私には
把握しきれない。たとえば、教科書と呼べるような本がどの分野にもあるだろうが、
その内容がどんな文献によって支えられているのかは、きちんと調べる事はまれだろう。

すると、こういう事が起こる。とある世代で充実した研究が行われて、ある程度概観が
明らかになると、次の世代は違うことをしようとする。これはAというブームを知った上で
Bというムーブメントを起こすことを意味する。これは何も問題ない。だが、次のCを
作り出す世代には、Aの話はだいぶ危うくなる。それは既にそういうもんだという認識が
B世代にあるために、C世代は教育的にそれを伝えられる。実感ではない。誰もリアルタイム
でそれを調べているわけではないからだ。だが知識としては頭に入る。だからC世代は
いささか不安定ながらもA世代のことを意識できる。だが、問題はD世代である。

Dを作り出すときにすでにA世代は死んでいる頃だろう。B世代も引退しているかもしれない。
すると頼りになるのはC世代なのだが、彼らも自分の手を使って得た結果ではないので、
知識としては知りつつも、その確度についてはD世代と変わらないのである。そして、その
知識もAやBほどには細かい部分は分からないことになる。すると、C世代はD世代任せで
検討がスタートする。

こうなるとD世代はかなりやっかいで、AやB世代の検討は教科書で知るしかないので、
知識にはなるが実感がない。その上、追試をするような時間も無い。C世代が頼りなのだが、
C世代も自分の手で追試をしているわけではない。昔話として先生から聞いているだけだ。
その一方で、計測機器は日々進歩している。D世代はかなりハイテクを駆使するわけだが、
その計測対象が往々にして、A世代やB世代と同じという事はままあるわけだ。

こうして、D世代が新しい機器で「車輪の再発明」を生み出す事になる。
大事なことはおそらく教科書に残ったであろうが、それもまた誰も検証していない事実
となってしまう。そして、時に、この事実が実は違う側面を持つときD世代は新しい発見
をすることになる。

とはいえ、昔の人も愚かではない。当時のテクニックで出来るだけの事はしているはずだ。
すると、ハイテクな結果でも、定性的議論でみれば、何も変わらない事はまま起こる。
特にサイエンスの分野では起こりがちであろう。

結局のところ、私の検討も、過去の論文をつぶさに精査してゆくと、大抵は言及があり、
それは自分の結果を先取りしているのだ。つまり、当時推察されていたことをハイテクを
つかって物量で示したという事になる。ある意味では過去の人と整合性があるわけだが、
その一方で、定性的な部分に関してあんまり進歩がない事になる。残念。

昨今のサイエンスは金がかかる。その意味は、ハイテク機材に金がかかるという事だ。
一方で、人の興味がハイテクになったか?否。人の興味は相変わらずなのだ。
現代の科学の文脈でいえば、かつての説明を、ハイテク機材のデータで再検討している
ようなものとなる。そこに何かジャンプや飛躍はないのだ。もしあるとしたら、
本来想定しているはずじゃないものをハイテク機材が捕らえたときである。

つまり、変な話、大抵の研究は定性的にみれば、昔とおんなじことをやっているのだ。
それは現世代が知らないだけということがままある。なにしろ、現代は論文で溢れている
のだ。それは教科書にも乗らないようなことだったりする。そして、その中身はハイテクで
生み出されているだけなのだ。それを繰り返しているうちに、時に予定外のことが起こる。
それが新しさである。つまり、常に新しさとは予定からはやってこない。新しさは定義も
不能である。そこに新しいものが出てきたとき、はじめて新しさに気がつく、そういう
性質のものなのだ。

これを理解しない研究人も多い。だから計画的に網羅的に検討したがる。それは結局、
新しいのではなく、ハイテクなだけなのだが、それに気がついていないのだ。仮説
検証が重要なのはわかる。しかし、仮説が立てられるとはそもそも新しくないという
事とほぼ同義ではないか。過去の命題から新しい命題を論理的に組み立てられるという
のは、利便性をあげる意味はあるが、実は新しくはないともいえる。

そういった意味で、真の新しい検討とは常に、過去からの逸脱である。
その逸脱は、才能のある人間のところに現れるのではない。物量的に様々な失敗を
繰り返したところに現れる。過去で知られている常識から類推不可能な結果が出たとき
始めて<成功>になる。

これが発見や新規というべきものだろう。イノベーションを同じように思ってる人が
いるが、イノベーションとは組み合わせである。混ぜ合わせたことがないものをまぜる
事がイノベーションである。それは発見でも新規でもない。意図して、まぜ、そこに
線形以上の結果を見出すのがイノベーションである。新しい技術を作りだすのは発見で
あって、イノベーションではないのだ。

よって、イノベーションが必要であれば、可能性のある組み合わせをやればいいだけだ。
つまり簡単なのである。イノベーションとはイージーな問題である。

むしろ発見こそが重要なのである。そしてそれは計画的に導けるものではない。
よって、計画書に書けるようなものでもないし、頭で考えて出てくるものでもない。
ここが要諦である。

ハイテクを駆使しても、別に新しいものは生まれない。それは過去の知識の精度を
上げる程度のことだろう。目が良くなる、耳がよくなる、触覚がよくなる、つまり
人の五感を拡張したものこそがハイテクである。そこで得たデータは、高精度であり、
物量が高いものだ。だからといって新しいわけではない。

真の新しさはつねに論理の延長には生まれない。論理破綻の上に生まれる。そして
その現象を説明するために新しい論理が生まれるのである。

さて、世代間をこえて、実はやっている事が同じということは往々にしてある。
ならばもっと過去をまとめなくてはならない。だが誰もそんなことは興味がないようだ。
教科書を年々分厚くするという話はいかにも地味だからだろう。

もしかすると人の頭では、全てを網羅できない。だとすると、分業するわけだが、
その結果として、さらに「車輪の再発明」がそこかしこで生まれているはずだ。
だが、全てを調査できるわけでもない。

これを乗り越える一つの手段はAIだろう。
人を超えて情報をまとめられる。

その意味で私は、AIが人智を超えた新しい知見を生み出すのは間近だろうと思っている。
そして、現時点でも過去の文献をあらためてまとめてくれるAIこそが本当の意味での
研究になるんではないかとも思うのだ。

AIがつむいだ知識体系に対して、イノベーションを用いた検討を行えば、
過去との差分をつぶさに検証してくれるだろう。もはやどんな専門家も自分の分野すら
網羅できていないのだから。新しさを担保できる人はもういないといえる。

そろそろ、学術分野も新時代に入るべきじゃなかろうか。

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自分の持ち場ーキャラクター [雑学]

正直な所、若者たちが言う自分のキャラクターという発想は嫌いだ。
なぜなら、自分をその「場」という劇場において、そのふるまいを決めるということは、
予定調和以外の何者でもない。そしてそれを社会性だと思っているなら、完全な間違えだからだ。

社会性というのは、「相手が自分とは違うことを認識し、その上でどうやって折り合いをつけるか」
を考慮することである。コミュニケーションとも言う。よって、上記のような若者たちの振る舞いは
コミュニケーションではない。相手に対して”演劇”を求める強制の場であり、それは他者の中に
個人があるという事実を無視した横暴な思想である。相手に予定調和を求めるということは、
相手と同じ考えを共有しなければならない。結果として、相手に対して思想統一を目指すことに
なる。

これが政治において発揮されるとファシズムになる。個人や小さな集団において行われれば、
「空気を読む」という事になる。空気を読むという行為そのものは多かれ少なかれ誰でも
やっていることだろう。むしろ、行為として場の演劇に加わるかどうか、それを「空気を
読む」という言葉で言い換えているのだ。空気を読むのではなく、場において「正しい」
振る舞いをするという事である。

この正しい振る舞いというものには統一見解はない。だからこそ、その場において
正しかろう振る舞いがとれない人を空気が読めないという。それは場の演劇に付き合わない
という事であり、場合によっては付き合えないという事である。場が何を要求しているのか
察する事ができるかどうか、それが優れているかどうか、それは結局、場における政治で
決まる。

若者たちはこの空気を読むという作業に鋭敏に反応する。それは都市化という世界における
怯えである。都市における不確定性要素の最大たるものは人である。人こそ、もっとも読めない
ものなのだ。だからこそ、その人の振る舞いを予め規定したいのである。都市化はそれを
強要する。空気を読むというのは、自己の振る舞いを決定するために必要な行為とみなされている。

再度いうが、空気を読むというのは、認識の話ではない。行動の話である。
多くの人が空気を読めると思ったらそれは大きな勘違いである。大抵の人は、特定の行為を
繰り返しているだけなのだ。そして、万が一にも、空気が読めない時、日本人は沈黙する。
どう振る舞ってよいのかがわからない時、日本人は何もしないという行為に出るのだ。

この状況が見えない時、どう振る舞って良いのかわからない時、ただフリーズするのが
日本人である。なぜなら、空気を読むという能力は行為とつながっていると思っているからだ。
下手な行動は、空気を読めないというレッテルを貼られてしまうのである。そして、一度、
そのように判定されると、そのように振る舞うように場から強制されるのである。

このレッテルをはられた人間をどう扱うかという行為が、空気を読むという行動に
フィード・バックされる。つまり、若者の空気を読むというのは、もっと端的にいえば、
レッテル貼りである。組織において役割を演じることを強要されてきた若者たち、
つまり都市にいきる若者たちは、自分がどんなレッテルを貼られているのかを気にしており、
そのレッテルが不本意なものにならぬように行動しながら、他者をそのレッテルのロジックで
扱うという事を行うのである。

もちろん、私にもこの空気を読む機能はついている。それは生存戦略であった。
あの過酷な中学時代をやり過ごすには、自分の考えを表明する事は危険であったし、
目立つことも危険をともなった。ここでの危険とは文字通りの身の危険である。
中学という場は、このレッテル貼りに対する無意識的抵抗の場でもある。社会から貼られた
落ちこぼれや、はみ出しモノという扱いに対するはけ口は、社会的不適応者を分節する。
要は、社会がわざわざこのような者たちを生み出すという事だ。それは社会がレッテル貼りを
行おうと試みるからである。それは合理性や効率主義以外に、あまりにも人間が大量にいる
という事があろう。個人を眺める大人の視線が足りないのである。そしてこの世から大人が
消えつつあるということだ。

話を戻すと、レッテル貼りを通じて決まるのは、行動だった。つまり「空気を読む」である。
自分の行動が場の状況に依存するという事はあまりにも当たり前に思える。だが、そこには
意思は存在しない。意思など不在なのである。こういう場合はこうするという行動規範の
学習こそが、「空気を読む」の究極系である。マナーとはそういう事であり、この行動規範
の有無は、社会「階級」に大きな影響を与える。

社会的層の違いとは、ふるまいの違いである。それは必ずしも貧富の差ではない。
個人がどんな規範をもっているのか、それが社会的層を決定づけてゆく。これこそが、
空気を読まねばならぬ最大の問題なのだ。社会は他者が存在して成り立つ。その他者が
自己をどうやって認識するのかは、とても重要だろう。その時、自分の振る舞いによって
社会的層が決まってしまうのであれば、自分の行動はうかつにできなくなる。自らの考え
に従って、行動すると、社会的層の違いが露呈する事になる。これを防ぐには、周りを
真似れば良い。

つまり、空気を読むという事の根幹は、自意識の問題であり、面子の問題である。
面子を保つには、自分が所属している組織にふさわしいふるまいをとる必要がある。
その振る舞いは決して、どこかに書いてあるわけではない。よって、そのふるまいは
行動したものを参照することになる。誰かがやった事で、認められれば自分もそれを
受け入れ、否定されれば自分はそれをやらないという事だ。いかにも日本人らしい。
そして、実にケチくさい思考である。他者と同じにしていれば、自分の面子が保たれ、
本当のどうしょうもない自分が露呈することを防ぐことができるというわけだ。

物事の根幹として、「自分で物事を考える」という姿勢はここでは圧倒的ふりだ。
何しろ、面子が他者との間におけるレッテル貼りで構成されている限りにおいて、
自分で考えたって答えはないからだ。場が答えを決めるのである。ここに日本人の思想の
大いなる弱点と、強みがある。欠点は長所の言い換えに過ぎない。

自分で物事を考えるという行為は別段問題ない。問題なのは、自分で考えた結果として
行動するという事だ。自分の行動が自分の考えに基づいていると表明することは、日本
社会では許容されない。それが日本社会におけるタブーである。これを中学という場は
念入りに教えてくれる。これをうまくやり過ごすには、自分で考えてはいるが、他者の
行為を真似するというダブルスタンダードに生きる他ない。

勉強が出来たとしても、それをおおっぴらにしてはならない。それはナイーブな話
である。もちろん受験が近づけばわかってしまう事であるが。勉強ができることと、
個人の性格はまったく別なことである。だが、勉強ができるということが他者の心に
もやもやした感情を催すならば、それを発生させないように振る舞うほか無い。場が
共有する「精神的暴力」がむき出しなのが中学校という世界である。大人になる前
だからこそ、中身が明るみになっていた。

一方で、大人になるとは、場の論理に従うことであると理解される。おそらくこれは
不幸なマインドなのだが、それを指摘する学者たちは少ない。あまりにもナチュラルに
受容している場の論理に気がつける人は稀だからだ。なにしろ、自分で考えるのは、
場の論理からいえば、悪いことである。禁止されている思考自体が、存在するとは
考えてはならない。だから、自分の思考であるという事はつねに隠蔽されるのである。
その隠蔽は自分自身において発揮される。自分の中に、自己の考えであるという発想
自体があってはならぬのだ。

この禁忌を身につけると日本では大人になれる。大人とは自己の思考の隠蔽なのだ。
だから、大人の言明はつねに仮想的社会を踏まえる事になる。「世間では通じない」
とか「社会人としての常識」とか、そういう恰も外部規範において、自分は語っている
という言明が増えるのだ。なぜなら、自分が自らの思考を抑圧し隠蔽しているからなのだ。

だからこそ、自分の考えを述べ、自分の行為に反映させている人をみると、日本社会
では袋叩きにする。それはどこかでわかっているからだ。「自分は我慢しているのに
あいつは好きにやってやがる」そういう嫉妬の心が存在することに。

本来は、自己の考えによる行動が、社会層の規範に見合うというのが本質である。
それを本来教養と呼ぶ。教養を身につけるには誰かから教わる必要があり、同じ教養の
世界の人たちと過ごす必要がある。そして、教養の成熟には時間がかかるものだ。
だが、面子を気にする人たちの中には、その時間をショートカットしたい人達がいる。
教養の成熟を短絡して、それでいて教養があるかのように見られたいという強欲を
もつ人々である。彼らの戦略は、それこそ教養ある人々の模倣である。他者には、
行為しか目に映らない。だから、行為が教養に裏打ちされていれば、教養人として
擬態できるのだ。

ママ友グループやセレブグループが、互いに真似し合う気持ち悪い集団になるのか。
それは自己主張のタブーの結果であり、教養の欠如である。つまり自己という中身がない。
中身がない人が中身があるかのように見せるための手段、それが模倣であり、
空気を読んだ結果、導き出す行動様式なのだ。

むしろ、教養人たちの行動の契機は、自らの思考である。だからこそ自由であり、
創造的である。そのように振る舞いたいと願う人々は、そこに追随する事で、むしろ
その願望から遠ざかってゆくのである。嘆かわしい事だ。

さて、若者に戻ろう。
彼らがキャラクターを意識するのは、それが効率的だからである。他者からの自己の見え
に基づく行動。それは空気を乱さない最短の手段である。そしてそれは劇場を構成する
一部になる。その行為がまた他者の空気を読む行為を助長してゆく。そうして、
役割が決定してゆくのである。この行為に加わらないものたちは、どうなるのか、
それは排除の対象である。

その対象は2つの種類がある。一つは、場がどういうものであるかを理解しない子供だ。
子供が場を理解しないことは許容される。だが対等なメンバーにおいて場を理解しない
のは、能力不足や場を乱す存在として排斥される。もう一つは、自ら考えて行動する
メンバーだ。このようなメンバーがいると、自分たちの行動が馬鹿らしくみえるからだろう。
自分は空気を読むというコストをかけているのに、こいつはそれをサボっていると思う。
その思考は裏返って、あいつは嫌な奴だというレッテルが貼られる。

こうして、集団は均質化を推し進めてゆく。残念ながら、コミュニケーションにおける
本質である「異質な他者との共生」というテーマに向かうことはない。それはむしろ、
高コストであり、異質なものは面倒なので排除するという話に落ち着くのである。
日本では多様性など確保されるはずはないのだ。むしろ、このような「空気を読む」
という行為が横行する社会では、「行為の均質化」が求められ、それが先鋭化される。

空気の読む事の最大のポイントは「行為の均質化」である。けっして「思想の均質化」
ではない。面従腹背といえば、もっとわかりやすいかもしれない。もし、思想がグループ
における教養者に似るのであれば、その組織はさぞ活性化されるだろう。むしろ、
行為のみが似るがために、一見まともに見えるけれど、中身がない形式だけが残る。

自分の持ち場は日本社会では重要だろうが、人間というポテンシャルはそういうもの
ではない。せっかくの人生である。日本社会の外側にも世界はあると知っておいて
ソンはしないと思うのだ。
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割引率と一神教ー内田氏講演 [思考・志向・試行]

内田樹氏の講演を聴きに大手町まで行ってきた。
とても、含蓄に溢れた言葉が並び、久しくなかった知的好奇心のつぼを押された。
まさに、自由を得た気分がした。


さて、内容の詳細は語らないが、トピックスとしては、
時間認識の話だといえる。そして始原の遅れの話であった。

かつて、ヒトには2度のシンギュラリティがあったという所から話はスタートした。
そして、紀元前500年ほどにおいて、文字が使用されはじめる。すると、知性は
変容してゆくわけだ。あらゆる物語が口伝であったが、それが文字として表される。
そのことがヒトの知性、脳を変えたのだろうという主張だった。

バイキャメラル・マインドとはジュリアン・ジェインズの仮説であるが、
右脳と左脳の話は、じつはよく知られており、脳科学的文脈でも、二人の自己が
内部にいて、せめぎあうことがある。スペリーの研究で有名になったスプリットブレインでは、
とある実行をもう片方の半球支配が邪魔をするというエピソードが出てくる。
左手で靴下を履こうとすると、右手がそれを脱がすというような話だ。

この二つのせめぎあいに対して、集合的知性としての右脳と、個人的記憶の左脳という
構造を仮定したとき、そこに神を見出すことが出来る。そしてその機能とはまさに、
コールアンドレスポンスであり、始原の遅れなのだと内田氏は看過する。

かつてヒトは神の声を聞いていた。そこに<心>が生まれ、その結果として、
神の声が遠ざかってゆく。現代的にその声を聞くこととは、始原の遅れを直感すること
の再演なのだという。宗教者たちは、家の外へでる。神の声を聞いたからだ。これが
言わんとする事は、既存の認知的枠組みから離れ、未知の知らぬ世界の存在をしり、
そこへと自己を移行する事なのだと。

我々は、常に遅れている。生まれた赤ん坊は、他者に呼びかけられて始めて、自己を認識する。
その時、もともと自己があったわけではない。呼びかけに応じて、私はここにいると返事をした
ことで、アモルファスな存在から、自己が分節するのである。同じく、他の言語を学ぶとは、
自己の新たなる分節である。

こうして、ヒトは人になる。その時、重要なのは時間である。ヒトは時間をおぼろげに
理解している。時間を世界認識の一部にくわえたとき、ヒトはまさに人になる。

過去への認識が、未来への足がかりになる。その射程が広いほどに、先を見出せる。
孔子は紀元前の国、周の大公を理想の政治モデルとした。そのことは、孔子の思想の
大きな骨子になったのだろう。

同じく、我々も過去をどうとらえ現在に繋げ、そこから未来へと意識を飛ばすのか。
これを実行できる人間は、強い人間になれる。つまり自由な人間になるのだ。

一神教の信仰は、神の声が聞こえなくなった人が感じる神の気配に対し、むしろ、
神が不在だからこそ、信仰が深化するのだと内田氏はいう。これは遠藤周作氏の
「沈黙」でも描かれていた。自分に向けられたメッセージであると直観して、
そのメッセージをなんとか理解しようとする営為こそが、信仰なのだ。

朝三暮四の話はご存知だろう。これはサルの話だ。だが、笑い事ではない。多くの人も
また時間認識が未熟なのだ。過去の教訓は、時間を知れと叫んでいる。

行動経済学の話に、割引率の話がある。今、1万円をもらうのと、半年後に5万円もらうのは
どちらがよいかとたずねると、かなりの割合で今の一万円をえらぶ。これを割引率という。
将来得られるだろう報酬を小さく見積もるのである。この割引率が低いほど、人は社会的
成功を収めやすいことが分かっている。つまりここでも時間なのだ。時間への態度が
問題となる。

内田氏の話を聞きながら、そうか、割引率とは時間認識の話であったのかと腑に落ちた。
現代人は、時間認識が原始化しつつある。

過去がどのようなものかを知れば、現在はどうありうるかの可能性は増える。そして未来も
またどうあるべきかも見えてくる。しかし、「今ここ」しかない人にとっては、過去は
あってもなくてもよい。だが、過去を射程にいれない思考は、現在における意思決定もまた
生まれない。だから、場当たり的な意思決定しか行えないのである。

内田氏は、過去の人々をバカにできないだろうと言った。現代の歴史修正主義者たちは、
まさに過去を消し去ってしまう。そして現代に都合の良い解釈をする。その結果として、
未来への指針を失ってしまう。


時間認識を得た人類は、因果性を理解し、確率を理解するようになる。
一方で、時間認識を得たヒトは、後悔や悔恨をもつようになる。その過去を未来へ飛ばす
ことで、人は希望を得ようとする。もちろん、不安や恐怖も合わせて持つようになった。
それは、未来を意識する事そのものである。良い事ばかりではないのだ。


では、神からのメッセージ、他者からのメッセージをどうやって見分ければ良いのか。
内田氏はいう。それは心地よさであり、自由であるかどうかだろうと。その言葉や、
突如として現れた意思・アイデアの実現が、呼吸を楽にし、食欲を増進させ、自由を
増すように感じるならば、それは他者からのメッセージなのだと。

このような話で講演は終わったのだが、もっと聞きたい気分になったのだった。
つまり、まさに自由に一つ近づいた気がしたのである。



以下、私の個人的な見解を付け加えよう。

この時間理解によって、未来への不安をもってしまった人類は、どうしたのか。
未来にある不安を閉じ込める作戦に出たのだ。それが都市化であり、因果の世界の構築。
時間を中途半端に意識する人間は、因果の意図を辿ろうとする。因果とは、
時間であり、人の世界認識機能である。時間理解のうえに、備わる世界認知なのだ。
その時、人は都市を広げようとしたに違いない。それは未来を確保したいという気持ちの
表れといえるだろう。それは時間認識がある人にしか起こらないことなのだ。

その一方で、先の内田氏の指摘のように、時間認識が劣化してきてもいる。おそらく、
現代人は、時間認識における因果性に耐え切れなくなってきたのだろう。そして時間理解が
分からない人たちが増えてきたのだろう。まぎれもなく原始化が進んでいる。若者の世界
理解に時間が消えつつあるのだろう。それは自分とは異質の世界に触れることであり、
かつて自然と読んだ世界である。都市はそのような世界へのアクセスを遮断している。
そして、すべてが人の営為の結果として体現される世界が、真の世界であると勘違いを
しているわけだ。

世界は常に、自分の想定外のものを含んでいる。当たり前である。しかし、都市はそれを
覆い隠しているかのようだ。想定外であるのは当たり前だからこそ、想定外に対応する
能力を自由とよぶのである。自己の外側が当然あるという認識は、まさに時間認識の
他ならない。すべての可能性を同時的に眺めることは不可能であり、時間は流れゆく。
そのような世界認識に立って始めて、我々は神を感じることが出来る。

神の聞こえる声を、聴かんとする意思。それが一神教であろう。
内田氏はいう。真の信仰とは、神の不在に耐える心から生ずるのだと。

あらためて時間について考えてみよう。そのような講演であった。


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若者たちの抑圧ー過剰な同調 [思考・志向・試行]

ハロウィンの喧騒をみただろうか。
少なくとも、大抵の祭りより酷い状態である。
一般的な祭りでは、主催側がいて、管理を行うが、この渋谷のハロウィンではそういうものはない。
むしろ、そういう存在がいない事が、渋谷ハロウィンの重大なポイントといえる。

現代の若者たちは、子供の頃から過剰なまでに大人の目にさらされてきた。
それは大人たちの配慮である一方で、それは大人による精神的虐待でもある。

どこかで何か失敗をすると、その失敗により他者から排斥される。
なぜなら、そのように大人たちが仕向けてきたからだ。誰々は、何々をしたから
排除されて当然なのだと。その歪んだ精神は大人たちのコピーなのだ。

大人たちは戦後、都市型志向にどっぷりと浸かった。それは養老氏のいう
「ああすれば、こうなる」という論理である。物事には必ず原因があって、結果があるという
ロジックに生きるという意味だ。この論理を徹底すると、「自己責任」が浮上する。

物事に原因があるという考え自体は、ひとつの「思想」である。
重要なのでもう一度いいかえよう、因果律が必ず成り立つというのは単なる妄想である。

原因があっても、結果が出ない事もある。必ずしも、原因は一つともいえず、
どのように結果につながっているのかは大抵の場合不明である。このように世界は
つねに揺らいでいて、どんな原因も、予期された結果を生むとは言えない。
アインシュタインは神はさいころを振らないといったが、現実的な観測では、
つねに結果は原因により揺らいでいる。

もう少し突っ込んでみると、原因自体を我々は大抵うまく操作できない。
それは我々自身が、世界の一部であり、つねに我々の想定をはるかに超える情報や、
力学場の上に、なんとか線形世界を思い描いているのであって、実際に我々が生み出す
原因自体が、単一にはならない。

たとえば、ボタンを押すでもよい。どんなに慎重にボタンをおしても、その押し方が、
一定になる事は無い。どんなに練習したアスリートでも常に自己ベストがでるわけではない。
つまり、人が人である限り、原因をかなりの精度で作りだすのは難しいのである。

これは翻って、原因を人が必ずしも予期どおりに作れないとしたら、結果はさらに
揺らぐことがわかる。そもそも原因がふらつくのであれば、その結果はその原因の揺らぎに
応じて揺らぎ、さらに結果が出てくるプロセスの中で更に変わってゆくのだろう。

つまり、人が人である限り、自分の行動の結果が自分の意図を原因としているという解釈は
過剰に「思想的」であって、現実的ではないといえる。

だが、多くの都市型人間はちがう。都市は全てが人工的だ。特に東京やその近郊は、
人工物でしかない。街路樹にいたっても、誰かが植えたもので、自然と生えたわけではない。
一部の公園を除けば、東京は人工物の街である。その東京に暮らすという事は、原因と
結果の関係は一に結ばれていると錯覚する。つまり、誰かの行為があって、何かが起こると
思い込むという事だ。

だから、何かトラブルがあると、すぐに誰かのせいにする。誰かが悪いといいたくなるのだ。
これが高じるとあらゆる場面で、誰かの責任を問うことになる。原因は人が作っていると
思い込んでいるために、人を問い詰めようという思考になるのだ。たとえば、台風で飛行機が
飛ばない場合でも、なぜ飛ばないと乗務員につめよる輩はいる。同じく鉄道でも、運休になれば
それを責めようとする。あたかも、自分がそれによって被害をこうむったかのように。


さてここに、若者の心境を加えよう。都市の論理である因果性に、
和を乱すものはたとえ正当な理由があろうとも、許さないという考えを足そう。
そして、弱者である事はまた本人の能力不足や実力不足であるという考えを足そう。

そうすると、若者は、たとえ仕方がないと思われるような状況でも、弱者が権利を主張したり
実力が無いものが発言する事などに非常に厳しくなる。そして、それが理由で対象者を排斥
する。そういう圧力が出てくる事になる。

確固たる因果性があると勘違いしている都市部の若者は、弱者は本人に責任があると思っている。
そして、そういう立場の人間は、当たり前の主張をしてはいけないと思っている。なぜなら、
本人が努力しなかったせいであると思うからだ。因果性を強くもつ都市型人間は、弱者である
ことも因果の結果とみなすわけだ。

だが、事実は違う。さまざまな本人に関係のない要因で、弱者になったり、扶助を受ける立場に
なる人たちがいる。ましてや、政治の世界では、国が行う政策において、立場上、弱者になる
ものもいる。その時は、当然ながら反発するのが当たり前である。だが、若者の論理からいえば、
たとえ正当な理由があるにしろ、長いものの意見に異を唱えるような反発は許されず、そのような
発言をしたものは排除を受けて当然だと思うらしい。恐ろしいことだ。

クラスメートにおいても、人間関係の失敗は事実上の「死刑」宣告のようなものだ。
以後、その場においては常に排斥の対象となる。そうしてよいのだと思い違いをしている。
そして、誰もそれを正そうとしない。そんな人間関係は、人のすることではない。

人の非をあげつらうことを是とするとどうなるか。簡単である。そのルールによって
自らの行動も縛り上げることになる。自分もまたそのルールによって存在を脅かされるからだ。
それならば、ルールを変えればいいと思うのだが、どうやらそうは思わないらしいし、
そういう事が出来ない人間になっているらしい。

これもまた若者に限らない。大人にもいえる。大人の常識は単に状況に適応した結果であり、
大人も因果性の信念を強く持つ。それは一種の脅しであり、その脅しのロジックは、奴隷の
ロジックである。

評価がマイナスであるために、大人も若者も、いかに失敗しないかが問題になる。
失敗せずに成功することなどありえないのに。失敗が許されない仕組みなのは、因果性を
あまりにも信奉するせいだろう。失敗もまた本人の責任になるからだ。

失敗とは本来、脳が状態を変えてゆくために重要な要素となっている。
トライ&エラーこそが、人を成長させる。ところが、その失敗を責める仕組みであれば、
だれもトライせず、失敗はしないが、成功も絶対にしない行動ばかりになる。
これはまさに日本全体がそういう雰囲気になっているからだ。

そして、失敗したらどうなるか。そう、「ごまかせ」だ。
失敗が許されないなら、失敗をごまかすしかない。失敗してないかのように、もしくは、
失敗を隠蔽する。そうやって失敗をごまかすことが通用するようになると、今度は堂々と
ずるをし始めるようになる。それもまたごまかせると思うからだ。これがまさに企業や
国レベルで起こっている。ましてや学校の教室でも発生するだろう。

都合が悪いことはなかったことにするという行動である。そうして謝るという事を
拒否する。自分はつねに悪くないと主張する。なぜか。それは失敗を許さないからであり、
失敗を認める=排斥の対象となるという空気の中にいるからである。それは都市の論理
である。まさに現代の多くの問題は、この都市の論理によって引き起こされている。

人は失敗する。自分だって失敗して育ったのに、若者たちには失敗を許さない。
大人たちは失敗をかわいそうなものであると認識している。大きな間違えであり、大きな
お世話なのだ。子供は、転んで始めて運動機能を高める。子供が失敗して始めてしては
いけないことに気がつく。失敗がなければ、何も学べない。逆に言えば、失敗の無い学び
などないのである。

この都市の論理に過剰に適応する若者。それはつまり完璧な人間であろうとする事。
失敗を避けてこられた「優秀な若者」こそ、危ない心理状態にいる。自分が完璧である事を
見せ続けなければならないと思い込んでいる。なぜなら大きな失敗がなく、失敗を許容された
経験がないからである。最終的に失敗を避け続けることは不可能である事に気がつく。
そして、いざ失敗したときに、絶望してしまうのだ。

可哀想だが、若者たちは大人たちに洗脳されてしまった。その考えを改めるには、失敗を
するほか無い。失敗して始めて目覚めることが出来るのだ。むしろ、すべてをこなし続けて
しまった優秀な若者こそ、何も知らずに人生を生きてゆく。人生とは成功し続けるという
ゲームではない。生きて死ぬまに、いかに美しくあるかどうかだろう。そこには、成功も
失敗もある。努力もあれば怠けもある。ならば、すべての因果性の元に説明をする世界観
そのものがおかしいと気がつかねばならない。

どうだろう、そろそろ目覚めてはどうか。それは大人もしかりである。
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