誰を信用するのか [思考・志向・試行]

多くの人は、人を全体的にみてしまう。
そして、それこそが、いろんな問題を生じるきっかけになる。

短絡的に、この人は良い人、この人は悪い人。そんなふうに判断する。
これは人の考え方のくせだ。人は生き物なので、安全か危険かを見極める。
それが、良いか悪いかにつながる傾向を生む。

その良し悪しは、単純なことで、自分と好みが合うかどうか程度のことである。
もしくは利害があうかあわないかだ。


そして、惰性的に味方は正しく、敵は間違っていると考える。
これもまた人のくせである。
もちろん、論理的には全く整合性がない考えである。

味方でも、間違えるし、敵だって正しい場合がある。当然のことだ。


ところが、これを認められない人は少なくない。
それどころか、これが素直にできる人は特殊能力と言っても良いくらいだ。

どういう事か。

人には良い部分と悪い部分がある。これを知るという事だ。
そして、同じように、考えに正しいものと正しくないものがある。
これは、個人内に同居するものである。

特定の事柄については正しい認識がある人も、違う事柄については誤った考えを持つ。
当然である。人は完璧ではない。神でもなければ、そんなことは不可能である。

だが、多くの人はそうは考えない。考えられない。
味方が、間違っていて、敵が正しいとき、それを素直に認められる人は極稀だ。

こういう事ができる人を中国では、君子といった。君子豹変すという言葉は、
間違えをすぐさま正せることであり、間違えを間違えと認められるという素直さのことだ。
考えをコロコロかえる事だと思っている人がいるがそれは間違えである。

多くの権力者は、君子ではない。だから、君子たれと言われるのである。
そして、例にもれず、現代においても、大抵は君子ではない。
そう、間違えを認められないのだ。とりわけ権力者はそういう手合ばかりだ。

なぜなら、そういう人間だからこそ、権力を手中にできるからだ。
自分がただしいと信じ込める人間だからこそ、他者に命令できるからだ。
そこに悩みがない。人格が破綻気味だからこそ、集権的な権力という座に座っていられる。
鈍感を超えて、無神経というべきかもしれないが。

ともあれ、そういう人間も、ときに間違える。当然だ。
問題はその間違えを認め、正せるかどうかである。

そして話を戻すと、味方が間違えたとき、それを指摘し、間違えを正す助言をする。
これが友である。ところが昨今は、味方が間違えても、それを批判されていても、
間違えの指摘自体を否認し、むしろ、批判行為が間違えだと言わんばかりなのだ。
そうしておいて、自分はその人間の友だという顔をする。

ゴッドファーザーは、まさにこのような人間の権化である。
味方のあやまちは、すべて隠蔽する。そのためならば、手段を選ばない。
だから暴力沙汰になるし、常に抗争することになる。はっきりいって不幸せそのものだ。

ところが、ときに、このような行為を美化し、こういう態度を「愛」とか「友情」とか
呼ぶ人間たちがいる。味方を守るという事は、大事なことが、味方の誤りを隠蔽するのは
明らかな欺瞞である。欺瞞を封殺すると、その歪みがどこかへ加わるのだ。

こういうとき、誰かが死ぬ。物理的に死ななくても、精神的に死ぬ。
事実を隠蔽するのは困難なのだ。人の口に戸は建てられぬ。

安倍政権は様々な隠蔽をした。およそ不正らしきものが多く発生しただろう。
そして、味方であるという意味において隠蔽もした。それが明るみになったのが、
モリカケ問題や、山口氏のレイプ問題であろう。およそもっと多くのことを隠蔽した
に違いない。その軋轢は、赤木氏の死を招いただろうし、多くの人々が左遷させられたり、
報復を受けた可能性がある。

これが問題なのだ。

味方の粗相を権力でなかったことにする。これは政治腐敗の始まりなのだ。
味方でもあっても、だめなものはだめである。

自分の子供が、悪さをすれば、その悪さに対する償いはしなくてはならない。
償いをさせることが親の努めである。でなければ、ずっと逃げ回る人生になってしまうだろう。

私には、権力者という人間たちが不幸に見える。それはときに、怪しいことをする
必要があるからだ。失敗を認められないという可哀想な人々は、つねに自分たちが
正しいと主張するか、隠蔽するほかない。

安倍氏はきっと八方美人だったのだろう。多くの人に利用された。
そういう人だったはずだ。それは裸の王様である。安倍氏の失敗を、仲間が隠す。
そういう図式も多々あったのだろう。逆に安倍氏の周りの人間の失敗をかばう。
そういうこともあったろう。

現実は実にくだらない事しかやっていないはずだ。なぜならそれが人間だからである。

ただ、権力をもつものはその責任を取らなければならない。
味方の罪を、ミスを、失敗を、隠蔽するのは、ちっとも正しくない。
全く美しくもない。ただ、ただ、問題をよそへ移すだけの事になる。


きっと、私の文言を読んで、こう思う人もいるだろう。「なんて冷たいやつだ」と。
私はここに、左派と右派の違いを見出す。

右派は、仲間を重視する。その中身は殆ど関係ない。味方と思う人間はかばうと
決めている。それが右派だ。たとえ、犯罪をおかしても、かばうことだろう。
そういうマインドである。

左派は、理由を重視する。行為の中身が重要なのだ。どういう理由で行為が行われたのか
を問題にする。だから味方といえども、故意の犯罪は許容しない。むしろそれを批判する
くらいである。そういうマインドである。


どちらの集団が過ごしやすいか。間違えばかり仕出かす人間にとっては、右派が好まれる
だろう。実際問題、世の中の人たちは、間違えをおかす。その時に、行為の償いを勧める
人間と、何も間違ってないとかばう人間がいたら、どちらをよく思うだろうか。
安易な人間たちは、右派を肯定するに違いない。

一方で、右派にはルールがある。仲間になるという禊が必要なのだ。
そして、味方の外、つまり、敵には徹底的に冷たい。

なぜ政治的保守が、貧乏人や失業者に冷たいのか。それは彼らは敵だと認識
しているからだ。社会的弱者は、右派の敵なのである。なぜなら、彼らは右派集団に
貢献しないものと考えられているからだ。お荷物はいらない。それが右派の冷徹さだ。
だから、優生学志向なのである。役立つ役立たないというのが彼らの主眼である。

私は右派のこういうマインドが嫌いである。

左派は、事が起こると冷たい人にみえるだろう。当然である。味方を平等に理由自体で
対処するからである。過失であっても、必要ならば罰を下す。だが、理由もなしに
批判はしない。大事なのは理由であって、敵か味方かではないからだ。

いざとなれば、敵であっても、理由があれば非難することはない。仕方がない事について
あれやこれや言うことはしない。情状酌量を勘案する。弱者にも手を差し伸べる。
なぜなら、役立つか役立たないかではなく、社会の一員として、他者を受け入れているからだ。
味方と敵という冷徹なジャッジではなく、どういう理由で行動したかが問題なのだ。
本人が努力した結果、助けが必要ならば、助けよう。これが左派の態度である。


私が右派を好きではない理由は、自分の間違えを認めない傲慢さだ。
悪事を確信犯で行うのは右派である。それでいて罰をさけようとする。
自分の不正は問われない、私はそういう立場の人間だという傲慢さがある。
その傲慢さは権力志向となる。それは結局、暴力マンセーなのだ。
傲慢さを貫徹しようとしたら、最後は暴力の出番となる。
ゴッドファーザーをみれば明らかだろう。

暴力行為を私は唾棄する。諸悪の根源だからだ。

とはいえ、個人的な暴力は許容してもよいと思う。つまり喧嘩である。
気に入らない事があったら、殴り合うくらいは仕方があるまい。
そういうのは動物たちの性である。

ところが、すぐに右派は徒党を組む。問題が大きくなる。
個人的な喧嘩にすぐに介入してくる。これが右派の限界である。
味方がやられたら、やり返しにいかねばならない。暴力の無限ループになるだろう。
お前ら、一生やってろ。 これが私の結論である。

左派は、ルールで行動を縛ろうとする。
だから、どうしても綺麗事が多くなる。行為の理由が問題になるからだ。
左派は悪事を確信犯では行わない。悪事が善行とみなせるルールを作って行うのだ。
善の名を借りて、悪事をする。これが左派がおかす問題点である。

個々人が喧嘩をする。左派は理由を問う。その理由に依拠して
彼らへの応対を決めようとするだろう。その個人がルールを破っていれば、
それに従って、処罰されることになる。

そして、ルールを守らせることに対して最終的には暴力を発動する。
だからこそ、共産圏の国々では、ルール順守のための暴力が発生してきた。
国内的な制圧が生じる。いわゆる粛清である。過激な左派はルールの名のもとに
虐殺を犯す。

これもまた私の嫌悪するところだ。

極端な右派は、お前は仲間ではないと暴力を振るう人々であり、
極端な左派は、お前はルールを破っていると暴力を振るう人々になる。


むろん、目指すべきは中庸だろう。当然の帰結である。


現代日本は、右派になりつつある。お前は敵か味方か?と人に問う圧力がある。
そして、味方だと宣言する方が、いろいろ得である。

だから、仲間の考えが極端に気になる。空気を読むのは、味方であり続けるための
努力である。敵ないしはスケープゴートにされないためには、味方であることを
示す必要がある。それはときに、ルール破りの味方をかばうことだったりする。
だが、これが頻繁だとそれなりに気苦労があろう。

これをスムーズにやるには、ルールを自分たちの都合が良いように変えれば良い。
もしくはルールを無視すれば良い。

これが現に政治で行われている行為のマインドセットだろう。
つまり法の軽視と、人治主義である。押し付けがましいルールなんか無視。
味方を守るためなら、なんでもやろう。だって、それが正義なんだから。


多くの若者はこの世間的圧力のためか、大いにマインドセットが右傾化した。
その一方で、自分が役立たない人間になったらどうしようと不安でしょうがない。
もしくは、敵認定されたらどうしようと、自分を押し隠す。自分の素直なものを
だしたら、スケープゴートにされるんじゃないかと恐々としている。

結果、主流に反論しないのが処世術になる。声の大きなものに従うのが人生になる。
だって、結局得じゃないか、その方が。

仲間をかばう政権をみて、「まあ、そうだよな。だって味方なんだから。」と思う。
そこには、左派的なルールが重要という発想が希薄だ。
むしろ、ルールをクチするなんて、愚かだとすら思う。


時代はこのように流れている。私はそれこそが生きづらさの正体だと思う。
自分の思うところを口にしないなら、死んでいるのと変わらないだろうに。


最初に戻ろう。

誰しも間違えを犯す。ならば、間違えを認め、適切に処理するほかない。
そこに変な情状酌量など不要だろう。例え味方でも、だめなものはだめだ。

無欠な人はいないし、無欠な組織もない。間違えを適切に処理するために法があり、
それは平等に適応されるがゆえに、法の効力がある。それを現在の政治は
どんどん崩してしまった。失敗や間違えを認めずに隠蔽する事を繰り返した結果、
仲間は結束を固めたのかもしれない。だが、問題は何も解決していないのだ。

普通に批判する人が現れる。
すると仲間内で、批判者を攻撃する。だって仲間なんだから。

はっきりいって、見苦しいったらありゃしない。
安倍政権を始め、今の自民党政権は、見苦しいの一言である。

統一教会と安倍氏を含め自民党との深い関わりは、社会的には問題なのだ。
だが、それを認め、行動を変えるといった政治家は一人でもいるだろうか?

見苦しい言い訳を繰り返すか、知らぬ存ぜぬと繰り返す。

実に見苦しい。


大手メディアは強く言わない。なぜならば、批判を強めると例えば放送法による
放送利権を剥奪するというような暴挙が出てくるからだ。そして、お前らも仲間だろと
ささやくのだ。だったら、お互いに良いようにしておけば、利害は一致するじゃないかと
説得されるのだ。

右派的行為は、こうして見苦しさを常とするしかないのである。

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