不安感や脅威ー社会原動力 [思考・志向・試行]

あらゆる人達がいて、あらゆる行為を行う。
社会とはそういうものだとどこか思ってしまう。

実際には、そんなわけはない。あらゆる生物が行う事とヒトはさして違わない。
すごく矮小化すれば、「くう、ねる、あそぶ」である。三大欲求を十全に満たせば、
我々はだいたい満足する。

すると、経済活動は1人の行動からいえば、すぐに逓減する。一人が出来ることなんて
そんなに多大なコストじゃない。どんなごちそうだって毎日食べてはいられない。
どんなに時間があろうが、いつまでも寝ていられない。どんなにスケベでも、ずっと
たちっぱなしというわけにはいかない。つまり、限界性があるわけだ。

経済を回すという観点からいえば、人が活動を一定にしてしまうと困るのだ。
なぜか。それが資本主義の要諦である。利子の事だ。利子の存在肯定こそが
現代社会の本質である。これと人間の本来的経済が矛盾している事が諸処の問題である。

経済を大きくしないと、利子は支払えない。当たり前であろう。金を増やすには、
経済が回らないとダメであり、そのためには金が増えないとまずい。金を増やすには、
どうするか。一人あたりの経済活動がある一定範囲にあるならば、人を増やせばいい。
つまり、経済活動をする人間を増やせば、経済が大きくなる。馬鹿みたいだが、これが
高度成長期の話であった。

戦後にかなりの人間を失った。その穴埋め的に沢山の子供を生んだ。その結果として、
経済活動が大きくなったのである。これがほとんど「成長」の内訳である。
企業が努力して売上が増えている??馬鹿な。単にサービスを受けたいという人が増えた
のである。そこにある努力など、消費者が多いという事実からみれば、誤差のようなものだ。

高度成長期の経済を回すため、人々をメディアが煽る。家を買え、車を買え、テレビを買えと。
服を買え、保険を買え、レジャーに出かけろ、などなど。一見すると豊かにみえる。しかし、
多角的な視点から言えば、そんなもの豊かさとは無縁であろう。人は実際に体験する事だけが
幸福度と関係する。そして、その本質は三大欲求の充足である。これを超えて何かが起こる
わけではない。

人々が欲望を掻き立てられるのか。その理由の一つは、嫉妬である。三大欲求を離れた
過分な欲望は、他者を見た時に生じる。他者がいい思いをしていると感じると人は、その
行為を模倣したくなるのだ。これはヒトという社会的生物の特徴である。そして、一部で
発生したその「幻想」的欲望が、広まる事で社会のスタンダードとなる。その際に使われる
のが、脅しである。

不安や脅しの行為は、欲望とは違った形でヒトに影響を与える。脳メカニズムとして、
別のものが駆動するのだ。広告や宣伝などは、2つの方向に訴えかける。一つは、欲望を
掻き立てる装置として、もう一つは、不安をあおる装置として機能する。これは脳の別々の
場所に作用し、人々に行動を引き起こす。

良い生活をするには学歴が必要だというのは一つの脅しである。この漠然とした不安を
払いのけるために青年たちは勉学に励む事になる。同様にカネがないと生きていけない
という思想もまた脅しである。ここから逆算されて様々な脅しがきくようになる。カネは
仕事がないと始まらない。仕事は何でも良いのだが、「まともな」仕事につくには、学歴が
必要だ。学歴をもつには、教育が肝心で、教育にはカネがかかる。カネがなければ仕事を
得るのも大変だ。ということで、貧乏の再生産が引き起こされている。そして、カネという
脅しによって、人々が動き、その動きの中でカネが生じているのが分かる。

労働が価値になるとマルクスは言った。労働時間が価値なのだと。もちろんここには無理がある。
同じ時間の労働でも、生産されるものはまるで違うだろうし、製品の価値は使用価値で決まるの
であって、交換価値で決まるわけではない。だから、交換価値という尺度つまりカネというもの
では、本来、ヒトの経済活動は決まらないのである。

しかし資本主義はカネが増えないと困る。なぜなら、投資したらそれを上回る利益が常にないと
会社が潰れるからだ。利子を払ってもそれでもなお、ペイするからこそ、事業を起す人がいる。
そして、事業を起すから借金が生まれる。借金が生まれるということはカネが増えるということだ。
カネが増えれば、利子は支払える。それをまた別の事業を起す事に使う。こうやって資本主義経済
は回る。煎じ詰めれば、資本主義社会は、カネを増やすためにある。そしてカネが増える事を
やめるわけにはいかないのである。

カネが増えたら、消費活動が増えてみんなの幸福度が増す。これが社会的コンセンサスであった。
しかし実際には、カネが増える要因は人口の増加であった。都市部がとりわけ経済発展したのは
人口の増加による経済活動の活発化である。高度成長期に人々はメディアに煽られて、都市へ移住
した。都市部に人が集まるほど経済が回り、結果として経済大国になった。だが、カネは人を
幸福にするのだろうか?

カネを増やすために、人々は不安や脅しにあう。資本主義はまるでひとつの生物体のように、
人々から労働を巻き上げる。そうしてカネを絞り出しては、いささかのカネを人々に戻す。
この仕組を国と資本家つまり大企業連合は維持するために活動する。

カネを得るために行動するという事がすでに不安の渦中にいる。仕事をするのもその不安を
解消するためである。カネが得られないという事が死を予期させるからなのだが、本当は違う。
それもまたプロパガンダの結果による不安煽りが功を奏しているわけだ。ヒトはカネがなくても
死なない。ヒトは食い物がなくなると死ぬのである。

仕事をする事=カネを得るという事は本来つながっていない。カネを得る=生きる事が
つながっていないように。これが恰もつながっているかのように全員が思い込んでいるのが
現代社会である。そして、カネがなければ「まともな」人生でないと不安にかられているのが
現代日本である。もちろん、実際上、カネがなければまともな人生にならないのはそのとおり
なのだが。

分かったことは、カネがあっても幸福とは言えない。しかしカネがなければまともな人生は
難しい。そのまともな人生とは何か。それは人々が手に届かない生活スタイルの事である。
肝心なことは、手がとどかないことだ。そう社会は喧伝する。つまりあなたにはあれが足りない
これが足りないと迫ってくる。その動機は煎じ詰めれば、借金であり利子であった。

だからこそ、カウンターパートを考える人にとっては、カネの問題や「まともな」人生が問題
となり、労働とは何かという事が大いに問題になるわけだ。断捨離というのは、社会が要求
する「あなたに足りないものリスト」を減らす事に相当する。ちょっとは自分でモノを考える
ということである。

とにかく普通にしていると社会から、「あなたに足りないものリスト」が押し付けられて、
それを満たそうとしないと社会から総スカンをくうというのが現代である。それは結局人々を
不安にさせ続けている。

この不安に鋭敏に反応すると、自分を卑下し無能だと思い込み、社会的行動を減らしてしまう。
それは精神的な苦痛であり、時にうつ病など本格的な病になる。元来的にこうなる方がまとも
だと私は思うのだが、現実は不可思議にも、異常な人の方が多い。異常な人たちは、不安など
ないかのように振る舞う癖を身に着けている。肝心なのは、フリであって、不安がないわけじゃ
無いということだ。

不安を抱えているとどうなるか。身体は正直である。ストレスを感じるとそのはけ口を求める。
それが嗜好品であり、レジャーであり、旅行である。不安を一時だけ忘れる事が出来るからだ。
貧乏人が太っている事が多いのは、不安感に依る食欲亢進がある事と、高カロリー食を選ぶ
からだろう。ストレス解消の結果なのだ。経営者たちなど忙しい人々にも何か依存しているもの
があるのだろう。一番の依存は、おそらくカネである。内在する不安に抵抗するには、カネを
得ることだ。だから、仕事をますます増やす。仕事が増えると、不安であるという事実から
目をそらすことができる。これがたまたまうまくいくと、実業家とか資本家と呼ばれる存在に
なる。社会的成功というわけだ。だが、そんなにワーカホリックになれるという事は、その実、
依存症である。金儲け依存症といえるだろう。

不安を解消する行為自体が、結局、カネを動かすことにつながる。これは資本主義経済にとって
とても有効である。するとますます社会は、不安を煽り、その不安の解消のため消費や経済活動
をふくらませる。そうして、ますます不安を煽り、その不安解消のため、消費や経済活動を拡大
させる。

もちろん、こんなループが永遠に続くことはない。近年の歴史では、カネの問題は、結局
借金が返せなくなるところから綻ぶ。できもしない借金を無理やりやる事がカネの問題を大きく
して、最終的に経済崩壊を招く。様々な要因があるといえるが、本質的には資本主義のこの
やり方が経済崩壊を招くようにデザインされている。そして、この仕組は人々を不安に陥れる。

おそらく不健康だろう。わざわざ自分を不安状態に常に置き続け、その不安を解消したければ、
経済活動をしろと脅迫される。これに打ち勝つのが現代の成功哲学となる。社会的成功者が
羨ましいのは、この脅迫に一見すると打ち勝ったかのように見えるからだ。しかしそのための
対価は大きい。そして、その対価のために支払ったコストー自分の人生ーは、果たして見合う
ものなのか。

不安解消のために、仕事をクビにならないようにと、へこへこし、大事を避けて、
感情を抑圧する。その感情の抑圧は、部下や同僚、家族に当たり散らす事で解消する。
もしくは昨今ならばネトウヨのようにヘイトする対象を見つけることで解消を考える。
本当は、自分の感情から目を背けているだけではないのか。その感情を直視する勇気が
ないだけでは。企業不正が後をたたないのは、こういう事大主義の蔓延であろう。
そして、虐待やハラスメントが減らないのは、感情のはけ口が弱い者へと向かうからだろう。

昨今における社会のルール構築の氾濫は、不安を減少させる手段である。
管理職は、問題行動を起こす奴を減らしたい。コントロールしたいというのは自分の身に
かかる責任を減らしたいということだ。責任を前もって逃れるには、ルールを作ればいい。
ルール内で行動させておけば、危ないことはないと組織の長たちは考えるわけだ。
不確定要素を減らす事=不安を減らすこと。その不安とはものすごく個人的な事である。
けっして、組織のためや社会のためではない。

上がこんななら、下もそんなである。ルールさえ守っていれば、クビにならんだろうと、
組織の論理に従う。時に、目に見えないルールにも、波風をたてぬよう行動する。だから、
サービス残業は減らないし、文句もでない。春闘で戦うなど、命がけのように見える。
今の立場なら、そこまでして戦う動機がない。そうやって自ら自己の権利や有り様を否定して
生きる。それを平気でやぶっている人をみると激怒したりして。それは結局「嫉妬」である。
このような感情的鬱屈を胸にみんなが生きているならば、そりゃ人生は苦しいだろう。

不満を抱えている人が幸せだとは到底思えない。それがどんなに豪奢な生活であろうとも。
その不満解消を成長とか進歩という呼び名で称賛するのはいかがなものか。

とある島に村があり漁師がいて、幸せに暮らしていた。そこに銀行マンが来て、融資をしようと
いう。船を買えば、今よりも沢山の魚が取れる。そしたらその魚を市場売って、カネを得ること
で船代を支払えるし、今までよりも贅沢が出来るじゃないか。

漁師はいう。「その贅沢って何だい?」
銀行マンが答える。「昼間からゴロゴロして、なんなら酒でものんで、のんびりとソファーで
くつろぎ、ごちそうを食べられますよ。」

漁師はいう、「そんなことなら、もうやってるよ。」


銀行マンつまり資本主義は、人々にカネという生産物を作らせる装置である。
その最終生成物は、果たして人を幸福にしているのか。むしろ不安を常にもたらし、
その不安が人々を経済活動にますますアディクションするように仕向けているのではないか。
そして常に「おまえにはこれが足りない」という足りない教の信者にしているのではないか。

銀行マンの甘言を真に受けるかどうかは、あなた次第なのだ。


世界は広い。すでに漁師のように生きている人はいる。むしろ、世界をみれば、農村や漁村など
で、豊かに暮らしている人の方が多いのかもしれない。現代日本でさえも、地方にいけば、
心平安に暮らす人々がいる。むしろ、都市の住人こそ上記のような不安を生きているように見える。
不安を解消するために、日々仕事に励んでいるのは、実は経済的に豊かだと言われている都市の
人々なのかもしれない。
nice!(0)  コメント(0) 

養老訓を読む [雑学]

養老猛著「養老訓」を読んだので、感想を。

だいぶ前に一度読んだことがあったみたいで、話しの半分くらいは覚えていた。
もしくは、どこかで養老さんが同じ事を書いているのを読んだのかもしれない。

それにしても、含蓄に富んでいる。とても平易な表現なのに、
十分に伝わってくるメッセージはさすがである。

バカの壁の内容と同じといえば、同じなのだが、一番気になったのは、
幸福とは事後的であるという事。こうなったら幸せという定義など無意味だという
主張である。

確かに、幸福というのは事後的にしか認識できないのかもしれない。
ああ、あれは幸福なときだったのだなと。きっと、何がない事や、予期せぬことが
幸福の体験として認知されるのだろう。

それから、仕事に対する姿勢。
誰かが他者にやって欲しいと願う何か、それが仕事だと養老さんはいう。
確かにそういう面は間違えなくある。そして、仕事とはそんなもんだともいう。

昨今では、自分の成果としての仕事とか、自己承認欲求を満たすために金を稼ごうとする。
しかし、本来は仕事は他者のために行われる。だからこそ、金が手に入るわけだ。
そうでないとしたら、それは本当にただの作業となる。

金が大量にあっても、人は幸福にはなれない。金がないという事が即、不幸なわけではない。
おそらく、今日の貧乏の不幸は、金が多少しか稼げないのに、自己尊厳を得られない仕事で
しか働くことが出来ない状況のことを指すのだろう。つまり金が少ない事そのものが問題
ではなく、その仕事が、他者のためになっていると実感できないような色褪せた仕事だから
問題なのだ。

もし仕事自体が、社会的に価値をもち、他者の顔が見えるものであれば、金銭は大量に必要とは
ならないだろう。それはブラックとかそういう事ではなく、仕事本来の喜びを見出せるからだ。
そのためには、自分で仕事を工夫できる立場にある必要がある。少なくとも、能動的にその
仕事を行っている必要がある。でなければ、それは単なる労働であり、喜びは存在しない。
それは仕事ではない。

現代の社会の問題点の一つは、システム上、金が儲かる仕組みだが、その仕事で
人々の喜びが増やせるわけではないというものにのっかって生きている人々こそが、
より多くの金をせしめていることだろう。

国の仕組み、法の仕組みなどで、既得権益を利用した商売がある。税金で作った道路を
貸すことで儲ける高速道路。同じく税金で張り巡らした電線で儲ける電話会社。税金で
作った原発で儲ける建設会社、電力会社。そういう本来ならば仕事とは呼べないような
仕事で、儲けている人々がいる。

こういう仕事は、仕事と呼ぶべきではない。寄生事とでも呼ぶべきだ。
同じく大手メディアや、電通なども、国からの金が流れている。こいつらも寄生事をしている。
大手のメディアの論調は信用すべきではない。また、広告宣伝も信用すべきではない。
国のニュースはすべからく、何らかの意図が働いていると考えておかねばならない。

彼らが煽る、不安や恐怖、孤独などは、話半分に聞くべきなのだ。それは、ニュースでも
そうだ。凶悪ニュースがあれば、いかにもそれが世界の代表的出来事に思うだろう。
だが実際には、そんなものはごくまれにしか発生しないような、些細な事柄なのだ。
凶悪な事件は年々どんどん減っている。交通事故もずいぶんと減った。社会はその意味で
安定化している一方、それはどんどん手懐けられた命令に従順な国民の証でもある。

さて、養老さんの話に戻ろう。
他にも主張はある。たとえば、健康。体力が大事であると。歳をとるほどに金よりも、
健康が大事になる。何をするにも健康でなければならない。病気や怪我は金と引き換えには
ならないのだ。そのためには、へんなストレスや身体の酷使は避けるべきなのだ。
きちんとある事は、老人にとって資産である。これはミドル世代の私のような人間に
必要な知恵であろう。

それから決まりごとについて。昨今は、浅ましい人が増えた。それは都市の論理である。
都市には人が作ったものしかない。すると、何かあれば誰かのせいになる。だが、世界は
そういうものではない。「仕方がない」という状況はしばしば発生する。それは運や
偶然である。そういうものを都市の論理は受け付けない。そしてそれは自然に反している。

そういう自然に反したものを主体として生きる人々は、どこか息苦しい。
想定内の出来事だけを想定し、それ以外を受け付けない世界では、「仕方がない」を
許容しない。すると、想定をはじめから用意するほか無い。だから前もっての言明が
長くなるのだ。同意を取るというようなとき、本来は暗黙の了解があった。それに
ついては、ケースバイケースで対応するなどだ。だが、想定内をくまなく探索しなければ
気がすまなくなった現代人は、全て書き下そうとする。それが本来、計画的に進むもので
なかったとしてもだ。

それは昨今の経済的問題でもある。経済は本来、右肩上がりでもないんでもない。
多くの人の「カネ」による取引の現象の記述である。そもそもの語源は社会活動であって
カネですらないのだが。そのカネという一側面のみで社会は語れない。当たり前である。
数字が問題なのではない。みんながどれくらい喜びに溢れているかであろう。

ブータンの国王が提唱したGNHの発想。少なくとも理念として目指すべきはそちらであろう。
カネは幸福の唯一の条件ではない。カネがなければ何も出来ないような仕組みを社会が
作り出し、その仕組みがあるからこそ、カネがなければ不幸であるという思想が蔓延した
のである。

常識はずれに見える養老さんの主張。しかしそこには確かに真実がある。少なくとも
私にはそう見える。なぜなら、それは私よりも長生きした人間の、そして尊敬する知性の
言葉だからだ。そこには、余計なものをそぎ落とした理念があると信じている。

本音と建前をそろえる必要は無い。ルールを遵守する必要は無い。大事なのは結果である。
ルールを守ることに四苦八苦している昨今において、これほど救われる言明も無いだろう。

多くの人々は、想定内の出来事が起こるように四苦八苦している。そして時折、
起こる想定外は、無かったことにしようとする。そんなわけあるか!
原発事故は現にあったし、さまざまな災害も現にあったのだ。そして、バブルはとっくに
はじけたし、それがために消費が冷え込んだのは事実である。それを無かったことにして
調子良い事だけをみせようという安倍政権が現代日本を慌しく改悪しようとしている。
それにのっかって、とにかく銭をためるのだと、経団連は結託した。実に浅ましい。
そこに理念などない。守銭奴しかいない。

そろそろ目を覚ましたらどうか。私はもうこの手の事に飽きてきた。
どうもみんなは変わらないのだ。変われないのだ。そして不幸になりたいのだ。
どうも、私にはそう思えて仕方がないのである。


nice!(0)  コメント(0) 

なぜ寄り集まると悪が出てくるのかー仮説ー [思考・志向・試行]

ラテン語の格言に「元老院議員は良い人々だ、だが元老院は人でなしだ」というのがあるらしい。

個人をみれば日本人も良い人達なのかもしれない。
だが、集まれば人でなしになる。震災や洪水、様々な天災が日本を襲った。
しかし、そのサポートは相変わらず、雀の涙である。その一方では、兵器に1兆円などという
大金をつぎ込むらしい。甚だバカげた話ではあるが、何が大事であるかという優先順位を
間違えるような人物が政治をやっている。その意味では個人で見ても馬鹿なのかもしれない。

さて、その愚かな日本の政治を支えるのもまた愚かな日本人達である。
罵倒ばかりで申し訳ないが、そのように形容する以外に妥当な言葉が見つからない。
日本人という総称において、社会全体が良き方向へ向かっているとは到底思われないのだ。

我々日本人の暗黙の了解は、ルールさえ守っていれば、自己利益のために何をしても良い。
というような事だ。そして、そのようにうまくルールの間をすり抜けて多くを稼ぐ存在を
仰ぎ見るという馬鹿げた風習がある。その根底にあるのは、結局エゴイズムである。

アダム・スミスの原理を信奉するのであれば、各人がエゴイズムにそって行動すれば
社会が良くなる。そう思ってもおかしくはない。だが、アダム・スミスもエゴイズムのみで
あれば、社会が良くなるはずはないと百も承知であった。だからこそ彼は「道徳論」という
前提となる人間性について記述したのである。個が良心を持ち、社会に貢献するという予測に
おいてのみ市場原理は社会を豊かにする。だが、そんなものは幻想に過ぎなかった。
スミスがいうような道徳は普及しなかったのである。むしろ、そのような道徳は資本主義に
おいては負け組の論理であって、勝ち組ではなかったのだ。

とはいえ、個人で見ればそこまでひどくエゴイズムではないじゃないか。そう思うことだろう。
私もそうだと思う。個人の大半は、自分の生活を支えるため、地道に仕事を担っている。
決して裕福とはいえない状態でも、酒をあおり、タバコを吹かして、健康を害しながら仕事に
勤しんでいる。それをもって、エゴであるというのはひどくおかしな論理であると御思いだろう。
だが、それこそがエゴであるとここでは指摘する。

その生活を支えるというのは、誰のためか。大抵は自分や家族の生活を成り立たせるためではないか。
では、その生活以上の金銭はどうするのか。それは自分の銀行口座においておくか、投資でもする
事だろう。それもまた将来への備えであるという。だがそれもまたエゴイズムではないか。

自分の仕事の意義が、金をもらうためという事であれば、どんな事でも是認する事になる。
あなたが万が一、詐欺に会い被害を被ったとしても、詐欺師は悪くない。ただ法律に抵触する
だけだ。ルールを逸脱するから社会的バツを食らうが、その行為自体はあなたは否定できない。
あなたが詐欺を法律ではなく、単純に酷いことであると罵倒したいのであれば、それはそのまま
あなたへの罵倒となる。あなたも詐欺師と同じ動機で仕事をしているからだ。自分は良いことを
している?果たしてそんな理屈が通るだろうか。

あなたが売りつけた商品は、本当に必要であったのか?あなたが製造しているものは、本当に
他者のためになるのだろうか? そういった事を一度でも検証したことはあるのか? 
あなたの仕事で誰か傷ついていないのか? それを考えたことはあるだろうか。

また、あなたが首尾よく金を手に入れたとして、その金を行使する際に、はたして正義はあるのか。
その消費活動は、誰かを搾取した結果なのではないのか? 第三国の人々の涙によって作られた
製品だからこそ、チープなものを手に入れられているのではないか? そしてすぐに壊れ、やぶれ、
使い捨てられる時、その商品を売った人々の行為は、本当に他者のためだったのか?

否。これらはすべからく自己のためであり、エゴであろう。自分の行為にどんな名前をつけても
金を得るためにする仕事というのはエゴである。いやでも、みんながそれをしている。社会が
それを望んでいるから、その商売が存在できるのであって、もし不要だとか思われるなら、その
仕事は世の中から消えるだろうと思うかもしれない。もちろん、そのロジックは正しくない。

みんなが望めばというならば、みんながあなたの死を望めば、あなたは殺される事だろう。
それを是認する事になる。それを酷いと思うだろうか。いや、現代日本人はこれを既に肯定
しているのである。ここが最大の問題点なのだ。

自己の生活のためならば、他者は犠牲になってもいいか?と直接問えば誰もがそんな事は
許されないと建前であっても述べるだろう。だが、他者が誰かを犠牲にして得たものを
自分が得る事は問題がないのか?といえば、どうなるか。もっといえば、実際にどうやって
生産されているのか不明なものでも、望めば金と交換してもいいと思うのかどうか。

自分が欲しいというものにこだわる限り、つまりエゴをむき出しにする限りにおいて、
誰かが、そのサービスの生産時に、誰かを犠牲にしている可能性は否定できない。
どうやって作っているのかは知らんが、誰かが用意してくれて、それを自分が妥当と思う
価格で買って何が悪い?というのはおそらく日本人なら誰でも肯定する事がらだろう。

だが、ここまでの流れを読んできた人にとってそれはまた、結局、自己の生活のために
他者を犠牲にしてもいいというロジックを肯定する事である。ここでまた、話は自己に
立ち返る。つまり、自分のエゴを肯定するならば、それはまた他者からのエゴに絡め取られる
事を意味する。自分もまた、誰かから搾取され犠牲になってもいいという事である。

結局、資本主義のロジックでは、同等のものであれば、安いものを選ぶだろうという
アダム・スミスのいった見えざる手を肯定している。これは結局言い換えれば、自分が
誰かの犠牲になっても構わないというのと同等である。

自己が犠牲になるのが嫌ならば、他者の犠牲も減らさねばなるまい。だが、そこが隠されて
いれば、誰も知らないままにサービスは提供され、消費者としての自分は、その犠牲を
消費する事になる。無知である事は、罪なのだ。

資本主義に絡め取られて生きるものにとっては、生活のためという理屈によって、大抵の
事は肯定されてしまう。その裏側には、自己のためというエゴイズムがある。実際には、
資本主義では、エゴを明にも暗にも了承しなければ、生きていけない。そしてそれを肯定
するということは、自己はいついかなるとき、自分もまた犠牲になるかもしれないという
可能性に生きることになる。

みんなが望めば、あなたは殺される。そういう世界に我々は生きている。そんな馬鹿げた事が
あるだろうか? いや、現にあなたはそれを肯定して生きている。もちろん否認するだろう。
肯定してはやってられないではないか。だから、資本主義に生きる人間はすべからく自己欺瞞を
抱えることになる。自分が常に危うい立場に追いやられる可能性に目をつぶり、他者を崖から
突き落とすことによって、自分の命をつないでいる。この連鎖は誰にも止められず、世界中に
蔓延した。この資本主義病の本体は、結局、個人である。

個人が自己のエゴを肯定し、それを良きものとみなす限りにおいて、止むことはない。
自分が欲しいものを主張して何が悪いという事だろう。別に悪くない。大丈夫だ。
だが、それはまた他者から犠牲を求められることそのものである。それにあなたは文句を
いえる立場ではないのだ。

この資本主義システムは欺瞞を抱えている。誰か知らぬ人の犠牲は見ぬふりで、自分は
なるべくリソースを得ようという行為である。そんなものが蔓延って果たして社会が良くなる
はずはないのだ。だが、日本人はそれを肯定して今日を生きてゆく。

資本主義がもたらした繁栄を否定する気はない。だが、どこかからはその繁栄はただの
幻となる。そして、その活動自体は幸福とは何も関係がなくなるのである。わかってる
のかもしれない。だが、わかった所で、行動を変えるわけでもない。

日本人の主体性のなさは、骨の髄まで染み込んだ事大主義のせいなのだ。

じゃあ、どうすればいいのか? そんなこと私に聞くなと言いたい。
その考え自体が、主体性のなさである。自分で考えるほか無いのだ。

少なくとも、現状をただ肯定して生きる人にとっては、他者が犠牲になろうが関係なかろう。
自分が犠牲になるまでは。だが、現実問題として、すべからく金のしもべとして生きる。
それを私は犠牲と呼ぶ。大抵の日本人はそれを成長と呼ぶ。日本人が気持ち悪い理由の
一つだ。

多くの人が共有している当たり前のエゴ。各人は小さく持ち合わせているに過ぎない。
こっちのサンマより、あっちのサンマのほうが安い。ただそれだけの事。その安さが
果たしてどこから来ているのか思考停止に陥っている。そして、安いサンマだけが売れれば、
さらに安いサンマが出てくる。これを何度か繰り返すうちに、どこかに限界がくる。だが、
競争に勝たねば生き残れない。そう生活のためだ。その伝家の宝刀を繰り出し、誰かを限りなく
ただ働きさせるのである。そうして自分はそれを見ぬふりをする。そうして、安いサンマを得る。

結局、原理的な問題である。資本主義をそのまま信奉すれば、その刃がいずれ自分に向かってくる。
それが現実的には、デフレであり、不景気である。これは当然の帰結だろう。そして、同じ額だけ
稼ごうとするならば、多く働く必要が出てくる。多く働くということは、犠牲を被っている事だ。

つまり仕事が大変であるというのは、自分のエゴの帰結である。残念だが世の中、魔法はない。
だから私はいいたい。あなたが仕事が大変だとのたまうなら、それはあなたのせいであると。
だから私はあなた方に同情しない。愚痴など聞きたくもない。それはあなたのせいなのだから。

それが嫌なら、考えを変える他ない。それには自分が考えるしか無い。そういう事だ。
別に自分がシステムの犠牲になりたいなら、なればいいんじゃないか。好きでやってるんだろう。
反発は当然だろう。だが、好きでやってるんだから、付ける薬がないのだ。

自分の意志でやってるわけじゃないというなら、まずは自分で考えてみることだ。
自分の考えの帰結であると分かるはずだ。

悪人は自分そのものであると気が付かない限りは、状態を脱することはあるまい。
だが、みんなそれを否認する。そうして自己欺瞞の人生を歩むのである。それは誰かが
仕組んだ構造の上で、ロボットのように過ごすという事である。望むと望むまいと。
知らぬのなら、知らぬ方がマシかも知れない。そういうたぐいの事なのだ。
nice!(0)  コメント(0) 

イギリスの知恵ー井形慶子 [思考・志向・試行]

2001年の本である。
「お金とモノから開放されるイギリスの知恵」井形慶子著を読んだので、感想を。

出羽守になりたいわけではないが、日本が異常さを持つ事を述べるには
外国の事例を持ち出すのが手っ取り早い。

井形氏の話がすべからく肯定できるわけではないが、日本に足りないものがきちんと
述べられている。それが2001年の本。しかしながら、この本の主張は今の日本にも
しっかりと当てはまる。ということは、18年も日本は何も変わっておらず、停滞もしくは
衰退を余儀なくされている。

内容の主張は、端的に言えば、
「日本人には人生に対する主体性が欠如し、自分の価値観を持たない。」という事だ。

それは戦後に、アメリカの庇護のもと、経済成長を成し遂げたことで、金さえあれば、
なんでもまかり通り、幸福になれると勘違いした成金の志向である。金を得るための
仕組みが整備されれば、その金を得るためのルールに依拠して生きるほか無い。
ルールに依拠するとは、自分の意見が不要であるという事になる。

金を得るために、自己の価値観をないがしろに出来る。それが日本人の浅ましさであろう。
本に出てくるイギリス人の当たり前の価値観はとても自然で、自分とほとんど同じである。
だからこそ、日本人の異常さに驚く。誰もが、どこかで金を得る事に主眼をおいて生きる。
そのためのルールに縛られて生きる。そしてどこか「仕方がない」と言い訳する。

このような志向にうんざりした子供たちは別の道を探そうとする。そして現に別の道を
見出す子供たちが増えてきた。それは何か好きな事に没頭するという事であり、そのための
情報を以前よりも楽に手に入れられるようになったという事だ。

その一方で、そういう若者が増えれば、今までのやり方は通じなくなる。つまり商売が
傾く。当たり前なのだが、時代は移り変わる。成金の発想ではなくなった現代において、
経済発展が続くほうがおかしいのだ。

産業界は、その社会変化についていけず、ついていけないがために、ルールによって
既存のやり方をゴリ押しし始めた。頭の固いオヤジたちが求める行動を他者、主に若者に
やらせようとする仕組みづくりだ。それは彼ら自身の保身であり、他者のためではない。

イギリス人のもつ素朴な感情に他者のために何が出来るのかがある。それは文化である。
日本にもそのような発想はあったはずだが、明治を堺に消えてしまった。その後にあるのは
ひたすらに「他者に迷惑にならない」という事だけである。ルールによって行動が規定され、
そのルールをはみ出ることは、他者の迷惑であるという主張なのだ。

よって日本という国では、ルールこそが守るべきものとして君臨する。それは一般に、
世間と呼ばれたり、空気と呼ばれる。そう、恐ろしいのはルールが見えない形で存在する
事だ。書かれているものはまだマシかも知れない。いや、そもそもルールによって行動が
律されるという発想が異常なのだ。それはまるでロボットである。そのくせ、ルールを
守ってさえいれば、自分は何をしても自由だと考えている。実に浅ましい。

先にも述べたが日本人に主体性がないという事がもっとも問題である。それは生活の基礎中
の基礎となる自治に関して、まるで無関心に生きるという愚昧さがその現れである。つまり
政治だ。政治に興味がないという事は、自分の生活に興味がないという事と同義である。

生活自体に関心が無いわけではない。日々のやり繰りに追われている人は沢山いる。
だが、なぜそのやり繰りが必要になっているのかを考える人は皆無である。前提がおかしい
という事に気が付かない人間がほとんどなのだ。なぜそのルールが存在するのか、そんな
事をしなければならないのかという理由を問うことをしない。社会とはそういうものだと
考えて行動する。それが恰も利口だというかのように。ルールを逸脱せずに、ずるい事を
するのが賢いという発想、それがまさに浅ましい。いや、逸脱してもバレなければいい、
そういう輩が跋扈するのが現代日本なのだ。そして、それを誰も指ささない。その異常さ。

団塊世代にもっぱら責任があると私は思う。彼らは社会変革のブームにのり、闘争を行った。
その若さによる革命はただの運動で終わった。そして、彼らは社会に取り込まれていった
のである。そして数が多いことによる過大な消費活動が開始され、経済が発展を始めた。
そこには、何も哲学がない。ただ周りが儲けているなら、自分も儲けさせろという発想である。
儲けたら、何が出来るのかなんて考えもしないのだ。そうして、無意味な消費財だけが売れて
ゆく社会になった。

日本はかつての日本ではない。客観的にみるならば、明治期より精神病に陥っていると
言わざるを得ないのだ。とりわけ自分でものを考えるという行為が愚かしいほど低い。
誰かが何かいっている、誰かが何かしている、それを真似ばかりしているのが日本である。

主体性が圧倒的に欠如しているために、ルールがないと何も出来ない。よって、ルールが
形成されることを実は暗に願っている。そして、ルールを強要する事をまともだと思って
生きている。そういう下らない大人だらけなのが日本なのだ。

本には、まともな人間としてのイギリス人が沢山出てくる。それを読むたびに私はがっかりする。
日本にはなぜまともな人間がこれほど少ないのかと。まるでロボットなのだ。そうロボット。
生けるロボットだらけと言って良い。消費を目的とし、労働を格安で売り飛ばす存在。
時代は社会全体を底上げした。それがために、社会が発展したと勘違いした日本人達。
発展したのは、材料を環境から、海外から輸入し、加工して外国に輸出するという一連の
ながれだけだ。その中で金が生み出される仕組み。これが発展したのであって、けっして
豊かさが増したわけではない。むしろ、人間的な営みを次々と放棄し、金になる行動しか
しなくなった。それは実に貧相な文化を形成する。

昨今、中国人たちをみてその成金的行動を揶揄する人々がいるが、日本人も対して変わりない。
相も変わらず、ブランドを消費し、それを目指し、そこに価値があるかのように生きる。
そんなもの人間にとってなんの価値もないのに。名誉や地位に価値を見出すのもまたロボット
の為せる技である。それは軍人の階級となんら変わらない。

自分には自分の幸福がある。それを探して、そのために生きる。これが本来的な生き方だ。
そしてイギリス人は日本人に比べてこれに近いのだ。日本人はうっかり金を稼げてしまった
ために、金がありさえすれば何とかなると思っている。金がある事は人間的な素晴らしさ
ではない。

本より引用
「裕福に慣れていない国民がいきなり大金をつかんだら二度と手放せなくなる。金がなくて
 貧しくみじめだった体験が根本にある日本人は金さえあれば何でも手に入り、何でもまかり
 通る社会を作ってしまったんだ。他人を蹴落としても自分がのし上がろうとする社会。弱い
 者はいつも切り捨てられ、誰も他人をかえりみない。だからこそ日本人はいつも空しく人生に
 深い満足感を得られないのではないか」
(『お金とモノから開放されるイギリスの知恵』井形慶子著、p244より)

2001年時にイギリス人から指摘された上記の事は、変化するどころか、ますます先鋭化した。
日本では、今まさに金が正義となった。それは結局、不安や孤独を招いたのだった。

人は緊張下において攻撃性を増す。その背後にあるのは不安である。攻撃的な人間は、
総じて不幸である。その心理は怖さで溢れているのだ。また、金を得て消費活動する事が
喜びだと思っている人は多い。だが、多くの場合、その活動は単なる苦の解消である事が
多い。日常に満足が薄いからこそ、その日常から目を背け、消費に走るのである。

欲求が喚起されると、脳は同時に不安を生じさせる。欲求の実現に対する不安喚起によって、
欲求の充足が加速するからである。逆に言えば、欲求をもっている状態とは決して幸福では
ない。その充足も必ずしも幸福ではない。欲求の強さにより、その解消が快楽なってしまった
現代人にとって、その事実は受け入れられないのだ。だからこそ毎日何かを消費しようと
躍起になる。消費させようとする。

必要なものを必要なだけ手にいれるのであれば、経済発展は必ずしも必要ではない。
むしろ、無駄なものをいかに、必需品にするかが資本主義社会のスキームである。
携帯電話しかり、テレビしかり、車しかりである。不要であるからこそ、宣伝を多くうつ。

個人的な消費が低迷するのは単純に人の数が減ったからだ。一方で、日本の会社のほとんどが
経済発展を前提にシステム化されている。この構造的な齟齬を受け入れられないオヤジたちが、
その維持のため、税金にたかっている。まるでハエのようだが、大企業から中小企業まで、
かつての産業たちは寄りかかって生きている。だから、その産業に金を配ろうという安倍政権
にしっぽをふり、なりふり構わず金を得ようとする。もちろん、その金は、借金だ。つまり
未来のものである。未来を現在の維持に使っている。当然の帰結ながら、未来は暗い。

石井紘基氏はいう。もはや「計画経済」である日本社会は崩壊すると。それは、国が金を
配って経済を回すというモデルの崩壊である。未来を先に食っているという自覚抜きの
愚昧な経団連の経営者達。いや、自分たちだけが良ければそれで良いと思っているのだろう。
一度作ってしまったシステムを変えることはおろか、壊すなど誰も望まない。日本全体が
共犯的なのだ。

さて、この崩壊がどう起こるのか。本質的な崩壊が起こった時、社会はどれほど荒廃するか。
そんな日本はみたくない。だからこそ、海外に学べ。井形氏が述べるイギリス人たちは
まさに明治期のようにお手本とすべき社会である。いまこそ、再度イギリスに学ぶべきだ。
そして、なんとか社会をソフトランディングさせる手段を構築すべきなのだ。

崩壊の時は近い。その責任は、自民党政権にある。そしてそれは国民の総意である。
日本はまたもやカタストロフィ前夜にいる。ほとんどのロボットは気が付かないのだが。
nice!(0)  コメント(0)