所有される自己という発見 [思考・志向・試行]

私は所有されている。
端的にいえば、私はこれを発見した。

発見などと大それた言い方ではなくても良いが、私は確かにこの意味の実感を得た。
かつての人々もこれを大いに意識してきたに違いないが、それを明示的に示した
ものは見たことがないので、ここに書き記す。


私達は所有されている。
自分が今、何をしようとしているのか、よろけながら考えた。
その中に立ち現れたのは「逃げる」事であった。

逃げる。私は逃げた。逃げようとした。
何からだろうか?

朧気に感じていたいた事が突然明瞭になった。
それは「所有される事」からである。

誰かに指図される人生はまっぴらごめんだと思った。
それで会社を辞めた。
だが無職になっても所有されている事から逃れる事は出来ていない。

まず私は日本という国に所有されている。IDをつけられて管理されている。
そこから逃れるには法の外へでる必要がある。
名無しのごん兵衛になる事。徹底するならそういう手段しかない。

一方で、生活するのに金が必要である。
金を得るには、仕事をする必要がある。仕事とは社会が所有するものだ。
その仕事をするとは、社会に所有されることである。それが一瞬の出来事であるとしても。

その意味で、現代人の我々はどこにも所有から逃れるすべはないのではないか。
金から逃れられるのか? 法から逃れられるのか?
所有される事から、どうも逃げられないのではないか?

自由という意味。日本では自由の中に「自分勝手」というニュアンスがある。
所有されていない人間はろくでなしというのが日本の価値観である。
それは社会がよってたつ価値観である。その価値観に日本は覆われている。
そして自由は存在し得ないかのようだ。

社会に所有される存在。それが人である。
各自の行動原理は、誰に所有されているかによって規定される。

日本では明示的な神がいないが、一神教の世界では、神に所有されている。
日本だって「日本教」に所有されている。それ以外の人間は目に映らないように
なっている。

恐ろしいことに気がついてしまった。我々は生まれてから死ぬまで
所有されている。

親に所有され、学校に所有され、会社に所有され、金に所有されて生きる。
自由があった試しがない。現実は断ち切れない網で塞がれている。

私は思う。どんなに哲学者が自由と言おうとも、社会学的に考察されようとも、
故人も未来人が自由を叫ぼうとも、我々にはそれを知る術はない。それは絶望でしかない。
過去5000年前に戻れるとしたら。そこには我々の想像を絶する自由があったのだろうか。

それとも、多くの哲学者がいうように、拘束なき自由とは不自由そのものだろうか。
我々が知りうるのは不自由な自由でしかあり得ない。


いや、気を確かにしよう。そうではない。
哲学者たちがいうような自由を求めているのではない。

所有からの脱出なのだ。社会という網が問題なのではない。
誰かがよって、自分の身が拘束されているという事が問題なのだ。

自らが所有されることを望むならば、まだ良い。
しかし、人は生まれてきた瞬間より、所有されている。
その所有された生を我々は生きるほか無い。

いや、脱出することは出来る。脱出して生きられるはずだ。

そう考えた時、一体日々の生活とはなんだろう?
自分がやっている事って、誰の考えなんだろうか。
欲が欲する以外に、我々が行っている行動って、何の行為なんだろう。

自分が無意識に「所有される事」から逃れようとしていた事。
今、それを明示的に自覚した事を備忘録として残すものである。
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