社会に生まれて落ちるとはー遅れてきた者たちー [思考・志向・試行]

社会的な概念から、意図的に遠ざかろうとしてここ数年過ごしてきた。
そうして見えてきたものは、社会に生まれるという事の意味だ。

子供の頃は、生殺与奪権を大人たちに握られている。
どんなに家族が嫌であろうとも、大人たちが作り出している社会に適応的に
ならざるを得ない。でなければ、生きることが困難になるからだ。
子供には生産する手段もなければ、食料を確保する能力もない(事になっている)。

*本当は、他人から強奪することで、賄うことは可能だが、
 それはすぐに捕まる仕組みになっている。

子どもたちは、生物的な本能によってそれを敏感に感じ取る。
親の機嫌を、本質的に損ねてしまえば、身に危険が及ぶと理解する。
これはいわゆるハラスメントである。生物が、その生物らしさを抑制される事、
それ自体がそもそも不自然であるにも関わらず、ヒトはそうやって、他者の顔色を伺う
事で生存を開始する。赤ちゃんであった時代を経て、子供は社会に適応を始める。

この過程を大人の視点でみれば「成長」である。
だが、多くのルールは子供の元々の能力を制約する。現代になればなるほど、
この制約を増えた。とりわけ都市に適応した人々は、強くルールに晒されている。
なぜなら、他人が大量にいる場所で秩序を保つには、個々人にルールが内面化されている
必要があるからだ。

この時に植え付けられるルールとして、資本主義的論理がある。
A.他人の物は奪わない事(私有権)
である。

この制約を洗脳状態まで、内面化した人々は、他人の物という概念に縛られ生きていく。
その一方で、別のルールもある。共産主義的論理である。
B.他人と協力せよ、生産物を独占するな(公有論理)
である。

この2つのルールは矛盾する。当たり前である。人類はこの矛盾に生きてきたのだ。
そして、この統一を図ろうとして常に失敗を続けてきたのだから。

この2つを暗黙裡に使い分ける。現代は資本主義社会のルールを採用する。
その時、AルールとBルールはどうなっているのか。

資本主義のいわゆる問題点は、生産物の所有権である。もしAルールを強く主張する労働者が
いたら、どうだろう? メーカーの工場に勤めている労働者が、自分が作ったものは自分の
ものなのだと言ったら。当然、首になるだろう。そう、資本が投下し、その資本が生み出した
生産物はすべからくBルール、つまり会社という共同体の生産物としてみなされ、それは共有
せよと主張される。企業側の論理としては、生産財はこちらで用意したのだから、生産物は
資本側に帰属すると。

だが、労働者がいなければ、その生産物は生じなかったではないか? そこで資本はいう。
生産物そのものではなく、給与を与えているではないかと。対価を支払っているのではないかと。

よく考えてみてほしい。生産物を資本側はどこかに売る。その時の売上は、労働者への給与
以上に利益があがるはずだ。材を生産物にしたのは労働者で、その労働者もらう金以上に利益が
あるからこそ、資本はその生産物を所有しようとする。この点に関しては、労働者は常に自分の
労働の成果物よりも少ない金額の給与しか受け取れないという事になる。そして、その差分は、
資本の側の懐に収まるという事だ。

この差分について、納得できるだろうか? その割合はどの程度であるべきなのか。
その違いや取り分はいったいどう決まるのか。本来なら労使交渉とはそういうものである。
実態はただの賃上げ論争に過ぎないわけだ。それは労働者の側の立場が弱いからである。
なぜか?

資本からみれば労働者は金に見える。労働を売ってくれる存在である。
これは取引なのだ。労働を売る人間が多くなればなるほど、資本には有利になる。なぜなら
安い対価で労働を得ることが出来るからである。エンクロージャーで囲い込みによって
小作人たちは、労働者になった。要するに、労働者はあぶれていたわけだ。

資本はつねに、労働を搾取する。これが「マルクスの定理」である。利益があがっている
ということは、そこに搾取が存在する。だが、搾取が悪という価値かどうかは別問題である。

特定の人々は、搾取されてもなお、生活があれば良いと思っている。むしろ生活のために
進んで搾取される。資本のために忠誠を誓い、資本の増大のために努力するものすらいる。
なぜなら、搾取割合を変えることができるとほのめかされるからだ。いわゆる経営というもの
である。

資本と労働の間に、経営者という中間媒体が現れた。彼らは、資本でもなければ、労働者でもない。
だが、基本的に資本のおこぼれを頂く存在である。そのおこぼれは案外大きい。だから、労働者の
一部は経営者をめざせと言われる。むろんここでいう経営者とは、大きなくくりでいえば、
ホワイトカラー全般をさす。サラリーマンでも労働をしない人々は経営者の亜流である。

人を使ってその労働を搾取する存在ならば、それは経営者である。経営者は資本をもつものと
もたぬものがいる。そこは任意である。一般には、経営者は労働者を使役する人と言える。資本の
有無はオプションに過ぎない。現実は、資本が労働を利用する。という図式は、経営者が労働者を
利用するとおおまかに同値である。幾分か留意が必要なのは、これは常に同体ではないということだ。

一般に、搾取する側はされる側よりも儲けを得る。むしろ、儲けがあるから搾取する。
儲けのない搾取は持続不能になり、その集団は解散するだけだから。結果、労働者は経営者に
なりたいと思うだろう。そして、資本は労働者の中から経営者を見つけ出す。

では資本はどうやって、経営者を探すのか。我々に埋め込まれた概念は、学歴である。
資本主義社会は、人間を選抜する。それは資本が常に経営者を探しているからだ。そして、
労働者の親は子供に経営者をめざせと洗脳するからである。なぜなら、そうしている者たちが
目の前に居て、自分とそう変わらないのに、彼らがより利益を享受できるからである。その違いは
学歴であった。

人々は、近視眼的にものを考える。身の回りの事しか目に映らないのだ。だから、少しでも
良いという生活、自分にも手が届きそうな生活、それが学歴によって閉ざされていると知った時、
子供については学ばせようと願ったに違いない。もっと大きな視点ではなく、ただ目の前の事と
して。結果として親の善意は、子供に大きな負荷を背負わせることになる。

こうして、資本は学歴により人を選抜する仕組みを組み上げていく。その形が先鋭化するほど、
学歴はインフレを起こし始める。学歴の恐ろしい所は、能力の証明だけではない点だ。
競争が高まれば、本質的に無意味なことで、差異を作ろうとする。その無意味なものを判別できる
能力競争に適応的な人間。それがいわゆる学士エリートである。東大学部生がその象徴として
扱われている。

もちろん、学歴は仕事の能力とは別である。あまりにも学問に偏った人々が、経営する社会に
なった結果、どうなってしまったのか。彼らには、学歴という物差ししか人を推し量る能力がない。
当然ながら、仕事の効率は下がり、経営は滞る。だが学歴を持つものたちのアリバイ作りはすごい。
自分たちに職能がないとさとるや、アウトソーシングという名の、外部労働の取り込みを始めた。
そうして、生産物を確保し、売買する巧妙な仕組みを作り上げた。もはや日本のメーカーは
メーカーではなく、一種の金融機関のようなものになってしまっている。

そもそも、能力とはどうやって身につくのか。
遺伝学の研究からすでに、学歴能力は生まれつきの方が割合が多いと分かっている。努力は
意味があるけれど、地頭には生まれつきの差がある。彼らが同じ様に努力したら、地頭に勝る
ものがよい成績をとるだろう。ここに教育の欺瞞がある。では能力がないものはどうやって
経営者になればいいのか。なれそうもない。ならば、別の能力を発揮する他無い。それが、
社会の大問題なのだが、誰もこれをケアしようとはしない。そして、彼らに対して、安い月給の
労働者になるように洗脳するのである。その理由は「勉強しなかったからだろう」と
エクスキューズが出来るからだ。

上記の図式でみれば、今の日本で、一次産業などに従事しない人々は、経営者になるか労働者に
なるかしかない。そして、資本主義はあらゆるものに値札を貼った。金がなければ生きられない
ように仕組んだ。もちろん、金がなくても生きられる。だが、その生活は非常に不利になる仕組み。
そういうのが日本の形である。昨今は、その抜け道をきりひらこうという若者が増えてきたのだが。

広瀬すず(彼女の名前をだす事を容赦してほしい)が、スタジオの照明係に対して
「どうして照明を職業やろうとしたのか、よくわからない」という主旨の発言をして、非難を浴びた。
なぜ、非難されたのか。どうしてそういう心情になるのか。それは、上記の労働者か経営者かという
図式をあぶり出すもの言いだったからである。

多くの人はそこに欺瞞があることを知っている。そして諦めている。
諦めた先になにがあるのかも知っている。そうして、自分は「幸せだった」とうそぶくのだ。

だいぶ横道に逸れた。話をAルールとBルールに戻そう。

すると、Aルールは集団において適応され、Bルールは個人に対して適応されていると見て取れる。
説明不足だろうか。資本に対してはAルールが採用され、労働に対してはBルールが適応される。
言い直せばこうなる。資本は労働を搾取し、その成果物は自分のものであると主張する。
労働者はその生産物は組織における共有物として買い上げられ、売上の一部を対価としてシャア
しているのだ。

私が言いたかったのは、このダブルスタンダードの事だ。もし、このルールの割合が違えば
どうだろうか。もっといえば、資本に対してBルールが適応され、個人に対してAルールが
採用される社会はあり得るのか。もっと検討されるべきことだろう。


さて、生まれて数年もすれば植え付けられるAとBのルール。
人類は長い事、Aルールを認めなかった。ごく一部を除いてBルールを基盤に生きてきた。
ところが、いつからか、Aルールを採用した。Aルールを採用した社会は繁栄した。
一般にAルールは、保存穀物の生産からスタートしている。そういう社会は暴力装置を保持できる。
戦うための人々の存在だ。彼らを食わせるためには、Aルールが必然的であったのだ。
そう共同体内部にAルールを暴力を背景に存立させたわけだ。

Aルールを保持できる集団は、他国を勝る。結果として、Aルールは強化された。
集団に対するAルールは、次第に氏や家に対してもAルールを適応し始める。そして、
現代は個人に対してAルールを認めるに至った。

だが、矛盾するBルールも依然として残り続けた。なぜなら、Bルールはルーツを遥かに以前に
持つのだ。人類はBルールがあったからこそ生き延びてきた。皆で協力し合う事で、生きたのだ。
それが出来たのは、財の蓄積が少なかったからだろう。嫉妬されるものは身の危険を感じたはずだ。
よって自らそれを放棄する事で、集団における自分のイチを確保する。そういう息苦しさが
あった。一方で、協力することでヒトは気持ちよくなる事も分かっている。そう、他者との
関わりによって幸福感を得られる仕組みに身体が作られているのだ。

現代人はこの矛盾に生きる。Bルールに従えば、ヒトとしての快楽をもたらす。自分が仕事をして
その対価をみんなでシェアする。そのこと自体が喜びになる。幸福なのだ。だが、Aルールに
従えば、Bルールは消失する。Aルールには絶えず不満足が生じる。だから回りくどいことが
おこる。Aルールで稼いだものを、寄付したり、仲間という人々とシェアしようとするのだ。
こうすることで、ヒトのもつBルールに依る快感を得ようとする。

もっといえば、Bルールは人の存在意義でもある。他者のために行動する。綺麗事に思えるだろう。
しかし、人の幸福とは、そこに源泉がある。Aルールで、独り占めしたところで、満足はしない。
出来ない。それはあらゆる賢人が語る事だ。そして、過剰なAルールの適応は、社会のアンバランス
をもたらす。資本はそれを冗長する。現代は、その歪が目に見えて現れる社会なのだ。

今は揺り戻しになってきた。とはいえ、中途半端である。なぜなら、Aルールを基本にして、
どうやってBルールを体現できるのか。と皆問い始めているからだ。あくまでAルールは変えたくない
のである。

現代社会は、Aルール、もっぱら金によってBルールを実現しようとする社会なのだ。

誰かの協力を得るために金を使う。つまりサービスを得ようとするのだ。
そして資本主義とは、あらゆるBルール基盤の行動を、Aルールに転換する事を求められている。

今、家族というものはBルールを基盤にしている。だがもしAルールを強く推し進めるなら、
家族も金で買うという事になる。実際に、伴侶は金で買うこともある。結婚を三食昼寝付きの
売春といった人がいた。遠からずAルール要素を含んでいるという意味だ。今の所、血筋に対して
Aルールは入り込めていないが、家族をバラバラにしたという意味では、核家族化したという
点においては、Aルールの浸透は続いている。

客のモンスター化は、このAルールへの過剰適応だろう。相手のサービスを工業製品を買うかの
ように考え、期待品質に満たないものへ文句を言う。それがモンスターである。そしてサービスを
買ったからには、最大限利益を得ようとする、まさにAルールそのものである。

Bルールの解体は、Aルールの悲願なのだ。だが、愛や友情は金で買えるのか?
過渡期の人間として意見するならば、金で買った友情はまがい物であると断定する。
いわんや愛もだ。私にはBルールも同時に内面化されているのだ。


現代日本における息苦しさは、AルールのBルール地帯への浸潤である。誰もが気づいている。
けれど、だれもAルールを見直そうとは考えない。それは都市の論理である。自然のルールは
Bルールだ。

現代社会に生きるものは、結局、このAとBの違いをどう消化して生きるのかを問われる。
それがその人の幸福をきめていくのである。それが現代に生まれ落ちた我々のなすべきことなのだ。
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いよいよ石井紘基氏の予言通りにー日本崩壊の序章ー [思考・志向・試行]

日本の社会は、国というシステムに如何に寄生するかで、立ち位置が決まる。
安富氏はこれを「立場主義」と読んだ。

実際的に大きな企業の一員にでもならない限り商売は難しいものだ。
大きな会社というのは、要するに構造的に収益をあげる仕組みを手にしている
という事であり、余力を持つということだ。

それは社会が安定しているほど、そのシステムはぐるぐると回り続ける。
だが、実際には社会は完全ではない。まったく不完全である。
その不完全さは、誰かが負荷を背負うことで、物事が動く。

最近の政治は非体制側の人間に負荷を負わせて、立場を最大限生かすという政治が
行われている。貯蓄してきた国民の財産であるゆうちょや年金基金は、本来国民の
ために使われるべきだ。だが、体制側は、これを自分たちのために使うことにして、
そこから利益をふんだくっている。それが現在行われている政府による株買いであり、
経団連等による利益誘導である。庶民は、「介護」や「社会保障」の名のもとに、
重税を課され、それに文句も言わない。その税をかけているのは、体制側であり、
それは自民党をはじめとする官僚体制なのだ。

マルクス的な革命というものと同等の事柄が存在する。それは搾取である。
国家というものの中に生まれた我々は、搾取される仕組みに生きている。
この搾取とはマルクスのいう搾取ではない。国による国民からの搾取なのである。

このような思想はいわゆるアナーキズムである。だが、考えてみてほしい。
野良猫は、税金を払うだろうか? サバンナにいる動物たちは、納税するのだろうか?
いや、しない。するわけがない。気ままに生きているのだ。ときに激しく、ときに楽ちんに。

日本人として生まれるということは、息をするだけで金を奪われるという意味である。
およそ国民国家の住民は、多かれ少なかれそういう場を過ごしている。
私はこれを国家による民の搾取であると言いたい。

税金を収めるのは、なんのためか。国の運営のため?
バカをいっては行けない。共同募金とはわけが違うのだ。
税金とは、上納金であり、その上前をピンはねする人間たちを食わせるためにある。
国家とは、そういう装置なのだ。

そもそも、国民国家の成り立ちは、戦争に勝つためであった。
暴力集団である。暴力を内在させている集団は常に「国」である。
その国同士が戦い続けて、現代に至り、さも平和という面をして過ごしている。
だが、そもそも国とは暴力装置を内在させているものだ。そして、その暴力とは
とどのつまり、他者を操作するというためのものだ。なんのために? そう財の没収の
ためである。

露骨なのは、戦争である。戦争の目的は資源の争奪である。つまり財の没収である。
その装置は、気がつけば国内部における財没収権の固定化を生み出す。法を生み出す側
、その法を執行させる側、その人々を操作する側がいる。彼らは金という利権構造から、
人々を動かす。その根本は暴力である。現代は、社会的暴力によって制裁される。

国という実態はそもそも存在しない。あるのは、国という仕組みで儲ける人間と、
搾取される人間である。これは順番が違えど、すべての人がどちらの立場にもなる。
とある瞬間は、搾取され、とある瞬間は搾取する。あとはその割合と、大きさである。

この時間的な変遷が人の目をくらませるが、本質は、幅広く税金をとり、その金を
分配する事で社会を回す装置、それが昨今の国となったわけだ。そしてその根拠は暴力
である。社会的制裁という暴力である。

そもそもの起源は違ったのかもしれない。よその村からの襲撃に備えただけかもしれない。
だが、その暴力装置は村内部の力関係を規定しただろう。そうして、他者の労力を貪る
人間が出てきたわけだ。従わない人間に制裁を加える事で見せしめとし、税を取り立てる。
そうして、国を回してきた。いまや、国は自動的に回っていて、そのシステムが人々を
喜ばせかつ苦しませている。

政治とは、集めた金をどう配るかである。行政とはその実務である。彼らが権力を
もつのは当然である。そして、彼らは自分たちの良いように使うのは当たり前であろう。
建前は、みんなのため。だが、内実は自分たちのため。そういう露骨さを知りつつ、
おこぼれをもらうために、政治や行政に企業は群がった。

それが電通の問題、メディアの問題、経団連の問題であり、石井氏が調べ上げた
政府の金の流れである。日本の3~4割の会社は国からの金で食っている。要するに、
金を国から巻き上げているのだ。その原資は、いわゆる税金である。

税金で食っている人間たちが、3~4割いて、その彼らの掴んだお金が取引を通じて、
様々なところまで流れていく。その一方で半分程度は、自力で稼いでいるわけだ。

現代のように需要があっても、カネがないために、供給しても買ってくれない状況では、
金の動きが滞る。結果として、税金が減る。税金が減ると増税する。増税するから、
市中の金は減り、その減った金を補填しなければならなくなった。なぜなら、3~4割に
配る金がなくなったからだ。そう、それを国債とよぶのだ。

国は税収が減ると、増税するか、国債を発行する他無い。歳出を減らせば良いのだが、
減らすと「食えなくなる」人が出てくる。なぜなら、国や行政は計画的に給与を計算する
からだ。その辻褄をあわせるには、歳出を減らすのではなく、増税するか国債を発行する
以外にない。

当然ながら、増税には反発がある。ならばと、まずは国債を発行し始める。最初こそ慎重に
慎重に発行していた。歯止めがかかる仕組みだった。だが、途中から麻痺し始める。足りない
なら未来から借金すればいい。いつのまにか借金グセがついた。そうして、公務員たちは
自分たちの利権確保を行い、そのおこぼれに預かる3~4割の体制側は、安心してたかる事が
できた。だが、借金は所詮借金だ。行政の一部が増税を言い始める。歳出を減らすとはいわず
に、とにかく増税だと。なぜなら、それが一番腹が痛くないからだ。

国民はこういう時バカだから、すぐに受け入れてしまう。消費税は気がつけば10%になり、
介護保険料や年金負担は増大した。また、あらゆる場面で税を収める。ガゾリンだって、
温泉だって、小さくちまちまと税金をとっていく。

そうして、行政は金を集めてきて、非常に非効率に使う。本当に必要な金額か不明なまま、
仕事が作り出されるのだ。これが批判される公共事業である。今で言えば、電通の中抜、
持続化給付金であるし、政府の特殊法人等はそのためにあると言っても過言ではない。
つまり官僚たちは、国の金をせしめる組織をつくっては天下って汁をチューチューと
吸っているのだ。

こうして、増税と、偏った税金の市場への投入によって、体制の一部は儲かり、全体は
やせ細っていく。日本はもともと内需の国である。今だって8割程度は内需である。
その国が重たい税金を課している。ならば、金は停滞して当たり前である。

するとまた税収が下がる。下がるからまた増税である。保険料と名ばかりの税金を増やす。
人々が使える金が減ると、資金繰りが苦しい会社が増える。すると変なことをし始める。
国にたかるのだ。もしくは法整備を促し、自分たちに有利なルールを作らせようとする。

不景気になると、政府へのたかりは当然増える。市中の金がなければ、金のあるところから
得ようとするからだ。そもそも日本は共産主義的官僚性資本主義であるから、つまり、
でたらめな経済社会であるから、国が金を巻き上げて配るほど、市場がゆがみおかしなこと
になる。

しかし人々はこれを望んだ。民主党政権下において、歳出を絞るための行動をした際に、
官僚側と、グルになっている民間企業らは、辟易したのだ。そうして、メディアを駆使して
歳出をしぼるような政党バッシングを激しく繰り広げたのだ。その結果が今の自民党である。

そして、彼らは周りが望むことをそのまんま実行した。政府にたかりに来た企業には金を
出すということである。そうして、不景気のママ、国民から吸い上げた金を、お友達に
分配したのである。結果、一部の人間たちはおこぼれに預かった。一方で、そもそも経済弱者
は、そのアオリをくらって、ますます貧乏になった。これが現状である。

金のなくなった庶民は、金がかかわることを抑制した。そのもっとも足ることが、
結婚であり、子育てである。資源がなければ子供は生まれない。自然の摂理ではないか。

国は人が減れば、税収が減る。税収が減れば、また増税だ。増税するから、人が減り、
また増税する。理屈的にいえばアホなのだが、それを地でやるのが日本の官僚主義である。
彼らは計画した給与の支払いを滞りなくすませるため、辻褄を合わせることに全精力を注ぐ
からである。その結果、少子化しようが構わないということだ。

年寄りはこれでいいと思っている。なぜなら、もう自分は先が長くない。
だが、年寄以外は正直何も嬉しくない。

民主主義の恐ろしいところは、年寄が今のママを望もうが、そもそもそれは叶わないのに、
それを「叶う」かのごとく宣伝する政党に票をいれるということだ。団塊というマスが
そういう行動をすれば、このシステム全体は止められない。つまり、現状維持という名の
衰退である。

日本は間違えなく衰退する。それは事実であり、避けようがない話。
あとはどの程度ですむのかというだけである。

石井紘基氏は、ソ連を研究し、肥大化した官僚組織が経済崩壊を招く要因であると看破した。
そして、ソ連の崩壊を予言した。まさにそのとおりになった。その石井氏は日本の状況も
研究した。結果、日本もまるでソ連と同じ構造であると気がつく。その結末はなにか、
日本体制の崩壊である。それは予言であり、およそ「予定」である。

国を維持するには、増税か借金しか無い。だが、それは国を衰退させる要因となる。
もはや打つ手はないのか。

どうやって、収支のバランスを整えるべきか。私にはすぐにはわからない。だが、
これだけは言える。今のママでは、崩壊するのみだと。

我々は21世紀の日本の経済的崩壊を目にする世代なのかもしれない。
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