いつ「生きる?」 [雑学]

昨今は、常に前もって何かをする事を強いられる。
映画にいく。すると既に良い席は埋まっていたりする。オンライン予約があるからだ。
確かに便利ではあるが、事前にやらない人にとっては、なんだか興ざめである。
ディズニーランドに行く。ファーストパスをとると、列に並ばずに優先的に乗れる。
だが、そのためには、とても戦略的に行動しなければならない。こことここのパスを
とって、空いたタイミングで昼飯を食べて〜という事になる。

このような日常的な些細なことは、もしうまくいかなくてもある程度次の機会があり、
問題がない事が多い。だが、そうもいかないこともある。

旅にでる。宿について部屋があるかと聞くというような事をする人は
稀ではなかろうか。事前に予約すると、値段はぐっと下がるからだ。
すると、計画が大事になる。

ところが旅も長くなれば、帳尻が合わなくなる事もしばしばある。
その時に、宿の都合があったり、どこか施設の予約があったりすると、
それに合わせようとすることになる。宿などは特にキャンセルがもったいないからと、
無理にでも行こうとしてしまう。

計画はあくまで計画であって、常に変更を迫られるものであるが、
現代はそれを極端にまで嫌う。予定が立たないものは、あってはならないというくらいにだ。
その一方で、計画は必ず遂行しなければならないものとして、存在している。

これはいわゆる「脳化」である。
もっといえば、システム化である。人が自らの行動をシステムの中に埋没させていく。
その動機は、得か損かであり、損になる行動は避けようとする。一部の人は得を目指し、
多くの人は損を避ける。そういうシステムになっていく。

頭がで考えたことは実行されるべきという、ある意味での原理主義が、
社会のあらゆる分野に根をはやしてしまった。

例えば、年金。若い頃に年金を払っていなければ、年老いた時に年金を受け取れない。
25年間かつては収め続ける必要があった(今は確か10年に短縮されたはず)。

しかし社会が前提とした構造は、日々移り変わっていく。
かつての人々が楽観的に予測したような社会ではなくなった。
それにも関わらず、計画は実行される。なぜなら、25年という計画だからだ。
そして、今も働き始めた社会人はこの仕組に足を踏み入れている。

こうなると、現実と計画は齟齬をきたす。
当然ながら、どこかで破綻するに決まっているのだが、その責任を誰もとりたくないので、
崩壊するまで待っているというのが現状である。

一方で、このような計画社会は人々の心を苦しめる。
一度、加担したら、そこから抜け出すことが圧倒的に損になるからだ。
加入した時間が長いほど、損である。その結果、計画された社会に組み込まれたら最後、
逃げ場はない。正確にはあるのだが、その逃げ場はひどいものになりがちだ。

すると、人々は計画された社会にどうやって組み込まれるのかに腐心する。
それを子供に押し付けるのが、受験勉強であろう。受験で良い成績を収めておけば、
損にはならないと。常に後ろには、崖が迫ってきて、気を抜いたら落っこちるというような
仕組み。それが、現代のシステム化された社会である。

このような仕組みでは、常に明日以降を見つめて過ごすことになる。
来年は、再来年はどうなるか。そんな風に考えて行動することになる。
それは、翻ってみれば、今をおざなりにする行動である。

既に幸福研究から、幸福に大事なのは「今ここ」であると知られている。
今ここを堪能しなければ、幸福などありえない。ところが、現代人は今ここよりも、
明日のこと、1ヶ月後の事、いや場合によっては定年後の40年後などを想定して生きる。
そうして今ここをないがしろにしてしまう。

あまりにも虚しいと思うのは私だけだろうか?

今、国会では任命問題が話題である。
その不可解なやり口は、森友などと全く同じであろう。
おそらく、陰険にも、部下がやったとしっぽを切るつもりらしい。パターン化された行為である。
証拠が出そうなものは、隠蔽する。不誠実で嘘つきな自民党はまだまだ続くらしい。
ウソだと誰でも分かるような言い訳をどうして信じる? 支持している人間の無関心さに
辟易している。

こいつらのやりたいことは、ただ一つ。他人を思うように動かしたい。それだけである。
その先に、国が豊かになるとか、庶民が幸せになるなど、これっっぽちも考えていない。
自分たちの思うように人間を動かして、自分たちだけ利益があがればいいのだ。

だが、システム化された社会では、嘘つき野郎たちの言い分を咎めることすら難しくなる。
事の本質を理解する人間たちがいくら喚いても、システム内において物事を決めるのは、
ごく一部の人間である。その人間たちが考案した計画を実行させるために、反対する他者を
押し切る。そのせめぎあいが表に出てくると、今回のような問題となるのだ。

若い人間は知らないのかもしれないが、これは現政権のやり口は、中国や北朝鮮やかつてのソ連
などの共産圏の手法である。権力装置を利用して、いうことをきかす。これがために共産圏は
その力を失った。どれほどトップが強権であっても、自由闊達に生きる人間たちの発展には
かなわないのである。

むしろ、国の権力を強めるほど、国自体は弱くなる。計画されたものは、現実にするしかない。
そういう社会が共産圏の計画経済であった。それはもう時代が無理と証明した。ところが、
現政権は、それをやろうとしている。金や権力構造を利用して、まさに、共産主義的な強権政治へ
と突き進んでいる。私は、その悪臭に耐えるつもりはない。

得をしようとする、いや、大勢がやっているのは、損をしないようにする事だ。
そのためには、強権的な政治には迎合する事だと思っている。だが、それこそが大損である。
目先の小さな利益を求める事で、日本はどんどんやせ細っている。

こんな時代に敏感な女性たちはどうして子供を持とうと思うだろうか?
仮にもったとして、どうして不安にならずにいられようか?

問題の本質は、日本の社会システムである。それを変えられるのは政治家や官僚たちだが、
彼らは、そんなことを考えている余裕はない。自分たちの利益だけを優先する。その利益とは
トドのつまり仲間への分配である。政治家は自分の派閥に、官僚は自分の省庁に利益が得られる
政策しかやらない。

結果として、庶民はどうでもよいということになる。みなさん、いいですか? 自民党は
庶民のみなさんをどうでもいいと思ってる。それは事実です。そして、一部の票田にだけ、
よろしくおねがいしますと頭を下げ、それ以外の連中は、選挙にこなくていいと追い出しに
かかっている。この現状で、選挙に行くなんて、バカみたいとかいっている人は、行かない事の
バカさ加減を考えたほういいのである。

その一方で、政治家にろくな奴はいないのも事実である。ではどう選挙しろと?
結局、政治という面倒なものを各人が、適当に打ち捨てて、自分たちは目先の金に振り回された
結果として、クソみたいな政治家が牛耳る世界になってしまったのである。

さて話を戻そう。
日本のシステム化は、IT化によってますます進むだろう。
それは、あらっぽい因果関係の論理によって補完される。だが、現実とはそのとおりではない。
ところが、計画を事実化するという事が、目的化してしまう。なぜなら、計画は間違えられない
からである。計画自体が失敗であると断定する以外に、この袋小路からは抜け出せないにもかかわらず、
計画した人間の責任を問えないために、失敗はつねに現場のせいとなる。

これは自体が失敗しているあらゆる組織や場面にいえることだ。
計画とは所詮、皮算用である。ところが皮算用が失敗する事を許さないという考えが、この世界に
はびこってきた。それは金をだしたのだから、その対価をよこせというモンスターと一緒である。

投資にも似ている点がある。金をだしたのだからと事業に文句を言う。金で人が動くと思っている
からだ。そして投資をしたらば、儲かるだろうという計画があるからだ。損をする事だってある
というアホでも分かる論理が理解できない人間が多すぎるのである。だから、投資に保障をつけろ
とかいい出す。

国はここに加担する。株で損益がでたら、税金や年金で補填する。ありえない所業である。

計画にしっぱいした人間は負け組ではなかったのか?
国は何度も失敗しているが、負け組にならないという傲慢さをもつ。
一方で、庶民は失敗すると文無しになる。この非情なまでの不公平・不平等に私は文句がある。
それが不当な文句だろうか?

東京電力は地震対策に失敗した。じゃあ、ひとまず潰して、対応する会社を新しく作ればいい。
しかしそうはしない。税金を費やして、失敗の補填をする。このような話は日本中に溢れている。

正義などこの国にはない。あるのは仲間内のルールだけだ。

そして、そのルールの一つが、システム化である。養老流にいえば、こうすればああなる。
これにがんじがらめになっているのが庶民の人々である。

なぜだが、この仲間内ルールを支持する一部の庶民がいる。
あんたらも国から被害を受けてるのに、なんで国の肩をもつ? 私には全く理解不能である。
あなたの払った税金が、政治家や官僚たちによって浪費されているわけだ。それで良しという
のか?

だが、計画された社会に長いこと据え置かれた人間はすぐに「まあ、いいじゃないか」とか
「秩序を乱すほうがだめだ」とか、長いものに巻かれる事大主義に陥る。大人が腐るとは
このことだ。

こんな大人たちのどこが「生きてる」というのか。
生きながら、死んでいるといったら、不遜であろうか。

計画が思うように進まないのは当たり前である。その当たり前を直視すること。
そして、計画はほどほどに、今という時間を精一杯過ごす事が大事であろう。
そうしなければ、「生きている」ことにはならない。

現代日本では残念だが、そんな風に生きる術は限られている。
金を儲け続けるという事のために、人々は日々を費やし、人生を大いに費やして”幸福”に生きる。
どんなものに価値を見出すかは自由である。むろん私はそれに与しない。
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「いい子」の心 [思考・志向・試行]

人は自分の体験でものをいう、また考える。
心理学によれば、それは無意識にまで及ぶらしい。

人は3歳までの事はおおよそ忘れるようになっている。
それは脳のサイズアップと配線の変化によるものだろう。
とはいえ、全く忘れるわけではない。

3つ子の魂百までとは一般には性格について指し、性格的なものは変わらない
ということわざである。だが、心理学上、性格は変わることが知られている。
全く変わらないということはない。

では3つ子〜は、誤りかといえば、そうではなく、おそらく、その頃に
経験した事柄は一生ついてまわるという事なのだ。

アリス・ミラーの「魂の殺人」によれば、ヒトラーは父親に折檻されて育ったという。
そのような強烈な「教育」によって、彼は心を歪めたのだろう。あの惨劇は彼の虚栄心
や権力欲だけではなく、およそ絶望や恐怖によって引き出されたといえる。

加えていえば、社会的「成功者」もまた同様であるという。アリス・ミラーの
「才能ある子のドラマ」によれば、才能ある子であった大人たちに共通の心的状況が
あると解説される。それは親による「生殺与奪権の譲与」である。いわゆる「いい子であれ」
という事が。

一見すると何も悪いことに思われないが、大人が望むようないい子とは、抑制を自らに課した
鬱屈した心の事である。子供は明に暗にそれを嗅ぎ取り、親の望むような行動を是とするように
心がける。子供は自分の希望や願望に蓋をするようになる。

この「いい子」であれ、をやぶったらどうなるか?

親には常に生活を補助するという立場があり、子供はそれに頼るほかない。
つまり、構造的に子供は親に依存するように出来ている。その子供が親ののぞみに歯向かえば、
生存が脅かされることになる。そこまで過激ではないにしても、嫌われることは不利になる。
兄弟喧嘩とはおよそこのリソース争いであることを思い出せばよく分かるだろう。

よって、いい子がたまたま「才能がある」と、時に社会的に成功を収める。
お受験を勝ち抜いて、慶応や東大に入るような子になる。だが、その行動は果たして、
本人の希望だったのか? 自分の人生が「親の所有物」であることに気がついた時に人は
精神的苦難に陥るのである。

才能あるいい子は、学校でも会社でも同様の態度を取り続ける。上司に嫌われないように、
先生に嫌われないように、友達に嫌われないようにと。家庭をもっても、伴侶に嫌われないように
子供に嫌われないように。そうやって、人生を「慎ましやか」に生きようとする。
それがいい子の生存戦略だからだ。

では、このような子が何かパワーをもって行動するだろうか?
時に良いめぐり合わせがあるかもしれない。けれども、つねにビクビクしながら生きるスタイルは
平均台の上を踏み外さないように歩くことに近い。周りの期待に応える事が人生の大目標になり、
失敗は許されなくなる。なぜなら、失敗することは「生殺与奪権」の執行につながるからだ。

こういう心理によって、常に背水の陣を引くような生活となる。
しかし、全ての「いい子」が成功するわけではない。

始めからいい子が出来ない人はとっくにこのゲームから降りるだろう。
一方で、いい子が出来てしまう才能がある子で、中途半端な能力であれば、
どこかで無理が来るだろう。例えば、大学受験の失敗。就職の失敗。恋愛の失敗。
いい子は絶望する。その絶望は、時に無気力を作り出す。アパシーになる。それならまだしも、
うつ病になったり、自殺願望を持ったりする。

結局、いい子は、行動そのものに意義を見出していないがために、
その矛盾が露呈すると非常に脆いのだ。

恐ろしいのは、いい子が本当に才能に恵まれた場合である。
どんなに苦しくても、ここで合格しなくては!とか、ここで失敗できない!とか
猛烈な焦燥感によって、うまくこなしてしまう。そして、それが成功するとホッとする。
これを日々繰り返して行く事で、あたかも人生がうまくいっているかのように見える。

周りからみれば、とても優秀な人として映るだろう。そして凄いと思われるだろう。
だが、本人は地獄にいるようなものだ。火に焼かれないために、全力で努力する。
そうしてからくも逃げ切るということなのだから。

これをやり続ければ、社会的地位も向上する。そうしてどんどん自分の身に付加的なものを
増やしていく。キグルミを重ね着するようなものだ。その反面として、どんどん本当の自分を
見失っていく。本当の自分の願いが分からなくなる。だから社会的な価値に身を委ねる。
そうして「これでいいんだ、いや、結構うまくいってる」と自己暗示をかけ続けるのである。

しかし成功者が時に、絶望を抱える。それはもしかすると自己暗示に気がついたからではないか。
気がついてしまった人は、狼狽する。その一種がいわゆる「中年の危機」と呼ばれるものだ。

一方で、気がついても、気が付かぬふりをすることもある。
そのような時は、真実に触れるような事柄が発生すると、いい子は激怒する。
自分の存在をけなされたと感じるからだ。そして、常に周りからの承認が必要となる。

その承認の代表例がいわゆる肩書である。
肩書を誇るのは、中身がないからだ。何をしているかより、どんな認証を与えられているかに
重きを置くがゆえである。それに拘泥するのは、自分の存在性をその認証が支えているからである。

中高年が、若者をなじる。その中には組織的な必要性がある。だが、その一部は、承認欲求を
満たすためでもある。ハラスメントの多くは、心が空洞化した人が、自己を空洞化した論理の
否定に出会った時に引き起こす。「俺はお前の上司なんだから、尊敬しろ」とか「言うことを
聞け」と思っている。なぜなら、いい子は権限あるものに服従する事なのだから。自分はずっと
そうしてきたのに、なぜお前はそれをやらない?という心情なのである。その不服従にカチン
と来る。それがハラスメントを引き起こす。

権限や権力を使って嫌がらせをするのは、仕返しなのだ。
本来は、直接加害者に返せば良いのだが、親はもういない。
だから、身近な弱者に向かうのである。虐待は連鎖するようにハラスメントも連鎖するわけだ。

ハラスメントを防ぐには、自分の本性に気がつくほかない。
お仕着せの人生ではなく、自分の人生を送っている人間にしか、ハラスメントは脱出出来ない。

「いい子でいなさい」と親から言われて育った人は、
子供には決していわないで欲しいと思う。それは、ハラスメントの萌芽に他ならないのである。
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