養老訓を読む [雑学]

養老猛著「養老訓」を読んだので、感想を。

だいぶ前に一度読んだことがあったみたいで、話しの半分くらいは覚えていた。
もしくは、どこかで養老さんが同じ事を書いているのを読んだのかもしれない。

それにしても、含蓄に富んでいる。とても平易な表現なのに、
十分に伝わってくるメッセージはさすがである。

バカの壁の内容と同じといえば、同じなのだが、一番気になったのは、
幸福とは事後的であるという事。こうなったら幸せという定義など無意味だという
主張である。

確かに、幸福というのは事後的にしか認識できないのかもしれない。
ああ、あれは幸福なときだったのだなと。きっと、何がない事や、予期せぬことが
幸福の体験として認知されるのだろう。

それから、仕事に対する姿勢。
誰かが他者にやって欲しいと願う何か、それが仕事だと養老さんはいう。
確かにそういう面は間違えなくある。そして、仕事とはそんなもんだともいう。

昨今では、自分の成果としての仕事とか、自己承認欲求を満たすために金を稼ごうとする。
しかし、本来は仕事は他者のために行われる。だからこそ、金が手に入るわけだ。
そうでないとしたら、それは本当にただの作業となる。

金が大量にあっても、人は幸福にはなれない。金がないという事が即、不幸なわけではない。
おそらく、今日の貧乏の不幸は、金が多少しか稼げないのに、自己尊厳を得られない仕事で
しか働くことが出来ない状況のことを指すのだろう。つまり金が少ない事そのものが問題
ではなく、その仕事が、他者のためになっていると実感できないような色褪せた仕事だから
問題なのだ。

もし仕事自体が、社会的に価値をもち、他者の顔が見えるものであれば、金銭は大量に必要とは
ならないだろう。それはブラックとかそういう事ではなく、仕事本来の喜びを見出せるからだ。
そのためには、自分で仕事を工夫できる立場にある必要がある。少なくとも、能動的にその
仕事を行っている必要がある。でなければ、それは単なる労働であり、喜びは存在しない。
それは仕事ではない。

現代の社会の問題点の一つは、システム上、金が儲かる仕組みだが、その仕事で
人々の喜びが増やせるわけではないというものにのっかって生きている人々こそが、
より多くの金をせしめていることだろう。

国の仕組み、法の仕組みなどで、既得権益を利用した商売がある。税金で作った道路を
貸すことで儲ける高速道路。同じく税金で張り巡らした電線で儲ける電話会社。税金で
作った原発で儲ける建設会社、電力会社。そういう本来ならば仕事とは呼べないような
仕事で、儲けている人々がいる。

こういう仕事は、仕事と呼ぶべきではない。寄生事とでも呼ぶべきだ。
同じく大手メディアや、電通なども、国からの金が流れている。こいつらも寄生事をしている。
大手のメディアの論調は信用すべきではない。また、広告宣伝も信用すべきではない。
国のニュースはすべからく、何らかの意図が働いていると考えておかねばならない。

彼らが煽る、不安や恐怖、孤独などは、話半分に聞くべきなのだ。それは、ニュースでも
そうだ。凶悪ニュースがあれば、いかにもそれが世界の代表的出来事に思うだろう。
だが実際には、そんなものはごくまれにしか発生しないような、些細な事柄なのだ。
凶悪な事件は年々どんどん減っている。交通事故もずいぶんと減った。社会はその意味で
安定化している一方、それはどんどん手懐けられた命令に従順な国民の証でもある。

さて、養老さんの話に戻ろう。
他にも主張はある。たとえば、健康。体力が大事であると。歳をとるほどに金よりも、
健康が大事になる。何をするにも健康でなければならない。病気や怪我は金と引き換えには
ならないのだ。そのためには、へんなストレスや身体の酷使は避けるべきなのだ。
きちんとある事は、老人にとって資産である。これはミドル世代の私のような人間に
必要な知恵であろう。

それから決まりごとについて。昨今は、浅ましい人が増えた。それは都市の論理である。
都市には人が作ったものしかない。すると、何かあれば誰かのせいになる。だが、世界は
そういうものではない。「仕方がない」という状況はしばしば発生する。それは運や
偶然である。そういうものを都市の論理は受け付けない。そしてそれは自然に反している。

そういう自然に反したものを主体として生きる人々は、どこか息苦しい。
想定内の出来事だけを想定し、それ以外を受け付けない世界では、「仕方がない」を
許容しない。すると、想定をはじめから用意するほか無い。だから前もっての言明が
長くなるのだ。同意を取るというようなとき、本来は暗黙の了解があった。それに
ついては、ケースバイケースで対応するなどだ。だが、想定内をくまなく探索しなければ
気がすまなくなった現代人は、全て書き下そうとする。それが本来、計画的に進むもので
なかったとしてもだ。

それは昨今の経済的問題でもある。経済は本来、右肩上がりでもないんでもない。
多くの人の「カネ」による取引の現象の記述である。そもそもの語源は社会活動であって
カネですらないのだが。そのカネという一側面のみで社会は語れない。当たり前である。
数字が問題なのではない。みんながどれくらい喜びに溢れているかであろう。

ブータンの国王が提唱したGNHの発想。少なくとも理念として目指すべきはそちらであろう。
カネは幸福の唯一の条件ではない。カネがなければ何も出来ないような仕組みを社会が
作り出し、その仕組みがあるからこそ、カネがなければ不幸であるという思想が蔓延した
のである。

常識はずれに見える養老さんの主張。しかしそこには確かに真実がある。少なくとも
私にはそう見える。なぜなら、それは私よりも長生きした人間の、そして尊敬する知性の
言葉だからだ。そこには、余計なものをそぎ落とした理念があると信じている。

本音と建前をそろえる必要は無い。ルールを遵守する必要は無い。大事なのは結果である。
ルールを守ることに四苦八苦している昨今において、これほど救われる言明も無いだろう。

多くの人々は、想定内の出来事が起こるように四苦八苦している。そして時折、
起こる想定外は、無かったことにしようとする。そんなわけあるか!
原発事故は現にあったし、さまざまな災害も現にあったのだ。そして、バブルはとっくに
はじけたし、それがために消費が冷え込んだのは事実である。それを無かったことにして
調子良い事だけをみせようという安倍政権が現代日本を慌しく改悪しようとしている。
それにのっかって、とにかく銭をためるのだと、経団連は結託した。実に浅ましい。
そこに理念などない。守銭奴しかいない。

そろそろ目を覚ましたらどうか。私はもうこの手の事に飽きてきた。
どうもみんなは変わらないのだ。変われないのだ。そして不幸になりたいのだ。
どうも、私にはそう思えて仕方がないのである。


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