不遜な言い分ー大人の振る舞いー [思考・志向・試行]

モンスター化した人々が溢れている。
自粛警察など、ごく一般的な人々が過剰に反応をする。ルールを徹底させようとすると
凶暴化するのは今に始まったことではない。

共産主義の負の側面は、まさに理念の過剰さによって生じた暴力を背景とした強要である。


さて、モンスター化してしまった人々を単に迷惑だと排斥するのは簡単である。
むしろ、彼らの心情を考察すべきなのだ。もちろん、モンスターが迷惑なのは変わりない。

不遜な言い分を聞こうと思う。モンスターたちの。


人は生まれてから、模倣し続ける。
ましてや、特定の行為に抑圧された人間は、その抑圧が強いほど、
その代償を必要とする。

「魂の殺人」アリス・ミラーの著作である。
これを読めば、虐待の連鎖がどういうものか理解できるだろう。
更に、社会的に行われる残虐の発露の謂れも分かるだろう。

子供は何もなしに凶暴になったり、犯罪に手を染めるわけではない。
もともと、犯罪者として生まれてくる子供などいない。
あるとすれば、周りが、地域が、社会がそういう人間を作り出す。

アリス・ミラーはいう。幼児期に、本人がそれを完全に忘れてしまう頃に行われる
精神的・身体的暴力によって、人は残虐性を身につける。それはひとえに「躾」と呼ばれる。

子どもたちが、強烈な体験をすればするほど、その代償が必要となる。
暴力が発露するのは、誰かの暴力によるものだ。誰かが彼らに暴力をふるったのである。
そして、バランスをするかのように大人になった子らは、自らの子供に同じことを繰り返す。
もちろん、「躾」の下にだ。

これは大人のやり方である。大人が肉体的・精神的暴力をふるった事で、
彼らは、それを覚えるのである。子供は、大人のやることを模倣するからだ。
それは、大人の隠蔽した嘘をもひっくるめて行われる。

大人が子供を操作したい時に繰り出した暴力などを、子供は覚える。
そして、スキあらば、その暴力を他者に試すのである。
子供は、ただ真似をしたに過ぎない。

子供をもつ大人には、見に覚えがあるはずだ。子供の行為に激怒する瞬間が。
その怒りはどこからくるか。ただ子供がダダを捏ねているだけなのに、そこまで怒る理由は
なにか。それは、かつて同じことをやられたという事実である。自分が行い、それを罰せられ、
その体験を繰り返そうとしている。

人は子供の頃の経験に無意識に従うのである。
親のいうことを聞かずに叱られ、ひどい目にあったとする。
すると、同じように上司のいうことを聞かない部下に、怒りを感じる。そして、同じように
ひどい目に合わせようとする。行動を繰り返すのである。

誰かにやられた暴力を内面化し、それが時折、発露するのだ。


これを虐待の話だけでなく、もっと日常的な部分にまで落とし込んでみよう。
もし、モンスター化する大人たちに、そのような暴力を受けた経験があったとしたら、
彼らは、それを当たり前かのように繰り出してくると考えられる。
推測ではあるが、モンスター化した大人は、同じ行動を誰かにやられたのだということになる。

正しいとすると、昨今の自粛警察などの行為が理解できる。

彼らはどこかで本質を度外視したルールで規制された経験があるのだ。
ルールに正当性があるかどうかではなく、ルールには従うべきという規範をどこかで
暴力的に体験しているはずなのだ。

たとえば、学校。かつて遅刻ギリギリの学生が校門に挟まれて亡くなる事件があった。
ルールの厳正化による過剰な行為である。なぜこれがまかり通ったのか。自粛警察と
同じ論理である。つまりルールを守らぬ奴は容赦しないという事柄だ。このような行為を
毎日身にあびて育った人間がどうなるのか。当然ながら、ルールを守らぬやつは容赦しない
という事柄が内面化されるだろう。

同様に職場でも同じだ。職場内規定を守らぬ奴は、ペナルティがあってもしかるべしと
なる。空気を守れということだ。このような会社に40年間も通っていたらどうなるか。
ルール規定をやぶる人間は、悪であると断じる事だろう。

本来ルールとは、お互いを守るためのものである。それが許容される範囲内にて
行われるものであって、それを逸脱して、ルールを守ることが目的化されてしまう。

このようなルール至上主義はかつての学生たちだけでなく、今の学生にも存在する。
そして、この背後には、物理的・精神的暴力が横たわっている。罰則と言う名の暴力である。

人々は、このようなエートスを抱えて生きている。
ならば、自粛警察が現れるのは必然的であろう。ただ、それはかつての自分への制裁を
他者へ向けているだけなのだ。それが彼らの心根なのだ。自分がされたことを他人にして
何が悪いのだと。ましてや、ルールを守るのは「正義」なのだと。

すると、彼らモンスターは甚だ同情すべき人々である。
もちろん、その行為にはどこにも酌量の余地などない。おこした事件は責任がある。
ただ、自分がそのようなかつての出来事に傷ついている事に無自覚である事や、
まさか、その行為が過剰な「正義」であるとは思いもよらないのだろう。

これは同じように、体制維持にも使われている。
学校という場、会社という場のルールを守らないのは、不届きであるという感覚。
そこに自己の思考が介在しない。また感情も介在しない。なぜなら、彼らは理不尽な
目にあってきたからであり、そのような理不尽さを肯定するまで、暴力を振るわれた
からである。自分で考えて行動するなど、もっとも大きな罰がくだされる禁忌である。

実に息苦しい。

だが、処方箋は見つかった。
彼らの傷を癒やすということである。かつて受けた傷を明示化して、再解釈を加える事だ。
そして、ときに感情を発露させることなのだ。

もしあなたがなにかに怒っているならば、どんな正義を自分が信奉しているか
理解すべきである。その上でなお、怒るべきこともある。その時は大いに怒れば良い。
一方で、自分がただ復讐したいのであれば、それは理不尽な行為である。
その理不尽さを理解し、自分の感情をコントロールするほかない。

もちろん、とてもむずかしいと伝えておこう。
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