心理学を紐解く [思考・志向・試行]

心理学の教科書を読む。

社会心理学は、およそ戦争の反省という文脈で発展してきたがゆえ、
内容は、その関連であることが多い。

例えば、ミルグラムの服従実験。実験者が被験者に対して、電気ショックのスイッチを
どの程度強要できるのかという実験。初期の話では7割が指示に従ってしまうという結果だった。

その結果より、「人は命令を受けると(特に権威により)、その指示に服従してしまうものだ」と
いう考察が導かれ、戦争犯罪の一部は、命令により「仕方がない」ものとされた。

その象徴は、アイヒマンの裁判であろう。彼はアンナ・ハーレントによって「悪の凡庸」の
話題提供者になったわけだが、これは命令による行為は、多少とも酌量余地を残すという
流れになった。悪事を行ってしまったのは「命令」によるのだから、やむを得なかったという
話になる。

これ以外にも、ファシズム化する集団の心理に関して、集団極性化や内集団バイアスなどが
検討されている。集団極性化というのは、内集団における支配的な考えがますます強化される
ことだ。リベラルと保守の政治的争いを鑑みれば明らかだろう。お互いに自分たちの主張を
同じ考えを持つ同士でますます強めあっている。ネットの普及はそれを加速させた。
 また、そうやって考えが偏ると、今度は内集団を贔屓にし、外集団に対する無関心や排除の
考えが生まれてくる。まさにファシズム的傾向のことだ。

こういう社会的情勢があれば、これがいつか暴力となって社会対立を招いても不思議ではないだろう。
例えば、アメリカではリベラルと保守で社会的分断が顕著になっている。これは都市対田舎の
対立でもある。

いざとなれば、人々は分断された内集団と外集団で争いをおこし、戦争という段階になれば
否応なく命令されて、戦場に駆り出されてしまう。そんなふうに考えるのは自然だ。

だからこそ一部の人間は、防衛のために予算を割き、防衛のために、改憲をして、
暴力行為への対抗措置が必要なのだと考える。それを現実主義という。

だが、待って欲しい。暴力に対する暴力は、その結果において、偏見を自己成就させる
だけである。

内集団が外集団の悪口をいって、あいつらは非道なやつだと考える。
その非道な奴らが攻撃してくれば、「それみたことか、だから防衛が大事なんだ」というだろう。
だが、そもそも、内集団が、外集団に対してもっと寛容的に対応していたら、どうだろう。

親切にされたら、親切にしようというのが人間である。
嫌悪されたら、そのリアクションを通じて相手を嫌悪することになろう。
争いの原因はそもそも、相手をそのように扱ったからではないか?
そして、事が起こったことをもって、偏見が正しいというのは、論理が逆ではないか?

つまり、相手が嫌なヤツだから、争いになったのではなく、
相手を嫌なやつだと決めつけて扱っているから、紛争が生じたのである。
その紛争が相手を嫌な奴だという解釈の元になるのだ。予め相手を貶めたことで
その主張通りの事を引き起こすことに成功したというわけだ。

全くバカバカしい。だが、人はそんな事をずっとやっている動物である。
歴史をみれば、それはそこかしこで生じている。近隣諸国の民族に対して、
彼奴等は過去にこんなことをしてきたのだと子供に教え込み、互いに憎み合うように
洗脳し続けているのである。

ではなぜ、相手を嫌なやつだと思ってしまうのか。

そもそも人間とは、善良な動物である。そして協力的である。
その一方で、極端に不安がりであり、臆病な動物でもある。

臆病だから協力しあって生きる。協力する理由は、ラッセルによれば、3つのことだった。
一つは好きかどうか、もう一つは、得をするかどうか、もう一つは、恐いかどうかである。

恐怖によって従うのは強制という事を考えれば、一般的には協力とは善意であろう。
人は、善意によって協力する。互いに助け合うのは良いことだ。これは多くの人が
同意するところだろう。

この立場から、服従の話を振り返る。
ミルグラムは、人は権威に服従してしまうものだといった。本当だろうか?

もしあなたの目の前に、権威者が現れて、こうして欲しいと言われたら、どういう気持ちになるか。
命令ではなく、頼まれたらどう思うか。内容が普通のことであれば、喜んで協力するのではないか?

そう、ミルグラムの実験の本質はここにある。人々は命令に服従したのではなく、
指示に対して協力したのだ。それは、実験において良き被験者になるという協力である。
人々は実験者に対して善良であろうとして、指示に従い、電気ショックのスイッチを押し続けた。

アイヒマンは、命令されたから、ユダヤ人をアウシュビッツへ送り込んだのではなく、
ナチスの考えに同調し、積極的に人々を死に追いやったのである。それは組織に対して、
善良であろうとしたという事なのだ。つまり、行為そのものの結果は重要視せず、集団において
益となることにおいて、協力的であり、しかもあわよくば、その貢献を評価されたいと
思っていたのである。

これは、ファシズム化する集団極性化でも同じことだ。
そして、意見が類似した人同士が結びつくのはごく自然だろう。
そこに協力関係が生まれ、内びいきがスタートする。結果は偏見の醸成と、
それを理由にした暴力である。

そう、人は協力的で、善意に満ちている。
だからこそ、悪事を行うのである。なんという矛盾。


社会心理学は、人々が善なることを求めることを教えてくれる。
そして、それは悪につながっているという事も。
悲しいかな、我々は、善意の元に、悪事を推し進める動物なのだ。

悪事を批難する人がいる。当然である。
だが、その悪事とは立場を入れ替えれば、正義として扱われる行為である。
これが世界のそこかしこで起こる紛争の意味だ。

個人間のいざこざはおいておくとして、大きな争いはつねに人の善意によって生じる。
人が真面目に正義を振りかざして暴力を肯定する時、それはすぐに悪に転嫁するのだ。

この理屈からいえば、暴力とりわけ、防衛というような巨大な暴力組織・機器の存在を
肯定する人間はすべて、悪の肯定者である。そして事実そうなのだ。

悪をなそうという人間こそが一番の脅威である。
そして、その悪をなそうという人間こそが、いの一番に防衛という言葉をはくのである。
つまり、正義の元に暴力を肯定する人間のことだ。そして、そういう人間は、
なぜか「現実主義」と呼ばれる。

全くバカバカしい。バカも休み休み言え。

現実主義者こそが、悪の元凶なのである。それは自己成就的に敵を作り出す。
そうやって、敵を作り出しておいて、「やっぱり防衛力は大事なのだ」とのたまうのである。
マッチポンプとはまさにこのことだ。

私は、いわゆる現実主義を嫌悪する。そして現実主義者は可哀想な連中だと考える。
なぜなら、洗脳を受けた人々だからである。世界は危ない所だと思い込まされた人々こそが
現実主義者である。

幸福に他者に愛され、支持されている人間は、他者をあくどく言わないものだ。
ましてや、他者に恐怖を感じることなど無い。他者を許容し、受容しようと試みるだろう。

逆に、不幸な考えの持ち主たちは、防衛だ、強くならなければならないと、肩肘をはるだろう。
なぜなら、彼らは根っから不幸だからである。他者が怖いから、吠えるのである。
攻撃とは、保身である。保身的であるからこそ、攻撃のための準備をしたがるのだ。
なぜなら、自己が嫌われていると思っているからである。リアリストが常に、どこか
卑屈なのは、自分が許容されないという心理的態度によるものだ。

もう分かったと思う。
我々が考えるべきは、集団内において、偏見を減らし、内集団という考えを緩める方策だ。

過去の偉人とはすごいもので、キリストは隣人愛を唱え、ブッダは慈愛を唱えた。
つまり、心理的な垣根をつくるなというのである。これは問題解決の本質である。

だが、私は真なるリアリストである。人間はそんなふうには生きていない。
どうしても、内と外に分けてしまうものだ。それは生理学的にも規定できる。

絆を形成する事。人々はそれを良しとするが、それは最終的に差別になる両刃の剣である。
私は、絆とか、仲間というものを巨大化しようというプロパガンダこそ悪だと思う。

綺麗事だからとかそういう事ではない。まさに現実に害を生み出すという意味で、
絆とか共感とか、仲間の拡張を嫌悪する。これらの諸機能は人に備え付けなので、
それらが機能するのは仕方がないが、それを拡張しようという考えには全く反対である。
なぜなら、それが悪の根源だからだ。

心理学を紐解くと、そこに悪の元凶が現れた。
この事実から、どうすべきか。人類は中庸な手段を発明する他無い。
悪事とは善意のなれはてという事実は、およそ本質的な解決を導くだろうと私は信じている。
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